フ ッ サ ー ル 第 五 ﹃ デ カ ル ト 的 省 察 ﹄ に お け る 原 初 性 概 念
ナ ミ ン
・ リ ー
第五
﹃デ カ ル ト的 省 察﹄⑴ に お ける フ ッ サー ル の 関 心は
︑感 情 移 入の 可 能 性の 条 件 を 明ら か に しよ う と する 相 互 主 観 性の 超越 論的 現象 学に ある
︒相 互主 観性 の現 象学 に着 手す るこ の省 察の 第四 四節 で︑ フッ サー ルは
﹁独 特の 種類 の 主 題的 エポ ケー
﹂︵
Hua I, 124
︶を
︑超 越論 的還 元に よっ てす でに 開示 され た普 遍的 超越 論的 領界 の内 部で 遂行 する こ と の必 要性 につ いて 語っ てい る︒ 第一 の還 元と して の超 越論 的還 元と は対 照的 に︑ かれ はこ の特 殊な 種類 の主 題的 エ ポ ケ ー を第 二 の 還元 と 呼 ぶ︒ こ の第 二 の 還元 は
﹁異 他 的主 観 性 に 関係 す る 志向 性 の すべ て の 構 成的 能 作 を 度 外 視 す る
﹂︵
Hua I, 124
︶こ とと
﹁エ ゴが その 固有 性に おい て構 成さ れ︑ それ から 不可 分の
︑し たが って
︑そ の固 有性 に数 え 入 れる べき 綜合 的統 一を 構成 する
﹇⁝
⁝﹈ 志向 性の 全連 関﹂
︵
Hua I, 124
︶ を境 界画 定す るこ とと にあ る︒ フッ サー ル は
︑こ の志 向性 連関 の全 体を 原初 的領 分と 呼ぶ
︒原 初的 還元 は︑ 抽象 の方 法と して
︑ま さに
︑わ たし にの み︑ 省察 す る エゴ にの み妥 当す る原 初的 領分 への 通路 を獲 得す る手 段な ので ある
︒ フッ サー ルに よれ ば︑ 原初 的領 分は
︑感 情移 入に と って の 基 礎あ る い は動 機 づ け の根 拠 で あり
︑そ れ 自 体 とし て
︑ 第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ にお いて
︑そ れな しに は相 互主 観性 の超 越論 的現 象学 を展 開す るこ とが 可能 では ない 基礎 的 概 念と して 導入 され る︒ こう いう わけ で︑ かれ は原 初的 領分 の限 定と 分節 化を
︑相 互主 観性 の超 越論 的現 象学 の展 開
― 167 ―
の ため に﹁ 超越 論的 に非 常に 重要 な先 行段 階﹂
︵
Hua I, 138
︶ と呼 ぶ︒ 相互 主観 性の 超越 論的 現象 学に とっ ての 原初 的 領 分の 重要 性を
︑原 初的 領分 が︑ 第四 四節 にお ける その 最初 の導 入か ら︑ 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄の 終わ りま でた え ず 繰り 返し 現れ てお り︑ 相互 主観 性の 現象 学的 分析 全体 を導 いて いる とい う事 実に 認め るこ とが でき る︒ 原初 性概 念は
︑第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ にお いて そう した 中心 的役 割を 演じ てい るに もか かわ らず
︑多 くの 解釈 と 批 判的 評価 を被 って きて おり
︑そ れに つい ての 多く の異 なる 見解 が存 在す る︒ 原初 性概 念に 対し て非 常に 批判 的で あ る 解釈 者た ちの 間で は︑ ある 者は
︑そ うし た原 初的 領分 は︑ 現象 学的 に考 察す るこ とが でき ない ので
︑考 える こと が 不 可能 であ ると いう 極端 な見 解を 唱え る⑵
︒ これ に反 して
︑何 人か の解 釈 者 は︑ 原 初性 概 念 は︑ 相互 主 観 性の 超 越 論 的 現 象 学の 展 開 にと っ て 不 可欠 で あ る適 法 的 な概 念 で あ ると い う 見解 を 唱 える
︒残 念 な が ら︑ こう し た 解 釈 者 た ち は
︑原 初性 概念 が第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ で導 入さ れる 脈絡 に関 して 同意 して いな い︒ 何人 かの 解釈 者た ちは
︑原 初 性 概念 は相 互主 観性 の発 生的 現象 学の 基本 概念 とし て導 入さ れる とい う見 解 を 唱 える
が⑶
︑そ れ に対 し て 何人 か の 他 の 解釈 者た ちは
︑原 初性 概念 は相 互主 観性 の論 理的 解明 にと って 不可 欠の 基本 概念 であ ると いう 見解 を唱 える
⑷
︒ わた しの 見解 では
︑い ろい ろな 見解 は︑ 原初 性概 念が 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に おい て導 入さ れ︑ 彫琢 され た仕 方 の 帰結 であ った
︒フ ッサ ール は︑ 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に おい て原 初性 概念 をま るで 現象 学的 に思 考す るす べて の 者 にと って 自己 明証 的で ある 概念 であ るか のよ うに 扱う けれ ども
︑以 下で 詳細 に議 論す るこ とに なる よう に︑ 原初 性 概 念は
︑多 くの 点で 二義 的で あり 解明 を必 要と する 非常 に不 明確 な概 念で ある
︒以 下で わた しは 第五
﹃デ カル ト的 省 察
﹄に おけ る原 初性 概念 の中 にあ るい くつ かの 二義 性を 考慮 に入 れる こと にな る︒ 以下 で議 論さ れる こと の中 で︑ 相 互 主観 性の 静態 的 現 象学 と 発 生的 現 象 学⑸
の 間 の緊 張 の 領 野の な か で顕 わ に なる 二 義 性 が前 景 に 現れ る こ と にな る
︒ 第 一節 では
︑第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ のい くつ かの 箇所 を分 析す るこ とで
︑わ たし は第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ にお け
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 168 ―
る 原初 性概 念が 実際 に多 くの 点で 二義 的で ある とい うこ とを 示す こと を試 みた い︒ 第二 節と 第三 節で は︑ わた しは 静 態 的現 象学 的原 初性 概念 と発 生的 現象 学的 原初 性概 念と をそ れぞ れ論 じる こと にし たい
︒そ の後
︑第 四節 では
︑わ た し は第 一節 から 第三 節に おい て議 論さ れた 二義 性の 間の 関係 性を 扱う こと にし たい
︒第 五節 では
︑わ たし は上 で言 及 さ れた 原初 性概 念に つい ての いろ いろ な見 解の 簡潔 な評 価と 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に おけ る相 互主 観性 の現 象学 の 基 本性 格に つい ての 短い 評言 を行 うこ とに した い︒ 第一
節 第五
﹃ デ カル ト 的 省察
﹄ に おけ る 原 初性 概 念 の二 義 性 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に おけ る原 初性 概念 の基 本性 格を 理解 する ため には
︑原 初性 概念 がフ ッサ ール にと って 相 互 主観 性の 問題 につ いて の非 常に 長い 反省 の後 で生 じる とい う事 実に 注意 を払 うべ きで ある
