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33 (341 )
Ⅱ
を 選ぶ実存として存在することと︑絶対である ということとの間にほ ︑ 何の違いもない﹂︵ 回 ︑五 八頁︶のである︒
一切の超越的本質的存在を否定した自己の主体性 が︑ 全き自由の中においてなすあらゆる行為は ︑ 全て無からの創造 0 行為として︑ここに絶対という性格をもってく るのである︒それは自己のなす行いが全て善で あるということでも ある︒﹁というのは︑我々は決して悪を選び 得 ないからである﹂︒何故なら・﹁あれかこれか ︑ ︵ 圭 目か舌ヰ 小 か ︶︑そのい F Ⅱ 立 ノ れかであることを選ぶのは︑われわれが選ぶその ものの価値を同時に肯定することである﹂︵ 同 ・ 二 二頁︶︒だがいま 自己のなす行ないが全て善なのであるから︑ 悪 は 選び得ず・﹁われわれが選ぶものは常に善であ る ﹂小圃︑二二頁︶
と 云われるのである︒即ちそれは・通常善悪の選 択 がなされる価値の場を超えたその彼岸にお い て ︑自己のなす行い
が 全て善であるということなのである︒
この︑﹁われわれにとって圭ロであるものは︑万人 に @P しっても上手木 @ も 仁義 ロ でム 什 けい レ @ しいうこⅠ P し ほ山かり リノ得たい ハ い ﹂︵ 同 ︑一一一一頁︶ ︑ と 云われる︒自己にとって善であるものが︑他人 にとっても善である様な社会的関係がそこに 現 われてくるであろ ぅ ︒即ち︑自己の為すかかる自由の行為は ︑全 く 他人の自由によるものであり︑また他人の自由 も 我々の自由によっ ているものであるとされる︒従って﹁他人の自 由 をも同様に目的とするのでなければ︑私は私の 自由を目的とするこ とは出来ない﹂のである︒それは自己が自己 自 身の投企において︑人間的世界の関連の中に・ 契 約 ︵の コ ぬ申㏄ 0 日の コ ︵︶の 中に入ることであり︑人間の主体性の相互の関 連の申に人ることであると云われている︵ 同 ︑六 八頁︶︒ここにサルト
ル のいわゆる実存主義的ヒューマニズムが成立す る ︒
身を実現しているかぎりにおいてのみ存在して あるのである 0 しかも︑かかる無からの自己実現 としての行為は︑ 何 43
し
Ⅰ " ⅠⅩ
以上の如きサルトルの立場は︑先述の︑自己の 根源の無を援無した単なる世間的日常性の立場に 止まっているもの ではない︒とは云え︑それらは共に同じく・二つ の 宗教的自己否定の目ざすいずれの超越者をも 失った立場である︒ しかもサルトルの場合それほ︑宗教的自己否定 のいずれの場合にもまさって︑自己の根源の無に 徹した立場であると も 考えられるのである︒即ちそれ ば ︑宗教的自 己 否定の発する無の中に残る︑超越考への生得的 傾きをすらも否定し ているのである︒第一の小ホ 教 的自己否定の場ムコに おいては︑先述の如く︑その悪化の発する無の 中には︑自己が超越 考へ 向 わんとする︑﹁善への傾き﹂が存してい たのである︒そしてその傾きの故にこそ︑その
無 バの無 化は︑超越者を 目 ざす自己否定となり得たのである︒この様な 傾きをなおその中に残す無は・真にその虚しさに 徹した 無 とは云い 得 ないであろう︒この善への傾きは︑サルトルの 場合二本われる︑自己のなす行いが全て善であり ︑ 善 以外のものを 選 ぶことが出来ないというその善への傾きとは︑ 全 く異 るものであることは明らかである︒第一の 宗教的自己否定の場 合 その善への傾きは生得的なものであって ︑な お決定的な善悪の選択︵第二の自己否定に見られ た 如き︶を経ないと ころで云われたものであるに対し︑いまこのサル トルの場合にあって は ︑それは︑善悪の選択の なされる場を超え出
% 傾きに背反するものが︑第二の自己否定に おいて︑悪魔的なるものとして生じ乗った所以で ある︒ 序しかも︑この悪魔的なるものの中にも・ 同 様 やはりまた︑超越者への傾きが存していたの である︒その傾きとは 既 蠕に 述べた如く︑悪魔的なるものの中に存す る ︑超越者への怖れである︒悪魔的なるものは︑ それ自らの中に超越者 へ 鮎の怖れと︑また従って信を隠していたので ある︒悪魔的なるものが︑なおかか至信を自らの 中に保っているが故にこ
3R ( 純 )
者 と絶対的に相反すると見える悪魔的なるもの さえもが︑超越者への信を中に隠し︑超越者その ものを否定すること
をなし得ないとき︑このサルトルの立場は・ 超
のである︒それは 先
の 悪魔的なるものの更に深化された形態であるで あろう︒そこにはもはや︑宗教的自己否定の立 場からすれば︑如何
なる形にもせよ善への傾きは存してはいないで あろう︒従って超越者からの如何なる働きかけも もほや 不可能であろ
う ︒しかもそこになおサルトルにおいて︑自己 0 行いが全て善であると云われている場合︑その 善は ︑宗教的自己否
定 のいずれの立場から見ても︑悪の究極的形態 であるであろう︒しかも宗教的自己否定が︑自己 の 虚しさの根源に徹
せんとし︑またその悪魔性の底の自覚に徹する @ ﹂とをその目標とするかぎり︑かかるサルトルの 立場は︑いずれの 宗
教 的自己否定の立場から見ても︑それらにまさ ってその根源の無への深化は徹底的であるとい︐ 瑳 ことが出来るであろ
ぅ ︒しかもなおこの様な立場は・これら宗教的 自己否定におけるいずれの超越者とも︑もはや 絶 射 に関るを得ないも
のなのであろうか︒この様な立場と関り︑この 様 な 立場をもなお内に包摂し得るような宗教的地 平 こそが︑求められ
ねばならないであろう︒我々は先の宗教的自己否 定の区別の一々を詳細に究明してゆくことによ り ︑かかる地平を追
永 してゆきたく思 う のである︒
( 簗 4) 36
「真理の福音」
き は 受
、 肉