[ V ]
第三篇第一章では、前篇の最後に導出された「当為」としての「人倫的法則」が、すべての 理性的存在者の「道徳的な連結」を成立させ、「人倫界〔人倫的世界〕」を構成する原理である ことが解明される。
他我の自由ゆえの自我の自由の自己制限――ひいては諸自我の間での相互的な自由の自己制 限――という論理構成は、自己の〈為しうる〉という自然的物理的な自由を、他者の自由の発 動、その実働性を妨害することを〈為すべきではない〉という思考であり、そのゆえに自然を 超えた人倫的(道徳的)な自由の発現を保証する人倫的法則なのである。
(七)「あの思考〔X〕とは、〈たしかに為しうるが、為すべきでない〉という思考であるが ---以前に〈力の思考〉がそうだったように、外的な直観のうちで表現される。ただし---こ の思考は、〈直観する者の外なる、自由な存在者〉の自由の産物として表現される。あの〈為 すべきでない〉という思考が内的に現われると、かつまた内的に現われるからこそ、そうした 自由の産物の現象が外的に現われるのである。」(S.634)
これは、上述したように、他我と、その自由なる実働の産物(行為ないし所行)が自我たる われわれに開示される仕方を示している。このことは次のようにも表現される。
「〔われわれが一定の自由を発現すべきでないというあの〕禁令がわれわれに内的に下される 場合に、あるいは---〈われわれの力を無造作に用いるべきではなく、われわれの外なる自由 の発現を期待すべきである〉という命令が下される場合に、われわれは〔われわれの外に〕一 個の自由な存在者を定立する。〔かつまた〕われわれは、この禁令のもと〈われわれの外なる 自由の発現そのもの〉がわれわれに現象する場合には、その〔自由の〕産物を定立するのであ る。」(S.635)
(八)「人倫的法則」がすべての理性的存在者の「連結」、しかも「道徳的な連結」を構成す ることが記述される。それは、自然における個我の質的な一様性を破る数的な一様性――その
―『意識の事実(1810/11年)』への一視角―
湯 浅 正 彦
結果としての諸自我の分離――がさらに廃棄されるという構図のもとに、次のように述べられ る。
「〔感性界ないしは自然においては〕一なる生が、〈幾つかの数的に異なる反復(諸自我)〉の うちに、質的にもっぱら一様な仕方で分かれており、その反復のそれぞれが、生の一なる全体 的な力〔自然的な自由〕を所有している。こうした反復のうちの一つが、あの普遍的な能力 の一部分を遂行するとしよう。すると、それによって、他の数的な反復すべてのうちにおいて、
直接的かつ絶対的に、しかも新しい産物として、〈〔力の〕こうした展開に反対する働きを為す べきではない〉という禁令が発生するのである。」(S.636)48)
それが示しているのは、「物理的には為しうるにしても、道徳的には為すべきではない」と いうことであって、かくして「一個の者の自由は、たしかに物理的な仕方で直接的にではない にしても、生じた禁令をつうじて道徳的な仕方で間接的に、すべての者の自由を直ちに規定し 映像するのである」。すなわち、「こうして---数的な分離が廃棄されて、幾多の者たちの間に 感性的な仕方で残っていた割れ目が道徳的に――物理的ならぬ道徳的な絆によって――埋めら れているのである。」(ibid.)
(九)「自己規定が同時に他者の規定である」ような「物理的な連結」の場合とは異なり「道 徳的な連結が存在するのは、原因の自己規定と、それによって他者を規定することとの間に中 間項が入ってくる場合である。その際この中間項は---意識、しかも〈他者のうちの原因の自 己規定を直接に意識すること〉である。」(S.636f.)
われわれ諸個我の間で相互的に成立する、「自己規定」とそれによる「他者規定」(他者が制 限されること)との相即を媒介するこの「意識」は、こう記述される。
「意識はなんといっても自由であり、規定された意識とは〈ひとが意識しているもの〉から の自由である。それゆえ、他者が〈〔自己の外の――つまり他の――自我における〕原因の自 己規定〉を確かに意識するやいなや、他者はその自己規定のうえをとらわれることなく自由に 浮動する。だから〈そのことによって他者は制限されている〉とは、〈他者はあの自己規定の 意識にしたがって、疑いもなく現存する自己の自由を、自己自身の自由によって制限すべきで あること〉を意味するはずだ。」(S.637.)――あるいはまた、次のようにも言われる。
「一個の者が実働する。これは自己規定であって、それそのものはただ当の者のうちのこと にとどまる。だが、この自己規定と直接的に一つとなって、まったく普遍的な意識、しかも
〈制限的な為すべし〔つまり、為すべきでない〕を、同様に直接に伴う意識〉が、すべての者 に対して生じる。」(ibid.)
これが「すべての者の間での道徳的な連関」である。すなわち「物理的な点では分離はあり 続ける、それどころかむしろ、そこではじめて分離が確証されさえするが、それでもやはり、
すべての者が道徳的な点では一であって、〈自由の同じ使用をすべての者に禁じる法則〉によ って包括されている。」――それは、「自由で理性的な存在者の間での、すべての者に明らかで 共通意識のうちで発現するような、連結」である(S.637f.)。
(一〇)以上では、「感性界から人倫界へと生を移し、両世界の特徴的な区分点をも精密に挙 げてきた。だがわれわれには、両世界を結合する項がまだ欠けている。」――ここでなお問わ れるのは、「一なる生の数的な反復〔である諸個我〕のうちの或る一個の者が自由に行為する 場合には、他の反復すべてに対して、それに対立する自由の使用をその者たちに禁じるような 意識が絶対的に発生する」のは、いかなる根拠にもとづくのか、である(S.638)。
それは「人倫的な究極目的」ひいては「絶対者」のうちに求められることになる。それを示 すために、第二章では「個体性の一層詳細な論究」が行なわれる。
[ VI ]
すなわち、この『意識の事実』講義の先立つ箇所でも「個体」については縷々述べられたわ けであるが、それを取りまとめつつ拡充することが行なわれる。
便宜上(一)~(八)、(九)・(一〇)、(一一)・(一二)の三部に分かつなら、第一部では、
「根源的な個体化作用」が「生の自己収縮」として提示され、そのうちで「生」が取りうる二 つの形式として「普遍的形式」と「個体的形式」とが指摘される。そのうえで、「生」が実働 し行為が現実に生じるためには「個体的形式」を取ることが不可欠的に必要であると論じられ る。また、「一なる生」 の諸「形式」の 「変化」 との対比で「一者〔同一者〕」という在り方―
―「不変」なる「本来的な存在」――の意義が解明され、そうした 「一者」 としての 「一なる 生」 の真相を捉えうるのは、直観を排除した「思考」のみであることが強調される。さらに
「生の実働性について生がもつ意識」が、「不動の自然の直観」と「自由の直観」との関係にお いて解明される。その際、自由の行使の取り戻し不可能なことについての意識において、「事 実的な存在の必然的な承認」がなされ、かくて「事実的な存在」の領域の発生が確認される。
第一部の内容に立ち入ろう。――
(一)(二)もとより基盤を提供するのは「それ以外にはなにも現存していない」とされる
「一なる生」である。とはいえ「生一般の力の客観的な直観」においては「自己反省」が欠け ており実働する自由な「主観」は存在しない。それは「純粋な外面性」として「相対立する多
様なもののうえに散乱している」状態でしかない。そこで「生一般の力」が「現実的に発現す ること」、だから「ある単純な点から始まり、特殊な被制約性の法則に従ってこの点から前進 する」ような「自由の実在的な実働性」、が可能となるための条件として、「一なる生があの普 遍的で散乱した在り方を抜け出て、一個の点へと収縮し sich contrahiren なければならないで あろう、――無論これも絶対的な自由をもってなされねばならない。」(S.639)
(三)この「収縮 Contraction」を吟味するなら、「一なる生」が「他の点すべてを捨象し、
ただ一点へと一般的に制限すること」において、「この点へとまさに収縮するもの」がはじめ て生じており、「いまやこれを反省することが可能になっている。」さらには、「収縮によって 与えられたこの点を反省し、この点から可能になる因果性を被制約性の法則に従って計算する、
という可能性」が得られている(S.639)。
ここでは「収縮の絶対的な作用」という「自由の最初の根源的な事実」にもとづいて、以上 のような内容をもった「別の直観」が可能となっている。それは「われわれが先に〈内なるも の〉と名づけ、個体の所有物だと記述してきた直観と同じものである49)。それゆえ、それによ って個体そのものが生じるのである。そして、一者の自己収縮こそは、根源的な個体化作用 der ursprüngliche actus individuationis なのである。」(S.639f.)
