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日本事 情 とラテ ンア メ リカ事 情
一 共感を生み出す ことのできる事情教育の必要性‑
志 柿 光 浩
は じめに
留学生などの外国人に対す る、いわゆる 「日本事情」教育のあ り方 につい て は、依然、模索が続いているよ うである
。日本の高等教育機関における日 本事情教育 について、長谷川恒雄民 らの研究 グループが最近発表 した実態調 査で も、誰が、 どのような目的で、 どのよ うな方法で 日本事情教育を行 うか、
それぞれの教育機関や担 当者 によって千差万別 とい う状況が明 らかにされて いる
1)。私 も長崎大学外国人留学生指導セ ンターに勤務中、 日本の文化 ・社会 に関 す る教育の必要性を感 じ、実際にそのような内容の授業 も担当 した。当時の 状況については同セ ンターの研究報告の一部 と して簡単 に報告 したが 2 ) 、今 ふ り返 ってみれば、我流の試行錯誤的な教育体験の域を出なか ったよ うに思
う 。
その後、私 は現勤務校 に移 って本来の専攻分野であるラテ ンアメ リカ研究 に携わ ることにな り、今度 は日本人学生を対象 にラテ ンアメ リカにつ いての 授業を担当す ることにな った。それまで 日本事情を担当 していたのが ラテ ン
アメ リカ事情の教育を担 当す ることにな ったわけである
。日本事情教育について は、少な くともそれが未確立の分野であるという反 省があるが、 ラテ ンアメ リカ事情教育 について はそのような自覚 さえないと い うのが実情であろう
。ラテ ンアメ リカ研究の学界で ラテ ンアメ リカを学習 者 にどう教え るかなどということが問題 にされ ることなど稀であ って、それ こそ授業担 当者がそれぞれ 自己流でや っている
。日本事情教育のあ り方で頭 を悩 ます ことか らは解放 されたが、今度 はラテ ンアメ リカ事情教育をどう進 めてい くか とい うことで頭を悩 ます ことにな って しまった。
しか し、 どち らの 「 事情教育
」も、ある対象地域の外側 にいる人間が、そ
の地域 についての理解を深めることを目的 と している点で共通 している。 ラ
長 崎 大 学外 国 人留学 生 指 導 セ ンター年 報 第 2号 研究 論 文 編 1 994年 43
テ ンア メ リカ事情教育を進 め る上で 日本事情教育の経験が参考 になる場令 も あ るだ ろ うし、逆 もまた然 りであ る。
思えば 日本語教育 は、英語教育をは じめ と して外国語教育 の影響を強 く受 けて きているのに、 日本事情教育 につ いて は、海外の留学生受 け入れ先進国 の事情教育 についての紹介や研究があま り見あた らないのはどうした ことな のだろ うか。外国語教育 における事情教育か らも参考 にす る点 は多いはずで あ る。
以下の小論で は、 日本事情教育 とラテ ンアメ リカ事情教育 における経秩を もとに、 何人かの論者の考え方 も紹介 しなが ら、 両者 を対比 し、 「 事情教育」
のあ り方 について考察す る
。経験 とい って も拙 い ものだが、多少 とも参考 に なれば幸 いであ る
。1.事情 とは何か
(1)
「 事情」 とい う用語
話を進めてい く前 に、 まず 「 事情」 とい う用語 について検討 してお く必要 があ る 。 「 事情」 とい う語 を用 いることに、すで にあ る立場が反映 されて い
るか らであ る。
手元の辞書 に も、事情 とい う語嚢の用例 と して 「 事情 を聞 く
」「 事情 があ れば許す 」 「 事情がわか らな い」な どが挙 げ られて いるよ うに、限定 された 具体的な状況を指 して使 うのか、 この言葉の一般的な用法であ る。
しか し他方で、福沢諭吉 による 『 西洋事情』の例 をは じめ と して、 「 外国 事情 」 とか 「 海外教育事情視察団」な どの用例 もあ るよ うに、 「 現状」 とい う語 と同義の、 もう少 し広 い意味の用法があるの も確かであ る。 「日本事情
」とい う言葉 もそのよ うな用法の もの と して使われて きたのであろ う
。ただ し、
