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カントにおける最高善の問題

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

カントにおける最高善の問題

著者 若松 謙

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 31

号 1

ページ 37‑56

発行年 1982‑11‑25

その他のタイトル Das Problem von dem hochsten Gut bei Kant

URL http://hdl.handle.net/10105/2334

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カントにおける最高善の問題

若  松     謙 (奈艮教育大学倫理学教室)

(昭和57年4月28日受理)

I はじめに

周知の如くカントは、 『実践理性批判』の第2編「純粋実践理性の弁証論」 (以下「弁証論」と 略す)において、 (徳と、それに厳密に釣合った幸福との綜合としての)最高音の問題を扱った。

そしてこうした意味での最高善の必然的可能根拠として、魂の不死と神の存在とを要請したので ある。従ってカントにおいて最高善の問題は、グリーンが主張するように、道徳と宗教とを「結 びつける環̀1)」として重要な位置を占めているのである。しかしそれにも拘らず、彼の生存時代 からすでに、(この最高善の問題を扱った) 「弁証論」は、どちらかといえば批判や非難の対象と されることの方が多かったのも事実である。同じ『実践理性批判』の第1編「純粋実践理性の分 析論」 (以下「分析論」と略す)や『道徳形而上学の基礎付け』において示されている彼の倫理思 想と最高善の主張との不斉合性の問題、最高善や(その可能根拠としての)魂の不死、神の存在 を基礎付けようとする彼の記述の仕方の簡略さや不明確さなどが、その主要な理由であるが、と にかく意義や価値が強調されるよりも、むしろ問題点が指摘されることの方が、はるかに多かっ たのである。そして修士論文の一部分として扱って以来、私自身にとってもこの最高善の問題は、

理解することが困難な、厄介な障害であり続けてきたのであるo Lかしここ一年ばかりの問にウ ッドやアルブレヒトといった米、独のカント研究者の著作に新たに触れることができた。そして 彼らがこの厄介な問題に真剣に取組んでいるのを知って、再び自分なりに扱ってみたいという気 持が起こってきたのである。そこでここでは、カントの最高善や、 (魂の不死、神の存在という)

2つの要請についての議論をまず簡単に紹介し、それに含まれている意義や問題点の幾つかを究 明してみたいと思うのである。

Ⅱ 最高事と2つの要請 1最高善

カントは、最高善を「唯一の全体̀2)」を示す概念であり、 「純粋実践理性の対象全体」 (V. s.

119.)、 「目的全体」(V. s. 133.)、 「究極目的」(V. s. 129.)などと規定している。そしてこうした 最高善を促進することは我々の義務であり(V. s.125.)、最高音は、 「道徳的に規定された意志の 必然的最高目的、真の対象」 (V. s. 115.)、 「道徳法則への尊敬によって必然的な意図」 (V. s. 132.) であると規定している。従って最高善は、ウッドが述べているように、 「道徳的行為者が道徳法 則に従うことによって専心する目的̀3)」、 「究極的道徳目標」 (p.88.)であるといえる。そしてこ の最高善の具体的内容は、前に述べたように、徳とそれに厳密に釣合った幸福との綜合であった のである。そこでここでは、こうしたカントの主張を3つに分けて考察してみたい (1)カント

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の倫理思想との関係。 カントは、 「理性的存在者の存在全体に絶えず伴う生の快適さの意識」

(V. s. 22.)が幸福であると規定し、人間の自然的必要や傾向の充足との関係で幸福を考えてい る。そして一方においてその重要性を強調している。 「我々の実践理性の判断において、我々の 禍福は、確かに非常に重要である。そして感覚的存在としての我々の本性に関する限り、一切は 我々の幸福に依存している。その幸福が、理性が特に要求するように、一時的な感覚に従ってで はなく、この偶然が我々の存在全体やその満足に及ぼす影響に従って判断される時には、そうで

ある。」 (V. s.61.)しかしそれだからといって決して幸福が絶対視されるのではない。 「人間は勿 請‑‑・その禍福を常に顧慮するために、理性を必要とする。しかし彼は、さらにより一層高い目 的のために理性を有する。即ち、それ自体において善ないし悪であるもの一一を熟慮するのみな

らず、こうした判断を前者から全く区別し、それ(前者)の至上の制約とするために、理性を有 する。」 (V. s. 62.)すでに『遺徳形而上学の基礎付け』において、道徳的に善い意志だけが無制 限な善であり、しかもこの善意志が、 (幸福を含めた)他の一切のものを善たらしめる制約であ る(IV. s. 396.)と主張していたカントからすれば、道徳的善悪を度外視して、幸福を絶対視す ることは許されない。常に道徳的善が幸福以上に重んじられねばならない。そこで道徳的善の実 現と幸福追求とが対立する場合に、後者のために前者を等閑にすることは、厳しく斥けられる。

しかしこのことは、幸福を全く斥ける禁欲主義と直結する訳ではない。道徳的善を重んじる在り 方と両立する限り、正しい仕方で(自分および他人の)幸福を促進することは、道徳的にも望ま しいとされるのである̀4)。これが幸福に対するカントの倫理的立場である。しかも意志の規定梶 拠に関連して、この立場は一層厳しく徹底される。いわゆる適法性と道徳性の問題である。 「行 為の道徳的価値全体の本質は、道徳法則が直接的に意志を規定することに存する。意志規定が、

成る程道徳法則に従って生じるが、しかし法則が意志の十分な規定根拠になるために前提されね ばならない感情  を媒介にしてのみ生じるとするならば、従って法則のために生じないならば、

行為は確かに適法性を有するが、道徳性を有さないであろう。」 (V. s. 71.)例えば自分が愛情を 感じているが故に、或るいは(恩返しを期待するといった形で)自分の幸福のために、(或る人に 親切にするといった)道徳的に善い行為をしても、それは適法性を有するにすぎず、まだ道徳的 に十分ではない。自分の幸福を重視する感情や傾向、特定の他人の利益を促進する感情や傾向と、

道徳的善との間に、何も必然的本質的関連がある訳ではない。それらは時には道徳的に善い行為 を生じさせるが、逆に又、何時何時不正を生じさせるか分らない。 (恩返しを期待する打算的在

り方、特定の人に対する愛や同情が、とんでもない不正を青くむのは、経験的事実である。)従 って自他の幸福や利益を絶対視する感情や傾向だけに基づいて善い行為をするだけでは、まだ十 分ではない。道徳的に善いことをそれ自体で尊重する在り方、道徳法則に対する尊敬に基づいて 善い行為が為されるという在り方(これが道徳性の立場である)が成立して、初めて道徳的に十 分といえると、カントは考えたのである̀5)。そこで自分の幸福であろうと他人の幸福であろうと、

