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『宗教研究』178号(37巻3輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

親方子方制村落における民間信仰の構成分析, 伊藤幹治, The Structure of Japanese Folk Religion in

Rural Communities Based on Hierarchical Status Principle, Mikiharu IT

Ō, pp.1-13.

2,

「無底と悪」序説, 松山康国, Der Ungrund und das Böse, Yasukuni MATSUYAMA, pp.15-36.

3,

「真理の福音」におけるキリスト理解:宗教史的考察, 荒井献, The Christology of the Evangelium

Veritatis, Sasagu ARAI, pp.37-58.

4,

盂蘭盆経類の訳経史的考察, 岡部和雄, A Historial Study of the Translation of the Yü-lan-pên Sutras,

Kazuo OKABE, pp.59-78.

5,

シュライエルマッハーの『宗教論』における「瞬間」の意義, 舘熈道, Die Bedeutung des Augenblicks

in Schleiermachers “Über die Religion”, Kid

ō TACHI, pp.79-99.

書評

6,

佐藤密雄著『原始仏教教団の研究』, 平川彰, Akira HIRAKAWA, pp.100-107.

7,

J.M.キタガワ著・井門富二夫訳『東洋の宗教』, 窪徳忠, Noritada KUBO, pp.107-110.

8,

小野祖教著『神道の基礎知識と基礎問題』, 薗田稔, Minoru SONODA, pp.110-116.

(2)

" ,

とは、民間信仰の務

%

分か小か

一般化

であって、東北・西南のコミュニティごとに、

実の諸慣行との脈絡の上

1

方子方

制 村落における

民間信仰の構成分

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伊藤

幹治

親方子

方制

村落における民間信仰

構成分析

(3)

で 民間信仰の構造分析を試みれば、その内部構 成 にいくたのローカリゼーションを観察すること が 可能なわけであ る 。この稿はこうした民間信仰の構成上の間 題 をめぐって、昭和三十三年から 翌 三十四年にかけ て 行なった島根県の 隠岐諸島︵ 島 前,鳥径︶の調査資料をもとにし て 試みた一つのアプローチである。ここではとく に 民間信仰を、社会 構造の分析の上に位置づけることを意図するこ とによって、村落構造を理解する上での民間信仰 の 意味づけと、そこ に 派生する問題点となるべきものを摘出するこ とにする。 二 隠岐・基礎社会の組織 隠岐の社会組織に関する基本原理を仮設すると すれば、擬制親子関係を主軸とする上下Ⅱ主従 関 係 という点を抽出 することができるかと思われる。この点につい ては、隠岐諸島の若干の地域で試みた調査資料を 整理し、これを隠岐 以外の村落類型と比較・検討することによって、 他日、改めて分析する予定なので、ここでは 隠 岐 社会の概念上の 一 つ め モデルを、一応、親方子方 制 村落の一類型と 規定し、その概要を島後の五箇村 代 ︵ シロ ︶ 部 落の事例分析によっ て 述べたい。この ジゲ ︵Ⅱ部落︶は 島 後の北部 海 岸 に位置し、戸数三十九、 ヵ ナギ 漁 ︵ 採貝採藻 漁業︶を兼ねた零細 自作農を主体とする小農村である。 親族関係 図 1 は ㎞を中心とした親族関係の サ ムブ ルを示したものである。この図から次の二点 が 指摘される。 そ の一は、 フタイトコの枠内に世代を限定する傾向 である。なお ジゲ の伝統的なイデオロギーに よ れば、この世代限定 の 範囲は、居住地域の遠近によっても規制されて いる。自己にとって同一部落内の居住者 は、フ タイトコまで辿られ るが、他部落の居住者は一般にイトコまでのより 狭い枠に限られる。前者のマタイトコまでを 薄 い 関係、後者の イト コ までを濃い関係と呼んで区別する。その二は 、 父系出自が強調されているよ う に見えるが、 他 の事例を参照する と 、自己の父方・母方に血縁関係を辿るととも に 、自己の配偶者︵Ⅱ 妻 ︶の父方︵および母方︶ を 含む傾向である。 Call) 2

(4)

親方子方 制 村落における 民間信仰の構成分析

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3 (312)

親族関係

ければならない。つまり

(5)

家の先祖を祀る氏神と信仰され、俗に八幡

さんと

ばれる。祭の当日に神主︵

・野菜などを供え、

宰を立てる。

っ さいオモ

で負担し

他の八戸の

ムバー

は神

王への謝礼の

部を用意したといわれる。これらの祭祀

メムバ

|は

、この屋敷神の祭を主要な

,八千:

