カロリング時代における巡礼批判
多田哲
はじめに
巡礼の是非をめぐる議論を扱った最初の研究は︑おそらくG・コンスタブル﹁中世における巡礼に対する批判﹂
(一九七六年)であろう︒彼は﹁中世における巡礼の慣習は非常に人気があって︑そして非常に称賛すべきと︑通常は見
なされていた︒ゆえに真面目な教会人が叫んだ留保の声は︑容易に見過ごされている﹂と述べて︑各時代の﹁留保の声﹂
を紹介する︒まず四世紀から五世紀には︑長距離巡礼が教父によって非難された︒彼らが案じたのは︑人びとが地域的
霊廟への敬意を払わなくなること︑そして道中の身体的道徳的危険であった︒初期中世になると︑禁欲目的で遍歴する
慣習が生まれてくるが︑そうした巡礼者のなかにいる︑単に怠惰を目的とする者が非難された︒また娼婦になる可能性
を案じて︑女性の巡礼を抑制しようとする動きが生じた︒
カロリング時代に入ると︑瞭罪巡礼の悪用に批判の声が高まってきた︒また一部の聖職者はローマ巡礼の無益さを主
張する︒そして修道士の巡礼については︑それが世俗との交わりが不可避であることから︑制限が設けられて許可制と
なった︒他方で修道女の巡礼は禁じられた︒こうした修道制と巡礼の非妥協性は︑修道院改革運動が隆盛を迎える=
世紀および一二世紀に︑より強く意識されることになる︒さらに修道士の十字軍随行の是非をめぐる議論も︑喚起され
た︒修道士がおこなう巡礼に対する批判は︑俗人や聖職者のそれにも影響を与えた︒行為による巡礼よりも︑心による
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メトロポリタン史学十号二〇一四年一二月五八
内的な巡礼を重視する意見や︑故郷における義務を強調する意見も提起された︒さらには巡礼の費用も問題にされ︑む
しろ金銭は貧者のために向けるべきだという主張もなされた︒中世末期になっても︑依然として巡礼は全社会層で名声
と人気を保ってはいた︒しかし批判者は︑巡礼の有益さよりも危険と困難を強調する傾向を強める︒彼らは従来の批判
を受け継ぐなかで︑巡礼という行為のみによる照罪は不可能で︑真のゆるしは内的態度に依存すると主張する︒こうし
た批判が実際に巡礼者に影響を与えたかは疑問であるが︑巡礼に出発する決意は容易ではなくなってきた︒巡礼を非難
する意見と並行して︑奨励する意見も存在し︑信仰に敏感な人間ほどそのジレンマに悩んだ︒
このような中世の巡礼批判を︑コンスタブルは次のように整理する︒批判者は当初︑身体的道徳的危険性や巡礼者の
悪弊を標的にしていたが︑=世紀および一二世紀に批判の根拠が変化した︒ゆるしをもたらすのは︑単に聖地を訪れる
ことではなく︑心による真の巡礼であるという主張が強くなる︒この変化は︑外的行動よりも内的行動を重視するという︑
霊性における傾向の反映である︒
ところでコンスタブル以降︑巡礼研究が進展し︑巡礼を批判する事例もさらに検出されてきた︒しかし少なくともカ
ロリング時代に関しては︑こうした批判の声は未整理のままであるようだ︒そこで本稿は︑この時期における巡礼の是
非をめぐる議論を︑改めて整理・検討するものである︒
第一章カピトゥラリアおよび教会会議決議
フランク王国およびイタリア王国で発布されたカピトゥラリア︑および両王国で開催された教会会議の決議には︑巡
礼の禁止︑制限あるいは監督に関する条項が検出される︒巡礼禁止の対象として︑明瞭に規定されているのは修道女で
ある︒また罪人のなかでもとりわけ重罪人については︑放浪せずに一箇所にとどまって︑瞭罪を果たすべきだとされて
い勧︒この種の規定は︑重罪人に対する順罪巡礼の禁止をうたったものと︑考えられている︒巡礼を許されている者で
あっても︑出発には許可が必要とされた︒修道士の場合は修道院長の許可証が︑聖職者・俗人の場合は司教の許可証が
必要であった︒とくに修道士の場合︑﹁修道院長への服従の義務を果たすことなしに﹂出かけることが禁止されており︑
巡礼に強い制限が加えられていた︒巡礼者を監督したのは︑俗人の場合は伯︑聖職者・修道士の場合は司教であった︒彼
らは巡礼者の資格を確認し︑ときには彼らを捕らえてみずから審問する︑あるいは審問の場に送致した︒ところで︑カ
ピトゥラリアのなかには︑条文がなく項目のみが伝わっているものがある︒ほかのカピトゥラリアや教会会議決議から
類推するに︑これらの条項も︑巡礼の制限や巡礼者の監督を意図したものであったのだろう︒
このような規制がおこなわれた背景には︑巡礼者あるいは巡礼者をかたる者による風紀の乱れがあったと思われる︒
八一三年のシャロンーーシュル開ソーヌ教会会議決議第四五条から︑こうした事情がうかがえる︒巡礼者のなかには︑放
浪しているにもかかわらず巡礼していると偽る者や︑聖地を一瞥しただけで罪が順われると考える者がいたらしい︒な
かでもとくに︑聖職者は巡礼によって怠惰の罪が瞭われ職務がまっとうされると信じ︑俗人は巡礼のために故意に罪を
犯した︒そして権力者のなかには︑巡礼費用のために貧者から税を巻き上げる者︑あるいは巡礼を方便として︑単に税
を巻き上げる者がいた︒そして貧者もまた︑巡礼を方便としてより多くの施しを得ようとした︒
