• 検索結果がありません。

津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八)"

Copied!
39
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

椙山女学園大学

津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八)

著者

二宮 俊博

雑誌名

文化情報学部紀要

7

ページ

129-167

発行年

2007-03-24

URL

http://id.nii.ac.jp/1454/00002531/

(2)

■・`∴■■■二■..■■ ■...■...■■■■.・

津阪東陽『杜律詳解』

訳注稿

二宮俊博

本稿には、津阪東陽

『杜律詳解』巻中の

「藤王亭子」詩から「題

桃樹」詩までを収める。原文の「メ」は「シテ」に、「「」は「コト」

に、「児」は「トモ」にそれぞれ改めた。明らかに訓点が脱落してい

ると思われる箇所には、これを補った。また詩句の左傍にところど

ころ附されている和訓は、※をつけて改行して示した。書き下し文

は、紙幅の都合で省略する。なお、詩題の上には便宜的に通し番号

を施した。

052腰王事子

053玉台観

054奉寄章十侍御

055将赴荊南寄別李剣州弟

056奉寄別馬巴州

057将赴成都草堂途中有作先寄厳鄭公五首(英一く)

058(英二)

059(其三)

060(其四)

061(其五)

062題桃樹

052膵三ノ亭子

(注1) (注2) (注3)

自註二亭ハ蜜豆茎観ノ内一一石王曾テ典㌔此州づ。按ス〝ニ藤王元嬰、高租

之子。高宗ノ時、任コ閏州ノ刺史一、。建=観ヲ州城ノ北一、玉裏山ノ上▲㌔。

公時二去二梓州づ暫在二間州一、。

(注1) 銭注(巻十三)および輯註(巻十一) に挙げる杜甫の自注に「玉台観 の内に在り。調露中、闘州刺史に任ぜらる」と。詞露は、高宗(李治) の年号(六七九∼六人〇)。間州は、今の四川省閏中県。輯註は、宇都宮 遊魔の増広本にも挙げる。 (注2) 輯註に、(注1)に挙げた箇所に続けて「一に云ふ、閏州玉台観の作。 王曾て此の州を典る」と。宇都宮遊魔の増広本にも引く。 (注3) その伝は、『旧唐書』巻六十四、高祖二十二子伝及び『新唐書』巻七十 九、高祖諸子伝に見える。 (注4) 郡侍『集解』 に「藤王元嬰、閏州刺史に任ぜられて、観を州城の北、 玉台山の上に建つ。亭は其の中に在り」と。

自注に「亭は玉台観の内に在り」と。王はかつてこの州をつかさどっ

た。按ずるに、(膝王)元嬰は、高祖の子。高宗の時、閏州刺史に任

じられ、道観を州城の北、玉台山の上に建てた。公は当時、梓州を

去って暫らく閏州に滞在していた。

(3)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八)

君王ノ垂樹枕コ巴山一一-萬丈ノ丹楳尚可レ琴

董上。有"木日レ樹ト。巴山ハ帥玉基山。閏州ハ古ノ巴子囲、故。山亦

名ンク巴山→。丹櫛ハ讃二橙造づ。玉義山唆。シテ造二聾二雲表て非二復入

室喜∵然トモ伶嫁け掃こ可レ得二登攣「ヲ也。

(注5) 『左伝』哀公元年、杜預の注に「土を填みて高きを為すを台と日ひ、木 有るを樹と日ふ」と。宇都宮避庵の両著に挙げる。 (注6) 藤益『分類』 (巻一、台樹)に「巴山は関川。古の巴子国なり。故に山 も亦た巴山と名づく」、顧哀『註解』に「閃州は古の巴子国の地。旧と之 を巴西部と謂ふ。故に山も亦た巴山と名づく」と。いずれも宇都宮遊庵 の増広本にこれを挙げる。 (注7) 郡侍『集解』 に(丹梯) の下に「橙道」と注する。

(台)上に木造の建物があるのを(樹)という。(巴山)は、とりも

なおさず玉台山のこと。関川は古代の巴子国であるから、それゆえ

山にも(巴山)と名づけた。(丹梯)は、石畳の道のこと。玉台山は

急峻で遥か高く雲表に費え、もはや人の住む世界ではない。されど

それでも(梯)にすがってなんとか登聾することができるのである。

春日鴬囁鯖竹ノ裏

仙家犬吠白雲ノ間

行雲流水ノ句法。此登…J山頂一∼所レ見、端。是王宮ノ気象、殆非二人問世

界ノ石亦見二山高ク墳幽づ、且饗二爽ス道観づ、妙甚シ。漠書染ノ孝三築二

平鹿票、苑中有二倍竹園一。榊仙倖濾南王安丹成テ升レ天ニ、鎗薬在二中

庭一「薙犬鱒鵬啄ム之づ、骨仙去ル。薙鳴二天上一「犬吠二雲中ぺ。此用二

其事て

而揖句自然、渾化無レ痕。止く党二俊麗づ、似レ非匠用川。事ヲ。

公爵廟ノ詩、空庭垂二橘袖∴古壁董"龍蛇づ。橘袖龍蛇係望開王ノ

事一「

亦輿レ此同一法。温庭箔蘇武廟ノ詩、雲逢雁断胡天ノ月、馳上

羊蹄″塞草ノ煙。雁羊係二蘇武ノ事て

亦用二此法づ也。丹銘録二云、條

竹用二梁ノ孝王ノ事づ。犬吠二雲中ぺ用二涯蔵王ノ事づ。人骨知レ之ヲ英。

但怪ム幡竹本無一驚噂ノ字一也。偶見訓孫締力蘭亭ノ詩づ鷺噂吟コ傭竹一「

乃知杜老用レ之ヲ也。

(注8) 元・氾梓(字は徳機。一二七二∼一三三〇)揆とされる 『木天禁語』 句法に「行雲流水」があり、この「春日鷺噂修竹裏、仙家犬吠白書間」 を例に示す。なお、行雲流水の語、北宋・蘇拭「謝民師推官に与ふる書L (『束敏文集』巻四十九)に「示さるる所の番数及び詩賦雑文、之を観る こと熟せり臭。大略行雲流水の如く、初め定質無く、但だ常に当に行く べき所に行き、常に止まらざる可からざるに止まる」と見える。 (注9) 『漢書』巻四十七、文三王伝の梁孝王伝に「大いに宮室を治め、複道を 為り、宮自り平台に連続すること三十里」と。 (注10) 輯註に「神仙伝に、八公と池南王安と白日升天す。去る時に臨んで、 飴薬の券置きて中庭に在り、鶏犬之を舐め啄む。尽く升天するを得。 故に鶏は天上に鳴き、犬は書中に吠ゆるなり」と。また顧恵『註解』 に 「神仙伝に、准南重安丹成って上昇す。親犬其の鼎を舐めて、皆仙し去 る。犬は天上に吠え、鶏は書中に鳴く」と。いずれも、宇都宮遊庵の増 広本にこれを挙げ、詳説には 『註解』を引く。 但し、晋・葛洪『神仙伝』の涯南王の粂には、鶏が天上に鳴き、犬が 雲中に吠えたという記述は見えず、後漠・王充『論衡』道虚篇に「(港南) 王道に道を得、挙家升天し、畜産骨仙たり。犬は天上に吠え、鶉は書中 に鳴く」とある。 (注11) 「鶉廟」詩(詳註巻十四) は、次のごとくである。これは、永泰元年 (七六五) の作。 丙廟空山塞 秋風落日斜 荒庭垂橘加 古屋董龍蛇 雲気生虚壁 江聾走自沙 早知乗四載 疏婁控三巴 丙廟 空山の裏 秋風 落日斜めなり 荒廃 橘袖垂れ 古屋 龍蛇を画く 雲気 虚壁に生じ 江声 自沙に走る 早に知る四載に乗じて 疏整 三巴より控せしを 『集千家注』(巻十二)の王沫注に「孫畢老が日く、橘袖錫って、龍蛇 を駆るは、皆爵の事。公国って此れを見て感有るなり」と。輯註(巻十 二)も同様の注。輯註は、宇都宮遊庵の懲頭増広本『杜律五言集解』 に も挙げる。孫畢老は、北宋・孫覚(字は革老。一〇二八∼一〇九〇) の

(4)

文化情報学部紀要.第7巻,2007年 こと。(橘袖)は 『尚書』南京に「島夷丼服し、(中略)厭の包は橘袖。 錫って貢す」とあり、(龍蛇)は『孟子』脛文公篇下に「丙、地を掘りて 之を海に注ぎ、蛇龍を駆りて之を藍に放つ」と。 (注12) 晩唐・温度籍(字は飛卿。八一二∼八七〇?) の「蘇武廟」詩(『温飛 卿詩集』別集巻八/『全唐詩』巻五人二) は、次のごとくである。なお、 この詩は、『滅蜜律髄』巻二十八、陵墓類や『唐詩貰珠』巻四十六、古逃 類にも収める。 蘇武魂錆漠使前 古雨高樹南茫然 雲遵雁断胡天月 齢上羊蹄塞草煉 回日桜壷非甲帳 去時冠剣是丁年 茂陵不見封侯印 空向秋波芙逝川 蘇武魂錦す浜使の前 古而高樹 丙つながら茫然 雲辺 雁断ゆ胡天の月 随上 羊帰る塞草の焼 回る日 楼台 甲帳に非ず 去る時 冠剣 是れ丁年 茂陵見ず封侯の印 空しく秋波に向かって道川を失す * (使)字、『唐詩貰珠』は(史) に作る。 (注13) 明・楊憤『丹鉛総録』巻二十七、瑛語類および 『升庵集』巻五十八、 「懲囁修竹」の粂に「杜子実の膝王亭の詩に(春日鷺囁く條竹の裏、仙 家犬吠ゆ白雲の問)と。(條竹)は梁の孝王の事を用ひ、(犬雲中に吠ゆ) は港南王の事を用ふ。人骨之を知れり臭。予嘗て怪しむ(條竹)本と(懲 囁)の字無きなり。後に孫綽が蘭亭の詩を見るに、(囁盈修竹に吟じ、瀞 鱗瀾涛に戯る)と。乃ち知る杜老之を用ふるなり。読書多からざれば、 未だ軽がるしく古人を議す可からず」と。度会末茂『杜律評叢』にも『丹 鉛総録』 の記事を載せる。但し、(噂党) の二字、『升庵集』 は(螢嗜) に作る。 なお、晋・孫綽の「三月三日蘭亭の詩」 (『古詩紀』巻三十三) は、次 のように詠ずる。 流風排檻渚 停雲蔭九暴 食語吟修竹 瀞鱗戯瀾涛 播撃落雲英 流風 柾渚を払ひ 停雲 九皐を蔭らす 発語 憺竹に吟じ 瀞麟 瀾躊に戯る 筆を揆へて書英を落とし 教書剖繊毛 微言 繊竜を剖く 時珍宝不甘 時珍 量に甘からざらんや 忘味在問沼 味を忘るるは寵を開くに在り