それを重視する感情や傾向だけが、善い行為を為す意志の規定根拠となることは、何時如何なる 場合にも厳しく斥けられる。これが『実践理性批判』の「分析論」や『道徳形而上学の基礎付け』

において見出されるカントの基本的立場なのである。道徳的に正しい限り、自他の幸福を追求す ることを許容する反面、それらを求める傾向だけが、意志の規定根拠となることを厳しく斥けよ うとする所に、その特徴があるといってよいf6)。 ‑一地方、最高音を論じる『実践理性批判』の

「弁証論」においても、道徳と幸福とのこの関係は保持されている。 「徳は・・‑・我々にとって望ま しいように思われる一切のもの、従って幸福を求める我々のすべての努力の至上の制約である。

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従って至上善である‑‑‑。」 (V. s. 110.)他方「幸福は、それを所有する人にとって成る程快適で はあるが、しかしそれ自体で絶対的に、あらゆる点において善なのではなく、常に制約として道 徳的に正当な態度を前提するものである。」 (V. s. 111.)従って最高音は、他の一切のものを善た

らしめる至上の制約としての徳と、それに厳密に釣合った(しかもそれによって制約された道徳 的に望ましい)幸福との綜合ということである。 「それ故・‑‑至上善を道徳性が形成する。それ に対して幸福は、成る程最高善の第2の要素を形成するが、しかし道徳的に制約された、道徳性 の必然的結果であるといった仕方においてである。」(V. s. 119.)カントが幸福の実寛を善として 許容していた以上、道徳的努力の究極目標としての最高音の中に、徳によって制約された幸福が 含まれるのは、当然といえる。さらに意志の規定根拠についても、 (先程述べたことと)同じこ とが主張される。 「従ってたとえ最高善が、純粋実践理性の、即ち純粋意志の対象全体であるに

しても、それだからといってそれは、純粋意志の規定根拠とみなされてはならない。道徳法則だ けが、最高善やその実現ないし促進を対象にする根拠とみなされねばならない。」 (V. s. 109.)従 って、 (細かい点は後で論じるとして)ごく大雑把にみてみれば、カントの倫理思想の一般的立 場は、最高音を主張する立場でも貫かれているといえる (2)カントの独自性。 カント以後の 哲学においては関心が薄れたとはいえ、もともと最高善の問題は、古代ギリシア以来の実践哲学 の中心テーマであった。 「古代人において哲学は最高善が何であるか、それを獲得する態度は如 何なるものであるかを教えることであった。」 (V. s. 108.)従って最高音を論ずること自体には、

カントの独自性は何も見出されない。問題はその論じ方である。最高善において徳と幸福との綜 合が求められるにしても、カントにおいてこの両者は、全く異質的なものであることが常に前提 されている。理性に基づく徳と、傾向や自然的必要の充足に基づく幸福とは、人間にとって共に 必要不可欠のものであるにせよ、決して単純に同一視され得ない、 2つの異質的な善である√7)0

「幸福と道徳性とは、最高善の2つの種的に全く異なる要素である。それ故それらの結合は、 (例 えば自分の幸福を求める人が、その概念の単なる分析によって、この自分の態度において有徳で あるとか、或るいは徳に従う人が、そうした態度の意識において、すでに事実上、自らを幸福と 見出すといったように)分析的に認識され得るのではなく、両概念の綜合である‑‑・。」(V. s.

112‑3.)歴史的に言えば、 (節制、思慮といった徳が幸福に導くが故に)徳は、最高善としての 幸福に導く手段であると考えたのが、エピクロス派であった。そして自らの徳の意識に伴う自己 満足を幸福と考え、最高善としての徳即幸福と主張したのが、ストア派であった。両派は強調点

こそ違うものの、徳と幸福との究極的同一性を主張する点では、全く同じ立場に立っている。し かるにカントは、原理上の本質的相違を、言葉の争いに摩替え、偽りの同一性を描出しようとし ている(V. s. 111‑2.)として、両派を厳しく斥けているのである。ここにカントの独自性がみ られるといってよい。徳を、幸福を実現する手段と考えるエピクロス的態度が、 「自分の幸福の ために善を為す」といった「適法性」を生ぜしめるにすぎない以上、不十分として斥けられるの は当然である。しかしさらにカントは、徳を重視する点で、一見彼の立場に類似しているストア 派の立場すら、明白に斥けている。このことは、徳の意識に伴う喜び、自己満足だけで幸福を考 えることを、カントが斥けていることを意味する(8)。アルブレヒトが主張するように、カントは、

徳と幸福との「かたい異質性'9)」を認めていたのである。ところがストア派的徳福一致の主張は、

古代のみならず、近世から現代に至るまで、多くの思想家において、現実に見出されるものであ る。そこで、こうした主張に意識的に対立しようとするカントの立場の是非の検討は、当然重要 な問題になってくるといえる (3)最高音の実現可能性。 このようにストア派の立場もエビク

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ロス派の立場も明白に斥けられる以上最高善は、徳と幸福との「かたい異質性」を前提にした上 で、しかも有徳的心術が原因となって結果として(厳密にそれに釣合った、道徳的に望ましい)幸 福が生ずる場合にのみ可能となる。しかもこうした関係が、体系的、必然的に成り立たなければ、

十分ではない。ウッドが主張するように「最高善の概念は、有徳な人が又幸福である時に、単に 実現されるのではない。有徳な人が有徳であるが故に、幸福であると言われる時にのみ充たされ る。 2つの善の体系的統一・・一・として実境さるべき最高善は、徳と幸福との問の体系的開運‑・・・

を要求するのである。」 (p. 126.)しかしこうした関係は、人間の道徳的努力によってだけでは、

単純に実現されそうにない。 「徳の格率も自分の幸福の格率も、最高善を可能にするために、それ に属するにしても、同一の主体において互いに非常に制限し合い、否定し合う・・‑・・」 (V. s.112.) からである。義務に基づいて善を為すことは、他人や社会全体の幸福を道徳的に望ましい仕方で 促進することにもつながる限り、この世界を最高善的秩序に変える一因となり得るかもしれない。

しかしそのために行為者自身は、自分の幸福を犠牲にしなければならないこともある。従って義 務を遂行することによって、行為者自身において徳と幸福との最高音的一致が成り立つ保証は何 もない。 「道徳法則はそれ自体如何なる幸福も約束しない。」 (V. s. 128.)しかも義務の遂行が、