この場合で も 「 現在の状況 」 とい う、時間的に も内容的に も限定 された意味 あいを この言葉 が含んで い ることは否定で きない。 「 事情教育 」のあ り方 を 論 じるためには、 ここで使われて いる事情 とい う概念の内容 を整理 してお く 必要がある。
(2)
日本事情教育の類型
先 に紹介 した 日本事情教育 に関す る実態調査の中間報告書の中で、長谷川 恒雄氏 は、広義の文化の研究 ・教育の型 と して図 1のよ うな三つの型 に大別
し、 日本事情教育のあ り方 についてのい くつかの立場を整理 して いる
3)。44 図 1
日本事情 とラテ ンア メ リカ事情
ア)文明学型 :国家、国民を成 り立たせ、脈 々と連続 させているものの 追求
イ)地域研究型 :現代の一般人の行動 ・生活様式、それを支える制度な どの追求
り)異文化適応、異文化理解型 :異文化社会 に入 り、それを理解 し、必 要な場面においては自己の行動 ・コミュニケーションの型を異文化の それにあわせ、 自己を律 し調節す る能力の追求
私 自身はこれ らの類型の内容その ものには賛成す るものの、その用語には 異論がある
。まず、イ)の 「 地域研究型」という用語について言えば、地域研究が現状 に強い関心を持 っていることは確かだが、氏がア)の文明学 に分類 している 内容 も地域研究の重要な研究領域である。地域研究が現状分析にのみ関心を 限定することはない。地域研究 はア)の文明学 とイ)の現状分析の両者にま たがる研究分野である。
次に、ウ)の 「 異文化理解型」について言えば、文明学的な文化理解、現 在の文化 ・社会の理解の どちらを欠いて も異文化理解は不可能である
。文明 理解、現状理解 と異文化理解 とを対置させ ることには疑問がある
。む しろ異 文化理解は、ア)イ)ウ)の全てを総合 した、事情教育の究極の目的だと言 え る
。以上のように用語には異論があるが、氏ゐ提示 した類型化は、内容的には
「日本事情」をめ ぐって生 じる混乱を整理する上で、非常に有用な枠組みを 提示 しているように思われる。特 に、 この三類型が、それぞれ 「 歴史的な大 きな時間の流れ
」「 現代 という一定の限 られた時間
」「 個々人が直面す る具体 的な局面」という三つの異なる時間的枠組みに対応 している点が重要である。
先に述べた 「 事情」という語の持つ用語上の問題 もこの点にある。つまり
「 事情」という語は一般 には、限 られた時間の枠組みの中での具体的な状沢 を指 して使われてお り、初めか ら長谷川氏の言 うイ)の型の内容 と時間的枠 組みで使われ る性格を もった用語なのである。
「日本事情」ではな く 「日本研究」 、「日本学」 、あるいは 「日本文化論」を
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2号 研 究 論 文編
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45教 え るべ きだ とか、 また逆 に 「日本文化論 」 とは異 な る 「日本事情 」 を教 え るべ きだ とい った意見が 出て くるの も、 この よ うな用語上の混乱 に原因が あ
る
。以上 の ことを踏 まえて、事情 をめ ぐる類 型化を、図
2
の よ うに整理 し直す ことがで きるよ うに思 う。図 2
ア)文明学 型 イ)事情説 明型 ウ)異 文化適応型
地
域研 究
型‑ 異
文 化
理 解さて、それで は これ らの全体 を どの よ うな用語で捉え るべ きか。結局 、消 去法 を適用 して い くと 「日本事情」 とい う用語が残 って しま う。 日本文化教 育 とい う用語 で は ここで対象 に しよ うと して い る領域 を カバ ー して い るとは 言 えな い。 ま して 「日本研究」とか 「日本学 」 とい った用語 で は包含す る範 囲が あ ま りに限定 されて しま う。 したが って、本稿 で も 「事情 」 とい う言葉 を使用 す るが、 それ は本節で整理 した よ うな内容の用語 と して使 って い るの で あ り、 また同 じく上述 の よ うな用語上の問題点 のあ ることををふ まえた上 での ことで あ る。
(3) ラテ ンア メ リカ事情教育 の類型