(四)さて、以上のような「普遍的な直観」から「個体」への「自己収縮」の過程が示して いるように、「一なる生」には、それが発現する二つの形式として「普遍的形式」と「個体的 形式」がある50)。そこでこう言われる。
「一なる生は、収縮によるこうした〔個体的〕形式を直ちに抜け出て、再び〈〔個体を〕解消 する普遍的形式〉へと還ることができるのか。無論できる。したがって個体とは、生の特殊な 存在ではまったくなく、生のたんなる形式、しかも生の絶対的自由の形式なのである。これら の形式は相互に排除しあう。つまり、生が一方の形式を取る場合には、同じ不可分の作用にお いて同時に他方の形式をも取ることはできない。けれども生は、同じただ一つの自由をもって、
かつその自由によって、一にして同じものであり続けながらも、一方から他方の形式へと移行 することができる。」(S.640)
かくして「個体性と普遍性との直接的な絆が端的に存在しており、しかも〈どちらか一方の 形態に自己を形成できるという生の自由〉のうちに常にとどまり続ける」のであれば、分離さ れた諸々の個体ないしは〈生の反復〉がそれぞれに別個の世界を表象しているのを、それぞれ の自我にそなわった「自立的な理性」を前提することで連結する場合の「困難」は解消すると、
フィヒテは付言している(ibid.)。――思うに、或る哲学的な見解によって従来の哲学的な困
難を解消しうることは、前者の見解のメリットを示しそれを受け入れるなにがしかの理由とは なるだろうが、それだけでそのための十分な理由づけになるかは問題であるし、独立の証明な いしは根拠づけが望ましいことは否定できないだろう。
(五)・(六)「いかなる行為も個体的形式を取ってしか遂行されない。なぜならば、それによ ってのみ、生は、あらゆる行為の出発点であるべき統一点へと収縮するからである。生は、個 体的形式を取ってのみ実践的な原理なのである。」――これに続く箇所は、注目に値する。す なわち、――「ところで、生が行為することは、けっして必然的(つまり物理的に必然的)で はない。というのも、生は総じて絶対的な自由をもって行為するからである。」(S.641)
「絶対的な自由」は行為することも、行為しないこともできるということだ。もとより「生」
が行為するとするならば、この条件のもとでは、個体的形式は必然である。だが、「生」が行 為することの無条件の必然性はどこから由来しうるか。フィヒテは「道徳的法則を付与する場 合」がそれであること(道徳的行為による個体化)を示唆している(ibid.)。
ところで、一方では「生は、その一性においてのみ力をもつ。それゆえ、---生は一として、
かつこの形式を取ってのみ、実際に働くのである。他方また生は、この一なる点から始めて一 連の制約の系列を経てのみ、力を現実に行使するようになる51)。生はこの二つのことを、個体 的形式のうちでしか捉えることができない。よって、生はその二つの形式の力のうちで行為す る。その場合両者は緊密に融合している。普遍的形式は能力一般を提供し、個体的形式は、そ れなしには力が事実的に発現しえないような能力の規定性を与える。」(S.641)
(七)従来「一なる生」は「一者」とも称されてきたが、「一なる生」が上記の二つの「形 式」において展開・変化するにもかかわらず「一者」であるとは、どのような事態であろうか。
いまや、次のように言われる。
「一者とは、自己自身のさまざまの相対立する形式に没入することなく、それらの形式の変 移 Wechsel すべてのうちで持続する verharrt ものであるが、それは、生において本来的にそ れだけで存在するもの das eigetlich für sich Seyende am Leben である。」それは、「生のたん なる諸現象とは対立した〈生における、生のうちでの絶対者〉」という意味で「絶対的」であ る(S.642)。
「この〈それだけで存在するもの〉そのものは、自己のこうした存在において不変である。
なぜなら、それそのものは、そうした諸〔形式の〕変化のうちへと没入しないからだ。たしか に、その諸変化は、時間のうちで相互に排除しあう。そして、時間そのものは、〈やはり一者 における変化としての、諸変化そのもの〉の直観形式以外のものではない。だが〈不変なるも
のそのもの〉は、まったく時間の外にある。なぜなら、たしかにそれは時間のうちで変化する sich verändernものの、そうした諸変化は〈その本来的な存在 sein eigentliches Seyn〉には かかわらないからだ。」(ibid.)
かくして「一者」とは、「一なる生」における「本来的な存在」として、「生」の諸「形式」
の変移としての「諸変化」を超えて「不変なるものそのもの」であり、「まったく時間の外に ある」ようなもの、として捉えられねばならない。
換言すれば、「一者」とは、「直接的にはまったく現象せず、それゆえ直観もされず、だから またいかなる可能な直観形式〔すなわち時間と空間〕のうちでも直観されないもの」であり、
「生」の「たんなる力、基体をもたぬ純粋な力」である。よって、これを捉えるのも、「その内 容によって端的にすべての直観可能性を、それゆえすべての可能な直観形式を排除するような 思考」であって、それによって思考されるのは「現象」ではなく「あらゆる可能な現象の根底 にあるもの」なのである(S.642)。
これは、「内容そのものが感性的なものの混入を禁じている」ようなものであって、「こうし たものは精神的に捉えるgeistig fassenのでなければならない。」(S.642f.)――これが、ひとに よっては困難になる理由は、「われわれすべてが、われわれの意識をまずは感性的な直観の領 域で展開し、われわれの生のかなりの部分をこの領域で過ごし、こうして感性的な直観が、習 慣によってわれわれにとってほとんど第二の自然本性にまでなっている」ことにある(S.643)。
こうした感性的な直観への習慣による固着こそは、「一なる生」をその普遍的形式において 捉える哲学的な推論にとっての障害になる。すなわち、「すべての個体的形式においては、同 じ一なる生が、しかもまったく全体として現象する。」「かくては、一なる生が全体として私の うちにあり、それと同時に私の隣人のうちにもあり、同時にまたたとえばアメリカにも、もし かするとシリウスにもあることになる。だが一なる生がどうしてこれほど多くの場所に同時に 存在しうるのだろうか---。だから、こう考えるひとは、あの指示に反して、精神的な生を外 的直観の形式で捉え、空間的な制約に結びつけているのだ。」(ibid.)
