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他者のための〈死〉 田辺元の宗教哲学における死復活をめぐって

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研   究   論   文 はじめに   田辺 元 (1) は一九四四年を転機に「懺 悔 (2) 」を鍵概念とする宗 教哲学を展開した。これは同年秋から「懺悔道」の名の下 で語られ始めるが、同年十二月には西田幾多郎が務台理作 宛書簡で田辺の立場を批判している。     あの人は宗教というものを事実とせないで唯頭で考え て居るので少しも体験的に沈潜して見ないのです   ザ ンゲばかりの世界は道徳の世界で宗教の世界ではあり ませぬ〔…〕あんなことで宗教などいう の 〔ママ〕 間違 っ 〔 マ マ 〕 て 道 徳をだけ云って居ればよいのだ     (『西田幾多郎全集』第十九巻、 岩波書店、 一九六五年、 三六六頁)     田辺のような立場からは信によって救われるというこ とが出て来ない   つまり回心ということの世界だ 〔…〕 あの人のザンゲというのはザンゲではなくして後悔な のだ   ただ自力で進んで行こうとするのだ   単に道徳 だ(同上、三六八頁)   西田によれば、田辺がいくらザンゲと言ってもそれは道 徳的後悔でしかなく、宗教の立場に至っていない。田辺の 中に絶対に対する信などない。ゆえに田辺が救済を得るこ とはない。西田はそう断ずる。   一方の田辺は、 『懺悔道としての哲学』 (一九四六年)で 西田の立場を「神秘主義」と呼び、西田こそが宗教の立場 で は な い と 批 判 す る( 9. 91 ―2 )。 こ の 批 判 の 背 景 に は 田 辺 独自の宗教理解がある。田辺は一九三四年以降、社会を問 題 の 中 心 に 据 え て 思 索 を 展 開 し た が、 「 懺 悔 道 」 で も「 宗 教 的 解 放 即 社 会 的 解 放 」( 10. 10 ) と し て 宗 教 と 社 会 が 媒 介された形での救済論を提示する。すなわち、田辺の立場 では、自己の救済が真であるか否かは、それが別の誰かに 伝播すること、ひいては自己を起点に絶対者のはたらきが

 

   



(大谷大学)

他者のための〈死〉

田 辺 元 の 宗 教 哲 学 に お け る 死 復 活 を め ぐ っ て

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研究論文 歴史的世界に浸透することによってはじめて証されるので ある。そして、この媒介がなされていない立場が「神秘主 義」と批判されるのである。   このような田辺の立場は、 先に見た西田の批判と同様に、 当 時 か ら〈 信 な き 者 の 妄 言 〉 と 批 判 さ れ る 傾 向 に あ っ た (3) 。 だが、田辺の宗教理解は本当に「単に道徳」だったのだろ うか。   本稿の目的は、田辺の宗教哲学における救済、 「死復活」 の積極的意義を引き出すことにある。現在までの死復活に 関する研 究 (4) では主に死復活そのものの解明が目指されてき た が、 本 稿 は 死 復 活 を「 実 存 協 同 (5) 」 と の 連 関 か ら 解 明 し、 これが他者 ・ 社会と強い結びつきを持つことを示すことで、 死復活の積極的意義を提示したい。この目的を達成するた めに、本稿は一節で死復活を媒介の側面に着目して明らか にし、二節で個の死復活と社会を結びつける契機「連帯懺 悔 (6) 」を見た上で、三節で実存協同が形成されていく過程を 明らかにする。本稿が依拠する著作は 『キリスト教の弁証』 (一九四八年、以下『弁証』と略す)を軸とする。 一   死復活

渦動態の生成

  本節では死復活の生起と、これが可能にする媒介を明ら かにしたい。まず、死復活とは何かを見よう。     理性は認識に於て、絶対性無制約性を要求する結果二 律背反に陥り、更に倫理の絶対汎通自律徹底の要求に 於 て 自 己 矛 盾 に 逢 着 し、 そ の 極 つ い に 自 己 を 否 定 し、 懺悔に於て自己を放棄せしめられるに及び、神の愛が 之を復興再活せしめて、それをただ愛の媒介契機とし てのみ活かす。 ( 10. 53 )   理 性 (7) がすべてを十全に認識しようとする時、必ず相矛盾 する命題に出会う。特に理性が倫理的実践における二律背 反 に 出 会 う 時、 「 何 と か し て そ れ[ 二 律 背 反 ] を 切 抜 け よ う と す る 四 苦 八 苦 の 努 力 」( 10. 49 ) も 無 為 に 終 わ り、 自 己の無力に絶望する

すなわち「懺悔」する

時、絶 対者の 愛 (8) によって理性は死復活を遂げ、それ以降個人は絶 対者の愛が歴史的世界に現出する場(媒介契機)になると される。そしてこの時、 「倫理は宗教に転換せられる」 ( 10.  53 )と言われる。そのため、理性の無力に対する「絶望懺 悔 の 転 換 」( 10. 100 )、 そ の 徹 底 と し て の「 死 復 活 の 絶 対 転換」 (同上) が田辺の宗教哲学における救済の契機であり、 同時に倫理の次元から宗教の次元への突破の契機である。   で は、 な ぜ 二 律 背 反 が 死 復 活 を 可 能 に す る の だ ろ う か。 田辺は二律背反が死復活の契機となる根拠として、歴史的 現実に公案としての機能を見出す。田辺は公案を「逆説二

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律 背 反 を 以 て、 日 常 的 知 性 を 脱 し 難 き 行 詰 ま り に 追 込 み、 それをして大死一番険涯に手を撤して絶後に再び蘇らしむ る 機 関 」( 9. 123 ―4 ) と 理 解 す る。 そ の 上 で、 「 一 切 事 物 が 総に自己矛盾を含むと見る弁証法的世界観にとっては、世 界 何 れ の 処 に か 公 案 な ら ぬ も の が あ ろ う 」( 5. 490 ) と し て「現実の全体が公案」 (同上)と見る立場から、 「現実に 身を処する倫理的実践は、必然に公案に逢着し、良心の繊 鋭は必ず二律背反に直面せしめられ、其極自己放棄の懺悔 に 到 る 外 無 い 」( 9. 124 ) と す る。 す な わ ち、 田 辺 の 立 つ 弁証法的立場からすれば、一切の現実が自己矛盾を含むた めに公案としての機能を具えており、理性はどこかで現実 の公案的(二律背反的)側面に直面し、懺悔へと導かれる のである。したがって、理性がその能力によって処理しき れない矛盾に出会う時に、 必然的に自己の無力を思い知り、 懺悔することになる。そのため、 二律背反による 〈死〉 は「理 性の運命」 ( 9. 48 ) と言われるように、 理性的存在者にとっ て不可避の運命である。   さて、 公案が具体的にどういう二律背反かというと、 「一 切の現実が、その過去的限定と未来的形成との矛盾的構造 を 以 て 公 案 と な る 」( 9. 124 ) と さ れ る。 す な わ ち、 現 在 における過去からの限定と、この限定を離れて未来を自由 に形成したいという主体の意志との間の矛盾である。三節 で見る共同体の掟と主体の願望の間の矛盾はその例と言え よう。   そして、二律背反の窮境を超えさせるのが、無即 愛 (9) とし ての絶対者である。田辺は無即愛を傾動原因、 すなわち 「強 制 す る こ と な く 傾 動 せ し め る 恩 寵 の 原 理 0 0 」( 13. 407 ) と 提 示す る )(1 ( 。そのため、無即愛は二律背反の窮境で理性的存在 者の自立性を損なうことなく、影から導くような仕方でこ れを復活させ、救済する原理と言えよ う )(( ( 。そのため、救済 の契機となる懺悔

