ここに「規準」篇と略称するのは、『純粋理性批判』の「超越論的方法論」第二篇における
「純粋理性の規準」と題された論述(A795-831/B823-59)のことである。「規準」篇は三つの 章から成るが、筆者は先に、その第二章の半ばまでの論述を、「規準」篇の自由論に関する見 通しを得るために考察した(1)。
周知のように、「規準」篇の主題は「最高善」の「理想」であり、そこにおいては「道徳 性」と「幸福」とが然るべく必然的な仕方で連関する。それは同時に、道徳性を達成するた めに従うべき道徳的法則、それを達成する活動としての道徳的自由と、幸福を達成するため に従うべき実用的法則、それを達成する活動としての実用的自由との連関でもある。しかし 自由論を主題的に解明するためには、第二章の半ばまでの論述を考察することは必要であっ たが、それ以降の「最高善」に関する本格的な論述からは、関連する重要な諸論点を暫定的 に提示するだけで事足りたのであった。
本論文が目指すのは、後者の論述を立入って考察することによって、「最高善」という、批 判哲学の体系において重要な位置を占める主題の一つに関して(2)、今後考察するための足場を 固めることである。
Ⅰ
(1)およそ根本的法則とは、それが妥当する領域としての「世界」の構成原理であると言 えるならば、根本的な自然法則(「純粋悟性の諸原則」)が「感性界」としての「自然」を構 成するように、根本的な道徳的法則(=人倫的法則)は「道徳的世界」を構成することにな ろう。だが、問われるべきは、両世界の交差であり、そこに身を置くわれわれ理性的存在者 にとって、両世界がもつ意義であろう。そこで、こう言われる。
「私は世界を、それが人倫的諸法則のすべてに適合しているであろう(世界は〈理性的 存在者たちの自由〉からみればそうでありうる kann し、〈人倫性の必然的な諸法則〉か らみればそうであるべき soll だ)そのかぎりにおいて、〈道徳的世界 eine moralische Welt〉と名づける。この道徳的世界は、そのかぎりにおいては、たんに可想-叡知的世 界として思考されているだけであって、なぜなら、そのうちでは、すべての諸条件(諸
「最高善」について
―「規準」篇に関する覚書―
湯 浅 正 彦
目的)が、それどころか、その世界のうちで道徳性の障害となるものすべて(人間の自 然本性の弱さや不純さ)すらも、捨象されているからだ。だからそのかぎり、道徳的世 界とは、〈たんなる、とはいえやはり実践的な理念〉なのであって、この理念は、その影 響を感性界に対して現実にもつことができ、またもつべきなのであり、かくて感性界を その理念に可能なかぎり適合させるのである。」(A808/B836)
この「道徳的世界」という「可想-叡知的世界」が「感性界」に対して働きかけるという 事態は、われわれ「理性的存在者たち」がその「自由」において、「人倫的諸法則のすべて」
(「人倫性の必然的な諸法則」)を完全に遵守することと表裏一体であることに注意すべきだろ う。前者が「たんなる、とはいえやはり実践的な理念」であることに応じて、後者にあって
「すべての諸条件(諸目的)が、それどころか、その世界のうちで道徳性の障害となるものす べて(人間の自然本性の弱さや不純さ)すらも、捨象されている」わけである。要するに、
完全な「道徳性」の行なわれる世界の理念的な思考であるが、とはいえ、「この理念は、その 影響を感性界に対して現実にもつことができ、またもつべきなのであり、かくて感性界をそ の理念に可能なかぎり適合させる」と言われるところからすれば、われわれ「理性的存在者 たち」にとって、それはたんなる絵空事などではなく、自己の「弱さや不純さ」という「障 害となるものすべて」に抗して「感性界」のうちでの行為においてなにほどかそれを実現す るよう、常住不断に迫ってくる力をもつようなものであろう。そして、こうした仕方で実現 を迫る「理念」を所有することこそが、われわれをしてまさに「理性的」な、だからまた「自 由」を具えた存在者たらしめるのであろう。これがその「理念」のもつ「客観的な実在性」
の内実にほかなるまい。そこで、上の引用に続けて、こう言われる。
「だから道徳的世界の理念は客観的な実在性をもつのであるが、それは、その理念がか かわるのが……感性界であり、しかも、〈その実践的な使用における純粋理性〉の対象と しての感性界である場合なのだが、それは、感性界のうちでの理性的存在者たちの神秘 的共同体 ein corpus mysticum―理性的存在者たちの自由な選択意志が、道徳的諸法 則のもとで、自己自身と、ならびにあらゆる他者の自由と、汎通的で体系的な統一をそ れ自体において具えるような、神秘的共同体―なのである。」(ebd.)
ここで感性界は、「〈その実践的な使用における純粋理性〉の対象」として、理論的認識の 対象たる物事の領域であることを超えて、われわれ「理性的存在者たちの自由な選択意志が、
道徳的諸法則のもとで、自己自身と、ならびにあらゆる他者の自由と、汎通的で体系的な統 一をそれ自体において具えるような、神秘的共同体」が実現されるべき場所として捉えられ ている。とはいえ、そこには「道徳性の障害となるものすべて(人間の自然本性の弱さや不 純さ)」が満ちており、その完全な実現はいつでも課題として持ち越されるのだろう。
だが、こうした「道徳的世界」の「実践的な理念」は、その完全な実現をわれわれに迫る 力をいかにしてもちうるのであろうか、がさらに問われることになる。
(2)ここにおいて、「規準」篇第二章冒頭において提示された三つの問いのうち、後の二つ が取り上げられる(3)。すなわち、「実践的関心にかかわるものであった、純粋理性の二つの問 い、そのうちの第一のものへの回答は、こうであった。〈それによって汝が、幸福であるに値 するようになることを行なえ〉。」―ここで、ひとを「幸福であるに値する」ようにするの は、道徳的諸法則の遵守であったことを思い出しておこう。―「さて第二の問いはこう問 う。私がいま、幸福であるに値しないわけではない nicht unwürdig ような仕方で振舞う場合 に、いかにして私は、それによってその幸福に与るようになりうると希望することも許され るのであるか。この問いに回答するにあたって重要なのは、〈アプリオリに法則を指令する、
純粋理性の諸原理〉がそうした希望をそれと必然的な仕方で結びつけるかどうか、である。」
(A808f./B836f.)
