忠考一致について
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(2) . 第 10 巻. 昭和35年2月. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 第 2号. 忠. 致. 孝. に. つ. し1. て. -- 精 神 史 的 研 究 -- 栗. 原. 薫. 北海道学芸大学旭川分校史学研究室. lty and i。n of loya Ka。ru KUR[HARA : on the identi6cat. ia hl l piety (A study on an aspect ofthe history ofthought). 井上哲次郎氏は 「日本朱子学派の哲学」 の中で 「徳川斉昭, 字は子信……公嘗って弘道館記を作 り, 国体 の尊厳を明らかにす, 其 の中言えるあり云く……叉云く, 忠孝無レニ, 文武不し岐, 学問 」 と論じて居ら 事業,不し殊ニ其数-,敬し神崇し ,儒,無し有ニ偏党→ 是れ実に水戸学 の主義綱領なり. ていた の問題がとりあげられ ) . そして, その れる1 . 嘗って倫理説上の問題の一つとして忠孝一致 様な問題に苦 しんだ者の実例として, 平重盛がよくあげられた. 平家物 語によれば, 彼は父清盛が 其の君後白河 法皇をおしこめ奉 らぅとしたのをとゞめて 「悲しきかな, 君の御為に奉公の忠を致さ んとすれば, 迷瞳八万 の頂 (須弥山の頂) よりも なほ高き父の恩忽に忘れんとす. 痛しきかな, 不 孝の罪を遁れん とすれば, 君の御為には, すでに不忠の逆臣とも なりぬべ し. 進退これ窮れり, 是 ) 非いかにも弁へ難し, 申し請くる所詮は, 兄重盛が頚を召され候へ.」 といった2 . 三年程して, 夏 の頃熊野参詣をして, 「親父入道相国が動もすれば君を悩し奉っている. この時, なまじひに列し て世に浮沈する事 は, 敢へて良臣孝子の法ではない. 入道 の悪心が和ぎ, 天下が安全になるように して下さい. そうでなければ重盛 の運命を縮めて下さい. 両箇の求願, 偏に冥助を仰ぐ」 と肝胆を くだいて祈念した. 其 の後まもなく病になったが, 熊野権現が願を御受納になった のだといって療 ) 治も せず, まして祈祷も しなかっ た. そして遂に病死した3 。 河田罷氏は, 史学雑誌七巻二号で, 小松重盛 の死因を論じ, 熊野参詣以前 より病んでい たのであって, 平家物語のいふ如く 熊野権現に 死を祈った後で病んだのではないとされた. かくて彼が熊野に詣つたのは温泉などある ので療養の 為であって, 死を祈った のではないとされた. すると彼の死を祈っ た事は当時の説話, 叉は平家物 語作者 の創作になるが, 精神史, 思想史の面か らは, やはり当時忠孝一致について の倫理上の問題 があったという事になる のである. その様な場合, どうすればよいかという事が にぎやかに取りあ げられ論ぜられてきた. それは, 忠と孝とが同等 の価値をもった徳目と考えられ, どちらをとってもよいという道徳 思想 があった為 でもあるが, 我が国の精神史の上から見る時, 更に考うべきであると思う. 由来, 忠孝一致とい う言葉は, 忠の為に孝を犠牲にした場合に使われた のである. 重盛の場合も そうである. 重盛は父に進退これ窮れりといったが, 決して父の意に従ったわけではない. 父を諌 の めた後, 主馬判官盛国を召 して兵をあっめしめ, 淀, 羽束瀬, 宇治な どにあふれた一万の 兵ども 6 に 子顕家 実力で父の行動をおさえようとす る勢をみせたのである) . 或は北畠親房は神皇正統記 , ここに 」 といったが, それは忠であるから孝に のを 「 忠孝の道 きはまる が泉州阿倍野で戦死 した , ) も な る とい っ た の で あ る7 . - 152-.