自己の無力を嘆く行為

すら「私 の行にして同時に私の行ではない。私ならぬ他者が之を催 起 す る 」( 9. 4 と 言 わ れ る。 す な わ ち、 二 律 背 反 に 陥 る ことも懺悔も死復活も、すべて傾動原因としての無即愛に 導かれることで生起するのである。   ここで、死復活を経た者(死復活者)に可能となる事柄 として、 「即」 という弁証法的媒介に着目した い )(1 ( 。「即」 とは、 媒介による「行為的転換」 ( 7. 272 )を意味し、 行為によっ て媒介される両項が「相対立するが故に両者の転換媒介が 即 と い う 語 で 表 わ さ れ る 」( 5. 202 ) と 言 わ れ る。 そ し て、 死復活の契機であった二律背反は、死復活を経て解消され る の で は な く、 「 矛 盾 の 底 に 主 体 が 死 ぬ か ら 対 立 が 対 立 で な く な り、 矛 盾 が 矛 盾 の ま ま で 両 立 す る 」( 9. 129 ) よ う になるとされる。すなわち、二律背反の側に変化が起こる

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研究論文 のではなく、主体が変化することで、主体の二律背反への 対応が変わり、主体の中で二律背反が両立するようになる のである。この矛盾のままの両立が「即」という媒介の仕 方である。   「 即 」 の 媒 介 の 仕 方 は 具 体 的 に「 不 一 不 二 」( 9. 26, 10.  111, 13. 181 ) の 動 的 統 一 と 表 現 さ れ る。 不 一 不 二 と は、 対立項が「どこまでも一ならぬものとして否定的に対立し ながら、而もまた飽くまで相離るることなく二ならざるも の と し て 相 即 交 流 す る 」( 9. 28 ) 関 係 で あ り、 「 弁 証 法 的 緊 張 」( 同 上 ) に お け る 統 一 の 様 を 表 現 し て い る。 別 の 角 度から言えば、 「互に矛盾するものを統一において捉える」 ( 11. 107 ) 弁 証 法 特 有 の 思 考 様 式 が 不 一 不 二 で あ る。 そ の た め、 田 辺 が 弁 証 法 の 特 徴 と す る 絶 対 媒 介 も、 「 一 切 が 不 一 不 二、 不 異 不 同 の 媒 介 関 係 に 於 て 対 立 転 換 の 動 的 統 一 を 成 す 絶 対 交 互 態 」( 9. 234 ) と 説 明 さ れ る。 し た が っ て、 す べ て の も の が す べ て の も の と 不 一 不 二 の 関 係 に あ る の が、田辺の弁証法の立場と言えよう。   不一不二は 「二即一、 一即二」 ( 10. 111 ) とも表現される。 この表現が意図するところは、何かを認識によって〈二は 二〉 、〈一は一〉と固定することの不誠実さだと考えられる。 死復活者は、すでに理性の認識によって何かを同一性的に 位置づけることが不可能だと知っている。彼は二律背反に 直面することで理性の無力を経験しており、彼にとって矛 盾のない現実は理性の空想に過ぎないからである。そのた め、矛盾・対立する両項をそれぞれ別個のものとして峻別 す る の で は な く、 混 沌 と し て 二 で も な く 一 で も な い 関 係、 または二が一であり一が二であるような関係として認識す ることができるようになる。したがって死復活は、不一不 二の関係を受け止めることを可能とする理性の変容と表現 できるだろう。   この変容を経た死復活者は「分裂対立と転換統一との表 裏相即する立体的動態の無限中心」 ( 10. 21 ) と表現される。 先に見たように、死復活者の行為の上で対立項が動的に媒 介されるからである。この動的媒介を田辺は一九五〇年代 以 降、 「 渦 動 )(1 ( 」 と い う 言 葉 で 表 現 す る。 渦 動 と は、 本 稿 が 見てきた事柄を用いれば、絶対無の媒介によって対立項の それぞれが自立しつつも統一されていて、しかも不一不二 として止まることのない渦のような動的媒介関係を表現し ている。このような渦動の中心は媒介を可能にする原理で あ る 絶 対 無 と さ れ る( 12. 264, 271 ) が、 死 復 活 者 は 渦 動 の中心である絶対無のはたらきを歴史的世界に浸透させる 場 と し て「 転 換 渦 動 中 心 」( 12. 272 ) と 表 現 さ れ る。 す な わ ち、 「 立 体 的 動 態 の 無 限 中 心 」( 10. 21 ) と さ れ た 死 復 活 者が、一層具体的に動的媒介関係という渦の中心と言われ

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るようになるのである。本稿では、死復活者が対立項や自 己 の 周 囲 を 渦 動 の 内 に 媒 介 す る 存 在 で あ る こ と を 踏 ま え て、これを「渦動態」と表現したい。   さて、 死復活を経て渦動態が到達した宗教の立場は、 「倫 理の往相的極限に止まるものでなくして、同時に還相的に 倫 理 と 交 互 媒 介 の 関 係 に 立 つ 」( 10. 116 ) と 言 わ れ る。 す なわち、 宗教が倫理の限界の突破 (往相) であるだけでなく、 宗教から倫理へと立ち戻る方向(還相)が考えられ、両者 の渦動円環的交互媒介が語られる。先に見た不一不二の語 を用いれば、 「倫理が宗教と不一不二に統一せられる立場」 ( 11. 586 ) が 田 辺 の 立 場 で あ る。 具 体 的 に は、 次 の よ う な 立場である。     一方に於ては命がけの厳粛な歴史的実践の倫理、他方 に於ては現世空仮の超越的解脱三昧、という全く正反 対な矛盾的要求が、あくまでそれぞれ徹底的に自立し な が ら、 表 裏 相 媒 介 し て 不 可 分 離 の 関 係 に 立 つ( 11.  479 )   先に見たように、個人は倫理的実践を続ける中で二律背 反に出会い、死復活へと導かれるのだが、この時、倫理は ただ宗教の前段階として切り捨てられるのではなく、宗教 と 交 互 媒 介 の 関 係 に 入 ら な け れ ば な ら な い と 田 辺 は 考 え る。 具体的には、 歴史的世界が空であり仮であることを知っ てこれに対する執着から解放される一方で、もう一度空で なく仮でない歴史的世界の中に立ち戻り厳粛な倫理的実践 を続けなければならない。すなわち、倫理→宗教の往相面 と宗教→倫理の還相面との両方向が考えられ、倫理と宗教 は お 互 い を 失 え ば 機 能 不 全 に 陥 る の が 田 辺 の 立 場 で あ る。 そのために、渦動態は自己の上で倫理と宗教の不一不二の 統一を実現させなければならないのである。   そして、宗教→倫理の還相面があるために、懺悔は一度 で 終 わ る も の で は な い と し て 田 辺 は「 不 断 の 懺 悔 」( 9. 5,  10. 137 ) を 強 調 す る。 す な わ ち、 死 復 活 は 最 初 の 瞬 間 に 完成するのではなく、倫理と宗教の循環の中で繰り返され なければならない。これは具体的には、次節以降で見るよ うに、他者や社会との関係の中で生じる矛盾を〈公案〉と して受け止めることによって可能となると言えよう。   こ の よ う に 自 己 と 他 者・ 社 会 と を 媒 介 し 得 な い 立 場 を、 田 辺 は「 自 己 中 心 の 美 的 観 念 論 的 遊 戯 三 昧 」( 13. 543 ) と 批判する。そのような遊戯三昧においては、確かに自己は 恣に生きることができるかもしれないが、そこに他を容れ ないならば、それは偏りのある自 由 )(1 ( であり、何とでも媒介 され得る自由ではなく、その点で不徹底な自由である。す