要求されるのは、「幸福に与るようになりうると希望すること」と、「アプリオリに法則を 指令する、純粋理性の諸原理」―ひいては、そこで指令される道徳的諸法則を遵守するこ と、つまりは「幸福であるに値する」こと―とが、必然的な仕方で結びつくようにする媒 介項であろう。―先の引用に続けて、次のように言われる。
「したがって私は次のように言明する。すなわち、道徳的諸原理が、その実践的使用に おける理性からみて必然的であるのとまったく同様に、その理論的使用における理性か らみて必然的にこう容認することもできる。つまり、それぞれの者 jedermann は、〈そ の者がその振舞いにおいて、自己をそれに値するものとしたまさにその度合いにおける in demselben Maße 幸福〉を希望する理由があり、かくて、〈人倫性の体系〉は〈幸福 の体系〉と不可分に、とはいえ、ただ純粋理性の理念のうちでのみ結合されている、
と。」(A809/B837)
ここでは、「幸福」が「それぞれの者」へと関連づけられており、それがその者が達成した 人倫性ないしは道徳性の「まさにその度合い」と釣合っていることが含意されている。こう した原理によって分配された「幸福」をそれぞれの者が享受するのが「幸福の体系」であり、
それが、それぞれの者が達成した道徳性が構成する「人倫性の体系」と対応するというのが、
両体系が「不可分に、とはいえ、ただ純粋理性の理念のうちでのみ結合されている」という 事態であろう。問題は、この対応を保証する根拠が何であるかであろう。それはそのまま、
前述の媒介項への問いでもあろう。
さて、いよいよ「最高善」へのアプローチの大詰めであるが、そのために、前述の「道徳
的世界」の「理念」が「幸福」との連関において取り上げなおされる。
「さて、可想-叡知的世界、つまり道徳的世界―その概念においては、人倫性の障害 となるもののすべて(諸傾向性)が捨象されている―においてならば、幸福が釣合っ た仕方で proportioniert 道徳性と結合されたそのような体系も、必然的であると思考す ることができる。なぜならば、人倫的諸法則によって一つには動機づけられ bewegt、
一つには制限された自由ならば、それそのものが〈普遍的な幸福〉の原因となるだろう し、かくて理性的存在者たちそのものが、そうした諸原理の導きのもと、〈自己自身の、
かつ同時にまた他者たちの、持続的な福祉 dauerhafte Wohlfahrt〉の創造者でありうる だろうからだ。」(ebd.)
ここからは、「幸福の体系」とは正確には「普遍的な幸福」の「体系」であって、それを成 就するのは、われわれ「理性的存在者たち」が「人倫的諸法則」という「諸原理の導きのも と」で制限されつつ動機づけられた「自由」を実現することによってであることが察知され るであろう。だが、そうした実現は、われわれの生の現実においては、「人倫性の障害となる もののすべて(諸傾向性)」によって絶えず妨害されることになろう(4)。すなわち、先の引用に 続けてこう言われる。
「しかしながら、〈自己自身に報賞を与える sich selbst lohnend 道徳性〉のこうした体系 は、一つの理念にすぎず、その実現 Ausführung が基づく条件とは、それぞれの者が、
その者が行なうべきことを行なうこと、すなわち、理性的存在者たちの行為のすべてが、
あたかも〈すべての私的選択意志 Privatwillkür を自己のうちに、ないしは自己のもとに 包括する一つの最上の意志 einem obersten Willen〉から生じているかのように行なわれ ること、なのである。だが、道徳的法則にもとづく責務は、それぞれの〔者の〕自由の 特殊な使用に対して、たとえ他の者たちがその法則に適合して振舞わないとしても、妥 当し続けるのであるから、世界の諸物の自然本性にもとづいても、〈諸行為そのものの因 果性と、それらの行為の人倫性への関係〉にもとづいても、それらの行為の帰結が幸福 にどのように関係するか sich verhalten は規定されていないのである。そして、先に述 べたように、幸福であるという希望が、〈自己を幸福に値するようにする絶え間のない努 力〉と必然的に連結することは、たんに自然を根底に置く場合には、理性によって認識 されることはできないのであって、その連結を希望してよいのは、〈道徳的諸法則に従っ て命令する一つの最高の理性 eine höchste Vernunft〉が同時に自然の原因としても根底 に置かれる場合だけである。」(A809f./B837f.)
ここで、「道徳的法則にもとづく責務は、それぞれの〔者の〕自由の特殊な使用に対して、
たとえ他の者たちがその法則に適合して振舞わないとしても、妥当し続ける」とは、一方で
は、「道徳的法則」の妥当性の理念的な性格を示すが、他方では、それに「適合して振舞わな い」者たちがありうるという現実とのギャップを示しているであろう。ともあれ、このギャッ プを架橋し、道徳的諸法則の遵守の「絶え間のない努力」と、「幸福であるという希望」とを
「必然的に連結する」媒介項とは、「同時に自然の原因」でもあるような「道徳的諸法則に従っ て命令する一つの最高の理性」である。すなわち「原因」として「自然」を創造すると同時 に、われわれ「理性的存在者たち」に道徳的諸法則を遵守することを命じる「神」であり、
こうした「神」にしてはじめて、われわれのそれぞれが達成すべく絶え間なく努力する道徳 性に、それと釣合った幸福が「自然」のうちで与えられることの、そしてまたそうした「世 界」を希望することの、原理的な保証を与えるのである。かくして―
「私が〈最高善の理想〉と名づけるのは、そのうちで、道徳的に最も完全な意志が最高 の浄福 Seligkeit と結合されており、〈世界のうちのすべての幸福が(幸福であるに値す ることとしての)人倫性と正確に比例している in genauem Verhältnisse steht かぎりに おいて、そうした幸福の原因〉であるような、叡知体の理念である。かくして純粋理性 は、〈最高の根源的な善の理想(5)〉のうちにのみ、〈最高の派生的な善、すなわち、可想-
叡知的世界、つまりは道徳的世界〉の二つの要素が実践的に必然的に連結することの根 拠を見出すのである。」(A810f./B838f.)
