茨城大学教育学部紀要(教育科学)43号(1994)185−199
教育的状況の有限性について ガダマーの『真理と方法』に基づいて
生越 達*
(1993年10月18日受理)
On the Finitude in Educational Situations Based upon A Reading of Gadamer s Truth and〃Method
Tohru OGOSE
(Received October 18,1993)
1.はじめに
今日,盛んに子どもひとりひとりの《個性》の尊重や創造力の重視が強調される。《個性》の尊 重は教育課程審議会でも強調され,学習指導要領においても「個性を生かす教育」ということがは っきりと謁われている。また,例えば登校拒否という事象を通しての学校批判のなかには,学校が
《個性》を喪失させる場であるという主張がある。いずれの場合においても,あたかも《個性》の 実現という指導理念が教育にとって最優先されなければならない大前提であるかのようである。《個 性》の実現という言葉はすべてが許される免罪符であるかのように捉えられる。だが,《個性》や 創造力という言葉が魅力的であればあるほど,これらの言葉が常識的・「世間(das Man)」的な捉え られ方をされ,一人歩きをしたときの危険もまた大きなものとなるように思われる。そこで,《個 性》や創造力の真の意味を明らかにするために,教育の根底にあるものをしっかりと理解しておく
ことが求められる。特に,この《個性》が,社会の変化に対応できる主体性との関連で強調される ことに注目しておきたい。《個性》の実現は社会のなかで生き生きと生活する子どもと重ね合わせ られる。だが,果して《個性》の実現者を生き生きとした社会的存在と置き換えてしまってよいも のなのだろうか。
さて,この小論においては,以上のような問題関心を背景にしつつ,ガダマーのr真理と方法』に おける思索に目を向けていきたい。ガダマーは,古典文献学に通じた哲学者である。彼の思索の集 大成ともいえるr真理と方法』において,ガダマーは,科学的方法に基づく認識を超えた真理経験 を明らかにするために解釈学的問題へと入り込んでいく。概念の根源的な意味を歴史的に探りつつ,
つまり「概念史(Begriffsgeschichte)」D的問題設定のもとに,精神諸科学における自然科学的「方法 論(Methodik)」の支配を徹底的に批判し,「方法(Methode)」によっては捉えきれない豊かな「真 理」領域を擁護していく2 。そして,美学,歴史学,言語学を三つの柱として,非常に丁寧に解釈学
*茨城大学教育学研究室(〒310水戸市文京2丁目1番1号)
的経験の理論を構築している。
もちろん,ここでは彼の提示する解釈学全体を取り上げることが課題ではない。すでに述べてき た問題関心に応える限りにおいて,ガダマーの思索に学んでいきたい。特に,ガダマーが解釈する ことにおいて,過去の事実の「再現」を目指したシュライエルマッハーを批判して,むしろ「対決」,
あるいは「対話」による新たな「現出」を重視したこと,しかもヘーゲルにおけるような「絶対精 神」を前提せずに,あくまでも「有限性(Endlichkeit)」の立場に留まろうとしことは,上記に挙げた 問題を捉えるうえで重要な意味を持っているように思われる。
ところで,ガダマーのこうした「有限性」の思想はハイデガーから継承したものである。ハイデ ガーは,人間存在を「被投的企投(geworfene Entwurf)」と規定する。そこでは,「理解作用Verstehcn
(企投性)」があくまでも,世界の内に投げ出されているという「被投性」,「現事実性(Faktizitat)」3)
のうちで生起せざるをえないとされる。そして,こうしたハイデガーの人間存在についての洞察が,
ガダマーの思索において,人間が「伝統や歴史的有限性に帰属していること」4)から免れえないこと として位置づけられることになる。したがってまた,ガダマーによれば,あくまでも「先入見(先 行判断,VorurteiD」を出発点とし,他者との間の「解釈学的循環」を通じて理解作用を深めていか
ざるをえないという有限的状況を生きているのが人間存在であるということになる。
だが,ハイデガーにおいては,自己理解の存在論的(ontologisch)基盤が問題であったのに対して,
ガダマーが直接問題とするのは,他者を理解すること,あるいはテキストを理解するという具体的・
存在的(ontisch)問題であった。そして,こうした視点の相違により,ガダマーがハイデガーの思索 をそのままの仕方で利用できないという問題が生じてくる。しかし,まさにそのことによってガダ マーの思索は教育に関して豊かな示唆を与えてくれるのである。教育は人間存在の有限性と常に直 に直面していかなければならないからである。また,既に述べたように,ガダマーが先入見を積極 的に評価していることは,啓蒙主義的理性を批判するガダマーの主張の眼目であり,これからの考 察にとってこの点は重要な意味を持っている。
2.ガダマーの捉えるBildung概念
ガダマーは人文主義的な概念の一つとしてBildung(陶冶・教養)を挙げている。「自己を普遍的な 精神的本質へと作り上げていくことが人間的Bildungの普遍的本質」5)である。ここではまずガダマー のBildungについての捉え方のいくつかの特徴について整理していきたい。
第一の特徴は,Bildungにおいては「生成過程」が問題とされているということである。したがっ て,Bildungの結果としての知識が教養として一人歩きを始めたとしても,本来それに副次的産物に 過ぎない。獲得された知識の量をもってBildungの達成の有無を判断することは本末転倒である。「生 成すること(Werden)」が問題なのであって,「存在(Sein)」はあくまでもこの生成作用が転化した
ものに過ぎない。rBildungは自己以外の目標を知らない」6)のであり,「〈Bildungの目標〉という言 葉や,それによって言い表されている事柄は,Bildungの副次的産物であって」,「Bildungはもとも
と目標にはなりえない」7>のである。Bildungを決して,何らかの目的のための手段として捉えること
は出来ない。「まさにこの点でBildungの概念は,そのもともとの意味であったところの,与えられ
た素質の単なる育成(Kultur)というだけの概念を乗り越えている。素質の育成とは,なんらかの与え