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研究論文 なわち、何らかの阻害要因に出会った時に制限される自由 である。そのため、田辺においては自己ひとりの自由が社 会における生と媒介されて、通俗的な理解からすれば 不完 0 0 全 な 自 由 0 0 0 0 と な る こ と で 初 め て 徹 底 さ れ た 自 由、 「 愛 の 交 互 性に於ける真の自由」 ( 10. 14 )へと至る。   この見解の根底にあるのは、田辺が早くも『正法眼蔵の 哲学私観』 (一九三九年)で引用し、最晩年の「死の哲学」 では自身の立場を表現するものとして用いる道元の「おの れいまだわたらざるさきに一切衆生をわたさんと発願しい と な む な り 」( 5. 482 ) と い う 言 葉、 田 辺 の 言 葉 で は「 自 己 の 解 脱 よ り も 先 に 他 人 の 済 度 を 志 さ ね ば な ら な い 」( 13.  274 ) で あ ろ う。 そ う で あ れ ば、 田 辺 に と っ て 死 復 活 と は 手段であって目的ではないと言えるのではないか。なぜな らば、死復活が目的であれば他者の済度を志すことなく自 己の解脱を完遂すればよいからである。他者の済度までを 含めた救済を提示するために不可欠なのが、宗教が切り拓 く遊戯三昧と倫理の厳粛が交互循環的に媒介されることで ある。   このような他者との関係は、 『実存と愛と実践』 (一九四七 年)以降、実存協同の語の下で語られる。ただ、実存協同 が成立するためには、自己と他者が直接に結ばれるのでは なく、 その媒介として懺悔が自己ひとりの罪の懺悔

「即 自 的 懺 悔 」( 10. 26 )

か ら「 連 帯 懺 悔 」、 す な わ ち「 自 他相互の社会的連帯を自覚し、自らの他悪を連帯責任に於 て 贖 」( 同 上 ) う こ と ま で 高 め ら れ る 必 要 が あ る。 で は、 連帯懺悔とはどのようなものか。続いて、連帯懺悔が贖う 自他の罪と根原悪の連関を見ていきたい。 二   連帯懺悔

無限の罪の内外相関

  田 辺 は『 懺 悔 道 と し て の 哲 学 』 で、 「 根 原 悪 が〔 …〕 救 済転換の媒介なのであって、自己の悪の自覚なく懺悔なき 所 に は 救 済 は あ り 得 な い 」( 9. 148 ) と し、 根 原 悪 の 自 覚 を 懺 悔 と 共 に 救 済 の 必 須 契 機 と し て 位 置 づ け る。 つ ま り、 罪 悪「 に も 拘 ら ず 」 救 わ れ る の で は な く、 罪 悪「 の 故 に 」 救われるのが田辺の立場である( 9. 188 )。   こ の 見 解 は、 『 弁 証 』 で 自 己 ひ と り の も の か ら「 内 外 相 関的なる罪」にまで敷衍される。     内包的に、自己の罪悪の根元的にして抜けがたき無限 性を宿すのと 相関的 0 0 0 に、人間全体の罪業に対する連帯 責任の外延的無限性が、我々を圧倒するに従い、連帯 懺悔は必然に、自力の限界自覚、絶望を通じて、他力 随順として展開せられる。 〔…〕 [自己の行為の責任に 対する]誠実なる反省を一層推進めるならば、自己そ

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のものの原罪根元 悪 )(1 ( と、社会全体の罪過に対する連帯 責 任 と の、 内 外 相 関 的 な る 罪 の 無 限 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 に 圧 倒 せ ら れ て、 絶望の極宗教的悔改なる連帯懺悔に転ぜられる筈であ る。 かく自己に絶望し自力を放棄し放棄せしめられて、 絶対無の転換に身を委ね、現実に随順して謙虚に絶対 現実即理想の実践に従うことによってのみ、善悪の彼 岸に於て愛の恩寵に救われ、煩悩具足罪悪纏綿のまま に、煩悩罪悪が清浄に転ぜられ、却て新しき義の媒介 となり愛の契機とせられるのである。これがいわゆる 悔 改 で あ り、 む し ろ 正 当 に は 懺 悔 で あ る。 ( 10. 119 ― 20 )   自身の内に無限の罪の原因である根原悪があるなら、同 じ 人 間 で あ る 他 者 は も ち ろ ん、 人 間 の 共 同 体 で あ る 国 家・ 社 会、 ひ い て は 人 類 全 体 の 根 底 に も 根 原 悪 が あ る。 他 者・ 社会が犯す罪は、自己の罪とは一応区別される〈他の誰か /共同体の罪〉 であるが、 同時に自身の内なる根原悪を伝っ て繋がっている。これが無限の罪の内外相関である。その ような無限の罪は、自己ひとりに

キリストの贖罪のよ うには

背負えるものではなく、どこかで自身の無力に 挫折することになる。これが前節で見た懺悔だが、この箇 所では懺悔を起こす契機の範囲が「社会全体の罪過に対す る連帯責任」にまで広げられている。ここまで広げられた 自己の責任を負うことが、連帯懺悔である。このような見 解 が、 「 宗 教 的 解 放 即 社 会 的 解 放 」( 10. 11 )、 す な わ ち 個 人の救済と共同体の変化とが不一不二の関係にあるという 田辺の特徴的な立場を形成するのである。   このことは単に個人の認識や意志の次元だけでなく、身 体 の 次 元 で も 問 題 に さ れ る。 田 辺 は『 種 の 論 理 の 弁 証 法 』 ( 一 九 四 七 年 ) で、 個 が 種 )(1 ( に 与 え ら れ る 肉 体 が 個 の 根 原 悪 の由来と述べる。個は必ず種の中で生を受けるため、生の 瞬間から種と無縁であることはできない。具体的には、肉 体が種の成員である両親から与えられ、精神が種の掟の影 響下で形成されていくために、個は必ず生まれた種固有の 特色を持 つ )(1 ( 。肉体はその物質性の故に「怠慢の原理たる惰 性 」( 7. 351 ) を 持 つ と さ れ、 種 由 来 の 個 の 肉 体 が「 惰 性 的 質 料 」( 7. 355 ) と 呼 ば れ る。 こ の 惰 性 的 質 料 の 故 に 個 は「 根 原 悪 を そ の 存 在 の 根 元 に 含 」( 同 上 ) む と さ れ る。 すなわち、 個は種から根原悪を含む肉体を受け取るために、 生まれながら根原悪を持つのである。   そうであれば、個は自身の身体である惰性的質料を伝っ て種の根原悪と繋がっており、同じ種の惰性的質料を持つ 他者とは同じ根原悪を共有していると言えよう。このこと が 種 的 社 会 )(1 ( の 枠 を 超 え て 人 類 全 体 に ま で 敷 衍 さ れ う る 根

(8)

研究論文 拠 は、 田 辺 が 種 の 語 に 含 意 さ せ た「 種 族 的 な る も の 」( 6.  449 ) と い う 規 定 に あ る。 す べ て の 人 間 は ヒ ト と い う 同 じ 種族に属しているからである。先に見た 「人間全体の罪業」 ( 10. 119 ) を 背 負 う 連 帯 懺 悔 は、 こ の 立 場 で 要 請 さ れ る と 言えよう。   続いて、連帯懺悔が背負う内外相関する無限の罪が具体 的に何かを見たい。そのために個の根原悪を見ることから 始めたい。まず注意すべきは、田辺における根原悪が「人 間 の 我 執 の 浅 ま し さ 」( 6. 451 ) や 悪 行 を 為 す 傾 向 性 に 尽 くされないことである。田辺における根原悪は死復活