かくして「神」と「来世」とは「最高の根源的な善」と「最高の派生的な善」として規定 しなおされ、それによって、それぞれの理性的存在者に、その道徳性と「正確に比例してい る」幸福が与えられる世界への希望が保証される。そこで、続けてこう言われる。
「ところでわれわれは、理性によって、自己をそうした世界に属すると必然的に表象せ ざるをえない―もっとも、感官によっては諸現象の世界以外のなにものもわれわれに 提示されはしないが―のであるから、われわれはそうした世界を―感性界はそうし た連結をわれわれに提示しはしないから―感性界におけるわれわれの振舞いの帰結と して、われわれにとっての来世〔未来の世界〕eine für uns künftige Welt として想定し なければならないであろう。かくして神と来世〔未来の生〕ein künftiges Leben とは、
〈純粋理性がわれわれに課する責務から、まさに同じ理性の諸原理に従って分離すること のできないような、二つの前提〉なのである。」(A811/B839. なお、vgl.B395Anm.)
この最後の一文は、「神と来世」を「前提」として受け入れない者は、「純粋理性がわれわ れに課する責務」、つまりは義務を真まに受け実行すること―同じことだが、道徳的諸法則を 真しん
に遵守すること―はできない、と主張するものであろう(6)。この苛烈な主張をはたして 肯うべな いうるか否かは、カントの道徳哲学に対峙する者にとって究極の根本的な問いかけであろう が、当面はその主張の内実をなお闡明することにしよう。
なお、ここで「われわれは、理性によって、自己をそうした世界に属すると必然的に表象 せざるをえない」という文言は、われわれ個々人の思惑や恣意を超えた「理性」の必然的な 働きを指示していることに注意しておこう。思うに、こうした「理性」の働き―「理性的 存在者」であることの真義―を自覚することこそが、カントと共に哲学することの可能性 の条件にして究極の目的であろう。
(3)ともあれ、続く箇所を吟味しよう。
「人倫性それ自体そのものは一つの体系を形成するが、幸福の方は、それが道徳性に正 確に適合して分配されている der Moralität genau angemessen ausgeteilet ist かぎりに おいてでなくては、一つの体系を形成しない。だが、〔幸福が道徳性に正確に適合して分 配されるという〕このことは、ただ、可想-叡知的世界において、〈一なる知恵のある weisen 創造者にして統治者〉のもとでだけ可能である。そうした者を、われわれが来世 と見なければならないそうした世界における生ともども、容認するように自己が強制さ れている genötigt ことを理性は理解するのであって、さもなければ、道徳的諸法則を空 虚な幻想 Hirngespinst と見なさざるをえなくなる。なぜならば、その同じ理性が道徳的 諸法則と結びつけておいた、それらの法則からの必然的な成果は、あの前提がなければ 無くなってしまわざるをえないだろうからだ。」(A811/B839)
「神」の面目躍如たるものがあるとも言えるだろうが、ここには、道徳的法則がわれわれに とってもつ効力ないし妥当性の根拠に関する厄介な問題が絡むことは明瞭である。道徳的法 則を「空虚な幻想」ではなく効力あらしめ妥当させるのは、「それらの法則からの必然的な成 果」であるとして、それが端的に「幸福」であるならば、あるいは―結局は同じことにな りそうだが―「幸福に値すること」であるとしても、道徳的法則は所詮は感性的経験的な ものに依存し制約されていることにならないだろうか。この疑惑は、続く箇所によって、強 められるだろう。すなわち、
「それゆえ、誰でもが auch jedermann 道徳的諸法則を命令と見なすのだが、道徳的諸 法則がそれらの規則に、適合した諸帰結をアプリオリに結びつけておき、だから約束と 威嚇 Verheißungen und Drohungen を伴っているのでなければ、道徳的諸法則はそうし た命令たりえないであろう。だが〔約束と威嚇を伴うという〕そうしたことを、道徳的 諸法則は、もしもそれらが〈それだけがそうした合目的的な統一を可能にしうるような、
最高善としての必然的存在者〉のうちに存するのではないとすれば、行なうこともでき ないのである。」(A811f./B839f.)
ここには、暗黙のうちながら、それぞれの者にその達成する道徳性(=人倫性)に「正確
に適合して」幸福が与えられる世界としての「来世」に関しては、こうした「約束」の裏側 として、犯した不道徳な振舞いに「正確に適合して」不幸(あるいは、後に見るように、幸 福の欠如)が与えられるという「威嚇」があると見ざるをえないであろう。こうした言わば 賞罰を必然的に伴うことによってはじめて、道徳的諸法則は「神」の「命令」として「合目 的的な統一」を可能にすることができるであろう。―だがこれでは、いかに「最高の理性」
と「最も完全な意志」とを具えた「神」を「一なる知恵のある創造者にして統治者」として 称たた
えたところで、その「命令」たる「道徳的諸法則」は、われわれ有限な理性的存在者たる 人間にとっては、所詮は賞罰によって意志を外部から奴隷のように束縛する掟とかわらない のであって、「意志」の「自由」は名ばかりで実質を欠いたものになってしまわないであろう か。要するに、それは批判期道徳哲学での「自律」としての「自由」ならぬ、「他律」的なも のにとどまるのではないかという疑惑が付きまとうであろう。―これは無論、以下の考察 において検討すべき問題である。
以上のような「根源的な最高善」と「派生的な最高善」によって「神」と「来世」を統合 的に規定するやり方を、カントはさらに、ライプニッツの「恩寵の国」と「自然の国」との 区別の解釈によって、次のように解明する。
「ライプニッツは世界を、そのうちで理性的存在者たちと〈理性的存在者たちが、最高 善の統治のもとで、道徳的諸法則に従い連関すること〉だけに注目するかぎりにおいて、
〈恩寵の国〉と名づけ、それを〈自然の国〉から区別した。〔後者においては〕理性的存 在者たちは、たしかに道徳的諸法則のもとにありはするが、その振舞いの成果としては、
われわれの感性界の自然の経過に従ったこと以外のことは期待しないからである。かく して〈恩寵の国〉においては、われわれが、すべての幸福におけるわれわれの関与を〈幸 福であるに値しないこと〉によって自身で制限する〔縮小する〕einschränken のでない かぎり、すべての幸福がわれわれを待っているのだが、そうした〈恩寵の国〉のうちに 自己を見出すことは、〈実践的に必然的な、理性の理念〉なのである。」(A812/B840)
注目すべきことには、第一に、道徳的諸法則の遵守が道徳的な「善」としての道徳性、す なわち「幸福に値する」ことの実現であるに対して、それへの違背は道徳的な「悪」として の不道徳、すなわち「幸福であるに値しないこと」の実現だということが、この箇所から読 み取れるであろう。しかも気前よくも本来「すべての幸福」に関与しうるにもかかわらず、
自己自身の所行によって、それを欠損させるというのである。
