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東 晋 初 頭 政 権 の 性 格 の 一 考 察

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(1)

東晋初頭政権の性格の一考察

 東晋政権が︑北方出身官僚と江南官僚との協力の上に築かれてきたも

のであることについては︑改あていうまでもない︒けれども︑この両者

の関係についての具体的な姿については︑例えば︑臨書︵58︶周処置︑粥

の条に︑ ﹁時中国区官失守之士︒嵩置来者︒多居顕賞︒駕御呉人︒馬入

頗怨︒﹂とみえる如く︑北人官僚が江南官僚を抑圧して︑初めから優越

的地位を占めたとするものと︑南愛書︵33︶張緒伝に︑王倹の言葉とし

て︑ ﹁晋氏衰政︒不可以為準則﹂と述べられているところにみる如く︑

東今政権は江南官僚を優遇して︑聖人側からみれば︑必ずしも盛政とは

考えられないとする意見︵拙稿いて﹂﹁飲数剃髄謂鞭っ︶とが見られる︒更に︑両者

の調和的存在を説く顔氏家訓︵渉務篇11︶の︑ ﹁晋朝南渡︑優借士族︒

故江南冠帯︑有才幹者︒擢為令僕︒以下︑尚書郎︑中書郎︑中書舎人已

上︒典掌機要︒﹂という如き見解もある︒

 当初の東晋政権は流寓政権であるが故に︑江南諸有力氏族の支持なく

しては維持できなかったことは︑既に学者の説くところであるが粛躍横酬

堅調鎌馳齢諜膝轍剃難難馴墨田︶︑例えば︑晋書︵6︶元帝紀に︑ ﹁永嘉初

仁王導計始鎮建地︒以顧栄為軍司馬︒賀循為参佐︒王敦︑王導︑周顎︑

勾里並為腹心股肱︒賓礼名賢︒存問風俗︒江東帰心焉︒﹂とある如く︑

聖人官僚と江南代表名族出身官僚との協同が東晋初頭からみられること

は︑東晋政権が江南有力氏族の支持の上に立っていたことを物語るもの

であろう︒ 勿論︑前引台処伝の記事は元帝時代のことであって︑これら里人の怨

望は︑直接的には王導︑コ協等千人の専政に対するものであったこと は︑周処伝︵晋書58︶魏の条に︑縄が叔父周札の名をかりて兵をつのった時のことを︑ ﹁以討王導︑勾協為名︒﹂し︑それに対して︑呉人が︑ ﹁翁然芝之﹂といわれていることでも明かであろう︒それに対して王倹の言葉は︑東晋一代に江南官僚にして有力な地位にのぼった人々のあったことに対しての︑北人側からの非難である︒従って︑この両者は︑時期的に多少ずれたものであって︑その内容は全く相反するかの如く見えながら︑実は必ずしも矛盾するものではない︒ということは︑東晋初頭においては北人官僚の優越が顕著であったとしても︑その後においては︑江南官僚はそれほど抑圧せられていたわけではなく︑寧ろ北人官僚側からみれば︑東晋は召人優遇の時代であったと見られていたことを示すものといえよう︒ 併し乍ら︑上述の如き諸見解は何れにせよ東晋政権における官僚としての地位が問題とされているわけであって︑東晋政権はその初頭から︑江北或は江南の有力官僚によってのみ支持されてきたかの如き錯覚を起こさせる︒筆者の見解によれば︑少くとも東晋初頭の政権はもっと巾の広い支持を︑江南︑江北の一般人士に対して求めていたとすべきであると考える︒この点を見落すと︑単に上層階層の権力移動によって︑或は北岳官僚が詫人を駕御したといい︑或は東晋政権は江南貴族を優遇しすぎたという如き意見がでてくると思われる︒では︑元帝は一体どのような巾広い支持を︑江北︑江南両士人階級に対して求めたのであろうか︒ そのことを明かにする前に︑先ず東晋政権の性格の一面を知る為に︑天子をとり巻く有力官僚について一言しておきたい︒明帝紀徳書︶をみる

東晋初頭政権の性格の一考察

(2)