さて 、前節で整理 した事情教育 の三類型 を ラテ ンア メ リカ事情教育 の場合 に当て はめ るとど うな るだ ろ うか。
私 の場合 、 日本の大学 で スペ イ ン語専攻 の学生 にラテ ンア メ リカ事情教育 を行 って い る。 日本事情教育 との対比 で言 えば、海外の教育機関での 日本事 情教育 に相 当す る。
学生 の中 にはラテ ンア メ リカ地域研究 その ものをめ ざす者 もいれば、 スペ イ ン語学 や ラテ ンア メ リカ文学 を専攻す る上 で ラテ ンア メ リカ事情 の理解 を 必要 と して い る者 もい る。 スペ イ ン地域研 究 を専攻す る者で もラテ ンア メ リ
カ事情 の理解が欠かせ な い場 合が あ る。
また 日本語教育の場合 と同様 に、 スペ イ ン語教育 の一環 と して、 スペ イ ン 語が使 われて い る文化 ・社会 につ いての理解 を深 め ること も重要 な課題で あ
る。 さ らに、実 際 に ラテ ンア メ リカに留学 して い く学生 に対 して は、 日本 に
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日本事情 とラテ ンア メ リカ事情
来 る留学生を対象に行われている日本事情教育の場合 と同様 に、異文化適応 の領域を含めたラテ ンアメ リカ事情教育が必要 とな って くる。
他方、スペ イン語を専攻 して も全ての学生が スペイン語圏に留学 した りス ペ イ ン語に関連 した職業 に就 くわけではないの も事実で、 この場合 には 「 教 養 としてのラテ ンアメ リカ事情」 とい うことになろうか。
何れに して も、 日本事情教育 と同 じく前記の事情教育の三類型が ラテ ンア メ リカ事情教育において もあてはまる
。たとえば、私が地域研究 コースで担当 している 「ラテ ンアメ リカ概論」あ るいは 「 ラテ ンアメ リカ現代史
」といった科 目は、上述の類型で言えば、文 字 どお りア)の文明学型およびイ)の事情説明型の 「 事情教育」である。
また内容によって は、 ウ)の異文化適応型の事情教育 に分類 され ることが 含 まれ ることもある
。例えば、宗教の問題などがある。誰かに 「 あなたの宗 教 は何か」 と問われた時 にどう対応す るか とい う問題 は、ラテ ンアメ リカで 暮 らす場合 に も注意を要す る問題である。 この問題がどれほど重要か とい う
ことを理解す るには、 ラテ ンアメ リカの歴史において宗教が果た して きた役 割 を理解す ることが不可欠である
。逆 に、ラテ ンアメリカの歴史や現荏の杜 会を語 る中で宗教について触れ る時 こそ、そ ういった異文化適応型の事情教 育 を行 ういい機会だ とも言え る。
また、私 は現勤務校で スペイ ン語教育に も参加 しているが、 日本語教育 と 同様、語学教育 と事情教育が切 り離せない場面 も多い。た とえば、 日本の場 合 と違 って先生に対 して敬称を用 いない場合 もあるとい った ことや、授業中 の質問は評価 されるが授業後の個人的な質問は必ず しも評価 されないといっ た ことの説明が必要にな る
。もっとも、 これ らの ことはラテ ンアメ リカ特有 の ことというよりも、海外で は日本的な習慣がそのまま通用 しないことに気 づかせ るとい う面が強 く、逆の意味での 日本事情教育なのか もしれない。
いずれに して も、ラテ ンアメ リカ事情教育の実際をふ り返 って考えてみ る と、異なる類型に分類 される目的 と内容その ものが、それぞれ独立 して行わ れているとい うよりは、む しろ連携 ・複合 した形で行われているといえ る。
この ことを もう一度 日本事情教育 に当てはめて考えると、同様の ことが 日
本事情で もいえる。三つの類型の どれか一つだけを行 っただけで は、事情教
育の 目的は達成 されない。ただ、例えば 日本語学校での大学進学予備教育 に
おいて はある一定の部分 に重点を置かなければな らな くな り、大学院生に対
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2号 研究 論 文 編