しかし第二に、「自然の国」だけに留まるか、それとも「恩寵の国」まで高まるかは、「理 性的存在者たちと〈理性的存在者たちが、最高善の統治のもとで、道徳的諸法則に従い連関 すること〉だけに注目する」ような理念的思考を遂行するかどうか、つまりは「そうした〈恩
寵の国〉のうちに自己を見出すこと」に懸かるのであり、「自己」に委ねられたことであると 思われる。しかもそうした思考の媒体としての「理念」が「実践的に必然的」であるとすれ ば、そうした思考の働きとしての「理性」の活動に参与することのうちにこそ「自己」の本 来の面目があることになろう。これは、間違いなく、カントの道徳哲学の理解が懸かる最重 要点の一つである。ともあれ、道徳においては、「自己」の在り方こそが問われざるをえない ことを銘記すべきであろう。やがて「規準」篇第三章において見るように、カント自身が「自 己」(「道徳的心術」)の在り方を問題にすることになる。
(4)続く箇所は、こうした道徳における「自己」=「主体」の重要性を示している。
「実践的諸法則は、それらが同時に主体の〈行為の根拠〉、すなわち主体の原則 subjek- tive Gründe der Handlungen, d.i. subjektive Grundsätze となるかぎりにおいて、〈格律〉
と呼ばれる。その純粋さと帰結に関する人倫性の判定 Beurteilung は、理念からみて行 なわれるが、人倫性の諸法則を遵守すること Befolgung は、格律からみて行なわれる。」
(A812/B840)
いささか素気なくはあるが、問われるのが「主体」であるわれわれ各自の「行為の根拠」
としての「原則」、すなわち「格律」の有様であり、その内実をなす「実践的諸法則」がはた して「人倫性の諸法則」であるかどうか―その際「実用的諸法則」はどのように処遇され ているか―であること、を窺知することができよう。「主体」の達成した「人倫性」を「そ の純粋さと帰結」に関して「判定」する際の観点を提供する「理念」とは、純粋理性に基づ く「人倫性の諸法則」(以下で言われる「たんなる理念である道徳的法則」)にほかならない だろう。だが問題は、こうした道徳性=人倫性を「主体」が実現する―同じことだが、道 徳的法則を「遵守する」―ための条件、とりわけ「動機」である。―そこでこう言われ る。
「われわれの生き方全体 unser ganzer Lebenswandel が人倫的諸格律に従属することは 必然的である。しかしながら同時に、そうしたことが生じるのは、もしも理性が〈たん なる理念である道徳的法則〉と作用原因―道徳的法則に従った振舞いに〈現世におい てであれ、来世においてであれ、われわれの最高の諸目的に正確に対応した帰結〉を規 定するような作用原因―を結びつけるのではないとすれば、不可能なのである。
かくして神と〈われわれにとっていまは可視的ではないが、希望された世界〉がないと すれば、人倫性の輝かしい理念も、たしかに賛同と賛嘆の対象ではあるが、決意と実行 のための動機 Triebfedern des Vorsatzes und der Ausübung ではないのである。なぜな らば、そうした理念は、〈あらゆる理性的存在者に、自然本性的に natürlich、かつまさ
に同じ純粋理性によってアプリオリに規定されており必然的な、目的全体〉を満たさな いからだ。」(A812f./B840f. 一字下げない改行は引用者による。以下同様。また下線によ る強調も引用者による。)
思うに、ここで注意すべきは、なるほど「神」や「来世」に基づいてこそ「人倫性の輝か しい理念」へ向けての「決意と実行の動機」が成り立つと言われはするが、前者の「神」や
「来世」、またそれが満たすべき「最高の諸目的」ないしは「目的全体」―必然的に連関す るかぎりでの道徳性と幸福―も、結局は「理性が……結びつける」のであり、「まさに同じ 純粋理性によってアプリオリに規定されて」いるということだ。この点を強調するならば、
〈理性の自己活動〉(「自律の自由」のアナロゴン!)というところに帰着するであろう。すな わち、「神」や「来世」といった「最高善」とは、「純粋理性」がわれわれ理性的存在者に道 徳的諸法則を遵守する動機を与えるための媒体であり、その機能をはたすかぎりで「実在性」
が承認されるべきだと見ることができよう。だがそうすると、こうした「神」と「来世」の
「実在性」を承認しない者は、道徳的諸法則を遵守しえない悪人であることになるだろう。
続けて、「最高の諸目的」の「全体」、もしくは「完璧な善」という点に注目しつつ、こう 言われる。
「幸福だけでは、われわれの理性にとって、完璧な善 das vollständige Gut であるには 程遠い。われわれの理性は、幸福が〈幸福であるに値すること、すなわち、人倫的な善 き振舞い Wohlverhalten〉と合一されているのでないかぎり、そうした幸福を(それを 傾向性がどれほど願望しようと)是認し billigt はしない。しかしながら人倫性だけでは、
それとともに〈幸福であるにたんに値すること〉だけでも、まだとても完璧な善ではな い。完璧な善を完成するためには、自己を幸福に値しないわけではない nicht unwert よ うに振舞った者が、幸福に与るようになることを希望することができなければならな い。」(A813/B841)
要するに、「完璧な善」としての「最高善」は、「人倫的なよき振舞い」(=人倫性=道徳 性)によって自己を「幸福に値する」ようにした者に、まさにその「幸福」が与えられるこ と、あるいはそう「希望する」ことができるような「世界」であるというのだ。興味深いの は、こうした連関からはずれた「幸福」を、「それを傾向性がどれほど願望しようと」、「われ われの理性は……是認しない」ことであり、ここに「正義」が実現するための条件が、否定 的なかたちで示されていることである。幸福の分配における平等(公正)としての「正義」
は、「幸福に値する」こととしての人倫性=道徳性という価値(の達成)によって担保される のである(7)。続く箇所の論述にも、こうした「正義」の観点が示されているであろう。すなわ ち―
「すべての私的意図 Privatabsicht から自由な理性でさえ、すべての幸福を他者たちに分 配しなければならない者の立場に自己を置いて、しかも自分自身の利害関心を考慮しな いのであれば、別様に判断することはできない。というのも、次のような事情があるか らだ。すなわち、実践的な理念のうちでは〔道徳性と幸福という〕両方の部分は本質的 に結合されているのだが、とはいえ〈道徳的心術〉が条件として〈幸福に関与すること〉
をはじめて可能にするというふうにであって、逆に幸福への見込みが道徳的心術を可能 にするのではない。というのは、後の場合には心術は道徳的ではないだろうし、だから また幸福全体―理性にたいして承認する制限としては、われわれ自身の人倫に反する unsittlich 振舞いに由来するものしかないような幸福全体―に値しないでもあろうから だ。」(A813f./B841f.)