行雲流水の句法。これは山頂に登って見えたもの。まさしく王宮の

気象で、ほとんど卑俗なる人間世界ではない。やはり山の高く境の

幽なるをあらわし、そのうえ道観をならびはさんで、妙なることは

なはだしい。『漢書』に「梁の孝王が平台を築いた。苑中に情竹園が

ある」、『神仙伝』

に「港南王安は仙丹が完成し升天したが、あまっ

た薬は中庭に残されていた。鶏や犬がそれを舐めたり啄んだりし

て、皆倒去した。鶏は天上に鳴き、犬は雲中に吠えた」と。ここは

その故事を用いているが、句づくりが自然で、渾然として斧痕の痕

がみえない。ただ俊麗なるを覚えるばかりで、故事を用いていない

かのようだ。公の

「丙廟」詩に「空庭橘袖垂れ、古壁龍蛇を画く」

とあり、「橘柚」「龍蛇」は丙王の故事にかかるが、やはりこれと同

一の句法だ。温庭簿の「蘇武廟」詩に「雲辺雁断ゆ胡天の月、馳上羊

帰る塞草の煙」とあり、「雁羊」は蘇武の故事にかかるが、これもや

はりこの句法を用いたのである。『丹鉛録』に云う、「(俺竹)が梁孝

王の故事を用い、(大要中に吠ゆ)が港南王の故事を用いているのは、

だれしもみな知っていることだ。ただ怪訝に思っていたのは、(俺

竹)

にもとより(鷺囁)

の字がないことである。ところが偶然、孫

綽の

『蘭亭詩』

に(鷺噂條竹に吟ず)とあるのを見つけて、それで

やっと杜老がこれを用いたのだとわかったのである」と。

清江若石傷ルメテ心ヲ麗ク

赦蕊濃花満目斑ナリ

碧ノ義見レ前ニ。赦ハ奴困反、少好ノ貌。此烹琴亭上所レ見之景づ、兼テ

動コ懐古之感づ。蓋墓前ノ花石、膝王之避愛、故二鳥レ思…王ヲ、満目ノ

美景、亦傷レ心ヲ也。

(注14) (碧)字、銭注および輯註は(錦)に作り、「一に碧に作る」と。輯註 は、宇都宮遊庵の増広本にも挙げる。

(5)

二宮俊博/津坂東陽『杜律詳解』訳注稿(八) (注ほ)

訳注稿司022「鄭尉馬潜曜渦中に婁す」詩の詳解に1碧は鮮明の貌を

諸ふ。色を称するに非ざるなり」と。 (注16) 例えば、『字彙』 に「嬢、敗因の切、納の去声。弱なり、少なり。又、 好き貌。俗に赦に作る」と。

(碧)の意味は前に見える。(緻)は、奴困の反、若くみめよきさま。

これは亭上から冒に入った景色を写すとともに、懐古の感慨に心動

かしている。けだし(台)前の

(花)

や(石)は、腱王の遺愛であ

ろう。それゆえ王を思うがために、(満目)の美景にも、やはり(心

を傷め)

るのである。

民到プチ今二歌二出放→

束こ遊シテ此地】㍉不レ知レ還ルヲ

※歌…アリガタガル

民到二千今一1用二論語ノ語づ。牧ハ養也。古着州長講こ之ヲ牧㌔言レ撫二

養ヲ州民づ也。出テ牧タルハ謂三三薦雪刺史一。歌=出牧づ謳二歌ス″其遺徳づ

也。結収ユ中二聯づ。凡来二遊ス″此地-㌔者、管笛攣ソテ忘レ違ヲ、紙二思二

王之遺徳づ、亦為レ有力上文ノ諸勝一也。按。新蕾唐書立。云、元嬰盛二

金川ノ剰史べ鹿縦失レ皮ヲ。太宗崩ス″ニ、集㌘官屠→燕飲歌舞シ、押二

眼ス廟養づ。楚二省ス竺部内づ、従け民二倍レ狗ヲ求損宜ヲ。所レ過″為レ

審ヲ、以レ丸ヲ弾ル人ヲ、観ジ其走り避づ則欒ム。及け遷罰。渋川ノ都督一「

以レ貪ヲ間7。高宗給一㌦麻二車づ助レ為コ与銭縛づ以辱ルム之ヲ。逼罰私シ官

腐ノ妻づ、坐丹ア法二別㍑戸ヲ。諭シテ置二股州て.匙テ授=寿州ノ刺史づ、

従二陸川一「即閏州也。其在…Jハ金浜二州一「悪虐如レ此ノ、而狽於…Jハ間

州一「則有レ遺二愛子民て去テ後猶謳二歌ス之ヲ。公ノ詩必紀は賓ヲ、豊呪

年遷明徳二善咋ア政ヲ、而史逸コ″其事づ欺。楊用修謂ラク、此稀コ藤王港

然づ、非二元嬰一㍉也。湛然ハ乃元嬰力曾孫、天賓中、封雪〝藤王-「従レ

幸損″。萄。。然トモ未レ開三共為コ閏州ノ刺史一也。一説二仇兆祭云、二句

一気。蔑下ス。正二刺二其荒静づ、非レ額譜二其避澤づ也。

(注17) (民)字、銭注および輯註は(人) に作る。(人)は、太宗(李世民) の避諒。 (注18) 『論語』藩閥篇に「管仰は桓公を粕けて諸侯に覇たらしめ、一たび天下 を匡す。民今に到るまで其の賜を受く」と。また季氏篇に「伯夷叔斉、 首陽の下に蝕す、民今に到るまで之を称す」と。 (注19) 『広韻』に「養なり」、『字彙』に「六畜を守毒す。古は州長之を牧と謂 ふ。亦た守養の義を取る」と。 (注20) 楊慎『丹鉛摘録』巻九に「杜子美が勝王事子の番に(民今に到るまで 出でて牧たりしことを歌ひ、此の地に来遊して還るを知らず)と。後人、 子実の番に因って、注する著述に謂へらく膿王賢にして民に逝愛有り と。今、郡志も亦た腱王を以て名昏と為す。予、新旧唐音を考ふるに遊 に云ふ、元嬰、金州の刺史と為り、騎従にして皮を失す。太宗崩じて、 官属を集めて燕飲歌舞し、廟養を押陀す。部内を巡省するに、民に従っ て狗を借り畳を求む。過ぎる所害を為し、丸を以て人を弾し、其の走り 遊くるを観て則ち楽しむ。洪州の都督に遮るに及んで、貪を以て間ゆ。 高宗、麻二車を給ひて銭緒を為すことを助け、以て之を辱かしむ。小説 の文を載すらく、其れ属官の妻を宮中に召して之を浸すと。其の悪しき こと此の如し。而るに少陵の老子、乃ち之を称す。所謂詩史なる者は、 蓋し未だ信ずるに足らざるか。未だ金・洪両州に暴にして閑州に仁なる 者有らざるなり」と。 詳解に(畳)を(宜)に作るのは、形近による誤り。E且は、兎をとる 網。宜は、葛宜、つと。なお、穆憤の『丹鉛捻録』巻十「脛王」及び『升 庵集』巻五十八「民歌出牧」の粂も、同様の記事を載せるが、『升庵集』 は (金州)を(荊州)に作り、また 『籍録』 には(以辱之) の三字を欠 く。ちなみに、度会末茂『杜律評叢』には、『捻録』の文を挙げるが、(金 州)を(余州)に誤る。 (注21) 楊慎の『丹鉛統録』巷三および『升庵集』巻五十八「膝王」の粂に「杜 工部に膝王事の詩有り。王建の詩に(楊し得たり膿王妖蝶の図)と。皆 膝王湛然を称す。元嬰に非ざるなり。王勃、膝王閣を記するは則ち是れ 元嬰のみ」と。度会末茂『杜律評叢』 には、『続録』を挙げるが、(脛王 閤) の三字を(藤間) に作る。 中庸・王建の句例は、「宮詞一石首」の其六十(『全唐詩』巻三〇二)。 初唐・王勃の作は、「脛王閤の序」 (『王子安集』巻八)。 (注22) 顧簾『註解』 に「湛然は乃ち元嬰の曾孫、天宝十一戦、膝王に封ぜら

(6)