- :ん月

として、オモ

との共通出自を確認しあい、

絶えた現在でも、正月と盆に

﹁・ ム,

はオモヤ

ホトケ

拝みを欠かさずに続けている。

ここに

オモヤ

を中心とする

関係を分析すると・日常的な互助・互恵の枠が

ジェ

レーションによって限定

されているために、

A.B.C.D

相互

における父様相互間の互助,互恵関係が、それぞ

だに、世俗的な扶助行為

やホトケ

拝みを欠くと

れの母

または姻族間のそれよりも、強調され

時に

各グループ内

ていないことが見出

されるからである。それゆえに系譜意識の稀薄

とその具体的な関係が不明瞭なことは、

ジゲ

の 親

体系が

ウチ原理

屋敷神の霜月祭︵新暦一二月一五日︶に、八幡 姓のメ ムバーのうち 昼戸

油 伝えている。この屋敷神は八幡 庄屋の家筋でハオ モヤソと 呼ばれ、八幡 姓 の 絵 本家筋にあたると伝えられる。昭和二 0 年 ごろま では、 オモ ヤ で祀る 同族 的関

図 Ⅱはモデルとしてあげた㎞を含む八幡姓の家 々の系譜関係を示したものである。このなかでⅥ は旧 (313) 祭 ・ 五 0 年祭はイトコまでのヤ クチ が実際に招 かれるわけである。

(6)

親方子方 制 村落における

民間信仰の構成分析

表 1

階層二世代呼称

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20

30

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(7)

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(8)

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(9)

︵ キヤ クデ シ ︶と呼ぶ小祠︵祭神、牛頭天王︶の 神餓田 ︵二度十献︶を耕作する義務と、その 収 穫 の一部を私有化す る 権利とを象徴した株を所有する。さらにこの グ ループは、下層の メ ムバーを手当︵ コトクしと して従属せしめ、 ジ ゲの 祭祀権を所有することによって、 ジゲ 内で の 伝統的なステータスを保持している。すなわち 、毎レ年 、﹁ムラ氏神﹂ Ⅱ 那 久路神社︵旧名、炒飯 社 ︶の例祭三月一一一 一日︶に、氏神祭と牛頭天王︵俗称、天王サン︶ の祭がすむと、審察 ︵ キヤ クマ ツリ ︶と称して、当家ハト ウヤ しの家 で 直会と当渡しとが行なわれる。当家は親 当に あたる八戸が 、毎 年 、輪番制によって一定の順序でつとめ、牛頭 天王の分霊とも伝える小宮を祀り、直会の準備を することを義務づけ られている。なおこの際、親株所有者以外の家 の 戸主が二人、子 当 としてやはり輪番で選出され 、現当と共同して 直 会の費用を負担する。頬当と子当の直会での 座 は 厳格に区別される。ここで新旧当家の交替の儀 式ハ Ⅱ 当 渡ししがあ り 、これがすむと新しい執当側に小宮が移され、 ここで再び酒宴が催されるが、これは審察に伴 なう権利・義務の完 全 な移行を意味する。 こうした宵祭 に シムボライズされた階層原理は 、 このほかに信仰的 講 組織にも反映しているのが 注意される。この 部落にほ 講 集団として、大師講・ 一 ムロ 講と 大社 講などが組織されている。大師講は女性の講・ 一 ムロ講は子供の講で、 ともに変化に乏しいが・これに対して大社 講は 男性の信仰組織で、 ジゲ の上下二階層の メ ムバー が 、それぞれ別個 め 組織を作って、相互の伝統的地位の確認と結束 とを強化するシム ボル をなしているのを特徴と する。内容は同じ で、 クジ で請宿を取決め、毎年、正月・五月, 九 月の三回、各 メ ムバーは米を五 ムロ ず つ 持参して 宿へ 出かけ、宿で 調 理した馳走を共食するのである。なお共同体論 にかかわる点と思われるが、この大社 講 には ジゲ 全戸が加入している わけではない。下層 メ ムバーのうち、移住者 お よび初代分家などは 未 加入の状態にある。加入者 がジゲ の古株の メム ハ ーに限定されていることは、共同体の階層的

示唆するものとして 興味深い 0 以上はコミュニティ・レヴェルの事 例 分析であるが、家族・親族 レグエ ルの諸慣行は 、俄事例より複雑に

(10)