生越:教育的状況の有限性について一一一ガダマーの『真理と方法』に基づいて
187られたものを発展させることであり,そうした素質の訓練や錬磨は,目的のための単なる手段にし かすぎない」8}。Kurtur自身は目的さえ達成されれば意味を失っていく。重要なのは達成された目的と
しての対象である。一方,Bildungにおいて受け入れられる素材は,決して手段化して新たな目的実 現のために消え去っていくようなものではない。Bildungはそこでは全てが「保持(Aufbewahrung)」
される「歴史的な(geschichtlich)」概念である。重要なのはBildungが生起していることそれ自身で
ある。
第二の特徴としては,「普遍的な精神的本質へと作り上げていくこと」9)をBildungが目指している ということがある。「自己を普遍的で精神的な本質存在へと作り上げていくことは,人間的Bildungの 普遍的本質である」1°)。こ1の点においてガダマーはヘーゲルを継承している。普遍的な精神的本質は
「自制も見境もなく」「部分的なもの」に自己を委ねてしまわずに,「自分から目を離して」iD , 「異 質なものの中に自己を認識し,それに慣れ親しむこと」12》から生まれる。つまり,狭い自己から抜け 出し,異質な世界に学ぶことにより普遍性を獲得するのである。Bildungが普遍的存在への道である ということは,そこでは自己からの離脱,あるいは自己からの疎外を求められるということを意味 する。もちろん,「Bildungの本質をなすのは,疎外そのものではなく,疎外を前提とするのは当然で あるが,この疎外を経た自己への回帰という行為であることが明らかになる」13)。普遍性を獲得する とは,他者を媒介にしつつ,より普遍的な自己へと近づいていく精神の在り方を意味しているので ある。「直接的なもの,自然的なものとの断絶」14 が人間の本質なのであり,自然的自己からの乖離 が自己の本性(自然)への回帰であるということになる。人間は生まれたままの状態においては未だ 人間ではない。自然性の断絶,つまりある意味での疎外が人間を人間にする。しかし一方では,そ のように断絶によって自己から距離をとることが人間の本性(自然)であるということは,まさに 断絶そのものが人間の内面に用意されているとも捉えられる。だが自己から距離をとることは,自 己を省みない異質なものへの迎合を意味するのではない。そもそも異質なもの,すなわち他者性は 自己を出発点としないかぎり,それとして存在しえないはずである。したがって,自己存在への問 いを等閑視し,宙に浮いた知識としてのBildungという側面を偏重することはBildungの目指すもの ではない。ガダマーが自己への回帰をBildungの本質に含ませざるをえないのも,このBildungが,
異質なものと出会うことによる自己乖離に終わることなく,あくまでも再び自己の内へと戻ってく ることを強調してのことなのである。
第三の特徴として,ガダマーはBildungの「完成」を認めようとはしない。そしてこの点で,すで に述べたように,ガダマーはヘーゲルと完全に別れる。rBildungは精神科学の活動の場である」15)。
Bildungにとって大切なのは, Bildungを経た結果の「最後の位相」ではなく,「成熟した状態」であ り,「手腕(Takt)」L6を持づことである。手腕とは「判断形成や認識の仕方を,いわば土壌のように 支えている」L7)「状況に対するある種の敏感さおよび感覚能力と,その状況の中での行動」18>である。
この手腕は,感覚とも言い切れず,意識とも言い切れない微妙な性格を備えている。手腕は,「自然 に身に具わっているものではない以上,我々が美的意識ないし歴史的意識という言い方をして,感 覚という言葉を用いないのは正当ではある。とはいえ,そうした意識は感覚の直接性とは切り離せ ない。すなわち個々の場合には,この意識は,理由を挙げることはできなくとも,確かに選別した り評価を下したりしているからである」19}。ここで重要なのは,以上の引用からも明らかなように,
Bildungにおいては「科学的処理あるいは態度ではなく,どのような形成を経た存在であるか」2°)が
問題となるということである。すでに述べたように,Bildungの普遍的特徴は「自分のとは異なった より普遍的な視点に対して開かれていること」,「異質なものを受け入れる用意ができていること」,
「自分自身に対する節度と距離をわきまえる普遍的な感覚」21)なのである。
さて,第四に,Bildungが普遍的感覚(allgemeiner Sinn)であるということが,現実には,「皆に共 通の感覚」を意味するという特徴がある。「普遍性(Allgemeinheit)」は,決して抽象的な理性にその 根拠を求められるべきではなく,共同体という具体的状況に於ける感覚,つまり「共同感覚(sensus communis)」22 に求められるべきなのである。普遍性とは「具体的な普遍」23)であり,実践的な知に 基づく普遍性なのである。既に述べた第二の特徴との関連で言えば,他者性との出会いが我々を普 遍性へと導くとしても,そこには前もって共通感覚が存在していなければならないということを意 味する。この共同感覚はガダマー一・一一の挙げる第二の人文主義の指導概念である。そして,このような 共同感覚の形成が,自然科学の方法論には納まりきらない真理の領域を開示するという大切な教育 の目的であることを,ガダマーは,ヴィーコを引用しつつ,述べている。このようなBildung概念に おける普遍性の捉え方については後にガダマーの経験概念を取り上げる際に問題としたい。
第五の特徴は,Bildungは「判断力(Urteilskraft)」を生み出すということである。判断力作用は「特 殊を普遍のうちに包摂し,なにかあることを特定な規則の事例として認識する働き」24)である。そし て共同感覚は「いつも既にその内容を規定している判断と判断基準との総体(Inbegriff)を包括してい る」25)。そして,この判断力において道徳性が問われることになる。したがって共同感覚は「他者の 判断に依拠することで自己の重荷から楽になろうと」26)することではないのである。このことはすで に述べたBildungが自己への回帰であることとも繋がっている。また,ガダマーは,判断力が働く活 動の場として特に「趣味(Geschmack)」を挙げている。趣味においては,狭い自己から距離をとる極 めて人間的な認識の仕方が示されている。この判断力はガダマーの挙げる第三の,趣味は第四の人 文主義指導概念である。
