マ ツ ク ス
・ ウ エ ー バ ー の 宗 教 社 會 學 重藤
威 夫
序
近代資本主義にせよ︑近代科学或は叉議会制変を中心とする近代的合理国家にせよ何れも欧洲の近代社会を地盤と
して
発達
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もの
であ
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西洋にのみ特有の現象であり︑それらを近代の東洋社会に於ける諸現象と比較する場合に著るしい相違が見出される︒
ウユー云Iにとって彼の学問的研究の根本問題の一法︑何故にか上る現象が西洋にのみ現われたであるうかとゆうこ
との解明でぁった︒彼の宗教社会論集の序言には次の如く述べている㍗ ﹁世界史的問題を研究せんとする場合に︑近
代欧洲文化の所産を採㌣上げんとする限り︑必すや次の間題が当然起って来る︒即ち︑吾人の信するところによれば︑
ヽ ヽ ヽ ヽ
.
欧洲の地盤に︑叉そこ匿のみ世界史的意義を有し乍ら発展し来った文化諸現象があらわれたとゆうことは︑如何なる
理由に基くものであろうか︒如何なる諸事情が綜合等︑かくあらしめたのであろ▼ぅか︑とゆうことである︒﹂・りこれらの近代文化の金領域にわたってこの間題を研究することは︑もとより人間の限られた認識能力を以てしては不可
能のことであって︑そのことは彼自らよく自覚していることであった︒従って︑教の研究は主として西洋に於ける近
代資本主義の経済倫理の問題や.︑東洋社会︵特に中国とインド︶に於ける経済と宗教との関係の問題に限定されていた︒彼のぼう大聖二巻にわたる宗教社会学論集は専らこの間題の解明に集中されたと言ってよい︒
彼はその宗教社会学的研究の当初に︑近代資本主義の経済倫理虻及ぼした治教主義の影響を論じた︒その後︑役は
.儒教︑道教︑印度教︑仏教︑ユダヤ教の世界の六大宗教にわたって︑それらの宗教とそれらが信奉される環境の経済︑
マックス・ウエー.バーの宗教社会学七一
経 営 と 経 済
七
社会状態との関係を研究した︒もとより経済倫理は複雑訟社会学的諮要因の歴史的所産であクて︑一義的に宗教によ
ってのみ規定されるものでわ怠いが︑しかし︑それぞれの宗教がもク実践的倫理が著るしい影響を及ぼすことは明か
である︒それにクいて彼は次のように述べている︒﹁如何なる経済倫理も嘗て単に宗教的にのみ規定された乙とはな
い口それが︑宗教的或はその他(乙の意味に於いての﹀﹁内的な﹄契機に主クて制約された︑世界に対する人間の態
度のすべてに対して︑経済地理的︑歴史的所与性によクて最高度に規定された純粋な自己法則性の量を保有する乙と
は自明のととであるロしかし乍ら︑経済倫理を決定する一クとして
11
単に↓引であるのに注意
ll
生活行動の宗教
的規定とゅうととも存在する︒しかしとの生活行動は勿論他方では︑与えられた地理的︑政治的︑社会的︑国民的限
界内で︑経済的︑政治的誇契機に深く影響されているロとれらの依存関係をすべて個々にわたクて採り上げるととは
渡なき犬海に船出するよう訟ものである︒﹂と︒それ故︑﹁との叙述に於いて問題とするのは︑単に︑その社会屑の生
︑括行動に指針を与える契機︑即ち︑それぞれの宗教の実践的倫理が最も強く規定的K
影響し︑それに最も著しい特︒
徴l
即ち︑との場合︑それを他のもの工り区別し︑同時に経済倫理陀とって重要た特徴ーーを刻印すると乙ろの︑l
その契機を摘出せんと試みるととだけである︒﹂幻
彼は一宗教の特性をもって︑その支持者としての社会屈の社会的状勢の単純た機能と友し︑或は唯物史観に於いて
考えられる工うに︑単にその﹁イデオロギー﹂もしくは︑その物質的叉は観念的た利害関係の﹁反映﹂となす主張に
対して強く反対する︒﹁か
tAる解釈とそ正に本書の立脚地に対する根本的危誤解に外怒らねのである︒﹂と︒﹁経済的
に政治的に制約された社会的諸影響が︑個々の場合に於いて宗教的倫理に如何に深︿及んでいたとしても︑宗教的倫理
は︑第一にその特性を宗教的友源泉から受けとるものである︒特に︑その告知(認可
r E
身ロ品)と契約
2 2 E m m g m M
との内容から口そしてとれがしばしば︑すぐ次の時代に︑教団の必要に適応せんがために︑根本から解釈し変えられた
・としても︑それは通常︑重ねて先づ︑その宗教的必要を充足させんがためであクた口第二段陀いたクて始めて︑他の
利害関係領域が︑もとよりしばしば真に力強く且ク時として決定的に作用するのである︒我えは各宗教に対して︑社
会的に決定力ある鱈の変転が通常深刻注意義を有するととを確信するが︑しかし他面に於いて︑一宗教の一度刻印し
た塑は︑その影響をかたり遠く︑甚だ異質的た諸国の生活行動にまでも及ぼす乙とを確信するものである︒﹂め
伎の宗教社会学的研究の休系的怒る方法論若くはその理想型