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47す る補習的 な課程で はまた別の部分 に重点 を置かなければな らないとい うよ うに、状況 によ って一度 にカバ ーで きる領域 は限 られて いるとい うことであ る。
この よ うに考 えれば、 日本での ラテ ンアメ リカ事情教育が地域研究型、文 明学型のアプローチを とることが多 いのに対 して、 日々、 日本の文化 ・社会 の諸現象 と対峠 して いる外国人学習者を対象 とす る、 日本における日本事情 教育が、事情説 明型あ るいは異文化適応型のアプローチを とることにな るの
は当然 な ことで ある
。ただその際に も、歴史的な時間的枠組みか らのアプローチ、すなわ ち文明 学型の アプ ローチを全 く抜 きに して異文化理解 を目指す事情教育 は成 り立 た ないので はないか と私 は考えて いる。次節以下 では特 に この点 について検討 す ることにす る
。2 .語学教育 ・事情教育 と歴史性の問題
( 1) 大演徹也氏の 日本語教育批判
1992年7
月
8日付 けの 『 毎 日新聞』に、 日本近現代史の研究者であ る大潰 徹也氏が筑波大学 日本語 ・日本文化学頼長の肩書 きで 「日本語教育 に歴史 ・ 文化の視点 を」 と題す る一文を寄せて いる
。それは 「日本の経済 力に対す る 期待」によ って 日本語学習熱が高 まる中で行われて いる、現在の 日本語教育
に対す る痛烈な批判文であ る4 ) 。
その主 旨は次の二点 に整理す ることがで きる
。一つは現在の 日本語教育あ るいは日本語教 師養成 において 「日本語を生み育てた列島の文化や生活 を考 察す る視点 」が忘れ られてお り 「自文化 に対す る自覚的認識の欠落」が見 ら れ ること、 もう一つ はその中で も特 に 「日本語が負わ された政治性」が認識 されてお らず、具体的にはかつて 日本語教育が 「 (聖戦)をかか げた軍事力 を背景 とす る異民族の支配 と教化をめざ した ことに無 自覚
」であ るとい うこ
とであ る。
前者 につ いて大済民 は 「 そのため 日本語 を母語 とす る教師の多 くは、 日本 語への疑問 に言語学的な応答 はな しえて も、 日本 と日本人にかかわる多様な 問 いに く日本人) と しての経験則をかたるにす ぎません」と断定 して いる
。「 経験 を語 って い るだ け」 とい う指摘 は、 まさに 日本事情教育の実情 を衝 い
て いるので はなかろ うか。
48
日本 事 情 と ラテ ンア メ リカ事 情
また第二の点 について は、現在の 日本語教育 は 「 経済力に ものをいわせた く善隣友好)の証 として説かれす ぎるのではないで しょうか」と疑問を呈 し、
「日本語を 日本の歴史 と社会の場 に位置付けるための眼を育て ることが問わ れています」と述べている。
その上で氏は、「 言語教育に負わされた政治性 に眼をむけ、 日本語教育が国 家の端女 (は しため)であった日を想起 し、 日本語を生み育てた社会 と文化 を自覚的に問い直さねばなりません」 と日本語教育‑の課題を投げかけてい る
。これはまさしく日本事情教育が真筆に受け止めるべ き課題であ り、また、
これまであまり取 り上げ られて こなか った問題である。
(2)
歴史認識の重要性 :クラーク日本論を例 として
言語教育に負わされた政治性の問題については後述す ることとして、 ここ では大藩氏の言 う 「日本語を生み育てた社会 と文化」を省察す ることの重要 性 について、グ レゴ リー ・クラーク氏の 日本論 に接 し、それを日本語教育の 現場に適用 した経験を もとに考えてみたい。
クラーク氏の 日本論の骨子をごく簡単にまとめれば、西欧社会あるいは中 国の社会は 「 イデオロギー中心の社会」なのに対 して、 日本社会 は 「 人間関 係中心の社会」だということである。そ して ここが特に重要だと思われるが、
日本社会を特徴づける 「 人間関係中心の社会」とは、「 家族的、部族的社会 の価値観
」の社会であ り、元来、人間社会では一般的であ った。それが、西 欧や中国では歴史的に近代民族社会を形成 してい く過程で 「イデオ ロギー中 心の社会
」‑移行 していったのだ と氏は論 じている
