渡 辺 隆 明(茨城県)
博士(文学)
甲第 101 号
平成 27 年3月 16 日 心についての知識
主査 星 川 啓 慈 副査 村 上 興 匡 副査 冲 永 宜 司 氏 名・( 本 籍 地 )
学 位 の 種 類 学 位 記 の 番 号 学 位 授 与 の 日 付 学 位 論 文 題 目 論 文 審 査 委 員
渡辺隆明 氏 学位請求論文審査報告書
「心についての知識」
「心の本性」をめぐる問題は、デカルトが二元論(心と身体、精神と物質)
を唱えて以来、哲学の中心的な問題として大きく取り上げられるようになっ た。その後、心と身体がどのように関係するかという「心身問題」は、現代 に至るまで大きな影響を持ち続けており、「心の哲学」はこのデカルト的伝 統との戦いだともいいうる。とりわけ、脳神経科学などの諸自然科学が長足 の進歩を遂げた現代において、デカルト的伝統は徐々に浸食されてきている ように見受けられる。自然科学は、心の領域・内的な領域にも、分け入ろう としているのである。こうした状況において、本論文は執筆された。
まず、本論文の概要ないし議論の流れを示す。第1章「素朴心理学と根元 的解釈」では、議論を展開する前提として、「心の理論」についての説明、
ならびに現代哲学で取り沙汰されている「根元的解釈」を通じて明らかにな ることについて論じられる。これに続く、第2章「物理主義と還元」では、
本論文の中心となる「心の理論」と密接な関係にある種々の主題(デカルト 的二元論と発展、クワインの自然主義、消去主義、非還元主義の可能性)を
論文の内容の要旨
めぐって議論が展開される。第3章「心の知識の還元不可能性」では、これ に先行する議論を踏まえて、心の知識に関わるあらゆる還元主義が否定され る。そして、心を「概念的枠組み」として捉え、D・デイヴィドソンの「三 種類の知識」(後述)が全体論的に出現することへの同意が示される。さま ざまな立場からの彼への批判も検討されるが、そうした批判に対して著者の 立場から反批判がなされ、それらは一蹴される。そして、第4章「知識の外 在主義から社会化された認識論へ」では、知識をデカルト以降の伝統のよう に内在主義の立場から捉えるのではなく、外在主義の立場から捉えるべきこ とが主張され、この主張は「社会化された認識論」へと発展するに至る。
つぎに、本論文の中心となる見解を、要約的に示す。本論文は、心の哲学 における心と物の間の還元の問題を「心に関する知識」の側面から取り扱い、
物理主義的な世界観と、われわれの心に対する日常的な捉え方との不整合を どのように考えればよいのかを明らかにし、そこから「素朴心理学」(人間 の心理や行為に関する日常的で素朴な知識の体系のこと) を擁護することを 目的としている。
その目的は次の2つである。すなわち、(1)われわれの心に関する知識 をもたらす素朴心理学を、消去主義等の物理主義による批判から擁護するこ と、(2)素朴心理学が、自身や他人の心についての知識をもつために必要 であるだけでなく、外界についての知識にとっても必要であることを示すこ と、である。
こうした目的のために、著者はデイヴィドソンの知見、とりわけ「三種類 の知識」をめぐる知見を利用しながら、素朴心理学を検討している。したがっ て、もしも本論文に副題を付けるとするならば、「デイヴィドソンの観点か らの素朴心理学の再評価」となろう。
その「三種類の知識」とは次のものである。すなわち、(1)自分が何を考え、
欲し、意図しているか等についての知識(第一人称の知識)、(2)自分の外 部の世界に関する知識(第三人称の知識)、(3)他人の心についての知識(第 二人称の知識)。そして、「信念の概念」はこれら3種類の知識に基づいている。
上記の試みに鑑みると、デイヴィドソンの3種類の知識をめぐる議論を素 朴心理学の積極的擁護のために改めて検討すること、換言すれば、「三種類
の知識の全体論的現われ」を素朴心理学の擁護に援用することに、本論文の 独創性と意義がある。なぜならば、デイヴィドソンのいう3種類の知識に関 する主張に基づいて、素朴心理学について議論することは、これまでほとん ど行われなかったからである。