一度自己を失った後に回復させられること

の手前にあ る事態、言うなれば〈自己を持っていること〉にあること が 予 想 さ れ、 〈 自 己 を 持 っ て い る こ と 〉 の 必 然 的 帰 結 が、 罪悪「の故に」救済されることだと考えられる。以下の根 原悪の規定はそれを証している。     絶対無の媒介として方便的に存在する有である所の相 対的自己は、無に対する有として其存在そのものの中 に相対的自立性を含む。絶対としての無の媒介たる方 便として存在せしめらるる相対有たる自己は、無に対 する有として その存在を固定しその自立性を固執せん 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 と す る 可 能 性 0 0 0 0 0 0 を 傾 向 と し て そ れ 自 身 に 植 附 け ら れ て い る。 こ れ が い わ ゆ る 人 間 存 在 の 根 原 悪 で あ る。 ( 9.  34 )   前 節 で 見 た よ う に、 渦 動 態 は 無 即 愛 の は た ら き と 他 者・ 社会とを媒介させる 場 0 (上の引用では方便的存在と呼ばれ ている)であるが、 その器である人間は自由を持つために、 絶対者に対する相対的自立性を有する。この自立性のゆえ に、自身が方便的存在であることを忘れ、完全な自立性を 有すると履き違えうる。このことは自己の同一性的固定を 引き起こすが、 これを引き起こす傾向が根原悪と呼ばれる。   この傾向の発現は「凡愚も不断に自らを智者賢者と妄想 す る 危 険 な 誘 惑 」( 9. 189 ) と 表 現 さ れ る。 す な わ ち、 有 限である人間は全知たりえないが、自身が知る範囲を文字 通りの〈すべて〉だと考え、自己が智者賢者だと妄想する 傾向が人間には備わっているのである。   この傾向はまず理論理性の段階で考えることができるだ ろ う。 田 辺 は 理 論 理 性 の 二 律 背 反 を 学 の 問 題 と し て 捉 え、 理 論 理 性 の 二 律 背 反 に よ る 学 の 基 礎 危 機 を 提 示 す る )(1 ( ( 9.  237 ―8 )。すなわち、ある学が形式論理的思惟によって明ら かにしてきた範囲が、その学が有効な範囲であるが、その 範囲の外側には形式論理では捉えきれないもの、すなわち 二律背反が常にある。そして理論理性が二律背反に出会う

(9)

時、形式論理に則る学は体系崩壊の危機に直面せざるを得 ない。   学が人間の思惟によるものである以上、二律背反による 体 系 の 崩 壊 は 学 に 限 局 さ れ た 特 殊 な 問 題 と は な り え な い。 すなわち、 人間の「知性としての理性の同一性的立場」 ( 9.  59 )全体で問題にならなければならない。そのため、理論 理性だけではなく、実践理性もまた同様の事態に直面し得 る。具体的には、当為の二律背反がそうである。個人が社 会で生きるならば、社会に課される当為と無縁であること はできない。与えられる当為がすべて同時に成立する間は 実践理性の枠内で処理できるとしても、与えられた複数の 当為が矛盾するようなものであった時、実践理性は二律背 反に陥る。この時、形式論理によって形成されていた個々 人の当為の体系は崩壊を余儀なくされる。そして、当為の 二律背反は学におけるものと異なり、自身の社会生活の中 の大切な何かが失われるような性質のものであ る )11 ( 。すなわ ち、当為の二律背反は学に携わる特殊な個人だけの問題で はなく、万人の問題である。したがって、万人が極限状況 下で理性の無力に嘆き苦しむ局面に陥り得るのである。前 節で見たように、この嘆きが懺悔であり、懺悔に陥る窮境 で絶対者の救済は生じるのであった。   この時、実践理性は自己の当為の体系の外側にある二律 背 反 と 出 会 う こ と で 死 復 活 を 遂 げ る と 表 現 で き る だ ろ う。 正確には、二律背反が最初からあったにもかかわらず、形 式論理的思惟によって無いことにしていたのである。もち ろん、二律背反が軽微なものであれば何かを犠牲にするこ と で 再 び 体 系 に 閉 じ 籠 も る こ と は 可 能 で あ ろ う。 し か し、 自身にとってかけがえのないものが失われんとする時、理 性 の 無 力 さ は 悲 痛 と 共 に 白 日 の 下 に 晒 さ れ る こ と に な る。 田辺が倫理的実践の中で出会う二律背反を〈公案〉と呼ん だのは、 このような体系の破壊を可能にするからであろう。   以上から、 根原悪の規定として見てきた「相対的自立性」 「存在の固定」 「自身を智者賢者と妄想する誘惑」とは、以 下のことを意味していると言えるだろう。すなわち、人間 は自身の経験を踏まえた形式論理的思惟によって、学にせ よ当為にせよ何らかの知的体系を構築していくのだが、そ の体系の内部は無矛盾であり、人間はその範囲内において 全知であり得る。この体系は自身にとっての〈真実〉であ るため、外部にあるものを拒むことで体系を守ろうとする 傾向が優位に立つ。このように、自身の体系を保ったまま 可能な範囲で安逸を得ようとする傾向が、田辺が根原悪と 呼ぶものである。これが、先に見た〈自己を失うこと〉の 手前にある〈自己を持っていること〉の具体的な内容であ る。この根原悪は、いかに絶対者の救済に与ったとしても

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研究論文 消滅するのではなく、常に個の裏側を張り渡している。し たがって、本節冒頭で見た引用で言われていたように「煩 悩具足罪悪纏綿のままに、 煩悩罪悪が清浄に転ぜられ」 ( 10.  120 ) る の で あ り、 罪 悪 と 救 済 は ど こ ま で も 不 一 不 二 の 関 係にある。そのために田辺は、救済に「不断の懺悔」が必 要 と し て、 現 在 の 自 己 が 則 る 体 系 を 破 壊 し 続 け る 0 0 0 0 0 0 こ と で、 救われ続ける 0 0 0 0 0 0 ことを強調するのであろう。   このような根原悪の性質は以下のふたつの事柄を明らか にする。   ひとつは、無矛盾かつ同一性的な形式論理的思惟が、人 間の生全体を通しては有効ではないということである。そ のため、前節でも見たように、渦動態は矛盾を媒介する弁 証 法 の 立 場 に 立 つ こ と に な る。 そ し て、 「 自 己 は た だ 懺 悔 行によって、 矛盾を犯しながら体系の主たることを許され」 ( 7. 288 ) る の で あ り、 そ こ で は「 矛 盾 即 体 系 」( 同 上 ) と して、矛盾と不一不二の関係にある体系が常に破壊されつ つ構築されていくことになる。これは、体系の無矛盾的拡 張ではなく、矛盾と体系との媒介によって可能となる高次 の体系だが、 このような体系を可能にする媒介の能力が 「理 性の本来の面目」 ( 9. 58 )とされる。   もうひとつは、罪の性質である。渦動態は死復活を経た としても有限であるため、認識し得ない体系の外部を常に 持つ。そのため、行為する時には、自身の認識し得ないも のを必ず犠牲にすることになる。田辺が「意識的行為には そ れ に 入 り 来 ら ざ る 隠 さ れ た 契 機 が 必 ず 逸 せ ら れ 忘 れ ら れ る 為 に、 如 何 な る 行 為 も 罪 で あ る こ と を 免 れ な い 」( 9.  34 )と言うのはそのためである。どんな善業も「善ある所 必ず悪がその裏面に存する」 ( 7. 351 ) のである。そのため、 有限な人間の文字通りすべての行為が罪となる。   以上、 根原悪と罪を個人の次元で見てきた。これらは 『種 の論理の弁証法』で、共同体の根原悪・罪にまで敷衍され る。この敷衍によって、本節冒頭で見た引用の「社会全体 の 罪 過 に 対 す る 連 帯 責 任 」( 10. 119 ) に 言 及 す る こ と が 可 能になると言えよう。以下、根原悪・罪を個人から共同体 へと敷衍して両者の関係を見るにあたり、ここまで見てき た罪悪の規定を踏まえて考察していきたい。   さて、 戦後の田辺において、 国家 ・ 社会は「方便存在」 ( 7.  261 ) と さ れ る。 す な わ ち、 絶 対 者 が 歴 史 的 世 界 に は た ら きかけるために不可欠な手段が国家・社会である。そのた め、田辺は「政治的実践の国家的基底たる種の媒介を無視 す る こ と は 許 さ れ な い の で あ っ て、 若 し 之 を 抽 象 す れ ば、 実は個人の宗教的救済も成立しない」 ( 7. 268 )と述べる。   国家・社会が方便であれば、先ほど「絶対無の媒介とし て 方 便 的 に 存 在 す る 」( 9. 34 ) と 言 わ れ て い た 渦 動 態 と 同