さて以上述べてきたように,ガダマーによれば,Bildungにおいて,具体的な状況に対応できる自 己の在り方へと導かれていくのであり,Bildungにおいて問題となるのはあくまでも自己自身との関 わり方であるともいえる。だが一方でBildungは,「自己と自己自身を宥和させること,自己自身を 他なる存在において認識すること」27)である。つまり,「欲望,個人的な必要,私的な関心という直 接的なものから距離をとる」28)ことができるよう自己形成していくことがBildungなのである。ここ にはBildung概念の両義的な性格が現れている。 Bildungにおいては,当然,他者のなかに溶け込み 自己を喪失することが目指されるのではない。だが,一方では,世界と切り離された内へと向かっ た理性,いわば《insightfu1な》自己,が目指されているのでもない。むしろ常に世界との関係のな かで世界の方から自己を捉え直すこと,普遍的な他者なる目をもって自己を捉え直すことをBildung は目指しているのである。自己のうちへと閉じこもった理性はむしろ自己を殺すのであり,世界と の関わりのなかで自己疎外を経過することによって,始めて生き生きとした自己が形成されるので ある。その意味で,《outsightfulな》眼差しがBildungの眼差しである。世界との関わりにおいて,
始めて私的な理性や感性から距離をとることが可能となる。
生越1教育的状況の有限性について一一一ガダマーの『真理と方法』に基づいて
1893.ガダマーの経験概念に学ぶこと
さて,以上ガダマーのBildung概念の特徴を捉えてきた。そこでは,他者性との出会いにより,普 遍的な存在へと生成していくことそれ自身がBildungの最も根底的な意味であることが確認された。
その際,一方では狭い自己性のうちに閉じこもらずに自己を超え出ることが求められ,他方では他 者性に依存するのではない自らの判断力を持つことが求められることが明らかにされた。だが,す でに述べたように,ここには見過ごすことの出来ない問題が隠されている。両義性の問題,つまり Bildungにおいては他者と出会いつつもあくまでも自己に留まりつづけることを求められるという問
題である。教育は,このBildungの両義性に対して,どう態度をとったらよいのであろうか。始めに提起した 問い,すなわち《個性》的であることと社会の変化に対応できる主体性をもつこととが結びつくた あには,Bildungの両義性をさらに深く捉えていくことが必要である。社会の変化への主体的対応が 意味するのは決して社会に身を任せるという社会への迎合ではありえない。しかしそうでありなが
ら,一方では,あくまでも社会の変化に対応できる《個性》であることが強調される。こうした《
個性》は,これまでガダマーの思索に学びつつ考えてきたBildungの両義性が成立する状況において 始めて実現するものである。Bildungの両義性を反映した《個性》でないかぎり,その《個性》の主 張は,むしろ《個性》尊重という時代の流行に依存する結果となってしまう。そして,そうした場 合,社会に縛られることのない《個性》が強調され,しかもそれが社会の流れに迎合するだけの画 一的主張に過ぎないなどという事態も起こりうるのである。
ガダマーのBildungの理解の仕方をさらに詳しく展開することが個性尊重の意味を捉え損なわない ために必要となる。そこで,さらに「経験(Erfahrung)」という概念をガダマーがいかに捉えている のかを見ていくことにしたい。この概念の解明は,これまでのBildungについての考察を補ってくれ るものである。ガダマーは自然科学に基づく真理観の限界を主張し,「一回限りであり歴史的である 具体化」29 のなかにある真理を追い求め,その証拠をBildungの概念のなかに求めた。そしてこのよ
うなBildungの概念を根底で支える人間存在の構造が「経験」なのである。
ガダマーの経験概念はすべての人にとって反復可能な客観性を絶対視することを否定する。この 概念においては,人間存在の歴史性が強調され,したがって経験の歴史的契機に目が向けられる。ガ ダマーによれば,真の意味での経験とは,決して客観化されうるものではない。すでに,人文主義 の主導的概念として取り上げた判断力が,まさに具体的状況,個別的な状況における判別能力であ ったことに対応して,経験もまさに「歴史性(Geschichtlichkeit)」を重んじた概念である。ガダマー は,自然科学的な方法概念において問題となるような反復可能性において沈殿してくるものは,経 験を本質的に規定するものではないと主張する。
ガダマーによれば経験の歴史性において重要なのは「否定性」と「有限性」である。もちろんそ
の前提には,経験を経ることにより,人はこれまでの自己とは異なる新しい自己になり,新たな「地
平」から世界を眺めることができるようになるということがある。我々は経験に開かれた存在であ
る。我々は経験に襲われるのであって,そのことを予め予期することはできない。だが,そのこと
は同時に,現在の自己の在り方が決して完全なものではなく,ある地平にたった自己にすぎないこ
とを知らしめてくれるのである。人が常に「新しい経験へと開かれている」3°}ことと,人が決してす
べてを見通すことができないこととは表裏一体の出来事である。経験を経て新たな自己へと成長し ていく際には,これまでの自己が否定されるのだが,そこでは同時に自己が有限であることを思い 知らされるのである。人は経験を経ることにより無限に自らを豊かにしていくのであり,死におい てすべての経験を奪われるまで経験を積み重ねていく。したがって,常に自己は過程的な有限な存 在でしかありえないことになる。経験を経ていく過程は「本質的に否定的な過程」3t)である。
そしてこのことから必然的に人間存在の有限性が導かれるのである。そして,すでに述べたよう に,この点においてガダマーの思索はヘーゲルと別れるのであった。ガダマーによれば,経験によ って常に以前の見方を否定され,自己が有限的存在であることを思い知らされる。ガダマーは,こ うした経験の特徴を,アイスキュロスを引用して,「苦しみを通して知る」32)という言い方をしてい る。経験を経ることが有限性についての自己洞察を伴っている点は重要である。「経験の豊かな人は,
あらゆる予見の限界とすべての計画の不確かさを知っている」:s)のであり,経験により「おのれの有
