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載  経  と

ドキュメント内 『宗教研究』178号(37巻3輯) (ページ 73-81)

と  」  は 

  

        

懐ガ 

九八 | 五六八曲︶によって著された中国の 民間年中行事に関する記録で︑現存する歳時記 と しては古 い 方に属す  る ︒この書に採録された年中行事の行なわれて いた地域は︑大体現在の湖北・湖南両省を中心と する揚子江中流域 地 

方であるとされる︒︵ 舛り 

古いのほ︑﹁ 僧祐録 ﹂の﹁失調 雑経録 ﹂中に見 いだされるものである︒ 僧祐 ︵四四五 | 五一八 ‑ は 宗慎 とほぼ同じ時期  に 活躍し︑ 宗懐が 見たのと同じ﹁玉蘭 盆経 ﹂を 当 然 見ていた筈である︒ところが彼は﹁ 孟蘭経 ﹂ として記載し﹁ 孟蘭  盆経 ﹂とはしなかった︒彼が故意に﹁ 盆 ﹂の 一 字を削ったのか︑それとも単なる誤写だったのか ︑ 未だ明らかでな  が ︑なお検討の要があると思われる︒ ハ目︒︶ 2 また 門 荊楚歳時記しと同様に興味ぶかいのは︑ 門 僧祐 録し 巻 第十二所収の﹁ 法苑 雑縁原始集目録 序しである︒これ 

は僧祐 自身の撰述にかかるもので︑当時流行し ていた仏教行事や書き残された記録文書等が ︑い かなる由緒や典拠を  有するかが次第にわからなくなりかけていたの で︑﹁検閲車線 討 其根本﹂という意図のもとに 著 作 されたものであ 

る ︒この中に 

  

という記載がある︒この前後には例えば﹁ 三セ已 ゅ 目縁起﹂︑﹁法性 建 功徳 邑記 ﹂︑﹁放生縁起﹂︑ ﹁ 施噴 野兎金縁起﹂︑ 

﹁鬼子母線 記 ﹂などがあって・それぞれ典拠とな  る 経典が註記されて レ ︑ る ︒ と 並んで・ 孟蘭 盆供の  行事が一般民衆の間に広範に普及し︐重要な 午 中行事の一つに数えられていたから︑ 僧 祐の目録 に 掲載されているこ  と 自体は極めて当然のことである︒注目すべき は下 註に 見える﹁目連間縄﹂という未知の典拠で ある︒ 僧 

祐は何故 

﹁ 孟 南蛮 経 ﹂を挙げずに﹁目連間縄﹂と記載した のであるか︒七月十五日に 孟蘭 盆の供養を行な ︐ っ ことについては︑ 

﹁荊楚歳時記﹂の記述をまつまでもなく︑﹁ 孟蘭 ゑ経﹂に基づくというのが︑当時の常識となっ ていた筈である︒ そ  れなのに 僧祐が孟蘭 金縁起の典拠としてあえて ﹁目連間 縄 ﹂を挙げたのであるから︑これには 何 か 理由があるに相違  ない︒そこで二つの観点からこのことを究明し てみよう︒ 

Ⅲ﹁ 孟蘭盆経 ﹂は︑餓鬼道で苦しむ母を救 うた めに︑目連が救済の方法を仏に問い︑仏がそれに 答えて目連を教 誠 

するという内容である︒ 

(・  74 

約  中に編入したことや︑﹁目連間縄﹂として  孟  菌蓋縁起の典拠経典としたことは︑﹁  孟蘭  ﹂と  か  ﹁霊菌  盆  ﹂とかの経題 

舷が  必ずしも古くからこの経典の竺の呼び  名  ではなかったこと︑この経を小乗経典の一つと  して受容する態度がかな  孟  り  古くから存したこと︑などが指摘できるので  ある︒ 