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・d吉田)的研究は︑︒
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第三
巻中
の問
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92
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E岳民件)に於いて展開されている︒以下その所論の内
容を紹介する︒
( 註
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第
ニ企2よ誌
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第
節
宗教行峰崎の原始的此岸性
宗教の定義はすべて一の論述の結論として示さるべきであクて︑冒頭にとれを定義するととは困難である︒一般に
宗教の本慣が問題として取り上げられるのでは友くて︑団体行為の一定様式の諸条件や作用が問題となるロ・そしてそ
の理解は佃え人の主観的危休験︑観念︑目的かーら即ち﹁意味﹂(∞Eロ)からのみ得ちるべきマあるロ何とたれば外一叩的た過程は極めて多種多様だからである︒宗教的即ち呪術的に動機づけられた行為は︑その自然のま
tA
たる姿では此
洋的たるものに向けられている︒
宗教的・呪術的行為は﹁汝幸福であり且ク地上に永く生き得んがために﹂遂行さるべきである︒ブエニ奇ヤの海岸諸
都市に見られるような人身御供
2r
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rg
o‑
03
といった工うゑ異常友行為は︑あらゆる天上的目的のために︑犠牲さ
れたわけでは注かクた︒宗教的・呪術的行為は︑その原始的た姿では合理性を最少限度に縮小した行為である︒その
行為は必やしも手段と目的に関する行為ではたいが︑少くとも経験的規則についての行為の意味に於いてである︒一
本の棒か木材から火花を発せしむる工うに︑玄人の呪術師は天から雨を降らぜるのである︒火棒に工って発した火花
マツグス・ウエ1パ1の宗教社会学
七三
経 営 と 経 済
七回
が﹁呪術的﹂産物であると同じく雨乞師の操作に工って生じた雨もか
Lる産物である︒宗教的﹁呪術的﹂行為や思想
は︑日常的注目的行為の範囲から区別さるべきものでは友くて︑その目的それ自体は主として経済的訟ものである︒
現代の自然観照
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苫E
rg or sg m)
の立場から我々はそれら行為の肉果帰鰭(同
SE 22 0E 55
を客観的に﹁正しい
﹂か﹁正しくたい﹂かに区別するだけであクて︑後者は非合理的とされ︑かふる行為は﹁呪術﹂
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止一
呼ば
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呪術的に行為するものそれ自体は現匁の日常性のた小の程度に応じて区別される︒例えば︑すべての愛玩されてい る ︒
る石が物神として使用されるわけではたい︒すべての愛玩されるものが人を悦惚境に入らしめる能力をもつものでは なく︑叉同一作用が人の経験に応じて︑或場合には気象学的様式を生じ︑或は治療法的や占卜的や千里眼的様式を生
やるロマナ
( 5 2 m
・)
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ング
( 0
ロ宕)イラン民放ではマガ(呂田5
mm )( 呪術的)といった上うな特殊た名称が与えられ
ているのは特にかL
る超凡的諸力
ll
必やしもとれのみに限らないが
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に対してである︒とLではかtふる諾力をカ
リスマ(各包gとの名を以て呼ばれ右︒持リスマとは︑その入信き意味では︑或る対象物若くは人に白から備わり︑何
らかのものを通じて得られる上う友ものではないととろの天肢の作一質をゅうのである口叉それは何等かの超凡的た手
段によって人工的に作り出され得るととろのものであり得る︒右のととからもとよりカリスマ的能力はその能力の萌 芽をもたないものからは決して発達するととはないが︑しかしその萌芽を備えていても人がそれを
1
1例えば禁欲
( ﹀m r
g o )
等を通じて
ll
﹁党限﹂せしめ訟い限り︑隠れたまLの状態に止るとゅうととが言い得られるであろう口
あらゆる形式の宗教的恩寵説即ち注がれる恩寵(ぬ
2FE5
こから︑厳格注業に工る義認(弓︒同