限性を自覚する」34)のである。すでにBildungが普遍性への上昇であること,したがってある意味でそこに自己から距離をとるこ と,自己を異質な他者性との出会いのなかで捉えなおすことを含まざるをえないことが明らかにさ れてきた。そしてそのことがガダマーの経験概念の捉え方のなかでもう一度捉えなおされることに なる。経験は自己の内側にあるものの展開を超えている。経験は世界との接触,世界からの抵抗を 前提している。それは他者性との出会いにおいて始めて生じるものである。経験は自己に内閉した 思念からは生まれてこないのである。
教育が人間のBildungを目指すかぎり,他者性との出会いが出発点となる。教育が目指すことは狭 い自己から距離をとり,異質な他者と出会うことを通して,より普遍的な存在へと導かれていくこ とである。子どもたちは,学ぶことにおいて他者や世界と衝突し,自らの地平を次々と豊かに変換 していく。そして,より深い地平にたって世界を,そして自己を捉えられるようになっていく。一 方,教育者もまた人間である以上,子どもたちとの出会いにより経験するのであり,そこで豊かな 地平を獲得していく。教育は,相互的なBildungでしかあり得ず,教育においては教育者も自らを豊 かな自己へと変換していく。したがってまた教育者の存在を固定して問わないような教育方法につ いての完全な理論などは存在しえないことになる。教育の過程は,すでにBildungがTaktという普遍 的感覚を目指していたことからも判るとおり,具体的な感覚を必要とするのであり,教育者の存在 を度外視して,神の視点に立つかのような絶対的教育理論を想定することはできない。
さてここでガダマーが用いている「地平(Horizont)」 a:.)という概念に注目してみよう。この概念は
ガダマーがフッサールから継承した概念である。「体験流(Erlebnisstrom)は,ある普遍的な地平意識 の性格をもっているのであり,その地平意識に基づいて個別性がようやく経験として現実的に与え
られるのである」36}。だが,ガダマーはこの地平を完成された世界地平としてではなく,あくまでも
「歴史的な概念」として捉える。そしてこの点においてガダマーはフッサールを超え出ようとし,「地 平の融合(Horizontverschmelzung)」37)を強調することになる。フッサールは,地平を超越論的主観 性によって構成されるものとして捉える。しかしガダマーにおいては,フッサールの捉える「生活 世界(Lebenswelt)」の匿名性が,他者との共同世界として与えられることが強調され,地平概念も 静的なものとしてではなく,歴史的概念として,動的な融合の過程として捉えられることになる。
地平という概念はすでに述べたように,経験が一定の「状況」を越え出ることができないという
生越:教育的状況の有限性について一一一ガダマーの『真理と方法』に基づいて
191有限性と関連している。「状況概念には本質的に地平概念が属している」38)。「人は状況に対面すると いう仕方で自分を見いだすのではなく,したがって状況を対象的に知るということは不可能である。
我々は状況の内に立っており,いつもすでにある状況の内にある自分を見いだす」39 のである。人間 は決して状況から抜け出ることはできないのである。このように地平は人間存在の限界,つまり有 限性を端的に示している。
しかし一方,地平は「視界(Gesichtskreis)」を意味し,閉鎖的な「自己知のうちに組み込まれず」1°〉
に,遠くを見ることができるという積極的な意味を持っている。「地平を持つとは,身近なものに局 限されずに,それを超え出て見ることができるということ」41)を意味する。地平はすべてを自己に密 着させて捉えることから,距離に応じて捉えることへの移行を可能にする条件である。Bildungが以 前に普遍性への上昇として捉えられたこと,そこでは共通感覚が重要な働きをもっていたことが,こ
こで経験概念に基づき,人間の生の在り方として捉え直されることになる。
それでは,経験するとは自己の地平から新たな地平へと「身を移し変える」ことであろうか。ガ ダマーは,経験の有限性を強調していることにも示されているように,それを否定する。経験の有 限性は決して「閉じた地平」42 を意味するのではない。むしろ経験の有限性は地平が決して自己存在 から切り離されえないことを意味しているのであって,したがって自己と関わらない全く見知らぬ 地平が存在することを否定するのである。言い方を変えれば,経験が可能であるためには人間がそ もそも開かれた存在であること,つまり真に閉じられた状況を生きているのではなく地平を広げう る存在であることが条件となっているのである。地平の融合は人間存在の本質である。地平の融合 とは,ハイデガーの述べる「好奇心(Neugier)」43)のように次から次へ知から知へと飛び回ることで はなく,「ただ一つの地平」44)を豊かにしていくことである。
ここではすでにBildungが自己から乖離しつつ自己に回帰することであると捉えられたことが地平 の融合として位置づけられることになる。そしてBildungにとって,結果としての教養は副次的産物 であり,生成過程が重要であること,また目指されるべき普遍性が具体的な普遍性,つまりあくま でも自己から出発した普遍性であることが地平の融合という概念により明確に示されたことになる。
Bildungにおいては,その眼差しは《outsightful》なのだが,眼差しである以上あくまでも自己を出 発点としているのである。Bildungの目指すものは「自己自身から目を逸らして] 5 未だ自らの一部 にはなっていない文化や伝統で自己を満たそうとすることでもなければ,いまだ他者なる文化や伝 統を自己性のうちに閉じ込めることでもない。Bildungが目指すのは,「自分自身の個別性を克服し」,
また既存の文化や伝統の個別性を克服して,「より一層高い普遍性へと高揚せしめることである」46)。
ガダマーによれば,Bildungとは,自己から距離をとりつつも,常に自己疎外に陥らないよう自己に 回帰しつづけることなのである。
それでは,自己から乖離しつつ自己に回帰することは何によって保証されるのであろう。ここに おいてガダマーが「先入見(Vorurteil先行判断)」の意味を肯定的に捉え,それに重要な位置づけを 与えていたことを考慮すべきである。ガダマーは十八世紀啓蒙主義が理性を絶対視し,先入見を消