寛実に達成されるとも限らない.この世界の創造者ならばとも角、知や能力に限りある人問の努 力は、失敗や挫折に終る可能性を絶えず有している。さらに善意の努力が、人々から無視、誤解 されて、その人をますます惨めな境遇に追いやることもある。カントは『判断力批判』において、

視実の人間が置かれている状況の暗い側面を、次の様に措写している0 「彼(道徳的に正しい人 一一筆者付記)はこの世においても  道徳法則も守ることから、自分に対して如何なる利益も 要求しない。むしろ彼は、非利己的に善のみを為そうとする。そしてそのためにあの神聖な法則

は、彼のすべての力に方向を与えるのである。しかし彼の努力は限られている。そして彼は自然 から成る程、時折偶然的な協力を期待し得るが、しかし彼が実現する義務があり、又実賀するよう に促されていると感じている目的との、恒常的規則に従って起こる一つの合法則的な通関を‑・・・

彼は自然から期待することはできないのである。彼自身が誠実であり、平和的であり、親切であ るにしても、欺捕、暴力行為、嫉妬が常に彼の回りに蔓延っている。そして彼が自分の他になお 見出す正しい人々は幸福に催いし得る彼らの価値にも拘らず、しかしそうしたことに注意しない 自然によって、他のこの世の動物と同じ様に、欠乏や病気や時ならぬ死などのすべての禍いに服 しているのである。そしてこうしたことは、大きな墓が彼らを悉く(誠実であろうとなかろうと、

それはここではどうでもよい)吸い込み、そして創造の究極目的であることを信じ得た彼らを、

彼らがそこから引出された物質の目的なき混沌の深淵の中へ投げ返すまで、常に続くのである。

‑それ故、この善良な人が道徳法則を守ることにおいて眼前に有しており、また有しているべ きであった目的を、彼は実際不可能として放棄せざるを得なくなるであろう。」 (V. s. 452.)人間 が道徳的に望ましい仕方で努力しても、自然の世界(この内には勿論人間の社会が含まれる) が、それに協力するとは限らない。従って人間がいくら努力しても、道徳的努力の究極目標とし ての最高音的秩序がこの世界において実現されるという保証は何もない.かくして最高音の実究 可能性の問題は単に人間の主体的努力だけでは解決不能な問題と必然的に関係してくる。人間の 主体的努力と、 (人間がその一部分であり、それに依存している)世界全体との関わりが、問題 にされざるを得なくなってくるからである。カントにおいて最高善が、道徳の問題のみならず、

宗教に関係をもたざるを得ないのは、このためであるといえる。

2 二つの要請

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要請とは、 「先天的、無制約的に妥当する実践的法則と不可分に結びついている限り」(V. s. 122.) 実践的には必然的であるが、しかし理論的には決して証明され得ない「想定」ないし「仮定」 (Ⅴ.

s.ll.)である。もっと具体的にいえば、道徳的に必然的な究極目的としての最高音の可能根拠と して、魂の不死や神の存在などが、 (たとえ理論的に証明され得ないとしても)実践的に必然的 として想定されることである(10)。従ってそれは、同時に道徳的信仰、カントの言葉でいえば、

「純粋実践理性信仰」 (V. s. 144.)を意味する(ll)。ところでもともと信仰の内容は、それぞれの 人間の生き方や考え方と密接に結びついたものであるが故に、それらに対する深い理解や共感を 欠くと、局外者には全く無意味に思われる面が必然的にある。しかしカントの信仰内容が如何な る体験と結びついていたかは、後で検討するとして、ここでは魂の不死や神の存在を要請するカ ントの議論(V. s. 122‑3, 124‑5.)だけを、 (ペックにならって(12)‑¥箇条書きで紹介しておきた い。

〔魂の不死の要請〕 (1)世界において最高善を実現することは、遺徳法則によって規定され得 る意志の必然的対象である (2)神聖性(意志の道徳法則への完全な適合)が、最高善の至上の 制約である (3)神聖性は、有限な理性的存在者にとって、この世の如何なる時点においても達 成され得ない (4)しかし神聖性は実践的に必然的として要求されるから、それは、それに向か

う無限の前進においてのみ、見出されることができる。「理性的ではあるが、有限な存在者にとっ ては、道徳的完全性の低い段階からより一層高い段階へ向かっての無限の進歩のみが可能である。

時間的制約を意に介しない無限者は、我々にとって果てしないこの系列において、道徳法則への 適合の全体をみるのである。」 (V. s.123.) (5)こうした無限の進歩は、有限な理性的存在者の人 格が無限に継続される限りにおいてのみ、可能である (6)それ故、最高善は、魂の不死(人格 の無限の継続)の前提の下においてのみ、実践的に可能である。 ‑魂の不死は、このように要 請される。いろいろ問題があるにせよ(13)。以下の3点は明白であるといえる。 ①神聖性という 道徳的完全性に到達し得ない人間の道徳的不十分さの承認。 ②しかし自分の努力によって、道徳 的に望ましくない状態からより一層望ましい状態に向かって、一歩一歩前進して行くことは、人 間に可能である。 ③こうした恒常的前進が可能である限り、いつかは神に義とされうるという確 信。

〔神の存在の要請〕 (1)幸福とは、その存在の全体において、一切が願い通り、意志通りに成 就される、世界における理性的存在者の状態である。従って幸福は、自然と彼の目的全体、彼の 意志の本質的規定根拠との一致に基づく (2)自由の法則として道徳法則は、自然や、それと理 性的存在者の欲求能力との一致から、全く独立であるべきである規定根拠によって命じる (3) 従って道徳法則の内には、道徳性と、それに釣合った幸福との必然的連関に対する如何なる根拠 もない (4)しかし最高善の追求という課題において、そうした開運は必然的として要請される。

(5)それ故、幸福と道徳性との厳密な一致の根拠を含むところの原因、自然から区別される(道徳 的な)自然全体の原因の存在も又、要請される。こうした存在は、自然が、理性的存在者の道徳 的心術と一致する根拠を含まねばならない (6)こうした存在は、道徳的心術に一致する原因性 を有するものとして、悟性と意志とによって、自然の原因(創造者)である存在、即ち神である。

‑かくして最高善は、神の存在の想定の下にのみ可能となるo従って神の存在を想定すること は、道徳的に必然であるとされるのであるO理性的に考える限り、世界は、最高音の実鄭こ向か うように秩序付けられているべきである。人間が善の実視に向かう限り、それが達成され、しか も厳密にそれに釣合った幸福が、自ら与えられるように成り立っているべきである。そこでこの