なっているだけで、基本的には変りな

宇賀事例宇賀は島前の西

島の北端に位置し

戸数四四、

ナギ漁を兼ねた零細自作農を中心

とする小農村で

ある。階層Ⅱ世代呼称

多岐に分かれているが、

・下の三階層に整序づけられる。上層と

下層とのあいだで

方子方関係︵カナ

・カナチ関係︶が結ばれて

いるが、階層間の上下Ⅱ主従関係は以前ほど強調

されず、

久路

の場合とくらべてそれほど顕著ではない。ことに

上層の㎝は

庄屋で、

前では屈指の資産家と

して知られているが

、愚物

︵Ⅱ

見なされ、三代以前に

分家

ョコヤ

一社家︶とのあいだに絶縁関係が

生じ・それ以来

ジゲ

内では精神的連帯を結びえない状態を招いてい

。したがって代のへ

オモヤソ

の事例に見られる

がごとき

ヒェラル

カか

な階層構成は

少なくともこの

一 00

年の

間は

成立しえなかったわけである。これに加えて

相対的に発達した

組織

、年会階層的秩序に基づく

ョコ

問関

々の並立化とい,

筋状態も、この

ジゲ

内の庇護・奉仕関係を軸

とする上下Ⅱ主従の原理を弱め、また﹁同族的関

﹂の派生を阻止する主要

栂因

をなしている。この意味で宇賀は、

久路

とジゲ

構造を若干異にしていると考えられ

るが、伝統的な親方子力関

係の旧慣を留め・しかも

ウチ原理を共通

して担っている点から推して、やはり親方子方

村落の一つの亜聖と仮定

し、右の諸条件を考慮しながら、三題とす

民間信仰のユニークな一面を指摘したい。

コ,

,

ュニ

・レヴェルで

﹁ムラ氏神﹂Ⅱ比奈

麻治

比売神社︵例祭

、セ月

二八日︶を中心とする社祠信仰のほかに、

氏神

・庚申講・一灯

れる。このうち氏神

・庚申講は

、ジゲ

の行政学

︵ クミ

︶をユニッ

蠕ト

として組織されていて、組成員の互

協関

係を強化する宗教上の機関としての役割を担って

いる。前者は一月二八

リ援 棚田、後者は霜月の庚申の日三一年に一度︶

認められれ地域結合による

タテ

の関係を否

宇賀では、

久路の㏄ここに

・ 代 那

久路にほの

%

よう

、ジゲ

構造の基本原理に対応する

信仰が、コミュニティ・

レヴヱル

の﹁同族的

﹂や祭祀的特権者プ

(11)

ことがないのである。この事情は講組織や年会 階 層的 秩序による ョコ の人間関係と関連して、 1 0 発達を阻止する要因をなしている。それゆ , えに地主は、本分家を含む幅のひろい﹁旧家﹂ 古さを示す家筋の宗教的シム ボル となっている にすぎないのである。

口む,すび

以上、日本の基礎社会の一つの サムブ ルとして 隠岐諸島の村落を取上げ、 モヂル ・ケース と 本家優先のイデオロギ と 呼ばれる定着年代の して鳥径・五箇村 代部 る 。 ︵ 6 ︶ 地主サンとは固定した家に祀られる屋敷神のこ とである。形態は丸形・長方形の自然石や五輪の ごときものとさま ざまで、旧暦霜月の子・亥の日に オシトギと赤 飯を供えて祀られるほかに、正月・ 盆 ・彼岸・ 節 供などにも榊が飾ら れる。家の初代の先祖または土地の神とも伝承 されている。地主サンという呼称は那久路の牛頭 天王の別称であり・ また初代の先祖という伝承は代の オモヤ の屋敷 神のそれと一致しているが・それぞれの家での 独 立 祭祀の形をとる 点 が 異なる。しかも地主を祀る 家は 上層の メムバ |に 限られず、中層・下層の メ ムバーをも含んで いるのである。具体 的に述べると、総計一四 祠 のなかで、移住によ る 空屋敷および共同墓地のなかに祀られる 二祠を 除く一二 祠 のうち、 上層で祀るのが 四祠 ・中層では 二祠 、下層でほ エ ハ 祠である。さらにこの家々はかならずしも本家 筋 に固定されていな いのである。このことは階層構成の歴史的流動と ・すでに述べた本分家および分家を創出せぬ 家 々の並立化という ジ ゲ 構成と密接にかかわっている。すなわち分家 創設の制約から、本分家を三戸で構成するのが 二 事例︵ 上 八戸︶、これ を 二戸で構成するのが一一事例 D 三戸︶ 、ジ ゲ 内に分家を創設していない家がニ八戸という数 字 が示す よう に 、 寒 々の系譜的並立化が目立ち、しかも本分家 関 係 が代と同様に ヤ ウチ原理に規制されて、日常生 活の場で強調される

1 0 ﹁ 客祭 ﹂という形では現われず、次のよ う な 家族レ ダヱル の﹁地主信仰﹂の場ムロで 抱 えられる にすぎないのであ 10

(12)