し去ることで克服しようとしたことを批判する。すでに述べてきたように経験における地平の融合
という生の捉え方に立つかぎり,自己が自己の持つ先入見を克服できると考えることはできない。先
入見は有限性の証である。「およそすべての人間の実存は,たとえ最も自由な実存であっても,制限
を受け,様々な仕方で条件付けられているのではないだろうか。これが正しいとすると,絶対的理
性という理念は,いかなる意味でも歴史的人類の可能性には属さないことになる」a7 。ガダマーは人 間を理性的存在に還元することを否定する。「すべての先入見の克服,それは啓蒙主義の包括的要求 なのだが,そうした先入見の克服は,それ自身一つの先入見であることが判明するであろう。この ような根本的な先入見を改正することによって始めて,我々の人間存在ばかりか我々の歴史意識を も支配している有限性を適切な仕方で理解する道が開けるのである」48)。ここでは少なくとも先入見 は否定できない現事実として捉えられる。
しかしガダマーにおいては,ある種の先入見はこうしてその時々において克服されつづけながら も克服されえない現事実であることを超えて,むしろ我々の存在の枠組みとして積極的な位置づけ を与えられている。このことはガダマーにおいて地平が人間の有限性を開示していると同時に視界 を意味していたことと対応している。先入見は経験するための地盤 Bildungの過程を保証する始ま
りの地点なのである。特に承認に基づいた「権威(Autoritat)」,さらには無名となった権威である「伝 統(Tradition)」の復権(Rehabilitielung)をガダマーは強調する。権威の根拠は自己の理性によって,
「自己の限界に気づき,他者のほうがもっと優れた洞察をなすと考える」49)ことである。こうした 先入見は経験が他者の「私物化」に堕することを防いでくれる。したがって,普遍性への上昇とし て捉えられるべき真のBildungの条件となるものである。「実際には,種々の大きな歴史的現実,社 会や国家というものが,各人のr体験』に先んじてこれを常に既に規定している」5°)のであり,「自 己省察」は決して「第一義的なもの」ではない。文化が我々に属しているのではなく,我々が文化 に属しているのである。「我々が自らを省みることにより自己自身を理解する遙か以前に,我々は自 らが生きているところである家族や社会や国家のうちで自己を自明的な仕方で理解しているのであ る。個人の自己省察とは,歴史的生という閉回路の内で明滅する光に過ぎない。それゆえに,個人 の諸々の先入見は,彼の諸々の判断とは比べものにならないほど,彼の存在の歴史的な活動的現実
である」5Do
ガダマーによれば,伝統は決して我々を固定化するもの,我々をそこに閉じ込めるものではない。
むしろそれは我々が地平を変換し,融合して,豊かな生を生きることを可能にするものである。伝 統こそが世界に開かれた存在であることを保証する。ここにおいてBildungをいくら内面からの成長
として位置づけようとしても,それではBildungを正確に位置づけたことにならないことがはっきり と示される。内的な理性を絶対視することは,人間存在の現事実ではなく,抽象的理念化に過ぎな いのである。そして真の理性は伝統がBildungを根底で支えていることを認めることのできる理性な のである。「というのも理性は,自己の限界に気づき,他人の方がもっと優れた洞察をなすと考える
からである」52)。伝統を根拠づけているのは「自由と理性の作用」53)である。ガダマーによれば,Bil−dungとは伝統を中心とする他者性との衝突のなかで地平を融合してゆくことなのである。もちろん,
既に述べたように地平の融合とは,自らの地平から他者の地平へと飛び移ることではなく,あくま でも伝統という先行判断を吟味し,自らの地平のなかにもたらすことであった。ガダマーはハイデ
ガーの了解の「予構造(Vorstruktur)」5 とそこに潜む循環構造の捉え方に学びつつ,伝統との「対話」からBildungが生じること,そして経験は常に有限性に支配されているのであってBildungはおのれ
の有限性と対決し続ける生成過程を意味することを見て取ったのである。言い方を変えれば,Bildung
は伝統と自己との対話の「親密さと疎遠さ」,「対象性と帰属性」の緊張関係のなかで生じる。Bildung
が行われる「本来の場所」は,親密さと疎遠さ,自己性と他者性との「あいだ(das Zwischen)」55 な
生越:教育的状況の有限性について一一一ガダマーの『真理と方法』に基づいて
193のである。我々は,あらかじめ一つの伝統に帰属し,そこにある親密さを見いだしている。しかし 一方では,伝統は我々にとってすでに異質なものであり,決して同一化できるようなものではない。
そこには疎遠さが付きまとっている。しかしこうした自己と自己でないものとの「隔たり(Ab−
stand)」56)がBildungを可能にする。ガダマーがハイデガーを継承しつつ,他者性に「開かれている こと(Offenheit)」57),そしてその他者の「語り(Rede)」に「耳を傾け(zugeh6rig)」58 「帰属
(Zugeh6rigkeit)」59}することを強調することの意味は,ガダマーが自己と他者の「あいだ」を眼差し ていることから生じているのである。そしてこの「あいだ」を眼差すかぎり,すでに述べたように,
Bildungとは決して他者なる文化を「再現」することではなく,自己との対決のもとに新たに何ごと かを「産出」することなのである。
4.Bildungに内在する限界について
それでは最初の問いである《個性》と教育との関係に戻りたい。
ここまでの考察で明らかになったことは,教育をBildungとして捉えようとするかぎり,両義性が 問題とならざるをえないということであった。自己を他者に開きつづけることと自己でありつづけ ること,この双方がBildungにおいては求められる。さらにガダマーの経験概念が明らかにしたのは,
他者に開かれることによって自己が普遍性へと上昇していくことが地平の融合として捉えられると いうことであった。この地平の融合という概念は人間存在の有限性と同時に可能性を明らかにする。
そして伝統という地盤に基づいてこそ,我々が狭い自己性のうちに閉じこもらずに,他者に開かれ,
普遍性へと上昇していくことが可能となることが示された。
こうした指摘は《個性》を生かす教育について考える際にも一つの示唆を与えてくれる。《個性