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可能根拠として、神が要請されるのである(14)。従って純粋実践理性信仰の対象として、こうした 神を全面的に信頼することは、ウッドが主張しているように、 「世界の過程が、我々の道徳的意 欲と共同的であり、合目的的に秩序付けられている」 (p. 161.)という確信、或るいは「世界は、

道徳的目的なしではない。この目的は、よい世界を実現しようとする我々の最善の道徳的意図と 調和している」 (p. 171.)という確信を必然的に含む。しかし現実の体験に即して考える限り、

世界は決してそのように秩序付けられていない。努力しても善が達成されない、善人が惨めな境 遇におかれるといったことは現実にある。前述の如くカント自身が、それを認めていた。それ故、

一見不合理に思われる現実と、 (神への信仰に必然的に含まれている)世界の合理性への信頼と の問のギャップを、どのように解釈するかが、当然大きな問題になるといえる(15)。

Ⅲ カント的最高善の意義

前にも述べたようにカントは、ストア派的徳福一致の主張を斥けていた。そこでここでは、カ ントのストア派に対する批判を参照しながら、こうしたカントの立場の意義を考えてみたい。カ ントは徳を重視する点でストア派にそれなりの価値を認めながらも, 2つの点で彼らを批判して いる。 「しかし彼らは、純粋法則に対して必要とされる徳の程度を、この生において完全に達成 可能と想像することによって、一一人間の道徳的能力をその本性のあらゆる制限以上に過度に拡 張せしめ、あらゆる人間知に矛盾するものを想定した。それのみならず彼らは、とりわけ最高善 に属する第2の要素、即ち幸福を、人間の欲求能力の特殊な対象として承認しようとしなかった

‑‑・。かくして彼らは、実際最高善の第2の要素、即ち自分の幸福を、行為や自分の人格的価値 への満足にのみ‑・‑おくことによって、斥けてしまった。しかしそのことにおいて彼らは、彼ら 自身の本性の声によって十分に反駁され得ることであろう。」 (V. s. 126‑7.)この文において明 白に示されているように、カントは、道徳的善をこの世で完全に達成し得るといった安易さや、

徳とは異質的な幸福の意義を全く無視してしまった点において、ストア派の不十分さをみている。

そこでここでは、この2点に集中して、カントの立場の意義を考えてみたい。

1有徳さに伴う喜び、自負の問題

カントは、キリスト教の立場と比較して、ストア派には、道徳的純粋さや厳しさが欠けると批 判している (V.s. 127.)ところで聖書においてイエスが、自分の道徳的善さを誇るといった自 負を厳しく戒めていることは(16)、周知の事実である。これは自らの有徳さを喜ぶといったストア 派的自己満足とも関係してくるので、イエスがこうした自負を斥けた理由をここで整理してみた い (1) 「真の道徳的理想は、本来非常に高い。それで人間は誰も、自分がそれを達成している

と自信をもって言う資格はない(17)。」周知の如くイエスは、 『自分を愛するように、あなたの隣り 人を愛せよ。』(マタイによる福音書 22‑39.)という非常に高い道徳的規準を掲げたO そしてそ れは、自分を愛するのと同じ程の切実さ、真剣さで、他人の身の上を正しく配慮し、その善さを 願うことを意味していた。しかしこれは、簡単に達成できることではない。誰もが、他人のこと 以上に自分の身の上を配慮する過度な自己愛をもっているからである。例えば「他人のことなど 構っておれない。自分だけよければ、それでよい」といった気持を一度も抱いたことのない人、

或るいは他人の苦しみをみてみぬふりをする、他人に分らない悪をこっそりやるといった誘惑に 駆られたことのない人など、あり得ない。更にもっと悪いことに、自分の気に入らない相手を不 当に抑圧、排除したいといった欲求、或るいは他人を自分の思い通りに支配したいといった身勝

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手な欲求を感じたことがない人など、現実にはあり得ない。従ってイエスからすれば、わが身を 顧りみて、 「自分が本当に善い人間だ」と胸を張っていえる人間など、決していない。むしろ自 分の寛実を厳しくみつめればみつめる程、かえって自分の不十分さ、欠陥を認めざるを得ないの が、あるがままの現実の人間の姿なのである。真の善を完全に体得した人など、決してあり得な いのである。 ‑そこでもし「自分こそ本当に道徳的に善い人間だ」と自負している人があると すれば、そうした人は、実は本当は善い人間なのではない。むしろ自分の現実を厳しく反省する のを怠って、偽りの自負、倣慢に陥っている可能性の方が強い。そうした自負を抱いている人は、

本当に真実なもの、善いものを、あるがままの姿で受入れておらず、それを勝手に自分の都合の よいように歪めてしまっている可能性がある。例えばそうした人は、イエスのように、心の底か ら真剣に、他人を自分と同じ様に正しく尊重し、その善を配慮するといったことで、道徳的善を 考えていない。そして唯、仕間で不正と考えられている盗みや殺人といったことさえ犯さなけれ

ば、それでよいといった具合に、自分で勝手に善の規準を引き下げてしまっている可能性がある。

或るいは、たとえ心の中でどれ程他人に対する不当な怒りや憎しみを抱いていようと、少しも構 わないといった具合に、自分で勝手に善の規準を引き下げてしまっている可能性もたえずある。

要するに、本当に道徳的に望ましい在り方との関係で、自分を厳しくみつめるといった良心的在 り方が欠如している。自分で勝手に善の規準を引き下げてしまっている。それであやまった自負 や誇りが生ずるともいえるのである。そこで自負や誇りは、或る人が本当に道徳的に善い人間で あることを示す証拠であるよりも、むしろその人の良心の欠如を示している可能性の方が強い。

本当に真実なもの、善いものとの関係で厳しく自分をみつめる良心的在り方の欠如から、そうし た自負や誇りが生ずると考えられるからである。 (2)しかも人間は、自分を肯定し誇っている場 合には、とかく自分を甘やかしがちである。そしてそれだけ、自分の遺徳的欠陥にますます盲目 的になり易いといえる。自負や優越感にひたっているだけ、それだけ真実なもの、本当に善いも のに対して、ますます心が開かれなくなるからである。従って自負や誇りは、自分の現実の姿を 厳しく反省する良心的在り方の欠如を示すのみならず、そうした不十分な在り方をますます助長 するだけであるという意味においても有害である  (3)イエスは隣人愛を強調し、他人の身の 上を心の底から正しく配慮する在り方を、人間の理想としていた。しかし自負や優越感は、こう した隣人愛に端的に対立する(19)。自負や優越感は、他人に対する軽蔑や横柄さと表裏一体の関係 にある。そこで自負や優越感を抱いているだけ、それだけ人間は、他人の苦しみや悩みに冷淡で 無関心な在り方に導かれ易い。それ故イエスは、道徳的な自負や優越感を厳しく斥けたのである。

