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經 營 に 於 け る 關 係 論 的 思 惟 の 問 題 ( 二 ・ 完 )

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(1)

經營に於ける關係論的思惟の問題︵二・完︶

渡 瀬 浩

︵ 日   次

一︑序   言

二︑特殊社会学的研究に於ける社会概念の検討

A 経済の本質と社会関係

月 詣社会科学共通の基礎知識としての関係のⅢ念

C 行動の社会的構造

D 大陸的関係

E 経済社会と社会経済

F 経営学と社会学の関係の問題

三︑経営に於ける組織論的恩葛の批判

‑^  '

‑  '' 十の 仕  圭的 術語

月  合日高と旧別・J‑演C 問制の形式社会学的解釈(以上前号掲載)

) 

川鍋

諭と

社会

学(

以下

本号

掲載

)

E 緑営自主体の理論

四︑緑営に於ける総人間関係の分析

A 二種の集団‑組織

月 経営団体と人間集団

C 締営空間の問題

揺営に於ける関係論的思惟の間置

一四 五

(2)

経 営 と 経 済

一 四

六 一︑経営に於ける組織論的思考の批判

行干の社︽午的術誌

総合れ︐れと伺別終的

問問の形式抗合︑常的仰れ(以上前号拍故)

( D )

・れに机山し穴川間(終日に於ける人間関係︑組織︑集団の問題はいかなる角度から︑どの上うに把えるとき

災町的に災り多九日収的があげられるか︑そしてこっの学問問の正しい交渉が樹立されのであろうかという問題)に対

する我々 ω

問山は既に述べたととろにより一応明らかにされていると思うが︑乙

L には市原季一助教授の論考を手が

かりとして一丸に内本的に民間し皮いと思う口市原助教授の﹁経営学と組織論的思考﹂は乙の問題解明のためにすぐれ

た内芥に・充ちているおのし人肌うからである︒助教授に上れば経営学的考察の一つの特質が組織論的思考会認

m g ‑ s

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g

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﹀にあり︑しかも組織論的忠考とは何であるかというととは経営学の領域に於いては必やしも明示 g

されていたいとし︑社会学的川心者から反則されたな味に・おける組織論的忠考の上に立クて主として

Z2

弘巳

2w

の立場

を継承しつえ論述を進められるゆ︒先づいかなる立味で社会学と組織論が区別されるかと一式へば︑認識方法の角度が

一一は主観目的設定︑他は牡会的︑客観的日的設定が中心に告かれ﹁近代社会学がその成立発展の基礎を集団よりも個

人が優越するととろの近代社会の成立と発民の巾に有していた﹂ために社会学に於いては個人の主観的目的が中心に なり︑対象がか

tA

る目的設定から理解される工うになクたのに反し︑近代的大経営に沿いてはテ

γドリ1

の云へる如

く中心はもはや企業者の個人的伝活動ではなく︑組織であり︑空間的に︑時間的に個人の力を超越するととるの組織 であるから︑かふる﹁組織の時代﹂即ち﹁人間から雌れて組織自体があり︑組織が自らの足の上に立クて告り︑組織

と机ぬ

k

が対立し︑他人はまさに組織化されてしまクている時代の中に組織論が社会学から独自の方法と対朱を獲得

する川悦があるのである曹という︒﹂(二四

l

二 六

頁 )

で我えの汚へを少し尚一ベて訟く必要がある︒たるほど現代は組織の時代である︒しかしとの常識的表現は︑学問

t λ

(3)

的 に 分 析 さ れ る 必 要 が あ る こ と は 云 う ま で も な い 口 組 織 に 於 け る 人 間 前 助 の 地 位 の 問 題 に ク い て は 後 に 触 れ る 口 企 栄

活動が佃人の気まぐれ守門立件 g

J 4 E B )

の結果でなくなった場合に︑ワイスヲ

14

の一氏う如く経営は

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ロ と

な る︒総じて経営体の生命は個人の生命な飢えることは確かであるが︑吉

ωE EE

ロ作に机叫が例人から限れて存続し︑

一 前 川 在 的 け ︑ 牧 山 口 村 が 川 小 中 は る 仰 り も り ( 出 向 ロ 日 日 目 立 ) 判 押 し ( 円 ロ ヴ

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に化してし土う乙し

L

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川 山

リ モ シ ズ い い う ﹁ 川 人 の 川 入 以 お っ て も ︑ 市 刊 誌 ( の

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は形態の変化にもか

L

はらず永続するロだから古 EZZ3

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古 川 内 定

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におけるものとは別に例へば開・叶・

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は﹁人間のために︑人間によってつくられたもの﹂ということに