52 00 rz nr t)
にい
たるまでのものは未だ萌芽の状態に問ぢ込められている︒か・ふる厳格友自然的(最近では所前プレアニミズム的)観
念は民族宗教性に国骨一泊している︒神に対する山内山拝と単怒る信仰の手段としての聖者像に対する礼拝とは︑すべての宗
教会議の決誌によって区別されている左とろであるが︑その会議の決議すらも︑現代の南欧諸国で見られる工うに聖 者像礼拝以外のすべての操作にもか
L
わらや期待していた御利溢が得られたい場合には聖者像に支を負わせ︑その僚 を唾棄するといクたようなととを看過しているのである
ρ
もF
第 二 節
精
霊
印 ・
11
右の場合︑常に半純な表面的な抽象観念が存在するのそれはカリスマ的性格を有する自然物J芸術作品︑動物︑人
︑︑
︑
問の態度の﹁背後﹂に隠されしかもそれらの態度を決定するととろの本質に対する観念であクて︑精霊信仰
2 2 5 '
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と呼ばれるものである︒﹁精霊﹂は先づ第一に霊魂や庇神℃は注く︑いわんや神では怠いnそれは︑はクき
り定クてい注いーしころの共体的ではあるが︑自に見えない非人間的友ものずあって︑しかも或桓の意欲を備えたとこ
ろの忠考された或ものである︒叉それは具体的な実体にその特定の倒きを与え︑その中にはいりとみ︑そ乙から再び
抜け出して︑何等かの無たるもの或は英他の人間や物にはいり乙計ことができるものである︒精霊が或る媒介物から
抜け出した場合には︑それは使用できたくなり︑それが呪術師から抜け出した場合にはそのカリスマは夫われる︒一
般的な経済上の諸条件が精霊信仰の発達の前提条件と反るとゅうことは証明でき怠いように思われる︒乙の八高野に︑於
けるすべての抽象観念と同様に︑精霊信仰は次の事柄によクて最も強く促進された口それは人間にそたわる﹁呪術的﹂
カリスマは特殊な能力を有つものに聞有のものである乙とと︑それ故そのカリスマが古代のあらゆる職業
( 5 2 r )
の
基礎となり︑又版業的呪術師の基礎となった乙とである白
呪術師は通常人や呪術的概念の意味に於ける﹁世俗人﹂
( E ‑ g )
に比べて︑永くカリスマ的能力を有する人間であ
る︒彼ば特にカりスマをあらわし或はそれを媒介する状態即ち神がかり(﹄
EZ
印︒)の状態にたり得る︒それは﹁営
業﹂
(E
岳)の対象として︑人から依頼されてたり得るものである︒俗人には神がかりは偶然的た現象にすぎない︒E
神がかりが行われる社会的形態は際安
(O
Hm
‑o
)
であるが︑それは宗教的団体構成の萌芽的形式として合理的呪術に対
立する︒叉それは偶然的た行動であクて︑その指導に不可欠の存在である呪術師の継続的な﹁営業﹂に対立するもの
である︒世俗人は日常生活の欲望に対して必要な︑時えの陶酔の場合にのみ神がかり状態を経験するにすぎ注い︒そ
の状態を起すためには︑あらゆるアルコールの飲用や煙草やそれに類似した麻酔剤等すべて原始的た際安目的に役立
クものと共に音楽が使用される︒人がそれらのものを如何に使用するかにクいては︑経済のために精霊を合理的に作
マ押
ノグ
ス・
ウエ
1パ1の宗教社会学
七五
経 蛍 と 経 済
七六
用させることと相並んで︑呪術者の白から殆んどいたるととろに見られると乙ろの秘密教説と怠クた︒技術の対象││
重要ではあるが発展史的には第二次的危ーーがクくられねば段ちたい︒
臨時安状態の経験を基礎として又確かに強い程度に沿いて︑職業的慣行の影響によって︑思想が進歩すると共に﹁霊
魂﹂
225
の観念に到達する︒それは団体によクて相違あるものの本質であクて︑自然物の中に相似た様式で存在
するものと考えられている︒例えば︑それは人間の肉体の中に隠されて居り︑夢︑無力︑陶酔︑死の場合に肉体から
離れ去ると考えられる口かの実体即霊魂は事物の背後にかくれているか或は何等かの形でそれと結合しているのであ
るが︑それが事物に対する種え友る関係の可能性にクいてはこLで述べる乙とはできたい︒霊魂は具体的な対象物や
事象の下に︑或はその内部に︑多少の程度に於て永続的に旦ク独占的に﹁滞在﹂している︒或は逆にそれは特定の事
象と特定の事物或は範時を何等かの形で﹁持ク﹂ことが出来︑又それらの態度や活動を標準的に指導し得る︒乙の事
及び乙れに類する事柄は本来﹁アニミズム的﹂な観念である︒或は又霊魂は︑事物即ち植物︑動物或は人間の中に時
え﹁
化身
﹂
(4 2f
官 官 三 す る
かl
これは一層発展し︑次第に到達した抽象の設初の段階であるl
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或は最後に︑そ
れらの事物を通恥じて﹁象徴化﹂
(4 5Z H2 53
するととが出来る︒乙れは最高の極めて回定する乙とが少い抽象の段