親方子方 制 村落における

民間信仰の構成分析

落の村落組織の素描を試み、この 代と那 久路、宇 賀 の王地域において、構成上の基本原理︵身分 階層的な上下Ⅱ主従 関係︶に対応する民間信仰を、相互の ジゲ 構造 0 差異に留意しながら分析し、親方子方 制 村落に おける民間信仰の 構成上の間 題 をめぐって考察してきた。次にこ の 作業過程を通して摘出してきた諸点を、以下の 二点に要約して結び としたい。 かか 一は 、民間信仰の内部構成は、基礎社会の アクチュアルな諸慣行と対応し・双方がたがいに 機能的な関係を結 ぶことによって、その社会の伝承体系を持続させ る 有力な因子をなしている。とくに本稿で分析 対象として取上げた 親方子方 制 社会における民間信仰の現象上の特 質は 、 代 ・ 那 久路に観察されるように、コミュニ ティ・ レブユル の % 分路 訃 かかかや " 主徒 難険かかか心かとして 抱 えられる、という点である。したがって 八 まえ がき Ⅴの Ⅰで 十 サムプ ル として示した﹁ムラ氏神﹂・﹁同族 神 ﹂などが 圏層 的にかかわりあう同族制社会における民間 信仰のそれほ、この 村落類型と共通した形態をとった、血縁的意識 を 媒介の一つとする本分家の上下Ⅱ主従関係の シ ムボルと 仮設するこ とができるかと思われる。ここに双方の社会の構 造 的関連の問題が提起されてくるが、別に年会 階梯 制 社会などで ほ 、これと異なったシム ボル を指摘しうることが 予想されよう。この意味で民間信仰の構成分析 は 、日本の基礎社会 の 構造論的接近による図式化とその細分化の上に 一つの有力な手がかりを提供するとともに、 主要なインデックス をも摘出する作業と考えられる。 かか一、一は、ある村落類型の構造原理と対応関係 において 抱 えられる民間信仰の現象上のヴァリ ェ | ション は 、その 類型内の歴史Ⅱ社会条件と並行して、社会組織 上の内部的 交 差と関係する、という点である。 代 の ﹁同族的関係﹂の シム ボル であるオモ ヤ の屋敷神共同祭祀 と 邦人 路の ﹁エリート禁固﹂のシム ボル である審察、およ び 宇賀の﹁旧家﹂の シ ムボル となった屋敷神独立祭祀は・それぞれ同一 村落類型内に見られる共同体・家族 レヴヱル で 0% ホ教現象である。 このレヴェル上の差異は、ある村落類型にいく つかの 亜型 が設定されるべき可能性を予測せしめ ると同時に、民間信 11 (320)

(13)

-1 ︶ 堀 一郎博士が、日本の水田農村社会のノーマル な 事例として、長野県東筑摩郡里山辺 村 における民間 密 に分析された貸料を、便宜上、借用することにした

0 八頁参照。 なお本稿では、 八 民間信仰 マの 概念枠組の規定をめぐ 8 基礎作業を省いたが、ここでは 八 民間信仰 ノ という ことばの意味 を 、日本の ho 圧の on@ の ︵ ゼ ︵Ⅱ農村・山村・漁村︶で観察 される伝統的な信仰現象、という広義の円。 汗 Ⅰ 占岱っ コ といちおう 規 定 しておき、概念枠組の理論的検討は改めて別の機会 に 試みる予定でいるっ ︵ 2 ︶地肌・的 通婚 のうち、八把 八 ︶だけを観察してみる と 、調査時点では、部落内婚二五・六 % 、村内婚六四 一 % という数字 を 示している 0 このように村内婚が過半数を占めてい ることは、 鐸 八人役慣行を媒介として、姻族との互助 互恵関係を維持 するという生活伝統が、現在まで比較的に強調されて いることを示唆している。 ︵ 3 ︶ 屈旭 改革後の農家の任官耕地面積を調べ な と 、 五度未満が一四戸、三文1玉文 が 一一戸、五度 | 七度 が一 0 戸、七度 |一 0 匝が一戸で、玉文未満の零細農家が六九・四 % を 占 めており、このうちかつて ジゲ 内で卓越した勢力を持 っていたオモ ヤ 0 世 荏が 著しいのが注意される。 ︵ 4@ オ ヤコ 関係︵Ⅱ親方千万円 俺 ︶とデイリ関係と

すなわち前者は、 一 定の儀礼を伴なった朔方と千万とのパースナルな何人 関係であって、そのために両者の関係は当事者の世代 限 りで消滅する。 これに対して後者は、オヤ コ問 伍を結んだ当事者の子 供 ないし 孫 という次世代間の﹁ 家 ﹂の義理関係を指し 、その意味で イ ンパースナル化されている。山岡栄一﹁隠岐島の村落 椅凸 ﹂、﹁ 史泉 ﹂ 七 ,入合併 号 、昭㌍・八三 | 九六頁 参 照 ︵ 5@ 人口の都市集中化といフ目︵ す且王 Np ︵ ざコ がこの島々 にも波及し、青年人口の減少化に体なって、伝統的な 年会階層的秩序も しだいに解体化されつつあるが、侭のような旧慣が 注 目 きれる。男子は一五歳になると、正月の 一 0 日どろ までの間に 、宿 へ、 潤 一升 持廿 して若者組︵ ワカイモ ングミ︶に加入した。始めの一年間は コヒイデと 呼ば ね 、一五日の夜

午 ごろから コヒイデガ シラとなる 0 結婚すると宿で 寝 泊りするのを 止 めて、コドショリ 仲 Ⅲに加入する。 ︵ 6 ︶ 農 岐の地主信仰については、石塚 尊俊 氏によっ てすでに佳日され、これが祖霊としての性桔を留めて いる占が指摘きれて いる。この占に関しては、如上の視角から改めて分析 するつもりでいる。石塚 尊俊 ﹁中山陰の屋敷神 | 特に 祭祀 圏 との関聯 321 註 仰の構成分析が、村落構造のアプローチに不可 欠の作業であることを示唆している。 12