︒イ ゾ・ ケル ンが われ わ れ に正 確に 情報 を与 える とお り﹁ 原初 性概 念は
︑根 本概 念と して 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に 見出 され るよ うに
︑一 九 二 五年 頃に よう やく 現れ る﹂
︵
Hua X IV, 390
︶︒ しか しな がら
︑一 九二 五年 以前 に書 かれ た著 作に すで にそ の先 行 形 態 を 見 出 すこ と が でき る
︒こ の 脈 絡で
︑フ ッ サ ール は 一 九二 一 年 か らあ る 草 稿で 以 下 のよ う に 書 い て い る
︒﹁ し か し
︑ す で に ま た 客 観 性 に 向 け ら れ た 態 度 が あ る よ う に
︑わ れ わ れ は そ の 態 度 か ら い つ で も 抽 象 す る こ と が で き る
﹇⁝
⁝﹈
︒こ うし た﹃ 抽象
﹄に よっ て︑ われ われ は︑ わた しが
﹃独 我論 的世 界﹄ とも
﹃独 我論 的﹄ 世界 考察 とも 呼ん だ も のを 獲得 する
﹂︵
Hua X IV, 109
︶︒ こ の箇 所で
︑フ ッサ ール は︑ かれ がこ の草 稿を 書い たよ りも 前に
︑抽 象を 通 し て 獲 得さ れる 世界 観を
﹁独 我論 的﹂ 世界 観と 呼ん でい たと いう こと をわ れわ れに 告げ る︒ この こと は︑ かれ が一 九二 一 年 以前 に書 かれ た著 作の 中で 独我 論的 世界 観の 問題 を扱 って いた とい うこ とを 含意 する
︒事 実︑ 一九 一〇 年代 に独 我
― 169 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
論 的世 界観 問題 を扱 うフ ッサ ール の試 みを 見出 すこ とが でき る︒ 例え ば︑ フッ サー ル全 集一 三巻 の一 五番 テク スト と し て公 刊さ れた 一九 一八 年の 草 稿﹁ 感情 移 入 論に つ い て﹂ では
︑か れ は
﹁独 我 論的 世 界 観﹂ と﹁ 相互 主 観 的 世界 観
﹂ と を対 照さ せ︑ 前者 を﹁ 抽象
︵独 我論 的抽 象︶
︑ すな わ ち︑ 自 然に 基 づ くす べ て の 心的 存 在 者︑ 感情 移 入 を通 し て 与 え ら れ るす べ て の個 体 的 存 在の 遮 断﹂ に よっ て 獲 得 す る こ と が で き る 何 か と み な す
︵
Hua X III, 410
︶︒ そ の 脈 絡 は
︑ 一 九二 一年 の草 稿か ら上 で引 用し た箇 所で の抽 象と 同じ もの であ る︑ この 箇所 での 独我 論的 抽象 は︑ 第五
﹃デ カル ト 的 省察
﹄に おけ る原 初的 還元 に類 似す る機 能を もつ とい うこ とを 顕わ にす る︒ つま り︑ だか らこ そ独 我論 的抽 象は こ の 還元 の先 行形 態と みな すこ とが でき る︒ 独我 論的 抽象 は︑ フッ サー ルが
﹃イ デー ンⅡ
﹄に 取り 組ん でい る時 期と 同 じ ぐら い初 期に は︑ 原初 的還 元の 先行 形態 とし て の独 我 論 的抽 象 と みな す こ と がで き る︒
﹁ 理念 的 に 語れ ば
︑あ ら ゆ る 人格 は︑ すべ ての 合意 関係 やそ れに 基づ く統 覚を
﹃捨 象す る﹄ ある いは むし ろ分 離し て考 える こと がで きる かぎ り で
︑そ のコ ミュ ニケ ーシ ョン 的周 囲世 界の 内部 にそ のエ ゴ中 心的 周囲 世界 をも つ﹂
︵
Hua IV, 193
︶︒ 第 五﹃ デカ ル ト 的省 察
﹄に お ける 原 初 性 概念 は
︑長 期 間に わ た っ て続 い た 諸々 の 反 省の 結 果 と し て 生 じ た け れ ど も
︑多 くの 点で 二義 的で ある
︒第 一に
︑上 で言 及し たよ うに
︑原 初的 領分 は︑ 異他 的主 観に 関係 づけ られ る志 向性 の す べて の構 成的 能作 を捨 象す るこ とに よっ ての み開 示す るこ とが でき る︒ すな わち
︑原 初的 領分 は︑ 感情 移入 なし の 領 分で あり
︑そ して こう いう わけ で︑ フッ サー ルは 原初 的領 分を
﹁固 有性 領分
﹂と 呼ぶ ので ある
︒し かし なが ら︑ こ の 立場 に対 して
︑か れは また
﹁異 他的 なも のに つい ての あら ゆる 意識
︑異 他的 なも のの あら ゆる 現出 の仕 方は
︑共 に 第 一次 領分 に﹂
︵
Hua I, 131
︶ すな わち 原初 的領 分に 属し てい ると も主 張す る︒ この 言明 でも って
︑か れは 原初 的領 分 が 同時 に感 情移 入の 経験 を包 含も 排除 もす ると 主張 する こと によ って 矛盾 に陥 って いる
⑹
︒ 第二 に︑ 原初 的領 分は
︑わ たし にの み︑ 省察 する エゴ にの み妥 当す るわ たし の固 有性 領分 とし て︑ 定義 上わ! た! し! の!
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 170 ―
原 初的 領分 であ る︒ この 事実 に反 して
︑フ ッサ ール はま た﹁ その なか にわ! れ! わ! れ! が! す! で! に! 世! 界!
︑ 原! 初! 的! 世! 界! を! 見! 出! す! 原 初的 領分
﹂︵
Hua I, 169
︐強 調引 用者
︶に つい ても 語る
︒こ の場 合︑ 原初 的領 分が もっ ぱら 省察 する 自我 とし ての わ た しに のみ 妥当 する はず の存 在領 分で はな く︑ むし ろわ たし が他 の主 観と 共有 する 領分 を意 味し てい るこ とは 明ら か で ある
︒も し原 初性 領分 をわ たし の固 有性 領分 とし て定 義す るな らば
︑い かに して わ! れ! わ! れ! の! 原 初的 領分 につ いて 有 意 味に 語る こと がで きる のだ ろう か︒ いか にし てわ たし の原 初性 をわ! れ! わ! れ! の! 原初 性に 拡張 する こと を方 法論 的に 正 当 化す るこ とが でき るの だろ うか
︒ 第三 に︑ 原初 的領 分は
︑第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ の第 四四 節で の説 明に よれ ば︑ すで に開 示さ れた 普遍 的超 越論 的 存 在理 解の 内部 で遂 行す るこ とが でき る原 初的 還元 を通 して 開示 され るの で︑ 根源 的に 超! 越! 論! 的! な! 原 初的 領分 を意 味 す る︒ この 事実 は︑
﹁ その 超! 越! 論! 的! 固有 性領 分に おけ る⁝
⁝わ たし のエ ゴ﹂
︵
Hua I, 125,
強調 引用 者︶ とい う言 い回 し に もま た表 現さ れて いる
︒し かし なが ら︑ 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄の 終わ り近 く︑ 第六 一節 では
︑フ ッサ ール はこ う 主 張し てい る︒ 原初 的領 分は 超越 論的 態度 にお いて のみ なら ず自 然的 態度 にお いて もま た思 考可 能で ある
︑と
︒フ ッ サ ール によ れば
﹁超 越論 的現 象学 にと って と同 じ く︵ 実証 的 学 問と し て︶ そ れに 並 行 す る志 向 的 心理 学 に と って も
︑ わ れ わ れの 叙 述 を通 し て︑ 基 礎 的構 造 が 予描 さ れ てい る
︒︹ そ の 基礎 構 造 とは