東晋初頭政権の性格の一考察

に︑ ﹁当時名臣︑自王導︑庚亮︑温嬌︑桓舞︑玩至正︒早見親待︒﹂と

あるが︑当時とは亡帝が皇太子の時であるので︑これらは元帝時代に明

鏡に親還せられた人々であったようである︒彼等は又︑元帝にも親待せ

られていたこというまでもないが︑詰牢政権の支えとなった人々は勿論

これらに止まることなく︑江北人士には︑勾協︑垂垂︑劉院の如きが︑

江南人士には︑元帝が晋王になる以前に死んだ顧栄を始めとして︑紀

謄︑蘇兼︑甲声︑陶器︑戴三思︑周訪等があったことは︑元帝紀並びに

各人の本伝に明かである︒従って︑東晋初頭には南町も亦北人と変らず

政権の支えとして重要な働きをしていたと見てもよいであろう︒然るに

明帝紀︵噴︑︶太寧三年の条によるに︑ ﹁壬午︒帝不豫︒召太宰西陽王蒙︑

司徒王導︑尚書令山卜壷︑車騎将軍郡堕︑護軍将軍庚亮︑領軍将軍慮曄︑

丹陽サ温嬌並受遺詔︒輔太子︒﹂とみえるので︑明帝末年には︑これら

の人々が東晋政権の支えとして最も重要な人々であったであろう︒とこ

ろが︑この中南人は僅かに陸曄一人にすぎない︒勿論陶侃伝︵艶書66︶に︑

﹁楽壇峻作逆︒京師不犯︒⁝⁝平皿将軍温嬌要言同赴朝廷︒初明笛崩︒

侃不在顧命掃墨︒深以為恨︒答嬌日︒吾近場外見︒順位越局︒耳払請

之︒﹂とみえる如く︑江南出身官僚の中には︑当然顧命の列に入るに値

する功績をたてたと自ら考える人々もあったろうし︑隠里晋朝廷からそ

れだけの信頼をうけていた人々もあったことであろう︒例えば︑紀謄伝

︵讐︶に︑﹁明帝嘗独引謄於広堂︒慨然憂天下日︒社稜之臣︒欲無復十人︒如何︒因屈指日︒君便其一︒謄辞譲︒﹂とみえる如きはそれであろ

・つ︒ 然るに︑実際顧命の列に入った人々は殆ど北人であったのである︒こ

うみると︑明帝末年には︑最早北方貴族の優越性はゆるぎなきものであったかのようであるが︑実は︑このことは必ずしもそんな優越性を示す

ものではないようである︒

 というのは︑元帝以来江南有力者の代表的立場で東晋政権に密着して

いた人々は︑例えば顧宋の如きは早くも元帝が晋王たる以前に卒し︑賀 循は太興二年元帝在世中に卒し︑県道は王者反逆前に︑直言は王敦の乱後に夫々卒し︑戴三思は王敦によって殺されるという如くで︑明帝末年には︑東晋初頭以来の江南の代表的人物は殆ど死亡していたのである︒ このように︑女帝末年まで生存していれば︑当然顧命の列に加えられた.であろうと考えられる人々が死亡したのであるから︑従って︑出自としては寒門に属したが︑戦功のあった陶侃が︑前述の如く︑江南官僚の代表として︑自らも顧命の列に加えられるであろうと予期したのは決して不自然であったとは考えられない︒ このように考えると︑明帝初年まで存命しており︑且つ明帝末年まで      壮健であれば恐らくは顧命の列に加えられたであろうと考えられる紀

む      む       む謄︑戴若思︑諸語を顧命を受けた人々に加えれば丁度十人︵一葦を︶の社稜

の臣があったことになるが︑これは明帝が古柳に語ったところと大体合

致するのであって︑これは決して偶然の合致とは考えられない︒このこ

とからも︑紀謄︑戴若思︑醇兼等が帰農の臣と考えられていたことが推

測される︒この場合︑無人︑尋人の割合をみれば︑北人五人︵鷹旺を︶︑南

人四人となり︑東晋初頭藻草の臣とみられた人々はほぼ相半ばしたとし

てよいようである︒こうみると︑怪鳥から明帝にかけての︑東晋政権の

基礎の固められた時期においては︑東晋政権は同様な二本の柱−江南官

僚と江北官僚1の上に立っていたとして︑一向にさしつかえないようで

ある︒

 併しながら︑東晋政権は︑このような有力官僚のみによって支えられ

ていたものではない︒現実には︑そしてもっと大切なことは︑東晋政権

の実質的な支柱は寧ろ下層官僚にあったであろう︒そのことを想わしめ

るものは︑元帝紀︵晋書6︶の建武元年︵響︶三月の条の︑ ﹁辛卯即王位︒大赦

改元︒⁝−諸参軍学奉車都尉︐縁青苔馬都尉︑桟留属百余人︒時人謂之百

六橡︒﹂という記事である︒これによれば︑建武元年元帝が晋王となつ

(3)

た時︑橡属百余人を辟召したようにとれるが︑晋書︵89︶虞埋伝望の条

によれば﹁元帝為丞相︒招延四方十二︒多子府橡︒時人一日百六橡︒﹂

といっている︒ところが︑元帝が丞相になったのは六三建興四年︵留︶の

ことと思われるので︵灘魏鞭鞘騒︑このような多くの橡属峯召したのは︑

必ずしも肖る時期に限ったものではなく︑恐らくこれらの記事は︑安東

将軍︑乳汁大将軍︑左丞相︑丞相︵婿馨︶の各時代ウ通じて辟召した橡属

が百有余人の多きであったこと葬言ったものであろう︒もしそう解しう

れば︑この橡属は︑文掌通りの将軍府︑或は丞相府の橡或は属というだ

けではなく︑前記事にいう参軍の如き僚属をも含めての広い意味での橡

属島有余入があったとするものであろう︒

 而もそれらの辟召された人々が四方の士であったとすれば︑それは必

ずしも︑限られた有力氏族出身者をあつめるというばかりではなく︑そ

の他に︑有能な士を中央に集中するということであったであろう︒即

ち︑一面では有力氏族に属する人々を招いて地方とのつながりをつける

と共に︑他面では有能な人物を招いて人心を収治するというやり方では

なかったであろうか︒即ち︑それら橡属の招請は︑単なる将軍府︑丞相

府の政務運営のためのみではなく︑東土新政権の基礎を︑広い基盤一地

域的にも︑社会階層的にも一の上におく為の手段であったと考えられ

る︒そのことはこれから漸次実証されるであろう︒かくて︑元帝はその

新政権の確立の為に︑江北︑江南それぞれの人土を広く招請したと思わ

れるが︑では︑そのようにして集められた人々はどんな人々であり︑東

嶺新政権とどのような関係を構成していたもので      三一あろうか︒

 先ず︑元帝が斎王となる以前︑元帝の府に召さ

れて帝の周辺にあった人々について︑南︑北に分

けた表をつくってみよう︒但し晋書列伝を中心と

したものである︒ ︵中に一名の推定者を含んでい

る︶

東晋初頭政権の性格の一考察 北 人

4

南 七

3

不明一名 .計七十八名 域

 北 身人 汝南 萢陽 河東 北地

東莱

陳留

太原

穎川

狼邪渤海

楽安済陰

彰城泰山

1

4 1

2 2 2 3 2 2 2 6 10 1 2 1 1 3

1 2 1 1 2 1 2 2 1 2

4 3

1 1 1 2 1

郡里人旦騨

呉興臨海

盧江

長沙

会稽広陵

堂邑

豫章丹陽

義興

1 3 1

1

6 5

3 1

4 1

4

1 1 1 2

4 3

3 1 1

4

1

郡里入晶族

1

属  1不里

関属

﹀︺

元帝

他 皿 表 司直祭酒主簿舎人司馬長史中郎従事祭酒軍諮参軍

2 1 3 2 3

4 3

(擬・j 10 5

20 16

長史

司鴫祭酒

中郎従事

祭酒軍諮

参軍

2 1

4 3

(撒刀j 3 11 9 11

北⊥人員冨△合

 一応これら表工︑皿︑皿について説明を試みよう︒

一︑表工について

 元帝の府に召された人々は︑表工にかがげる七十八名につきるもので

はあるまい︒これらは単に晋書によって知りえるものを掲げたにすぎな

いのであり︑而も︑王室に属するものは省いてあるからである︒例え

ば︑晋書︵37︶諜剛王遜伝承の条によれば︑﹁元帝初鎮揚州︒承帰建

康︒補軍諮祭酒︒﹂とみえ︑晋書︵59︶汝南王亮伝祐の条によれば︑

﹁永嘉末︒以冠賊充斥︒遂南渡江︒元帝命為軍諮祭酒︒﹂とみえてい

る︒しかし︑このような例は︑元帝と江北︑江南人士とのつながりを見

る上には必要がないので省いてある︒従って︑この表が非常に不完全な

(4)