「すべての幸福」もしくは「幸福全体」を平等に分配する「理性」は、「〈道徳的心術〉が条 件として〈幸福に関与すること〉をはじめて可能にする」という仕方で「両方の部分が本質 的に結合されている」ことを要求するのである。道徳性の幸福に対する決定的な優位がここ には明示されている。よって、「規準」篇第二章の半ばまでで問題にされた、道徳性を実現す べき「道徳的諸法則」ならびに「道徳的」な自由と、幸福を実現すべき「実用的諸法則」な らびに「実用的」な自由との連関に関しては、前者が後者を条件づけ制約しつつ、「最高善と しての世界」を実現すべき「実践的諸法則」ならびに「実践的自由」のうちに組み込み統合 するという構図を、ここから看取することができるであろう。とはいえ、こうした統合その ものが理念的課題であることを忘れてはなるまい。すなわち、「道徳的心術」は「私的意図」
や「自分自身の利害関心」を度外視した場合にのみはじめて顕われるものであって、逆にい えば、そうした「意図」や「関心」、さらには「幸福への見込み」によって絶えず損なわれ歪 められる危険にさらされていることが察知されるであろう。皮肉なことに、その場合にはか えって、「人倫に反する振舞い」によって「幸福全体」への関与を自ら「制限する」、有ありてい体に 言えば、自己自身の幸福をなにがしか欠損させ不幸を招くとされるのであるが。
よって第一義的に問われるのは、われわれそれぞれの生き方、その「心術」の在り方なの であって、道徳性と自己幸福とのいずれを優位に置くかによって、それが「道徳的」である かどうかが規定(決定)される、いな、自己自身によって規定するのである。そして、自己 幸福への見込みを断って純粋な道徳性へと自己を規定した者のみが、純粋な実践的理性の立 場に立つことができるであろう。―このように見れば、批判期道徳的哲学の純粋実践理性 の立場における自己規定という(言うまでもなく、とりわけ『実践理性批判』において全面 的に展開される)見解はすぐ目の前にあることになろう(vgl.V, S.3f.〔Vorrede zur KpV〕)。
―それゆえ、まとめとして、次のように言われる。
「かくして幸福は、理性的存在者たちの人倫性―それによって、理性的存在者たちは 幸福に値する―との正確な均衡において in dem genauen Ebenmaße のみ、〈世界の最 高善〉を形成する。そのうちにわれわれは自己を〈純粋な、とはいえ実践的な理性〉の 諸指令に従って、どこまでも置き移さねばならない uns……durchaus versetzen müssen のだが、この〈世界の最高善〉とは勿論可想-叡知的な世界でしかない。なぜならば、
次のような事情があるからだ。すなわち、感性界はわれわれに諸物の自然本性からして は〈そうした諸目的の体系的な統一〉を約束しないのであって、その〔体系的な統一の〕
実在性が根拠としうるのも、〈最高の根源的な善〉―そこでは自立的な理性が、まった く十分な最上の原因としての装備をもち、最も完全な合目的性に従って、〈諸物の、感性 界のうちではわれわれに深く隠されてはいるが、普遍的な秩序〉を根拠づけ、維持し完 遂するような、〈最高の根源的な善〉―を前提することでしかないのである。」(A814/
B842)
要するに「世界の最高善」という「可想-叡知的世界」のうちに「自己を〈純粋な、とは いえ実践的な理性〉の諸指令に従って、どこまでも置き移す」ことによってこそ、われわれ は「理性的存在者」として、幸福が自己の人倫性=道徳性との「正確な均衡において」与え られうるという希望をもちうるのだ。そしてそれは同時に、そうした「世界の最高善」の「実 在性」を支える根拠として、「最高の根源的な善」としての「神」を「前提すること」なので ある。
ここに「来世」の実在性とそれを根拠づける「神」を「前提する」ことが、われわれが「理 性的存在者」であるかぎり、道徳性の原理たる純粋実践理性によって必然化されることが示 されたことになろう(なお、このように「実践的に必然的な前提として主張する」ことを、
思弁的な立場からの論難に対して擁護しうることに関しては、vgl. A776f./B804f.)。
カントはさらに、こうした「道徳的神学」を、「思弁的神学」―「神」の存在に関するそ の諸証明を、「超越論的弁証論」第三章「純粋理性の理想」において完膚なきまでに論破した
「思弁的神学」―との対比で特徴づけ、展開していくのである。しかもそのうちでは、「自 然的神学」(「物理神学」)と「超越論的神学」とから成る「思弁的神学」の「神」概念は、実 は「道徳的神学」に由来したものであることが明らかにされる。
Ⅱ
(1)「さて、こうした道徳的神学 Moraltheologie には、思弁的神学に対する特有の優位が あるのであって、それは、道徳的神学は〈一なる、最も完全にして理性的な根源存在者〉の 概念へと不可避的に導くのだが、そうした概念を思弁的神学の方は客観的諸根拠にもとづい
てわれわれに指し示す hinweisen ことすらできなかった―ましてわれわれに確信させる überzeugen ことなどできなかった―ということだ。というのも、われわれは超越論的神学 においても自然的神学においても、そのうちで理性がわれわれをどれほど導こうとも、一な る存在者―われわれがすべての自然原因に先立て、同時に、そうした自然原因をすべての 部分において依存させるに十分な理由があるような、一なる存在者―を容認するための唯 一つの重要な根拠でさえ見出さないからだ。」(A814f./B842f.)―続く箇所で、「道徳的神 学」が、以上で言われたような「神」の概念へと「不可避的に導く」所以が説かれる。すな わち、―「それに対して、われわれが〈一つの必然的な世界法則としての、人倫的な統一 という観点〉からして、そうした世界法則にそれだけが〈適合した効果、だからまたわれわ れにとって拘束的 verbindend な力〉を与えうるような原因を考量するならば、そうした〔人 倫〕法則すべてを自己のうちに包括するような〈一なる最上の意志〉が存在しなければなら ない。なぜなら、〔さもなければ〕いかにしてわれわれはさまざまな意志の間に〈諸目的の完 全な統一〉を見出そうとするのであるか。この意志は、それに自然全体と〈世界のうちでの、
自然全体の人倫性への関連〉とが服従させられるためには、全能でなければならない。諸々 の心術の内奥と、それらの心術の道徳的価値を認識するためには、全知でなければならない。
最高の〈世界の福祉 Weltbeste〉を要求するような欲求に接近しているためには、遍在でな ければならない。いかなる時間においても〈自然と自由との合致〉が欠けないためには、永 遠でなければならない、等々。」(A815/B843)