︺並 行 的 な 形 相 的
−
心 理 学 的 研 究 の︑ 心 一般 の具 体的 に固 有本 質的 なも のを 志向 的に 解示 する 研究 と︑ その 中で 構成 され る異 他的 なも のの 志向 性を 解示 す る 研究 とへ の分 離で ある
﹂︵
Hua I, 171
︶︒ こう した 脈絡 で︑ 少な くと も二 つの 問い をた てる こと がで きる
︒す なわ ち︑ 自 然的 態度 にお ける 原初 性を 真の 意味 での 原初 性と 呼ぶ こと はで きる のか
︒い かに して 超越 論的 態度 にお ける 原初 性 と 自然 的態 度に おけ る原 初性 とは 整合 する のか
︒ 第四 に︑ すで に言 及し たよ うに
︑フ ッサ ール は︑ 原初 的領 分を 感情 移入 にと って の基 礎と 定義 して いる
︒し かし な
― 171 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
が ら︑ この 定義 は︑ 形式 的か つ空 虚な 定義 にす ぎな い︒ なぜ なら
︑ど のよ うな 意味 で原 初的 領分 がそ うし た役 割を 演 じ る こ とが で き るの か が 定 義さ れ て いな い か らで あ る
︒感 情 移入 に と って の 基 礎に は
︑二 つ の 異な る 意 味 が あ り う る
︑す なわ ち︑ 感情 移入 にと って の主 観的 妥当 性の 基礎 と感 情移 入の 発生 的基 礎と であ る︒ 超越 論的 現象 学の パー ス ペ クテ ィヴ から 感情 移入 を探 究す ると き︑ 感情 移入 の主 観的 妥当 性の 基礎 を明 らか にす るこ とが 相互 主観 性の 静態 的 現 象学 の課 題で あり
︑感 情移 入の 発生 の基 礎を 明ら かに する こと が相 互主 観 性 の 発生 的 現 象学 の 課 題で あ る⑺
︒感 情 移 入の 主観 的妥 当性 の基 礎に つい ての 静態 的現 象学 的問 いは 以下 のよ うに 定式 化す るこ とが でき る︒ すな わち
︑そ れ に 基づ いて 感情 移入 の主 観的 妥当 性を 正当 化す るこ とが でき る主 観的 妥当 性と は何 か︒ こう した 脈絡 での 主観 的妥 当 性 は︑ 事実 が人 格に とっ て妥 当す るあ るい は真 であ るよ うに 思え ると いう 人格 の信 念を 意味 する
︒主 観的 妥当 性の 例 は
︑感 情移 入の はた らき に含 まれ る信 念で あり
︑す なわ ち︑ 存在 者が 人格 によ って 事物 とし ての みな らず 人格 とし て 経 験さ れる とい う信 念で ある
︒正 当化 する ため には
︑人 格は
︑い くつ かの 他の 信念 に︑ 例え ば︑ わた しの 身体 と人 格 に よっ て経 験さ れる 存在 者の 間に 類似 性が 存在 する とい う信 念や 存在 者が 人格 によ って 人間 の身 体と して 経験 され る と いう 信念 に訴 えな けれ ばな らな い︒ 感情 移入 の主 観的 妥 当性 の 基 礎に つ い ての 静 態 的 現象 学 的 問い と は 対 照的 に
︑ 感 情移 入の 発生 の基 礎に つい ての 発生 的現 象学 的問 いは 以下 のよ うに 定式 化す るこ とが でき る︒ それ に基 づい て感 情 移 入の 作用 が人 格に つい ての 意識 領野 に生 み出 され る主 観的 作用 とは 何か
︒こ の事 例で は︑ 感情 移入 の作 用の 発生 的 基 礎と して の主 観的 作用 は︑ それ 自体 で信 念を 含む こと があ り︑ 実際 含ん でい るが
︑必 ずし も含 まね ばな らな いわ け で はな い︒ 信念 を含 む作 用だ けで はな く︑ どん な種 類の 信念 も含 まな い作 用も また
︑例 えば
︑超 越論 的発 生の 最低 次 の レヴ ェル での 本能 的志 向性 は︑ 感情 移入 の作 用の 発生 的基 礎と して 役立 つこ とが でき る︒ 主観 的妥 当性 と発 生は 超 越 論的 現象 学の 二つ の異 なる 基本 カテ ゴリ ーで ある ので
︑感 情移 入に とっ ての 基礎 とし ての 原初 性概 念に は二 つの 異
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 172 ―
な る意 味が なけ れば なら ない
︒
﹃ デカ ルト 的省 察﹄ の公 刊後 すぐ に︑ フッ サー ルは 第 五﹃ デ カル ト 的 省察
﹄に お け る 原初 性 概 念は 完 全 かつ 最 終 的 な もの では なく むし ろ非 常に 不明 確な もの であ ると いう 事実 に気 づい た︒ だか らこ そ﹃ デカ ルト 的省 察﹄ の公 刊後 か れ の生 涯の 終わ りま で︑ フッ サー ルは 原初 性の 問題 に集 中的 に専 心し
︑フ ッサ ール 全集 第一 五巻 が示 すよ うに
︑こ の 論 点に つい ての 多く の草 稿を 残し た︒ この 時期 の原 初性 概念 を解 明し よう とす るか れの 努力 は︑ 部分 的に は成 功し た と みな すこ とが でき る︒
﹃ デカ ルト 的省 察﹄ に取 り組 ん で いた 時 期 とは 異 な り︑ 一 九三
〇 年 代に は
︑か れ は原 初 性 概 念 のな かに ある 以下 の二 つの 二義 性を 十分 に意 識し てい た⑻
︒ 第一 の二 義性 は
︑感 情 移 入が 原 初 的領 分 に 属す か ど う か と い う問 い に 関係 す る 二 義性 で あ る︒ こう し た 脈絡 で
︑一 九 三 四年 の 草 稿の な か で︑ かれ は﹁ 原 初 性 の も つ 二 義 性
﹂︵
Hua XV, 635
︶に つ いて は っ きり と 語 っ てい る
︒第 二 の二 義 性 は︑ 超 越論 的 態 度と 自 然 的態 度 の 間 の 緊 張 の 領 野 の な かに 認 め るこ と が で きる 二 義 性で あ る︒ 一 九三 三 年 の 草稿 の な かで
︑か れ は この 二 義 性 を集 中 的 に 論 じ て お り
︑﹁ 自 然的 態度 と超 越論 的態 度に おけ る原 初性 への 還元
﹂︵
Hua XV, 530
︶ につ いて 語っ てい る︒ 第二
節 静態 的 現 象学 的 原 初性 概 念 フッ
サー ルは
︑わ れわ れに 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に おい て相 互主 観性 の静 態的 現象 学的 問題 を扱 って いる とは っ き りと 語っ てい る⑼
︒ 実際
︑第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ の第 四四 節
−
第四 七節 で展 開 さ れ た超 越 論 的現 象 学 は相 互 主 観 性 の静 態的 現象 学で ある︒事 実︑ これ らの 節は
︑感 情移 入に 含ま れる 主観 的妥 当性 の諸 層の 体系 を明 らか にす るこ と を ね ら って い る
︒そ れ ゆ え
︑こ れ ら の 節 に﹁ 意 味 と 妥 当﹂
︵
Hua I, 123, 132
︶﹁ 妥 当 統 一
﹂︵
Hua I, 96
︶﹁ 一 連 の 明 証
﹂
― 173 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
︵
Hua I, 100
︶﹁ 存 在妥 当﹂
︵
Hua I, 106, 107
︶ のよ うな 表現 を見 出す こと がで きる のは 偶然 では ない
︒そ れら すべ ては
