リプソン清教徒革命前に於ける英國の資
本主義的企業−ウエーバーへの一批判−︵一︶
︑
重 藤 威 夫
/
・長歌改革以前の資本m義の賛達を以てC,.エー'バー撃詮に対する虜封論の論院となされることが多いOtかLtウーェ‑ .
バ ー に あ っ て は ﹁
? M 木 r r >
z L
﹂ と
﹁ 代 &
木 ' l ' ' . 空 と は 異 っ た 揖 念 で り ︑ J ‑ / が 間 凹 と し て い る の . は 壮 代 w *
‑ '
> 不 惑 "
J k で f i ろ U
J
との鮎については経木蟹表した論文中で度々指摘したとこ‑ろせあってこ‑に繰返す必要はない‑が'こ這取上げた暦本
主義的金光とはウエーバー望農に於ける﹁資本主義﹂であって︑﹁近代資本主義﹂とは異るlものである︒資本主義の
精 神 即 '
・ 英 国 の 証 含 心 想 史 の 側 面 よ り す る ウ ニ ト バ ー 撃 詮 の 修 正 誼 に つ い て 腰 間 回 0
‑ 論 文 即
﹁ プ ロ . ‑ ド 一 一 l
㌻ 薪 . し . き 精 油 と 英 日 京 木 ' 蝣 f '
‑ ' ‑ i i つ い て ﹂ に よ っ て . I J つ の 糾 介 告 ; . み た が
・ n で は 専 ら 貢 圭 ‑ 蝣 ・ I ' J の 撞 1 3 の 間 か ら *
‑ 蝣
* ・ 川 の ビ ユ
﹁
‑ タ ン r .
"
; ‑ ' . 1 ' I ' i
"
: ' ' ' 1 . . 1 .
"
^ ‑
; 三 三 蝣 . 蝣 . 蝣 ' .
^ 一 / . T O
? ; M i . '
; ' 主 蝣 ' i .
‑ 1 O M A M
⁝ ノ 一 三 日 , ' Y
︑ 一 蝣 <
・ ォ
! ' 蝣 ; 言 . . ,
; , . , J . 十 ︑ 三 / ノ
け賢王とするものである︒⁝とハ遥詮に封して?=n‑│Nリ,¥ア﹂蜜誇缶立場から.一つ完判晶みて‑いる0それは
ブ レ ン ク ー ノ や ゾ ム バ ル ︑
・ L の 批 判 と は 異 つ . 整 恩 味 で 罫 要 で あ る ㍗ L i p s o n , E c o n m i c H i s j 冒 y o f E n g l a n d , 1 9 1 3 . V 0 1 . 由 ( 原 著
者による引周章の聾がを省く) 一
j │
^ ! V v K ;
"
! 0
‑ :
; v ' '
‑ ! i ^ v ^ ' ^
^ r i ^ : ‑ : . , ‑ : ' : : . ‑ i : i :
‑ '
; : ' : a i . / . ^
¥ ' 蝣 蝣
; ; ' ‑ ' ‑
; ; r ^ 0 !
; j i ' l '
;
⁝ . ' .
< : ' . 蝣 . ' J ' M V .
^ , 1 . ' r . こ : "
: :
! >
"
: "
! f ' O
; ; . '
・ ' J r 蝣 蝣 蝣 u
封建領主の地代で協って'その地代の徐剰分が商工葉に投資されたや′英国の封建領主も叉資本を生産的企業に進んで投
下 し た ︒ 例 え ば N
︒ t t i n g h a m s h i r e の W i l l ︒ u g h b y ︑ は 衆 筑 紫 に 徒 事 し た . 7 . 三 二 の 恰 院 が 洪 坑 業 を 経 営 し た 例 ノ が ぁ る ︒ 一 般 的 に 一 計 え ば 英 撃 空 柴 に 聾 さ れ 宗 本 鯨 代 か ら で は な を 貿 易 省 得 ら れ 液
︒ 中 芸 期 旨 英 国 . は 濫 本 雷 生
ヽ
.