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様に、相対的自立性を持ち、自己を固定化せんとする傾向 を 持 つ。 こ れ が 国 家・ 社 会 の 根 原 悪 で あ る。 具 体 的 に は、 「 直 接 存 在 の 法 的 恒 久 化 を 求 め る 傾 向 」( 7. 363 ) が そ う で ある。 言うまでもなく、 法を持たない国家は存在しない。 『弁 証 』 で「 法 の 同 一 性 論 理 」( 10. 207 ) と い う 表 現 が あ る よ うに、法は形式論理によって表現され、ひとつの体系とし て成立していると言えよう。しかし、現実の法が常に更新 されることが証しているように、法には必ず現在の法の外 部がある。だが、国家は根原悪である「法的恒久化を求め る傾向」を持ち、法の維持と現行法の執行を要求する。そ のため、国家の法的統治は必ず法の外部を犠牲にしながら 行われる。 法から逸脱する者を裁くというのがそれである。 そうであれば、国家の同一性的存続のための、法による統 治が国家の罪だと言えるだろう。そのために、個の行為と 同様に、国家においても「入り来らざる隠された契機が必 ず逸せられ忘れられるために、いかなる行為も罪であるこ と を 免 れ な い 」( 9. 34 ) の で あ る。 つ ま り、 国 家 の 法 の 執 行のすべてが罪なのである。国家は法において、必ず犠牲 者を出しながら、同一性的かつ漸進的変化を経つつ存続す ることにな る )1( ( 。   この時、国家で生きる自己は、国家の権力構造の内側で 〈まだ犠牲になっていない者〉として、 〈現在までに犠牲と なった者〉の犠牲の上に立っていることになる。そうであ れ ば、 国 家 の 罪 は、 〈 ま だ 犠 牲 に な っ て い な い 者 〉 に よ る 〈 現 在 ま で に 犠 牲 と な っ た 者 〉 に 対 す る 罪 で あ る。 自 身 が 前者に属するならば、国家の罪は自身の罪でもあると言え よ う。 こ こ に、 「 社 会 全 体 の 罪 過 に 対 す る 連 帯 責 任 」( 10.  119 )が存する。この責任は具体的には以下のように、 〈拡 張された自己〉の罪として連帯懺悔され続けなければなら ない。     自己はもはや、相対的なる有として他に対立し他の罪 を或は咎め或は忘れる如き存在ではなくして、他の罪 をも自己の連帯責任に於て自覚し、それを懺悔するこ とによって、却て自己否定の媒介にそれを転化する無 の媒介たる自己でなければならぬ。自己は他を問責す る為の存在ではなく、他の罪を自ら負うことによって 却て他にも同時に愛の恩恵を感知せしめ愛の連帯性を 自覚せしめ、よってもって他を自と共に、無即愛の媒 介に於ける協同性への自覚に齎し、相依り相助けて相 互教化の愛に自他を転ぜんとするところの方便的存在 たることを、 その本分とするのでなければならぬ。 ( 10.  105 )

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研究論文   仮に、個人が同一性的当為体系を保ったまま生きるなら ば、 〈 自 己 の 罪 〉 は 自 身 の 当 為 の 体 系 か ら 逸 脱 し た 行 為 だ けが該当する。これはまだ、善業悪業の区別が残存する次 元であり、自己と自己以外の罪が明確に分けられる次元で あ る。 し か し、 見 て き た よ う に、 有 限 な も の( 個・ 国 家・ 社会)の行為には罪ならざる行為など存在せず、渦動態は 同一性的認識を放棄した者であった。そのため、渦動態は 自己ひとりの罪だけでなく、自己が属し、犠牲を出しなが ら存続していく共同体の罪までをも、渦動の中へ媒介する ことによって、 不一不二の統一へと齎さなければならない。 ここに、渦動態が〈自己〉として認識する範囲の拡張が認 められよう。   この時、渦動態が贖う罪の範囲は、渦動態が死復活を不 断に繰り返す中で、徐々に自己、現前の他者、共同体、社 会、国家、人類と非連続的に広がっていくと考えるべきで あろう。この非連続的拡張を支えるのが〈公案〉としての 歴史的現実である。渦動態は矛盾即体系という質的に高め られ続ける体系に立って倫理的実践を続けるのだが、その 中で必ず現在の体系では解き得ない〈公案〉に出会う。こ の〈公案〉と出会う中で、どこかで体系を完結させてしま うのではなく、死復活を不断に繰り返していくことによっ て体系は質的に高まり続け、果ては連帯懺悔が人類全体の 罪を贖うものになり 得る 0 0 のである。言わば、自己の体系の 外側の罪を取り込む形で渦動態の渦が大きくなっていくの である。もちろん、このことは現在認識し得ない者にとっ ては、人口に膾炙する隻手音声の公案のように、理解でき ない難題である。しかし、田辺が最晩年に書簡で「クリス トにまねぶ自己犠 牲 )11 ( 」に言及するように、 「人間全体の罪業」 ( 10. 119 ) を 贖 っ た キ リ ス ト を 理 念 と し て、 渦 動 態 は 不 断 の死復活を遂げていかねばならない。   し た が っ て「 懺 悔 の 対 自 的 徹 底 と し て、 自 己 放 棄 か ら、 連 帯 責 任 に お け る 贖 罪 の 自 己 犠 牲 に 至 る 如 き 弁 証 法 的 展 開」 ( 10. 29 ) と言われるように、 自己ひとりの罪の懺悔 (即 自的懺悔)と、他の罪をも贖う連帯懺悔の関係は、個人が 倫理的実践を続けることで起こる「不断の懺悔」による死 復活の繰り返しの中で、前者から後者へと止揚されていく ようなものと言えるだろう。このように懺悔において認識 する範囲が拡張していくために、倫理と宗教が交互循環的 媒介でなければならないのである。   さて、懺悔は次のようにも表現されている。     懺悔は必然に愛の実践とならなければならぬ。それは もはや自己の単独なる自覚でなく、自他交互転換授受 の連帯自覚である。  ( 10. 137 )

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  「 即 」 の 媒 介 が「 行 為 0 0 的 転 換 」( 7. 272 ) と 言 わ れ て い た ように、渦動態の連帯懺悔は自他の罪の認識だけで十分な のではなく、種における倫理的 実践 0 0 へと展開されていかな け れ ば な ら な い。 そ の た め に、 「 無 即 愛 は 人 間 の 連 帯 懺 悔 に於てはたらき始める」 ( 10. 120 ) と言われる。すなわち、 連帯懺悔を経た渦動態が、他者・社会との関係の中で行為 す る こ と に よ っ て、 歴 史 的 世 界 に 無 即 愛 が 浸 透 し て い き、 そこに実存協同が成立するのである。言いかえれば、連帯 懺悔が真実であるかどうかは、実存協同が形成されるか否 かによって証されるのである。続いて、連帯懺悔による実 存協同の形成について見ていきたい。 三   実存協同の形成   田 辺 が『 実 存 と 愛 と 実 践 』 で プ ラ ト ン 弁 証 法 の 自 己 超 越 と し て 到 達 し た の が、 「 宗 教 的 解 放 即 社 会 的 解 放 」( 10.  10 )を特徴とするキリスト教であった( 9. 484-5 )。 『弁証』 で展開されるのはこの立場での新しい弁証法であ る )11 ( 。そし て、 田 辺 が「 こ れ[ 『 懺 悔 道 と し て の 哲 学 』 の 所 論 ] と 種 の 論 理 と の 媒 介 は、 今 度[ 『 弁 証 』 で ] は じ め て 達 せ ら れ た気がしま す )11 ( 」と言うように、田辺哲学は宗教的解放と社 会的解放との媒介、すなわち個人の死復活(懺悔道/宗教 的解放)と種の変革(種の論理/社会的解放)が媒介され ることによって、 この時点までの成果がひとつに結晶する。 これは具体的には、種に無即愛が浸透することで形成され る「実存協同」によって示されていく。   実存協同は、田辺がキリスト教を媒介とすることで獲得 した概念、 「愛敵」によって可能となる。そして、 〈敵を― 愛する〉という矛盾する概念を媒介するために必要な契機 が、前節で見た連帯懺悔である。本節では、連帯懺悔・愛 敵・実存協同の展開を考察するために、種の「特殊なる慣 習 法 制 」( 7. 259 )、 す な わ ち 法 や 伝 統 や 慣 習 な ど の 掟 に 着 目することにしたい。   種は、初期の構想から個人を庇護すると同時に暴力的な 側面を持ってい た )11 ( 。そのため、 種の掟に刃向かう者は 「種々 の 迫 害 を 受 け、 あ る い は そ の 極 生 命 を も 奪 わ れ 」( 7. 259 ) るとされる。種の掟は、 本稿が見てきた言葉で表現すれば、 形式論理的体系を持ち、逸脱を許さないために、違反者や 反対者は掟の裁きを受ける。そのため、ある行為が有罪か どうかは、種の掟が定めると言えよう。したがって本稿で は、種の範囲を、体系的な掟(慣習法や成文法)の秩序が 支配する領域と考えた い )11 ( 。   さて、前節までに二律背反を契機とする理性の死復活を 見てきたが、種の掟と個人の願望が背馳するこ と )11 ( は十分に あり得ることであり、両者の二律背反によって個人は死復