75  @3 ㏄ 

訳経史的 

付 している経題を用いるのが通例であるから︑ 僧 祐が ﹁失調 雑経 録しに﹁ 孟蘭経 ﹂と記したのも 一般的な通用度を 

重視したからに違いない︒しかしⅢ㈲を総合し て 考えれば︑﹁ 孟蘭経 ﹂という経題で記載しなが らも小乗経の抄出 経 

機は  ︑  僧祐  自身の研究から得た確信に基づい  てなされたものと  い  えよ  う  ︒一般に経  録  に経典を  記載する場合︑世間で流  ㈲僧林 

が ﹁失調 雑経 録しの中では︑﹁玉蘭 経 ﹂として記載し・一群の小乗経典の抄出経の中に 編入していた︒ 

まず田についてみれば︑﹁ 孟蘭盆経 ﹂は﹁目連 間縄﹂と呼ばれて差しつかえない内容であったか ら ・古くは﹁目連  間縄﹂の名で通用していたと考えられる︒ 僧祐 ほ 古い経題を知っていたから︑典拠を挙げるに 当 って本来の古い経題  を 採用したと推定し ぅる ︒ところがこの推定の  難点 は 文献的な証拠が全くないことである︒ 宛 ︶ 僧祐 以前に﹁ 孟 南蛮 経 ﹂  が ﹁目連間 経 ﹂と呼称されていたことを証明す る 文献が発見できない点を誇張すれば︑﹁目連 問 経 ﹂という経題は僧  祐 のその場かぎりの創作に過ぎなかったのでは ないかという結論を導くことになる︒しかし律僧 でしかも卓越した 史  学者として著名であった 僧祐が ・仏教行事の由 緒や典拠を自ら明らかにしょうと 志 ざしながら︑ 一般に承認されて ぃ 

ない思いつきの経題を無造作に創作したとは 者 

︑  えられない︒ 

㈲の﹁ 孟蘭経 ﹂と︑一群の抄出経との関係をど 

︐  フ  考えるか︒まず僧林がこれを抄出経の中に分類 したことは︑経の  分量や内容から見て︑小乗経のいずれかに属す る 抄出経と判断したことによると思われる︒それ では 何故﹁ 孟蘭経 ﹂  という経題を挙げたのか︒﹁目連間 経 ﹂という 典拠を一方で堂々と掲げながら︑他方で﹁ 孟蘭経 ﹂をどうして挙げた  のか︒この 消 邑を物語る文献が今のところ皆無な ので・訳経史研究一般の例にならって推測する のほかはない︒結論  だけをいえば︑﹁ 孟蘭経 ﹂としたのは当時広く 行 なわれていた呼称に従ったもの︑また︑﹁目連 門経﹂と註記したの 

註 ︵ 1 ︶ 司 開元銀﹂ 巻 三 ‑ 大正五五・四九四丁︶ 

︵ ︶﹁開元銭﹂番一九 ‑ 大正五五・六八五上︶ 

︵ 3@  ヨ二室 紀 ﹂ 巻六 ︵大正四九・六四上 ‑ 

︵ ︶林屋Ⅱ曲用 旺朗 の肝先﹂︑﹁ 異 訳経類の研究 ヒ 三五 四七頁︒ 

︵ ︶ 一 ︒坦三問 田卍 ﹂ 世四 ︵大正五五・二八丁︶ ︵ 6@  コ出三蔵記集﹂ 巻 四 ‑ 大正五五・二一中 ‑ 

︵ 7‑.  ﹁ 法経鈷 し巻 三 ︵大正五五・一三三車︶  ける 孟蘭 盆供の流行である︒なお﹁ 孟蘭盆経 ﹂ の 東晋成立 説は ついてほ︑すでに吉岡 義豊 博士が 中元謀との関連をめ ぐって 同様の結論を発表しておられる︒ 弁 ︶  は 二 つ あり︑一 つほ ︑﹁道安 録 ﹂に何ら記載が 見られないこと︑他の一つほ︑﹁歳時記﹂に見ら れる如く六世紀にお    が中国にい つ ごろ現れたか︒結論を先にいえば︑ 東晋の末ごろ︵ 四 ①①年前佳 ‑ と推定したい︒ 理 由  は ︑すでに論述してきた︒そこで本来の﹁玉蘭 盆 披胚肛 ﹂ ︵これが﹁ 孟閾盆経 ﹂と呼ばれていたか︑他の名称で呼    る ﹁ 孟蘭盆経 ﹂は ︑実は ただ一種の経があったの みで︑他は独立の異訳経と見なすことのできな いものであること  いっごろ﹁ 孟 菌蓋 経 ﹂が現れたかを推測し ぅる に すぎない︒ 

後世にできた﹁浄土 孟 関金 経 ﹂︵﹁大金浄土 経 ﹂︶を 別にすれば︑軽銀によって二回ないし三回の翻 訳 があったとされ  以上︑訳経史研究の観点から 孟蘭盆経 類の経典 ほ ついて幾つかの問題点を探ってみた︒もちろん この方法によって㏄ 

も ︑﹁ 孟蘭盆経 ﹂の原型がインド成立 翰訳芭 か 中国成立高 鰻 かを確定することは困難であ り ︑せいぜい中国で 

  

76 

五 

  