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だから形成された機構

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的政近がより妥当であるという

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岡 山

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日 可 ∞ ︒ 一

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E

市原助教授の所論は更に続く︑だから経済に関する社会守的考察と組減論的考察が枯一ぴ存し符るので︑前者は主観 的 目 的 設 定 左 中 心 と し て 開 放 的 な 国 民 経 済 に ク い て 社 会 学 的 湾 察 を す る と い う 乙 と に た り

︑ 後 者 は 容 観 的 目 的 設 定 左 中心として封鎖的な個別経済について組織論的考祭をするという乙とに怠る(二入瓦)だから従来の経営の社会学的考 察といわれているものは大休に於いてその組織論的考祭に外たらぬ︒たとへばシエ

Yブル

1

クの﹁経営の社会学的一 般 概 念

﹂ と か

﹁ 社 会 学 的 場 察 の 対 象 と し て の 経 営

﹂ と い う の は

︑ む し ろ

﹁ 経 営 の 組 織 論 的 一 般 概 念

﹂ と か

﹁ 組 織 論 的

阜市長郊の対象としての経営﹂というものになるのである︒(一一六頁︺

更に同教授は経色が以上の如き芯味で組織論的考察の対役であるに反して︑企業は

5

言 自

各 自

g している個人と関係づけて︑即

ち主観的考察の結果であるから社会学的考察に妥当するというな味のことを述べられるハ一一一一

l

コ 一

一 一

頁 て

企 業

︹ ロ

ロ 言

自 各

55 3

だからそれが(それのみが)社会学的考察の対象になるのであらうか口

川 町

れ に

が ︑

け る

悶 係

論 的

思 慌

の 問

一 四

(4)

経 営 と 経 済

一四

要するに助教授の机木の出皮は﹁組織論的考察は対象の封鎖性と結びクき︑社会学的考察は対象の開放性と結びク くものであるというととが川米る﹂(二九五)として︑しかも経営は経済性を持クた封鎖的社会現象であるが故に﹁組

織論的性格・及川ムかに一不すのである﹂(三一一一瓦)という乙とになる口市して経営学はその成立の基礎を企業自体の変

貌の巾に求め次ければなら歩︑企主ボ引の活劫左中心として考察する私経済学(それは前述の如く主観的目的設定を中 心として汚点するが此に社会中的汚祭の組上にも上りうる)から組織論的考察を加味した経営学に発展しなければな

られ︒(一二一一日)従って押収併やの杭会学的考察といわれていたものは︑その実︑経営学内部に於ける組織論的考察に

なる正いう

ω

でおろ︒従クて﹁社会午的考祭はそれとは別個の課題をもクて存在している﹂(二六)頁というとき︑

それはもはや

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にクいて沢山れているので院なく︑経済学(社会経済学)にクいて一式われているのであろう口だ

か九乙そその上う

K

ぷ 味

で ﹁

村 山

wW

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と経済与とが併存する﹂(三三頁)のである︒

恐らく集問について氏がえわれている

ω であろうところの﹁封飢的﹂(向︒

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ωg)

というとと︑之が氏の所論を 批判するとさの小心となるのであるが︑その上うな付似的社会形匁即ち集間在︑氏はいかなる文脈に於いて捉えてい るのであろうか︒即ち﹁社会学から

K

別された江・味に於ける机椛九州﹂(三一一引)とは何を指すのであるうか︒勿論独

立科学としての一般組減論

( E g m o )

ということも考へられるであろう︒(たとへば経営理論に於ける生物学的アナ ロジーに屡々用いられる生物有税休刊諸税能の均衡

lF OB gω

g巴

ω!

という乙とも︑︒へンロlrによればそれは﹁組

般の一般的原理﹂であり︑それが具体的には生物学や︑力学や︑社会机机に見出されるのであるという││向・吋・

M M

g

ω

P5

・ ∞日∞)そして更にその一般組織論と経常組尚治の関係を問うととは正しいととであるが(市原・社会

5wMM

集団三七頁)の我々は更に組織の問題をすぐれてその課題とする社会学との関係如何についても考えて見なければた

ι

肉︒いわゆる﹁封鎖性﹂にクいても︑乙

から一つの指針が生れると思われるのである︒

t λ

然川主社会学的文脈に於いて規定する仕事は既に我々のたして来たととろである︒即ち﹁何らかの共通立敢によ?