階である︒しかし笠魂自らは何等かの自らの法則に従クて生きているが︑通常日に見え注い実体であると考えられ ている︒それらの中間に勿論多数の過渡的段階と諸結合の段階とがある︒最初に挙げたより単純友抽象の形式を通
じて﹁超感覚的﹂諾力
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‑片
Z
位︒言︒)が原理的に構想される︒その諾力は︑人間がその外因坊の運命に干渉し得Z
るように1人間の運命に干渉することができる︒
第 三 節
超戚魔的諮力の成立
﹁諾えの神﹂や﹁諸島八の魔神﹂は未だとの段階では人格を有するものではなく︑或は恒久的な存在でもない︒叉何等
かの特別注名を有するものですら注い︒或神は個えの具体的事象の成行を支配するカとして酉かれている︒(ユlゼ
ナ
1の
瞬間
神・
吉岡
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円)︒しかしその後乙の問題にクいては何人も取り上げて居らやノ︑乙の後かふる事象が取5
り上げられる場合に再び問題とされるであらう︒逆に神は或英雄の死後何等かの形で英堆から出て行くものである︒
神の観念の人格化或は非人格化とゅうことはその後の行為に際して個唱えの場合に起り得る︒国有の名称を持た宇︑支
配し得る事象に従クてのみ名付けられる諸神があらわれて来ることがある︒その神が一一一口実だけでは理解し符られね場
合に︑その神の表徴は国有名の性格を次第にとるようになる︒或は逆に有力な首領或は予一言者の固有名が神的諸力の
表徴となる乙とがある︒乙の場合神格化された英雄の名前を純粋た神の表徴と注さんがために︑かふる事象から再び
神話や権力が創造される︒或﹁神性﹂の一定の観念が永久的危観念にまで発展し︑叉相似た諾桜会を通じて︑呪術的
或は象徴的手段によクて常に新しく延びて行くかどうかは︑種え相違する状態如何にかふわおであらう︒先づ第一K︑
それは呪術者の呪術的施術或は世俗的主君の人格的愛着が個人的体験を基礎として如何なる形式でそれらの呪術的︑
ゑ徴的手段をとり入れるかとゅう乙とに依存している︒
我えは乙乙に上述したと乙ろの結論として︑一方に於て﹁霊魂﹂︑他方に於いて﹁諸神﹂と﹁魔神﹂﹁超自然的﹂
諾力の成立を論じ︑更にそれらのものの人間に対する関係を系統づけ︑﹁宗教的﹂行勤の世界を完成したければなら
ない巴﹁霊魂﹂は先づ第一に人格的な実体でも4広ければ︑非人権的な実体でもない︒それは極めてしばしば自然物と
配同衰微されるととがある
0
.それらの自然物には死後存在しないものや呼吸或は心臓の脈持等がある︒その中に霊魂
が宿り︑例えばそれらのものを食いクくすととによクて人は敵の勇気を自分のものとすることがでさることがある︒
叉特に霊魂はしばしば統一体でないので︑それは人間を夢の状態の時に離れ去るのであるが︑﹁神がかり﹂ーーその
時は心臓の勤停が高まり︑呼吸があえぐilの時に人間から抜け出るものとは具るのである︒或は又︑それは次のい
ろいろの諸物とも具クて.いる︒例えば︑人の影に往んでいるもの︑死後何等かの形で残存物がある限り︑民の中やそ
の近くに住んでいるもの︑或は従来の楼家にあクて倫何等かの作用を及ぼし乍ら︑相続人達がかクて死者に属してい
たものを如何に享楽しているかを嫉みと怒りとをもクて眺めているもの︑或は子孫達に夢の中でか又は幻影として威
嚇的か忠告的にあらわれるもの︑何らかの動物や他の人間や特に新しく生れた子供の中にはいクて行くことができる
ものーーすべてこれらは祝福としてか或は禍としてかあらわれる︒とれらのうちの一クである︿仏教)がか・ふる観念
マツグス・ウエ1バ1の宗教社会学
七七
経 営 と 経 済
七
J¥、
︿霊魂﹀を拒否するととをこλに問はないにしても︑﹁霊魂﹂を﹁肉体﹂
( M G
号吋)に対立する独立の統一体として構
想する守乙とは︑救済宗教
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耳目
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では決して受け容れられないのである︒
第 四 節
ア‑一ミ見ムス(﹀
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と象徴主義弘可)
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︒一
一自
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﹁超感覚的﹂諸力の人格住や非入格性や超人格性はとの全発展過程に於ける特殊なものでは泣くて︑それは人生に於
いてそとに生起する一つの役割を演宇るのみたら宇︑その他何等かを﹁意味﹂するものである︒かくて呪術は直接的