イエスからすれば、他人のことを本当に心の底から正しく配慮し、愛してはいないから、むしろ 自負や優越感が生じるのである。従って自負や優越感にひたり、いい気になっているだけ、それ だけ隣人愛に反し、人間としての価値を失っていることになるといえる (4)この世の中には、

道徳的な悪や不正が、さまざまの形で現実に存在している。又日々のパンにも事欠く不幸な人々 や悩める人々も、数多く存在している。ところがそうしたことを知りながら、自分一人道徳的に 善い人間だ、すぐれた人間だと自負している人があるとするならば、そうした人は、とんでもな い思い違いをしているといえる.隣人愛を強調したイエスからすれば、其の人間の偉大さは、他 人の苦しみや悩みを正しい仕方で、少しでも和らげることにある。そうしたイエスからすれば、

この世の車に悪や不正が存在し、悩んでいる人が存在するだけ、それだけ自らの不十分さを反省 する。そして本当に他人のことを正しい仕方で、心の底から配慮し、悩んでいる人が存在するだ け、それだけそうした人のために心を配る。ところが、悪や不正を除去したり、他人の苦しみや

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悩みを和らげることは、簡単なことではない。一寸やそっとの努力で除去される訳がない。むし ろ努力すればするほど、自分のいたらなさ、不十分さを痛感するばかりである。そこで自らの善 さを誇るといったことは、全く問題にならない。一一従ってこの世の中に不正が存在したり、悩 んでいる人が存在したりするのを知りながら、しかも自分だけ善い人間だと自惚れている人があ るとすれば、そうした人はとんでもない思い違いをしていることになる。隣人愛の欠如、他人の 苦しみや悩みを少しでも和らげようとする努力の欠如が、まさにそうした自惚れや自負を生じさ せているにすぎないからである。そこでむしろ誇ろうとする気持があるだけ、それだけ隣人愛に 欠け、人間としての不十分さを、自らあらわにしているといえるのである。

こうしたことを考えれば、イエスが自負を厳しく戒めたことも理解できるのではないかと思わ れる。そしてここで述べたことは、すべて、自分の善さを喜ぶといった在り方にも妥当すると思 われる。自分の道徳的善さを喜ぶといった在り方も、本当に真実なもの、善いものをあるがまま に受入れようとしない良心的在り方の欠如や、他人に対する無関心、冷淡さと、境実には密接に 関係しているからである。しかもカント自身が、ストア派的在り方に、イエスと同じ態度で臨ん でいる面があることは、明白である。 「無限になされる前進においてのみ、道徳法則との完全な 適合に達することができるという、我々の本性の道徳的使命についての命題は、一一非常に重要 である。こうした命題の欠如において、道徳法月1jは、寛大で(我々の言いなりになり)、我々の安 易さに通ったものに偽造されることによって、その神聖性を‑‑全く奪われるからである一一。」

(V. s. 122.)カントからすれば、自分の善さを喜ぶという資格を有する程、それ程善い人間は、

実際には存在しない。すべての人間が、たえず克服されねばならない不完全さを有している。そ れ故善さを喜ぶどころではない。従ってストア派的徳福一致の主張は、人間の現実を厳しくみつ めることを怠った安易な見解にすぎないのである。こうしたカントの考え方は真実だと思われる。

現代でもそのまま妥当すると思われる。ストア派が社会の問題に無関心であったことは、よく指 摘される所であるが、更に善を尊重するという彼らの在り方そのものが、不動心を培うという個 人的目的によって、かえって制限されていた面があることも否定できないと思われる。

2 幸福の問題

前述の如くカントは、幸福を「理性的存在者の存在全体に絶えず伴う生の快適さの意識」と規 定し、 (衣食住をはじめとした)人間の自然的必要や傾向の充足との関係で幸福を考えていた。

こうした意味での幸福を、 (徳によって制約されるべきであるという条件の下に)最高善の必然 的構成要素として認めることは、次の3つの点で当然だといえる (1)カントが述べているよう に、 「幸福であることは、各々の理性的、有限な存在者の必然的要求である。」(V. s. 25.)人間は 環実に幸福なしでは生きられない.例えば衣食住といった基本的欲求が充足されなければ、人間 は一日たりとも生きられない。聖書で述べられているように、人は確かにパンだけでは生きられ ないかもしれない。しかしパンなくして生きられないのも、又否定し得ない事実なのである。し かもインド、アフリカなどでは、現在でさえ毎年多くの人々が餓死するといった悲惨なことが現 実に起こっている。こうした人々に向かってパンを与えず、 「善さえ為していれば、それで幸福 だ」と言ったところで、それは無意味である。もしそうしたことを平気で言う人があれば、その 人は、人間として冷酷すぎるといえるo すべての人間が、衣食住の充足なくして一日たりとも生 きられない以上、幸福の重要性を無視することは人間として許されないといえる (2)道徳的善 悪は、環実に人間の幸福と密接な関係をもっている。例えば傷害、窃盗、詐欺といった不正は他 人の幸福侵害と密接に結びついている。更に配分的正義(価値に応じた配分)や交換的正義も人

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々の幸福に役立つものの正しい配分、交換という意味をもっている。不幸な人々の苦しみを少し でも癒そうとすることは、人間愛の発露として、当然道徳的に望ましい。こうしたことを考えれ ば、正しい仕方で幸福を増大、配分することは、道徳的に非常に重要なことが分かる。相手の人 格を尊重するか否かという問題と、その人の幸福に対してどのように対処するかという問題とは、

現実に一つに結びついている面があるからである。しかも(学問、芸術、産業などの発展といっ た文化的営みや、立法、司法、行政といった政治的、国家的営みなども含めそ)人間の個人的、

社会的営みのすべてが、幸福の増大や、それの配分の問題と現実に常に一つに結びついている。

それほど人間にとって幸福やそれの配分は大きな意義をもっているのである。社会的共同生活を 営むこと自体が、 (衣食住をはじめとした)人間の幸福の基本的条件の充足と無関係ではあり得 ないのである。そうである以上、幸福を最高善の必然的構成要素として認めることは、当然とい