て白川人的仰念立主仰的に灼いて結合している人々の集り﹂を集団という口而してか

L

る集団が組織を持ク場合を︑

作たざるり介の然組織集団に対して有組織集団又は団体

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︿

R σ ω

ロ 円 四 十

R 同

3 2

岳民計)という

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(5)

ち集団は一休をたすとの成員の共通定論

ω 上に立ち︑

団体となる︒的

現 代

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経 符

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一 千

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︑ 勿

九 州

石 川

仙 人

山 ω 淀川即ち間休が問題となる︒取あくまでもそれが必間在︑知概念とする

ことな忘ろぺだで口九人かんう?二

t

川作について見るとき﹁組織と団結は相去来する﹂的之は山間刊士のわ︒

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ω

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J・2

川川

ω 似品でわろ

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乙 ω

川 人

川 ω 川州一川に代つるに集問を以てし﹁集団の組織としてのみ組織はありうる﹂仰という

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八 川

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山 で

ふ る

H

川心うに川公的ぷ宍に於いて日川初︑九ハ休的定義に於いては集団と見るべきであろう口今の場合︑ ︑

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北 九

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山 川

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ハ一術川としてボ﹃川に於いてい主として﹁同特﹂を用う川︑わ︒ぽに於ける

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を批判して

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汁伎に討に川ねな芯めるという何万である︒たがら間休は与︒

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門円である︒との工うに﹁組織は常に組織せられた集団の内部にのみ存立す

る﹂(日田︑位以同考一六五)し︑しかも﹁立制的協似 ω 机川的様式﹂(一両国︑社会と国家二ニ九頁)としての組織は或ひは

骨粗とし︑或引いは装置として考えることが川米る口だからそれは血肉であり︑叉電流であるところの団結とは具なる 別個のものである︒﹁持続的なる関係﹂としての机以内い︑このように決匠と考へるととが出来るが︑組紋の中に倒

J

人間意志はあたかもその装置を流れる電流の如さもので︑一応同

J

守口明らかに区別さるべきものである︒以上述べ?

ととが﹁組織は団結と相表芸する﹂という命問の内容である︒

かくて経営の社会学的意味ということは団休としての性格たねク花九日を考へる乙とを立味する︒

AA

析的に云へば︑

﹁団結と組織が経営に於いていかに把握さるべきや﹂の間別である︒こ

tA

に於いて問題となるのは組織は団結と別個 のものであるというととの認識である︒しかも﹁組織除常に一定の目的乃至必要の為にある

L (

集団考二ハ頁)而して

との目的は︑今の場合一応経営目的として考へ

τ

よいであらう口しかして近代的大詑営に於いてはこの目的の遂行が 伺人に工クて荷れるのではなく︑多数人の協力を必要とし︑そ乙に前述の如き協働的様式としての組織が生れる口か ふる組織は勿論︑例へば宗教的︑政治的危どの目的にも奉仕しうるものであるが故に結局複数人の存在というととを 前机にはするが︑紙織一般として考へることが出来る︒之は﹁社会組織﹂

( g a 巳

2m g‑ NE

E

ロ﹀というものに当る

われらという共同目的のためにする協仰の仕組を持つに至クて

終日に於ける関係論的思惟の問題

一 四

(6)

経 営 と 経 治

一五

O

が(社会と国家一一一一入五)乙の場合の社会というのは一組の

T l

t

ロジーになる︒喰︑組欣という用認が元来自然科学

︑ ︐

J

の用語法から米てゐるものであるから︑乙の係な去現も必要なのである伊市原助教授のいう﹁社会学から区別され

た怠味の机

MA

﹂川百一般組織論というのはか

L

るもの左指すのであらう︒だから経営の社会学的考祭と一般に考へ

られてゐるも ω は ︑ 乙 ω

一般机尚論の上に組立てられた経営の組織論的渇察であり︑従クて﹁経営は常に一定の組織

1J

 