5)。日本語の授業などの中で しば しば悩まされて きた問題、たとえば、くどう して 日本人は論理を尊重 しないのか ?〉、くどうして断定をさけた表現が多い のか ?)、(どうして敬語が こんなに複雑なのか ?)、(主格、間接 目的格、直 接 目的格など 「 誰が、誰 に、何を」といった事実関係を明示す る代名詞の体 系 は発達 していないのに、上下関係、 ウチ ・ソ ト、貸 し ・借 りの関係を示す
「 や り ・もらい」のような待遇表現の体系が発達 しているのはなぜか ?)、
これ らの問題を説明す る上で、 クラーク氏の日本社会論 は非常に効果的だ っ
た 。
氏のいう 「 家族的、部族的社会」は、 これまで も 「 ムラ社会
」論 として、
日本社会の排他性や国際性の欠如などを説明す るのに使われて きた。 クラー
ク氏の 日本社会論の優れている点 は、それを文明史あるいは世界史の枠組み
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2号 研究 論 文 編
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49の中で説明 し、 また同時に西欧あるいは中国のほうが元来の姿か ら逸脱ある いは変形 して い った とす る点 にあ る。 このよ うな説明を与え られ ることに よって、たとえば 「 論理的であること」を絶対視す る文化圏か ら来た 日本語 学習者 も、それが最初か ら絶対真理 と して存在 して きたのではないこと、そ して 自分たちの価値観 も歴史の中で育 まれて きた ものであることに気づ き、
日本語や 日本の文化 ・社会を、よ り相対化 した見方で捉える姿勢を身につけ てい くことになる。
このよ うな、文化の持つ 「 歴史性」についての認識を持っ ことは、文化論 や社会論 といった領域のみな らず、言語教育や異文化適応の領域で も非常 に 大 きな意義を持 っている。
くなぜ 「 山田さんに教えて もらいま した
」と言わなければな らないのか ?
「 山田さんが私 に教えま した」でいいではないか ?>といった質問を受けた り、口には しないがそ ういった疑問を抱えていそ うな学習者 に接す ることは 多 い。その とき、 日本の社会が 「 人間関係中心の社会」であることを学習者 が納得 していれば、 日本語 において授受関係 にまっわる表現が発達 している
ことも理解で き、 日本語学習の効果 も違 って くるだろう
。異文化適応の領域で も同様である。 日本社会 に薄気味悪 さを感 じた り、納 得で きないことが多 くて悩んでいた り、 日本社会のあ り方に否定的な結論を 出 して しまった りしている学習者 は少な くない。彼 らの異文化適応を助ける ために、ただ単 に日本文化を 自文化 と比較 してみるだけでな く、それぞれの 文化 ・社会の生成の過程を歴史的に捉える視点を提供す ることは、重要な意 味を も
つ 。前述のよ うに、大濠氏 は、言語教育の抱える政治性 というものを指摘す る 際に日本の近代化の過程を念頭 に論 じている
。そ ういった現代 と直接 に関わ る政治性の問題 も含めて、言語や文化が抱えているより広い意味での歴史性 というものを常 に意識 してお くことが、言語教育や事情教育において必要で ある。
3. スペイ ン帝教育 ・ラテンアメ リカ事情教育 と歴史性
(1) ラテ ンアメ リカ事情教育 と歴史性
異文化理解において歴史的な視点を持つ ことがいかに重要であるか とい う
ことは、 ラテ ンアメ リカ事情教育の場合を考える時、より鮮明になる
。それ
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日本 事 情 と ラテ ンア メ リカ事 情
は、 日本で行われるラテ ンアメリカ事情教育が一般に地域研究的なアプロー チを とることに もよるが、ラテ ンアメ リカの文化 ・社会 その ものが、過去 500 年間の歴史を現在 もさまざまな形で引きず っていることが大 きな要因で あ る。
「コロンブスによる新大陸発見500周年」をめ ぐってさまざまな議論がなさ れたことは記憶に新 し
い。コロンブスの偉業を讃える立場に対 して、先住民、
黒人奴隷、その子孫達‑の抑圧の出発点であ ったとして これを批判的に捉え る立場か らの反論が さまざまな形で出された。 このように