︑ 相 互 主 観性 の 静 態的 現 象 学 の課 題 が 感情 移 入 に含 ま れ る 主観 的 妥 当性 の 諸 層の 体 系 の 解明 に あ るこ と を 示唆 し て い る
︒し たが って
︑そ こで 展開 され る原 初性 概念 は︑ 静態 的現 象学 的原 初性 概念 であ る︒ 感情 移入 にと って の基 礎と し て 形式 的に 定義 され る原 初性 概念 はそ れに よっ て明 確な 意味 を受 け取 る︒ 相互 主観 性の 静態 的現 象学 にお ける 原初 的 領 分は
︑正 確に は︑ あら ゆる 省察 する エゴ が感 情移 入の 妥当 性を 解明 する ため に遡 らね ばな らな い感 情移 入の 主観 的 妥 当性 の基 礎を 意味 する
︒そ れ自 体と して
﹁原 明証
︑原 原本 的︵
uroriginal
︶自 己所 与性
﹂︵
Hua XV, 572
︶ の領 分こ そ が 感情 移入 の妥 当性 を可 能に する ので ある
︒ 静態 的現 象学 的原 初性 概念 を正 確に 捉え るた めに は﹃ デカ ルト 的省 察﹄ の脈 絡全 体を 吟味 し︑ 第五
﹃デ カル ト的 省 察
﹄に おい てこ の概 念を 彫琢 する こと を必 要に する もの を探 究す べき であ る︒ 第一 省察 では
︑超 越論 的還 元は
︑省 察 す るエ ゴが
︑超 越論 的主 観性 を︑ それ なし では 自然 的存 在の 領界 とし ての 世界 が思 考可 能で はな い基 づけ る存 在領 界 と して 発見 する こと を可 能に する
︒し かし なが ら︑ 第一 省察 での 超越 論的 主観 性の 発見 には
︑必 当然 的明 証の 原理 に よ って 導か れて おり
︑必 当然 的明 証と いう 様態 にお いて 省察 する エゴ が経 験す るこ とが でき る超 越論 的主 観性 のご く わ ずか な核 だけ が﹁ つま り︑ われ 思う とい う 命 題 の文 法 的 意味 を 表 現す る 生 け る自 己 現 在﹂
︵
Hua I, 62
︶ だけ が 反 省 す るエ ゴに よっ て捉 えら れる にす ぎな いと いう 限界 があ る︒ こう した 露呈 の過 程は
︑省 察す るエ ゴが
︑そ のノ エシ ス
−
ノエ マ構 造に 従う 意識 流︑ 意識 の原 本的 形式 とし ての 綜合
︑綜 合の 基本 的形 式と して の同 一化
︑超 越論 的時 間性 の 普 遍 的 綜合
︑志 向 的 生の 現 勢 態 と潜 勢 態︑ そ して も ち ろん 他 者 と 関係 す る 志向 性 の 類型 と し て の感 情 移 入 の よ う な
﹁超 越論 的自 己経 験の 途方 もな い領 界﹂
︵
Hua I, 68
︶ を照 明す るこ とを 可能 にす る︒ 第四 省察 にま で続 く超 越論 的経 験の 領界 の露 呈が 進行 する 間﹁ 超越 論的 経験 とそ れに 基づ く超 越論 的認 識一 般の 批
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 174 ―
判
﹂︵
Hua I, 68
︶は 脇に 置か れて いる
︒こ うし た批 判︑ すな わち
︑超 越論 的経 験と 認識 一般 の明 証に つい ての 批判 は︑ そ れま でに 開示 され た超 越論 的経 験の それ ぞれ の形 式に 関し て︑ 主観 的妥 当性 の諸 層の 体系 を明 らか にす るこ とを ね ら って いる
︒も し﹃ デカ ルト 的省 察﹄ 全体 を読 むな らば
︑超 越論 的経 験の 批判 はど こに も行 われ てお らず 永遠 に脇 に 置 か れ てい る と いう 印 象 を 受け る か もし れ な い︒ しか し な が ら︑ それ は 実 相で は な い︒ 相互 主 観 性 と い う 表 題 の 下 に
︑そ して まず 第一 に︑ 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄の 第四 四節
−
第 四七 節で 原初 性と いう 表題 の下 に行 われ てき たこ と は
︑相 互主 観的 世界 の構 成の 可能 性の 条件 とし ての 感情 移入 の明 証の 批判 にほ かな らな いの であ る︒ 感 情移 入 の 明 証 の 批 判 の 出 発 点 は︑ 主 観 的 妥 当 性 の 諸 層 の 体 系 に 関 し て
﹁異 他 的 主 観 の
﹇⁝
⁝﹈ 超 越 論 的 構 成
﹂
︵
Hua I, 124
︶と して の感 情移 入が 問題 であ ると いう 事実 であ る︒ した がっ て︑ 主観 的妥 当性 の立 場か ら感 情移 入の 妥 当 性を 理解 可能 にす るこ とが 感情 移入 の明 証の 批判 の課 題で あり
︑こ の課 題は 感情 移入 の妥 当性 が基 づく 主観 的妥 当 性 の基 礎を 発見 する こと なし には 遂行 する こと がで きな い︒ 感情 移入 にと って の主 観的 妥当 性の 基礎 を開 示す るた め の 方法 論的 手続 きは
﹁す べて の今 疑わ しい もの をさ しあ たり 主題 的領 野か ら﹂
︵
Hua I, 124
︶ 遮断 する こと にあ る原 初 的 還元 であ る︒ だか ら︑ それ は﹁ 異他 的主 観性 に直 接的 にあ るい は間 接的 に関 係づ けら れる 志向 性の すべ ての 志向 的 能 作﹂
︵
Hua I, 124
︶ を度 外視 する
︒最 終的 に︑ その 手続 きは
﹁エ ゴが その 固有 性に おい て構 成さ れ︑ それ から 不可 分 の
︑し たが って
︑そ の固 有性 に数 え入 れる べき 綜合 的統 一を 構成 する
﹇⁝
⁝﹈ 志向 性の 全連 関﹂
︵
Hua I, 124
︶ を境 界 画 定す るこ とを ねら う︒ この 志向 性の 全連 関が 原初 的領 分と 呼ば れる
︒だ から
︑感 情移 入の 妥当 性要 求を 理解 でき る よ うに する ため には
︑わ たし はほ かな らぬ 原初 的領 分に 遡行 せね ばな らな い︒ なぜ なら
︑原 初的 領分 は感 情移 入の 主 観 的妥 当性 の基 礎で ある から であ る︒ こう した 脈 絡で
︑フ ッ サ ール は 一 九三 三 年 の 草稿 の な かで こ う 言 明す る
︒﹁ わ た しが わた しの
﹃原 初的 世界
﹄へ と﹇
⁝⁝
﹈還 元す るな らば
︑そ れ︹ わた しの 原初 的世 界︺ は完 全に 妥当 する 世界 に
― 175 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
お いて
︵全 き存 在意 味に おい て︶ 他者 の存 在妥 当に とっ て基 づ ける は た らき を し てい る 妥 当 層で あ る﹇
⁝⁝
﹈﹂
︵
Hua
XV, 615
︶︒ 原初 的還 元は
︑主 観的 妥当 性の 立場 から 他の 超越 論的 主観 性の もつ 疑わ しい 意味 を理 解で きる よう にす る方 法で あ る ので
︑他 者を 超越 論的 主観 性と して 措定 する こと を正 当化 する 方法 とみ なす こと がで きる
︒さ らに は︑ 原初 的還 元 は
︑そ れ自 体︑ 他者 を超 越論 的主 観性 とし て認 識す る方 法と して 理解 する こと がで きる
︒な ぜな ら︑ 原初 的還 元は わ た しに
﹁他 者を 超越 論的 に構 成す るも のと し て︑ した が っ て︑ 究極 的 に はわ た し と 共に 実 存 する も の と みな す
﹂﹁ 超 越 論 的 権利
﹂を 保 証 する か ら で ある
⑽
︒原 初 的 還 元 に よ る 原 初 的 領 分 の 発 見 は
﹁他 者