をとむして九日公れる﹂ということになるのである︒

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﹁ 川

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主仰的目的

l

開放他

l

社会学的﹂﹁個別経済日経営!集団の客観的目的

l 封鎖性 i

組織論的﹂と

い う

W Z B ω

に . 一 小

v

じれる市以助放校の的想は結局︑国民経済枯造の多元位︑個別経済桔造の一元住に帰するもので

おり︑作に役将

ω

一 一 一 ん

似 ω 円山一立加川川人的な組織の客観性に求日めている︒と乙ろがそのような組織の問題は同助教授

の.バわれろ如く社公やと然日 ω ものであろうか

n

経済椛造左右の如く二元的に把握する仕方と通説の如く経済一般

ω

川必

ω 下

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江 川

b m ω

花山町仙川一な各々多元的︑一元的にとらえんとする方法 l

例へば向井利昌﹁経済体制論の

一品別﹂!と

ω U

4

かいにクいて以前述したところであクて︑乙えに触れぬとしても︒

日仏川公が今日に於いて机純化される必然川左作ち︑かくて机以

ωV

仰的性格が問われるという乙とは経済情造に於け

る多数人の存在︑即山口所刑法悦集団の山現 ω 結川別であるの勿九州乙の上うな必凶︑組似を経営目的に奉仕する限りに於

ける集団︑そしてその甘組として考る限り︑それは経営学円休

ω 川別であり︑かふる変貌の過程に沿いて経営学の

門容を考へ︑そして近代的経営の特色を論やる乙とは正しいことである円

m m し経営の発達史が私経済的なものから組

織をもクた集団的なものに発展して来た乙とを認めると同時に︑又その工うみ集団の故に必然的に随伴する経営目的 を阻碍するが如き要国がその内部に股成されつ

L あったという引も忘れてはならない︒一氏うまでもなく之は価値判断

の問題ではなく事実の合む意味の理解である︒よく一式われる如く︑労働者は単に企業経営に於ける労働給付のための

的同問的来(コス

fl

経営学がその中の一部であると乙ろの経済学に於いて労働力が商品川切されて︑一応の理論体系

が活かれたこと︑そこでは労働者は完全にパッシブな要素にすぎない)ではなく︑まさに人格的な︑会人的な存在で

あるといっ乙と口︑将件処同化の股史に於いて特に顕著になると忠われる︒そしてとの逆説的事実に照らして浮び上

(7)

ったのが産業社会学乃至経営社会学というものであった︒経営学プロパ

1

の限界という乙と

L

は別に︑現実の経営に 見られる所謂﹁人間疎外﹂︑そして労倒朽の人間としての把握は社会学プロパ1の仕事に扱読している口経営の組織 論的考察

τ

どいうととはわかる︒そしてそ

ω ぷ花な川助教授の如く承認する乙とは大い伝る功紡にはちがいないとして

も︑その工ろなゾオ1マル

kh ω

に対して︑イ

γ

ブオ1マルたものを閉め出すととによって﹁社会学的たものから区 間百れ

k m

川 九

州 内

九 八

も ω ﹂が勾へ川され穴止すれ灯︑径九日に混在するこっの要肉を共に認めながら︑そのグイナミヅ

ヶK

中︑山に川町つぷおと止になるという点で︑代

h

八の同立し符ざるととろである口市原助教授の所見はその限りでは

杭しいが︑小川八けではないというのである︒

刊に別代に川町けろ所前問中川机会学︑向山口山科会川ハヤの倒的で叫はれているととろの以上の如き問題は現実の経営の中に

は社会学的なものが匂賊されているというと土を示す何工りの証左であって︑経営が組織論的なものであるというと

L

は別にーそのととは王しいとしても!それが机会学と純一殺のものであり︑その工う注意味で経済学と対立並存す るのではないというととを明らかに示すものでたければたらない︒だから少くも﹁経営学と社会学とを結びつけ﹂

﹁その関係究明の手がかりを得る﹂似ためには更に立入った点戸川察が要求されるのである口唯に﹁経営の社会学的一般

概念﹂党﹁経管の制時論的一椴概令﹂

V 2

4 改め十一丈でほ済交されぬものがあり︑経管の組織論的考察と﹁同時に﹂何

その社会学的芳察もあわ符るし︑叉句注げればたらねのである︒そしてその課題に応うべく内容的に問題を反問すると

'とがあ碍たのである口之は淀みて云へば経管の机総論的汚{設が﹁必然的に﹂社会学的文脈に触れるというととであ る︒そして斯く考へるととに工って花会学的危国民経済との関係も叉考え符られるととに散る例勿論国民経済が社 会学的であるというととも単に偶人の主観的設定といち点からのみ一式われるととでは危く所出封鎖的集団を内に包蔵 する同民経済︑そして多元的安換はか

L るもの曹としての令業経営の対外的活動の場としても見ると左が重要であると

とは申すまでも訟いととである︒

︿

E

) 社会は結合であるという︒との結合については色えの基準に工りいくつかの介類が考へられる︒その中の一

紅白に於ける関係論的思惟の問題

(8)