(3) . 栗. 原. 薫. しかし, 忠が道徳の根本であるならば, わざわざ忠孝一致をいう必要はないので あり, そこに情 愛のやむべから ざるも のを考える のは, なお考 察に不十分な所があると思われる. それは, 中世封建制にともなう特殊の精神的な事情があったと思われる. 中世の封建制は, 封建的な主従関係の無数の積みかさねの上に出来上って居り, 人と人とは主従 関係を無限につみかさねる事によりつらなった. 主君の主君の主君であり, 叉家臣の家臣の家臣で あった, そして主君の主君との間には主従関係は全くなく, 主 君の主 君に忠節を誓う必要はなく, 叉家臣の家臣を保護する義務はなかった. それは古代の律令制が弱体化し, 政府が信用 出来なくなった時, 信用出来る者を家臣と して 夫 , 々の部分の一切をゆだねる, 多くの者を信用するかわりマ こ, 少数の者, 家臣を絶対的に信頼 してそ の領土の一部分を委ねるという事, 家臣よりすれば, 主君を信頼してその保護を仰ぎ, 一切の支配 力に対処する, 主君を通じて上にのしか る支配力に接 しようとする所に生じた. 身近かな者のみ を信じて絶対的に委ぬる所に封建制がなりたった, 平将門は, その私君太政大臣藤原忠平のとりな しで, 謀叛の疑がはれ かえって逆に功績がある , と議せられた矢先, それをしらずに, 朝廷に反旗をひるがえした. その時も忠平に書を送り 旧主 , の あな た を 忘 れ は 絶 対 に しま せ ん と い っ てし ろ.. 彼 が しく じ っ た の は,. そ のような私的な主従関. 係, 即封建的関係によって社会が秩序づけられようと している事 そして自分自身もそれを利用 し , ている事, それが王室といかなる関係があるかをよく考えて見なかった点に原因があった8 ) . 天皇は, 封建的な秩序に権威をあたえるも のであったのである. 天皇によって権威付けられてい て こそ, は じめ て 主 君 と して の 地 位 が 安 定 した の で あ る ,. 封建制は家臣が領土を持ちほとんど独立している事であるので, そのような家臣を統制するには 道義的な力が必要であった. その様な力は天皇を仰 ぐ事により . , 天皇に最終的な権威がある事によ り, すなわち権威の源が天皇である事によって与えられたというべきである. その様な権威を手に入れる代りに, みずから新皇となったのでは, 古代 の再生産は出来ても, 封 建制の上に天下を手に入れる事は出来なかった. かくて平家物語に 「朝威を減さんとする輩……その例既に二十余人, されども一人として素懐を 9 ) といい 叉太平記にそれを祖述して 逐ぐる者なし. 臭骸を山野に曝し, 首を獄門にか懸けらる」 , い る の は, か る事実をのべたので ある. さりながら, 封建制は直接の主従関係が主に尊重されたので, 主君の主君にはそれ程の関心が持 たるべきでなかった. 赤穂義士がた えられたのは 其の直接の主人に忠義であったからである , . 封建制は社会のす みずみまでゆきわたったのであるが, 例えば町工場で兄弟子を弟弟子が直接主人 に, ごまかしがあると密告する とかえって主人か らしかられるのが封建的なやり方であった. 弟弟 子と兄弟子との間に封建的主従関係に似たも のを考え, 主人と弟弟子との関係は兄 弟子を通じてい た の で あ る.. さればこそ, 承久乱に北条政子のいう所にしたがい, 朝廷に 弓をひいて, 関東武士が都へせめの 0 ) ぼる様な事もまれには起った のであった1 . つ ま り直接 の 主人 の 命 に ち ゆ う ち よ しな が ら した が っ て しま っ た の で あ る.. その様な関係は, 封建制が成立した由来を考えるともっともな事であるが, やはり背徳感をまぬ かれぬ面がある. 主人の主人 とは主従関係はなくても, やはり主人の主人を敵とする事は不徳義で ある. 主人が, その主人にそむいた時には, ー しよに主人の主人を敵とする習いであったが, しか しその様な行動には背徳感がのこったであろう. 殊にそれが最終的な権威の源である天 皇 の 場 合 は, 人は殊に去就にまよったであろう, 承久乱にそ のような点を観察しうる. そこでは北条政子は 一153-.
(4) . 忠 孝 一 致 に つ い て. 関東武士 に必ずしも忠節を期待出来なかったので, 関東をかためよう という意見が出たのをしりぞ 1 ) け, 大いそぎで都へ兵をす め た の で あ る1 . これは封建道徳の問題点であった. そ して具体的には重要な問題としてありながら, 道徳体系と. して思想的にとりあげられなかった倫理上の問題であっ た. それはあたかも親への孝と, 主君への忠が必ずしも一致しない場合があり, それがわりきれぬ感 情を残すように, わりきれぬ感情をともなったと思う. 忠孝一致の問題が, 中世以降とりあげられてきた事は封建道徳 の忠義によくにた問題があったの が反映したのではないかと思う. 