ってよい。産業の発展という形であろうと,又制度上の改革という形であろうと、医学の進歩と いう形であろうと、人々の幸福は、正しい仕方で積極的に増大さるべき面が、常にあるからであ る。従って幸福をどうでもよいと無視することは、道徳的に許されない。むしろそうした在り方 は、幸福の増大に対する無関心を助長したり、他人に対する冷酷な態度や幸福の慈恵的配分を生 ぜしめ易い限り、厳しく戒められるべきだといえる (3)誰もが寛実に、善の他に幸福を追求し ている。そうしなければ、一日たりとも生きられない。従ってすべての人間が、何らかの形で徳 と幸福とを調和させ、秩序付けようとしている。ストア派的徳福一致の主張に共鳴する人も実際 にはそうしている。又そうせざるを得ない。ところが人間にとってともに必要不可欠な徳と幸福

とが、現実に対立する。幸福になるために徳を等閑にする、不正を犯すといったことが、現実に 起こらざるを得ない。それ故徳を優位におき、それによって絶えず制約された形に幸福を秩序付 けようとすることは、すべての個人の道徳的目標となり得ると同時に、社会全体の道徳目標であ

るともいえる。現実に人間が幸福なしで生きられない以上、こうした最高善的秩序以外に、道徳 的究極目標を求めるのは不可能だともいえる。

それ故カントが、徳によって制約された幸福を、最高善の必然的構成要素として認めたことは 正当だといえる。アルブレヒトは次の様に述べている。 「最高善の概念規定におけるカントの純 粋理性の弁証論は、 ‑‑・徳と幸福との究極的分離の試みや、両者の相違の抹殺の試みに反対して その意義を保持しているといってよいであろう。というのはそれは、徳と幸福との結合を、両者 の一方を削減することなしに考えようとするからである。 ‑・.・徳と幸福との間の相違を、まさに 両概念の結合において保持しようというカントの試みは、ボルフ主義、観念論、新カント派、功 利主義が、さまざまの側面において、それに為した批判にも拘らず、永続的成果を示すことがで

きるであろう。その実り豊かさは、それに対して何度も異議申し立てが為されたし、今も為され ることにおいて恐らく示される。道徳性と人間の幸福とを安易に処理しようとする古今の多くの 試みに対して、それは規準として確証されることができるであろう。」 (s. 189.)徳と幸福との究 極的断絶性を強調して、一方だけを重んじようとする試み、或るいは根本的相違を無視して、両 者の究極的一致を強調する試み、これらは、カントの最高善の主張と対立する.徳と幸福との根 本的相違を自覚しながら、しかも徳の優位性を維持しつつ、それと、 (それに制約された形での) 幸福との綜合を目指そうとするカントの考えは、他のすべての試み以上の価値をもつと、アルブ

レヒトは主張しているのである。そして私も、全く同様に考えている。衣食住の充足なくして誰 も生きられない以上、幸福は、道徳においても絶対に無視することのできない大きな問題である。

善だけで十分である、それだけで幸福であると主張しうる人間は、一人もいない。しかし幸福と

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道徳とは、全く異質的な面も有する。幸福を実現する手段が、道徳であるといった安易な態度、

或るいは「衣食足りて礼節を知る」といった態度も、厳しく斥けられるべきである。そうである 以上、残るは、カント的な最高善的秩序のみである̀20)。道徳的自己反省の厳しさ、幸福なしでは 生きられない人間の現実を直視する態度が、カントの最高善の主張の背後にあるといってよいが、

そのいずれにおいてもストア派以上に、カントの方がすぐれていると思われる̀21)。

Ⅳ 信仰の間蒐

すでに述べたように、カントの神への信仰や、魂の不死への信仰を正しく理解するためには、

それらが、人間が陥る如何なる状況と開運を有し、如何なる道徳体験と結びついていたかを究明 する必要があると思われるO ウッドが主張するように、 「もしも我々が一つの見解、考え方とし ての道徳的信仰の性格を明らかにすべきであるならば、我々は、如何なる普通の状況、如何なる 道徳生活の問題や事実が、カントが一一示す哲学的推論に対応するかを、みようと試みねばなら ない」 (p. 156.)のである。そこでウッドの主張も参考にしながら、ここでそれを試みてみたい。

(1)道徳的絶望。 道徳的に善い人間は、それぞれの状況で、それに応じた特殊な善い目的の実現 を追求している。そしてこうした特殊な善い目的のすべてが、一緒になって最終的に目指してい るのは、遺徳的究極目的(カントの言葉でいえば最高善)の実現である。ところで人間の力は限

られているから、それぞれの状況で特殊な善い目的の実現に向かっても、そのすべてが常に達成 されるとは限らない。自分の能力を超えている目的、自分の置かれている状況に適しない目的は、

いくら熱心に努力しても達成されない。しかし個々の状況で、特殊な善い目的が実現されないこ とがあったにしても、彼は直ちに絶望することはない。別の状況では、別の特殊な善い目的が実 現される可能性は残されているし、道徳的究極目的が長い間には、達成され得るという希望を抱 き続けることも可能だからである。 「各々の特殊な計画は、より善い世界のための闘いにおける 小競合いにすぎない。そして一つの挫折に出会すことは、必ずしも全体としての闘いにおいて敗 北することではない。」 (Wood. p. 157.)‑  しかし特殊な善い目的を実現しようとする努力が、

繰返し、深刻な失敗や挫折に直面すると、そうはいかなくなる。彼は、彼の究極目的そのものが、

又失敗に運命付けられているのではないかと、疑い始める。 「何となれば感覚的自然は、如何な る規則的、道徳的合目的性を示さないことが一一発見されるからである。世界はその内に善を実 賛しようとする善い人間の努力を、如何なる仕方でも反映しないように思われるからである。人 生の過程において各人は、道徳的、社会的悪や自然的災害に出会す。これらは、道徳的個人自身

や、彼のような他の人々のか弱い動揺的意図や努力以外に、この世界に善‑の力が存在すること に対する深刻な疑いの基礎を提供せざるを得ない。」 (Wood. p.p. 158‑9.)そこで「彼は、彼の 道徳的関心を空虚で、非現実的なものとして放棄することに強く誘惑される。彼の遺徳的目的が 実践的に可能であるという積極的証拠を見出すことができない失敗や苦しみに直面して、道徳的 人間は、道徳的絶望に陥る深刻な危険にある。」(Wood. p. 159.)しかも死が、絶望をさらに深め