東晋初頭政権の性格の一考察

ものであることは認めるが︑しかしこれによっても︑当時の大体の形勢

を察するに不充分とは思えない︒表によるに︑北人四十六名︑南面三十

一名︑不明一名で計七十八名であるから︑絶対数からみれば︑北人が多

いのはいうまでもないが︑南人必ずしも少くはなく︑ことに︑肥人の中

には後に有力官僚となることもない為に︑列伝中に記される機を失した

人々がより多かったのではないかと想像されることから璽︑言挙周辺

僚属の絶対数は南人︑北人にそれほどの差はなかったと考えても差支え

ないのではなかろうか︒

二︑表皿について

 この表によるに︑皆人では狼邪出身が最も人員が多く︑頴川がこれに

つぎ︑他は各地からであるが︑矢張り中原地帯が多いことは否めない︒

併し︑太原︑田地の如き北支那にも及ぶ広範囲に亘るものであった︒

 南人では︑会稽︑呉︑月陽︑義興等が人員的に著しく︑北方との境界

線上の無糖から揚子江上流長沙に及ぶ広範囲に亘るものである︒しかし︑矢張り新都建康を中心とする揚子江下流地帯が中心であった︒但

し︑これらは七十七名についての数字にすぎないので︑ここに現われな

い多くの辺郡からの参加者があったことも予想されるところである︒

 以上によって大観すれば︑中原地帯は難を江東に避け易かった為に︑

その地の有力官僚或は豪族等が︑続々と新政権に参加する機会を得たこ

とが伺われ︑又︑新政権を迎えた江南では︑既に呉朝時代に有力官僚を

多く出した会稽︑呉︑丹二等の地方の有力者達が新政権に協力的であっ

たことが推測される︒

 併し乍ら︑これらの人々を出身氏族別にみれば︑表皿の下段の如く

で︑必ずしも人員の場合における如き偏りはみられない︒娘邪でさえも

僅かに四という数字にみる如くで︑これは王氏一門の参加者が多かった

為である︵後述表w参照︶︒南人の場合においても︑新都建康の地元丹陽は︑人員

では劣っていても︑氏の数では会稽と共に最も多い方であって︑新政権

と丹陽郡との密看の度合を示している︒即ち︑人員の多い郡が必ずしも 新政権と密着していたと即断はでき難いわけであって︑氏族数を参照することによって︑その地方と新政権との関係を考えねばなるまい︒とすると︑北方では娘邪︑頴川︑陳の地方︑南方では会稽︑丹陽︑それに広陵︑呉の地方が︑より密接なつながりがあったようではあるが︑一般的にいって︑新政権は特にある地域の氏族︑有力者に支持を求めたというよりも︑各地の有力者の協力を得ようとしていたことが罵れるようである︒三︑表皿について この表の数字は︑一人で表記の官職を遷転した場合もあり︑それも亦計数したので実人員数を上廻っている︒さて︑これによって︑晋王となる以前の元帝と︑北人︑南人の結びつきの在り方を察することができよう︒表によれば︑県人︑愚人共に財界︑軍諮祭酒が圧倒的に多いことが注目される︒ 参軍については︑既に宮崎博士の詳説があるので︵説繰血膿翼響噸箪鎌嗣難雛︶説明を省くが︑これらの人々の中には︑勿論正︑行参軍があって諸曹の事務を掌っていたと思われるが︑何れにしても︑建国前の元帝にとっては︑政務的な仕事よりも︑寧ろ純軍事的な意味での必要による招請が多かったであろう︒例えば直書︵76︶王難伝彬の条に︑ コ兀帝導燈南東賊曹参加︑転懸軍参軍︑豫討華論功︑封都塵侯﹂とみえる如く︑参軍には軍事的な行動が要請せられていたものと思われる︒或は又︑元帝の時のことではないが︑晋書︵84︶耳管書伝によれば︑﹁︵謝︶玄以牢之為参軍︑領精鋭為前鋒︑百戦百勝︑号為北府兵﹂とも見えている︒而もこの参軍が最も多人数であったことは︑その必要性とからみ合って︑軍事能力のある者が招請されたであろうと推測できよう︒ いま︑初めに前軍として元締に招請されたことの明かな人々についてみるに︑

北⊥王紆︑王彬︑劉胤︑孔衡︑周嵩︑回気︑羊曼︑夏侯承

(5)