"
~ 、
盤 管 と 経 済
¥
ノ
1O
‑ ‑ ‑
¥産物として︑就中羊毛をもっ τ
い た
︒ の
0 4
2
は﹁商人の女神﹂とそれを呼んでいた︒英閣の宮の基礎がつくられたのは︑
羊毛と共に穀物︑錫 ι 鉛が輸出されたととに基いている︒貿易に上って得られた利潤は製治工栄に投資された︒従って
英図では農業の護法によって起った商業は王業の父となった︒十五世紀に於ける毛織工業の著る b
い 設
展 に
よ っ
て ︑
︐ 英
図の主要総出品は羊毛から毛織物の輪出︑即原料品から製治口聞の輸出比一特じた︒との鑓化に上って中世紀の絡頃までに qr 英国に大なる官をもたらした︒それ以後商業と工業とは互に影響を及ぼし合ひ︑資本が同者の設建に益三由一要な役割を
演 ・
ポ る
よ う
に な
っ た
o v
勾
1 e . 2
・
t宗教改革以前に於ける資本主義の後遣は︑資本主義精一柳を清設主義の所産であるとたす製設に反封の根擦をあたえる.
ょうであるが︑一清教主義が資本主義の後一連に貢献したことは明かである︒清教徒が現世的快楽を遠ざけたととは︑彼等
の勤倹を促一巡したのみなら・下︑彼等をしてその事業に波頭せしむるにいたった︒十七世紀の一著者が述ペている上う
に ︑
改 革
一 政
投 徒
ω 聞でぶ怠惰であるととは一仰におして不正であると考えるととによって︑彼等の勤勉を大ならしめ旦つ
f商栄丸工弐に許して一居専心するようにならしめたのである O ベテイは︑分離派は多くの場合︑思慮深/ヘ真面目であれ Y 且つ辛抱強い人物であった︒又努似と勤勉とを一仰に鈍する彼等の義務であると考へたと述べている︒
i
十六︑ヂ七世紀に英国の官は急速に増加した・︒之は資本の蓄積に︑釘して扶︿可らざる基礎であった o 海軍卿であるジ
ョ シ
? ?
キンス卿はエリザペス女王の即位以来︑英図の官は三倍に増加したと述べている︒一つの史料は﹁王図は官 i
に叩附されている︒そのことは人々が賠買に︑住宅に︑飲食に︑安命日に一就中衣服に疋いたくしているととによっ式知町? れる︒﹂と述べている︒ロミ
o ' u p
己は十七世紀
κ 於
け る
ん 品
の 増
加 に
つ い
て
E 確な数字をあげている︒彼は英図の資本即官・
は 一
六 O
υ
年に千七百万務一六三 υ 年にこす八百万夜︑一六六 O 年に五千六百万砂内一六八八年に八千八 R 万傍に上 り︑十七世紀の末に英国のん昨年の所得は間千三百万防切に上ると推計している︒との数字は仮設的なものであるが十七世
紀に於サる官の増加は疑ひ得ない︒白 95 は名器革命(一六八八年)の後︑図家の繁栄の詮践として商舶の舶践の数量が.
二倍になったとと
L
ニ庁年同に輪出の数量が三分の一一増加したととを示しでいる F
0
である欧洲・植民地ザ東印度に釘する貿易によって得られた︒口 . 宙の増加は主として三大貿易部円
2 2
8 f ぽ名春革命営時の図官の年々の増加はニ百万磁
ぜ
‑ ち
であり︑それらは次の三部門に分けられると述べている︒九 O 万諺︿封植民地貿易﹀︑六 O 万務(封来印度貿易可五 O
万跨︿封欧洲貿易﹀
o p
︐
英国の宮の増加は貿易以外の方法によっ τ も得られた︒ヱリザベスーの治世 . 4
( ‑
u u ∞ l H 8 3
の央頃︑或著者は過去の如
何なる時代上りも現代に於てはるかに多くの財賓の集積が見られる o 印度及びその他の図々︑から集められ]毎年と伐閣 にもたらされる金・銀の限りなき金額乞俗人が理解しないであらうかと述べている o とれらの限りなき金額は︑主とし
てスペインの大帆船隊包宮口
Z m p ロ
g g
を掠奪するととに土って英図にもたらされた︒三公二年に英図々合一議員の一 v