‑8 ︶﹁仁寿 録 ﹂ 巻二 ︵大正五五・一六① 七 ︶﹁ 沖侶 甘 二世三一大正五五・一九四丁︶ ︵ 9 ︶﹁古今沢 径同紀し巻二 ‑ 大正五五・二五四上Ⅰ Ⅰ内典 打 ﹂ 巻三 ‑ 大正五五・二三五上︶ ︵ 托 ︶﹁大周 録 ︶ 世九 ︵大正五五・四三一下︶ ︵ 皿 ︶ 才い と ︒ " 下こ ㏄︵ @‑‑‑" めし の二目のの王臣㊤の 円 qp コと 主ざ二 円 ‑ す ロ ヰユ Ⅰ アデ ︵日エ B@ 八寸 ︒ こ b. Ⅱ㏄ 

︵は︶ 巾 ・の・㏄㏄Ⅰニ %,, Ⅰのの 目つつ ㏄︒年年血圧口目のの う の す @ コの ︒︐ 円 コ ︵ Ⅰ︒で・ ドつ の ‑ は ︶﹁三宝 紀 Ⅰによって新たに竺法護訳経に編入 き れた三十 経 はことどとくデタラメな査定によるもので ある︒﹁ 孟蘭盆経 ﹂  もその中の一陣である 拙稿﹁竺法護の訳経について ﹂︵印仏所十一 | 一 ‑ を参照︒ ︵ M ︶﹁ 孟 腐食 経 ﹂︵大正一六・七七九︶﹁︑﹁報恩 奉 盆経 ﹂︵大正一六・七八 七 ︶ ︵ Lc じ ﹁ 孟蘭盆経疏 ﹂ 下 ︵大正三九・五①大下︶ 

︵㏄︶コ出三蔵記集 ヒ巻四 ︵大正五五・二八丁︶ 

︵Ⅳ︶﹁開元銀﹂番一二︵大正五五・六 五 上 ‑ 

鎔 ︶﹁ 般泥 恒俊 濯脚轄 ﹂︵大正一二・一一一四土 中 ︶ 

︵㎎︶﹁法苑珠林﹂ 巻 六二︵大正五三・七五一五 中   

︶本田義 英 ﹁ 孟蘭監硅と 浄土五曲圭祐﹂二仏行火 ギ向 門弟二七六号︶︒なお︑ついでに 敦埋 本について 一言すれば︑一昨年  中国で刊行された﹁ 敦埋 遺書総目索引目︵北京︑一九 六二年 ‑ は︑ 曲忙 がら布巾探険 叩 によって姿見され︑   

て所航 されている文書の総目録である︒これによれば 敦埋 本の @ 五間 盆経 ﹂は八種にのぼっている︒すなわ ら田 ﹁仏説 孟  察 鯛孟経 ﹂ ‑ 光 宇 七五 ‑ ︑ ㈲スタイン不二五四 号 ︑③ スタイン 本 三一七一号︑㈲スタイン 本 四二六四号︑㈲ スタイン 本五 考 九五九号︑㈲スタイン 本 六一六三号︑Ⅲペリオ木工① 五五号 ‑ 往 却 はいずれも﹁仏説 孟 関金 冊 ﹂︶ ︑旧 ベリ オ 不二一八五 的 史 青め ﹁仏説浄土竜Ⅲ盆柱﹂がそれである︒ 囲 モ けば 恐らく断簡であろうと思われる︒ 経 

  

  

類 ︵ 汐 ︶ コ 開元録し番一八︵大正五五・六七一 下 ︶ 

  

丁︶ 

  

中 九三年︶ 

77  く ・ ㏄ 

  

縞 ︶同上︵大正五五・九一七︶ 

   78 

笏 ︶例えば﹁ 施暇 野 兎 金縁起﹂は﹁大股淫薬 経 に田 つ ﹂と記され︑現存の﹁大股津梁 経 ﹂中に 栢当 箇所を 見出しうるから︑ こ   

  日録の典拠の信 還 度は高いといってよ   

︵ 00 ︶﹁目連開経﹂という経をコ田三蔵 記咄 Ⅰや古い 肚 舶の中にさぐっても見当らない︒﹁目連肋間縄﹂とい ヮ 経題はコ先 訳雑経 ︵  録 に掲げられているが・これは 僧祐 当時無水であっ た ︒現在の蔵経中に﹁目連開経﹂一巻︵大正二四・九 一 ︶が宏壮言 

訳 として残っているが︑これほ別名を﹁ 犯戒 罪報軽重 経 ﹂または﹁犯罪 経 ﹂と呼ばれ︑内容的に全く 興 った 別種の経典であ 

る ︒ 法天訳の ﹁目連 所 間縄﹂ ‑ 大正二四・九一一︶ と 輻 関係なことはい う までもない︒ 

宛 ︶吉岡 義豊 ﹁七月十五日中元節 は ついて﹂︵岩井 博士古稀記念論文集︶ 

ドキュメント内 『宗教研究』178号(37巻3輯) (ページ 73-81)

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