た勢力作用から一の象徴
( m B
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ロごとなる︒肉体的屍を前にしての直接的な肉体的苦痛llそれは劫物も有して居
り又それはしぼしぼ埋葬形式の基準となる︒(土葬・火葬
)l
!と相並んで先づ次のよう友観念があらわれて来る︒
即ち人は死者の霊魂を傷けたくないとゅうとと︒そこでその霊を解放するか或は芸に閉ぢこめてゐく乙と︒芸では可友りの生活を符させる乙と︒生存者の所有に対する死者の嫉みをとり除くとと︒死者との和らぎを得んがために︑死
者の好意を確実にし︑なければ注ら友い等の諦観念である︒死者の冥福を祈る稜々変化ある呪術諸様式の基本には死者がその個人的な所有物の全体を芸に持クて行かねばたら注いとの考えが︑経済的に徹底した結論として存在する︒か
1ふる観念は人は少くとも彼の死後或一出品の時間は彼の所有物に触れるととを避けるとゅう要求や︑しばしば彼の嫉み
を喚起し・ないために回有の所有物はできるだけ享受すべきでわないとゅう要求によクて次第に弱くさせられた︒中国
の葬式の規則はかふる観念をその経済的並に政治的に等しく非合理注結論によクて実証しているの(そ乙では服喪期
間中バ官吏はその倖殺を砕退することが認められている)霊魂や庇神や神えの骨が一度成立すると︑その国は常識では把握され子︑匁徴や前兆の媒介によってのみ通じ得られる冥土の生活に導くものであるがーーその生活は暗い常に
非現実的なものとして現われるーーーそれは呪術的技術の意味に反作用を及ぼす円実際の事物と事公の背後に︑何等かの同有の笠魂あるものが隠されているから︑人はその徴候や象徴の意味を問ふべきでわなくて︑笠誌にふさわしい手
段によって作用を及ぼさんがためにそれらのものに現われている力をその朱叙によクて﹁立味づける﹂べきである︒
それはかふる象徴についての職業的精通者がその信仰やその思想的完成に対して与え得るととるの力の問題にすぎな
い︒叉それは彼等が経済の特殊性に対する呪術の重要性と組織力
1 1
それは彼等が自ら作り得ーーとに応じて︑社会
内で獲得する権勢の問題にすぎたい︒朱徴的行為の削波は原始的危自然主義を坦没して了ろのである︒そのととは広
く及ぶ諸結果を生十る口死者に対して朱徴的行為左通じてのみ近︑づ雪符られ叉は匁微に於てのみ現われるものである場合にはそれらのもの
は実在の代りに象徴をもって充介に現わすと'とがでさるn供物の︒ハンや女と召使の人形絵が生きた犠牲の代りに︑現
われるようにたクた︒最古の紙幣は生者かちの支払に用いられたのでは友くて︑死者からの支払に用いちれた︒神や 廃神に対する関係もそれと同様である︒常に事物
yf
)事象とは︑それちからはたれて実際に或は想像上で内在する現実
の効果更に﹁重要性﹂を惹きつけ工ろ守とする︒叉人は賞味ある行為に工って実際の効果を得工うとする︒実際に試験
され自然主義的左京味で純粋に呪術的友あちゆる施術は︑一定試験され売形式を厳密に繰
hり返す︒そのと左は象徴的
意味の金領域にわたってひろがクている口試験済の方法かち少しでも離れるととは全く効果を夫わしめる︒人間活動
の人情領域は乙の朱徴的呪術界忙引照りと受れるであろう口それ故合理化された宗教内部に於いても純維に教義上の観
念の犬きな対立が象徴の更新であるとして耐忍されるであろ可︒その会徴は行為の呪術的作用を危険伝らしめたか
││匁徴主義の場合には新しく現われた解釈││神や祖先の霊の怒を叩くかとゅう問題が︑一七世紀のロシプ教会に
於ける教会各一裂の本質的友芸礎であった口二十四人の聖者が或年に笈寺にとっての聖日を廃止されているために犬い
に悩む乙とが不可能になクた事情が現代に於いても何ロシプでグ
.u
1ゴリv
暦の採用を妨げている︒インドの呪術師が
礼拝のための歌控のとき歌山包問主えたため陀︑憤激せる呪術師や神の怒を宥めるために即座に自殺したり
様式形成の最も古い形式としての造形安術作品の宗教的た停滞化
(2
28
q1
25
5
は︑直提的には呪術的観念によ
り条件づけられ︑間接的には作品在呪術的に意味︑クける結果として現われてくる職業的構成によって条件づけられ る︒その桔成は自然物による創作の作りに千本に工る創作を自ら作り出す︒その場合宗教家の勢力がどの程度に犬で
あるかはェタプT
の例が示すように︑プメノフイス四世
(E EE
さと時代に一神論の勃興に工る伝統的危宗教の無価 値化は自然主義に対して息吹きを与える結果とたった︒文字記号の呪術的使用
ll
所諮類似療法的︑呪文的或は悪庇 般的︑呪術強制的朱鍛としてのあちゆる様式の身振と舞の発達
il t口 列 (4 82 H開
J或はかく・とも芸本音列(装飾音︒ε
マ
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1パ1の宗教社会学
九七