冨⊥高怪︑口口︑一閲︑陸図︑口回︑三四︑任旭︑周訪八名

 となっている︒いま︑これらの人々の軍事能力的な面について考える

に︑ 先ず︑黒人については︑呼野︑王彬は共に狼邪王氏に属するが︑一生

を武将として過した人々である︵購撚証鋼鼻唄︒︶︒劉胤も亦武将としての一

生を送っている骨董︶︒孔衙の場合は︑ ﹁元帝二重安東参軍︒専掌記

室︒書令累積︒而衡毎以称職見知﹂︵緋協︶とある如く︑参軍とはいえ︑

墨黒遊軍として文筆に従ったようである︒彼は孔子二十二世の孫といわ

れ︑学者として知られていた︵阯︶︒周嵩は︑﹁猜掌篇侠︒毎以才気陵

物︒﹂︵不退認︶といわれる如く︑才気ある任侠の人物であったようで︑こ

れを彼が用いられた所以であろう︒玩孚は︑ ﹁元帝以為安東参軍︒蓬髪

飲酒︒不以王妃嬰心︒﹂︵階灘︶とある如く︑元来浮華の徒であったらし

いが︑ ﹁転丞相従事中郎︒終日酪縦︒恒為有司所按︒帝毎優容之︒・・

嘗手金 墨髭︒復為所司弾劾︒帝宥之︒﹂︵世とある如く︑元帝は常に

これを許している︒このことは︑ ﹁二上薬用申韓以救世︒而孚之徒︒未

除棄也︒﹂とある如く︑帝は後に刑名の術を以て政治をなしたこと例え

ば庚亮伝馬書︶に︑ ﹁時帝方任刑法︒以童子賜皇太子︒亮諫以申韓刻薄

傷化︒不足留聖心︒太子甚納焉︒﹂とある如くであったが︑初めは︑

﹁初鎮江東︒頗以酒廃事︒﹂藷製︶といわれた帝であるので︑なお

孚の如き徒輩に対して愛着を感じていたのであろう︒従って︑彼の.参軍

たりし事には︑軍事能力は始めから期待されていなかったとしなければ

なるまい︒次に羊曼については︑ ﹁任達定量︒好飲酒︒﹂︵晋書49羊二丁︶といわ

れる如く︑任達の士であったらしいが︑その親しい友人には温嬌︑庚亮

等があったというし︵阯︶︑又︑蘇峻の乱には前将軍として出陣して戦死

している︵上同︶ことからみて︑院孚の如きとは異って︑識見もあり︑将才

もあった人物と考えねばなるまい︒

 以上北人については︑その個人的活動について考え︑彼等の出自につ

東晋初頭政権の性格の一考察 いては別に考察しなかった︒それは彼等が︑流寓の人々であるが故に︑仮令郷里において長門であったとしても︑それは直ちに江南における軍事能力として生きてくるわけではないからである︒即ち︑軍事能力を考える場合には︑北人についてみた個人的能力の外に︑その背後にある一族の軍事能力もあった筈であるから︑次に南瓦について考える場合には︑この点についての考察も併せて行なってみよう︒ 前述南人のうち︑最も少く見つもっても︑顧衆s陸玩︑孔愉︑虞預︑任旭の五器︑即ち八名中五名については︑単に個人的能力のみならず︑その一族の地方における社会的勢威︑ひいてはその出身地を基盤とする軍事能力について注目すべきである︒何故ならこれらの人々は︑その出身地方における名門であり︑その故に相当の軍事力を確保し得たと思われるからである︒ 先ず︑顧氏についてみるに︑三業はその伝︵環.︶によれば︑一生を主として武人として生活したようで︑そのことから個人的な軍事的才能については疑いないところであろう︒この顧氏が呉郡の名門であることは︑彼が豊栄の一門であることによっても明かであるが︵齢繁嘲錆陥官︶︑男衆伝によってみるも︑蘇峻の反の時︑ ﹁王師敗績︒衆興国︒潜図義挙︒時呉国内史庚泳奔干会稽︒峻以察誤代之︒⁝⁝直直遣郎中造機告誤日︒衆己 む  む合家兵︒待時而奮︒又与張想早期敷節︒誤乃立衆為本国督早手威将軍︒ ⁝呉中人士︒同時響応︒﹂とその行動について記している如く︑呉郡の義軍の中心として活動している︒その彼の活動の支えとなっていたものは彼の家門であったであろう︒このような︑軍事活動を起しうる手兵︑又呉郡を統一しうる社会的勢望︑このようなものが顧氏の場合には見られるのである︒ 次に陸氏についてみるに︑西里時代の陸機︑陸雲の一門で.︑呉朝の名門︑呉楽随一の大族であることはいうまでもない藤灘邸参照︶︒この陸玩に関して︑ ﹁時王導初至江左︒思結人情︒請婚儀玩︒﹂廃囎聞︶とある記事は有名な記事であるが︑これによっても当時の江南における下下の社会

(6)

東晋初頭政権の性格ので考察

的勢望を察することができよう︒玩自身としては︑その後殆ど文臣とし

て活動しているから︵阯︶︑総軍となったのは単なる本人の軍事能力或は

事務処理能力よりも︑その社会的地位に期待がかけられていたものと考

えられる︒

 次に孔氏についてみるに︑愉は殆ど中央官僚としての生活を送ってお

り︑戦乱に際しての活躍は見られない︒併し︑この家は世々呉朝の官僚

として会稽の名門であった徳灘︶︒彼が参軍に招請された時のことにつ

いて︑彼の伝には︑﹁信著郷里︒後忽捨去︒皆謂為神人︒而為之立町︒

永下中︒元帝特写安東将軍鎮揚土︒命営為参軍︒邦多古求︒即知所在︒﹂

と伝えている︒これは彼が郷里の崇敬をうけていたことを物語るもので

あるが︑他面︑行不明衛の人物を参軍に召そうとした元帝の意図は︑単

なる愉の個人的才能ではなく︑その社会的地位に期待するものがあった

からに相違ない︒

 次に三主についてみるに︑これは会稽虞潭と同族で︑会稽余者の豪族

であった︵平繍籍舘噸辮塊.︶︒預は︑元手に丞相行参議所記室として用

いられた後は︑殆ど文臣︑特に著作関係の任にあって︑軍事的には働い

ていない︒しかし乍ら︑その一門は︑﹁会王妃︑沈充等軸逼京都︒︵虞︶

潭遂於本県︒招合宗人及郡中大姓︒共起義軍︒衆以数万︒自仮明威将

軍︒乃三雲国難︒﹂︵一声齢︶とある如く︑里中の豪族達を糾合するだけの

実力を有していたのであるから︑安東従事中郎諸葛恢︑参軍庚亮等が彼

を元帝に推薦したのは︵蔚臨︶︑単に彼の文筆の才があるといったことに

止まる筈がない︒とすれば︑それは必ずや︑その一族の社会的地位の故

であったと見るの外はない︒

 次に任氏についてみるに︑その伝︵司書94︶によれば︑旭は遂に固辞して参

軍にはならなかったのであるが︑元帝が彼を召したことについて︑ ﹁尋

天下大乱︒陳製作逆︒江東名豪︒並見霧繁︒惟長与工場︒早死不縁︒敏

卒不能屈︒元帝初鎮江東︒聞重星︒身為参軍︒﹂と見えている︒陳敏の

反の時の旦ハ体的な様子は不明であるが︑任旭が配膳の勢力をはねつけう るだけの実力を郷党でもっていたことを証するものであろうか︒彼が臨海郡の有力一門であったことは︑太守が彼を重曹にあげ︑又彼が西春時代に州郡によって郡中正にあげられたことでも明かであろう藷瀦樹︶︒とすれば︑元帝が彼を召したのは︑そのような社会的背景を考慮した上でのことであったといってよかろうゆ さて︑これら以外の︑高野︑猛悪︑黒鳥についてはどうであったろうか︒晋書︵﹈7︶高山松伝によれば︐山松の父浬は江州刺史華軟の吏であったが︑轍が手書に翻せられて敗れるに及んで戟の子をかくまっていたが︑赦にあって出てきて参軍に召され︑遂に丹陽サに至ったという︒これだけではどのような意味で参軍に召されたかは明かでないが︑恐らくは個人的な才能を見込まれたものであろう︒ 乱費はその伝︵臨書︶によれば︑丹陽の人︑呉の倍率将軍浜唄の子孫である︒張昭及その子承が︑元来江北彰城の人でありながら南下して︑呉朝の有力官僚家となり︑孫氏政権の支えとなったことは︑呉志︵7︶張昭伝に明かである︒従って︑黒氏は丹陽に落ちつくことによって完全に呉人としての名門となった筈であるけれども︑この聞に及んだ頃に︑どのような社会的勢力をもっていたかについては明かでない︒彼を元帝に薦めたのは太常醇兼であったが︑その時のことについて︑ ﹁写影粒界進之於元帝︒言間才幹貞固︒当今之良器︒﹂︵議既︶と伝えているところでは︑専らその人物についての如くであるが︑併し︑社会的地位がなかったわけではなかろう︒彼はその後︑文武何れにも活動しているので︑或は個人的な軍事的能力も認められていたものであろうか︒ 最後に周訪についてみるに︑その伝︵晋書58周訪伝︶によれば︑彼は元来は汝南の周氏であったが︑漢末から難を避けて呉に仕えたようであり︑当時は盧江尋陽にあった︒代々将軍の家であり︑周訪自身も聖帝の参軍となった以後︑専ら武人として活躍し︑遂に東郊の名将といわれるほどであった︒従って︑訪が召されたのは︑恐らくはその個人的軍事能力の故かと

