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ドキュメント内 『宗教研究』178号(37巻3輯) (ページ 33-37)

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   Ⅱ 

  

を 選ぶ実存として存在することと︑絶対である ということとの間にほ ︑ 何の違いもない﹂︵ 回 ︑五 八頁︶のである︒ 

一切の超越的本質的存在を否定した自己の主体性 が︑ 全き自由の中においてなすあらゆる行為は ︑ 全て無からの創造  0 行為として︑ここに絶対という性格をもってく るのである︒それは自己のなす行いが全て善で あるということでも  ある︒﹁というのは︑我々は決して悪を選び 得 ないからである﹂︒何故なら・﹁あれかこれか ︑ ︵ 圭 目か舌ヰ 小 か ︶︑そのい F Ⅱ 立 ノ  れかであることを選ぶのは︑われわれが選ぶその ものの価値を同時に肯定することである﹂︵ 同 ・ 二 二頁︶︒だがいま  自己のなす行ないが全て善なのであるから︑ 悪 は 選び得ず・﹁われわれが選ぶものは常に善であ る ﹂小圃︑二二頁︶ 

と 云われるのである︒即ちそれは・通常善悪の選 択 がなされる価値の場を超えたその彼岸にお い て ︑自己のなす行い 

が 全て善であるということなのである︒ 

この︑﹁われわれにとって圭ロであるものは︑万人 に @P しっても上手木 @ も 仁義 ロ でム 什 けい レ @ しいうこⅠ P し ほ山かり リノ得たい ハ い ﹂︵ 同 ︑一一一一頁︶ ︑  と 云われる︒自己にとって善であるものが︑他人 にとっても善である様な社会的関係がそこに 現 われてくるであろ  ぅ ︒即ち︑自己の為すかかる自由の行為は ︑全 く 他人の自由によるものであり︑また他人の自由 も 我々の自由によっ  ているものであるとされる︒従って﹁他人の自 由 をも同様に目的とするのでなければ︑私は私の 自由を目的とするこ  とは出来ない﹂のである︒それは自己が自己 自 身の投企において︑人間的世界の関連の中に・ 契 約 ︵の コ ぬ申㏄ 0 日の コ ︵︶の  中に入ることであり︑人間の主体性の相互の関 連の申に人ることであると云われている︵ 同 ︑六 八頁︶︒ここにサルト 

ル のいわゆる実存主義的ヒューマニズムが成立す る ︒      

   身を実現しているかぎりにおいてのみ存在して  あるのである  0  しかも︑かかる無からの自己実現  としての行為は︑  何  43 

  

  

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Ⅰ  " ⅠⅩ 

以上の如きサルトルの立場は︑先述の︑自己の  根源の無を援無した単なる世間的日常性の立場に  止まっているもの  ではない︒とは云え︑それらは共に同じく・二つ  の  宗教的自己否定の目ざすいずれの超越者をも  失った立場である︒  しかもサルトルの場合それほ︑宗教的自己否定  のいずれの場合にもまさって︑自己の根源の無に  徹した立場であると  も  考えられるのである︒即ちそれ  ば  ︑宗教的自  己  否定の発する無の中に残る︑超越考への生得的  傾きをすらも否定し  ているのである︒第一の小ホ  教  的自己否定の場ムコに  おいては︑先述の如く︑その悪化の発する無の  中には︑自己が超越  考へ  向  わんとする︑﹁善への傾き﹂が存してい  たのである︒そしてその傾きの故にこそ︑その 

無 バの無  化は︑超越者を  目  ざす自己否定となり得たのである︒この様な  傾きをなおその中に残す無は・真にその虚しさに  徹した  無  とは云い  得  ないであろう︒この善への傾きは︑サルトルの  場合二本われる︑自己のなす行いが全て善であり  ︑  善  以外のものを  選  ぶことが出来ないというその善への傾きとは︑  全  く異  るものであることは明らかである︒第一の  宗教的自己否定の場  合  その善への傾きは生得的なものであって  ︑な  お決定的な善悪の選択︵第二の自己否定に見られ  た  如き︶を経ないと  ころで云われたものであるに対し︑いまこのサル  トルの場合にあって  は  ︑それは︑善悪の選択の  なされる場を超え出 

      

%   傾きに背反するものが︑第二の自己否定に  おいて︑悪魔的なるものとして生じ乗った所以で  ある︒  序しかも︑この悪魔的なるものの中にも・  同  様  やはりまた︑超越者への傾きが存していたの  である︒その傾きとは  既     蠕に  述べた如く︑悪魔的なるものの中に存す  る  ︑超越者への怖れである︒悪魔的なるものは︑  それ自らの中に超越者  へ  鮎の怖れと︑また従って信を隠していたので  ある︒悪魔的なるものが︑なおかか至信を自らの  中に保っているが故にこ    

3R  純 ) 

     

  

者 と絶対的に相反すると見える悪魔的なるもの さえもが︑超越者への信を中に隠し︑超越者その ものを否定すること 

をなし得ないとき︑このサルトルの立場は・ 超 

  

のである︒それは 先 

の 悪魔的なるものの更に深化された形態であるで あろう︒そこにはもはや︑宗教的自己否定の立 場からすれば︑如何 

なる形にもせよ善への傾きは存してはいないで あろう︒従って超越者からの如何なる働きかけも もほや 不可能であろ 

う ︒しかもそこになおサルトルにおいて︑自己 行いが全て善であると云われている場合︑その 善は ︑宗教的自己否 

定 のいずれの立場から見ても︑悪の究極的形態 であるであろう︒しかも宗教的自己否定が︑自己 の 虚しさの根源に徹 

せんとし︑またその悪魔性の底の自覚に徹する ﹂とをその目標とするかぎり︑かかるサルトルの 立場は︑いずれの 宗 

教 的自己否定の立場から見ても︑それらにまさ ってその根源の無への深化は徹底的であるとい︐ 瑳 ことが出来るであろ 

ぅ ︒しかもなおこの様な立場は・これら宗教的 自己否定におけるいずれの超越者とも︑もはや 絶 射 に関るを得ないも 

のなのであろうか︒この様な立場と関り︑この 様 な 立場をもなお内に包摂し得るような宗教的地 平 こそが︑求められ 

ねばならないであろう︒我々は先の宗教的自己否 定の区別の一々を詳細に究明してゆくことによ り ︑かかる地平を追 

永 してゆきたく思 う のである︒ 

  

簗 4)  36 

「真理の福音」 

き  は  受 

、  肉 

ドキュメント内 『宗教研究』178号(37巻3輯) (ページ 33-37)

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