人は︑﹁女王︒活世に千二百万傍が名士存主つ K 英国を官ましむる源泉からもたちされた︒﹂と述べている︒フランヤス‑
ド レ
1 クは彼の世界周遊の放行から腕るときに︑金・銀の地金をもって来た︒その一部はレバント命日祉の最初の資本金 となった︒スペイン人の財寅は抵抗し難い誘惑であった︒一五七 O 年にスペインの西印度艦隊・公
Z F E 2 2 2 C
は 六
O O 万援の金額に'上る金・銀・質石類︑を積込んでいたといわれる︒そして﹁との全艦隊は紳の惑により︑との三ヶ月以内︐
に掠奪さるべき﹂運命にあった︒との私掠船隊
( 2
4 a
o o
H 山
口 問
︒ 凶
苦 言
0 5
﹀に資本一を供給するために女王︑その内闘員︑宮
短の人々並に共他の人々は︑株式組織をつくって八刀捨して資本金を出した︒一五九二年の私掠船隊に女王は一割を出資 パした o 之ほ英国民を株式組織に興味を持たせるに役立った o
一 五
八 六
年 に
或 筆
者 は
目 白
品 E
q
に 弐
の よ
う な
書 を
川 沿
っ て
い
υ
る︒﹁顕要の地位にある人々は彼等の賞深に上る失費を補わんがために︑その所有地を資り舶を買って︑船長並に乗組 員に釘して英大な利潤の保詮なしに蹄還す可らやと命令した︒﹂成功した場合には︑最初の資本金の十倍或は百倍の利 益があった o セシルはひそかに数回の私掠船隊に出資していたが︑一六 O 一年に得られた利得中から役︒出資額である
1 1
七官接に釘して七千傍の配蛍を受けだ︒
・との私掠船隊によって英図が全憶として利益を受けたかどうかは問題がある︒ジェ 1 ムス一世り治世 2 5 0 ω i N U ) に
は︑図ぷはスペインとの戦争の聞は決して繁栄しなかったという見解が弘まっていた o
二 ハ
一 '
八 年
に ペ
エ ス
の 大
使 は
﹁ エ
リザペス女王時代のスペインとの戦年以上に英国を官ましめたものはない﹂いと書いている 0 ・エリザペス時代には次の二
つの相庶ずる見方があった︒一五九八年に一つの見方に上れば︑スペインとの戦争は利益をもたらした︒スベイジ人か
リプツ Y
清 教
徒 革
命 前
に 於
け る
英 図
の 資
本 主
義 的
企 業
i z
‑ ‑
?
へ の
一 批
判 J
= : ; : ¥
ー
、 ノ
経 替 と 経 済
︑ら英夫な金額が英図にとり巴まれたととは著るしい事柄である o ︐それらのものが英図にとってすべて利盆であったとと
は詮明するに困難ではないと断言している d それに反する他の見方に上れば一六 OO 年に次のように述べられている︒
即ち︑賞金属はスペインから貿易に上}設は武力によって獲得され得たであらう o しかし我々がスペインと戦ってい冶
問は︑貿易に去っで賞金属を獲得し得ない︒しかも武力
fに上る場合には多大の費用を要し叉危除に充ちていると︒
︐私掠船隊にどつで得られた利盆批もか
tAわらやスペインとの敵討関係によって欧洲大陸との貿易がト次第に累増的に妨
害されたととを海︑慮じなければならない︒又︑一五九六年の商業恐慌はその影響の一つである‑一五八@年にスペイン
大使はフイりヅプ玉に失のように書き送っている︒﹁スペイン去の貿易は英図にとって最も重要・なものである︒それは 主とし定多数の船舶を維持せしむるととに上って英図の官狙の主なる源泉となっている︒その貿易に上って得られる E
額 ωE 貨と笠宮な物資とによって︑他の固との貿易には見られないような利盆がある o との貿易は英闘が海道の狛占を
有し τ い る こ と L 同様に i 英図をして他の方面に於ても商栄の支配者たらしめる︒﹂封スペイン貿易の中絡は英図じ危
険な結川市/を招いた︒女王がスペインと熔和じた動機は︑それまで女王が得た戦利口聞に上って一部をまかなわれていた職 安の負捻から解放され︐たいとと上りも︑むしろ宮山なる貿易と英国民がその資本を増加する機合とを得んがためであっ