(14)

親方子方

制 村落における

民間信仰の構成分析

て ー﹂、﹁山陰民俗 ヒ

五号、昭㏄一五頁

参 m" 。 八 附記︶年何 は Ⅲ 印 三四年度・文部省科学研北 費 ︵ 総 八ロ研究︶によって行なった調査研究の成果の一部を含 三八年一 0 月 、日中京 杓 学会・ 填二 二回学術大会で発 表した旧稿﹁民間信仰の構成上の間頭﹂を補正・加筆 したものであ 13@ (322)

(15)

「無産 される否定でなけれ ば ならないであろう。そし てまたこの自己のなす自己否定は、その否定の究 極の階梯において は 、超越者からの働きかけによってのみ成就 さ れるという様な見方も存しているのである。他方 、超越者によってな

と悪

」序説

し る か は 意 己 も て で に な 味 き が 宗 と の

あ 重

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よ 自 ろ 点 の こ と の り 己 う

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己 定 即 か 連 と 己 こ に のな

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は、自 ある。

も く の よ 、 味 己 人 、 方 な っ 白 を が 前房

が の 定 超 の で を 西日 己 超 二 」 越 否 ぃ 否

と を 序 て 過 し る

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と ざ る 白 ん 己 も い し と 己 と の こ う うち

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@ れ れ の た さ

よ る る 二 も れ

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て 定 と の な と

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」 に 何 の い

と な れ で ぅ 自

丘器

亜心

十分

康国

(16)

以上の如き自己否定の二者のかかる相関にも 拘 らず、だがそこになお、宗教的方法としての自己 否定に二つの道が 存するということは云えると思われる。それは、 後、次第に明らかになるであろう。これら二つ の方法はいずれにせ ょ、 要するに超越者に対しての、超越者を目ざ しての自己否定である。これらの自己否定によっ て 無化される自己の 達する無は、自己否定のこれら 二法 に応じて・ 一 一つの 異 った性質を示すことになるであろう。 人 間 のこの自己否定に 面し、自己否定に対応して立つ超越者は、これ らそれぞれ 異 った宗教的方法としての自己否定に 、またその否定の結 果 としての、無のそれぞれの形態に面すること により、超越者そのものもまた、 興 った二つの形 態を示すことになる であろう。自己否定の二途をそれぞれに追求して ゆくことにより、それほ明らかになる。人間の 自己否定に面する 超

自己において否定せられる一切を超えるもので なければならぬと 云 える。このいずれの自己否定も、それが根本に おいて、超越者の要求する否定であることに変り はない 0 この超越者 の 要求する否定 は ・また超越者のこれら二形態に 応じて、各々 異 った否定の要求として現れるの である。 一 さて・これらの超越者の要求を自己に向ける 自 己 否定 は 、一体如何よ う にして成立するのであろ ぅか 。それは、 自 己がこれらの自己否定により、超越者の前に無 となること以前に、自己が既に超越者の前に 、或 る 意味で無であると いうことがあるからであると云える。自己が根源 的に無にさらされて・おり、自己の根 抵に 無が 潜 んているというこ と、 即ち 、 先ず、自己の無であるという何らかの 体験が根 抵 にあることによって・そこに自己の 悪化が、自己否定が そ の さ

ネ、 れ も ガ る の テ 否 が

ィ 定

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のな

と考え

場合、

ら こ す れ の 否 る 自

の 己 が で の あ な こ

宝 合

(324) Ifi

(17)

さて﹁暗夜﹂の神秘主義者十字架のヨハネに あ っては、いまこの暗夜そのものの中に、﹁能動的 暗夜﹂と﹁受動的 暗 1 鵠の場なるが故に、﹁沈黙の闇﹂ 6@0 コ Ⅱの @Eo 下お 0 でか 四 % 匡漏甘 れい子の 0 ︶ 0 笹ヂ 0Q ∼ 下 ︶とも ﹁暗夜﹂とも 名 附けられ め 無 るのである。