ややくり返しにもなるが、著者は、信念の概念をもたらす3種類の知識の 議論に依拠することで、素朴心理学はわれわれにとって原初的な枠組みであ ることを、論証しようとしている。また、「信念があらゆる知識の基礎をな す」という、デイヴィドソン的知見を素朴心理学の擁護に適用することによ り、素朴心理学がわれわれの知識にとって不可欠であることを論証しようと している。これらの論証は、本論文の独創的な着眼点の現われといえよう。
審査結果の要旨
「論文の内容の要旨」で論じたように、本論文は課程博士の論文としては 肯定的に評価できる論文である。しかしながら、問題点がないとはいえない。
以下では、著者の将来における精進を期待して、問題と思われる7つの事柄 を指摘する。その後、最終的な審査結果を示すことにしたい。
(1)「他人の心は、経験的に確かめられる種類のものではない」(5頁)なら、
素朴心理学が「心」の実在性の根拠を見るところはどこか。これに関して「知 識」「信念」という言葉が多用されるが、「実在」「真理」「妥当(性)」とい う言葉はほとんど用いられていない。「心」が前者ではなく、後者において 用いられることができて、はじめて素朴心理学は自らの根拠を得られると考 えられる。もしも心が実在・真理・妥当性と無縁であれば、素朴心理学が成 立する根拠はないということになるのではないか。
(2)著者は行動主義を「一種の循環論法」(20 頁)として批判しているが、
この批判を行う素朴心理学では「行動」と「欲求・信念」とが分離できるこ とが前提になっている。では、素朴心理学は、たとえばジェイムズ・ランゲ 説の「泣くから悲しい」のような事態をどう説明するのか。こうした「行動」
と「欲求・信念」は分離不可能というのが、行動主義や経験主義が看破した 事柄である。こうしたケースに鑑みると、「行動」とは区別された、その動 機として「欲求・信念」を見る素朴心理学の方が、ひとつの恣意的な概念枠
になる。素朴心理学は、自らの概念枠を、他者との「コミュニケーション」
を通じて、どのように改変ないし展開させるのか。その考察が不十分である。
(3)一人称的記述と三人称的記述のギャップを明らかにするために、ネー ゲルの「コウモリ論法」に依拠しながら、「種に固有の視点」について論じ られている(32 頁―38 頁)。しかしながら、これは「種」について言うこ とができても、「一人称」の議論にそのままスライドできる議論ではないの ではないか。つまり、「一人称単数」と「一人称複数」はシンメトリではな いのだから、やや議論が強引ではないか(二人称の知識の対象となる「他者」
は後者にも属するであろう)。もしも「一人称単数」と「一人称複数」を区 別する必要性がないというのならば、それは論文全体の議論の流れに合わな いことになる。なぜならば、著者が重視しているデイヴィドソンの3種類の 知識(50 頁)は、すべて「自分」(一人称単数)を問題にしているからであ る。心的な性質が三人称的(科学的)記述に還元されえないという脈絡で挿 入された議論であることはわかるとしても、この部分は、デカルトから始ま る論文の全体的趣旨からして、議論の流れにややマッチしないようにも感じ られる。
したがって、この部分の議論については、ネーゲルの議論につながるもの として「1人称単数」の問題を論じるのではなく、ネーゲルとは別の議論と して、「以下で〈1人称単数〉そして他我の不可知性の問題を扱う」といっ たような議論の転換を明示すべきであろう。もしくは、ネーゲルとデイヴィ ドソンとの議論の焦点の違いを明示すべきであろう。
(4)著者は、「心が存在する」という理論(「心あり理論」)を支持しなが ら、「〈他者は心的状態をもっている〉という命題をわれわれが受け入れるこ とを部分的にであれ正当化するのは、その命題を放棄することによってわれ われは、それを含意するすべての理論・言明等を放棄しなくてはならないこ と」、そして「心あり理論」の「理論・言明等は真正の説明力をもっている こと」(47 頁)を肯定する。この論法は、書き換えると、次のようになる―