︑現 象 に お い て は さ し あ た り
﹃括 弧に 入れ られ た﹄ 他者 が感 情移 入の 志向 性の 現実 的解 示に よっ て超 越論 的承 認へ とも たら され ると いう
﹂﹁ 哲学 的 に 決定 的な こと
﹂を 成し 遂げ る⑾
︒ した がっ て︑ 原初 的還 元な しに
︑わ れわ れに と っ て 他者 を 真 の意 味 で の超 越 論 的 主 観性 とし て認 識す るこ とは 不可 能で ある
︒こ うし た脈 絡で
︑原 初的 還元 は︑ 他者 を超 越論 的主 観性 とし てだ けで は な く︑ 有心 的存 在者
︑精 神物 理学 的存 在者
︑人 格の よう ない ろい ろな 形式 を具 えた 内世 界的 主観 とし て認 識す るこ と を 可能 にす ると いう こと が付 け加 えら れる べき であ る︒ さら に言 えば
︑感 情移 入は 客観 的世 界の 構成 にと って の基 礎 を 据え るの で︑ 原初 的領 分へ の通 路を 獲得 する 方法 とし ての 原初 的還 元は
﹁可 能性 の条 件の 必当 然的 認識 と共 に完 全 な 世界 観を もた らす 体系 的方 法﹂
︵
Hua XV, 617
︶ とみ なす こと がで きる
︒ わた しに のみ
︑省 察す るエ ゴに のみ 妥当 する 原初 的領 分は
︑主 観的 妥当 性の 立場 から 他者 を統 覚す る仕 方と して の 感 情移 入に とっ ての 主観 的妥 当性 の基 礎を なし てい るの で︑ わた しは 他の 超越 論的 主観 性に 対す る絶 対的 な優 位性 を も つ︒ しか しな がら
︑他 の超 越論 的主 観性 に対 する
︑省 察す る自 我の もつ こう した 絶対 的優 位性 は︑ 超越 論的 時間 性 の 地平 にお ける 発生 の優 位性 とし て理 解さ れ るべ き で はな い
︒フ ッ サー ル も 述 べる よ う に﹁ とい う の は︑ わ たし は
︑
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 176 ―
異 他的 統覚 の発 生が 異他 的主 観性 なし の周 囲世 界の 先行 的発 生を 前提 する と前 もっ て主 張す るこ とが でき ない から で あ る﹂
︵
Hua X IV, 477
︶︒ 原初 的領 分は
︑感 情移 入に とっ ての 主観 的妥 当性 の基 礎と して
︑超 越論 的発 生の 連関 に お け る 具体 的存 在者 とし てあ らか じめ 現実 に存 在す るか もし れず
︑感 情移 入の 発生 を可 能に する かも しれ ない 存在 領分 で は ない
︒超 越論 的発 生 の 立 場か ら は︑ 原 初的 領 分 は﹁ 還元 の 産 物︑ 具 体的 エ ゴ の中 に あ る抽 象 体
﹂︵
Hua XV, 634-5
︶ に すぎ ず︑ それ への 通路 をえ るた めに
︑省 察す るエ ゴは 原初 的還 元の よう な抽 象的 反省 とい う特 別な 作用 を必 要と す る ので ある
︒ それ ゆえ
︑原 初的 還元 のも つ真 の意 味は
︑こ の還 元の 助け によ って
︑あ らゆ るエ ゴが
︑こ の領 分に 基づ いて 感情 移 入 とい う発 生的 な作 用を 実際 に遂 行す るた めに 実際 に原 初的 領分 に遡 行す ると いう こと では なく
︑む しろ あら ゆる エ ゴ が感 情移 入の 妥当 性を 理解 でき るよ うに する ため に︑ 原初 的還 元を 遂行 し︑ 原初 的領 分へ と遡 行す べき であ ると い う こと であ る︒ この 意味 で︑ 原初 的領 分は
︑省 察す るエ ゴが 感情 移入 の妥 当性 を理 解す るた めに 訴え るべ きで ある 理 想 的あ るい は規 範的 領分
⑿
と呼 ぶこ とが でき
︑ま さに この 理由 で︑ 相互 主観 性の 静 態 的 現象 学 は 規範 的 現 象学 と み な す こと がで きる
︒し たが って
︑原 初的 還元 は﹃ イデ ー ン I﹄ で議 論 さ れた
﹁す べ て の原 理 の 中 の原 理
﹂︵
Hua III, 52
︶ す なわ ち︑ フッ サー ルに よれ ば︑ あら ゆる 真の 哲学 を指 導す べき 根本 的自 己責 任の 原理 に忠 実で ある 試み であ るこ と が 判明 する
︒
第三 節 発生 的 現 象学 的 原 初性 概 念 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に おい て重 要な こと は静 態的 分析 であ ると いう 自分 の説 明に 忠実 に︑ 第四 四節
−
第 四七 節
― 177 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
で は
︑フ ッ サー ル は 相互 主 観 性 の現 象 学 的分 析 を ほと ん ど も っぱ ら 静 態的 現 象 学的 に 遂 行 して い る︒ こ れ ら の 節 に は
︑発 生的 問題 のど んな 兆し も︑ ある いは
﹁発 生﹂ とい う表 現で さえ 見出 すこ とは 難し い︒ これ とは 対照 的に
︑そ れ 以 降の 節で は︑ 相互 主観 性の 現象 学的 分析 は︑ もっ ぱら 静態 的現 象学 的に はも はや 遂行 され ず︑ やは り発 生的 現象 学 の 方向 に向 かう ので ある
︒例 えば
︑客 観的 自然 の構 成に とっ ての 前提 とし ての 諸々 のモ ナド の間 の調 和の 問題 が議 論 さ れる 第四 九節 では
︑フ ッサ ール は﹁ 調和 的に 個別 的︵ 諸モ ナド
︶の なか で進 行す る発 生﹂
︵
Hua I, 137
︶ につ いて 語 っ てい る︒ もし
︑そ れ以 降の 節を 注意 深く 吟味 する なら ば︑ 驚く べき こと に︑ 感情 移入 の現 象学 的分 析や 高次 レヴ ェ ル の共 同化 と低 次レ ヴェ ルの 共同 化が 主と して 相互 主観 性の 発生 的現 象学 の理 念に よっ て導 かれ てい ると いう こと を 見 出す のは 難し くな いの であ る︒ これ らの 節に は︑ 第五
〇節 と第 五五 節で は原 創設
︑第 五一 節で は異 他経 験の 構成 的 構 成要 素と して の連 合的 対化
︑第 五八 節と 第六 一節 では 時間 的発 生︑ 生得 性︑ 世代 生産 性の よう な発 生的 現象 学の 基 礎 的概 念が 見出 され る︒ フッ サー ルは
︑相 互主 観性 の現 象学 的分 析を
︑静 態的 現象 学的 には じめ るこ とも あれ ば︑ こ う した 手続 きの 必然 性や 可能 性を 吟味 する こと なし に相 互主 観性 の発 生的 現象 学に 向か うこ とも ある
︒ 相互 主観 性の 発生 的分 析に とっ てさ え︑ まっ たく もっ て驚 くべ きこ とで ある のは
︑フ ッサ ール が躊 躇な く原 初性 と い う静 態的 概念 を用 いる こと であ る︒ 典型 的な 例は
︑感 情移 入の 発生 的創 設の 原理 につ いて の説 明に 関し て遂 行さ れ る 第五
〇節 での 原初 的領 分の 分析 であ る︒ 原創 設の 原理 によ れば
︑あ らゆ る統 覚は
﹁志 向的 に︑ 類似 した 意味 をも つ 対 象が はじ めて 構成 され た﹃ 原創 設﹄
﹂︵
Hua I, 141
︶ に遡 る こ とが で き る︒ 幼児 に お け る発 生 的 原創 設 の 可能 性 を 明 ら かに する ため に︑ フッ サー ルは 先の 第四 四節
−
第 四七 節に おい て展 開さ れた 静態 的原 初性 概念 を用 いて
︑以 下の よ う に書 いて いる