すなわち、「全能」「全知」「遍在」「永遠」等々といった諸特性―これは、〈「すべての自 然原因」の領域としての「自然全体」を創造し、かつわれわれに指令する「〔人倫〕法則すべ てを自己のうちに包括する」ような、完全なる「理性」と「意志」を具えた「一にして、最 も完全な根源存在者」〉の内実であろう―を具有する「神」の概念は、「根源的な最高善」
たる「神」という「道徳的神学」の観点からこそ導かれるというのだ。―なお、後者の理 論において重要な諸論点がここから逆に照射されるであろう。たとえば、「自由」にもとづき 実践的諸法則に従うことによってこそ、それぞれの理性的存在者の「心術」とその「道徳的 価値」が定まるのであり、「自然と自由との合致」とは、そうした「道徳的価値」に正確に適 合した幸福を生じさせる自然原因が存在しうることであろう。―また、「われわれはさまざ まな意志の間に〈諸目的の完全な統一〉を見出す」という句は、理性的存在者たるわれわれ の「意志」がそれぞれに「諸目的」を立てて行為し生きることにおいて、そうした「自然と 自由との合致」が成立しうる(そう希望しうる)ことを、「完全な統一」と表現したのであろ う(これは、『人倫の形而上学の基礎づけ』における「諸目的の国」の別表現であろう(vgl.
IV, S.433ff.))。
前述のように、こうした「神」概念の起源にもとづいてこそ、思弁的神学の諸理論の展開 が生じることを、カントは論じていく。
「ところで、こうした〈諸叡知体の世界における諸目的の体系的な統一〉―それは、
たしかにたんなる自然としては感性界にすぎないが、〈自由の体系〉としては〈可想-叡 知的、すなわち道徳的世界(恩寵の国)〉と名づけることができる―は、不可避的に
〈すべての物の合目的的な統一〉へも導いて行くのであり、すべての物が〈そうした大い なる全体〉を普遍的な自然諸法則に従って形成するのは、前者〔の諸目的の体系的な統 一〕が普遍的かつ必然的な人倫諸法則に従っているのと同様であり、かくて実践的理性 を思弁的理性と合一することになる。」
ここには、諸法則に従った統一的体系としての「自然」(=「感性界」)ないしは「可想-
叡知的世界」(=「道徳的世界」=「自由の体系」)という理念がいかにして発生したかに関 する洞察がある。「根源的な最高善」(=「神」)にこそ、その統合的な原型があるというの だ。それは同時に「実践的理性」と「思弁的理性」との合一を保証し、統一体としての「理 性」を構成する「理念」なのである。そこでこう続けられる。
「世界が〈それなしには、われわれが自己自身を理性に値しないと見なすだろう理性使 用〉と、すなわち、徹頭徹尾〈最高善の理念〉に基づくような道徳的な理性使用と、合 致すべきであるとすれば、世界は〈一つの理念〉から発生したと表象されねばならない。
それによってすべての自然研究は、〈諸目的の体系という形式〉に従う方向づけを得るの であり、それが最高に展開するなら、物理神学 Physikotheologie となるのである。」(以 上、A815f./B843f.)
ここには「諸目的の体系」(「すべての物の合目的的な統一」―つまり後出の「自然の合 目的性」―)「という形式に従う方向づけ」をもった「自然研究」、ひいて「物理神学」が、
われわれの「道徳的な理性使用」が基づく「最高善の理念」から派生したことが語られてい る。すなわち、「世界は〈一つの理念〉から発生したと表象されねばならない」という場合の
「一つの理念」とは「最高善」としての「神」であろう。―しかし、「物理神学」(「自然的 神学」)は「超越論的神学」へと展開し、それによって根拠づけられることが、さらに次のよ うに述べられる。
「だがこの物理神学は、やはり〈自由の本質を根拠とし、外的な命令によって偶然に創 設されたのではないような統一〉としての人倫的な秩序から始まったのであるから、〈自 然の合目的性〉を、〈諸物の内的な可能性〉と不可分にアプリオリに連結されていなけれ ばならないような諸根拠に、だからそれによって超越論的神学に、依拠させるに到るの だ。この超越論的神学は、〈最高の存在論的完全性という理想〉を体系的統一の原理とす
るのだが、この原理は、―諸物すべてが〈一なる根源存在者 Urwesen の絶対的必然 性〉のうちにその根源 Ursprung をもつがゆえに―すべての物を普遍的かつ必然的な 自然諸法則に従って連結するのである。」(A816/B844)
ここには、「人倫的な秩序」(=「可想-叡知的、すなわち道徳的世界(恩寵の国)」)が「自 由の体系」であり、「自由の本質を根拠とし、外的な命令によって偶然に創設されたのではな いような統一」であることを看取できよう。その原理である「最高善の理想」としての「神」
は、超越論的神学においては、「最高の存在論的完全性という理想」=〈「絶対的必然性」を 具現する「一なる根源存在者」〉として捉えなおされ、それこそが「諸物の内的な可能性」を 保証する「根源」であるがゆえに、すべての物の「普遍的かつ必然的な自然諸法則に従った」
連結を保証するというのである。諸法則に従った体系的統一としての「自然」は、所詮派生 的な概念であることになろう。
(2)かくして「自然」には、諸法則の体系的統一という規定のみならず、「合目的性」とい う規定も根本的であって、われわれの「自然研究」においては、後者を手引きとして前者の 諸法則の探求が遂行され、自然に関する「知識」、ひいては自然科学が成立すると言えよう(8)。 だがそうした「自然」の根底には、先に「諸叡知体の世界における諸目的の体系的な統一」
と言われたもの、すなわち「道徳的な合目的的統一」が存することを、さらにカントは論じ る。
「もしもわれわれが諸目的を先行的に定立する uns Zwecke……vorsetzen のでないとす れば、経験に関してさえ、われわれの理性のいかなる使用をなしうるであろうか。だが 最高の諸目的とは〈道徳性の諸目的〉なのであり、そして、それらの目的をわれわれに 認識させうるのは、純粋理性だけなのである。
ところで、そうした道徳性の最高の諸目的を具え、それを手引きとするとしても、もし も自然そのものが〈合目的的な統一〉を定め置いた hingelegt hat のでなければ、われわ れは自然の知識に関して、認識に関する合目的的な使用を自ら為すことができないだろ う。というのは、次のような事情があるからだ。すなわち、こうした〔自然そのものの 合目的的な〕統一がないとすれば、われわれは〈理性のための学校〔訓育の場〕Schule〉
をもたないだろうから、そのうえ理性そのものさえもたないであろうし、また、〔自然の 知識をなす〕そうした諸概念のための素材を提供するような諸対象による陶冶〔訓育〕
Kultur をもたないであろう。」(A816f./B844f.)