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研究論文 活 へ と 導 か れ る と 言 え よ う。 こ の 死 復 活 が、 『 種 の 論 理 の 弁 証 法 』 以 降、 「 種 の 論 理 」 の 枠 組 み に 適 用 さ れ る こ と に なる。   「 種 の 論 理 」 の 類 ― 種 ― 個 の 範 疇 は、 量 的 で は な く 質 的 範 疇 で あ る た め、 種 の 量 的 最 小 構 成 要 素( す な わ ち 個 人 ) と「 個 」 は 質 的 に 隔 て ら れ て い る )11 ( ( 7. 342 )。 し た が っ て、 種が無限に分割されても個にはたどり着かない。個は、種 が 絶 対 転 換 さ れ る 瞬 間 に 種 内 に 成 立 す る( 6. 483 ―4 )。 そ して「懺悔道」では、種の中で個人と質的に異なる個が成 立する契機として死復活が位置づけられる。そのため、 「復 活 的 生 を 生 き る 個 」( 7. 267 ) と 言 わ れ る よ う に、 個 は 先 に見た渦動態のことを指すと言えるだろう。以下、本稿で は死復活以前の者を個人と呼び、渦動態と区別することに したい。   個人と渦動態との具体的な差異は、掟の観点から次のよ うに考えられるだろう。すなわち、個人はある掟の中で生 を送り、その掟が自己の生存に有利にはたらくか、掟に疑 問を持たないために、自己の意志と掟の間に矛盾は生じな い。そのため、個人にとって掟による種内の秩序は整然と したものであって、善悪は明瞭である。したがって、個人 は 〈正しくない罪人〉 を種の掟によって裁くことができる。 これは、個人が種の掟の代行者であることを意味する。こ の時、個人は、種自体が存続を求める意志が発動する場と して、言いかえれば種の媒介契機として存在する。   そのため、 個人は種の掟が統べる範囲で、 制限された「自 由」を享受すると言えよう。これは、種の掟における〈正 しさ〉を体現しているがゆえの「自由」であり、種の庇護 の外では自由ではない。 掟はその掟が有効な範囲において、 掟を遵守する者のみを保護する。そして、慣習であれ法律 であれ、有効な範囲は必ず定められる。   先に、掟が支配する領域を種と呼ぶと考えたが、掟につ いて、掟Aを持つ種Aと、掟Bを持つ種Bの関係で考えて みよう。種Aで生きる個人が種Bに移らざるをえなくなっ た時、掟Aを貫くならば、種B内では、掟Aと掟Bが衝突 する可能性があるが、掟Aは種Bでの生存の保証はしえな い。彼は掟Bによって淘汰されることになるか、掟Aに従 う 他 者 と 連 合 し て 掟 B に 従 う 者 と 争 う こ と に な る だ ろ う。 それは掟と掟との間の力による闘争であり、どちらかの勢 力が殲滅されるまで終わることがない。   渦動態は、種の媒介契機ではなく絶対者の媒介契機であ るために、種の掟の代行者や、その掟の反対者とはなりえ ない。掟の代行者も掟の反対者も、掟を軸にして闘争する 対立項だからである。対立項を媒介し得る渦動態には、種 の内部にありつつも、 掟に支配されないことが求められる。

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田 辺 が、 「 こ の 二 律 背 反[ 掟 と 掟 の 間 の 矛 盾 )11 ( ] に よ っ て 覚 醒[死復活]せられる主体としての人間は〔…〕種的共同 社会の一様平等なる伝統的限定を破棄して、みずから自由 に個性を発揮することにより、自立存在たることを自覚す るのがその本質」 ( 10. 208 ) と言うのはそのためであろう。   もちろん、人間はいずれかの種の中でしか生きることが できないため、渦動態であっても常に種の掟の強制力に晒 されている。ただ、絶対者の媒介契機である渦動態は、渦 動として存在しているために、 掟の秩序の中にありつつも、 それを他者に強いる以外の仕方で他者にはたらきかけ る )11 ( こ とができなければならない。これによって、掟を超えた結 びつきである実存協同を生み出し、掟以外の仕方での協同 を可能にする。ここでは渦動態に、掟と掟の対立による種 内の闘争が〈公案〉として与えられると言えよう。そうで あれば、渦動態には種内の複数の掟を不一不二の統一に媒 介する渦動であることが求められると言えよう。   さらに、渦動態が複数の掟を不一不二として媒介するな らば、種内の勢力間の媒介だけでなく、自己の種に敵対す る種や、その種に属する個人との間も媒介できなければな ら な い。 す な わ ち、 敵 対 す る 種 の 掟 の 下 で 生 き る 他 者 と、 自己の種の掟とは異なる仕方で交わることが渦動態には求 められる。ここでは、自己の種と敵対する種との間の闘争 が〈公案〉として与えられることで、渦動態は両者を不一 不 二 の 統 一 に も た ら す の で あ る。 こ の よ う な 自 己 と〈 敵 〉 との渦動的統一が田辺の言う「愛敵」を可能にする原動力 と言えるのではないか。   そしてさらに、愛敵を可能とするために、自と他との罪 責 を 不 一 不 二 の 関 係 で 捉 え る 連 帯 懺 悔 が 必 要 な の で あ る。 す な わ ち、 渦 動 態 は 掟 を 不 一 不 二 と し て 媒 介 す る こ と で、 前節で見たように、誰かの罪を問責せず自己の罪として懺 悔 し て い く の で あ る。 連 帯 懺 悔 を 媒 介 と す る 愛 敵 が、 「 同 一性の立場で成立するものではない。若しそうとするなら ば、敵視と慈愛とを折中的に結合する感傷的妥協であるよ り 外 は な い 」( 10. 127 ) と 言 わ れ る の は、 こ の よ う な 立 場 からであろう。   ただし、渦動態が認識を掟によって固定するならば、渦 動 と し て の 性 質 を 失 い、 再 び 個 人 へ と 頽 落( 種 化 ) す る。 具 体 的 に は、 「 復 活 的 存 在 が、 そ の 行 の 習 慣 性 に 化 す る に 従 い、 主 体 的 本 質 を 形 相 と し て 種 化 す る 」( 7. 342 ) と 言 われるように、その時点で自己が持つ掟の体系を軸にした 種を、自己を中心として形成することになる。個人に頽落 した渦動態は、 再び対立項間の闘争に埋没することになる。 そうならないために、不断の連帯懺悔と不断の愛敵の実践 が必要となるのである。