、15世紀末か ら現 在 までのラテ ンアメ リカの歴史については、現在 も評価が分れているのであ る
。この ことに触れずに 「 ラテ ンアメ リカ事情」を論 じることは不可能であ る。
たとえば、 「 ラテ ンアメ リカに住んでいる人達 はどんな人達 なんですか」
と学習者に尋ね られたと しよ う
。「ラテ ンアメ リカの人々は陽気で、 もの ご とに無頓着だ」といった、よ くあ りがちな見方 は、異文化理解の妨げになる。
ラテ ンアメ リカの社会 ・文化は、先住民、アフ リカか ら奴隷 として連れて こ られた人々の子孫、 ヨーロッパやアジアか らの移民の子孫など、さまざまな 人間集団が さまざまな形で組み合 さって構成 されている。それを説明す るの に、その形成の歴史を語 らないわけにはいかない。
現在の社会 ・文化を理解す る際に、歴史的な背景の理解が直接 に要求 され るというような ことはラテ ンアメ リカ事情に限 らない。アメ リカ事情であれ、
フランス事情であれ同様である。 しか し、 日本の場合には、いろいろな面で 同質性が高い人間集団が人口の大多数を占め、また、少数派の人間集団につ いてはあまり意識 されることがなか ったために、社会や文化の母休をなす民 族集団形成の歴史的過程を抜 きに して、 これを論 じることが当た り前のよう になっている
(2)
スペイ ン語教育の歴史性
さて、言語教育の抱えている歴史性の問題 は、スペイ ン語教育については どうだろうか。 日本におけるスペイ ン語教育の抱える歴史性の問題を考える 前 に、まず 日本における外国語教育の中心をなす英語教育の抱える歴史性の 問題について考えてみよ う。
日本の英語教育を観察 していて感 じられることは、欧米中心主義的な世界
観があまりに無反省に受 け入れ られて しまっているので はないか とい うこと
長 崎 大 学 外 国 人 留 学 生 指 導 セ ン タ ー年 報 第
2号 研 究 論 文 編
1994年
51であ る。 NHKの英言 吾教育番組の中の スキ ッ トなどに して も、 アメ リカあ る いはイギ リスのある特定の人種階層、すなわち白人中産 階級の登場す る場面 に偏 りす ぎてはいないか
。2050年 まで には米国社会の中で、白人 に分類 され る人 々の数が人 口の半分以下 にな ることが推計 されてい ることに象徴 され る よ うに、現在の米国社会 は、非 白人の移民 とその子孫達が社会の重要な構成 要素 とな っている。 そのよ うな米国社会の状況を、 日本 における英語教育 は どれだけ認識 しているのだ ろ うか。現在の 日本の英語教育で は、一部の英語 圏社会の、 これ また特定の階層の価値観のみが肯定 され、学習者 に示 されて
いるとはいえないだろ うか。
この点、 日本 におけるスペ イ ン語教育 には英語教育の場合 に比べて幾分か、
その よ うな欧米中心的な世界観 に対抗す る、欧米世界以外 との連帯の意識が 強 いよ うである
。これは、 スペ イ ン語圏の諸国のかつての宗主国 スペイ ンが、
現代の世界 にお いて は英国や米国 に比べて影響力が小 さ く、 スペ イ ン語使用 者数 も圧倒的にラテ ンアメ リカの ほうが多 いとい うことによ る。
ラテ ンアメ リカ研究者の大久保光夫氏 は、その訳書 E. ガ レア‑ノ著 『 収 奪 された大地 ‑ラテ ン ・ア メ リカ
500年』のあ とが さで次の よ うに述べて い る
6)。 「 わた しは、何年来 、折 にふれて は学生 たちに対 して、現代 において は
160を越え る世界の独立国の うち
130カ国余 りが属す る第三世界を学ばない ことには世界は見えないだ ろ うし、 したが って世界を語 る資格 に欠 けること になるので はないか。第三世界のなかで もっとも代表的な言語のひとつが ス ペ イ ン語であろ う
。まず は この言語を学んで第三世界理解の足掛か りに し、
つ いで世界の トータルな理解 を こころかけよ うで はないか. そ して、歴史的 に は弱者 の立場 に立つ第三世界 の立場 か ら世界をみ る と、 いままで見え な か った多 くの ことがみえ るよ うになるので はないか と、妙な言 い方でスペ イ
ン言 吾学習のすすめを行 って きた..