「生」の展開がもたらす、その「一者」という真相を隠蔽する傾向が、いかなる由来をもつ かが、ここでは語られている。「知」の自己隠蔽の一形態であり、「知の生」の危機の由来の一 つを示しているであろう。
(八)「一なる生が現実に活動するよう自己を規定することによって(---)、上述のことに 従い、〈生のこの実働性について生がもつ意識〉が必然的に発生する。この意識は普遍的であ って、だから生が取ったどの個体的形式にも同じ仕方で現われねばならない。」(S.643)――
それは具体的には、「生の不変の根本形式」である「力を、端的に力として捉えるような、力 の普遍的な直観」であるが、つまりは、物理的法則に従うかぎりでの「自然は不動で不変のも のだという見方」である。
「しかしながら、個体的形式からは、〈規定された〔一定の〕実働性についての意識〉が発生 する。この実働性は、〈たんなる純粋で現存する形成的な力〉として現に存在するのではもは やなくて、そうした力として消費される。そこでこの実働性は、〈普遍的な直観のうちに与え られた根源的な力の総体〉から引き抜かれなければならない。第一の不動の直観が不変のまま であり続けなければ、そうした引き抜きは、だからまた要求されている意識全体は、可能とな らないであろう。」――そして「規定された実働性についての意識」とは、具体的には、「自由 によって不断に変化して、さまざまな飛躍や新しい産物となって現われるが、〔物理的〕法則 に従うのではけっしてないような仕方で形成されるような領域、に関する直観」であり、それ は「連関のためのすべての、少なくとも物理的な、法則を欠いた諸事実そのものにかかわる。」
(S.644)
そして「不変の自然」に関する「普遍的な意識」と、「自由」にもとづく「規定された実働 性についての意識」という両者は、「後者が前者によって制約されており、自由は、〈普遍的な 力とその対像たる自然〉とのより進んだ変様としか見なされず、またどの程度まで自由が自然 を変様させたかに応じてしか測定できない。」――この「自由」による「自然」の「変様」と いう、おそらくフィヒテの自由論の根本的な論点は、続けて次のように敷衍されている。すな わち、――「自由の産物は、自然の展開の廃棄としてのみ把握される。そしてその産物におい て自由が果たした仕事を測定するには、それが自然力をどの程度まで廃滅させたかを測定すれ ばよい。したがって自然を思想のうちでその以前の状態に回復〔して、現在の状態と比較〕す ればよい。それには自然を回復できねばならず、だから〔そのためには〕普遍的な直観のうち で自然を捉えていなければならない。こうして自由の直観は、不動の自然の直観によって制約 されており、この直観を前提してのみ可能なのである。」(ibid.)
とはいえ、自由な行為と、物理的法則により決定される領域としての自然との区別と関連に 関する以上のフィヒテの見解は、具体化するためにはなお「道徳的法則」を組み込まねばなら ないだろう。
だが「生」が個体的形式において実働する場合、その実働は、「〈たんなる純粋で現存する形 成的な力〉として現に存在するのではもはやなくて、そうした力として消費される」という前 述の論点との関連で、「規定された実働性についての意識」には、上述した「外的な形式」の
ほかに「内的な内容」が生じるのであって、それは「事実的な存在」を、にもかかわらず「必 然的に承認」することである。――そこでこう言われる。
「一なる生は、個体的形式を取って行為することにより、その力の特定の一部をたんなる力 として消費し廃棄した。したがって、自由の或る発現は、〔そうした行為の〕実行以前には十 分に可能だったのに、実行以後には不可能となる。これが、自由のあの発現が〈一なる普遍的 な生〉へと及ぼす第一の直接的な帰結であるが、だからこの帰結は、すべての生の一様な意識 として、当の生の個体的形式のすべてのうちで登場しなければならない。それは、〈事実とし て為される以前には十分為しえただろうが、事実として為されてしまうと今後はもはや絶対に 為すことができない〉という意識、――つまりは、〈消費され、普遍的な生のうちで廃棄され た力は、もはや使用できない〉という意識である。」(S.644f.)
要するに「為されたことは為されたのであって、行なった当事者 Urheber であれ他の者で あれ、それを再び為すことはできない。なぜなら、そのためには、自然を以前の状態へと回復 しえなければならないが52)、以前の状態は、自由を発現することによってまったく廃棄されて いるからだ。--- /こうして、自由が事実的に発現したことによれば〔それを再び〕〈為すこ とができない〉というこの直接的な意識は、〈事実的な存在〉を必然的に承認することなので あって、〈すべての者の自由、つまり自己の自由と他者の自由の産物〉についての直観が結び つくような意識内の項なのである。」(S.645)
ここには「事実的な存在」の領域が、過去における行為・所行と不可分の仕方で発生するこ とが示されている。それは「理性的存在者」としてのわれわれに「必然的に承認す」べきこと として妥当するのである。思うに、しかし、ここには未来における行為・所行の不確定性が 暗々裏に想定されており、そこにこそ「自由」の真面目があると思われる。
第二部では、「第一の個体化作用」としての「統一点への集中」から、「特定の線を引くとい う自由な行為の能力」が発生すること、さらに個体性の継続において「自己意識」が、ひいて は「個体的形式を帯びた自我」が発生することが論じられる。関連して「われわれの哲学」へ の誤解の淵源が論じられ、誤解の主体たる「自然的な人間」が弾劾される。だがそうした「自 己意識」や「自我」とは、所詮「生が個体的形式において、かつ個体として自己を意識する」
ことであり、それが設定する「目的」もこうした「生」の展開の言うならば「自然」のレヴェ ルに属するもの――おそらくは自己保存ないしは自己幸福――であろう。
第二部の内容に立ち入ろう。――
(九)「一なる生は、その力の発現を現実に遂行すべきならば、普遍的な直観から脱け出て
〈この力の一点〉へと収縮し sich zusammenziehen なければならない」のであり、こうした
「収縮 Zusammenziehung」こそは、「個体的形式」を発生させる「第一次の個体化作用 actus individuationis primarius」にほかならない(S.645)。
さて「統一点へのあの集中Conzentrationを、最初にそれが提示されたように、差当りたん に観念的にだけ、つまりはたんなる概念のうちで把捉することと受けとめるならば、---あの 点は概念のうちで現象したのであり、〈自由と行為とが形作る無限に進む線〉をその点から引 くことが可能となっている。」かくて「そうした特定の線を引く、まったく新しい存続する能 力が生のうちに生じている。」(S.645f.)