も考えられるが︑併し︑世々武将の家であったのだから︑その家の社会

(7)

的声価が考慮されなかったともいえないであろう︒

 さて︑以上の如く考えてみるに︑北人の場合は︑その個人的︑軍事的

能力︑或は事務処理能力︑或は個人的な親しさ等種々の場合があったとしても︑軍事的にみれば個人の能力が重んぜられたと考えられるのに対

し︑半人の場合は︑勿論周訪︑顧衆にみる如く︑そのようなものも期待

されなかったわけではないにしても︐その背後にある社会的勢望︑在地

的な軍事能力等が考慮されていたであろうことは疑いない︒例えば︑表

彰の数字をみるに︑紅軍の数は北人が相当に多いに拘らず︑この初任に

おいて︑寧ろ南人の方が多いのであって︑このことは︑参軍の招請が単

なる個人的軍事能力のみではなく︑江南豪族の軍事能力の利用という意

味を含んでいたことを推察せしめるであろう︒

 さて︑次に︑同じく表彰の軍諮祭酒についてみるに︑祭酒というの

は︑宋書︵39︶百官豊里によれば︑ ﹁祭酒晋官也︒漢呉王善導劉氏祭

酒︒夫祭杞以酒為本︒長者主之︒故主祭酒為称︒漢之侍中︑魏半語騎常

侍︒高功者拉為祭酒焉︒公府祭酒蓋忌避名也︒﹂とある︒祭酒がそうい

う意味だとすれば︑公府の祭酒も相当地位の高いものであったに相違な

い︒勿論︑元帝府の祭酒にも︑東閣祭酒︵嬬麟︶︑西翠祭酒我醜︶︑儒林

祭酒︵剛者飢杜夷伝︶等があったが︑ここでは一番多数の︑而も一一政権樹立に最

も関係ありと思われる軍諮祭酒のみを問題としたい︒

 いま︑軍士祭酒の地位についてみるに︑上端伝︵環.︶彬の条に︑ ﹁元帝

引高鎮東賊曹参軍︒転典軍参軍︒⁝⁝転軍諮祭酒︒﹂とみえており︑或

は前掲︑誰王承︑汝雨王祐が江南に来った時︑先ず軍刀祭酒に輔せられ

たこと等からみるに︑参軍より一段上位にあったものであろう︒そのこ

とに関連して︑戦書︵39︶百官志上に︑ ﹁其参軍則有諮議参軍二人︒主

調議事︒晋難路初章︒因軍諮祭酒也︒﹂とあるものを参照すべきであろ

う︒即ち︑江左において初めて置かれた諮議参軍は︑一般の正行上智と

は別格の上位にあったのであるが︵宮崎博士﹁九品官人法の研究﹂第二編第三章前掲節︶︑その諮翌冬軍はこ

の黙思祭酒が変化したものであるというのであろう︒勿論︑胡馬輔之伝

東晋初頭政権の性格の一考察 ︵憶︶によるに︑ ﹁元帝国為安東将軍諮議祭酒︒﹂とみえており︑別に諮議祭酒になるものもあったという︒然らば︑恐らくは︑玉垣祭酒がすぐに諮議誓文に変化したのではなくて︑再挙祭酒の中に諮議祭酒が設けられ︑それが雪避上野となったと考えられそうである︒然るに︑晋書︵44︶盧領曳航の条によれば︑志は西晋末成都王穎に召されて︑﹁以志為諮議参軍︒﹂とある︒すると西晋末既に諮議参軍は有在したことになり︑宋書百官志に﹁江標置置﹂というのは誤っているとせねばなるまい︒それはとも角として︑多︑の諮議参軍と同格と考えられる軍諮祭酒は一般参軍より上位にあったものと考えられる︒ では︑軍諮祭酒とはどのような仕事に従ったものであろうか︒その名称からみても︑これが軍事関係のものであることは間違いあるまい︒而も漢︑魏で侍中︑散騎常侍の如き職掌の者が祭酒となったとすると︑それらは天子側近の相談役といってもよいのであるから︑軍諮祭酒は恐らく︑金聾政治の顧問役︑相談役−特に東晋初頭では軍事的な面における一という如き地位ではなかったであろうか︒そのことは︑軍諮祭酒として元帝に仕えた人達をみても大体納得できそうである︒いま︑元帝の府において軍諮祭酒になった主な人物をあげれば次の如くである︒痔︒脚酬︒︒鄭瓢沿︒鱒︒︒譜

○   ○ ○ ○諮鵬三論偲甫調

講 強 黙 穂 裾 茜 猷丁重聡醸

回D

 この表をみるに︑参軍の表と合致する人々もいるし︑一族である人々

も多い︒併し︑概してこちらの顔ぶれの方が豪華である︒即ち︑当時元帝周辺にあった人々の中でも︑一流の人物が任ぜられた感がある︒この

ことは︑この軍記祭酒の地位が極めて重視されていたことを裏書きする

ものであろう︒

 更に男惚の場合と比べて著しいことは︑初任の数は北人が圧倒的に多

(8)