経 営 と 経 済

一冗

ク︒結合せる人々が一休として作用するか否か︑一一一一日い換へれば統一の存否によってわけると統一的結合と分立的結

合︑一元的結んけと多元的結合︑要するに社会除税介的たものと︑微守的なものに八刀れる口町民昨日目印自の類似による連

帯と令主に上る述帯︑即ち

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口 弘 一

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8

ロ 含 ユ 広

2m gz zo

も と の 点 か ら 注 目 さ れ る 川

︑ 向

︑ と の 令

J

問川は集問の特色と共に繊維的結合

H

述結を認識する前提とたる川︑更に前述の如く集団の可能態としての社会問が汚へ

られ︑之れらが全体社会をつくるのである︒そして社会学の研究領域はとのすべてにわたる︒その場合︑考察のため

の焦点が社会結合に・おかるえ乙とは一氏う主でもない︒ととろが︑叉関係一般についても右の積介的たものと微介的な

ものがありうるととは当然であ九う︒何故怠れば関係一般に於いて結合的という乙とは種主として見るととが可能で あるから口而して我々の立りから云へば問係一般についての内存的規定はその一程としての結合関係を取扱う社会学 の況はに工るととろ大きいのである︒(巧可児﹀それが経済の色に染めあげられたとき果して︑個別経済と社会経済 の概怠に於ける問係治的規定は之を抗して余りあるというべきか︒それは正に多元的関係︑一元的関係︑その上うな 行効辿閃に即してとらえられ死花的行劫であり︑経済そのものの態様に外注らぬ︒経済学と経営学を区別するもの︑

しかも共通のレヴェルはか

L る mM の上に存在している︒

以上社会学は経済学にも経営学にも関係しうるというととを一不すのであって︑との点について市原助教授の所論 を︑その些た建設的側面の評価にもか

tA

わらや︑批判したわけである︒だから経営の組総論的思考と︑経営の社会学的

研究は︑右の如くして相互に述絡し︑並存するものなのである

n

一方が経営企休に於ける一つの領域︑即ち組織の研

究であるに反して︑他方は経営に於ける社会学的研究乃主任件休に対する社会学的接近とでも称すべき内存を持クロ

従って詳細は後述するととろに譲るがその対象領域の空間的拡がりは双方必ら宇しも一致するとは限らない︒仰︑

乙の問題の検討を更に続けよう口人間関係的研究︑人的要素の荒川というととは現代に於けるあらゆる領域につい

て一五われているととで︑いどば﹁現在の思想﹂である口限会とか工場とか会社についてこのよう伝思想が唱えられる

止さ︑尚北社会的とか経営社会的というもの

L 構想が画かれるのであるが︑社会科学の問題として之を八刀析検討して

内布的に肉付けを試みるとき︑一応の﹁思想﹂とか﹁柏想﹂とか云われる派手な宣伝や壮大注意図は厳しい限界にク

(9)

き当るととがあるのである口との乙とは勿論︑具体的な解明の後に言はるべきととで︑今︑我々はむしろか

L

る新ら

しい企図の画いた波紋を既存の社会科学︑乙

tA

で云へば経営学に即してとり上げて見る乙とが大切であると思う口乙

の刺戟は経営学に対して実践他を一四ボずるししいうとと乃至現実への扱近(喜市円︒比百丘一︒ロ)に閲して問問的

e g Z 0

B

丘一の﹀である左見る円との乙止は見からいへ同日何学内休の自律性︑自律的休系という立山に於いて斯学への反省 在促す%のでおおお

n

十一ムへ日人川川係的ププロチーが一式われるからとて︑経営を経済市仇乃至技術市悦から社会半

( g a m ]

ロ ロ

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し い

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一 山

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ね と

い う

ω は誤りであろう伊吉沙門

B

とという乙とは宮門自己なものに対

して式われていろのであるは︑だからいう主でもなく日刊刊行川そのもの L

概念規定を経営学自体の立場から行うととによク

て ︑ 乙 ω 一つの﹁白川川﹂に対処したければたらないの乙のととは勿論︑長一初から経営学に課せられていた仕事である

が︑現今の如き所前対域性乃至人間的一要求という川凶が脚光を浴びてくるとき︑特に緊喫の問題とたる口殊に︑今︑

問題とたっている経営学に於ける組織論的思考左いうととも︑それが湿営学内部に於いて正しくオりエ

γ

f

されるの

でなければ学問体系の整備充実は望まれぬであろう︒例へば﹁経営はクねに一定の組減をとおしていと注まれる﹂と いう乙とはわかるが﹁経営は人と人との結合休として机尚一般の特殊形態である﹂という規定は︑たとひその組織に