さて「生は、生そのものの確固たる規定であるあの点に、同じ自由に従って再び結びついて、
あの開始された個体的形式のうちでの自己の規定性を一層立ち入って規定することができる」
(S.646)。この「個体性を継続する fortsetzen」ことのうちで、「個体化の作用であるあの根源 的な集中作用」のうちにはまったく存在しなかった「自己意識」が発生することを、フィヒテ は次のように描写している。
「個体的形式を取り続け継続していくうちに、必然的に自己意識が発生する。それは次の ような次第である。〔個体的形式を取り続けるならば〕概念のうちには新しい統一点 b が捉え られ、すると課題として、〈先の〔第一次の個体化作用において生が集中した〕点aが実現さ れているという条件のもとで、aから始めて bを実現することがいかにして可能であるか〉を 見出すことが生じる。だから bの概念のうちでは、以上の規則に従って、aがいまはじめて概 念的に把握されるのではなく、すでに概念的に把握されたこととして前提される。すなわち、
〈直接的に自己にとって直観的で接近しうるものであり続ける同じ生〉のうちで、だから自我 という同じ一なる原理によって、概念的に把握されたこととして前提されるのだ。〔aとbとい う〕以上二つの概念の必然的な合一と相互の関連が、必然的に自己意識をもたらすのである。」
(S.646f.)かくして導出された「自我」とは、「概念的に把握する原理、さまざまな諸概念の統 一」である(S.647)。
だが、微妙なところだが、こうした「自我」は、「個体的形式を帯びており、個体としての 個体である」と言われながらも、その概念的把握の活動における真の主体は「一なる生そのも の」であって、「個体は自己自身を意識する」とはけっして言えず、むしろ「生は、個体的形 式において、また個体として自己を意識する」と言うべきであり(下線の強調は筆者による)、
「個体」としての真の存在はまだ見出されていない(ibid.)。――それは道徳的な自覚の段階ま
で待たねばならないのだろう。
だがこの段階で達成されたことにも注目しなければならない。「生が個体として、かつこう した個体的形式を取って、自己を同時に〈一なる生〉として意識するようになること、このこ と目がけてわれわれは、まさにわれわれの哲学によって研究しているのだ。」――それが達成 されないならば、「意識の根源的な事実」が見誤られて「個体のそれぞれが一個の絶対者自体 と見なされてしまう」ようなことにもなるだろう(S.647)。
ともあれ、「以上から次の帰結が生じる。普遍的な直観という形式をとる〔かぎりでの〕生 は、まったく自己意識をもちえない。個体的形式を取り、しかもそれを継続するうちに、生は、
自己を意識することができるようになる。それは、生が個体的形式を取る場合にのみ実践的な 原理でありえたのと同様である。だから、当然ながら生は、自己意識であり実践的な原理であ るかぎりは、自己をその一性においてではなくて〈諸個体からなる一つの世界〉として表現す るわけである。」(ibid.)
ここから「自然的な人間」に対する批判が展開される。「自然的な人間」とは、要するに、
先の「われわれの哲学」の目指すところ、「思考そのものの必然的な法則に従って個体性を 超え出て、生をその一性において思考する」こと、が達成できないようなひとである。彼は、
「〈自立的な生としての知そのもの〉について語られているときに、それを〔個体の〕自己意識 について語られているとしか捉えることができない」。――とはいえ、しかし、そうした「自 然的な人間」といえども、「一なる生の自己展開」の活動のうちから必然性をもって産み出さ れたものであることは否定できないであろう。そのことは次のような記述からも感じ取れるの ではないか。
「生が一点に集中することは、そのものとして絶対的な事実であって、その集中からすれ ばすべては事実的である。自然的な人間は、たんに歴史事実的な知性 eine bloss historische Intelligenz であって、なるほど、事実を捉える、事実を再生的想像力のうちで模像する、或る 事実のかわりに別の事実を立てる、事実を互いに交換するといったことができる。だがしかし、
こうした知性に彼の視野の絶対的な基礎と限界もまたある。」(S.647f.)――ここから「自然的 な人間」に対する酷烈と言ってよい弾劾が行なわれる。すなわち、――「けれども肝心なのは、
---すべての事実性をその絶対的な形式からみて端的に乗り越え、純粋な思考によって〈事実 性の絶対的な根拠〉へと高まることである。そうした根拠にあっては、自然的な人間の能力は 終わりになる。そうした人間は死に、新しい人間が生まれなければならない。そうした限界が、
いまやここにある。ここでは、〈事実性の絶対的な座である個体性〉を乗り越えて、〈一なる精
神的な生〉をそうした個体性のうちでまさしく現象するとして捉えることが肝要なのだから。」
(S.648)
だがしかし、「自然的な人間」とは誰のことであろうか。逆に言えば、いったい誰が「〈事実 性の絶対的な座である個体性〉を乗り越えて、〈一なる精神的な生〉をそうした個体性のうち でまさしく現象するとして捉えること」を、知の自己隠蔽の傾向に抗しつつ、常住不断に遂 行しうるのであろうか。「知識学」に携わる者の危機であるとともに、「自立的な生としての知 そのもの」の危機の根は「生」そのもののうちに常にあり、ついに根絶しえないのではないか。
次の文言に注目しておこう。――
「こうした個体的形式は、生によって無限に継続されうるとはいえ、いつも同じ規則に従っ て継続するので、---一なる個体的な自我が常に〈意識の最終的な基盤〉であり続ける。した がって〈一なる生〉は、1)その普遍性と無規定性のうちにとどまり続けながら、2)新しい 諸個体を結合し、3)すでに結合された諸々の個体的系列を継続することができる。こうした 個体的系列は、〈生があるや生がそれだけに結びつくことのできる先行するもの〉53)によって、
生のうちで規定されている。」(ibid.下線の強調は筆者。)
(一〇)「生」が「個体的系列」を継続するのに必要な「新しい点」(「新しい」個体)の由来 を問うならば、「まだまったく触れられていない普遍的な力」が挙げられざるをえない。その 際「生」はいかなる法則や規則に従うこともなく、「絶対的自由をもって普遍的なもののうち からその点を掴み取り、現実の領域へと絶対的に創造していくのである。」(S.648)