文化情報学部紀要,第7巻,2007年 れ、濁に幸するに従ふ」と。 (注23) 詳註巻十三に、(注20) に挙げた楊憤の説を節録した後、「今按ずるに 二句一気に読み下す。正に其の荒瀞を剃る、其の遺沢を額するに非ず」 と。 ちなみに、鈴木虎雄云杜少陵詩集』(巻十三)は、詳註を踏まえて「人 今に到るも出牧せしとき、此の地に来遊して還るを知らざりきと歌ふ」 と訓じ、「来遊」について「王が来遊せしをいふ、此一句は王の出牧当 時、即ち往昔のことを追叙せし句なり」と説く。

(民今に到って)は、『論語』

の語を用いる。(牧)は、着である。

古代は州の長官を(牧)という。州民を撫養するのをいうのである。

(出でて牧たる)とは、腱王が刺史となったことをいう。(出牧を歌

ふ)

は、その遺徳を謳歌するのである。結びは中二聯を収束する。

すべて

(此の地に来遊)する者は、みな留恋してもどるのを忘れる

が、王の遺徳を思うほかに、上文のもろもろの景勝があるためであ

る。按ずるに新旧の

『唐書』

いずれも云う、元嬰は金州刺史となっ

て、好き勝手やりたい放題の振る舞いが度を過ごした。太宗が崩じ

たおりに、官属を集め燕飲歌舞し、下鷹の者にでれでれとなれなれ

しくした。管内を巡察したさい、民から狗を借り上げ宜

[畳]を求

めた。通り過ぎるところどこでも害をなし、弾丸で人を狙って撃ち、

その逃げ避ける様子をつらつら眺めて楽しんだ。洪州都督に遣る

と、食欲ぶりで悪評が立った。高宗は銭さしの紐の助けにせよと草

二台分の麻を給い、これを辱しめた。無理やり官属の妻に迫って私

通し、法に座して戸数を削られ、庇諭して除州に差し置かれた。起

用されて寿州刺史を授けられ、隆州に移ったが、これがとりもなお

さず閏州である。いったい金・洪二川にあるときは、悪虐ぶりはか

かるしだいであったのに、ひとり同州においては、慈愛を民に遺し、

去って後までもなお謳歌された。公の詩は必ず実事を記しており、

晩年に悪業を改め徳行に向かい治政を善くしたのに、史家はその事

実を書き漏らしたのであろうか。薇用傾がいう、「これは膝王湛然

を称したもので、元嬰ではないのだ」と。湛然はというと元嬰の曾

孫で、天宝年間、藤王に封ぜられ、玄宗が萄に行幸するのに付き従っ

た。しかしながら問州刺史であったとは問いたことがない。一説と

して仇兆繋が云う、「二句は一気に読み下す。まさしくその荒好を

剃ったもので、その道沢を額したのではないのだ」と。

053玉垂観

(注1)

観ハ本楼閣ノ通稀。言レ可㌘以観二望ス於其上一t-也。凡道士ノ所居、線テ

詔=之ヲ観」。猶二儒家ヲ碍㌶ヵ寺と蓋因吾仙人好二楼居づ之詭艮、道

場こハ必設二茎観づ也。

(注1) 例えば、『釈名』釈宮室に「観は、観なり。上に於いて観望するなり」 と。 (注2) 『史記』巻十二、孝武本紀および巻二十七、封禅書に、斉の方士、公孫 卿の言として「偉人楼居を好む」と。

(観)

は、もともと楼閣の通称。その上で観望できることを言うの

である。すべて道士の居住するところを、(観)と絵称する。仏家を

寺と称するのとほぼ同じ。けだし「他人は楼屠を好む」という説に

よって、通院には必ず台観を設けるのである。

中天ノ積翠玉裏道ナリ

上帝ノ高居緯節朝ス

中天ハ半天。積翠ハ山色濃ナル也。以二積翠づ磯コ玉毒。、雄麗己。

妙ナリ。天台山ノ賦二塊茎中天。シテ而懸り居″ト。今用二中天づ輿二玉董一相

通ス、本"ク此ニ。此句、在け麓二仰テ望ム。山色浮二動シ辛空て

玉壷杏

然トシテ不レ知二何ノ虞づ也。上帝ハ天希也。漢書郊祀ノ歌ニ、遊プ閤闘一一-観い玉毒づ。註。玉董ハ上帝之所居。因プ玉董之名一一て

表乍之ヲ日二上

尋ノ高居㌔謂下奉コ〝天草づ之殿烏。経薗亦以レ色ヲ引レ類ヲ。梁ノ郡陵王

祀二魯山ノ紳ヲ文ニ、緯節陳竿、満堂紫ク合ス。言二仙官執け之ヲ朝技ス″

者づ。喩二道上ノ蓼鐙▼㌔也。此登臨シテ所レ見、言≡果然天上神仙之居、

非コ復人間之境-一-也。二旬以二倍仰づ起。下管承レ之ヲ、一倍一仰、錯

(7)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八)

綜シテ弄招巧ヲ。

(往3) 『唐詩貰珠』 (巻四十四、壇観) に「中天は、半天」と。 (往4) 『唐詩貰珠』 に「山容、横翠を以て王台に槻す、雄澄」と。 (往5) 『文選』巷十一、晋・孫綽「天台山の賦」に「双閑雲のごとく凍ちて 以て路を爽み、壕台中天にして懸り居る」と。輯註(巻十二) に挙げ、 宇都宮遊庵の増広本にこれを引く。 (注6) 『唐詩貰珠』に前浜■劉向『新序』刺奇矯の「貌の嚢王、将に中天の台 を為らんとす」云々とあるのを挙げて、「今、中天を用いて台字と相通 ず。此れに本づく」と。 (注7) 『漢書』巻二十二、礼楽志に引く「郊祀歌」十九首の「天馬」十に見え、 応勧の注に「開聞は天門、玉台は上帝の所居」と。帝註に挙げる。なお、 醇益『分類』 (巻一、奇観)、顧怠『註解』もほぼ同じ。いずれも、宇都 宮遊庵の増広本にも挙げる。 (注8) 顧寅『註解』 に挙げる黄経費の説に「玉台は原と上帝の屠、其の命名 に因って、故に之を表して上帝の居と日ふ」と。宇都宮逓庵の増広本に

もこれを挙げる。黄維肇については、訳注満喫029「狂天」詩の(注10)

参照。 (注9) 『唐詩貫珠』に「辟節亦た色を以て類を引く」と。宇都宮遊魔の詳説に 「緑節ハ、赤色ノ施節ヲ云」と。 (注10) 『嚢文類宋』巻七十九、霊異部下、神に見える。覇註に挙げ、宇都宮遊 庵の増広本にこれを挙げる。 (注11) 『唐詩貫珠』 に、(注9) に挙げた箇所に続けて「仙官の之を執って朝 洪する者を言ふ」と。

(中天)は、半天。(積翠)は、山色が濃いことである。(積翠)

(玉台)を際立たせており、雄麗にしてすでに絶妙だ。「天台山の賦」

に「壕台中天にして懸り居る」と。今ここで(中天)と(玉台)と

を相通じさせているのは、これにもとづく。この句は、山麓にあっ

て仰ぎ望んだもの。山色が半空に浮動し、(玉台)は杏然としていづ

ことも知れないのである。(上帝)は、天帝である。『漠書』郊祀歌

に「開聞に遊び、玉台を観る」とあり、注に「玉ムロは、上帝の所居」

と。(玉台)の名によって、これを表して(上帝の高居)という。元

姶天尊を奉ずる神殿のこと。(緯節)もやはり色彩語であるから道

観に嶽のある同類のものを引く。梁の那陵王「魯山の神を祀る文」

に「繚節陳竿、満堂繁く会す」と。仙官のこれを執ってぐるりとと

りまく者を言う。道上の参礼に喩えるのである。これは登臨して見

たもので、案の定、天上の神仙の居は、もはや俗世間の境ではない

ことを言うのである。二句は傭仰をもって起こす。以下みなこれを

承け、一倍一仰、錯綜して技巧をこらしている。

遂。有二葛夷束テ撃㍗鼓ヲ

始テ知ル姦女善ク吹レ斎ヲ

※姶知…キ、シニタガハズ

逐。有ハ言≡筆触眈二管朝集シテ、逐二有コ仙紫之奏一也。鵜夷ハ水神。洛

紳ノ斌。礪夷鳴ル鼓ヲ女嫡清吹ス。河固こ云、礪夷ハ河伯ノ夫人。因…J山

臨㌻江。用レ之ヲ。鼠音盈。鼠女ハ秦穆公ノ女弄玉。善ク吹レ庸ヲ、逐。

蒸け鳳。升仙ス。秦ノ姓兢氏、故日こ鼠女㌔蓋観主必係二女練師一、。満

夷京女骨比閏観申ノ女造士奏詔書欒づ署長。撃レ鼓ヲ吹レ籍ヲ即僕二養スル

天啓づ之楽壇。始知トハ者、向。侍二弄玉吹け庸ヲ昇仙→今見誓玉墓ノ女

冠づ、果シテ信二然り臭。言三共容儀欒調、遊。非プ凡人一一-也。上旬傭聞、

下旬仰見。

(往12) 『文選』巻十九。貌・曹植の作。『集千家註』 (巷十) の王沫注に引き、 宇都宮遊庵の増広本にも挙げる。 (注13) 『唐詩貫珠』に「広雅に河伯、之を構夷と云ひ、類書も亦た鳩夷は華陰 の人、花八石を服して永仙と為るを待と云ふと維も、河囲に又た載すら く、河伯、姓は呂、名は公子。夫人、姓は罵、名は夷と。即ち此の詰も 亦た女を以て之を用ふる耳」と。河図は、『龍魚河図』 のこと。ちなみ に、清∵顧炎武『日知録』巻二十五、河伯の粂に「龍魚河図に日く、河 伯、姓は呂、名は公子。夫人、姓は鳩、名は夷と。裾夷を以て河儲の妾 と為す、更に怪」と。 (注14) 練師は、錬師と同じ。修行を積んだ徳の高い道士。『大唐六典』巻四、 両部郎中・員外郎の粂に「毎観、観圭一人、工座一人、監斎一人、共に 衆事を綱統す。而して道士修行に三号有り。其の一に日く、法師。其の