―「〈他者は心的状態をもっている〉という命題を放棄すれば、〈他者は心的 状態をもっている〉という命題を含意するすべての理論・言明等を放棄しな くてはならない」から、「他者は心的状態をもっている」。これは推論として
はおかしい。また、次の「〈心あり理論〉の理論・言明等は真正の説明力をもっ ている」という根拠も論証が必要である。こうした論証は、循環論・論点先 取になっているのではないか。
(5)デイヴィドソンは「コミュニケーションが生じることによって信念、
ひいては知識が発生することを明らかにした」(50 頁)のだが、そこでは、
知識と信念は明確に区別されている。著者もこの知見を採用しているうえに、
「信念は知識の条件である」(50 頁)とまで明言している。さらに、著者は、
信念をわれわれがもつあらゆる知識・思考にとって「不可欠」のものである とし、われわれが信念をもつには「信念が外的世界と自分の考え〔知識・思 考〕とは独立に成立していることを理解していなければならない」という(50 頁等参照)。すなわち、ここでも信念と知識・思考を分離しているのである。
だが、果たして、信念と知識・思考は別物といえるのだろうか、信念は知 識の条件だといえるだろうか。そもそも、デイヴィドソンは「信念」を「~
と信じている」こととして捉えた。例えば、ある人が、「いま雨が降っている」
と信じている場合、「いま雨が降っている」という信念をもっていることに なるのだが、この信念は、文によって表すことができる命題の形をとること から、「命題的態度」といわれる(11―12 頁参照)。また、たとえば「信念
=命題内容」(57 頁)という表現があるが、知識も命題の形で存在するわけ だから、命題(言語)として知識を捉え、その内容として信念として捉える ということだろう。
著者は一貫して、知識と信念とを区別しているが、その区別が問題なく成 立するか否かという根本的問題があると思われる。すなわち、信念そのもの のみを命題的知識から区別することはできず、前者と後者は相即の関係にあ るとすれば、著者が思っているほどに両者は簡単に分離できないと思われる のである。また、上記の「理解」も、命題の形をとる知識なくしては成立し ないだろう。
3種類の知識の全体論的現出などの議論はそれなりに理解できるが、さらに 根源的な問題である「知識と信念の関係」をもう少し深く掘り下げるべきでは なかったか。最終的に何を以って「他者は心的状態を持っている」という命題 を根拠づけるのかなどについて、さらに突っ込んだ議論が必要であろう。
(6)「現代のわれわれは、これらの社会的に承認されたものに多くを頼っ て知識を獲得している」(62 頁)という「社会化された認識論」に関連して、
われわれが知識を社会的共有物としてお互いに頼ることと、意味が本質的に コミュニケーション的に成立することとの区別が曖昧である。前者では、意 味や情報がコミュニケーションとは独立して、専門家などの特定の誰かが所 有することはあり得るが、後者では、意味や情報が独立して特定のどこかに 存在することは、本質的に不可能である。
(7)この論文の射程を超えることになるので、論文の欠点とはならないが、
著者の今後の課題として、一言だけ述べておきたい。心や知識や信念が関係 するものは、アメリカの哲学者たちが議論しているような、具体的な物事、
感覚器官で捉えることのできる物事だけではない(デイヴィドソンの例は「マ マ」「雪」「テーブル」などである)。人間はさらに「神」「空」「存在」「時間」「愛」
「絶対無」「人生の意味」など抽象的なものについても知識や信念をもちなが ら、ダイナミックな思索を展開する。これこそが言語を使用する人間の人間 たる所以である。そうした抽象的な物事にまで、議論の射程を延ばすことは、
きわめて困難であることは承知している。だが、クワインやデイヴィドソン を始めとする哲学者たちの議論の範囲がかなり限定的であることは、十分に 自覚しておくべきであろう。
上記の事柄および「論文の内容の要旨」をすべて踏まえたうえでの、本論 文の最終的審査結果は、以下のとおりである。着眼点(独創性)、文献の読 み込み、議論の展開の仕方、口述試問でのディフェンスなどから総合的に判 断すると、課程博士論文として、本論文は「合格」に値するものと判断しうる。