》を尊重することは,あくまでもひとりひとりの子どもの《内面》に目を向け,大切にすることで ある。したがって教育もまたひとりひとりの子どもから出発しなければならない。しかし,このこ とは出発点に過ぎない。むしろ教育がなすべきことは,子どもが狭い自己性のうちに閉じこもるこ とから解放することである。それは,子どもの経験としては,自らおのれの有限性を自覚し,自ら を否定することを意味する。このように考えるかぎり,《個性》を生かすことは,自己から距離を とることにより,始めて可能となる。どっぷりと自己のうちに漬かっていることから自らを解放し,
世界や他者のなかへと出ていき,しかもあくまでも自己へと帰ってくることを教育は子どものうち に生じさせなければならない。こうした教育こそが《個性》を生かす教育であるはずである。《個 性》を生かす教育においても,決して子どもが外部の異質なものから守られることにはならないの である。異質な他者性は積極的に子どものうちに取り込まれなければならない。他者性との出会い は,人間になっていくための可能性の条件であり,人間存在の本質である。
しかしここには矛盾が際立ってくるように思われる。《個性》を生かすことと他者と出会うこと はどうつながってくるのであろうか。しかもガダマーにおいては,自己と他者とのあいだは伝統に よって緩衝されている。そして,他者との出会いは始めから伝統という共通の地盤のなかで行われ ることが想定されているのである。そこで,上記の矛盾をより明確に捉えるために,ガダマーの思 索をさらに捉えなおすことによって考察をすすめていきたい。
ガダマーの思索は,先行判断を取り除いた純粋な理性が明らかにする方法的真理の領域外にも,人
間の豊かな真理領域が存することを明らかにした。そして,その先行判断からの出発を根底で支え ていたのは,自己と他者が伝統という共通性によって実はすでに結び付けられているという前提で ある。確かにガダマーは自己からの乖離を主張するが,それはあくまでも伝統という共通の地盤に おいて生起することである。つまり,ガダマーは,最終的には自己と他者との「あいだ」の裂け目 を認あていないことになる。ガダマーの強調する「隔たり」は実は共通性の浸透した隔たりなので あり,真の「裂け目」,「深淵(Abgrund)」ではない。「時代の隔たりは大きく口をあけた深淵では ない。逆に,時代と時代との隔たりは,風習と伝統とが連綿と続いていることによって埋められて いる」6°)。隔たりの背後には,見過ごされやすい「不変なるものの隠蔽」がある6D,つまりは常に変 わらず我々を包み込んでいる共通性が潜んでいるのである。そしてここには経験における否定の契 機を強調しつつも,最後には神の見えざる手を認めるガダマーの思索の特徴が現れている。隔たり こそが真なる先入見と偽なる先入見とを分離してくれるのである。地平の融合も言ってみれば始め から融合することが前提された捉え方である。
だが,果してそうした前提は許されるだろうか。ガダマーは先行判断を吟味し,そうした判断を 中断する「問い」62 を強調しつつも,実は自らの根底的な先行判断である共通性の存在を問うことを 怠っているとは言えないだろうか。
ガダマーは伝統への「服従」を否定しているが,結局は伝統への「参画」が求められるのである。
したがってBildungはそこにある種の受動性,さらに言えば《個性》の否定を内在させているように 思われる。それは,伝統という地盤を受け入れないかぎり真の自己にはなれないということである。
だが,ここで一つの疑問が生じる。ガダマーにおいて,Bildungが普遍性への上昇と規定されたこと,
あるいは経験が地平の融合として規定され,その際伝統や権威が尊重されたこと,そのことへの疑 問である。最初の問いに戻れば,《個性》の開花にとって文化による普遍性の獲得が一つの条件と なるにしても,それだけに《個性》を還元することは,狭い枠のなかに《個性》を閉じ込めること になるのではないだろうか。またBildungは未来よりも過去を重視することになる。 Bildungにおい ては真に未知なるものに襲われるという到来性よりも,過去の文化との連続性のもとに自らをBildung
していく過程が強調される。この場合,過程という言葉のうちには,少しずつ自己を普遍性へと完 成させていくという「進歩」の考え方,土台の上に始めて創造がなされるという考え方が前提され てしまっている。そしてこうした捉え方に基づくかぎり,教師と子どもとの具体的関係において,文 化の担い手である教師の権威性が際立つことになり,教師と文化の受け手である子どもとのあいだ には権力性が介在せざるをえないのではないか。以上のような疑問である。
もちろん以上のような考察は,ガダマーの思索を欠陥だと決めつけることにはならない。それは 人間の経験に内在する困難Bildungの過程において,自己が伝統や文化とのあいだで引き裂かれざ
るをえないこと,そして《個性》の実現が孕む矛盾を示していることになるからである。ガダマー が隔たりを強調し,解消しえない他者性との対話,異質なものに襲われることを基盤におきつつも,
一方では伝統という「根本的で基礎的な先入見の共通性」63 への帰属性を前提せざるをえなかったこ
とは共通性が我々の生をどれほど強く貫徹しているのかを示している。そして教育において真に《個
性》を尊重することの意味を捉える難しさがここには示唆される。どうしても《個性》というもの
は,実体性の枠のなかで捉えられざるをえない。したがってまた《個性》は,ある社会を前提とし
た,その社会の枠内での《個性》を意味せざるをえないことになる。しかしこのことは,ガダマー
生越:教育的状況の有限性について一一一ガダマーのr真理と方法』に基づいて
195がBildungを「存在」としてではなく,「生成過程」として捉えようとしたことが徹底されていない ことを表しているのである。《個性》を伝統の枠組みのなかで捉えることは,当の《個性》を実体 的なもの,つまりある一定の性質を現すものとして捉えることである。
このような考察により,ガダマーの思索が部分性を克服していないということは言えるように思 う6 )。ガダマーにおいては,共通性のまったく浸透していない場において,真の意味で他者に襲われ るということが視野に入っていないからである。ガダマーは人間存在の有限性を強調するが,この 有限性を突き詰めるかぎり,経験において伝統という実体的な枠組みを前提することは不徹底だと いうことになるだろう。ガダマーの思想の根本にある有限性の徹底がガダマー自身の思想の限界を 内在的に明らかにすることになる。ガダマーは「完全性の先行把握」65)を前提している。つまり,あ る完全性が理念的に想定されているのである。それは事象的な真理が前提されていることでもある。