る。人間的価値の実現を顧慮することなく、 (一切の意味付けを冷酷に拒絶するかのように)死 は、善人にも悪人にも無差別に襲いかかる。死の可能性を前にして、一切の人間的価値は色あせ、

何をやっても面白くない反面、又善悪を問わず、何をやっても許されるように思われる。不可避 的ではあるが、何時来るとは分らない「死」を前にして、人間的価値を積極的に選び、形成する 意欲そのものが失われてくる。かくして人生は、全体としての無価値性という枠組の中でなされ

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る、空虚な慰み事のように思われてくるであろう̀ (2)道徳的不十分さの自覚。 ところで一 度こうした絶望に襲われると、それから技出すことは容易ではない。善を実現する意欲が喪失し、

生きることの無意義さの自覚が、一旦心に巣喰い始めると、それは増大するばかりで、簡単には 解消され得ないからである。ところがカントの神への信仰は、一見如何に不合理に思われようと、

「仕界の過程が、我々の道徳的意欲と共同的であり、合目的的に秩序付けられている」という確信 を必然的に含んでいた。こうした神‑の信仰と道徳的絶望とは、真正面から対立する。絶望に勝

った人間が、こうした信仰に容易に達するとは、とても考えられない。従って絶望に陥った人間 が信仰に到達するためには、心の内面における決定的方向転換、一種の「翻り」が生じなければ ならない。絶望と信仰との間に決定的断絶がある以上、しかも同一の人間が絶望を経て信仰に到 達する以上、絶望者そのものの心の内面における方向転換のみが,それを可能にするといえるか らである。しかもこうした方向転換、翻りの契機となるのは、自分の道徳的不十分さの自覚であ ると思われる。カントは次の様に述べている。「道徳的法則に完全に適った心術の価値は、無限で ある。というのは、あらゆる可能的幸福は、すべてを為すことができる賢明な幸福の配分者(棉

‑筆者付記)の判断においては、理性的存在者の、その義務への適合性の欠如という制限のみ を有するからである。」(V. s. 128.)こうしたカントの発言は、以下の3つのことを意味している。

即ち①道徳的であるか否かは、 (神にとっても人間にとっても)決定的に重要なことである。 ② しかるに(ストア派への批判や「不死の要請」の議論においても、すでにはっきり示されていた ように)人間は、道徳的に不完全である.そうである以上人間は、神に対して、「自分は道徳的に 善い人間であるから、もっと幸福を要求する権利がある」といった思い上った態度をとるべきで はない。 ③むしろ自分の道徳的不十分さを絶えず顧りみて、少しでも善い人間になるように努 めねばならない。決してそのこと以上に、自分の幸福への要求を重んずるべきではない。 ‑と

ころが絶望者は、自分は善い人間なのに、善を実現しようとしても実現できない。従ってこの世 は不合理であり、この世の創造者にして維持者である神は、無慈悲、冷酷であると思っている。

そこで(このように思い上って自分を正当化し、神を罵ろうとしている)絶望者自身が、自分の 道徳的不十分さを徹底的に自覚しなくては、信仰の立場が成り立たないことは、明白である。し かも絶望者が道徳的に厳しく自己をみつめる限り、こうした可能性は現実にあるといってよい。

①善が実現され得ないからといって絶望する場合、その絶望が、道徳的に正当化されるのかとい うと、決してそうではない。それぞれの状況で何が、相応しい善であるかについての判断の未熟 さ、実行しようとする自らの能力の不十分さなどを真剣に反省すべきであって、 「善など無意味 だ」と絶望すること自体が、問題だからである。又もしも道徳的に善いことを本当にそれ自体で 尊重しているとすれば、たとえそれが現実に達成できなくても、それはそれなりの満足感を得ら れる筈だともいえる。たとえ成果が挙げられなくても、「少くとも自分は、善く生きようと努力 したのだ」ということに、慰めを見出すことができるからである。従ってそうした慰めで安らぐ ことができず、絶望に陥るのは、自分が成果ばかりを気にし、 (結局は自分の幸福にとって都合が よい)報いを余りに強く期待しすぎていたことによるといえる面もある。それ故、善が実現され 得ないからといって絶望し、この世界の不合理さを罵る自分自身の在り方が、厳しく顧りみられ る必要がある。道徳的善以上に自分の幸福に執着しすぎる過度な自己愛が、絶望を生じさせ、こ の世の不合理な側面だけを敢えて過大視している面があるからである。この世の中には大きな苦 しみを抱えながら、しかも忍耐強く真面目に働いている人も大勢いる。それなのに、そうした人 々のことも忘れて絶望している自分自身の忍耐のなさ、安易さも当然問題になるといえる。本当

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48 若 松 .謙

に善をそれ自体で尊重しているならば、絶望する暇はないといってよい。 ②人間はいくら堕落 したからといって、道徳的善悪を全く無視し、悪を悪と知りながら喜んでやるといったことは、

とてもできない。従っていくら深刻な絶望に陥ったからといって、人間は悪魔的存在になり切る ことはできない。 (『単なる理性の限界内における宗教』 VI. s. 35.)万一敢えてそうした存在であ ろうとすれば、人間は、自分で自分を肯定しえなくなる。 「いずれの場合にも、道徳性の究極目的 の実践的可能性を否定するならば、 "私は、私自身の真の本性や、その永遠の道徳的原理を否定し なければならない。私は、理性的人間であることをやめなければならないであろう"と、カント は言う̀23)。」それ故、善悪の違いなど、どうでもよいと考えている自分自身の道徳的不十分さが、

徹底的に自覚される可能性は、残されている。 ③人間は、結局は世界の一部分しか知り得ない。

世界の全体の本質をあるがままに正しく把えるといったことは、決してできない。それなのに、

「この世界は、善の実現を許容しない、無意味で空虚な世界である」とみなして絶望することは、

独断である。そうした絶望は、 「他界が道徳的善さを欠き、彼の究極目的の実寛のための如何な る根拠も与えないことを絶対的に知ることが、有限な存在者の力を超えているという意味におい て、早計であるに違いない。それ故彼の絶望は、世界についての生意気な判断である。」 (Wood.

p. 160.)この仕の中には、現実に不合理な面がある。しかし他方、善い側面、合理的な側面もあ る。しかるに絶望者は、こうした側面や、自分自身の道徳的不十分さは、全く棚上げにして、こ の世の悪い側面だけを過大視し、そのことによって、この世の創造者たる神を冒漬しようとして いる。そしてそれは、道徳的善以上に自分の幸福を期待しすぎる過度な自己愛の不当な自己正当 化の要求と無縁ではない。それ故道徳的反省が深まるにつれて、神を罵る自分自身の不十分さが、