即ち封建時代に道徳的には, 孝よりも 忠を求めたが, 叉直接 の主人よりもより上の君へ の忠が求 められた. その主君の主君に時としては, 直接 の主 君のい いつけ 通り敵対行動をとるのが封建制の 下では自然であった事が, 似 た問題である, そ して儒教倫理から理解されやすい忠孝一致の問題を うかびあがらせたのではあるまいか. 主君の主君に対する忠節, それは天皇にまでさかのぼる ので あるが, そ のような忠節が正当なのであるが, 封建的な習慣では直接の主君への忠節を最も重視し た. そ して封建的な習慣では, 不忠な主君にでも忠実でありがちであった事が, 忠孝の←致 しない 場合についての関心を非常にたかめたのではないかと思う. そ して儒教からは忠孝一致の問題が説 明し理解しやすかった のである. 591頁. 96頁. 昭和校定平家物語 流布本 86頁, 史籍集覧参考源平盛衰記 巻六 295頁-2 0頁一5 06頁. 49頁, 史籍集覧参考源平盛衰記 50 45頁-1 昭和校定平家物語 流布本 1 史学雑誌七篇二号 155頁-158頁. 忠孝を同等と見る道徳思想 平家物語・教訓の条にも世に四恩候. 天地の恩. 国王の恩, 父母の恩. 衆生の恩と並べているが, 山鹿素行の修養要録には, 国語藁共子の民は三に生く, 之に事ふ る事一の如しといったのを引き, 叉同白虎通の三綱は何の謂か. 君臣, 父母, 夫婦を謂ふ. 君は臣の綱と為り, 父は子の綱と為る. 天は妻の綱と為るといったのを引いている. (国民精神文化研究所編纂山鹿素行全集 第三巻 480 頁. 新井白石の折たく柴の記には, 武蔵国河越の庄駒林の女で, 信濃国松代の庄の商人と結婚した 女がいた, 所が妻の父と兄が女の夫を殺したのを, よくしらずに訴え出たのを, 領主秋元喬朝が, 父と兄の 罪は疑うべく もないが, 女も父を密告した罪がある様にも思われるがと, 新井白石にたず ねてきたので, 彼は此獄は三綱の変で, 常理で推す事は出来ないとこたへ, 更に将軍より間はれ て, 君と父と夫と, 其尊相同 じと答えたとのべている. 新井白石全集 第三 131頁一135頁) . 6) 史籍集覧 参考源平盛衰記 3 05頁-306頁, 77頁 7) 白山本 神皇正統紀 1 叉ノ年戊寅 (延元二年) ……同五月和泉国ニテノ闘二, 時ヤイ タラサリケン, 忠孝ノ道ココニ極,. 註1 ) 2) 3) 4 ) 5 ). 苔ノ 下 ニ モ ウ ズ モ レヌ モノ ト テ ハ, タ ダイ タ ズ ラ ニ 名 ノ ミ ゾト ドメ テ シ.. 8) 群書類従 経済雑誌社 第十三巻 将門記 12頁 9 ) 史籍集覧 昭和校定平家物語 238頁 朝 敵揃へ. 参考源平盛衰記 804頁 謀反素懐を遂げざる事. 04頁 1 0 承久三年五月十九日午のとき, 右京権大夫北条 義 時 追 討 ) 続国史大系 吾妻鑑 巻二五 8 の宣旨が五畿七道に下された旨知ると, 北条政子は家 人等を簾下にまねき, 秋田城介安 達 景 盛 を もって示し含めていうのに 「頼朝は 『皆心を一にして奉ぜよ』 と最後の詞をのこして 死んだ. 頼朝 が朝敵を征伐し, 関東を草創してより, 官位といひ, 俸禄といひ, 其の恩は山岳よりも高く, 摸湯 より深い. 報恩の志は浅くてよからぅか. 今逆臣の譲により非義の論旨を下された. 名を情むの族 は早く能登守藤原秀康, 検非違使尉三浦胤義 (秀康は所従押松丸をして葛西谷山里殿 辺に 関 東 分 の宣旨を持ってゆかせた, 胤義は弟義村に私書状を送り勅定に応 じ右京権大夫を課せよ. 勲功賞に 於いてはこひのままであると仰せ下さるの趣きを申しやった) 等を討ちとり, 三代の将軍の遺跡を 全ぅすべきである. 但し院中に参らぅとするものは, 只今申し切れよ」 といふと, 群参の土は悉く 命に応じた. しばらく涙にむせんで返答が思ふ様に出来なかった. 11) 続国史大系 吾妻鑑 8 0 5頁-806頁 歌久三年五月十九日, 関東追討の宜旨を見, 北条政子が関東 将士にといた所, 皆政子に味方する旨を述べたので, 義時の館で, 北条時房, 北条泰時, 前大膳大 夫入道三浦義村, 安達景盛等が評議をこらし, 意見が分れたが, 結局足柄, 宮根両方の道路を固め - 154-.
(5) . 栗. 原. 薫. 相待つべきだといふ事になった時, 前大膳大夫覚阿がいふのに 「群議の趣は一旦はもっともだが, 東国の土が一撰しない時, 関を守って長い間に及ぶならば, また敗北の原因になるであらう. 運を 天道にまかせ早く軍兵を京都に発造するべきだ.」といった. 右京大夫義時が両議を政子に言ふと, 政子は上洛の策をとった. 廿一日, 更に直に上洛の策に違議が出たので, 覚阿は 「武蔵国軍勢のあつまるのをまってゐては, さだめて変心を起すものがあるであろう. 只今夜中武蔵守泰時が一人丈であっても, 鞭をあ げて上 洛すれば, 東士は雲の竜にしたがふが如くであらう」 と言ふと義時がその意見に賛成した, かくて その夜泰時は門出した,. - 155-.
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