経 営 と 経 済
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に対比するインドの
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の停滞化i
ー か
tAる観点からすれば合理的な方法であると乙ろの悪魔紋的或は象
徴的類似療法的治療術(とれは同じ根源から発達した星占術が経験的暦法計算に対する関係と同様な事情花ある)に
よクて︑しばしばか友り発達した経験的治療法(とれは象徴主義とア一てミズム的な湿きもの説からすれば対症療法
にすぎなかった)がとクて代られる乙と︒!ーすべてとれらの事柄は︑同じゃうに内容的注文化発展にとクて限りな
く実り多きものであるが︑とふでは詳説でき怠い現象世界に属する︒﹁宗教的﹂観念世界が生活のやり方や経済に及
ぼす最初の根本的影響は一般的た停滞化である︒超感覚的諸カの保護の下に何らかの形で出来上クた慣習を変える場
合にはすべて精霊や諸神の利害関係に触れる乙とに友る00あらゆる草新者の成功の自然的た不安定性や困難性に対し
て更に宗教の力強い阻止作用が附・刑される︒聖なるものは特に不変的なものである︒
個えに於いてはプレアニミズム的自然主義から象徴主義にいたるまでの各種の過渡的段階は全く流動的である︒殺
された敵の胸から心臓や︑躯幹から性器や︑頭蓋から脳髄を引裂き︑敵の頭査を自宅に陳列したり或は最も貴重注知
礼の贈物としたりする乙と︒或はかtAる臓器や特別に迅速友哉は強い動物のかtAる臓器を食べて了クたりする乙と等
によって︑人間が直援に自然主義的にかLるものの力を自ら身につけ得るものであると実際に信ぜられていた口戦舞
︿]内同町内向
v z g )
は︑先づ第一一に戦争の前に憤怒左苦悩とが混合した昂奮からの産物であって︑英雄に対する陶酔を生ぜ
しめるロその限りに於いてそれは象徴的でわたい︒しがし︑それが(我々の﹁感覚的﹂友呪術作用の種類に従えば)
勝利を身振狂言的に予言し︑かくて呪術的にそれを保証すべきである限りに於いて或は叉︑確固たる儀式の形式で動
物と人間とを犠牲にする血祭りが行われ︑自己の種族の精霊
ξ諾神とが食事に参加する工う勧められる限りに於い
て︑最後に或勤物を食い尽す食事への参加者が最互に特別に近親関係にある
ll
同じ勤物の﹁霊魂﹂が彼等の中には
いりとんでいるから
l!
と信やる限りに於いて︑﹁匁徴﹂への推移が近づいている︒'
人は完全に発達した朱徴的危観念世界の根本陀横わるととろの思考方法を﹁神話的思考﹂と名づけ︑その特殊性格
を個々に詳しく研究したりとよでは我えにとってそのととを論やる必要友く︑かLる思考方法の一の重要た特殊性︑
即ち活動せる形式に於ける類推の意義︑寓話の意義のみが我々にとって重要であるロ何とたれば︑それは宗教的友表
現形式のみたらや︑法律的思考︑法律の純経験的技術論に於ける判決例の取扱にいたるまでも支配するからである︒
又それは合理的な総括による三段論法的概念構成に対して始めて屈服するからである口かtAる類推的思考の本源的故
郷は象徴的に合理化された呪術であクて︑乙の呪術は全くその思考に依存している口
第 五 節 諮 紳 の 世 界 と 職 能 諸 紳
﹁諸神﹂は初めから﹁人間らしい﹂存在として表現されなかクた口それらはヴエドグ教にな命生きているよう注純粋に
自然主義的観念を克服した後に︑初めて本質的に必要注永久的た存在としての婆をもクようにたった︒純粋に有然主義
的な観念とはλ例えば具体的に火を神と見たり︑或はそれが他のもののために︑兵休的左大神の身体であると見たり
する乙とである口叉その観念には︑絶対的に自らを神土問一況して︑その神が伺えの火を持夕︑たり︑与えたり処理じ
たりする場合もあれば︑或は叉その神が伺えの火の中に常に何等かの形で具体化する場合もある︒しかし︑か・ふる抽
象的観念は継続的に同一の神に捧げられた行為即ち﹁崇拝﹂によクて一初めて実際上確か訟もUと怠る口又それは人間・亡
しての永続的た結合によクて確かなものとも仏る︒その結合は永続団体であクて︑その団体にとクて神は永久的危るも
のとしての意義をもクている︒との事象にクいては後で再び論十るであろう︒一度諸神の姿の永続性が確かにたると︑
職業的にそれらの乙とに関係している者の思想は︑かえる観念領域を組織的に統一する乙とに働らくようになる︒
﹁諸神﹂はしばしば統制︑泣き混乱を偶然に崇拝によクて維持する上うた偶然的例造物
(E EZ FF 15 mg )
を表現す
る乙とがあるし叉︑社会的444別が少い場合にはか
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Z表現を注す乙とはたい口た治ヴェーダ教の誇神は決して秩序あ
る神々の国を椛成しない︒しかし通則は次の如くである︒一方K於いては宗教的慣行にクいでの組織的思考が︑t他方