ガダマーにおいては,隔たりに基づく対話から生まれる共通性は,実は始めから伝統という共通性 に支えられているのである。そしてBildungによって普遍性へと上昇することが問題とされているこ との裏には,伝統を基盤とした普遍性への上昇の枠を外れた《個性》の問題が視野から逸れるとい
うことが存する。以上述べてきたように,ガダマーの思索の成果は十分に認めつつも,ガダマーが伝統という共通 性の上に経験を捉え,共同感覚において具体的普遍を求めていくことにBildungの本質を求めたこと
に限界があることが指摘されなければならないだろう。子どもひとりひとりとの対峙に際しては,普 遍性への上昇という捉え方を絶対視することは出来ない。子どもは完全無欠な「作品」に仕上げる べき存在でも,仕上げうる存在でもない。ガダマーにとって重要なのは,汝そのものではなく,「汝 が我々に語る真なるものの内実」66 なのである。普遍性への上昇に限界があることはガダマーの強調 する有限性から内在的に導かれることなのである。教育はこの有限性を忘れてはいけないように思 う。確かに教育はひとりひとりの子どもがガダマーの言う意味での普遍性へと上昇していくことを 求める。そしてそのことはこれまで考察してきたことに基づくかぎり,ひとりひとりの《個性》を 尊重することと相反するものではない。だが,それはあくまでも共通性を地盤とした《個性》を問 題としているに過ぎない。
ガダマーによれば,我々は,経験によって普遍性へと上昇していくのみではなく,伝統という普 遍性を始めから共通の地盤として生きているのである。経験は先入見を出発点とせざるを得ないの であるが,この先入見は伝統によって守られているために,根底から破壊されることは生じないの である。この点について,ガダマーの思索を,人間の有限性を考慮しつつも,その捉え方が不徹底 だったと批判することもできることになる。ガダマーは,自らの思索のなかで人間存在の有限性に ついての自覚を一つの柱として捉えながらも,その有限性の捉え方は未だその徹底さから言えば途 上にあるのである。
だが,ハイデガーが常に存在論的な視点を持って思索をすすめていたのに対して,ガダマーが他
者,特に時代を隔てたテキストとの具体的(存在的)な「対話」を問題としていたことが忘れられ
てはならない。ガダマーが他者性との出会いを経験の根底に置きつつも,実はその他者性が共通性
を前提としたうえでの他者性でしかなかったという事実は,ガダマー自身の他者理解の欠陥である
というよりは,他者理解それ自身に内在する限界を示していると同時に,教育において《個性》を
生かすことの限界を示しているように思われるのである。現実に子どもを目の前にして行われる教
育実践においても,決して当の子どもを理解し尽くすことは出来ないのであり,その意味で子ども の《個性》を生かしきることもできないのである。《個性》を生かす教育という言い方をされる場 合の《個性》は,あくまでもカダマーの言う意味での共通性を前提とした《個性》なのであり,そ れは限定された意味での《個性》に過ぎない。そして,共通性を超えるようなひとりひとりの子ど もの生に対して教育が出来ることは,それを生かすといった能動的な働きではなく,共通性を超え たひとりひとりの子どもの生そのものの存在を確認し,それを尊重することのみである。したがっ て,《個性》を生かす教育というスローガンを掲げることによって,教育が子どもへのいかなる関 わりをも正当化されるというように考えることもできないことになる。
5.おわりに
これまでの考察において,《個性》を生かす教育ということの意味を捉えることを背景に置きつ つ,ガダマーの『真理と方法』における思索,特に「Bildung」と「経験」という二つの概念を巡る 思索を取り上げながら考えてきた。そこでは,第一に自己の有限性を自覚し,そうした自己を否定
していくことにより,常に新しい自己になりつづけていくことが強調され,第二に,我々にとって 伝統が共通の地盤として積極的な意味を持っていることが確認された。
第一の指摘は,教育が《個性》を生かすと言った際に陥りがちな危険について明らかにしてくれ た。《個性》を生かすことは,決して,ひとりひとりの子どもが自己の《内面》にあるものを実現
していくことに留まることではなく,自己を離れ,異質な他者と出会うことにより,始めて成立す る出来事である。もちろん,その際あくまでもひとりひとりの子どもであることから出発しなけ ればならない。それでこそ,自らの有限性を自覚し,古い自己を否定することも可能となるからで ある。したがって,ガダマーが経験という概念に込めた意味は,自己を忘却して,外の世界を歩き 回ると言うことではない。ガダマーは,自らの先入観を大切にすべきであるといっている。ガダマー にとって他者と出会うということの意味は,他者を異質な他者として理解することであると同時に,
その他者が他者として現れてこざるをえない有限な自己に直面し,そこから逃避しないということ
なのである。第二の指摘は,教育が《個性》を生かす際の限界について明らかにしてくれた。他者を理解する 営みは共通の地盤を前提として始めて可能となる。しかし,ここではすでに他者は真の他者として 出会われないことになる。伝統によって緩衝されてしまっているからである。したがって,ある意 味では,教育が《個性》を生かすという言い方自体が傲慢だとも言えることになる。我々は決して ひとりひとりの子どもの生そのものに出会うことは出来ないからである。
それでは,有限性への眼差しを徹底することは現実の教育においてはいかなる事態を意味するの
であろうか。それはBildungとしての教育を超えた教師と子どもの関わりの可能性を探る必要性を提
起する。関わりは,教育を包み込み,教育することの根底にある。だが,すでにガダマーの思索に
示されているように,人間存在の有限性は理性を絶対視する可能性を奪ってしまう。それでは如何
にして自己にとって異質な他者である子どもと関わることの可能性の根拠は与えられるのであろう
か。果して,実存主義においていわれるように,最終的には関わりの可能性は否定されてしまうの
であろうか。ここではこの点について十分議論することはできないが,ガダマーの示した有限性へ