. 」スペ イ ン語教育 に もやや もすれば、欧米中心主義的な世界観が入 り込みが ちであ る
。しか し、 スペ イ ン語世界には、西欧 と非西欧が 日常的に葛藤 して い るラテ ンアメ リカ とい う世界が含まれ る。 このため、英語 といえば米国か 英国、せ いぜいオース トラ リアかニ ュー ジーラ ン ドしか思 い浮かばないよ う
な メンタ リテ ィーが、受 け入れ られが ちに思え る英語教育の世界 とは違 って、
よ り広 い視野を もった世界観、価値観 を持つ ことが可能 にな る。 また、西欧
による非西欧の征服の歴史の中で スペ イ ン語の使用が広が り、現在の社会が
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日本事情 とラテ ンア メ リカ事情
作 り出されて きたという、スペイ ン語教育あるいはラテ ンアメリカ事情教育 の抱える歴史性に対す る自覚 も強 くなるのである。
以上のように、言語教育や事情教育が、対象言語や対象文化が背負 ってい る歴史か ら無縁でい られないことは、 日本語以外の言語教育、 日本以外の地 域 についての事情教育をみれば容易に理解 され ることである。 しか しなが ら、
日本語教育あるいは日本事情教育においてはしば しばそのような視点が欠落 していないだろうか。そのような視点を欠いた言語教育や事情教育で は、対 象言語を話す人々や対象文化、対象社会に対す る共感は生み出されない。歴 史性の認識の伴わない言語教育や事情教育の最大の問題 は、 この点にある。
4 .共感を生み出す事情教育をめざ して 具休的なエ ピソー ドを紹介 しよう。
それは、留学生を対象 とした 「日本の生活 と文化」の授業を終えて、ラテ ンアメリカか ら来ていた留学生の何人かと雑談を していた時の ことだ った。
私 は彼 らとちょっとした口論にな って しまった。発端は、誰かがラテ ンアメ リカにおける米国の横暴 について論 じていたことにあった。私が 「 何 もか も 米国のせいに しないで、 自らの手で現状変革を 目指す ことを考えるべ きだ」
と言 ったために議論 にな ったのである
。その中で、「 米国の力はあまりに も 大 きす ぎる
。日本だ って今 日の経済的繁栄があ るのは米国のおかげ じゃない か。みんな米国の援助で可能になったのだ。米国の科学 ・技術を教えて もらっ たか ら今、金持ちになったん じゃないか。」そ ういった発言が続いた。
その時、私がむきにな ったのは 「 ああ、 この学生達は日本人に共感を もっ ていないな、む しろ敵意 さえ抱いているようだな
」そんな気が したか らだ っ た。
歴史的にみれば、 もちろん、戦後の 日本の経済的繁栄 は、米国の政策 と戦
後世界の政治 ・経済的状況が直接の原因であった。 しか し、戦前 までの日本
の工業化、近代化がなか ったな らば戦後の 日本の経済発展 は不可能であった
ことも確かである。そ して明治期以来の日本の近代化は、さらにそれ以前の
江戸時代の生産力の拡大 と国内市場の形成を基盤に進め られた。 さらに江戸
時代の 日本の経済発展は、地球規模で西欧世界の拡大が進む中で、 さまざま
な要因によって 日本がその荒波か ら身を守 ることができたことでは じめて可
能 になったのである。
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2号 研 究 論 文 編
1994年
53このよ うな歴史解釈 には異論 もあろ う
。重要なの は、戦後 日本の経済発展 とい うテーマを とってみて も、それが、 この よ うに
500年近 くにわた るさま ざまな人間の歴史の積み重ねの結果だ とい うことであ る。ただ単 に、 「 米国 の援助があ ったか ら日本 は経済的に発展す ることがで きたのだ」 とい う理解 は、や はり浅薄 に過 ぎる
。日本人 はこれ まで、国内で は公害を撒 き散 らし、海外で環境を破壊 し、買 春 に出かけ、第
3世界の低賃金の労働者を搾取 して きた。それは確かだ。 し か し、それだけだ った ら日本 はただの醜悪な人間の集 ま りに終 って しまう
。人 間的な弱 さを抱 えなが らも頑張 って きた 日本の 「 お父 さん 」 「 お母 さん」