しかし王権や教会が︑巡礼自体を否定的にとらえていたわけでは決してない︒巡礼者の保護や救護施設の整備を命ず
る規定は枚挙にいとまがなく︑単に巡礼にともなう悪弊の是正に気を配っていたに過ぎない︒
第二章司教カピトゥラリア︑蹟罪規定書および巡回裁判手引書
本章では︑司教区単位で通用した文書を検討する︒第一に︑司教が管区内の司祭などに対して発布した命令である︑
司教カピトゥラリアをとりあげる︒司教カピトゥラリアには巡礼者保護をうたった条項が多いが︑巡礼に制限を加えよ
うとする司教もいた︒八〇六年から八二一二年の間のいずれかの時期に発布したカピトゥラリアで︑バーゼル司教ハイト
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は以下のように述べている︒まず聖職者に対しては︑司教から事前に許可を得ることなしに︑みずからの教会の世話を
放棄して巡礼に出かけてはならないとした︒また俗人に対しては︑所属する教区で蹟罪を終えた後でなければ︑巡礼を
おこなえないとした︒そのほかには﹃ネウストリア第一カピトゥラリア﹄(八二九年以降)に︑放浪を禁止する条項がみ
られる︒すなわち﹁教会に配属されている司祭は︑あちこち︑さまざまな場所を放浪してはならない︒そして[そのよう
な司祭は]︑自分が属する司教による出立の許可証がないかぎり︑彼らを保護している者の手で︑本来の教区まで送還さ
れなければならない﹂とされている︒
司教カピトゥラリアが司祭に対する命令であるのに対して︑信徒に対する指示としては順罪規定書がある︒フルダ修
道院長ラバヌス・マウルスが︑マインツ大司教オトガリウスの求めに応じて九世紀中期に作成した瞭罪規定書は︑その
代表的なものである︒この贈罪規定書のなかに︑近親殺害者は遍歴によって罪を瞭うのではなく︑一箇所にとどまって
厳しい順罪をおこなうべきだという項目を見いだせる︒
巡回裁判の手引書にも︑巡礼の制限に関する事項が含まれている︒カロリング時代の代表的な手引書である︑プリュ
ムのレギノ﹃巡回裁判案件と教会規律に関する二巻﹄(九〇六‑一三年)を例に検討をおこないたい︒巡礼に関しては︑
巡礼者のために教会の収入の一部をあてること︑巡礼者の歓待︑巡礼者の迫害禁止など︑巡礼の保護をうたった項目が
多い︒そうしたなかで︑巡礼の制限にも関心が払われている︒第一巻では第四三六章から第四四八章に許可証に関する
項目がみられる︒そのなかで明確に巡礼許可証と解釈できるのは第四三七章で︑﹁巡礼者のいかなる者も︑許しのすなわ
ち推薦の書状なしには︑受け入れられない﹂と指示されている︒第二巻においては︑臆罪巡礼を制限する項目がみられる︒
すなわち︑近親殺害者は︑一箇所にとどまって瞭罪をおこなうべきだとされている︒
本章では司教区単位で通用した文書にみられる巡礼に関する条項を検討した︒基本的には巡礼が称揚されているが︑
巡礼には許可証を必要とし︑罪人については故郷で瞭罪を果たしてから巡礼が許された︒王のカピトゥラリアや教会会
議決議の内容を踏襲したものであると結論できる︒
第三章詩
第一章および第二章の検討によって︑巡礼に対するいわば﹁公式見解﹂が抽出された︒しかし個人のレベルではどうか︒
九世紀にザンクト・ガレン修道院で作成されたと考えられている手稿本に︑次のような古アイルランド語詩が残されて
いる︒﹁ローマに行くことは/労多くして︑益なし/汝がそこで探している王を︑汝は見つけることができない/汝が王
を連れて来るのでなければ//何という愚鈍︑何という狂暴/何という錯乱︑何という狂気/死に至るまで確かに/マ㈲リアの息子の不興を買う﹂︒この詩がローマ巡礼を非難していることは明らかとしても︑その根拠はつまびらかではない︒
詩人は単にローマ巡礼には意味がなく︑王者キリストの墓とされる聖墳墓教会︑すなわちエルサレム巡礼こそが重要だ
と考えていたのか︒あるいは︑すべての巡礼を批判し︑みずからの心で神に祈らなければ救われないと考えていたとも
解釈できる︒
オルレアン司教テオドゥルフス(在位七九八年以前〜八一八年)は︑﹃神は場所に探し求められるものではなく︑敬慶
さをもって崇拝されるものゆえに﹄と題する詩を残している︒ここで︑ローマ巡礼に関する見解が述べられている︒﹁ロー
マに行くことのみで︑喜ばれることはない︒よく生きることのほうが︑どれほどか︑/ローマにおいて︑あるいは人間の
人生が過ごされる場所において︒/私が信じるのは︑足ではなくて善行の道程が︑天につながっているということ︑/ど
こで何をしようとも︑神は高みからご覧になっている﹂︒
この詩もローマ巡礼を非難するものである︒その理由についてテオドゥルフスは︑特定の場所に行くという行為より
も︑善行によってこそ︑天国に到達できると主張している︒この主張を文字通り受け取れば︑中世中期を待たずとも︑す
でに巡礼という行為自体が非難の対象とされていることになる︒他方でテオドゥルフスの主張は︑ローマ巡礼以外の地
域的な小巡礼を擁護するための︑方便であるのかも知れない︒ならば前述のような古代後期の教父の考え方を︑踏襲し
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