ここには、「目的を定立する」ことが、われわれ人間が「理性的存在者」であることにとっ てもつきわめて重要な意義が語られていると思われる。それは、正確には「諸目的を先行的
に定立する」ことであり、それにより導かれることによって、「われわれの理性」を「経験に 関して」使用すること、たとえば経験的な自然研究も為しうるというのであろう。ただし「道 徳性」という「最高の諸目的」によって、そうした諸目的を立て追求するわれわれの在り方 は根本的に規定されており、それを認識することにこそ―たんに「経験」や自然研究には 尽きない―「純粋理性」の働きが示されているのであろう。―とはいえ、われわれの自 然研究の営みを可能にする「自然」そのものの在り方として、その「合目的的な統一」がな ければならない。すなわち、われわれの自然研究の能力としての「理性」と、研究対象とし ての自然の在り方とが、言うならばズレを含むにもかかわらず合致しうる可能性が、「合目的 性」であろう。それによってわれわれは「理性」を所有し使用する者へと訓育され、「自然の 知識」をなす「諸概念のための素材を提供するような諸対象」の領域としての「自然」へと 開かれることになるのだろう。―そこで、総括的にこう言われる。
「しかしながら、前者の〔道徳的な諸目的による〕合目的的な統一は必然的であり、選 択意志そのものの本質のうちに根拠をもつのであって、かくして、そうした合目的的な 統一を具体的に適用するための条件を含む後者の〔自然の〕合目的的な統一(9)も必然的で なければならないのであり、だから、われわれの理性認識が超越論的に高められること は、〈純粋理性がわれわれに課する実践的な合目的性〉の原因ではなく、たんなる結果な のである。」(A817/B845)
かくして「道徳的神学」が基づく「実践的な合目的性」(=「道徳的な諸目的」による「合 目的的な統一」)こそが、「物理神学」(や自然研究)が基づく「自然」の「合目的的な統一」
を介して、「超越論的神学」における「体系的統一の原理」たる「最高の存在論的完全性とい う理想」へと「われわれの理性認識が超越論的に高められること」を生じさせる。われわれ 人間の「理性認識」に関する超越論的な観点からする歴史的な発生論(言うならば理性の超 越論的-歴史的な目的論)という論点が、ここに提示されることになる(10)。
「それゆえわれわれは〈人間理性の歴史〉においても、次のことを見出す。すなわち、
道徳的諸概念が十分に純粋に〔純化〕され規定されて、〈諸目的の体系的統一〉が、それ らの道徳的概念に従い、しかも必然的な諸原理にもとづいて洞察される以前には、自然 の知識、また幾多の諸学における理性の相当の度合いの陶冶でさえ、一つには、神 Gott- heit についての粗雑で動揺した諸概念しか生み出せなかったし、一つには、こうした問 いに関する驚くべき無関心一般しか残さなかったということだ。われわれの宗教のきわ めて純粋な人倫法則によってこそ〈人倫的諸理念の一層高度な grösser 扱い〉が必然的 となったのであり、その扱いにより理性は、当該の対象に対して―それに関心を懐く よう理性は強制されるのだが、その関心によって―敏感になった。そして、一層拡張
された自然知識や、正しく信頼できる超越論的諸洞察(こうしたものは、いつの時代に も欠けていた)によって寄与がなされたわけでもないのに、かの人倫的諸理念は、〈神的 存在者についての概念〉を成立させ、われわれはその概念を現今正しい概念と見なして いる。それというのも、思弁的理性がその概念の正しさをわれわれに確信させたからで はなくて、その概念が〈道徳的な理性諸原理〉と完全に合致しているからだ。」(A817f./
B845f.)
ここに言われる「人間理性の歴史」とは、「神的存在者」についての「正しい概念」を提供 する「道徳的神学」を目指しての人間理性の発展の過程であることは明らかだろう。それは また、純粋な道徳性の実現を人間の、ひいてはその歴史の目的と見なす〈道徳的目的論〉の 構図を予示しているであろう(11)。―なお、「人倫的諸理念」と言われるのは、「道徳的な理性 諸原理」、つまりは道徳的諸法則ならびにそれを規定する「道徳的諸概念」であろう。―こ うした「歴史」においてこそ「人間理性」は、「純粋理性」へと文字通り「純化され」たこと が、最後に確認される。
「こうして結局はいつでも純粋理性だけが、とはいえその実践的な使用においてのみ、
〈たんなる思弁には錯覚することしかできず、主張する〔妥当させる〕ことはできないよ うな認識〉を、われわれの最高の関心へと結びつけ、それによって、たしかに論証され た理説とするわけではないが、〈純粋理性の最も本質的な諸目的〉にあって断じて必然的 な前提たらしめるという、功績をもつのである。」(A818/B846)
「純粋理性の最も本質的な諸目的」とは「道徳性」と(それと然るべく必然的に連関した)
「幸福」にほかなるまいが、それへの「われわれの最高の関心」にあって、「来世」と「神」
とは、その「必然的な前提」であることが証示された。だがそれが「認識」であるというの はどのような意味か、もとより思弁的ないしは理論的な「知識」としての「認識」ではなく
「実践的認識」ということになるだろうが、その内実はどのようなものか。―これが「規 準」篇第三章の主題であろう。その吟味は次の第Ⅲ節において行なう。
(3)だが第二章の末尾は、なおも重要な論点を提示している。
「しかしながら、実践的理性は、この最高点、つまり〈最高善としての一なる根源存在 者〉の概念へと到達した場合に、その概念を適用するためのすべての経験的条件を超え て高まって、新たな諸対象についての直接の知識へと舞い上がったかのようにして、〈そ の概念から出発し、それから道徳的諸法則そのものを導出する〉などということを敢え てすることは、まったく許されない。というのも、以下のような事情があるからだ。す なわち、この道徳的諸法則こそは、それに具わる〈内的な実践的必然性〉によって、わ
れわれが、〈自立的な原因、すなわち知恵のある世界統治者〉を前提することへと導かれ た当のものであって、かくてその諸法則には効果が与えられたのであった。それゆえわ れわれは、このことの後で、道徳的諸法則をまたもや、偶然的で、たんなる意志から導 出された―とりわけ、われわれが、かの諸法則に適合して形成したのでなければ、そ れについてまったく概念をもたないだろうような意志から導出された―と見なすこと はできないであろう。」(A818f./B846f.)