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研究論文   もちろん、種化した個人も、力による闘争を自身の思う 通 り に で き る 範 囲 内 で「 自 由 」 を 得 る こ と が 可 能 で あ る。 しかし、 田辺にとって、 そのような力の闘争を通しての「自 己肯定的生の拡充としての動物的生命の満足」 ( 10. 14 ) は、 死復活の手前で可能な事柄であり、渦動態にのみ可能なこ とではない。渦動態には自己の死復活を通して、種間の闘 争を媒介することで、 「愛の交互性における真の自由」 ( 10.  14 )を実現することが求められる。すなわち、渦動態は力 による闘争を実存協同へと転換し続けなければならないの である。端的に言えば、渦動態が渦動態たり得るのは、愛 敵の実践によって、種を実存協同に転換させ続ける限りに おいてである。そのため、自己の救済は自己の恣意の実現 ではなく、種とは異なる結びつき、つまり実存協同が現実 に成立するかどうかによって証明されるのである。そのた め に、 「 自 己 の 救 済 は 他 者 の 救 済 に 還 相 し、 自 己 の 復 活 は 他 者 の 復 活 に 於 て 証 さ れ る 」( 13. 161 ) と 言 わ れ る の で あ ろう。   いまや死復活は、相容れない複数の掟を媒介させる主体 が現成する契機として理解することができる。これは種と 種 を 媒 介 さ せ て、 「 人 類 の 協 同 」( 10. 141 ) を 実 存 協 同 と して実現していくための〈死〉と言えるだろう。また、掟 の 同 一 性 の 下 で の 生 を 放 棄 す る こ と に よ っ て 可 能 と な る、 自己の内に真の意味での 他 0 者を容れる場所を空けるための 〈 死 〉 で あ る と 言 う こ と も で き る だ ろ う。 こ れ を 可 能 に す るのが 「即」 において渦動態を実現する田辺の立場である。   そのため、自己が生きる種において、単なる破戒者や種 の掟に反抗する者になるのではなく、敵対する種に属する 個人と協同することによって、属する種を問わない実存協 同を実現することにより、種の掟とは異なる仕方での自と 他 の 媒 介 へ と 向 か い、 「 人 類 の 協 同 」( 10. 141 ) と い う 理 念の実現に向けて一歩ずつ歩みを進めていくところに「宗 教 的 解 放 即 社 会 的 解 放 」( 10. 10 ) を 企 図 す る 田 辺 の 宗 教 哲学の真面目がある。言うなれば、渦動態が単なる掟の連 帯(種)を解体・更新していく中で現成する、無即愛によ る人類全体の連帯に田辺の社会存在論の極致がある。その ため、田辺の死復活は、自己ひとりの救済ではなく、自己 が属する生環境のすべてが自己を媒介として絶対者に救済 されていく途上に立つことだと言えよう。このように、救 済がただ自己ひとりの救済に終極するのではなく、他の救 済の実現にまで至ってはじめて絶対転換と呼び得るという のが、田辺の宗教哲学を通底する見解だったのではないだ ろうか。

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結び   本稿は田辺の死復活を連帯懺悔・実存協同と接続するこ とで、田辺の救済論が持つ他者・社会との関係を明らかに し て き た。 死 復 活 と は、 田 辺 に お け る 救 済 の 契 機 で あ り、 実践理性が処理し得ない当為の二律背反に出会う時、絶対 者がはたらきかけることによって生じるものであった。そ して、死復活者は、倫理と宗教を交互媒介の関係で捉える ことができるようになる。具体的には、宗教が可能にする 自由と、厳粛な倫理的実践の媒介である。この立場で死復 活者は倫理的実践を続けていくのだが、その中で必ず新し い二律背反に出会うことになる。この時、死復活者がどこ かで立ち止まることなく、新たな二律背反を次々と受け入 れ、媒介を徹底していくところに、懺悔が自己ひとりの罪 を背負う即自的懺悔から、他者や社会の罪まで背負う連帯 懺悔へと非連続的に拡張されていく。そして、他者の罪を も背負って倫理的実践を為していくところに、死復活者を 中心とした実存協同が形成されていく。このような死復活 は目的ではなく手段あるいは前提であり、自己ひとりのた めの〈死〉ではなく自己と共にある他者のための〈死〉で あることを特徴とすると言えるだろう。   したがって本稿が冒頭で提起した 〈田辺の宗教理解は 「単 に道徳」だったのか〉という問いに対しては、道徳が宗教 と媒介されることで、宗教と不一不二の渦動円環的統一の 下にある高次の道徳になったと答えられよう。本稿で見て きたように、この高次の道徳が田辺の宗教哲学の特色をな す。   さて、本稿は即自的懺悔が連帯懺悔へと高められて実存 協同が形成されていく展開を明らかにしたが、渦動態が自 己と他者・社会との間の不一不二の動的統一を実現するの は、 渦 動 態 の 行 為 に よ る「 行 為 的 転 換 」( 7. 272 ) に よ っ てである。したがって、さらなる死復活・実存協同の解明 に は 渦 動 態 の 行 為 の 性 質 を 明 ら か に す る こ と が 不 可 欠 だ が、これは別稿の課題とし、本稿はここで筆を擱くことに したい。 注 (1)   テ キ ス ト に は『 田 辺 元 全 集 』( 筑 摩 書 房、 一 九 六 三 ― 六 四 年 ) を 用 い た。 引 用 の 際 は( 9. 37 ) の よ う に( 巻 数 . 頁 数)として引用箇所を示した。引用に際し、旧漢字は常用 漢字に、 旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。 引用中の [   ] 内は筆者による補足であり、 傍点は筆者による強調である。 (2)   田辺における救済を可能にする契機であり、回心と表裏 一体とされる( 9. 21 )。詳しくは本論で見たい。

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研究論文 (3)   宗 教 者 に よ る 批 判 は、 キ リ ス ト 教 で は 滝 沢 克 己( 『 滝 沢 克 己 著 作 集 1』 、 法 藏 館、 一 九 七 二 年、 四 七 二 頁 ) や 北 森 嘉蔵( 『日本の心とキリスト教』 、 読売新聞社、 一九七三年、 一六四頁) 、浄土真宗では曽我量深の弟子、松原祐善( 『他 力 信 心 の 確 立: 松 原 祐 善 講 話 集 』、 法 藏 館、 二 〇 一 三 年、 一八七―八頁)が批判している。三者の批判は、絶対者や 行に対する田辺の理解が不十分であることを中心としてい る。また、西谷啓治も田辺は宗教が苦手だったと評してい る( 『田辺元:思想と回想』 、筑摩書房、一九九一年、二八 六頁) 。 (4)   死復活に関する主な研究は、藤田正勝「懺悔道としての 哲学 : 戦後の田辺哲学の展開」 (『東西宗教研究』第十三号、 二 〇 一 四 年 )、 田 口 茂「 田 辺 元: 媒 介 の 哲 学( 第 四 章 ) 懺 悔 道 と 悪 の 弁 証 法 」( 『 思 想 』 No.  一 一 一 三、 二 〇 一 七 年 ) がある。両研究も社会との関係に触れてはいるが、本稿が 扱う連帯懺悔まで言及して死復活と社会との動的連関を考 察してはいない。 (5)   死復活を経た者を中心として歴史的世界に成立する人々 の協同を意味するが、詳しくは三節で見ることにしたい。 (6)   自己の罪だけでなく、他者・社会の罪までも懺悔するこ とを意味するが、詳しくは二節で見ることにしたい。 (7)   田 辺 に お け る 理 性 は、 先 の 引 用 中 の「 無 制 約 的 普 遍 性 」 を 成 立 さ せ よ う と す る「 形 式 的 法 則 性 の 能 力 」( 6. 450 ) である。 (8)   絶対者のはたらきは大悲とも表現されるが、本稿は愛の 語で統一した。 (9)   弁証法における媒介・止揚の原理である絶対無が、絶対 者の愛としてはたらくこと。このはたらきのゆえに理性的 存在者は死復活が可能となる。 ( 10)  田 辺 哲 学 の 展 開 で な ぜ 愛 が 提 出 さ れ る 必 要 が あ っ た の か、 愛とは何かについては 『宗教学研究室紀要』 第十五号 (二 〇一八年)所収の拙稿「田辺元の宗教哲学における実存協 同 を め ぐ っ て: 「 種 の 論 理 」 か ら「 愛 の 論 理 」 へ 」 で 論 じ たので、本稿ではこれ以上立ち入らない。 ( 11)  田辺における絶対者は有ではなく無であり、人間に直接 はたらきかけることができないため、実際にははたらきの 媒介契機となる他者が必要である。この点については『宗 教 研 究 』 九 十 二 巻 一 輯( 二 〇 一 八 年 ) 所 収 の 拙 稿、 「 無 宗 教者の救済?:田辺元の宗教哲学における絶対媒介の構造 をめぐって」を参照されたい。 ( 12)  もちろん、媒介や弁証法は一九二〇年代後半から言われ て い る。 し か し、 『 弁 証 』 で「 懺 悔 は ま さ に 実 存 弁 証 法 の 条 件 で あ り、 否 そ の 発 端 」( 10. 137 ) と 言 わ れ る よ う に、 弁証法は「懺悔道」で、死復活の門を通過する者に初めて 可能となる立場として捉え直される。実存弁証法とは、田 辺がキェルケゴールの影響のもとで展開した〈あれでもな く こ れ で も な い Weder-noch 〉 と い う 立 場 で の 弁 証 法 で あ り、 「 懺 悔 道 」 以 降、 弁 証 法 は こ の 実 存 弁 証 法 で な け れ ば