ここで「いくらか厳密さを欠いた言い方をあえてして、〈個体における生の不動の形式〉を 論理的な主語として用いてよいなら、個体は、各瞬間ごとに絶対的な自由をもって自己を新た に創造する。」(個体の連続的な自己創造!)――ではそうした個体の行為は何を目的とするの か、を問題にするなら、こう言われる、――「たしかに、個体が働いて或る目的を生じさせる ことは、〈この個体の、いまや諸事実の領域に置かれている、先行的な存在〉によって規定さ れてはいる。だが目的そのものはこの存在によって規定されるわけではなく、個体がこの目的 を絶対的な自由をもって定立するのである。――この目的は普遍的な力のうちに必然的に存す るのだから、それは達成可能である。」(S.649)
だがここで「個体」が「目的」を定立して行為によって実現する際に、真の主体とは「一 なる生」であること、だからこそその目的は「普遍的な力のうちに必然的に存する」がゆえに
「達成可能」であること、を見逃してはなるまい。ここでは個体が行為することと、「一なる 生」が普遍的形式を取って、すなわち「不変の自然」として行為することとの間に、区別が見
出せないのである。
さて第三部では、これまでのところ「力の展開の目標は、力の展開そのものである」が、そ のうちで「自由を自由として制限するという目標」が発生し、そのための人倫的法則が出現す ること、われわれが「内的直観」において人倫的法則を目的概念のうちに取り入れることによ って「人倫的目的」が成立することが示唆される。さらに「物理的能力についての意識」と
「自由の産物に関する道徳的意識」との結合が問題とされ、後者の「道徳的意識」に三つの様 態があり、それが「一切の自由の展開の目的」としての「人倫的目的」との三つの関係の仕方 であると論じられる。(これは、本稿の前節〔第Ⅴ節〕の最後の箇所と直接つながる議論であ る。)
第三部の内容に立ち入ろう。――
(一一)「生」の活動には「目的」ないし「目標」があるのかどうか。――ここでフィヒテは
「人倫的法則」に関する先の議論へと結びつけて、次のように言う。
「〔生の〕〈点の統一〉への集中、実働性の概念の構想、この概念に従った自己規定について これまで記述したが、それによって活動が完全に可能となったのであり、〈行為の自由〉は全 体として完成されて現に存立していた。ところで、目下のところ自己自身の他にはいかなる 目的ももたないこうした自由が、特殊な目的へと向けて一層立ち入って規定されることが生 じるとすれば、それはまさしく自由そのもの、物理的な〈為しうる〉の制限であろう。すな わち、目的概念のうちに存するすべてを、いまの場合なら無条件に為しうるという、物理的な
〈為しうる〉を、一層狭い領域へと、つまりは、その〈為されえた〉もののうち von diesem Gekonnten〈外的に課せられた目標の概念〉のうちに存するものの領域へと、制限することで あろう。したがって、それは、われわれが先に道徳的 moralisch と呼んだような種類の制限で あろうし、自由な実働性にとってそうした目標が課題であることは、人倫的法則 ein sittliches Gesetz であって、しかもこの場合には、なんであれ目標の〔実現の〕命令である積極的な人 倫的法則である。」(S.650)
ところで、こうした「人倫的法則」という「命令」、また実現が命令される「目的」は、「実 働性の概念の構想」のうちに組み込まれる。その際「構想されるべき目的概念のうちに命令を 取り入れることは、絶対的な自由をもって行われる。しかもその場合の自由とは、〈自由の内 部にあると同時に、その自由そのものを超えているような、高次の自由〉である。だから、命 令をこのように取り入れることの意識は、自由そのものの直接的な直観においてのみ可能なの
であって、内的な直観である。」――こうした「内的な直観」における、いわば実働する当事 者の観点からする「命令」の取り込みは、当事者の外からの観点とどのように関連するのか。
「目的概念」――あるいはむしろ 「人倫的な目的」 の概念――に従う実働の「産物」は現象す るが、「内的な直観」そのものの方はそうではない。すなわち、――「すべての生の外的で普 遍的な直観のうちに、そのように構想された目的概念の産物が、〔その妨害ないし棄損を物理 的に〕〈為しえない〉という意識をつうじて、直接に入り込む。だが〈自由のたんに内的な意 識〉の方は、この直観には入り込まない。」(S.650)
そこで「問題となるのは、その産物の〔産出に関与した〕目的概念のうちに、人倫的な命令 が取り入れられているか否か、である。ひとはこのことをその産物に見て取るのだろうか、ま たあの直接的な意識のうちにはこのことについての規定が含まれているのだろうか。」(ibid.)
――これは、行為が生じた場合に「人倫的な目的」がそこには存するどうかを確実に知りうる か、という問題であろう。フィヒテは、「一般的には、目下のところ、まだこの問いに適切に 答えることはできない」としながらも、「人倫的な命令が取り入れられている」ことが「産物 からは確かに見て取れないような事例」(S.650f.)を挙げた後で、こう述べる。
「人倫法則 das Sittengesetz が目的概念のうちに取り入れられているかどうかは、直接的か つ断定的には〈直接的に内的な直観〉のうちでのみ、だから生の個体的形式のうちでのみ現 われ〔て決定しう〕る。生の個体的形式のうちでのみ、人倫法則も目的概念のうちに取り入 れうるからだ。他方しかし、それが外的直観のうちに直接に現われることはけっしてない。」
(S.651)
(一二)以上の議論によって解明された事態が、次のように述べなおされる。
「〈生の或る個体的形式のうちで起こった自由の発現を、他の個体的形式(諸自我)のすべて において直観されるようにする意識〉、換言すれば〈実働の当事者 Urheber にとっても他の自 我すべてにとっても端的に普遍的であるような、物理的に為しえないという意識〉に、〈為す ことは――つまり自由の産物を破壊することは――許されない Nichtdürfen という、別の道徳 的な意識〉が直接的に結びつきそれと総合的に合一されているのだ。すると問われるのは、第 一の意識がすべての者にとって等しかったように、第二の意識は当事者を除くすべての個体に とって端的に等しいのだろうか。」(S.651)
これに答えてフィヒテは、当事者に関しては次の三つの場合が可能であることを指摘する。
「a 当事者が、自分の行為との関係でそもそも人倫法則をまったく反省しなかったし、また 今後もその関係では反省しない場合。」
「b 当事者が、行為に先立って人倫法則を反省したわけではなかったが、後になってその 行為との関係で反省し、自分の行為の産物が〈自分に命じられた人倫的な目的〉にとって障害 になったり矛盾していたりすることが分かる場合。」
「c 当事者が人倫法則を自分の目的概念のうちに実際に取り入れており、行為の産物が彼の 人倫的な目標へ到る途の一項である場合。」(S.651f.)