に於いては生活一般の令理化が諸神の活動に対して増大する型式的た要求と共に或一定の個々の場合に極めて相違す
る段階巳到達すると﹁万神糊建設﹂(忠三
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が始去る︒即ち︑一方では定められた諸神の姿の特殊化と確
固たる特性化とが︑他方では諸神に定クた属性を与え且クそれらの﹁権力﹂について相互の問に何等かの限定が行わ
れる︒その場合諸問神の婆の神人同形的人格化の増大は︑それらの格カの限定化と確立化の増大と決して同一ではたく
マ
グス・ウエw J
1メ1の宗教社会学
人
経 営
︑ と 経 済
人
叉平行して進むものであり得たい︒その逆の場合が多い︒ロ1マのヌミナ神
(E EE )
の権力はギワシヤの諸神の
婆より確立して居り叉上り明瞭に限定されている︒乙れに反して回有の﹁人格化﹂'としてのギリシャ諸神の入間化と
彫刻的表現化とは純粋のロ1ヱ示教に於けるよりも比較に友らね位に透かに進んで一いる︒乙いの場合の最も本質的危社
会学的基礎は次の事昨に存する︒一般的構造に於ける超感覚的なものに就いての純粋にロ1マ的観念は︑同民的農民
宗教及び家産領主的宗教に止クている観念よりは遥かに強かクたという乙とであり︑乙れに反じて︑ギリシャ的観念
は各地方を結ぶ騎士文化の発展並びに諾英雄神を有するホ1マ1時代の冶民に委ねられていたととであ右︒かLる諾
観念を時々受容しても又ロIマ国土へのその間接的た影概けを受けても国民的宗教は何等変ると乙ろがなかクた︒か︑ふ
る諸観念中の多くのものはロ1マに審美的存在物を残したにすぎなかクた口一方︑ロ1マの主たる特徴的た伝統はそ
の祭式的慣行について何等かの影響を蒙むるとと左く永続した︒そしてそれは後で論ゃるよう注根拠からjギワシヤ
とは反対に保安的.陶酔的宗教性や神磁的宗教性を永く否定し乍ら進んで行クた︒呪術的話助からのあらゆる分岐は1
人格として考えられた﹁神﹂の﹁能力﹂に比べるとはるかにその介岐の幅が狭いのは当然である︒ロ1Jマの宗教は
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(神或は諸一神への尊敬﹀に止っていた︒その諾が語源的に2ロ
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由来するかどうかという乙とは何れにしても同じ乙とであるが︑そのととは吟味された崇拝形式への結合vど
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乙る遊阪に見出されるあらゆる種類のヌミナ神への﹁顧慮Lを意味するプその中に扶松井一たクでいる形式主義の特色
と相並んで︑特殊たロ1マの宗教性は︑注ゐヘレニズムに対立して︑一一回主要た特殊性を保持している︒それは非人
格性
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物的
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一的
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氏︒ロ去とに対する内面的親近性を持クているととである口
ローマ人のすべての日常生活と彼等の活動のすべての行為は︑宗教法的カズイステイ1
ク(
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問自丘三ご
を伴ラととろの神への尊敬(注目
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によクてとりまかれていた︒モれはユグヤ人とインド人の祭式法︑中国人の道教
的宗教法と同様に︑ロ1寸人の注意左純粋に量的に要求するものであクた︒司祭の祭神書
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に記載されて)
いる神性を有するものの数は︑それらのものの具体的な特殊性に応じて無限である︒すべての行為のみ怒ら宇かふ
る行為のすべての具体的な部分も特別友ヌミナ神の影郷目の下に立クていた︒ローマ人にとクて陶酔(ロ1
︑マ
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ν り ギ オ
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vにはギリシャ人にとクては秩序を乱す精神の移転(ち長gえ
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乙であったようにロ
1マ的神への尊敬
のカズイステイlクはギリシャ人には不自由怠神への恐れ(巴