﹁経営才能﹂という血肉をクけ加へでも︑それは机問問へんを彩るあやであって︑十万し経営即組織という考へ方がある

とすれば組織という一面に固執したものといわねばならね︒之は勿論﹁経営﹂について一式われているととでは友く

﹁経営組織﹂の説明であるが伊あくまでも組織の研究は任九日午の一例域に過ぎれ事を知るべきであろう︒元もこの領

域内に於いては一応﹁組織を組織として見る﹂ととは犬明なととで︑もと自然科学的用語である組織概念につき︑程

々の擬制的な観方がクきまとクているととを警戒した︑ければならねととは一式うまでもたい

0 2

官昆

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巳 古 口 と

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自 由

N P

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B E R g

とのこ元的把握︑叉は仲町 ω

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一 の

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ω 山

︒ 円 拘

ω E N o p m o J g E g m

E ロなどの表現に長けるが如き対象の所

与性︑客観性のみにとらわれるととも正しく左い仰しかしこの問題は之まで組織と之を支へる団結との表裏の関係 を考へて来た我々にとっては既に解決済のととともいへるのである︒唯︑組織に於ける主観性を尊重する池内教授の 見解は前記市原助教授の所論と較べて重視しなければたらない口しかし経営組織の乙とを考へるときは組織一般が

続自に於ける関係論的思惟の問題

(10)

経 営 と 経 済

一 主

﹁生命力にねざす人間のつくる組織﹂﹁目的怠識的﹂﹁生命力にねざして形成される主体的存布﹂﹁

BR EE

‑ω B

生 命 力 と の 矛 盾 的 統 一

﹂ で あ る か ら と 云 ク て 済 ま さ れ ね も の が あ る の で は な い か 伊 何 故 な れ ば 径 合 組 織 と い う 乙 と は フォーマルな組椴であって︑人間がその企き奏で抱えられていない︒その主うた組織を支へているものは労働者(と し て の 人 間 )

︑ 換 言 せ ば 人 間 の ( 経 営 内 ) 従 業 員 と し て の 商 で あ る に す ぎ な い

︒ そ れ は

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(笹山口問乙である向︑それが中なる(一プシヨナル友)一一回であるが故に怠惰︑欠勤︑作業能率の低下二般的非協力︑

不 平 苦 情

︑ 反 抗 的 乃 玄 敵 対 的 態 度 な ど に 工 ク て 絶 え 十 つ き ま と わ れ る と い う と と に な る の で あ る 仰 イ 一 フ シ ヨ ナ ル な 人 間

︑ そ の 工 う な 摂 氏 の 川 に 於 い て 人 え を 吸 牧 し て い る 別 個 の 団 結 が あ っ て

︑ そ れ は イ

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フォーマル危組織を形成す る 可 能 を も つ も の と し て 仔 和 し て い る

︒ 前 者 は 経 営 内 に 於 け る 一 般 関 係 の 姿

︑ 経 営 組 織 論 の 対 象 で あ る

︒ 経 営 組 織 に 於ける従小川口はその限りに於いて経営目的に対して全面的に従属する︒逆にいへば︑その従属したものを包含して経 将組織

l

げは併の脱怠在定めることは経営学本来の仕事であり︑特に全人格としての従業員及びその関係

l

団 結 か ら 来 る的市川水に抗して﹁伐何日主休﹂の仙想の生るふ根拠がある︒だから経営自主体

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対して﹁経営体﹂号以て終治と技術の交沙するりとして民ろ︿用ひられている切

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与を示すものとされる(池内信行﹁経営学

総論﹂究四 l 宜主頁)我々のいラ経営自宅の杭恕は今まで比べた上うたむしろ非経営(目的)的モメシトの性格を論述し︑それ

を定位するための理論構成の必要にもとづく口

従って内容的には経営の生活持続体としての性格守強調する山城牧犯の所見と同じであるロ他面それは経営学の認識対象を純粋

化する努力から案出されたもので︑対象の純粋性と社会科学の問符悦とが相伴うものであるととはいうまでもない︒しかし社会

現句仁川するとの上うた問方は社会的料成体の実在論的見解に傾く︒山杭救援の﹁経営自主体﹂は資本に上る外的支即の排除︑従っ

て内的円作刊の脈寸一︑而して特に部分機能の同質性︑更に間態的には目的論的発展ではなく︑機械論的進化にその特色を見出す

という以において有的体品にもとづくと見られる︒(﹁経営政策﹂昭和二三年︑一九頁以下)か

L

る自律性を認めることは人間の経

(11)