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ならないとされる。      実 存 弁 証 法 は「 絶 対 媒 介 な る 逆 説 弁 証 法 」( 10. 147 ) と も表現され、 「絶対無の弁証法を徹底したもの」 (同上)と 言われる。ここに、プラトン弁証法の徹底であった「種の 論 理 」 の「 善 の 弁 証 法 」( 10. 12 ) が、 キ リ ス ト 教 と 媒 介 されることで 「愛の弁証法」 (同上) に高められるという 「種 の論理」から「懺悔道」への弁証法の展開がある。      な お、 「 懺 悔 道 」 で ヘ ー ゲ ル や マ ル ク ス は、 理 性 の 二 律 背 反 に お け る 死 を 再 び 理 性 の 立 場 に 復 興 さ せ た 者 と し て、 「 ア リ ス ト テ レ ス の 同 一 性 論 理 の 樊 籠 を 破 り 切 」( 9. 9 れ ず、 「弁証法の否定」 (同上)を行ったと評価されるように なる。 ( 13)  例 え ば「 転 換 媒 介 的 す な わ ち 渦 動 円 環 的 」( 13. 325 ) と され、転換媒介と渦動円環が同義的に用いられている。田 辺はこの渦動という言葉で媒介における無窮の循環的動性 の表現を狙ったと考えられる。      渦動の言葉自体はすでに 『最近の自然科学』 (一九一五年) で 登 場 す る( 2. 110 ) が、 自 分 の 立 場 を 表 現 す る 語 と し て 使い始めるのは 「局所的微視的」 (一九四八年) からであり、 遺 稿「 哲 学 と 詩 と 宗 教 」( 一 九 五 三 年 頃 ) 以 降、 最 晩 年 ま で頻繁に用いられる。 ( 14)  田辺において自由は、主体における自立的かつ自発的な 決断の可能を意味する( 9. 20, 10. 22 等) 。 ( 15)  田辺は根原悪、根元悪、根源悪など様々な表記を用いる が、本稿では根原悪に統一した。 ( 16)  種とは、 「個を否定埋没せんとする根源の原理」 ( 6. 308 ) と言われるように、社会が個人に対して持つ強制力を生み 出 す 原 理 で あ る。 こ れ は 社 会 の 根 底 に あ る と さ れ る た め、 「 種 的 基 体 」 と も 呼 ば れ る。 そ し て、 種 的 基 体 の 影 響 を 受 ける社会が種的社会である。本稿は両者の関係を厳密に扱 うものではないため、種的基体と種的社会の両方を包括し て種と呼ぶ。 ( 17)  個に受け継がれる種の性質は『宗教哲学研究』第 三十六 号(二〇一九年) 所収の拙稿 「田辺元の宗教哲学における 「真 の個」 について : 救済の社会存在論的構造」 を参照されたい。 ( 18)   注( 16)参照。 ( 19)   『懺悔道としての哲学:田辺元哲学選Ⅱ』 (岩波書店、二 〇一〇年)一七―八頁も参照のこと。具体例として田辺が 頻繁に言及するのが数学の基礎危機だが、後に「古典力学 の 弁 証 法 」( 一 九 四 九 年 ) で 取 り 上 げ ら れ る 力 学 に お け る 二律背反も、すでに『懺悔道としての哲学』の時点で言及 されている( 9. 237 ―8 )。 ( 20)  死罪を犯した親しい者を匿うべきか、公権力による死罰 を受けさせるべきかなど。田辺自身の 「死復活」 もまた、 「国 家の思想学問に関する政策に対しては直言以て政府を反省 せ し む べ き で は な い か 」( 9. 3 と い う 念 慮 と、 「 戦 時 敵 前 に国内思想の分裂を暴露する恐ある以上は、許さるべきで な い と い う 自 制 」( 同 上 ) と い う 当 為 の 二 律 背 反 に よ っ て

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研究論文 であった。 ( 21)  そのため、国家もまた、個人と同様にして懺悔を通じて 救 済 さ れ な け れ ば な ら な い と さ れ る。 国 家 の 救 済 に お け る 二 律 背 反 の 契 機 は、 「 法 そ の も の の 恒 常 と 変 易 と の 矛 盾 と い う 二 律 背 反 」( 7. 364 ) で あ る と さ れ て い る。 こ の 時、 法 は 無 即 愛 と い う「 否 定 的 完 成 者 」( 7. 366 ) と 媒 介 さ れ ることで完成すると言われるが、本稿ではこれ以上深く立 ち入らない。 ( 22)   『 田 辺 元・ 野 上 弥 生 子 往 復 書 簡( 下 )』 ( 岩 波 書 店、 二 〇 一二年)二四〇頁。 ( 23)   注( 12)参照。 ( 24)   『 田 辺 元・ 唐 木 順 三 往 復 書 簡 』、 筑 摩 書 房、 二 〇 〇 四 年、 八五頁。 ( 25)  戦後の『種の論理の弁証法』でも、種は「個人と対立し て 之 を 権 力 を 以 て 拘 束 し 強 制 す る 」( 7. 259 ) 面 と「 私 の 存在がそれに基底附けられ、私の生命の根源がそれに於て 見 出 さ る べ き 基 体 」( 7. 260 ) の 面 の 両 面 が あ る と 言 わ れ ている。 ( 26)  筆者の種理解については前出の『宗教学研究室紀要』第 十五号所収の拙稿を 参照されたい。 ( 27)   注( 20︶ 参照。 ( 28)   具体的には、前者は自由を持たず、後者は自由を持つ。 ( 29)  こ こ で の 二 律 背 反 は ユ ダ ヤ 教 の「 律 法 間 の 相 互 の 矛 盾 」 ( 10. 208 ) を 指 す が、 田 辺 が 律 法 を「 ユ デ ヤ 民 族 固 有 の 伝 統 的 慣 習 法 の 総 称 」( 10. 206 ) と 理 解 す る た め、 広 く 社 会 の掟として理解した。 ( 30)  このような行為に関して、前出の『宗教哲学研究』第 三 十六号所収の拙稿でも個の行為の内容を扱う文脈から少し 触れたが、本稿ではそこから一歩進めて、愛敵による実存 協同の実現に至る展開を不一不二の動的媒介の観点から明 らかにしたい。

参照

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