生越:教育的状況の有限性について一一一ガダマーのr真理と方法』に基づいて
197の尊重,したがってまた生成過程の尊重が私と他者との関わりの可能性を支えるということはいえ るのではないだろうか。ガダマーの思索から得られる共通性への帰属は教師と子どもの関わりにお いても尊重されなければならない。だが有限性への眼差しが共通性へと解消されてしまうと考える ことは出来ないだろう。だが,それは有限性への眼差しを拒否することではない。このことは伝統 という実体を前提とした「共通性」を超え出て,しかもある「共通であること」(ともにあること)
に帰属することによって可能になるように思われる。関わりの可能性を前提するかぎり,他者が全 く見知らぬ存在であると捉えることは出来ないのであり,したがって教師も子どもも共に其処へと 帰属する共通の地盤が求められるからである。そしてこの共通であることへの帰属,すなわちとも にあることが伝統という実体性を離れて可能か否かが求められることになる。そこでは,伝統とい う実体性を超えた帰属の意味を捉え,その際の自己と世界とのあいだの空間性を位置づけることが 目指される。こうした問題についてはこれからの課題としたい。
注
1)Gadamer, H−G., Wahrheit und Methode,(TUbingen:J.C.B.Mohr,1975), S.7.
2)ハイデガーによれば世界内存在を構成する契機の一つとして「情状性(Befindlichkeit)」がある.そして
この情状性は,おのれがどこから由来し,どこに帰属するのかについては閉ざしたまま,ともかく現に 存在しており,存在しなければならないという意のままにならない事実を開示する.こうした事実をハ イデガーは「現事実性」と呼ぶ.そして,こうした現事実性において示されるのは人間がおのれの現へ と受動的に投げ入れられているということである.これをハイデガーは「被投性」として概念化してい る.ガダマーはこうしたハイデガーの概念を継承していることになる.ただし,ハイデガーは一方で,
この被投性と等根源的な契機として「企投性」を挙げているが,ガダマーにおいては特に「被投性」が
強調されて継承されていることになる.この点についてはガダマー自身が自覚していることである.S.xxvf 以下参照.ガダマーは用いていないが,「世人」もハイデガーの概念である.尚以下《》つきの概念は,その概念を留保付きで用いていることを意味している,
3)ここで方法とは自然科学的な意味での方法を意味することにする.
4)Gadamer, H−G., wahrheit und Methede,(TUbingen:J.C.B.Mohr,1975), S.288.
5) ibid., S.9.
6) ibid., S.9.
7) ibid., S.9,
8) ibid., S.9.
9) ibid., S.9.
10) ibid., S.9.
11) ibid., SS.9−10.
12) ibid., S.11.
13) ibid., SS.11−12.
14) ibid., S.9.
15) ibid., S.12.
16) ibid., S.12.
17) ibid., S.12.
18) ibid., S.13.
19) ibid., S.14.
20) ibid., S.14.
21) ibid., S.14.
22) ibid., SS.16ff.
23) ibid., S.18.
24) ibid., S.28.
25) ibid., S.29.
26) ibid., S.30.
27) ibid., S.10.
28) ibld., S.10.
29) ibid., S.2.
30) ibid., S.334.
31) ibid., S.335.
32) ibid., S.339.
33) ibid., S.339.
34) ibid., S.340.
35)ガダマーは,この地平という概念をフッサールから継承するが,基本的にはフッサールの超越論的な 問題設定の仕方には批判的である.尚,ガダマーは,ハイデガーの思想から多くの示唆を得ているが,
ハイデガーにとって自己了解が問題だったのに対し,ガダマーは他者理解を目指しており,継承は単純
でない.36)Gadamer, H−G., Wahrheit und Methode,(TUbingen:」.C.B.Mohr,1975), S.232.
37) ibid., S.290.
38) ibid., S.286.
39) ibid., S.285,
40) ibld., S.285.
41) ibld., S.286.
42) ibid., S.28.
43)Heidegger, M.,Sein und Zeit,(TUbingen:Max Niemeyer Verlag,1984), SS.170ff。
44)Gadamer, H−G., Urahrheit und Methode,(TUbingen:」.C.B.Mohr,1975), S.288.
45) ibld., S.288.
46) ibid., S.288.
47) ibid., S.260.
48) ibid., S.260.
49) ibid., S.263.
50) ibid., S.261.
51) ibid., S.261.
52) ibid., S.264.
53) ibld., S.264.
54)Heidegger, M.,Sein und Zeit,(Tubingen:Max Niemeyer Verlag,1984), SS.150ff.
55)Gadamer, H− G., Wahrheit und Methode,(Tifbingen:J.C.B.Mohr,1975), S.279.
56) ibid., S.275.
57) ibid., S.338.
58) ibid., S.438.
59) ibid., S.434.
60) ibid., S.281.
61) ibid., S. xxx.
生越:教育的状況の有限性について一一一ガダマーのr真理と方法』に基づいて
19962) ibid., S.283,
63) ibid., S.279.
64)例えば,麻生建r解釈学』(世界書院,1985)参照.
65)Gadamer , H−G., Wahrheit und Methode,(TUbingen:J.CB。Mohr,1975), S.278.
66) ibid., S. xxiii.