(8)

文化情報学部紀要.第7巻,2007年 二に日く、威儀師。其の三に日く、律師と。其の徳高くして恩精しき、 之を錬師と日ふ」と。 (注15) 『唐詩貫珠』に「始めて知るとは、蓋し言ふこころは向に弄玉、鮪を吹 くと伝ふ、今、女冠を見るに、果して膚に然り奏」と。女冠は、女道士。 唐代、女道士が黄冠をつけたことによる。

(遂に有り)は、群仙がすでに全員参集して、(遂に)仙楽の演奏が

(有)ることを言うのである。(礪夷)は、水神。「洛神の賦」に「馬

夷鼓を鳴らし女嫡清吹す」と。『河図』に云う、「鳩夷は河伯の夫人」

と。山が江に臨んでいるのでこれを用いる。(鼠)、字音は盈。(蔵

女)

は、秦の穆公の女、弄玉。(善く篇を吹)き、遂に鳳に乗って

升仙した。秦の姓は義民で、それゆえ(京女)という。けだし道観

の主はきっと女錬師であったにちがいない。(嬬夷)

(京女)

は、い

ずれも道観の女道士で音楽を奏でる者に比した。(鼓を撃)ち(篇を

吹く)のは、とりもなおさず天尊を供養する音楽である。(始めて知

る)とは、これまで(弄玉)が(斎を吹)

いて昇仙した話が伝わっ

ていたが、今こうして

(玉台)

の女冠を見ると、案の定、聞いてい

た通りであった。その容儀や楽調が、決して凡人のものではないの

を言うのである。上旬は侍して聞き、下旬は仰いで見たもの。

江光隠見ス亀電ノ窟

石勢参差タリ鳥島橋

※隠見…ミヘツカタレツ 亀蒐窟…ヌシスムフチ 参差…フソロヒ

隠見ハ言二乍陪ル乍見項ヲ。木筆力海ノ既二或ハ層二没ス子亀箇之穴■㌔。讃二

深澤づ也。此蒙二馬夷て言下山下江光之遠キ、水物ノ所二窟宅ぺル、深

暗。シテ不㌘測ラレ也。

容スル斜敏之勢づ爾。

蓼差ハ不レ努力ラ貌。言二雁歯之状づ。或ハ只形二

港南子こ烏鴇嘆け河ヲ成レ橋ヲ以渡コ織女づ。蓋女冠

所二往来て、山澗架コ石橋づ、比雪天河づ稀は之ヲ。言二其高ク懸州ヲ。上

蒙二義女づ、下引二羽翰づ。此聯亦分三焉ス傭窺卜輿コ仰槍一。帝展

卿云、隠見参差、絶テ是摸擬不レ走ラ之詞。二旬皆恍惚奇怪之状、

所三以摸二寓ス仙嶺警也。

(注16) 郡僚『集解』 に、「隠見」 の下に「乍ち隠れ乍ち見る」と。 (注17) 『文選』巻十二。顧辰『註解』に引き、宇都宮遊庵の増広本にもこれを 挙げる。 (注18) 輯註に「竃懸は鳩夷を蒙り、烏鶴橋は窺女を蒙る」、「上は只だ江光の 遠きを言ひ、下は只だ石勢の高きを言ふのみ」と。宇都宮遊庵の増広本 にこれを挙げる。 (注19) 郁停『集解』 に、「電磁窟」 の下に「深暗にして測られず」と注する。 (注20) 昏益『分類』(巷一、寺観)に「参差は、斉しからざる貌」と。宇都宮 遊魔の増広本にもこれを挙げる。 (注21) 『自民六帖事類集』巻二十九「鶴」に引く『漁南子』に「烏鶴河を填め て橋を成し以て歳女を渡す」と。辟益『分類』、顧辰『註解』に挙げ、い ずれも宇都宮遜庵の増広本にこれを引く。 (注22) 帝益のこと。『分類』 は、宇都宮遊庵の増広本にこれを引く。

(隠見)

は、隠れたかと思えばたちまち現われることを言う。木筆

の「海就」に「或いは亀箇の穴に層没す」と。深い淵のことである。

これは(馬夷)を受け、山下の(江光)が遠くて、水物の棲む(窟)

宅が深暗で測りしれないのを言うのである。(参差)は、ふぞろいの

さま。雁歯のさまを言う。或いはただ斜めに傾いている態勢を形容

するにすぎない。『漁南子』に「鳥鶴河を填めて橋を成し以て織女を

渡す」と。けだし女冠の往き来するところで、山間の谷川には石橋

が架かり、天の河を比してこれを称する。その高く懸かるのを言う。

上は(巌女)を受け、下は(羽翰)を引き出す。この聯もやはり侍し

て窺い見たものと仰いで望み見たものとを分けて描写している。帝

虞卿が云う、「(隠見)(参差)は、すべて模擬不定(しかと擬えられ

ない)

の詞。二句はいずれも恍惚奇怪のありさまで、仙境を模写す

るゆえんである」と。

雪。有シ紅顔ハ生コ″羽翰→

便應看貫髪ハ老二漁榛l㌧

※紅顔…サクライロ 黄髪…ツヤヌケタルアタマ

紅顔ハ指=女冠づ。玉墓ニシテ而紅顔、得㌔其所づ哉。生コルハ羽翰三口二

(9)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八)

成㍍彗飛昇づ″ヲ。黄繋ハ自謂二稚穣づ。豊玉壷之観、眞。天上ノ仙界、

見訓。観中ノ女冠て

皆己。非二凡人-一■桑。且因三共境高過、馨二出ス″こ雲

零-「

殆健三人ヲシテ有二親諷欲描ル仙セント之思一。然。亦唯紅顔芳年之

人。シテ而可=∵以得二駐レ顔生㌶。トヲ翼ヲ耳。如ひ我腰丈夫→固ヨリ非レ所二企

及一。況ヤ乃蒙己こ黄垢、尤螢二稚積づ。故。自甘咋ア老コトヲ於漁礁之

開-「

不三敢テ慎二非分之望づ也。以三仰羨卜輿二伸悲一野ン言テ南緯レ

之ヲ。時。公自レ梓来レ闘。、聞二此観之膠づ、蓬糞シテ以遣レ意ヲ、面牢落

之感、終二不レ能レ忘拍卜懐ヲ。柳柳州所レ謂孤生易レ為レ感ヲ、失路少レ

所レ宜、良二可レ嘆ス也。此詩解者多ハ穿整、使二作者ノ精神埋没巧

何ソ其悼惜ナ″邪。羽翰ハ平聾。此二作コ灰音→。蓋亦卒去通用ス″也。

(注23) (有)字、銭注(巻十三) は(肯) に作り、「一に有と云ふ」と。 (注24) (翰)字、銭注および輯註は(翼)に作り、「一に翰に作る」と。輯註 は、宇都宮遊庵の増広本にもこれを挙げる。 (注25) この言い方、『孟子』万車上に「子産日く、其の所を得たる哉、其の所 を得たる哉」と見える。 (注26) 顧恵『註解』 に「其の実は此の観、膝王の造る所に過ぎず。而して境 界高く退かなり。遂に人をして瓢諷として仙せんと欲するの思ひ有ら しむ」と。宇都宮遊庵の増広本にもこれを挙げる。 (注27) 柳柳州は、中庸・柳宗元(字は子厚。七七三∼八一九) のこと。最終 の官位が柳州(今の広西省柳州市)刺史であったので、かく称する。そ の「南渦中に題す」詩(『柳河東集』巻四十三/『全唐詩』巻一二五二)に、 次のように詠ずる。 去団塊巳蔽 懐人波空垂 孤生易鵠感 失路少所宜 索莫責付事 排禍砥自知 誰薦後来者 首輿此心期 (注28) 例えば、郡倦 国を去って魂己に落し 人を懐うて涙空しく垂る 孤生 感を為し易く 失路 宜しき所少し 素莫 寛に何事ぞ 排御 蔵だ自ら知る 誰か後来の者と為って 当に此の心と期すべし 『集解』に「趨濱州が測旨に云く、此の観中蓋し女道士。 秋気集南洞 濁遊亭午時 週風〓軍琵 林影久蓼差 姶重苦有得 弗探逐忘疲 繹禽響幽谷 寒藻舞給源 秋気 南洞に集まり 独り違ぶ亭午の時 週風一に茹穿たり 林影 久しく参差 始めて至るに得ること有るが若し 聴く深くして遂に疲れを忘る 稀禽 幽谷に響き 寒藻 倫紡に舞ふ 是の時、其の淫械を剃る。中の四旬、皆此の詞。諸註、其の仙境を美む と、誤れり奏。言ふこころは観商うして神を奉尊して、以て世を惑はす。 遂に名を道統に借る者有り、来たりて道姑(女道士のこと)に通ず。姑、 誘ひて外人を致す。始めて知る善く膳を吹いて能く鳳を引くことを。 観の地踪跡明らかならず。無頼の巣窟と為り、曲径潜かに通ずること、 鶴橋の牛女を渡すが如し。私会淫械此の如し。更に長生して飛仙と為 る者有りと雄も、我亦た漁礁に老ゆることを甘んじて、往きて従はぎる なり」と。 遁濱州は、明・遭大綱(字は万挙) のこと。嘉靖二十年(一五四一) の進士で、『杜律測旨』 二巻がある。 なお、宇都宮遊庵の両著に「為レ無ルト頼二巣窟曲径潜カ。適ぺ窒」と訓点を 施すのは、誤り。 (注29) この言い方、『唐詩貫珠』に「乃ち此の詩解する者、強ひて飾鼓を以て 道士と謂ひ、紅顔を自己と謂ふ。則ち膳夷鼠女、豊に発症に非ずや。作 者の精神をして埋没せしむ」と見える。