たというととが一六 O 二年に者かれている︒戸 I
ジ ヤ
1
・ コ
1 ク
は 王
政 復
古 (
︼ 怠
C) 後次の上うた意見を後表している︒
﹁ ジ
ェ
l ︐
Aス一世時代に英図はヱリザペス女王時代上りも信じられぬほ芝些かになった︒﹂そして︑その宮の増加の原因
︑ を
ス ペ
イ ン
と の
平 和
と 三
品 目
ロ F
F 号
包 P
E a
‑ F Q W
植に釘する貿易の開始とに局している o ︐
英図の資本の他の原泉は外関人に上る投資である︒特にオランダ人による投資であって︑彼等はオランダに於けるよ
. U
りも英闘で高い利子を得た︒十七止紀の初期にオランダの資本家建は英図の土地排水工事におして資金を融通した︒︑彼 ・等は一︐六一間年に来印度合祉の第一回の株式茶袋に奉加した︒一七七三年
iに千務以上の株式の所有者は︐英図人が四八七
名 で
J Q
り︑外国人が三二五名であった︒一六一︑七年に回ゅの
c g
宮 昌 弘 冨 0 2 E E ﹀ を g E S
闘が図王から特詐欺人 H
o E
去 る
を買収するにあたって︑オランダ人から資金の融通を受けた︒又彼等は商人と漁業家とに金融した︒二ハ二四年に英図
議合で利率を八%に引下げるための法律案は︑オランダ人が投資している多額の資金を英図かぽ持ち出される結果を拐
十
︿であろうという理由で公然と反針された︒チヤールス一世と議合同との闘争による内飢︿同かた
l S
の )
前 夜
一
J 英図の不穏
な枇合同欣態のために︑従来︑多額の資金を融通して居った外因資本家は︑英図貿易商人に封する貸付金を回収する上う
になった J 王政復古後︑貿易とロンドン再建のために伎はれた金の大部分はオランダからの資金であったメ英閣に投資 さ れ た 外 閤 資 本 の 金 額 に つ い て は 議 合 の 一 話 ︑ 員 食 で は ︑ 一 六 司 六 九 年 に 弐 の 上 う に 報 告 さ れ て い 白 る ︒ ' ﹁ ﹀
5 2
g 自
5 国
E O
戸
は彼の手中にオランダ資本の十万傍以上を︑
z o w H H O H H
は 三
万 傍
以 上
︑ J E E 4 5
は 一
時 六
万 傍
︑ 白
骨 岡
山 口
O 浮はいつ色ご十方接
近くを持ってい
aた︒それらの令一は八%の利率の時に?五 j 七弱で商人に貸付けちれた︒﹂か
‑ A る外図資本の英図内への
岡4
進出は岡氏の反感を招主︑近隣諸図がか L る千段で利ム誌を得るととができないように︑法律による利率の引下の議論が
行われるようになった︒しかし依然として英図に除引つづいて外図資本がはいって来た︒一七二一年には外図入は彼等
の金を英図に上り多く投資せんととを欲している︒何となれば︑利率が他の何底上りも高く旦投資︑が一辰安全だからで
あると述ぺられている︒一七二八年に或著者は失のように注ぺている︒﹁外図入は英図の公債に多くの部分を占めて一い︑ る︒白分が知り得るととろでは約七 l 八百万傍に上る o ﹂との時代には英図は町ら外図に資本を投下する上うになった o
それは杭民地の建設のために︑英図がその植民地に供給した資本とは別仰のものである︒十八世紀の初期にの 2
は 尖
の
土ろに述べている︒﹁英図尚人はその取引を皆むに充分な資金を有するのみなら宇︑外図の王侯に資金を供給し︑胃除
d
貸借に又あらゆる図々の商品に投資している︒それらの投資にもとづく利益を外図から英閣に送金するととに上って] 貿易の差額.を大いに英国に有利ならしめているこ十八世紀の求墳には﹁ロンドンは今はアムステルダムとな合た︒﹂と
︐ 誇
ら し
げ に