」序説

生ずるということが出来る。十字架のヨハネも 一 五う 如く、﹁被造物の本質は 、 神の無限の本質に 比すれば、悉く無で ある﹂からである︵Ⅰ 岳コ 伍の瓦 gE い の 仁ずゃ隼曲ヰの ︶ ま 。三のの ギ 日の︶ 0 。正ユ の ︶。 p ワ さ 。かく本来 無 なるものとしてあ る 自己を、超越者の前に全き 無 とすること、 或い はかかる自己が超越者によって 無 とされるとい うこと、即ちそのい ずれにもせよ・自己が無の底に徹底してゆくこ と、 従って 、 無の無化が、自己否定の真の意味で あると考えられる。 この魚の無化は、宗教的自己否定の区別により・ いま二種に類別せられるであろう。即ち・自己 の 無を無化すること としての・自己がなす無の無化と、自己の無が 超 越 者によって無化されることとしての、超越者 がなす無の無化とで ある。 さてこの、自己がなす無の無化の場合、そこ 蛭 刊提 せられている 無は 、自己の虚しさであり、 そ の 虚しさに対する 不安であるであろう。その虚しさは、超越者に 対しての自己の有限性である。従ってその魚の虹 ハ 化は、この自己の有 根性の悪化なのであり、自らの有限性からの 離 脱 ハ下 ヴ盤お 三の巨のコアの @ ︵︶である。それは・自らの、 のみならず自らの 関 わる一切の有限性からの離脱である。即ちそれ ほ、 自らの 我 性の否定であり、有限的事物に関わ る 自らの欲求からの 離脱、更にそれの対象となる一切の有限的事物 からの離脱であるであろう。この場 ムコ この離脱 は 、自己のなす無の無 化の働きである。自己ほこの 無 化の働きによっ て 、一切の有限性から離脱し、超越者に向わんと するのである。即ち 離脱は一切の被造物を捨離し、超越者以外の何 ものをも受容しない様にするのである。かかる 離 腕 によって、自己は その自己のおいてある在り方を全く消滅するこ ととなるであろう。そこに自己の無が生じ来るで あろう。﹁離脱は無 与にち ルこ @ L しを欲す ス しのであ ヱり ﹂小市の オ の ア の∼︵のり ア ∼ 円 ︵︵の コ 。 ア Ⅱの 9. ゴロ む ︵︵ コの ﹁。甲のの︶。その無は自己 の 一切の働きの消滅

(18)

夜 ﹂という階梯がたてられている。そこには、 自 己 のなす能動的否定の極に現れる能動的暗夜か ら 、超越 者 によって なされる否定としての受動的暗夜への転換が 、暗 夜 それ自体の中に顕前しているのである。それ は 、自己がなす否定︶ の 深まりと超越者によってなされる否定の深まり との交錯としての自己否定の深まりというもの であって、ただ自己㏄ のみが自己自身においてなす否定の深まりではな ぃ 。自己のなす否定の能動の極は、自己自身の 否定の働きそのもの の 否定であるであろう。かかる否定の極に達せら れる無が 、い まこの場合、能動の暗夜と杯ばれ ているのである。 ﹁暗夜﹂あるいは﹁ 闇 ﹂といわれるものは、普通、 神秘体験においては、﹁霊の乾き﹂を意味してい て 、また﹁荒野﹂と も ﹁砂漠﹂とも 名 附けられるのであるが、それは、 否定の能動の無が、受動に転ずる際に現れるも のである。乾きは、 自己の無において、超越者の働きを待ち望む 霊 の 乾きであるであろう。そしてこの乾きを通じて 、そこに、超越者の みが働く 、 霊の受動が生ずるのである。その 働 きは、﹁霊魂を 、 神にあらざる凡てのことから 擁 護し 解放したもう 程 に 、霊魂を神の近くに置くのである﹂が、霊魂 はその側近くあればある 種 、超越者の霊的 光 の 強 大の故に 、 益々暗黒 の 闇を感じ、暗黒は益々深くなってゆくのである ︵Ⅰ 仁曲コ 笘の壷のⅡ けいつ 40n アの 0 ㏄ りけ Ⅱ ゅ笘 互生ヨ P 弔 丼 ﹁︵の ど のの 口 ・ P ゆ ︶。 それは自己の能動の無が、超越者によって更に 岳 ハ 化されてゆくということであろう。能動的暗夜 から受動的暗夜への 深まりがそれである。暗夜は一切の働きの消滅 の場としての﹁沈黙の闇﹂である ぼ かりではなく 、いまや超越 者 の 働 きの場として、﹁輝く 闇 ﹂︵ 目 0 コ遇 ぎの レ ︵の o め P 雙宙 。 ぎニ ・ きお下 ︶とも﹁聖なる 闇 ﹂︵ 之守 。鼠口 のづ 。 コ本目のの @ せ 0 コの 0 丁 ︵のののの ア の 口 。卯のの︶とも 称 ぼれうるのである。 かかる働きをなす超越 者 は、それ自体、もとよ 9 人間の自己否定を要求して立つものであるが 故 に 、かかる無化の 対象となる一切の有限性を超出しているもので なければならないであろう。即ち超越者は、 ェッ クハルトも云う 如 く 、一切の限定を絶したものであり・従って 何 ら 限定され得ないものとして、ただ﹁ 無 ﹂という 以外にほ表現され 得 ないものである。﹁神は名なきもの︵ Zp ヨの巳 。 も なのである﹂︵田山方のず art@ しの 仁 ︵の りず ㏄ づ お目 担 0 づ 仁 コ 山月Ⅱ 燵寸日舵田の " オ ㍉㏄㏄

(19)