(注空

訳注塙呵041「厳中丞駕を柾げて過ぎらる」詩の詳解に「案ずるに張

翰字は季鷹、是れ羽翰の翰。今用いて灰声と作す。後人遂に之を襲ふ。 故に劉辰翁云ふ、翰、平声ならざるは之に拠ると。蓋し此れ自り創用す るなり」と。

(紅顔)は、女冠を指す。(王台)にして(紅顔)とは、その所を得

たふさわしいものであることよ。(羽翰を生ず)は、仙人となって飛

昇することを言う。(黄髪)は、自ら爺むさい姿をいう。けだし(王

台)の(観)は、真に天上の仙界であって、(観)中の女冠を見るに、

(10)

文化情報学部紀要,第7巻,2007年

骨はや凡俗の人ではない。それにその地の高く週かにして、雲零に

奪え出ていることから、ほとんど人にふわふわと今にも仙人となっ

て飛翔するような思いをさせるのである。されどやはりただ(紅顔)

で若盛りの人だけが顔色を留め巽を生ずることができるのだ。自分

のような腰丈夫はもとより企及するところではない。ましてや(髪)

はもう黄ばみ薄汚れ、とりわけ爺むさいのを覚える。されば自ら(漁

礁)

の間に(老)

いるのに甘んじて、分不相応の望をよう抱かない

のである。仰いで羨むのと僻して悲しむのとを対偶にして言い結び

とする。当時、公は梓川から閏州にやって来て、この(観)

の景勝

を聞き、遊資して気晴らしをしたが、牢落の感は、ついぞ胸の内よ

り忘れ去ることができなかった。柳柳州のいわゆる「孤生感を為し

易く、失路宜しき所少し」というもので、まことに嘆ずべきことで

ある。この詩は解する者の多くが穿笠し、作者の精神を埋没させて

いる。なんといったいでたらめではつきりしないことか。(羽翰)

(の翰)

は平声。ここでは灰音とする。けだしやはり平声と去声と

通用するのであろう。

054奉二審ス章十倍御-㌦

章十、名ハ奔、揚州ノ人。官侍御史。公自注。時二初テ罷二梓州ノ刺史東

川ノ西彼づ、賂ン㌦復赴ント朝廷一1。案二上元二年、梓州ノ刺史段子嘩

反ス。自蔵室梁王ぺ陥加諸州づ。南川ノ節度使共。攻テ平レ之ヲ、奔輿リテ

有レカ焉。因テ任"〕梓川ノ刺史一一て兼二東川苗後づ。故二此詩稀コ其偉

功づ、惜レ還コ朝■㌔也。

(注1) 『文体明弁』 (巻二十五、近体律詩下、七言、簡寄) に「名は奔、揚州 の人」と。 ちなみに、杜甫が章奔に言及した作として、「章留後侍御に陪して商 標に宴す。風字を得たり」詩、「章留後侍御が忠義寺に募州の凝都督の 州に赴くを餞するに陪す」詩、「章梓川の水亭」詩、「章梓州の橘亭にて 成都の蜜少デを餞す、涼字を得たり」詩、「章留後が新亭の会に随ひ諸君 を送る」詩、「冬狩行」、「桃竹杖引、章留後に贈る」、「将に呉楚に適lかん として章使君留後兼び幕府の諸公に留別す、柳字を得たり」詩等(以上、 いずれも詳註巻十二) がある。 なお、章奔については、新旧『唐書』に伝は立てられていないが、『旧 唐書』厳武伝に「梓州刺史章奔、初め武の判官為り。是に及んで小しく 意に副はず。成都に赴きて之を杖殺す」、『新唐音』厳武伝に「梓州刺史 章葬、始め武の判官為り。小倉に因って之を殺す」と見える。但し、清-浦起龍(一六七九∼一七五九以後)の『読放心解』(巻四)は、厳武が章 奔を杖殺したというのは、史家の誤りで信用できないと説く。四川省文 史研究館編『杜甫年譜』 (四川人民出版社、一九五人年)も同様。 (注2)

訳注稿軍036「杜位に寄す」詩の詳解に「是の歳、段子埠東川に反し、

萄中騒然たり」とあり、その (注12)参照。 (注3) この言い方、例えば『史記』巻六十五、孫子呉起列伝に「名を諸侯に 顕はすは、孫子与って力有り焉」と。

(章十)、名は奔、揚州の人。官は侍御史。公の自注に「時に初めて

梓州刺史・東川留後を罷め、将に復た朝廷に赴かんとす」と。案ず

るに、上元二年(七六こ、梓州別史の段子嘩が反した。自ら梁王と

称し、諸州を陥れた。剣南東川・西川の両節度使が共に攻めてこれ

を平定したのは、章奔の力によることが大きかった。それで梓州刺

史に任ぜられ、東川留後を兼ねた。それゆえこの詩はその偉功を称

え、朝廷に召還されるのを惜しむのである。

准海維場ノー倭人

全章紫綬照二青春→

※青春‥・ワカザカリ

丙貢二推ヨリ海マテ維レ揚州。後世困ア稀雪揚州づ日二維揚㌔才智過"人。

日レ俊ト。金華ハ金印。紫綬ハ紫蘇傾紫レ印ヲ者。濃公卿表。三公徹侯ハ

金華紫綬。蓋奔以レ功ヲ侃レ之ヲ。照ハ濯也。青春ハ謂二年少づ。驚喜

葬力南州ノ英俊、少年ニシテ顔貴→写也。

(注4) 『尚書』謁貢。『文体明弁』および輯註(巷十一) に挙げ、輯註は、宇 都宮遊庵の増広本にもこれを挙げる。

(11)

二宮俊樽/津阪東陽『牡律詳解』訳注稿(八) (注5) 醇益『分類』(巻二、簡寄)および顧蔑『註解』に「才智人に過ぐるを 俊と日ふ」と。いずれも、宇都宮避庵の増広本にもこれを挙げる。また 『文体明弁』も同様の注。 (注6) 『文体明弁』 に「紫綬」の下に「紫糸條印を繋ぐ者」と。 (注7) 輯註に「漠公卿表に、三公徹侯並に金印紫綬」と。『漢書』巻十九上、 百官公卿表上に三公 (太俸・太師・太保) や徹侯(勲功ある者に与えら れる最高の爵位) は金印紫綬を帯びたことが見える。輯註は、宇都宮遊 庵の増広本にもこれを挙げる。 (注8) 辞益『分類』に「青春は、年少なり」と。『文体明弁』にも「年少を言 ふなり」と。『分類』 は、宇都宮遊庵の増広本にも挙げる。 (注9) 郡侍『集解』 に「言ふこころは章奔は揚州の英俊、少年にして顕貴」 と。南州は、南方の地。訳注稿㈲、046「野望」詩の(注5)参照。

「南貢」に「漁より海まで経れ揚州」と。後世因って揚州を称して

(維揚)という。才智が人に過ぎるのを(俊)という。(金章)は、

金印。(紫綬)は、紫のひもで印を繋ぐもの。『漢書』公卿表に「三

公徹侯は金華紫綬」と。けだし章奔は勲功によってこれを偲びたの

であろう。(照)は、耀である。(青春)は、年若いこと。章奔が南

方の地の英俊で、若年にして顕貴なることを潰えるのである。

指l麺シテ能事→同コシ天地づ

訓二練強兵→動コ鬼紳→

※指揮…キリモリ 能事…ヱテノコト

指シテ示ヲ日レ指ト、手ニテ使ヲ日レ揮ト、謂レ虞二置スルヲ事づ也。能事ハ謂二其

所レ長スル之事づ。同…」スハ天地づ猶レ云二旋ル乾ヲ韓㌶坤ヲ。謂二牌略太

雄→ルヲ也。動ひ鬼融ヤ言下雄二鬼神ふ警而避㌘之ヲ。上旬質問其卒≠逆

乱づ、萄中始テ安㍍。下旬乃稀コ平生之素づ、亦倒括句法。

(注10) (揮)字、銭注(巻十三)は (靡) に作る。 (注u) 醇益『分類』 に「指して示すを指と日ひ、手にて使ふを揮と日ふ。史 伝申に用ひて以て処置の義と為す」と。宇都宮遊庵の増広本にもこれを 挙げる。 (注12) 『文体明弁』に「回天地」の下に「猶ほ乾を旋らし坤を転ずると云ふが ごとし」と注する。中唐・韓愈「潮州刺史の上に謝する表」 (『韓昌黎 集』巻三十九)に「陛下即位以来、窮親ら聴断す。乾を旋らし坤を転じ、 開楼閣閲す」と。 (注13) 例えば、清・沈徳潜『説詩禅語』巻上に「少陵に倒挿の法有り、『畳表 姪王泳評事を送る』簾中に(上は云ふ天下の乱)云々、次に(次に云ふ) 云々、初めより英人を説き出さず、而して下例に補って云ふ、(秦王時に 痙に在り、真気戸備に驚く)と。此れ其の法なり。『麗人行』篇中に(名 を賜ふ大国観と案と)、(慎んで近づき前む莫かれ丞相唄る)と。亦た是 れ此の法」と。