一 一
一 口
わ れ
τ い
る ︒
貿易の}部門で得られた資本は他の部門の金融に使われた︒レパント貿易の利潤は︑来印度合祉の最初の資本金を供
給するに殺立った︒工業は資本を二つの泌来かち得る 0 ・第一は原料を取扱う生産者の利潤であり︑第二は商人の利潤で
ある︒十五世紀に於てすら成功した羊毛生産者はその利益を工業に投資した︒例えば敬羊業者であるフェプフォードの
3 g g
はラシヤ袋治栄に成功した o ・
V
ρ 一製紙工場を建設した︒ヱリザペス女王時代のドイツ入賞行商であるスピルマンも同桜 ととをたした︒ベーコンは英図 l マス・グレシヤム卿は本来商人であり金融業者であったが︑製鍛業を経皆し又
p プ
ソ ン
清 教
徒 革
命 前
に が
︑ け
る 英
閣 の
資 本
主 義
的 企
業 i
z ‑
‑ ハーへの一批判 l
留 管 と 経 済
四句
の一貴族について話つ℃いる o その貴族は同時に牧羊業︑製材業︑炭坑菜︑穀物栽培業?製鈴︑製鉄業者であった@
Z P
ロ 何 E
言 吉 田
E H m
の ウ イ ル ロ 1 ピ i は地主であるが︑炭坑弘前を経営し叉製鎖とガラス工場をも経営した︒ロ
E u z r w
は製.
︑鶴岡業者であるが︑一六五一年にはリンネル織物求︑を組合組織で経営した︒工業の集中についてはな公色々の例がある︒
十四舟紀に遡ってロシドンの一石友製建設者はりテコ
Z g
宮 同 Z
の炭坑を借りて経営した︒石茨は η Z
・ 次
を 焼
く た
め に
必
血要であった︑からである︒ガラス製治業者である旬︒岳
g H H O R a
は十七世相に︑大決拡業者である
m o Z H
H 可 ︒ ︼
3 と組合組
︑織で炭坑業に従事した︒恐らぐそのガラス製越のために燃料を必要とじたからであろう
‑ 0
・
かくの如く資本主義精紳の竪富な資例が存在する︒その精一刊は大規模な投機的な企業を泊じて見られるものであり︑︑
産業革命よりも古いのである c 十六世紀には阪に =Q 官民
50
ご E
E S
‑ ‑
が存在する︒例えば﹄︒
z d
︿ Z
宮 n
O B σ 9 ' J 3 5 P E
223 ・ F
吉 田 H P E o
‑ ‑ 及
び 国
ロ B
Z H 4 0 宮 き
g 等が著るしい︒レパント貿易の開設に指導的役割を果した£ドワード・オ
スポ 1ン卿の上うな脱野の践い苛入む居る︒︑ト1マス・グレシヤム卿のような金融業者は図債を引叉け外問符特を取扱
った︒十七世紀には資本主義の分野の中に多数の著名な企業家が見られる︒特に ω 常
国 宮
古
ω 自身 r
∞ 可
﹄ ︒
岳 伊
丹 E
P E
﹀ 自
g ず
z ︒ ﹃
O 三ミが著しい
o ' ウ
ィ リ
ア ム
三 世
時 代
( 窓
∞ ゆ
! 日
吋
CN ﹀の資本主義的企業の一例としては︑近代の金融組織の創
設とも見・なされ得るような形式 ω 企業が見られる a この経皆者は ω 町
H o
z 芸
2 出
5
である︒彼は金融業者であるが︑彼
を混じて英国政府はフランスに針する勢手のとき J 迎合軍に政突を一融通じた︒又アイルランドとフ‑アンダースの軍隊に
ム艮料品を供給した︒彼は又銅山台枇︑ガラス製治合枇︑アイルランド漁業曾枇西北アメリカ貿易合枇を経営し
J釣 イ
タリー貿易に従事する商人であり且つ船舶所有宥であった︒
資本の蓄積とその利用について最も有力な誘凶の一となったものは株式組織である︒その起源は取世の組合(回
o n
言
U
明
﹀
とギルド商人の共同頁入会︒
a s g g
品 旦
ロ 乙
で あ
る ︒
後 者
か ら
夜 一
巡 し
た 例
と し
て は
︑ 岡
山 ロ
m w B Z S
に於ける都市の取引
計 査
や ︑