「無産 と悪 」序説

で 称 限 さ 起 る 姿 に の タ

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自 一方 超越者 間の霊 て超越 無 と あろいま び得

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己 な の こ で 体 い 底 れ す に 無 の 現 無 は 否 る め て 何 と は う な て 超 根 の 霊 し

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る と 窄 か る け る 中 な 19 (327)

(20)

き、超越者は必ず無として人間の自己に即する

のである。この両者の相関において、関係の二股

はその存在の全てを

あげて他に即するのである。

3

かようにして、超越者も無であり自己もまた

無 である根源の無の中から・自己がその

根 抵の無の

自覚を通じて真に

自己自身であることによって、そこに超越者が

超越者であるということが生ずる。そしてまた

一 方

、本来

無 である

戯者が自らを超越者として、人間の霊の無なる

根抵に

現成するとき、そこに始めて・人間が真に

自己としてのその

の 自覚を完成するということが出来る。超越者

と 自己との間のいま見た如きかかる関係は

、 単に

そこに、この両者の

間に、

無を媒介とする必然的相関があるという

ほ とどまらず、この根源の無の中から、超越者が

、そしてまた自己が

(21)

故にのみそれは悪である︵ 己

性的な欲求に従う

と見徴

されている。従ってこの場ムロ、意志は悪を

欲求することは出来ないと考えられる。何故な

、それが悪へと

2

説己

nF ア pH ︵。の・ PP か ︶。 序しかもいま・自己に生得的なこの傾きに 従 う ことが善であるとされる一方、その傾きに 従 わないこと、それを欲求 係 そのものの成り立っ 場は、 先に﹁ 闇 ﹂と云い ﹁暗夜﹂と云った、かの無の場所に他ならないと 云えるであろう。 この様な自由の場を生ぜしめるものが、第一のみ 小数的自己否定である。この第一の宗教的自己否 定 においてほ 、何 よりも、自己のなす 無 化の働きが、先ず前提され てあらねばならない。自己は、この悪化の働き をなす生得的な傾き をもっていると云えるであろう。自己の存在の 虚しさに対する不安 は 、まさにそれを示している ものであろう。オル トマンスによれば、エックハルトの場合、自己に 生得的なこの傾きは、それ自体、自己に内在す る 超越者の像︵ 口 二 % ︶ であると 見徴 されている。超越者は霊の根源の蛙 心 において自らを開示するにとどまらず、霊のな す 能動の無にも働き かけ、またいまその恵みによって、かかる形にお いても自らを顕現していると考えられるのであ る 。エックハルトに おいては、超越者を目ざす自己に生得的なこの 傾 きは、自己に附与された﹁善への生得的な傾き ﹂八ロⅠ 0 づ 0% 簗 0@ 臣ヴ 0 。 3 年日︶ と称 ばれているが、従って自己はこの 傾 きに当然従わねばならず、それ故、いま、善は欲 永 さるべきものであ るということが、善の定義となるであろう。この 善の欲求において、その固有の内なる法則とし てのこの当為につい て知り、そしてそれに従って無の無化をなす自己 のみが、先の如き自由を ぅ るのである小く 匹 ・ 0 持日 曲コ コ円ヲ 自の乙Ⅰ 0 Ⅱ 共に現成してくるということである。またそれ と 同時に・この両者の必然的相関の関係そのもの が 。この同じ、根源 の無の申から、かかる両者を現成せしめる関係と して現れ出てくるのである。先に超越的自由と ね び 、 或いは無 産的 自由と称ただものは,超越者と自己との間のか かる相関の関係の上に成り立つものなのである。 そしてこの相関の関

(22)

㏄ 30) 22 の に 無 傾 そ ろ は の に と 。 し す 、 生 は

かるも

棄てて三おⅡ け あって ぶなら 或いは

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豆 そ

(23)