指さし示すのを(指)といい、手で使うのを(揮)といい、事を処

置することである。(能事)は、その長けている事柄のこと。(天地

を回らす)は、「乾を旋らし坤を転ず」というのとほぼ同じ。用兵の

軍略がはなはだ雄大なことである。(鬼神を動かす)は、(鬼神)

さえ畏れてこれを避けることを言う。上旬はその道乱を平らげ、萄

全土がやっと安定したの潰え、下旬はかえって平生の素行を称える。

やはり倒挿の句法。

湘西不レ得レ掃コ。トヲ関羽づ

河内旛宜レ傍訓完拘づ

※不得帰…カヘシテハナラヌ

萄志。先主収二江南ノ諸郡づ、秤雪関羽一箪一義陽ノ太守盤老将軍ぺ

董二督七シム荊州ノ事づ。不い得レ蹄ス。トヲ言レ不"得二召け之ヲ蹄ポヲ朝二也。

後漠書。寅拘為二溝川ノ太守ぺ後移二汝南ノち穎川盗起″。革駕親

征ス。何役テ至二穎川「盗悉降宅百姓速け造ヲ、願下復倍加。ト寅君二

年㍍、乃霞侵拘ヲ。倶。係=辛け乱ヲ苗リテ銭ス″事ノ盲喩二其不一㌻雷二罷テ

去一。奔討二苧テ銅乱づ、濁中倍量ス。須丁偽テ烏…J東川ノ苗後ぺ如酔″開

羽之苗リテ督乙荊州ノ専門、而ル。今罷け任ヲ蹄レ朝。、萄人ノ所レ惜。猶宜丁

再来テ刺づン。ト梓州「如耐″溝川ノ民借乙売拘門也。陸機排亡論。漠王

報㌘関羽之敗一「

固レ収ン。与湘西之地づ。註。湘西ハ荊州ノ地也。湘西

用二之ヲ関羽力事-一て本"ク此ニ。借㍊蒐拘→者(穎川也。今言か河内」似二

是誤用「蓋穎川ハ卵古河内ノ地、輿三菱陽稀コ湘西」同也。

(注14) 憲一国志』濁番、関羽伝。櫓註に挙げ、宇都宮遊魔の増広本にもこれを

(12)

文化情報学部紀要,第7巷.2007年 引く。 (注15) ちなみに、鈴木虎雄『杜少陵詩集』 (巷十三) は、「不得帰」について 「帰は英人の手に帰属するをいふ。(仇注に帰朝せしむる義となせるは 余之を採らず。)」とし、第五旬を「君がここから去ってしまへば湘西(梓 州)は関羽(章)の手に帰すること(君の支配をうけること)ができぬ」 と解する。 (注16) 『後漢書』東伯伝。帝益『分類』 に「光武、河内を収めて走陶を拝し て太守と為す。後に穎川に移る。又た汝南の太守に移る。穎川盗賊群 起して、奉賀親征す。拘従って穎川に至り、盗悉く降る。百姓道を 遮って日く、願はくは陛下に従って復た売君を借ること一年ならんと。 廼ち拘を留む」と。河内は、河南省の黄河以北の地域。穎は穎の靴字。 穎川は、郡名。その治所は、今の河南省南州市。汝南は、郡名。その治 所は、今の河南省平輿県の北。『分類』は、宇都宮遊庵の増広本にもこれ を挙げる。 (注17) 原文は、宜字の下に「T」点を放く。今、これを補う。 (注18) 『文選』巻五十三。五臣の呂向注に「湘西は則ち荊州の地なり」と。輯 註に挙げ、宇都宮遜庵の増広本にもこれを挙げる。

『萄志』

に「先主は江南の諸郡を手中に収めると、関羽を任命して

嚢陽太守・盗蒐将軍とし、荊州の軍事を総督させた」と。(帰すこと

を得ず)は、これを召して朝廷に帰えすことはできないと言うので

ある。『後漢書』に「蒐拘は穎〔穎〕川の太守となり、後に汝南に移っ

た。穎〔穎〕

川では盗賊が起こり、光武帝の奉賀が親征した。売悔

がそれに従って穎〔穎〕

川に至ると、盗賊は一人残らず投降した。

民衆は道を遮って、再び鬼君をもう一年借り受けたいと願い出た。

そこで尭拘を留め置いた」と。どちらも乱を平らげ留って鎮守した

故事にかかる。その罷め去るべきではないことに喩える。章葬は禍

乱を討伐平定して、萄中が頼りとして重んじた。そのまま東川の留

後として、関羽が荊州に留って軍事を総督したようにすべきなのに、

しかるに今、任を罷めて朝廷に帰るのは、萄人の惜しむところであ

る。それでもどうか再びやって来て刺史として梓州を治めること、

穎〔穎〕川の民が蒐拘を借り受けたようにすべきである。陸機の「弁

亡論」に「漠王、関羽の敗に報ひ、湘西の地を収めんことを図る」

とあり、注に「湘西は、荊州の地なり」と。(湘西)を関羽の故事に

用いるのは、これにもとづく。(寅拘を倍る)のは、穎〔穎〕川であ

る。今、(河内)と言うのは、誤用しているかのようだが、けだし穎

〔穎〕

川はとりもなおさず古代の

(河内)

の地で、嚢陽を

(湖西)

と称するのと同じなのである。

朝教徒容トシテ問ひ幽側づ

勿レ云コト江漢有コ垂給一

※従容…オハナシツイデニ 幽側…ヒカゲカタイナカ 垂給…サルモノ

親ハ見レ君二也。幽倒ハ幽僻側陣ナリ。沈約力恩幸論二明二揚二幽側づ、惟

才是輿ス。江漢ハ楚中水ノ名。時二公勝工去け萄ヲ下ント荊南て

故二以二江

漠づ薦レ言ヲ。輪ハ釣練也。重い給ヲ言レ為当漁象」。後漠厳光停こ光

陰ルテ身ヲ不レ見、帝令下以二物色づ訪上レ之ヲ。帝国上言ス、有二一男子一

被ジ羊裏づ釣コ澤中-一石此暗。用レ之ヲ。言丁其歩か朝廷訪二間ス写遺逸づ、

勿n以レ我ヲ為;野ヲ。吾賂富男漁父」絡山い身ヲ、無酌復意乙出テ仕伸二也。

蓋公老テ且病、世念渾壷ス。或ハ謂反咋ア詞ヲ以致レ喝ヲ。

(注19) (側)字、銭注および輯註は(灰)に作り、輯註に「側通ず」と注する。 (注20) 『文体明弁』 に「朝親」 の下に「君に見ゆるなり」と注する。 (注21) 『文体明弁』 に「幽」 の下に「幽人」、「側」の下に「側随」と注する。 (注22) 沈約「恩率伝論」(『文選』巻五十)。醇益『分類』に挙げる。但し、『文 選』 は、(側)字を(灰) に作る。音義同じ。また李善注本は、(揚)字 を(数) に作る。 (注23) 『文体明弁』 に「時に公将に荊南に赴かんす。故に江漠と云ふ」と。 (注24) 『文体明弁』 に「給は釣糸、漁人の執る所。垂槍は公自ら謂ふ」と。 (注25) 『後漢書』逸民伝。物色は、李賢注によれば「其の形貌を以て之を求 む」意。 (注26) 顧恵『註解』 に「此の詩是れ其の入朝を送り、奔の幽倒従りして之を 薦揚せんことを望む。(云ふ勿れ)とは、詞を反して嘱を致すなり」と。 宇都宮避庵の増広本にもこれを挙げる。反語と見るのは、『集解』や『文

(13)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八) 体明弁』も向じ。

(観)は、君主に見えることである。(幽側)は、幽僻側陸。沈約の

「恩幸論」に「明らかに幽側を揚げ、惟だ才是れ与す」と。(江漢)

は、発にある水の名。時に公はまさに萄を去って荊南に下ろうとし

ており、それゆえ(江漢)の語で言い表わした。(給)は、釣糸であ

る。(給を垂る)は、漁翁となることを言う。『後漠蕃』厳光伝に「厳

光は身を隠して世にあらわれず、光武帝は人相書きをもって探させ

た。斉国から、とある男が羊の

を羽織って沢中に釣りをして

いると上言した」と。これは暗にこの故事を用いる。朝廷が隠逸の

士を訪問する意向を承れば、私のことを答えないでほしい。私は漁

父となって身を終えようとしており、もはや出仕する意思はないの

だから、と言うのである。けだし公は年老いた上に病み、名利を求

める俗念はきれいさっぱりなくなってしまっていたのだろう。ある

説にいう、反語にして朝廷への推挙を依嘱しているのだと。

贋攣卜荊商事別ス李劫州華

勧州ハ在二間州ノ北一㍉。李為二其刺史「

内弟ナラン也。公連年往二束ス梓閥ノ問一一-弟ハ名也。或ハ疑公ノ外弟若クハ

今欲三出け峡ヲ遊コト剤楚て

不レ

能二面別づ″。ト、故二有二此寄一。

(注1) (弟)字、銭注(巻十三) および輯註(巻十一) にはない。 (注2) 藤益『分類』 (巻二、簡寄)に「剣州は、閏州の北に在り。今の保寧府 なり」と。顧辰『註解』も同じ。いずれも、宇都宮増広本にこれを挙げ る。剣州は、今の四川省剣閣県。 (注3) 『文体明弁』 (巷十五、近体律詩下、七言、簡寄) に題目の (弟) の下 に「挙が名なり」と注するのに拠るが、これは誤り。 挙剣州について、陶敏『全唐詩人名考証』(駅西人民出版社、一九九六 年) は、李昌蝮のこととし、この詩を大暦三年(七六人) の作とする。 また郁賢艦『唐剃史考全篇』 (安散大学出版社、二〇〇〇年)も、前著 『唐刺史考』(江蘇古籍出版社、一九八七年)に李某、広徳二年(七六四) 春初めの作としていたのを改め、やはり李昌檀のこととし、その刺史に 任じられたのを大暦元年 (七六六) とする。 (注4) 釈大典『枚律発揮』 に「蓋為二子実力外弟戎ハ内弟】也」と。外弟は父の 姉妹の子、内弟は母の兄弟の子で、いずれも年下の者。 (注5) 『集千家注』 (巻十) に引く黄鶴の注に「公、萄に在り連年梓閏の間に 往来す。将に峡を出て荊楚に遊ばんとす。後発に果たさず」と。宇都宮 遜庵の増広本にもこれを引くが、(在)字を誤って(任〉に作る。