吋 ︒
5 S
G E
・の市民によってたされたその都市での商取引法成のための株式組織計霊がある︒株式合祉は都市の r
ァギルド上りも}ほ炭範凶のん々を傘下に集めることができ又中世のきのま a よりも一居形式が整った組織をもっととが/
できる︒十六世紀 ω 後半にとの株式組織は念速に後援した︒数仰の工業双び商事合祉が設立され︑私掠船隊ですら株式
t 、
組織で構成された︒制規合枇 2
︼O H O
伺Z E a n o
宮ロヨのわ︿内で︑その社員の問で宍間取引が行われるととがあった J g
時 と し て は 関 商 人 の 聞 に も 株 式 組 織 で 隠 れ た 取 引 が 行 わ れ た
︒
︑ い
株式組織の功綴は商工業えの投資
‑ V ‑
庚い範固から集め得るととであった︒二ハ六二年の一法律の序文には次の上うな正
記述がある︒﹁多くの貴顕紳士や有能の人々は︑商業や取引に従事オる場合に屡々多額の資本を公枇 Q
与 野 8 0 ‑ o
号 凶
) に
投下する o そして投下した資本に到する収益を現金或は物資で受取る︒通常その受取った物資は貨幣にかえられる・
か L る方法でどれらの合枇の取引は著るし︿侭怒された︒初の問は一命日祉の秩式の教は段重に制限されて居り︑新しい
株式の数を増加するととに土ってピはな︿て最初め株式の令舗を精すととに上って得られた o しかし︑株式は細分す
るととができたので︑十六仕紀に於てすら株式ほ譲渡され
1負捨較廃絶閣の人々に分割するととができた︒株式の譲渡 性は明らかに株式組織繁栄令五なる原閃の一であ 9 た G ヱりザペズ女王即位の常時(一五五八年)株式企業に殺資され た資本金は約一万傍であうたが︑一六九五年には四百万傍を超え︑一七一七年には二千万傍除 1 一七二︒年には約五千 万傍に上ったとい b れる?政府に貸付金をなす習慣のために資際に事業に投ぜられる金額は名目的資本金より少なか
っ た
株式命日杭の資本化が著るし︿噌加七た めに殊に一六八八年の名標革命後は著るしかったが︑そのために﹁株式資資 L ︒
守 S
o w
‑ y g E
巴と呼ばれる'新しき紳秘﹂に閲して不安の念が喚起されたととは不思議ではない︒一︑六九六年に貿易 s 槌 民委員合は間合に弐のような強い背笈を行った︒﹁最近株式忠良という有害な方法が 1 最初の褒起人の伺人的利益のため
に︑製治工業そ目的として設立された合祉や諸問憾の目的を全く破壊し℃いる︒最初の夜起人や株主に拠えられた諸特
椛は今や惑則されて︑制⁝智な人々に利訟を得 τ 株式を資りつけんがためにのみ利用品れている o それらの人々は偽って
叉人岱的にひろめられたん山口祉の計判にひきつけられてその合枇の株式を買はんとする人々︑である︒かくの如︿して故初 の企栄家建は英大な利径があるとの評判に誘惑されてやって来た人々に賢際の債依上りも高い侠絡でその株式杢安りつ
けるととによってその命日批から離れ去る︒その結果︑事業と株式の管理は不慣れな人々の乎中に局する︒かくて特椛を
' m (
えられその議長のために合討の終皆の下に沿かれた製治工業は︑長初の有望な出穫にもか L わら宇途に無に蹄してし
リプソシ荷数徒革・命前に於ける英図の資本主義的企業
l Z
1 バーへの一批判 l
二 五
、 司 、
一 一 一 六
︐ ま い ︑ か L る法律や特慌によって支えられないで︑全く自由に放任された場合上りも一隆慈しき欣態になる︒﹂南海泡沫 ︑ 合給事件ハ
F o
︒ m 5
ω g F E Z ‑ M E
﹀の結果として︑一法律が議舎を通過したが︑それはすべての合祉に特許欣への宮号ご
をもっととを要求した o ︐.之は究用の貼で株式企業に重大な長所を興えた︒特許欣をもたない場合には︑商工企業は組合.