達の ことを もう少 し共感を持 って見て もらえるわけにはいかないのだろ うか。
ここでい う 「 共感」 とい う言葉 は、 「 それを認 め る」 とい う意味で使 って いるのではな
い 。人間の憎むべ き行為 は否定 されなければな らない し、責任 も問われなければな らない。 ただそれ はそれ と して、 「 や っぱ り、あなたが た も弱 いところ もあれば、悪 いこともす る同 じ人間なんですね」 とい う気持 ち、それ も大切ではな
いか と思 うのである
。「 あんたがたが金持 ちなのは、
アメ リカに助 けて もらったか らだろうが」 と一言で片付 け られて しまって は 身 も蓋 もない。そ うで はな くて、「日本人 も苦労 した ことは認める」 とか 「自 分がやれ と言われればや らないけれ ど、あ くせ く働 いている日本人がわか ら ないわけで もない」といった、 共感の気持 ちをせめて持 って欲 しい。そ うい っ た見方がで きるよ うな授業を 日本事情教育 も目指すべ きではないだろ うか。
もっとも、 日本事情理解 に歴史的な視点が欠 けが ちなのは、外国人の学習 者 に限 っての ことで はない。 「 現在の 日本の経済的繁栄が可能 とな った理 由 は何だ った と思 うか」 と日本人学生 に尋ねてみ ると、多 くの学生か ら、 「 そ れ は日本人が勤勉だ ったか らだ」 とい う答えが返 って くる。外国人の学習者 は日本の経済成長 は米国のおかげだ と考え、 日本人 は日本人が勤勉だ ったか ら、などとぬけぬけ と言 うよ うな状態では、十分な異文化理解の成立を期待 す るの は無理であ る
。共感な ど生 まれ るはずがない。
もし、現在高 まっている日本語学習熱や 日本への留学熱が、歴史認識を伴 わず、ただ単 に狭 い意味での 日本の現在の経済的繁栄 にのみ支え られている
とすれば、そ こに生み出 されているブームは極 めて底の浅い ものであろ う。
日本のバ ブル経済が は じけたの と同 じく、そのよ うなブーム もやがてはは じ
けて しまうに違 いない。
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日本事情 とラテ ンア メ リカ事 情
人類社会が地球規模で連関 し合 う現代にあって、 日本人が異文化を深 く理 解す ることに異を唱える人はいないだろう
。もしそ うな らば、他文化の人々 による日本理解 も同様に深め られなければな らないはずである。そのために は、より深い歴史認識に基づいた日本語学習の意欲を育み、それに応え られ るような日本語教育、そ して人間‑の共感に基づいた日本理解‑の意欲を青
くみ、それに応えることのできるような日本事情教育が求め られている。
しか し、異文化理解の意欲が一方通行で終 るようであ っては共感は生まれ ない。 日本における外国語教育、外国事情教育 もまた、そのような異文化理 解への意欲を育み、それに応え得 るものでければな らない。言い替えれば、
歴史的背景の異なる者同志が互いに共感を もって相手の言語や文化に取 り組 むような異文化理解の枠組が何よりも必要 とされている。
( 注)
1
)長谷川恒雄他 『 外国人留学生のための 「日本事情」教育のあ り方 につい ての基礎的調査 ・研究一大学 ・短大 ・高専‑のア ンケー ト調査 とその報告
‑ 』 (1992
年度文部省科学研究補助金研究成果中間報告書)「日本事情」研 究会発行
、1993年
2
)志柿光浩 「 留学生を対象 とした日本文化教育の理念 と組織化に関す る‑
試論
」長崎大学外国人留学生指導セ ンター 『 長崎大学留学生教育の理念 と 組織化について :平成 2 ・3年度教育研究特別経費 ( 特別分)研究報告』
1992
年
、pp.44‑643 )長谷川恒雄 「 (日本事情)の科 目名 と内容 一担当教員の専門分野 との関 係
‑」前掲、長谷川他、p.434
)大湊徹也 「日本語教育に歴史 ・文化の視点を
」『 毎 日新聞
』1992年
7月
8日朝刊
、p.55
)グレゴ リー ・クラー ク「 (日本人論)を論ず一人間関係の社会 と思想 (イ デオ ロギー)中心の社会
‑ 」グレゴ リー ・クラーク、竹村健一 ( 聞 き手)
『 ユニークな日本人』講談社現代新書
、1979年
、pp.174‑1906