(剣州)は、同州の北にある。(李)はその刺史で、(弟)は名であ

る。或いは公の外弟もしくは内弟であろうかとする。公は連年、

梓・開の間に往き来し、今、峡を出て荊楚の地に遊ばんとし、きち

んと会って別れの挨拶をすることがかなわないので、それゆえこの

寄する寿がある。

億君ノ高義題事今古→

蓼落三年坐雪ル劫州二

※駆…オヒマクル 坐…ナガサル

便君見二後漠郭扱健一一石漠ノ剃史ハ輿二繍衣直指一同シ。故。稀コ便君」。

若ひ唐之刺史→、則漠之郡守耳。亦稀コ便君ぺ豊治襲之誤耳。駆ハ駆

逐駆除。前無レ古後無レ今也。坐ハ猶レ言レ誠セラ″ト、言=塾咋フレテ事こ為コ

勅州ぺ

或ハ謂い不"遷レ職。、非レ是。。

(注6) 『後漢書㌢郭伐伝に、郭扱が井州の牧となって管内を巡察したおり、西 河美櫻の地で愛児数百人が竹馬に騎って道に出迎え、「使君到ると聞き て喜び、故に来たりて奉迎す」と言ったという。 (注7) 『文体明弁』に「洪の刺史、部邑を糾察す。繍衣直指と同じ。故に使君 と称す。唐の刺史の若きは、別ち漠の部守耳。亦た使君と称するは、蓋

し沿襲の誤り耳」と。繍衣直指については、訳注稿甲039「王十七侍御、

酒を携へて草堂に至ることを許す。此の詩を奉零して、高三十五億君を 邁へて同じく到らんことを請ふ」詩の (注8)参照。 (注8) 『唐詩貫珠』 (巻十四、贈別通人) に「駆は、駆逐・駆除。前に古無く 後に今無きなり」と。 (注9) 釈大典『杜律発揮』 に「坐剣州言≡坐ルナ事二億軍剣州→也」と。 (注10) 『文体明弁』 に「畷を遷さざるなり」と。

(14)

文化情報学部紀要,第7巻,2007年

(便君)は、『後漢書』郭伎伝に見える。漠代の刺史は、繍衣直指と

同じ。それゆえ(使君)と称する。唐の刺史のような場合は、浜代

の郡守なのだ。やはり同様に

(便君)と称するのは、けだし沿襲の

誤まりだ。(駆)は、駆逐・駆除。空前絶後の意である。(坐)は、

諭せらると言うのとほぼ同じ。事に(坐)して剣州の長官となった

ことを言う。或る説に他の職に遷さない意だとするのは、よくない。

但見ル支翁能化㍑ヲ俗ヲ

焉ソ知ン李廣未レ封咋フレ侯こ

※化…オシナオス

湊ノ文翁夢㌫萄郡ノ守べ見三萄僻陣ニシテ有コ攣夷ノ風一、興ン教化づ、起コ

撃宮づ、吏民粛然、風俗蚕二欒ズ。入二循吏博一一石此用二本地ノ事づ、以

美コ其政化づ。即首句二所レ謂高義也。李廉ハ漠ノ名将、守ツリ北平■㌧。

旬奴畏避ク。諸校尉以二軍功づ取二封侯づ、廣凋数奇ニシテ不レ得二爵

邑づ。此用訪問姓ノ事づ、以悲コ其蓼落づ也。焉ソ知ンハ怪嘆ス″之辟。李力

之勤レ政ヲ化は〝俗ヲ、高義偉績、可三以比コ文翁悠

而滴匡蓼落、功名

未レ蓮セ、如二李贋之沈滞→。但見こ徳業之感づ、何ソ料ン数奇乃爾り。

所二以嘆惜ス″也。

(注11) 昏益『分類』 に「前漠循吏伝に、文翁、萄郡の太守と為る。仁愛にし て教化を興す。萄の地僻隋にして蛮夷の風有るを見て、乃ち都県の小吏 の開放にして材有る者張叔等十鎗人を選び、親自ら飾励して京師に誇り て業を博士に受けさしむ」云々とあり、顧蔑『註解』に「前漠循史伝に、 文翁、萄郡の太守と為る。教化を興し学宮を起つ。吏民泰然として大い に化す」と。いずれも、宇都宮遊庵の増広本にこれを引く。また『文体 明弁』 には「漠の萄郡の守、文翁、詩蕃を以て人を数ふ。風俗査に変 ず」と。 (注12) 『文体明弁』に「漠の李広、北平に守たり。旬奴畏れ避く。諸枚尉、軍 功を以て侯を取れり。広独り与らず。此れ同姓の事を用ひて以て之を 惜しむ」と。李広の伝は、『史記』巻一〇九および『漢書』巻五十四に見 える。

漠の

(文翁)は、萄郡の太守となり、萄の僻随にして蛮夷の風があ

るのを見て、教化を興し学宮を立てたが、吏民はこぞってそれまで

とうってかわり風俗がすっかり一変した。循吏伝に入れられてい

る。ここは当地の故事を用いて、その政治的教化を褒めたたえてい

る。とりもなおさず首句のいわゆる(高義)である。(李広)は漠の

名将で、北平の太守であった。旬奴は畏れて避けた。校尉たちは軍

功によって封侯に取り立てられたが、李広だけは数寄な巡り合わせ

で、爵邑を得られなかった。ここでは同姓の故事を用いて、その(蓼

落)を悲しむのである。(焉んぞ知らん)は、怪しみ嘆ずる辞。李

剣州の治政に勤め風俗を化するという(高義)偉績は、(文翁)に比

すことができるが、しかるに滴昏(蓼落)して、功名がいまだ遂げ

られないのは、(李広)が沈滞したごとくである。(但だ)徳業の盛

んなのを(見る)ばかりで、数奇ぶりがかかる具合であるとは、ど

うして思おうか、思いも寄らぬことだ。嘆惜するゆえんである。

路産二濫潤づ讐蓬驚

天入二法浪二釣舟

※蓮饗…ミグレガミ

濫滴堆在二埋塘峡口ぺ。下レ峡ヲ第一ノ悪瀬。舟胎動貢レハ靴覆没ス。

過ルハ此ヲ別人レ楚こ始テ為二漫流安穏→鎗浪ハ楚中ノ水名。漠江ノ下流、

即楚辟漁父所"歌者、遊二詳雪子前-一石讐蓬蜜ハ老人髪短ク隻変乱テ

如二蓬花」也。天ハ言二其沓遠→ルヲ。入ハ言レ赴コ其地一一-。蓋望二其所づレ

之ク、入=水天一色中ぺ也。此篇上界ハ稀二李勧州づ、下界ハ預シメ造下

赴二剤南ノー之況㍍。去レ萄ヲ穿け峡ヲ而下″、長程開聞、殊二不二容易て。

路経二能瀬維険之溌づ、兢兢タ″危舟、目眩シ澹寒シ、而以二蓬蛍衰老之

身づ、陵ジ此艶難之苦づ、情良。可レ哀夷。既。出レ峡ヲ入レ楚こ、則天閑

地長、江湖浩秒、扁舟往テ人二其積雪二親二蕩シテ於雲水ノ問一「逐二鳥プ漁

父丁終″焉。即秋興二所レ云、江湖満地一漁翁。其孤寂夢一何如」哉。

鎗浪釣舟、.暗二本ツク漁父鎗浪之歌一「句中有レ脈。蓬輿レ釣字不レ

封七、亦唯気蒼ニシテ局大ナリ、不二必シモ匠匡をア泥ぺ臭。申滴光云、王李

七子、全学二此句法づ。

(15)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(八) (注ほ)

溢滴堆については、訳注稀甲0381所思」詩に「放さらに錦水に遮っ

て双涙を将て、好し過ぎん埋唐の凝溜堆」とあり、その詳解参照。また

沿浪については、訳注稿㈲、029「定夫」諸に「万里橋西壷堂、百花薄

氷即ち瞼浪」とあり、その詳解参照。 (注14) 『唐詩貫珠』に「上界は挙剣州を言ひ、下界は巳に荊常に赴くの景を言 ふ」と。 (注15) 『杜詩偶評』 (巻四) に「路凝滞を経双蓬欒」旬の右傍に「預め荊南に 赴くの景を道ふ」と注する。 (注16) 『唐詩貫珠』に「双蓬撃暮年の人を以てして灘渾絶陵の地を過ぐ、其の 事哀れむ可し臭」と。