東晋初頭政権の性格の一考察

いことである︒参軍では絶対数の少い南山は︑野人とその初任において

変らなかったのに︑ここでは南人初任は僅かばかりである︒このこと

は︑参軍が直接︑軍事能力︵個人的或は一族として︶につながるもので

あったことを考えれば︑軍諮祭酒は寧ろそれらを動かしてゆく軍事的な

指導の立場︑即ち元帝の顧問的な立場にあったことを推察せしめるもの

ではなかろうか︒

 表皿については︑なお従事中郎について説明しておくべきであろう︒

従事中郎は参軍の上にあって元帝府十日を分掌するものであったようで

あるが練摺鵜上官︶︑元帝府の従事中郎の中には︑選挙を掌ったものもあっ

たようである︒勿論表皿にみえる北人十︑南人三の従事中郎すべてがそ

うであったとは考えられないが︑例えば︑一書︵m︶祖約伝をみるに︑

﹁後転従事中郎︒典選挙︒⁝⁝司直劉院劾之日︒約幸荷殊寵︒顕位選

曹︒錠衡人物︒﹂とみえ︑晋書︵70︶下壷伝には︑ ﹁元帝鎮建鄭︒召為

従事中郎︒委譲選挙︒甚三親佼︒﹂とみえているところによれば︑従事

中郎の或るものは選挙を掌る仲々の要職であったようである︒而もこの

頃の元帝府は既に事実上の東晋政権であり︑その成立途上にあったとい

えるから︑その任務は平穏無事の時代の選挙とは異って︑特に重大であったといわねばなるまい︒その故にこそ︑祖約︑山卜壷が殊寵を荷うとい

われ︑親佼せられた所以であろう︒然るに︑その従事中郎に限って︑前

表にみる如く︑北人就任の比重は頗る大であったようである︒勿論︑こ

れらの人々がすべて選挙を掌ったか否かは明かでないにしても︑選挙に

従ったことの明かな祖約︑†壺二人共に北人であることは︑南人の招請

が北人に比してそれほど人員的には劣っていたとは考えられないに拘ら

ず︑矢張りその底には北人重視の元帝の気持がみられるのではなかろう

か︒

さて︑次に表W︑表Vを示そう︒ 表W北人

一關万王氏覧 出自︵聾議官世系毒照︶︒

別派   雄 一・⊥圏一・⊥國一○⊥圖i・±團    囮一・圏

  又⊥選一

穎川  ○荷氏 島一極

一望一・声影 ⊥圏⊥園

⊥細

⊥遡⊥貯

蓄山窟羊氏衙−・壷

陳留 ○玩氏

陳  ○陳氏 煕歳⊥圖訴⊥圏 ・費欽熱⊥囹・薯氏観⊥國

○劉氏

○魚町

○虜氏 純一 弘i和⊥副

箪○壷⊥矧

  」⊥亮

  

@別冊⊥關

○張氏華毒⊥輿

⊥國・胡母氏原⊥下鞍﹁

  圃  

E甕箏克⊥国

・養別派國 ・江氏允⊥圖

(9)

副一

一汝

圓塑爾國

一訓一

圃圏

一太 一河

蘭﹇

南人

一会

・蔑甲弼⊥圖

・夏侯氏淳⊥國

・劉氏圃 ・王氏

︒周氏斐一凌ゴ馳

・孔氏文−銃⊥回

  

@ ハ派團﹈

︒下上統﹇晶

・劉氏理るi砥⊥囲

・光氏国・昆恭夜⊥国

・王氏三三⊥国

・輩徽康⊥圓

○傅氏玄成⊥園

○賀一景廓⊥障

○虞氏甲忠⊥圖

東晋初頭政権の性格の一考察 基振⊥國別派黙−佑⊥国別派 察

⊥園﹈⊥國    ○孔氏   ○丁氏呉  ○顧氏   ○陸氏

闘圖﹇圃﹈ ○張氏○紀氏○蘇氏

○周氏

圓潤○千丁 準竿浩⊥回甲彌⊥囲

雍−裕⊥困

瑠i英■亟

  

@ 

 〒隣⊥囲

綜坐⊥園処±囲⊥國

  

│靖⊥国

  ロ國

纂−敏⊥岡T﹇園

關す高氏狸

    ○華氏 融i講−1輝

團﹇・驚甲・⊥細

図回・王氏溶⊥團 別派悌一秘⊥囲○張氏甲○る⊥副−○葛氏嘉⊥圏

○杜氏一三i夷

︒戴氏烈一匹

(10)

東晋初頭政権の性格の一考察

﹇圖・盛

團凹・任氏

闇弱・沈氏

表V

 北人 一哩

訪⊥旭

元帝時代︵推定を含む︶の活動

︵晋 書︶

王 王 王 三

王 二 王

騨騎大将軍︑司徒︑丞相大将軍︑江州牧尚書僕射︑三軍将軍︑会稽墨黒︑東五郡軍事荊州刺史︑左将軍︑平民将軍前将軍︑江州刺史︑尚書右僕射元帝府軍諮祭酒豫章太守︑広武将軍侍中︑国子祭酒吏部尚書︑尚書令左衛将軍︑右衛将軍侍中太常︑尚書侍中︑尚書御史中丞︑侍中会稽太守︑丞相諮祭酒邑智︑司徒︑揚州刺史給事中光禄大夫 年毎江

65 98 76 76

43 76

43 88

70 77

39

70 93 73

62 92

本  伝

本  伝

本  伝本  伝一二伝王戎伝王戎伝

本  伝

本  伝

本  伝二筋伝

   右本  伝

本  伝

本  伝

心  伝祖遡伝

周 王

雷 同

胡母輔之

輿

豫州刺史︑鎮西将軍侍中︑豫州刺史︑鎮西将軍太子舎人丹陽弄︑前将軍慮陵太守揚武将︑湘州刺史吏部尚書︑丹陽罪︑鎮南将軍広州刺史掌吏部︐太伝︑司空︑司徒天門太守︑上州刺史鎮東従事中郎平北将軍︐山州刺史南平太守︑散騎賞侍平南将軍都督江州諸軍事鎮東将軍祭酒吏部尚書︑尚書左僕射︑護軍将軍御史中黒広陵太守太子左衛率吏部尚書︑領軍将軍︑尚書令安南将軍︑広州刺史丹陽罪︑鎮北将軍都督青徐幽平四州軍事給事中尚書左僕射︑尚書令鎮東府従事中郎大将軍参軍使持節都督揚州江西准北諸軍事︑東中郎

鎮東従事中郎

(11)

南人

︵晋 書︶

孔 丁

  循  潭  喜  預  愉  潭  栄  衆  曄  玩  茂  膿  兼  闘  洪  祀  札  訪  撫  夷  埋

若 思 申書令︑太常︑行太子太傅会稽内史︑侍中衛将軍不上巴騎常色尚書僕射︑鎮軍将軍︑会稽内史廷尉︑左光禄大夫領国子祭酒安東軍司馬加散骨常侍丹陽罪︑侍中︑尚書僕射領軍将軍︑録尚書事︑野羊軍吏部尚書令︑尚書令︑細動太子右衛率︑呉興内史尚書右僕射︑瞭騎将軍丹陽弄︑尚書領太子少傅廷尉︑金紫光巨大夫散騎常旧領大著作一興太守︑建武将軍南郡太守冠軍将軍都督会稽請求義興晋陵東陽軍事右将軍都督石頭水陸軍事丞相橡安南将軍房州刺史鎮西将軍国子祭酒丹陽罪秘書豊丹陽弄︑尚書僕射