要するに、次のように言っているのである。―「道徳的諸法則」に具わる「内的な実践 的必然性」こそは根源的なものであって、「最高善」としての「神」の概念はそれから派生し たものであり、この派生とは、「その概念を適用するためのすべての経験的条件を超えて高 まって、新たな諸対象についての直接の知識へと舞い上が」ることを許すようなものではな い。だから「その概念から出発し、それから道徳的諸法則そのものを導出する」ことはでき ない。よって、道徳的諸法則に「効果が与えられ」るためには、「神」を「前提すること」は 必然であるとしても、その必然性は所詮「道徳的諸法則」に具わる「内的な実践的必然性」
から派生したものであり、前者から後者を導出することは本末転倒である。―この限りは 妥当と認めることができる主張ではあるが、では「道徳的諸法則」に「内的な実践的必然性」
が具わることはいかにして知られるのであろうか。この―批判期道徳哲学なら「理性の事 実」によって答えるでもあろう―難問がなお残らざるをえないだろう。それに対する「規 準」篇における回答は、以下に見るように、「この世界のうちでのわれわれの使命」の自覚に 求められるであろう。
差当り、先の引用箇所に続けて、カントはこう述べている。
「われわれは、実践的理性にわれわれを導く権利があるかぎりにおいて、諸行為を責務
〔それへと拘束されている〕verbindlich と見なすのだが、それは、それらの行為が神の 命令であるからではないのであって、かえって、それらの行為を、われわれがそれへと 内的に拘束されている verbindlich〔それが責務である〕がゆえに、神の命令と見なすで あろう。
われわれは自由を、〈理性の諸原理に従った体系的な統一〉のもとで研究する studieren であろう。そしてわれわれは、〈理性が諸行為そのものの本性にもとづいてわれわれに教 える人倫法則〉を神聖と見なすかぎりにおいてのみ、神的意志に適合していると信じる glauben し、われわれが〈世界の福祉〉を自己において、また他者において促進するこ とによってのみ、神的意志に仕えていると信じるのである(12)。」(A819/B847)
ここで、「実践的理性にわれわれを導く権利があるかぎりにおいて……行為を、われわれが それへと内的に拘束されている verbindlich〔それが責務である〕がゆえに、神の命令と見な
す」とは、「道徳的諸法則」に具わる「内的な実践的必然性」の内実を表現したものであろ う。すなわち、「道徳的諸法則」が諸行為を「責務」としてわれわれに課する「内的な実践的 必然性」(=内的な拘束)は、それを「神の命令と見なす」ことを同時に必然化するというの だろう。だがこれは、「認識」であるとしても、「実践的理性にわれわれを導く権利があるか ぎりにおいて」妥当する、その意味で「実践的認識」(vgl.BXXI)であろう(13)。
そして、「最高善」としての「神」や「来世」という「理性の諸原理」に従った「体系的な 統一」のうちで、内的な拘束としての実践的必然性に従って自覚的に行為することが、その まま「道徳的」な「自由」の実現なのであろう。―だが、「神的意志」とわれわれ人間との かかわりは、所詮は「信じる」こと、信仰の事柄なのであろうか。「人倫法則」、それを体現 する責務としての「諸行為そのものの本性」をわれわれに教える「理性」は、「神的意志」と のかかわりにおいて信仰に自己を委ねるのであろうか。―
ともあれ、「規準」篇第二章の結びにおいては、次のように述べられている。
「かくして道徳的神学には、内在的な使用、つまり〈すべての目的の体系〉へと適合す る passen ことによって、この世界のうちでわれわれの使命 unsere Bestimmung を果た すという使用しかないのである。〔われわれの使命を果たす〕その際には、熱狂的に、そ れどころか冒瀆的に schwärmerisch oder wohl gar frevelhaft、善い生き方において〈道 徳的に立法する理性〉の手引きを放棄して、その手引きを直接に〈最高存在者の理念〉
に結びつけること―それは、超越的使用を与えるだろうが、たんなる思弁の超越的使 用とまったく同様に、〈理性の最終諸目的〉を歪曲し、無に帰させることにならざるをえ ないのだが、そうしたこと―をしてはならないのだ。」(ebd.)
「善い生き方において道徳的に立法する理性」と、ここに到って言われている。かくて立法 される道徳的諸法則に従うこと、すなわち、それによって必然化されるかぎりでの「最高善」
たる「神」と「来世」の存在を「信じ」つつ、自己の責務を果たして「道徳性」を達成し、
それが自己を「値する」ようにする「幸福」の実現を希望して生きること、これが、つまり は「道徳性」と「幸福」という「理性の最終諸目的」を実質化する「〈すべての目的の体系〉
へと適合することによって、この世界のうちでのわれわれの使命を果たすこと」であろう。
そしてそうした生き方こそが、われわれの真の「自己」の実現でもある、と言うのであろう。
ここにおいて、「道徳的に立法する理性」の根源性が明らかであろう。
だがカントは、以上のように「実践的認識」のうちに位置づけられている「信じる」こと、
「信仰」に関して、なお一章を割いて論究している。