︒﹁ 究 極的 には
︑統 覚の
︑そ の発 生に 従っ て 純 粋に 原 初 的な 領 分 に 帰属 す る 統覚 と
︑他 な るエ ゴ と い う 意味 と共 に立 ち現 れ︑ こう した 意味 の上 に高 次段 階の 発生 のお かげ で新 しい 意味 を積 み上 げた 統覚 とへ の根 本的 区
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 178 ―
別 につ ねに 戻り ゆく
﹂︵
Hua I, 141
︶︒ この 箇所 では
︑フ ッ サー ル は 一度 も 感 情移 入 の 作 用を 遂 行 した こ と がな い 幼 児 は 他の 主観 性に 向け られ るど んな 種類 の志 向性 から も自 由に 純粋 な原 初的 領分 をも つの でな けれ ばな らず
︑し たが っ て
︑こ の領 分に 基づ いて
︑感 情移 入の 最初 の作 用を 遂行 する こと がで きる とい う見 解を 唱え てい る︒ 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄に 取り 組む ずっ と以 前に
︑フ ッサ ール は他 の主 観と まっ たく 関係 をも たな いだ ろう 原初 的 領 分に 頼る こと によ って 感情 移入 の発 生の 可能 性を 明ら かに しよ うと 試み た︒ 典型 的な 例は
﹁わ たし だけ がい る︑ あ る いは
︑わ たし の全 経験 領野 には
︑そ れを 用い てわ たし が感 情移 入と いう 仕方 で異 他的 主観 を経 験で きる だろ う異 他 的 な身 体が そも そ も 立 ち現 れ る こと が な いと い う
﹂︵
Hua V III, 176
︶可 能 性 を 考察 し て いる
﹃第 一 哲 学﹄ のあ る 箇 所 で ある
︒人 格の 統一 につ いて の現 象学 的分 析が 遂行 され る﹃ イデ ーン
Ⅱ﹄ のあ る箇 所に 同じ 考え を見 出す こと がで き る
︒そ こで フッ サー ルは
﹁先 社会 的主 観性
︑ま だ感 情移 入を 前提 しな い主 観性 とい う﹃ 理念
﹄﹂
︵
Hua IV, 198-199
︶ と 内 的 生 と同 様 に 他者 に つ い ての 経 験 をも つ
﹁社 会 的主 観 性
﹂︵
Hua IV, 199
︶ の間 の 区 別を す る︒ こ の区 別 に 関 し て
︑ か れ は こう 主 張 する
︒﹁ そ れ は 明ら か に 構成 的 発 生の 観 点 で も重 大 で ある
﹂︵
Hua IV, 198
︶ と︒ か れが こ の 箇 所 で 主 張 して いる こと は︑ 社会 的主 観性 もそ の構 成的 所産 とし ての 相互 主観 的世 界も 先社 会的 主観 性と その 世界 とに 発生 的 に 基づ けら れて いる のだ ろう とい うこ とで ある
︒第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ の公 刊後 でさ え︑ フッ サー ルは この 考え を 完 全に あき らめ たわ けで はな い︒ 例え ば︑ 一九 三一
−
三 二年 の草 稿で は︑ かれ はそ こか ら﹁ 原初 的疑 似自 然な ど﹂ が 生 じる こと があ るか もし れな い﹁ わた しの 単一 の存 在の 原初 的展 開﹂
︵
Hua XV, 439
︶ の可 能性 を考 えて いる
︒ しか し︑ なぜ フッ サー ルは こう した 仕方 で感 情移 入 の可 能 性 の発 生 的 条件 を 解 明 しよ う と する の か︒ 主 な 理由 は
︑ 以 下で 議論 され るこ とに なる よう に︑ 静態 的現 象学 的原 初性 概念 の構 成要 素と して の抽 象す る反 省が ある 一定 の種 類 の 感情 移入 の構 造︑ つま り︑ 抽象 する 反省 の助 けを 借り て遂 行す るこ とが でき る感 情移 入の 理念 的発 生の 構造 の解 明
― 179 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
に とっ て欠 くこ とが でき ない とい うこ とで ある
︒し かし なが ら︑ この 事実 は︑ 静態 的現 象学 的原 初性 概念 の構 成要 素 と して の抽 象す る反 省が 感情 移入 一般 の超 越論 的発 生の 解明 にと って 欠く こと がで きな いと 誤っ て考 えさ せは しな い だ ろう
︒わ たし の見 解で は︑ フッ サー ルは この 種の 困難 にす でに
﹃イ デー ンⅡ
﹄を 執筆 して いる とき に部 分的 には 気 づ いて いた
︒な ぜな ら︑ この 著作 でか れは
︑先 社会 的主 観性 と社 会的 主観 性の 間の 上で 言及 され た区 別を
︑感 情移 入 の 現実 的発 生の 過程 の中 に認 める こと がで きる 現実 の区 別で はな く︑ 抽象 する 方法 の助 けを 借り て行 うこ とが でき る
﹁理 念的 区別
﹂に すぎ ない とみ なし てい るか らで あ る︒ か れは こ う 主張 す る
︒理! 念! 的! に! 語! る! な! ら! ば!
︑あ ら ゆる 人 格 は
﹁す べて の合 意関 係や それ に基 づく 統覚 から
﹃抽 象す る﹄
﹇
⁝⁝
﹈か ぎ り で﹂
︵
Hua IV, 193
︶自 ら の相 互 主 観的 世 界 の 内 部に
︑エ ゴ中 心的 世界
︑す なわ ち︑ 第五
﹃デ カル ト的 省察
﹄の 原初 的世 界を もっ てい る︑ と︒ 相互 主観 性の 発生 的現 象学 にお ける 原初 性概 念は
︑相 互主 観性 の静 態的 現象 学の 原初 性概 念と は実 際ま った く異 な る
︒相 互主 観性 の発 生的 現象 学で は︑ 原初 的領 分は
︑形 式的 に感 情移 入の 基礎 とし て定 義す るこ とも でき る︒ 発生 的 現 象学 にお ける 基礎 は主 観的 妥当 性の 基礎 を意 味せ ず︑ 時間 的発 生の 基礎 を意 味す るの で︑ 発生 的現 象学 にお ける 原 初 的領 分は もっ ぱら 感情 移入 にと って の発 生的 基礎 を意 味す るの であ る︒ 感情 移入 にと って の発 生的 基礎 とし ての 発 生 的原 初的 領分 は︑ 二種 類に
︑つ まり
︑先 理念 的発 生的 原初 的領 分と 理念 的発 生的 原初 的領 分と に分 割す るこ とが で き る⒀
︒ 以下 で議 論さ れる こと にな るよ うに
︑理 念的 発生 的原 初的 領分 はあ る種 の 方 法 論的 手 続 きな し に 生じ る こ と は ない が︑ それ に対 して
︑先 理念 的発 生的 原初 的領 分は 感情 移入 にと って の発 生的 基礎 とし ての 自然 的態 度に おい て 日 常的 にわ れわ れに あら かじ め与 えら れる ので ある
︒わ たし は先 理念 的発 生的 原初 的領 分を まず 扱う こと にし たい
︒ 先理 念的 発生 的原 初的 領分 は︑ まず 第 一に
﹁反 省 の 所産
﹂﹁ 抽 象 的な 何 か
﹂で は ない と い う事 実 に おい て
︑静 態 的 現 象学 の原 初的 領分 とは 異な る︒ われ われ は日 常的 に︑ ある 種の 反省 的作 用と して の抽 象す るエ ポケ ーに 基づ いて 感
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 180 ―
情 移入 の作 用を 遂行 しは しな い︒ この 事実 は︑ 幼児 に おけ る 原 初性 の 問 題を 考 察 す るな ら ば︑ い っそ う 明 白 にな る