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であった︒ヌミナ神を満見せしめんがため
に︑すべての個々の行動が︑思考上でヌミナ神の概念的に見出される部分的操作に令割されるように配慮したければ
ならなかクた︒又か
‑A
る行動の各えが一クのヌミナに帰属せしめられるように配慮し‑なければならなかクた口それら
の行動はメミナの特別な配慮の下に立つものである︒とれに類似した乙とはインド英他の地方にも見られる︒しかし︑
純粋に概念的介析即ち思考上の抽象を通じて得られたでふの数が
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l祭式的慣行K対する注意は全くとふに集中さ
れているから
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ロ1マ人ほど多いととろは他に何処もたい︒それ故に︑ローマ人の生活慣習の特殊性は││叉そ乙に
ユダヤ的並にアジア的祭式に対立するあるものがあるll実際的合理的宗教法的カズイステイ1クの絶えざる実行で
あり︑宗教的予防法の一様式並に或程度まで弁護問題としてのか・ふる事物の取扱である︒宗教法は合理的法律的思想の
母胎となった︒例えばリピプ歴史編集門ロlマ︼は︑伺えの制度上の革新の宗教法並に国家法的﹁正当性﹂がその中
一心
点に
於
iいて証明される場合には
ll
1マの特徴をaユダヤ人の歴史編集の慣行に対立して││宗教的に規定されたロ
否定しなかクた︒叉罪︑割︑悔改︑救︑特に法律的礼式の問題を否定したかクた︒
神観念
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とれにクいて先づ把握されねばたら友い
il
k対しては︑一・万ではかの部令的には平行し︑部奇的には
矛盾している神人同形化の過程と︑他方では権力限界づけの過程とが︑既存の神種類に結びついているととは勿論で
あるが︑しかし両者とも神祭拝様式の常により進んだ合理化と神概念の合理化への傾向とを自ら持クでいる︒
諾神と魔神の伺えの経類にクいて乙Lでは立ち入る乙とは我えの目的から見て効果が少いであろう口何となれば︑
それらのものは言語の種類と同様に︑全く直接的に個えの民族の経済的状態と歴史的運命によって規定されるからで
ある︒乙れは我えにとクて閣に隠されているために︑各種の神のうちでとれが優越を主張する理由はもはや知る乙と
はできないのである︒乙
i有機的諸事象に及では経済にとクて重要た自然物が問題となる︒それは星から始って︑‑ A
ぶ︒それらのものは諾神や路神によって滋かれ︑影響され︑呼出されたり︑妨げられたりする口︑例えば病気︑死︑出
生︑火︑早魁︑降雨︑官雨︑凶作等︒その場合︑一定の伺えの出来事の優越ぬた経済的意義に応じで︑個えの神は神
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グス・ウエ
1メ1の宗教社会学
. 世 ハ ‑ ‑ 一
経 営 と 経 済
Y又 四
廟の中で最高位を得るロ例えば︑天の神はその都度光と熱の主として工り以上のもの︑砕仰に牧畜業者の問では生殖の
主として上り以上のものとして解釈される︒地下の誇神(地母)の崇拝が一般に或程度農業に対じて相対的重要性を
もク
ζとは明かであるが︑その崇拝は必宇しも常にその重要性と平行するものではない︒天のJ諸神ーーしばしば天に治
かれている彼岸の英堆の代表者としてのーーは農夫的危地の諸神に対立して︑貴旗的な諸神であるという乙とは自ら
主張されも仏い︒神性としての﹁地母﹂が母法的氏挨の秩序と共に平行的に進粁という乙とは一一回あり得友い︒しかし作物
の牧穫を支配すると乙ろの地下の神性は︑他の諸神よりは一一層強い地方的民族的性格をもクのを常としてvいるロ地上
の神に対して︑天上の雲や山の上に住んでいる人格的友諾神が優越している乙とは︑武士的文化の発展に工クてしば
しば条件づけられている︒叉それは本来の地上神を天上生活者の下に上昇せしむる傾向を持っている︒それに対立し
て︑地下の諸神は有力な農業の場合に︑しばしばニクの重要性を互に結合させている口一は彼等が牧穫を支配じ︑宮
を施す乙とであり︑他は彼等が地下に坦葬しである死者の支限者であるととである口それ故︑例えば)エロイジスの
秘密祭記(号
E 5 0 r 三 国 g 5 5 )
に於けるように︑二クの最も重要た実際的利益︑即ち︑宮と彼岸の運命とは地下神
によクて左右される︒他方に於いて︑天上諸神は星への通路の支配者である口乙れらの天上諸神が明らかに結合され
ている確聞たる規則は︑天上支配者をしてかLる規則が有して来た叉は有すべきととろのすべての事の主とたらしあ
るとと︑就中︑法の発見と益ロき礼儀の主たらしむる乙とである︒