征西将軍︑瞭騎将軍

76 68

91 82 78 78

76 68

77 77

68 78

68

72 76

69 58

58 58 58

58 58

91 71 52

69 69

伝 伝 伝 伝 伝

陸曄伝

周訪伝 周訪伝 周処伝 周処 周処 劉陣 周処

本  伝高子伝

本  伝戴若思伝

本  伝

伝 伝

東晋初頭政権の性格の一考察

熊 王

侍中︑会稽内史永興令︑大将軍参軍三王承司馬拝侍中︑不三

元帝府参軍

71 71 89

68 94

本  伝

本  伝一一伝

本  伝二刀伝

 さて︑ここにあげた表Wをみるに︑ここでは表皿にあげた数字の内容

が明かとなる︒ 北人の場合︑娘邪や頴川が特に多かったのは︑狼邪王氏︑頴川の葡

氏︑庚氏の如きが︑一門にして二︑三層或は六名という多数の人々を出

したからである︒又︑江南でも︑最も多い会稽には高名を出した虞氏が

あり︑呉闇顧氏︑陸氏が夫々二名つつを出し︑義興の四名は周氏のみ

である︒従って︑家としてみた時は︑表皿の下段にみる如き数字とな

る︒ さて︑この表によって北人の出自についてみるに︑必ずしも西晋時代

の有力官僚家を網羅しているわけではない︒これらの家々の中︑西晋時

代相当の高級官僚家であったと見らるべきは︑狼邪王氏︑頴川摂氏︑萢

丁張氏︑泰山羊氏︑済陰下氏︑太原王氏︑何東野氏︑北地傅氏の如きで

あろうか︒これに対して︑全くの寒門と目さるべき人々もあるので︑泰

山胡乱氏︑陳の陳氏︑楽安光氏の如きはそうであろう︒その他の人々

は︑地方では名門であるが中央では寒門と見られた高子祖氏の如き︑或

は漢魏では栄えたが西晋では衰えてきた陳郡衰氏︑而もこの場合の誘は

衰氏の主流ではないらしい︹難鞠難官︶︒或は松見以降は大いに栄えたが

西晋までは平凡な官僚家に過ぎなかった頴川庚氏︑謙郡黒氏の如き︑前

述二者の中間層とも見らるべき人々があった︒

 次に三人についてみるに︑南人の多くは西晋においては不遇であった

ことは周知の如くであるから︑出来る限り呉朝に遡って考えてみるに︑

会稽賀氏︑同じく三三︑呉の三二︑同じく陸氏︑丹陽紀氏︑同じく蘇

(12)

東晋初頭政権の性格の一考察

氏︑同じく張氏︑広陵華氏の如きは呉朝の有力官僚家であったようで

︵難鞠灘︶︑同時に地方の豪門であった家も多かったであろう︵難薇麓誉︶︒

更に︑会稽黒氏︑義興周氏︑呉興黒氏の如きは︑夫々相当な官僚家であ

りながら︑豪族性の強い一族であったことは明かである︹識懸噂黙町麗

翫嬉嬉綱鍵照伝︶︒これらに対して全くの寒門とみるべきは︑豫章の熊氏に

すぎなかったようである︒

 こうみてくると︑南北人を通じて︑有力官僚家から全くの寒門出身者

まで︑あらゆる階層の人々が元帝の周辺に集められたことが明かであ

る︒勿論︑眠人の場合について考えれば︑たまたま早く南下できた人々

が集められたということもあったであろうが︑南人においては︑社会的

勢力のある家に属する者に重点がおかれた如くではある︒しかし︑それ

と共に︑ほぼ北入と同様に名門から寒門まであったことをみれば︑遍く

人材を集めるという上帝の基本的な考え方が︑このような組み合せを生

んだと考えられよう︒

 以上のことは︑南人においては︑この表にあげた人物の外に︑恐らく

はもっと多くの人士が元帝の周辺に召されたであろうことによっても裏

付けられた︒例えば晋書︵68︶顧栄伝に︑﹁時南土之士︒未尽民用︒栄

罵言.陸士光︑貞正清貴︒⁝⁝藤壷思︑忠虫尽誠︒⁝⁝毅慶元︑質略有

明規︑⁝⁝栄族兄公許明亮守節︒⁝⁝会稽雨止明︑謝行言口皆苗圃儒教︒

⁝⁝賀圧況潜青雲Z士︑陶恭允弟.才幹雛少︒実事極佳︑凡此諮人皆南

金也︑書奏皆納之︑﹂とみえているところでも明かであり︑或は晋書

︵70︶山面溶血によれば︑明常が東甲郎将であった元常即位削の時代に︑

山子壺の上癸の一節に︑﹁江東甲郎岐疑目今︑神明目茂︑軍司馬諸参佐︒

並以明徳亘唐土事︑壺Z去留︑曽無損益.老馬︐謝端︑顧景.丁深︑傅

影野皆荷恩爺︑高枕家門︑云々﹂と述べているが︑これら明帝周辺の人

々は元常周辺にあったのではないが︑これらの人々が元詰によって高選

された人々であったことは下立伝によって明かであるので︑従って彼等

は︒形式附には明布周辺にあったとはいえ︑結局東晋初頭政権の周辺に あったわけである︒而もこれらの人々の中︑北人は僅かに下壷自身及び北地の傅驕︵雌繊鞠鋸下官︶にすぎず︑他は皆里人であったのである︒・ このようにみれば︑表耳にはみえない多くの南士が元帝周辺にあった