︒ 幼 児に おけ る原 初性 の発 生の 問題 は相 互主 観 性の 発 生 的現 象 学 の重 要 な 論 題で あ る︒
﹁ 幼児
︒最 初 の 感情 移 入
﹂と い う 表 題 を も つ 一 九 三 五 年 の 草 稿 で は
︑フ ッ サ ー ル も ま た﹁ 原 初 的
﹃事 物
﹄の 構 築
︑原 初 的 身 体 の 構 築
﹂︵
Hua XV,
605
︶の よう な幼 児に おけ る原 初的 領分 の構 成の 発生 的過 程 を 明ら か に しよ う と 試 みる
︒だ れ も この 脈 絡 での 原 初 的 領 分を 反省 の所 産︑ 抽象 的な 何か とみ なそ うと はし ない
︒な ぜな ら︑ 幼児 にお ける 原初 的領 分は 抽象 する 反省 に基 づ い て生 じる と主 張す るこ とは ばか げて いる だろ うか らで ある
︒さ らに フッ サー ルは
︑幼 児が 反省 の能 力を もつ 主観 で あ ると いう こと を否 定し てい る︒ 先理 念的 発生 的原 初的 領分 が還 元の 所産
︑抽 象的 な何 かで はな いと いう 事実 は︑ 同時 に︑ それ が︑ それ 自身 社会 的 志 向や 相互 主観 的志 向︑ すな わち
︑他 の主 観性 に関 係づ け られ る 志 向を 含 む 存在 領 分 で ある と い うこ と を 意 味す る
︒ 超 越論 的エ ゴの 超越 論的 発生 は︑ 意識 領野 の中 で不 断に 機能 して いる いろ いろ な社 会的 志向 なし には 遂行 する こと が で きな いの で︑ 先理 念的 原初 的領 分は 相互 主観 的に 形成 され る︒ この 意味 では
︑幼 児の 原初 的領 分で さえ 例外 では な い
︒つ まり
︑そ れは また
︑社 会的 志向 のは たら きを 通し て︑ はじ めか ら相 互主 観的 に組 織さ れる ので ある
︒幼 児の 原 初 的領 分に 見出 すこ とが でき る社 会的 志向 は主 にそ の自 己保 存に とっ て欠 くこ とが でき ない 社会 的本 能の いろ いろ な 志 向で ある
︒ 超越 論的 自我 の普 遍的 超越 論的 発生 の過 程の 中で 不断 にそ のは たら きを 行う 社会 的志 向の おか げで
︑先 理念 的発 生 的 原初 的領 分は わた しだ けで はな く︑ 他の 主観 性も また 共に 住ま う存 在領 分で ある こと が判 明す る︒ わた しが 他者 の 中 に生 きる よう に他 者は わた しの 中に 生き る︒ こう した 理由 で︑ 主観 的妥 当性 の立 場か らで はな く︑ 超越 論的 発生 の 立 場か ら︑ 超越 論的 エゴ とし ての わた しは 他の 超越 論的 主観 性に 対し て絶 対的 な優 位性 をも たな い︒ わた しと 他の 同
― 181 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
時 代的 主観 性の 間に は相 互基 づけ の関 係が ある
︒つ まり
︑わ たし は以 前の 世代 の他 の主 観性 に一 方的 に依 存し てさ え い るの であ る︒ 先理 念的 発生 的原 初領 分は 発展 の統 一で あり
︑い ろい ろな レヴ ェル の先 理念 的発 生的 原初 的領 分が ある
︒エ ゴの 先 理 念的 発生 的原 初的 領分 は︑ ある 瞬間 には ある 一定 の感 情移 入の 作用 にと って の発 生的 基礎 とし て役 立つ こと がで き る
︒遂 行さ れた 後で
︑こ の感 情移 入は 意識 領野 から 消え るこ とは なく
︑そ の原 初的 領分 の沈 殿物 とな り︑ それ によ っ て これ
︹原 初的 領分
︺が 新し いレ ヴェ ルの 原初 的領 分に 変化 する よう に動 機づ ける
︒次 いで
︑こ の新 しい レヴ ェル の 原 初的 領分 は︑ 他の 感情 移入 作用 の発 生的 基礎 とし て役 立つ こと がで き︑ そし てこ の新 しい 感情 移入 の作 用は
︑か の 原 初的 領分 の沈 殿物 とな り︑ また この 領分 を他 のレ ヴェ ルの 原初 的領 分へ と変 化さ せる よう に動 機づ ける
︒同 じ過 程 が それ 自体 さら に繰 り返 され るこ とが あり
︑こ うし た仕 方で いろ いろ なレ ヴェ ルの 先理 念的 発生 的原 初的 領分 が意 識 領 野 の 中に 生 じ るこ と が で きる
︒そ れ ゆ え︑ 先理 念 的 原初 的 領 分 を発 生 的 基礎 の 立 場か ら 解 体 する こ と が 可 能 で あ り
︑こ の解 体の 過程 は︑ 超越 論的 エゴ の最 初の 感情 移入 作用 にと って の発 生的 基礎 とし ては たら いて いる 原初 的領 分 に 達す るま で︑ 理論 的に は継 続す るこ とが でき る︒ 一九 三五 年の 草稿 では
︑フ ッサ ール はこ の原 初的 領分 を﹁ 原段 階 に おけ る原 初性
﹂︵
Hua XV, 605
︶と 呼び
︑そ の発 生的 構造 を明 らか にし よう と試 みる
︒ それ ゆえ
︑最 も原 初的 レヴ ェル にお ける 原初 性か ら高 次レ ヴェ ルの 原初 的領 分へ の発 生的 移行 にと って の可 能性 の 条 件を 明ら かに する こと は︑ 相互 主観 性の 先理 念的 発生 的現 象学 にと って とて つも なく 大き な課 題で ある
︒注 意す べ き なの は︑ 社会 的あ るい は相 互主 観的 本能 や衝 動は
︑最 も原 初的 レヴ ェル にお ける 原初 性の 構成 の際 やこ れ︹ 最も 原 初 的レ ヴェ ルに おけ る原 初性
︺か らい っそ う高 次レ ヴェ ルの 原初 的領 分へ の発 生的 移行 の際 に不 断に はた らい てい る と いう こと であ る︒ 意識 領野 にお ける 原初 的領 分の いろ いろ なレ ヴェ ルの 発生 は︑ 社会 的本 能や 衝動 の不 断の はた ら
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 182 ―
き なし には 不可 能で ある だろ うか ら︑ あら ゆる レヴ ェル の先 理念 的発 生的 原初 的領 分は
︑フ ッサ ール が一 九三 三年 の 草 稿で 書い てい るよ うに
﹁衝 動の 体系
﹂と みな すこ とが でき る︒ すな わち
﹁原 初性 は衝 動体 系で ある
︒も し︑ 原初 性 が 本源 的に 立ち とど まる 流れ るこ とと して 理解 され るな らば
︑そ のう ちに は︑ あら ゆる
︑他 の流 れへ と︑ 場合 によ っ て は他 の自 我主 観と 共に 流れ 込む 衝動 もま たあ る﹂
︵
Hua XV, 594
︶︒ 理念 的発 生的 原初 性概 念を 考察 する こと にし よう
︒原 初的 領分 の低 次レ ヴェ ルか ら高 次レ ヴェ ルへ の発 生的 移行 と 感 情移 入は
︑同 時に
︑超 越論 的エ ゴの 展開 を意 味す る︒ 展開 の過 程で
︑そ れぞ れの 超越 論的 エゴ は︑ その 感情 移入 の 作 用に おい て間 違う こと があ るけ れど も︑ 感情 移入 の真 理を 達成 しよ うと 努力 する
︒ほ とん どの 場合 に︑ 超越 論的 エ ゴ は感 情移 入の 真理 をあ たか も無 意識 的に
︑あ るい は︑ あら ゆる 種類 の方 法論 的意 識な しに 得よ うと 努力 する
︒し か し なが ら︑ ある 一定 の瞬 間に
︑エ ゴに とっ て感 情移 入の 作用 を実 行し よう と決 定す るこ とが 意識 的か つ方 法論 的に 可 能 なの であ る︒ この 場合 に︑ 責任 ある エゴ にと って