営内労働者としての側面においてのみ可能なことであり︑その一一口山味で人間の他のイラシヨナルな側面も排除したものと考へなけ ればならないDだからかLる﹁紅白自主体﹂は椛自の具体的な姿ではなく︑一方経自学における対象の純粋性の暖求に副うもの

であると共に︑他方インフォーマルなものぞ︑王山とする内業社会学的研究を進めるための前提として必羽な概怠である︒我々は

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川の米川氏木市花の別川の反映という凶が強いと凡られる(小限敬土﹁アメリカ経済思訟の潮流﹂昭和二六年︑二

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頁参照)

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ロと仇のそれとの区別︑従って経済学と社会学との区別につき困難ありと見るも

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にその川山山は向井助教授の指摘される点であらう(向井利回日︑経済体制前三七

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一 一

入江)叉高岡山士の批評については後述する口

それは人間要求をはじめ白として︑その他のイ

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レスTからの支配を原理的には受けない自主的た﹁生活持続休﹂

である︒勿論経営は単なる組織ではなく﹁自主的な生爪の組織的活動体﹂であり︑﹁物的たものと人間活動との統一

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続的凸に於ける人間的要素の宣視は﹁偏狭にして近制限的なる﹂杭幻自体の利⁝討を排他的に主践する立場に対する反動であり︑且

つその点に於いて

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羅的な︑記述的な非科学に陥るおそれのあることは注意されねばならぬ

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更にこのような方法の伝換が経営目的と個人の感情の何れによって支持される組織が永続性を保証されるかという問に答へるこ

とまで社会学者の任務とすべきであるとはいへぬ替であるロ(以内

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﹁産業関係の研究にはいかなる理論的構図がもっとも適切であるか﹂に関するダロンツプ︑ホワイト論争に対する尾高博士の結

論はこの場合にも妥当するであらう(尾一品︑人間関係一五五頁以下)之はいはば経済学と社会学の対立交渉とも一五うべきである

終営に於ける凶係論的思悦の問題

五 五

(12)

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﹁生産施設﹂であると同時 に﹁社会﹂である︒しかもとの両常は理論的に一式へば﹁同時に﹂問客観的に存在するシステムであクて︑少くも科学 ( 経 営 学 と 社 会 学 ) の 研 究 対 象 と し て は 同 有 の 領 域 で あ る か ら 現 在 の 如 く 産 業 社 会 学 の 研 究 が 唱 へ ら れ る 時 に 於 い

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︒ 乙 の 点 か ら

︑ 即 ち 前 述 の 理 論 的 成 の 必 要 か ら

﹁ 経 営 自 主 体

﹂ に 対 す る理論の杭築が辺境されるわけである︒

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休﹂という概念は︑竹山近の陀主社会学の勃興に即して考へるとき︑人間関係的別式去を内含したものとして広義

のもの︑従って現市山︿の絞九日という芯味(現実的経営観)に使われている均人口が多い︒そうだとすれば今述べた経営学

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社 会 学 の 問 題 は 乙 の 概 念 に 上 っ て 包 括 さ れ る も の

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経営自主体の概念は先きに我々がとり上げた狭誌のもの(山城教授)とは全く呉なり︑羽尖の経色の具体

性という辛突の上に考へられたものである

D

だから﹁紅白における人川川係(インフォーマルなもの)﹂をも合むものであって

も︑後者に対抗して自律する川ものではない口かくて先づ第一に経営の具体性に迫って︑実在論的に社会形設をしてそれを考へる

点で社会有機体説であり︑第三に個々の成員を各々その全体の姿において拙えて印さぬという点で社会有機体説以後の新らしい

川叫んパ概念(心珂学派)を拒否している口だからこのような親方に立って川誌社会学を桔想する限り︑それは社会有機体説の手法

伶川しねないと瓜われる︒詳しくは次の機会に詰る口

m m 一ハの花川町九日休に於ける社会学的なものというのは飽くまで社会学的﹁側面﹂であクて﹁工場というものL究極の宍

(13)

態﹂例を指すのでは友い︒狭義の経営休に於ける経営組織の中の人間をも合ませるとき或いはかふる表現もありうる かもしれない何人間関係的アプローチはおく主でも︒ロゆえ

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を符たいと思う︒

特に経蛍学の取扱う組織(フォーマルな組織)が社人パ午の以扱う組織(インフォーマルな組織)の発生の機緑となることが多い

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主休他﹂は﹁あくまで生産を機能としながら︑その組織活効に於いて人間の主体性を見出そうとする﹂もので︑﹁人