ことが明かであろう︒いまあげた人々の中︑陸士光は陸曄であり︒賀生

は寒苦であろう︒この選入は表にみえるが︑他は表Wにみえぬだけでな

く︑甘季思即ち甘卓以外は列伝もない︒従って︑彼等がどのような出自

の者か︑元帝とどのような関係にあったかを知ることは仲春困難である

が︑ 一応の説明を試みよう︒

 股掌元については不明︑顧公譲は顧謙で勿論顧栄の一門︵魚藻臼二世︶︑

楊彦明は或は会稽楊方︵晋竹田本伝︶の一門であろうか︑謝行言は会稽黒影︵通日82︶

の一門たること間違いあるまい︒陶窯兄弟というは︑丹陽の陶回︵翻写齢

寒冒測吸動耀日︶の一門であろう︒謝端は会稽謝氏に属するが︵撫鋸田官︶︑顧景

は恐らく粗景の一門であろうし︑慢罵は会稽丁潭︵籍鴨︶の一門であろ

う︒ これらの人々は︑元帝との間に︑豫属或は参軍という形での関係をもったことがないとはいえない︒勿論︑列伝を有する甘卓も表Wにみえな

いのによれば︑そう考えるのは早計の如くでもあるが︑甘露の伝︵糖書︶に

よれば︑彼は初めから元帝にその武略を認められて︑前立都督揚威将軍

歴陽内史として活躍したのであって︑その故に元帝の周辺にあって表W

にのる如き官職につく暇がなかったのであろう︒併し︑その伝に記事が

見えないからといって︑必ずしも参軍︑軍略祭酒等にならなかったとも

いえないことは︑例えば周鑓は機雷伝︵噸.︶によれば︑元帝の従事中郎と

なったこと明かであるのに︑その伝露灘網処︶にはそのような記述はなさ

れていないことでも明かである︒ましてや︑その後の事情によって列伝

にのせられていない人々については何とも明言できないとはいえ︑橡属

や参軍として彼等が元帝の周辺に嘗てあったであろう可能性は充分に考

えられるわけである︒従って︑表工の条で言及した如く︑表1における

南人の数は︑実はもっと多かったと考え得るし︑更に又︑表Wにみえな

(13)

い会稽の名族誓言︑丹陽の名門甘氏︑陶氏の如きも︑欧︑陸︑賀︑丁め

諸等と土風に︑青馬周辺にあって東晋政権樹立への一翼を担ったと考えて

差支えないであろう︒

 このように︑南入の側においては︑揚子江下流域の呉朝以来の名門︑

豪族が殆ど元帝周辺に招請されたということは注目すべきである︒それ

は一面では︑元帝が江南のあらゆる有力者の支持を確保しようとしたこ

とを示すものであろう︒そのことは例えば︑元帝紀︵唖︑︶建武元年七月の

条に︑ ﹁散騎侍郎朱嵩︑尚書鎧着清客︒帝場之︒将為挙哀︒有司奏︒旧

尚書郎不在挙哀之例︒帝日︒衰乱世弊︒特相痛悼︒於是是挙哀︒実之甚

働︒﹂と見えているが︑この四球は呉郡顧栄の一門に間違いなかろう

か︒朱氏は︑畢生︑浦︑晋陵︑安陸等出身の諸氏があるが︵庇羅霧灘縣薇映︶

どこの朱墨に属するか明かでない︒併し︑或は朱陸蘇張と呼ばれた呉郡

の朱氏ではなかったであろうか︒何れにしても︑顧球が呉郡の黒氏と推

定されるとした時︑尚書郎は挙哀の例に非ずとして反対した有司の意見

をおし切って挙哀した元帝の意図は何処にあったのであろうか︒帝の挙

哀の理由は︑単に︑ ﹁衰乱之弊︒特写痛悼︒﹂という誠にはっきりしな

い理由にすぎない︒そのような理由ならば︑如何なる官僚の死亡にも挙哀しなければならないような争乱のつづいた時代である︒然るに︑この

事件が特に本紀に記載されているのは︑それが当時としては特例に属す

る事柄であったからであろう︒とすれば︑元帝のつけた理由は表面的な

理由であって︑真の理由はもっと外のところに︑即ち︑これらの人々の

為に挙哀することによって江南人士の心をつかもうとするところにあっ

たのではなかろうか︒

 このような江南人心収擁策によって江南名族豪門が網羅されたこと

は︑反面これを江南人士側からみれば︑彼等が大体において積極的に新

政権樹立に参加したことを意味しよう︒例えば江南人の代表的人物の一

人たる紀要が︑王畿と共に西翠に即位をすすめた時のことを︑晋書︵68︶

の彼の伝には︑ ﹁帝猶不許︒使殿中将軍韓績野鼠御坐︒謄叱半日︒帝坐

東晋初頭政権の性格の一考察 上音星宿︒敢響動者斬︒帝為之改容︒﹂と記しているが︑この紀謄の態度は︑当時の江南人士の新政権に期待する気持を示すものと考えてよかyつ︒ 次に表Vについてみよう︒この表は各人の元帝時代における主要経歴

︵舗警︶を記したもので︑東晋初頭の新政権と︑どのような結びつきをし

たかを主眼として記した︒従って︑仮に︑﹁侍中︑尚書﹂とあるとき

は︑専ら内官ばかりで外官或は戦闘従事はなかったとするものではない

が︑主として内官にして中央政治に参加したもので︑他は問題とするに

足らぬという如き意味の記載の仕方である︒

 いま︑この表によって北人︑偉人の︑東晋初頭政権との関係をみる

に︑北人では王導を始めとして劉醜︑コ協︑下壺︑諸葛恢︑顔含︑葡

遼︑落間︑庚亮等中央政務に従った人々が圧倒的に多く︑軍事面で活動

したのは︑王氏一族の敦︑鎌︑屡︑彬︑祖国︼族の逐︑約︑それに桓宣

の如きに過ぎない︒

 ところが黒人では︑主として中央政務に従った者は︑賀循︑顧栄︑陸曄︑陸玩︑紀謄︑醇兼︑語漏等可なりの数があるのであるが︑併し︑軍

事的活動に従った者は虞潭︑顧衆︑周処一族の記︑鑓︑札︑盧江の周智︐戴若思等があって凝脂に比して多く︑概括的に言えば︑政治的には

懸人が有力であった如くであるが︑軍事的には異人が東晋政権の支柱で

あった如くである︒

 而も︑軍事面で北人の中心であった王敦は︑その一族王戻︑王彬並に

祖約等と手爪に︑必ずしも東晋政権に忠実でなかったことは明かな事実で

ある︵殿嘘蕪翫観線端王︶︒勿論︑南入でも周妃︑周札等は必ずしも御し易い

人々ではなかったが︑併し︑周珀が企てたとされる陰謀は︑ ﹁四時中州

人士︒佐佑王業︒登記法以為不得調︒内懐怨望︒奥耳弓協軽之︒恥辱愈

甚︒時鎮東将軍祭酒特技王恢亦為周顕所侮︒乃父珀陰謀詠諸執政︒推妃

及戴若思︒与諸南興業聖帝︒以経緯世事︒﹂︵江上姻処︶︑と記されている

如く︑元肥をとり巻く執政者に対する反感こそあれ︑元帝その人に対し 13

参照

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