興味深いことに、aとbの場合においては、当事者が「人倫的な目的」の実現に無自覚であ ったり、あるいはその実現が困難であって紆余曲折する場合もありうることが示されている。
これは、明らかに道徳的な悪への転落の可能性、言うならば道徳的な危機(これも「知」の危 機の一形態)を示しているであろう。
とはいえ、cの場合には、「他の者たちと同様当事者にも、ただし〔内的な直観という〕別 の根拠から〈その産物を破壊すべきではない〉という同じ禁令が出される。」その際当事者以 外の者たちにあっては、この禁令には「人倫的な目的こそはあらゆる自由の展開の目的であっ て、この目的のためにはいかなる自由も妨害されてはならず、この目的を前提することが可能 となるような自由のいかなる展開も破壊されてはならない」ということが「前提」されるので ある(S.652)。
ともあれ、道徳的ないしは人倫的な法則を取り込んで構想された「人倫的な目的」、しかも
「人倫的な究極目的」こそは、「生」の「絶対的な自由」の活動がそれをこそ目指し、それの像 を提示し、その可視性・直観可能性を確保し、もってそれが現象するために仕える当のもので あろう。
[ VII ]
「生」の「絶対的な自由」の活動、「自己表現」の活動を可能にする根拠を探究する以上の論 述は、それを「人倫的な究極目的」にまで遡及したことになる。フィヒテは『意識の事実』講 義の残りの論述で、いわば一歩退き「これまでの講義全体の全般的な概観」(第三篇第三章表 題)を行いつつ、「人倫法則」が「生の原理」として機能することによって、「生」が「人倫 法則の直観可能性」を確保する所以を論じる(同篇第四章)。そのうえでそうした「人倫法則」、
さらにはそれによって規定される「人倫的な究極目的」を可能にする「原理」こそは、「絶対 者」たる「神」であること、それによって「人倫法則」は「神の直観の発現」としての意義を もつことを論じる(同篇第五章)。
第三章からは、以下のような文言に注意しておこう。――「これまでわれわれが提示した
〈意識の諸事実〉の体系全体は、〔生という〕唯一の根拠から現実に導出されているのであって、
〈自己のうちで連関した必然的な全体〉として概念的に把握されている。生が存在し自己自身 を啓示するのであれば Ist Leben und offenbart sich dasselbe sich selbst、われわれが証明し てきたとおりに規定された意識がまさに存在しなければならないのだ。なぜならば、生はこの ようにしてのみ、かつ唯一可能なこの形式を取ってのみ、自己を自己自身のうちで啓示するこ とができるのだから。」――続く括弧内には次のようにある。――「すでに知られたことだが、
第一の〔普遍的〕形式からは、〈不動の感性界〉とそれについて証示したすべての規定が生じ るし、第二の〔個体的〕形式からは〈諸個体の体系〉が同様の必然的な規定をもって生じる。
だがわれわれが十分知っているように、全体は、〈生の自己直観の必然的な形式〉にほかなら ない。この直観は必然的にそうした〈像〉〔つまりは〈不動の感性界〉と〈諸個体の体系〉〕と なって出現するのであり、この直観がそもそも根源的に出現するのは、〈あらゆる直観の彼方 にあって自己をなお思考すること〉ができるようにするためであることを、われわれは知って いる。」(S.655)
いままで記述してきたかぎりでの「意識」とは、「生」の「力が現象し自由が自由として 可視的となるためにだけ、自由な活動と力の発現とが演じる劇 Schauspiel」にほかならない
(ibid.)。
「これまでのところ生はたんに生でしかなく〈絶対的な自由と自己活動、最終的かつ絶対的 に存在するもの〉であるし、しかもこの前提からは、上述来のすべてが正しく帰結はする。」
だが実は「絶対的な自由に対して新しい法則が特定の目標を与える」のであって、かくて「自 由は、もはやそれそのもののために存在するのではなく、この一層高次の法則、すなわち人 倫法則の手段であり道具として現存在する」ことになる。――「この場合の人倫法則とは、や はり外的な直観の領域で自由によって実現され、それゆえ直観されるべきものである。---こ れまで導出した意識の体系全体とは、生の直観であった。すると生そのものは、いまや見出 されたその〈精神的な一性〉において、人倫法則の直観可能性〔を確保するもの〕となるだ ろう。その場合、生そのものが直観されるのは、生が直観され自由の劇が成立するためではな く、〈生のうちで人倫法則が直観されるため〉であろう。自由の劇は統一を、意義を、目標を 得るだろう。それは人倫 Sittlichkeit である。われわれは言わねばならない。自由の一なる生 は、根本的には、人倫の直観形式以外のなにものでもない、と。」(S.656)
高次のものの直観を実現するための場、すなわち「直観可能性」を確保する「直観形式」と
なるという論理構成は、しかし、この「人倫」にも適用され、「もはやそれ以上は問うことの できない一層高いところにある原理」へと達することが示唆されている。すなわち、その場合 には、「およそすべてのものが直観と直観形式に転化し、〈唯一の絶対的な原理〉以外には真に 存在するものはなにも残らないだろう。しかも、直観の領域においてすら、すべてのものが制 約する直観形式および制約される直観形式に転化し、ついには〈唯一の絶対的な原理の直観〉
となるだろう。この直観だけが、絶対的な直観として、かつ自己自身のための直観として、変 転せずに残るだろう。生が直観されねばならないのは、人倫法則が直観されうるためであり、
人倫法則が直観されねばならないのは、〈絶対者〉が直観されうるためである。」(S.656f.)
第四章からは以下の文言に注意しておこう。――「生は、その現存在の根拠を自己のうちに もつのではなく、他のもののうちに、まさしくあの究極目的 Endzweck のうちにもつのであ る。」ところで「生は総じて思考されるのみである」から、「その究極目的も、やはり生と同様 に思考されうるだけであって、---〈生が形式的に、つまり現に存在すること〉の根拠である とともに、〈質的に、つまりかくかくの仕方で存在すること〉の根拠でもある」。たしかに「あ の究極目的は〈事実的に、つまり現象の領域で存在する〉のではなく、生そのものによって存 在し生成するべきである」が、「究極目的」の「存在」は、事実的な存在よりも一層高次のと ころに求められねばならない(S.658)。
かくして「究極目的は生を端的に創造し、かつ規定する」のではあるが、それは自己を実 現することを欲するからだ。すなわち、「究極目的は実現されることを欲する。そのためには 道具が必要である。---究極目的は、生のもとでこの道具を自己自身に与える。/ ---ところ で〈実在する現実的なもの〉は直観可能である。だから究極目的は直観可能となるべきである。
そしてそのために、究極目的に対して生が存在するのだ。かくして生は、根本においては、究 極目的の直観可能性であり、その現象である。」(S.659)
「こうした生についての新しい高次の見方」が「生」のさらなる規定を与える。――「究極 目的は存在するのであって生成するのではない。そこではなにも生成しない。だから究極目的 はまた、あらゆる生の彼方でも存在し、生の存在根拠として在る。さらに〔他方では〕この 究極目的は、ここでは、〈絶対的な生と自由という形式〉を取る。この自由は、既述のように、
絶対的に無から創造すること Erschaffen absolut aus nichts である。」(S.659f.)
「つまり生は、以前はまったく不可視の精神的な世界にのみ存在していた究極目的を、可視 的な世界――以前には究極目的はこの世界のうちにけっして存在してはいなかった――のうち
へと創造するのだ。だから生は、究極目的のこうした形式の絶対的な創造者ではあるが、け っしてその内容の創造者ではない。むしろ生そのものが、この内容によって作られたのだ。」
(S.660)
ところで「いまやわれわれの見るところ、生は、たんに直観されるために直観されるべきで はなく、〈生のうちで究極目的が直観されるために〉直観されるべきなのだ。〔すなわち、〕以 前には直観は、たんなる生の直観可能性という概念から導き出された。---〔いまや〕生は同 時に〈究極目的の手段、道具として直観可能〉である。そうとすれば、〈究極目的そのものが 生によって直観しうるという可能性〉が、直観体系一般をわれわれがアプリオリに規定するこ とのうちに登場しなければならないだろう。」(S.660)
A「生」を「思考可能」にする「普遍的」/「個体的」という「形式」の二重性は、「究極 目的が思考可能であるための条件」でもある。問題は、「究極目的が直観可能であること」と
「生が直観可能であること」とを、こうした二重の「形式」との関係で規定することである。
B「普遍的形式について」――(一)「これは---生の力の直観であって、無限に多様なもの を含んでいる。」(S.661)
「前述したところによれば、〔生の力の発現として〕普遍的な可能性の内部にある自由な活動 は、〈究極目的の命令〉によって特定の領域に制限される。可能なものすべてが生起するわけ ではなく、可能なものの一部分だけが生起する〈べき〉なのである。」――「現に遂行される べき力のこうした部分」は、「究極目的を直観可能にするために現存在している」。「究極目的 とは、実在的だと解されるならば、力のこうした部分であり、〈実在的な力〉もしくは実在的 なものの力である。」(S.661)――「遂行されるべきでない残りの部分」に対応するのは、「生」
の「自由」が「個体的形式」を取って「自由の意識を伴った自由」となる場合には「自己制 限」が含まれていたことだ。「だから、究極目的が可視的であることのうちには、〈命じられて いないもの、むしろ禁じられているものすらあるような余地が存在する、一層大きな領域〉が 存在することもはっきりと含まれている。--- /こうした次第で、究極目的の可視性のうちに は、命令されるもの以外になおも別のたんなる可視性の領域が存在することが当然含まれてい る。」(S.661f.)