︑感 情移 入の 真理 に至 る唯 一つ の道 があ る︒ すな わち
︑相 互主 観 性 の静 態的 現象 学か ら学 んだ よう に︑ 感情 移入 の作 用を もっ ぱら 超越 論的 エゴ に明 証的 に与 えら れる もの に基 づい て 実 行し よう と試 みる べき であ る︒ この 目標 を達 成す るた めに
︑自 己責 任の 原理 に忠 実で ある こと によ って
︑超 越論 的 エ ゴは その 起源 を他 の主 観性 にも つす べて の主 観的 妥当 性を 捨象 し︑ 捨象 の後 に残 され る存 在領 分に 基づ いて 感情 移 入 の作 用を 実行 しよ うと 試み るは ずで ある
︒感 情移 入の この 種の 発生 はそ の目 標と して 理念 とし ての 真理 の発 生を も っ てい るの で︑ 感情 移入 の理 念的 発生 と呼 ぶこ とが でき るだ ろう
︒し たが って
︑こ の種 の感 情移 入を 可能 にす る方 法 論 的手 続き は︑ 理念 的発 生的 原初 的還 元と 呼ぶ こと が でき
︑こ の 手 続き に よ って 開 示 す るこ と が でき る 存 在 領分 は
︑ 理 念的 発生 的原 初的 領分 であ る︒ 理念 的発 生的 原初 的領 分は
︑超 越論 的エ ゴの 超越 論的 発生 の普 遍的 地平 にお ける 真の 意味 での 学問 と哲 学の 出現 に
― 183 ― フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念
と って の発 生的 基礎 にほ かな らな い︒ 自己 責任 の原 理に よっ て導 かれ る方 法論 的手 続き とし ての 理念 的発 生的 原初 的 還 元は
︑超 越論 的エ ゴに その 召命 が理 念と して の真 理を 見出 すこ とで ある 学問 と哲 学の 理念 的研 究共 同体 に参 与す る こ とを 可能 にす る︒ 抽象 とい う方 法を 欠く こと がで きな い感 情移 入の 理念 的発 生は
︑相 互主 観性 の静 態的 現象 学に おい て得 られ た洞 察 を 感情 移入 の超 越論 的発 生へ と適 用し た結 果と みな すこ とが でき る︒ それ ゆえ
︑理 念的 発生 の構 造を 明ら かに する こ と をね らう 相互 主観 性の 理念 的発 生的 現象 学に は︑ 相互 主観 性の 静態 的現 象学 とあ る一 定の 類似 性が ある
︒そ うい う わ けで
︑理 念的 発生 的原 初的 領分 はま さし く静 態的 現象 学的 原初 性領 分と 同じ もの であ るか もし れな いと いう 印象 を 得 るこ とが でき る︒ わた しの 見解 では
︑こ の印 象の おか げで
︑第 五﹃ デカ ルト 的省 察﹄ にお いて
︑フ ッサ ール は︑ 静 態 的現 象学 的原 初性 概念 を︑ この 手続 きの 正し さを 吟味 する こと なし に低 次の モナ ド共 同体 と高 次の モナ ド共 同体 の 構 成の 分析 に適 用す る︒ しか しな がら
︑理 念的 発生 的原 初的 領分 は︑ 基本 的に 静態 的現 象学 のそ れと は異 なる
︒つ ま り
︑そ れ︹ 理念 的発 生的 原初 的領 分︺ は︑ ある 種の 発生 的原 初的 領分 であ り︑ それ 自体 先理 念的 発生 的原 初的 領分 と 多 くの 類似 性を もつ
︒理 念的 発生 的原 初的 領分 と先 理念 的発 生的 原初 的領 分の 間の いく つか の類 似性 を手 短に 扱う こ と にし よう
︒ 第一 に︑ 先理 念的 発生 的原 初的 領分 と同 様に
︑い ろい ろな レヴ ェル の理 念的 発生 的原 初的 領分 が存 在す る︒ 理念 的 発 生的 原初 的還 元を 通し て開 示さ れる 理念 的発 生的 原初 的領 分は
︑あ る一 定の 感情 移入 の作 用の 発生 的基 礎と して 役 立 つこ とが でき る︒ その 発生 の後 で︑ 感情 移入 は意 識の 領野 から 消え るが
︑そ の原 初的 領分 の沈 殿物 とな り︑ 原初 的 領 分の 沈殿 物と なる こと で︑ この 領分 が新 しい レヴ ェ ルの 原 初 的領 分 へ と変 化 す る よう に 動 機づ け る︒ 感 情 移入 と
︑ そ れが 由来 する 原初 的領 分の 沈殿 物の 生成 の発 生の 過程 は︑ さら に継 続す るこ とが あり
︑こ うし た仕 方で いろ いろ な
フッサール第五『デカルト的省察』における原初性概念 ― 184 ―
レ ヴェ ルの 理念 的発 生的 原初 的領 分が 意識 領野 のな かに 出現 する こと がで きる ので ある
︒ 第二 に︑ 先理 念的 発生 的原 初的 領分 のよ うに
︑理 念的 発生 的原 初的 領分 もま た相 互主 観的 に構 成さ れる
︒こ のこ と は
︑理 念的 発生 的原 初的 領分 がそ の起 源を 他の 主観 性に もつ 主観 的妥 当性 を捨 象す るこ とに よっ て開 示す るこ とが で き る存 在領 分を 意味 する とい う事 実と 矛盾 しな い︒ わた しは
︑超 越論 的主 観性 とし て︑ 究極 的に は︑ 主観 的妥 当性 の 立 場か ら︑ 相互 主観 性の 理念 的発 生的 現象 学に おい てで さえ
︑理 念的 発生 的原 初的 領分 の主 観的 妥当 性に 対し て責 任 が ある ので
︑他 の超 越論 的主 観性 に対 して 絶対 的優 位性 をも つ︒ この 明白 な事 実に もか かわ らず
︑時 間的 発生 の立 場 か らは
︑わ たし には 他の 超越 論的 主観 性に 対す る絶 対的 優位 性が ない
︒な ぜな らば
︑理 念的 発生 的原 初的 領分 の発 生 に とっ ての 可能 性の 条件 とし ての 抽象 する 反省 とい う事 実的 発生 的作 用は
︑他 の超 越論 的主 観性 の助 けを 借り ずに 実 行 する こと はで きな いか らで ある
︒こ うし た脈 絡で
︑注 意す べき なの は︑ だれ も学 問的 作業 や哲 学的 作業 を一 人で 実 行 する
︑あ るい は︑ 始め るこ とさ えで きず
︑多 くの 点で 依存 して いる 学問 と哲 学の 研究 共同 体に おい ての みそ うす る こ とが でき ると いう こと であ る︒ だか ら︑ 超越 論的 エゴ の意 識領 野で のい ろい ろな レヴ ェル の理 念的 発生 的原 初的 領 分 の発 生は
︑こ のエ ゴの 独我 論的 能作 では なく
︑最 初か ら相 互主 観的 能作 なの であ る︒ 第三 に︑ もし 主観 的側 面に だけ に焦 点を 当て るな らば
︑静 態的 現象 学的 原初 的領 分は
︑主 観的 妥当 性の 担い 手と し て の客 観化 作用 にあ る︒ これ に反 して
︑先 理念 的発 生的 原初 的領 分の よう に︑ 理念 的発 生的 原初 的領 分は
︑客 観化 作 用 だけ では なく
︑後 者と 不可 分に 結び つく 非客 観化 作用 を︑ すな わち
︑一 方で は︑ 社会 的衝 動や 意志
︑他 方で は︑ い ろ いろ な形 式の 感情 を含 むの であ る︒ 理念 的発 生的 原初 的領 分に おけ る客 観化 作用 は︑ 感情 移入 の理 念的 発生 の必 要 条 件で はあ るが
︑十 分条 件で はな い︒ 感情 移入 の理 念的 発生 は︑ 非客 観化 作用 なし には 実行 する こと がで きな い︒ 理 念 的発 生的 原初 的領 分の 本質 的構 成要 素と して の衝 動と 意志 に関 して は︑ この 領分 もま た衝 動の 体系 とみ なす こと が
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