徹底的に自覚される可能性はある (3)善の積極的実現。 こうして絶望している自己自身への 厳しい道徳的反省を通じて、 「道徳的善が、自分の幸福以上に決定的に重要であること」が、改め て自覚される。更に、こうした道徳的善をまだ本当に心の底から、それ自体で尊重していなかっ た自分自身は、 「不幸であるのが当然であった」ということも自覚されてくる。そこでこうした 自覚に基づいて、再び善の実現に向かっての積極的努力が生じると思われる。 (勿論、適法性と の違いにおける道徳性の立場においてである。)安易に絶望していた自分の不十分さが痛切に自 覚されればされる程、それだけ道徳的善が、それ自体として重んじられる可能性が強くなるから である。そしてこうした真剣な努力が、或る程度実を結ぶようになると、神への信頼も回復され てくる。この世の中は一見不合理にみえようとも、本当に真剣に努力しさえすれば、善が実現さ れる可能性はあること、神という絶対的存在に照らして自分を厳しく吟味する限り、徳と幸福と の最高善的関係も見出されることが、自覚されてくる。かくして恒常的な道徳的努力が可能とな る。善が達成されれば、 (善の達成は、人間の主体的努力以外の運、不運にも依存するが故に)棉 に感謝し、達成されなければ自らの不十分さを顧りみて、次の機会にはもっと真剣に努力しよう と決意する在り方が成り立つ̀24)。自分の道徳的不十分さを厳しく顧りみる態度がしっかり確立 されている限り、たとえ深刻な挫折が生じようとも、慎ましく自分の非を認め、それを少しでも 是正していこうとする辛抱強い努力が可能となるからである (4)神の義認。 こうした絶えざ

る努力によって、 (たとえ神聖性という理想に到達することは不可能であるにせよ)しかしより 一層よい善へ向かう向上的心術は、しっかりと確立されてくる。従って末だ道徳的に完全ではな

いにせよ、こうした向上的心術の堅固さに基づいて、何時かは神に義とされることを希望し得る。

「この最高善への関与の希望に関して、被造者に帰せられ得る唯一のものは、鍛えられた心術の 意識のみであろう。彼は、彼のこれまでの一層悪いものから、道徳的により善いものへの前進に

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基づいて、そしてそのことによって彼に知られるようになった不変の企図に基づいて、それの今 後の不断の前進を、一一この生を超えてまでも希望することができるのである。そして‑・‑(棉 のみが見渡し得る)彼の無限の継続においてのみ、神の意志に(正義と一致しない憐みや許しな しに)完全に通い得るのである。」(V.s.123‑4.)

カントの神への信仰は、以上のような道徳体験と密接に結びついていたと、私は考える′25)。そ してこのように解釈することができる限り、カントの信仰に、それなりの実践的意義を認めて差 支えないと思うのである。ペイトンは次の様に述べている。「神や不死についての形而上学的信 仰は、カントの倫理学の内容を変えない。又それらは、道徳的意志の至上の価値や定言的命法の 拘束的本性に、何も付加しない。しかしそれにも拘らず一一それは、道徳的努力に対する大きな 刺戟、人間精神に対する強力な支えである。もしも人間が、道徳生活は、彼や人類が永遠に死に 絶えるまで、善悪に盲目で無関心な宇宙を背景にして、彼の仲間と共に参与し得るはかない企て 以上のものであると、信じ得るとすればである。人間は、道徳的完全性に向かっての彼の微少な 努力が、上辺はどうあろうと、宇宙の目的に一致しているという可能性に無関心ではありえない。

神聖な支配者の下で、永遠の企てに参与し得るという可能性に無関心ではあり得ない′26)。」ウッ ドも次の様に主張している。「こうした道徳的信仰についての見解は、カントにとって道徳的意 欲そのものに"内在的"である。そして意志し行為する有限な理性的存在者の道徳的感情や心柿 の部分として働く。かくしてこの見解は、彼を襲う特殊な出来事に対する彼の態度や、善い世界 を実祝しようとする彼の試みにおける成功や失敗への彼の応答を導く。神への信頼は、・・・‑道徳 的人間が、道徳的絶望に陥ることなしに、道徳的挫折や苦しみに理性的に直面することを可能な らしめる。道徳的信仰は、我々の苦しみを言い誤魔化したり、除去したりしない。しかし苦しみ にも拘らず、満足し、よい世界を理性的に追求する希望と勇気とを我々に与える。」(p.170.)こ うした発言は、カントを正しく把えていると思われる。カント自身が認めているように、この世 界では、徳と幸福との一致は偶然的にしか起こらない。「心術の道徳性が、原因として、感性界に おける結果としての幸福との、直接的ではないにせよ、しかし(自然の叡知的創造者を介して) 間接的、しかも必然的な関連をもつということは‑‑‑不可能ではない。そうした結合は、感覚の 対象にすぎない自然においては偶然的にすぎない。」(V.s.115.)従って徳と幸福との一致は、経 験的証拠によって、一般的な仕方で正当化されることは決してできない。しかしこうした偶然的 一致を媒介にして、何処までも神の善性を認め(逆から言えば、自らの道徳的不十分さを認め)、

挫折や失敗に怯むことなく、何処までも善い世界の実現に向かって理性的に生き抜こうという態 度が成り立つ̀27)。従ってカントにとって神への信仰は、ウッドが主張していたように、道徳的意 欲そのものと結びつき、それに内在化する。しかもそのことによって遺徳の尊厳性が害われるこ とは決してない。むしろ道徳の尊厳性、その存在意義をしっかりと保証し、人間の道徳活動の精 神的支えとなるという意味において、道徳的に望ましい信仰だったといえるのである̀28)(

。V了)

(1)T.M.Greeneは、H.H.Hudsonとともに、カントの『単なる理性の限界内における宗教』の英訳者である。

HarperTorchbooks.(NewYork.1960.)グリーンは、この訳書の冒頭に"ThehistoricalContextand

religiousSigni丘canceofKantsReligion"という自分の論文を載せている。本文中の言葉は、それからの 引用であるIvi.

(2)KritikderpraktischenVernunt.この小論ではKantsWerke.AkademieTextausgabeから引用する

(断らない限り、カントの他の著作についても同様である)8V.s.129.なお以下において引用頁数は、でき るだけ本文中に示す。

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