「以上から、次のことが帰結する。第一に、究極目的を生によって表現することは可能であ る。〔生の発現としての〕自由は、それが為すべきことを端的に為すことができる。---生の 根源的な力は、実に究極目的そのものの能力以外のなにものでもない。---のみならず、力に 服従しないということすら、力の総体のうちには含まれている。」(S.662)
第二の帰結。――「〔生の自由としての〕力がそのすべての規定からしてまったく究極目的 の産物でしかないのだから、力のたんなる直観可能性である〈自然〉は、なおのことそうした 産物である。自然とは〈われわれの実在的な力の像〉であって、だからこそ絶対的に合目的的
〔究極目的の実現の手段たりうるの〕である。われわれは、為すべきことを自然のうちで、か つ自然のもとで為し〈うる〉のである。」(S.662f.)
かくして「人倫は、ここでは自然の絶対的な存在原理ならびに〈自然を規定する原理〉とし て現象する。」(S.663)
(二)以上からすれば「生は、その真に実在的な行為にあっては例外なく究極目的の表出 にほかならない」のだが、「統一点に自己収縮し、それによって個体的形式を映像する」「個 体化の作用」にあっても同様である。「それゆえ、生じてくる個体はいずれも、〈人倫的な究 極目的〉によって、またこの目的のために生じてくる。しかしそれでも個体として生じるの であって---いまの場合個体化は、〔〈為しうる〉ではないものの、それと並行的に〕〈為すべ き〉という統一点への収縮であり、かつこの統一点から始まる〈為すべき〉の系列の結合であ る。前には〈為しうる〉の普遍的な領域が幾つかの個体的能力へと分解したが、同様にここで も、〈一なる生に課せられた普遍的な究極目的〉が幾つかの特殊的な課題へと分解する。つま り、もしも時間のうちで実現可能であれば、それを実現することによって普遍的な究極目的が 実現されることになるような諸部分へと分解する。」(S.663f.)
要 す る に こ れ が、 そ れ ぞ れ の 個 体 と し て の 自 我 に 特 有 の「 道 徳 的 な 規 定 = 使 命 Bestimmung」である。すなわち、「それぞれの個体は、それが普遍的な生の領域でたんに現 存在することによって、こうした規定された・特定の課題をもっている。それぞれの者は、ま さしくその者だけが為すべきこと、その者だけが為しうること、を為すべきなのである。」
(S.664)
こうして「人倫界」は、それぞれに特定の「人倫的な規定=使命」を負った諸個体の共同体 として成立する54)。他方、普遍的形式における「生」の方は、「究極目的」によって「逆らい がたく規定されている。ここでは究極目的は〈自然法則〉として働いており、それゆえこの
〔普遍的〕形式を取る生は、この箇所では〈究極目的の自然現象〉なのである。この生のうち で、かつこの生によって、そうした諸個体が結果として生じなければならず、また実際に生じ る。」(S.664f.)
ここに「確固たる実質的な自然」 が出現したのであって、それは「純粋で絶対的な生であり、
たんに可能でしかないものを現実的なものへと端的に創造する力であり、あらゆる現実性の直
接的な根本原理である。ところで存在根拠も、また力の発現をまさしく自然法則として逆らい がたく規定する根拠も、ともに究極目的そのものである。---ここに、不可視の世界と可視的 な世界という両世界を絶対的に合一する真の媒介項がある。」(S.665)
こうした「自然」とは「諸個体の世界」であり、言うところの「個体は、その人倫的な規定
=使命に従って存在する。」「自然における唯一真なる現実的なもの」であるこうした「個体」
の産出によって「普遍的な自然は完結し、終わる。」それ以後なおも存在するのは、「個体的形 式を取った特殊的な生の、特殊的な自然の、産物である。」(ibid.)
かくして「個体における自由と意識」は「人倫的な究極目的」としての「人倫」、換言すれ ば 「道徳性」 にもとづいて説明されたことになる。要するに、「個体は端的に道徳的である。
しかるに道徳性によって、意識と自由とは端的に定立されている。なぜならば、後者の条件の もとでのみ道徳性は可能であるからだ。」(S.666)
C「個体的形式」の側から。――(一)「それぞれの者に特有の人倫的な規定=使命」は「生 の普遍的な直観」のうちでも現われる、つまり「個体が、一なる生のうちにあるときと同じ普 遍性」においても現われる。その「普遍性は、すべての個体が例外なく自己に特有の人倫的な 規定=使命をもっているという点に存する。〔ただし〕---普遍的な直観のうちに現われるこ とは、〈すべての者が人倫的な規定=使命をもっており、この規定=使命ゆえに、すべての者 の存在と自由の産物とを自然のように扱ってはならず、大切に扱わねばならないこと〉で尽き ている。要するに、この直観のうちにあるのは、われわれがすでに以前から〈自由な存在者相 互の関係についての概念〉、つまりは法概念 Rechtsbegriff、の源泉として事実的に立ててきた ものすべてである。」「法概念においては、自由は言うならば自然にされており、まるで逆らい がたい強制的な自然法則がするように、特定の存立する存在を産み出すべきだと、自由に対し て要求される。」(S.669)
(二)個体において、それに特有の人倫的な規定=使命はどのように意識されるのか、換言 すれば、それが「可視的」となるのはいかにしてか。
a 「なんらかの行為へと自己規定する可能性」としての「実在的な自由」が「人倫法則」に よって規定されると、〈物理的に為しうるとしても、為すべきではない〉という「概念」が生 じる。「人倫的な自由」とは、当該個我がこの概念に従って「自由な所行によって自己自身を 制限する」ことであって、それが可視的となるためには「抵抗」がなければならず、それを産 み出すのも「自然としての一なる生」である。
それは「物理的な自由」であるような「個体の自由」のうちに、行為に発する以前に存在す
る「人倫的な制限なしでも行為であるような原理」として、「積極的な衝動」である。「それは 人倫的な規定=使命に抵抗し、また人倫的な規定=使命によって克服されねばならないような 抵抗である。そしてこの抵抗を克服することにおいて、〈人倫的に自由な所行〉がまさしく可 視的になる。」(S.670)
こうした「衝動」は、意識されるならば「われわれがたんに感性的に現存在することによっ てわれわれに与えられる自然的な意欲 Wollen として現象する。」対するに「人倫法則の方は、
〈べき〉として---現象する」。――「衝動そのものは、〈自然法則であるかぎりでの究極目的〉
の産物である。そして究極目的が---可視的であるためにのみ衝動が現存在する。この衝動は、
〈或る内容をともなった特定の自由の法則としてのその同じ〔人倫〕法則〉によって滅却され るべき衝動と同じものである。――なお、滅却するといっても、無論その存在に関してではな く(それはまったく矛盾だろう)、〈行為を規定する根拠〉としては滅却されるという意味だ。」
(S.671)要するに、「この衝動は〈自然衝動〉であり、それゆえひとは、この衝動に従うなら ば自然法則に適った行為を産み出すことになる。」(ibid.)