いるのである。即ち超越者を目ざす 場ムロ にあって も、 つねに自己につきまとう悪への傾きが、﹁ と がの意識﹂・﹁負い 目の意識﹂︵ ぎす三 リビの 旧口 お打 由コ ︶となって自己 の中に切り棄てられずに残されるのである。そし てそれをも切り棄て てゆ かねばならないかぎり、まずこの﹁ とが の ヱ 思識 ﹂への 内 化が、自己の根源の無への 内 化に先 んずるものとならぬ ばならないであろう。始めに述べた第二の宗教的 自己否定は、まさにかかる所から生じてくるの である。 この﹁ と がの意識﹂への内仏 は 、それを通じて、 自己の悪への傾きを克服することにより、超越 者への方向を生ぜ しめるよりも、更に深く、自己の根源に潜む 悪 への傾きを真に顕わならしめるであろう。即ち 亜 へも向い得る可能性 としての﹁ と がの意識﹂にとどまらず、悪そのも のへの傾きが、そこに 顕 前するのである。超越 者に向わんとする 自 己は 、自己の申に潜む悪への可能性の故に 、悪 を 怖れる。悪を怖れう つ ・しかも自己が悪に引き 寄せられていること を 意識せざるを得ぬというところに・﹁ と がの 上 暴顕 ﹂から自己の﹁罪の意識﹂ あむコナコ すの 毛 けお ぁ め ぎ︶への深化がおこ なわれる。しかもその最初の段階においては、 自 己は罪の意識の申にありながら、なお超越者を 目 ざしているもので あるが故に 、 悪の中にあって悪を怖れる不安の 中にあるものである。自己が選択の自由を通じて 、かく、超越者への 方向をとらんとする 場 ムロにあっても、悪は 、自 己の霊の根源に、かかる仕方でその姿を現し出す のである。だが罪の 意識の次の段階にあっては、自己は 、 悪の中に あって悪を怖れるよりもむしろ、なお自己の中に 存する超越者への 傾 きにより、却って超越者を怖れ、超越者に対して 不安を抱くものとなるであろう。この、超越者 に 対しての不安が 、 読 まさに悪魔的と云われるものに 他 ならな 悪魔的なるもの︵ 倖朗忌ヨ 0% おオ ⑧は、超越者 を 怖れる不安の故に 、こ 序の超越者に対して厳しく自己を閉ざし、 お く 造意識的にそれを指斥せんとするのである。 亜 ゅ庵的なるものは、超越者 描 とほ絶対的に相反し、それとは如何なる 係わ りをももたず、またそれに対して否定的なるも のなのであるが、しかもそ

無れ

自体の中にかく超越者への傾きを、その 内奥に宿しているのである。従って、悪魔的なる ものは、自己の中に閉じ こもる閉鎖性であり、不自由性であるにも拘らず 、しかも超越者に面するとき、自らの意志に反 して 顕 わならしめら 23 (・ , ㎏

(24)

とする場合、その係りを持とうとしない相手にな お 死を願 う ということ、死を願わざるを得ず 、 また願わなければ 死 ぬことも出来ないということが問題なのである。 そこには、一見、悪魔的なるものの悪への徹底 以外の如何なるもの だがそこにいま、一つの問題が残っている。 即 ち その場ムロ悪霊は 、 自らの死をも超越者に願わな ければ死ぬことも なし得ないということである。聖書の中の 、か の 、悪霊にっかれたものを描いた一節には、そ う 記されている︵ マタ イ 八・二八 | 三四︶。超越者に係りを持とうとし ない悪霊が、自分の悪の立場をまもるために 悪 のまま死んでゆこ う 閉鎖性を破られつつも悪の立場の徹底に進む 、悪 魔 的なるものの深化の道があるのである。 がミ れ 選 で 、 か ば あ 悪 で ね る の あ ば と

考え

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な ら 、 震 い れ 否 は ぎ る 定 こ り で の う ぎ あ 立 し り ろ 場 て の う

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い限悪

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無 拒 立 的

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白 い も と ら る の

徹 願

の は 底 っ で か さ て あ よ

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るう

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さ う う

ま と 。 に に. し

即 討 死

な ち し を い そ て 選 か こ 悪 ぶ ぎ に 魔 か り は 的 、 ね そ そ 自 る の の

らもい死

のの

ず を の 働きかけを拒否しっづけ、悪のままにその破滅 におもむいてゆくということである。それほ 悪 魔 的なるものの自殺 たとき、即座に破られるのである。その閉鎖性を 破られた 場 ムロ・悪魔的なるもののとる道は 、し かもなお超越者から 田 ハ % Ⅱ ダ 0 館㏄ 簿 Ⅱロ口の∼いの ぬ ︵ 片 hh 心肝二幅 の ︵ " パ ので・も・︶。 第二の宗教的自己否定のなす無の無化は、かか る 自己の無が超越者によって無化されることであ るが、それほ 、い ま ・悪魔的なるものの閉鎖性が、超越者のなす 蛙 い の 無 化の働きによって破られるということであ る 。このことは悪魔 的なるものの救いを意味しているのであるが、 し かもそれは・悪魔的なるものの立場からは、 悪 魔 的なるもの自体の 破滅を意味しているであろう。それを怖れるが 故にこそ、悪魔的なるものは、超越者に対して 己 れを閉鎖せんとした のである。それは超越者との如何なる係りをも 拒 片 せんとすることであった。だがその閉鎖性は 超越者の働きに接し Ⅰ あ 2) れるものである。かかる悪魔的なるものこそが、 第二の宗教的自己否定の目ざす自己の無の究極 の形態である︵ く笹

(25)

「 無底と悪 」序説 で 照 そ け え の の と が と 釣 る の ブ い と も

れ み 真

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微 香 冒

さ ま

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救の圭口

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願超考

ね め ハ 信 で 超

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い こ し

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根抵に 第三章 見 倣し 存在で とだけ 悪 その Ⅴ ぇ

ヤ の う ま 参 、 な 考 へ も こ の た 魔 あ ち コ 願 こ 25 ( 捲 )

(26)

(334) 26 な 白 な

ば 無 在

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8

を出

参照

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