(注望

099「秋輿」八首の其七に1閉塞天を極めて唯だ鳥道、江湖滴地二狸翁」 と。 (注18) 『唐詩貫珠』に「楚詞に漁父曾て姶浪の水を歌ふ、釣舟を用ふるは、句 中脆有り」と。 (注19) 詳註(巻十三)に「申滴光日く、(路灘瀬を繚双蓬蜜、天拾浪に入る一 釣舟)、王李七子、全く此等の句法を学ぶ」と。 申滴光(一六一七∼一六七七)は、明の道民で、字は字孟、号は鬼盟。 その著『説杜』一巻は、現在散侠。孫微「申滴光《説杜》一巻輯侠」(「牡 甫研究学刊」二〇〇五年第四期)がある。王李七子は、明の嘉靖・隆慶 年間に活躍したいわゆる後七子(嘉靖の七子) のことで、王世貞(字は 元美、号は鳳洲。一五二六∼一五九〇)と李撃龍(字は干鱗、号は槍浜。 一五一四∼一五七〇)とを始めとして、謝榛(字は茂榛、号は四浜山人。 一四九五∼一五七五)・宗臣(字は子相。一五二五∼一五六〇)・梁有誉 (字は公美、号は蘭汀)・呉国倫(字は明卿。一五二五∼一五九三)・徐 中行(字は子輿。?∼一五七八)をいう。 ちなみに、これら後七子については、その七律三百八十八首を採録し た陳継儒旬解・李士安補注と称する坊刻本の 『新刻陳眉公致正国朝七子 詩集註解』七巻があり、延享四年(一七四七)刊本が扱高番院刊の 『和 刻本漠詩集成捻集篇第七集』 に収められている。

(凝滞)堆は、笹塘峡の入り口にある。三峡を下る第一の悪瀬。舟

船はともすれば転覆沈没する。ここを過ぎれば楚に入り、やっと流

れがゆっくり穏やかになる。(槍浪)は、発にある水の名。漠江の下

流で、『楚辞』に漁父が歌うものにほかならない。いずれも前に詳し

い。(双蓬栄)は、老人の繋が薄く両方の襲が乱れて蓬花のような状

態のことである。(天)は、そのはるか遠いのを言う。(入る)は、

その地に赴くのを言う。けだしその行き先を望めば、水も天も見分

けがつかない只一色の中に入るのである。この篇は、前半部で李剣

州を称え、後半部であらかじめ荊南に赴く様子をいう。萄を去り三

峡をくぐり抜けて下るのに、長い道のりはうねうねと険しく、こと

のほか容易ではない。(路)は(麗滴)という絶険の灘を(経)るが、

びくびくするような危なっかしい舟で、目が眩み肝が潰れてぞっと

する。それなのに(蓬蛍)衰老の身で、この艶難の苦しみを乗り越

えてゆくのは、情としてまことに気の毒だ。三峡を出て楚に入って

しまえば、天は開く地は長く、江湖はひろびろとして、扁舟がその

境に入ると、雲水の間にただよい、そのまま漁父となって終わるの

だ。とりもなおさず「秋興」詩に云うところの「江湖満地一漁翁」

である。そのひとりぼつちの寂しさはいかばかりであろうか。(槍

浪)(釣舟)は、暗に漁父の「槍浪の歌」にもとづいており、句中に

脈絡がある。(蓬)と(釣)とは文字が対偶になっていないが、ここ

もやはりただ気力蒼勤にして局度壮大で、必ずしもちまちまと拘泥

することはないのだ。申滴光が云う、「王李七子は、すっかりこの句

法を学んでいる」と。

戎馬相違ン要二何ノ日ソ

春風同丹ノ首ヲ仲宣棲

※戎馬…イクサハラ 回首…ナツカシガル

魂ノ三条字ハ伸宣、漠ノ未以二西京擾乱づ、之プ刑州一一-依二劉表ぺ。登二江

陵ノ城模㌦-作二思郷ノ賦づ。後人嘩丁名雪伸宣模」。公以二伸宣づ自比ス。

言下時。冠乱末レ息、後期難レ必シ、行到二江陵「

登ジバ仲宣之模「

病相憐テ、殊こ切雪感傷-㌔。乃廻け首ヲ面懐プ使者て

不髭勝二懸慈之

情㌦-也。蓋公必有レ感霊。ト干剣州之恩義-一て故。其言如レ是ノ也。春

風ハ言下至こ其地■一-之時㍍耳。然主亦懐レ恩ヲ之意、在二其中㌦-桑。

(16)

文化情報学部紀要,第7巻,2007年 (注20) 昏益『分類』 に「貌の玉条、字は仲宣、司徒召して黄門侍郎に除せら る。西京擾乱するを以て就かず、乃ち荊州に之き劉表に依る。江陵の楼 に登って思郷の既を作る。因って仲宣楼と名づく」と。宇都宮遊庵の増 広本にもこれを挙げる。その作は「登楼の既」として、『文選』巻十一に 収める。なお、玉条(一七七∼ニー七)の伝は、『三国志』巻二十∴親 書に見え、輿勝宏編『六朝詩人伝』 にその訳注を収める (林香奈執筆)。 (注21) 顧恵『註解』に「公、仲宣を以て自ら比して云ふ」と。宇都宮遊庵の 増広本にもこれを挙げる。 ちなみに、杜甫が自らを王粂に比擬した例として、 ・「時を傷んで孔父に悦ぢ、国を去る王粂に同じ」 (「通泉駅、南のかた通泉県を去ること十五里、山水の作」詩、詳 註巻十こ ・「群盗王粂を哀れみ、中年貫生を召す」 (「春日江村五首」其五、詳註巻十四) ・「蒼茫歩兵果し、展転伸宣哀しむ」 (「秋日荊南述懐三十韻」詩、詳註巻二十一) ・「国を去って玉条を哀れみ、時を傷んで更生業す」 (「久客」詩、詳註巻二十二) ・「聞くが如し馬融が笛、侍るが若し伸宣の襟」 (「風疾舟中枕に伏して懐を書す三十六韻、湖南の親友に呈す」昔、 詳註巻二十三) とあり、また仲宣楼については、 ・「天寒くして巫峡を出で、酔うて別れん伸宣が楼」 (「夜雨」詩、詳註巻十九) ・「此の時同じく一酔するは、応に仲宣が楼に在るなるべし」 (「舎弟観藍田に帰りて新婦を迎ふ、送りて示す二首」其二、詳註 巻十九) t「仲宣楼頭春色探し、青眼高歌書子を望む」 (「短歌行、王郎司直に贈る」詩、詳註巻二十一) と見える。

魂の王粂、字は伸宣。漠未、西京(長安)

が乱れたため、

荊州にゆ

き劉表を頼り、江陵の城楼に登って恩郷の就を作った。後人はそれ

にちなんで(伸宣楼)と名づけた。公は(仲宣)をもって自ら比す。

時に外売内乱がいまだ終息せず、今後の再会はあてにするのが難し

く、江陵に行き着いて、(伸宣)の(楼)に登ったなら、同病相憐ん

で、ひとしお痛切に心感じて傷むことであろう。そうして(首)を

廻らして

(億君)を懐うと、恋恋の情にたえないだろう、と言うの

である。けだし公はきっと李剣州の恩義に心感ずることがあったに

ちがいなく、それゆえその言葉はこのようなのだ。(春風)は、その

地に至る時節を言うだけだ。されどやはり恩を懐うという意味がそ

のなかに込められている。

056奉寧ソテ別二馬巴州ヾ

公不レ能こ就テ別㍉奉二寄シテ此作づ、以告レ別ヲ包。巴州ハ在二間州ノ

東一㌔。自註二時二甫除雪″京兆ノ功曹一「在二東川■一-。年譜載テ奉㌫贋徳元

年一「為レ是ト。唐書本停以為下乾元二年寓コ″岡谷一㌔時ノ事封、且云道

阻テ不い赴、謬レリ臭。公雄二窮甚ぺ不レ層㌔州駆ノ接層づ。出身之初、

授㍊河西ノ尉づ、不レ拝老後夢一筆州ノ司功ぺ棄テ而去″。今復充プラ″

判司一「併三以不二宵テ就一也。東川ハ即梓同等州皆是ナリ。

(注1) 顧哀『註解』 に「巴州は閏州の束に在り。今の巴県」と。宇都宮遊庵 の増広本にもこれを引く。巴州は、今の四川省巴中県。 (注2) 明∵単複の年譜。宇都宮遊庵の増広本に挙げる。 (注3) 訳注満目、「杜文貞公伝」に「是の歳、召して京兆府の功曹参軍に補せ らる。赴かず」とあり、「公、窮甚だしと碓も、投吏を層しとせず。馬 巴州に別る詩に見ゆ。唐書以て岡谷に寓する時の事と為し、且つ云ふ道 梗して赴くこと龍はずと。謬れり」という。その (注51)参照。 (注4) 訳注稿H、「杜文貞公伝」に「(天宝)十四載、河西の尉を授けられて 拝せず」と。 (注5) 訳注満〓、「杜文貞公伝」に「乾元元年、遂に出されて華州の司功参軍 と為る。(中略) 二年、関輔儀乱、官を棄て華を去る」と。 (注6) 判司は、州都の属僚。例えば、中唐・韓愈「八月十五日夜、張功曹に

参照

関連したドキュメント

細菌ヲ貧食シ溶解スルカガァルトイフ.Scbm・g(]6〕ハ白血球ノ反騰ヲ3期二厚別シ,暗中

其後:Lttthyハ或種族例之,:Battak・二於テハ 頭蓋底ト上顎トノ間=Virchowノ言ヘルが如

 余烈叉先二鰻餓時二於テ瓦斯代謝ノ著シク低

 得タルD−S環ニツキ夫々其ノ離心距離ヲ測り.之 ヨリ反射角〃ヲ求メ.Sin〃ヲ計算シ二二適當ナル激

 印チ本所見チ基ヅケバ「レ」線軍純撮影像二於テ入工

ムにも所見を現わす.即ち 左第4弓にては心搏 の不整に相応して同一分節において,波面,振

或はBifidobacteriumとして3)1つのnew genus

二依リ白血球ハ影響ヲ蒙り,共ノ機能ハ障碍セ ラレ,退行性攣化ヲ認メシムルモノナルガ,之