間の社会生括的立場即ちイ一ブシヨナルを経営に於いて主休たらしめる立味ではたい﹂だから経営は﹁社会的単位﹂﹁生

活的組紙﹂ではなく︑いうところの主体性はクまり﹁生産機能に於ける主体性である﹂といわれるのは池内教授の経 営自主休論

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一貫した論理ではあるが︑人間の主休性が仕事の生活の中にその真の姿を見出すといわれるシェイクス ピア的な人間観により考へられているのであっても︑それはゲ

1

テ的人間観よりの批判に耐え得るであろうか︒但し

経蛍に於ける関係論的思惜の問題

一五

(14)

経 営 と 経 済

一五

之以上の人間観論議は経験科学の使命ではないから論歩を乙

λ

に限る乙とにする︒

それは﹁人間﹂の主体性ではなく︑﹁労務者﹂の主体性ではなからうか︒(尾一品︑人間関係一

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頁)

( 註 )

︑市原季一﹁経自学と組織論的思考﹂(川氏総出雑誌八六巻一号昭和二七年七月号所収)二

O

一具︑何同助教授の﹁紅白の

5

社会集団的性格﹂(同民的治雑誌︑入四巻三号︑昭和二六年九月号所牧)も極めて一示教あふるL論文である︒特に本文

のこの部分前後に於ける独己抗日学文以の郎介はこの論文に依るところが多い︑以下各々市原・組織論・市原・社会集

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︑高田︑社会と国家一三入頁

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︑高田︑集団考二ハ頁

日︑回体的結合という意味︒団結ということは又結合と同じな味に用ひられている場合もある︒(高田︑社会と同家︑一入

・頁)我々はむしろ﹁結束﹂といういはば積分的領域に用うるを︑過当と思うD

四︑池内信行﹁経蛍組織の問題﹂(商学研究︑第二号︑昭和二七年六月号所牧)一一具

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ところが純白は﹁与えられた目的を実現するための︑即ち技術的に種々なる経済財を有利に結合するための労働の組織

である﹂(町田︑﹁松治学原理﹂昭和一一一一年︑二九瓦)であるとすれば︑かLる経蛍組織の問題は正しく峰山品学プロバ

(15)

ーの領践に入る筈であるo

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究に於いてのみ翠入され展開される点ので︑開業に対して社会学的研究が行はれ︑それが社会学理論の全体に対して何

らかの寄与をなしたとすれば︑それは丙業の研究

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織の問題がその賞理性そ喪失したのではないことを注荒すべきである︒非合理的組織の問題が宣理祝されるのはそれ白

経営に於ける関係論的思惟の問題

一五

(16)

経 蛍

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一六

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身のためではなく︑合理的組織の問題との関連に於いてである﹂佐々木吉郎﹁米川稲川学と人川閃係﹂

年二月号所収)一一一頁︑しかもこのことは﹁立場﹂の問題ではなく﹁存在﹂の問問で丸るロn︑池内信行﹁終営組織の問題﹂五及一一一頁

幻︑馬場敬治﹁組織の基本的性質﹂昭和一六年︑一八九頁以下参照

弘︑池内︑前掲論文一l

一五

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初︑尾市︑人間関係一九五瓦

幻︑山城な・前払論文一四二一Am︑山川弘前文︑一冗冗瓦

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沼︑尾高︑人間関係四九頁

弘︑経営学に於ける経営概念についても﹁場所﹂に霊点をおいたす一り

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NVと共に﹁人間﹂に宣点をおく立場もあ る ロ ( z r E U O M H )

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四︑経営に於ける総人間関係の分析

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上米抗えは枇刊的前提に相当の祇数を費して来たが︑此処に於いて経営に於ける人間関係の烏倣を試み︑経

九日の社会学的研究という領域が奈辺にあるやの問題を検ベて見る段階に来た︒

参照

関連したドキュメント

本来的に質の異なる諸利益をどうやって衡量するか……」との疑念を示し (25)

︵13︶ れとも道徳の強制的維持にあるのか︑をめぐる論争の形をとってきた︒その背景には︑問題とされる犯罪カテゴリi

問題例 問題 1 この行為は不正行為である。 問題 2 この行為を見つかったら、マスコミに告発すべき。 問題 3 この行為は不正行為である。 問題

うことが出来ると思う。それは解釈問題は,文の前後の文脈から判浙して何んとか解決出 来るが,

社会,国家の秩序もそれに較べれば二錠的な問題となって来る。その破綻は

社会,国家の秩序もそれに較べれば二錠的な問題となって来る。その破綻は

類圓形 不整形

このように資本主義経済における競争の作用を二つに分けたうえで, 『資本