b 「自然衝動」に身を委ねている状態においては、自己に特有の「人倫的な規定=使命」
を意識することは不可能である。後者の意識が可能となるためには、「衝動から身をもぎ離さ なくてはならない。」このように「自然法則から身をもぎ離すのは前述の自由であり、生がそ れ自身によってもつ因果性であろう。---人倫法則によって規定可能であることは、したがっ て人倫法則の可視的であることは、実のところ、こうした自由によって制約されている。しか し、この自由の方は端的に在る。だから、この現実的で実在的な自由は、個体を個体として絶 対的に規定することに含まれており、個体はというと、こうした規定を〈究極目的の規定に服 している自然〉から得るのである。(自然衝動、それぞれの者に特有の人倫的な課題、ならび にこの両者を媒介する項としての絶対的な自由、これら三つの部分が〈個体の本質〉をなして いる。)/こうして個体は、この自由によって、自己の直接的に現実的な存在であるかぎりで の衝動を滅却しなければならないだろう。個体には存在が残るだろうか。勿論である。それは 個人の人倫的な規定=使命である」(S.672)。
c 「個体の本質的成分としての衝動は、永遠に在り続ける。そしてまさにそれゆえに、〔実 在的な〕自由もまた同様に永遠に在り続ける。」――だから、「個体が特定の人倫的な課題を実 現するよう自己を規定する=自己に使命を与える sich bestimmen」場合でさえ、そこには「非 人倫的であるかもしれない自由な決意」の余地が存続するのであり(道徳的な危機の伏在55))、
すると「人倫法則は、---個体的な生の若干の発現をなんら確固とした規則にも従わずに偶然
的な仕方で規定する」にとどまるかもしれない。「だが生は、法則のまったく不可視で永遠な る統一によって規定されているべきである。この規定は、どのようにして、〈個体の唯一真な る人倫〉として成立しうるのか。」(S.674)
ここで説かれるのが、「衝動と自由との絶対的な滅却」――もとよりそれは、上述のように、
「行為を規定する根拠」としては機能させないことであろう――である。それによって「個体 の唯一真なる人倫」を達成した者は、「永遠にして神聖なる意志」を具現したことになるとい う。すなわち、上の引用における問いには、こう答えられる。
「それは、明らかに、衝動をも自由をも絶対的に滅却し廃棄することによってのみ、成立す る。というのも、いましがた述べた正反対の〔非人倫的でもありえた〕状態は、自由と衝動と が持続することにもとづくからだ。ところで、衝動も自由も能力として滅却されることはおよ そありえない。よって残るは、この両者が事実として滅却されることである。かくて個体は、
自由をもって、〈可能性としては無論永遠に持続する自由〉を事実としてはもはや永遠に登場 させないというふうに、自己規定し=自己に使命を与えねばならないだろう。――ところで、
自由によって自己に使命を与える=自己を規定するとは、自由に意欲することである(以前に 述べた自然的な意欲ではない)。だからあの使命=規定とは、〈人倫法則が無限の直観に現われ るとしても、その都度ごとの個々の自由の決意なしで、かつ動揺やためらいなしで、人倫法則 に永遠に従っていこうという決意〉であろう。」(S.674)
こうした「決意」とは、「産出の瞬間」における「意志」であるが、「能力としての自由」、
「非人倫的でもありうる」という「実在的な自由」が「永遠に在り続ける」のに対抗して、「永 遠にわたって自己自身によって自己を保持するにちがいない。この自己保持は、いつでも可能 であり続ける実在的な自由を持続的に滅却することである」(S.674f.)。
「永遠にして神聖なる意志が自己自身のうちで創造する作用は、〈個体が自己を究極目的の直 接的な可視性であることへと創造する作用〉であり、したがって〈個体に特有な内的な生〉を 完全に締め括る作用である。それ以後は、もはや生が自分で生きるのではなくて、まさしくそ うあるべきだったとおり、生のうちで究極目的が生きるのである。」(S.676)
こうした 「神聖なる意志」 が、われわれ個我にとっては、時間のうちで無限の努力によって 追求されるべき「理念」としての意義をもつことは無論であり、ここにカント道徳哲学におけ る「神聖な意志」との合致56)――もとよりそれは、背後にある道徳哲学的な理論におけるか なりの、フィヒテの立場からは決定的な、異なりと表裏する――を見ることができよう。
D 最後に「普遍的形式と個体的形式とを、その合一において、究極目的によって規定して
おくことにしよう。
(一)究極目的による〔生の〕規定には、生の実働する力、ないしは〔その像である〕感性 界は、直接には含まれない。その規定には、〈自由な諸個体の総体〉しかない。前者〔の感性 界〕がその規定に含まれるのは、形式の面からだけであって、つまり総じて或る余地、〈自然 的な自由との対立において人倫的な自由を直観的にするための一層大きな領域〉、が在るとい うわけだ。」(S.675)ともあれ、「普遍的な感性界全体は、そのうちで人倫的な課題が実現され 直観可能にされるためにのみ現存在するにすぎない。」(S.676)57)
(二)「生そのものが無限であると同様に、究極目的は必然的に無限である」がゆえに、「究 極目的は生のもとで自己を、〈相次いで継起する諸世界の無限系列〉として可視的にするだろ う」(S.676)
(三)「諸個体は、究極目的のなんらかの特殊な発現によってではなく、究極目的そのものの 存在によって根拠づけられて存続し、同じで在り続ける。個体の一性は、すべての諸世界の無 限系列を経過する。そのかぎりで、それらの個体は現実のうちで、自己の存在を究極目的に よって規定したことになる。つまりは、〈人倫的な意志〉を自己のうちに産出したことになる。
---究極目的の本来的で最終的な現象は、やはり個体的形式しか取らない。そして意志だけが その現象に役立つ。諸世界とは、そこではじめて〈個体の意志〉が可視的となる領域である。
--- /かくして生の一性は、第一の世界で始まった〈諸個体の自己意識の統一〔一性〕〕〉のう ちで、それゆえまた、〈諸個体の諸世界すべての、一であり続ける全体的直観〉のうちで、永 遠にやすらい続ける。」(S.677)
(四)「諸世界の無限系列」は「唯一の系列」ではあるが、「絶対的な究極目的はけっして可 視的にはならず、どこまでいってもそれの制約〔としての諸世界〕だけしか可視的にはならな い。よってわれわれは、究極目的をその絶対的な内容の面からは立てることがけっしてできな い。この系列では、〈そのものとして可視的であるような絶対者〉に到達することは断念せざ るをえない。」(S.678)
「自己のうちで意志が確固不易な存在になっている個体だけが、将来の諸世界へと足を踏み 入れる。」「将来の世界においても、現在の世界とまったく同様に、相変らず課題や労苦があり はする。だが、そこには〈善にして神聖なる意志〉が存在するだけであって、感性的な意志は まったくない。」(S.678f.)――とはいえフィヒテは、「課題や労苦」が個我にとってもつ意義を、
次のように述べてもいる。すなわち、――「いかなる個体といえども、人倫的に産み出される のではなく、自己を人倫的なものへと作り上げていかねばならない。〔個体的な〕生が自己を