の規約によってのみ絞告を行ふ外わない︒この場合には重要な不利を伴う︒不利な第一の黙は組合の資本金は側々の組
合員の何人的な負伏に封して責任を有する︒従って組合員中の誰かの破産の場合に︑組合が破滅の運命に陥らざるを得
泣い︒第二に︑特許欣は善悪は別問題として株主に有限責任の特慌を興えた@それは一七六問年比なされた請求に裳く
も の
で し
︑ そ
の 請
求 の
' 明
ら か
な 口
資 は
弐 の
如 く
で あ
っ た
っ ﹁
( 腕
織 物
) の
マ ‑
一 ユ
フ ア
ク チ
ユ ア
φ 扱張と改者とのために多額
/
! 一
を投資せんと欲する多くの人々は︑若し彼等が普通の組合の場合のように憶装額以土に責任を負捻すべきであるならば
彼等の資金を投覧しないであろうこというのである︒
内外を問はや貿易に投資された資本の金額は信用取引の範回︑難日切によって著るしく左右される︒信別は商工業の血
液 で あ り ︑ 一 六 問 ︒ 年 に は ﹁ 商 人 の 生 命 ﹂ で あ る と 一 一 一 一 口 わ れ て い る ︒ そ れ は ︐ 現 金 取 引 の 場 合 よ り も 遥 か に 限 り な き 大 規 模 ・
の貿易を可能ならしめる︒信用制度は既に中世紀に存在して足り︑その重要性は十六︑十七世紀に著るしく培した︒掛
資買
2 5 0 Z
品 回 目 白 ろ が 本 則 と な り ︑ 帳 簿 信 用 が 守
o o r 2
司 会 ﹀ ¥ 一 般 的 に 長 期 間 に わ た づ て 興 え ら れ た ︒ 羊 毛 工 業 で 羊 毛 一 質
問 貝
業 者
と 硫
綿 機
製 治
業 者
と は
ー 紘
一 五
に 信
用 を
m ハ え
︑
z 紘 一
五
( o
F H
E 3
は織物工♀E官︒に(六乃五十五ヶ月)又織物工は商人 U
に 信
用 を
悶 (
え る
︒ 一
そ の
金 額
は 屡
々 多
額 に
上 り
エ リ
ザ ベ
ス の
治 世
( ︼
u u
∞i g
どに︑ロンドンの或織物・前人はケントとサフ o
ォークの織一五に封ずる一万五千傍の負偵のためにアイが一プシドに逃亡した︒アシの治世(口
O N i E )
に或麻布卸賀商は
七万跨の負伏の支挽不能に陥った︒信用制度はす六世紀に商人の数が大いに増したのでその設建を促された︒彼等は借
d
入資本或は信用によって取引したがそれは濫則され易かった︒商人が信用を過重に利用したととについてじば/¥非難
︑が起ったので︑彼等が依椛者に上って督促された一場合に︑枢密院
q a 4 0 3 5 5
が彼等のために皮
bハ干渉すると士が 必要であった︒イプスウイツチの商人は信用過重の慈しき結果の例とし τ 取り上げられている
0
. 彼等は織布を掛で買っ
た︒﹁そして彼等が過度に信用を利用したので︑彼等はその織布の支梯を十五或は十八ヶ月沿拍附する保件で念いで安ら︑
ノ 経 営 と 経 済
一、弘、
、
、
¥
、
ねばならなくなった︒そしてそれを史って織布の代僚として符た千形を更に十問或は十五或場合には二十%の割引率で
支ったこか
L3 コ同買の不利な過程﹂を理由として︑パ l グレーやグレシヤムは︑ POP
臣官唱え冨
2 0 F S
仲﹀
T o E E o s
‑を﹁宮める自らの資本で取引する商人にのみ制限すべきで?すべての若い商人がたすように信用で取引する商人を除外
すべきととを主張した O ﹂又商事合枇は信用炉問パえらるべき期間を決定するととによって信別制度に制限を去かんと試み
た︒︑しかも信用の利用を制限せんとするすべての努力は効果がなかった︒十七世紀の求に貿易・航民委員舎は取引の大
部分は信用に・よって行われてい右と述べている︒パルボンはすべての取引の中心地では現金上りも信用で安られ τ
い る
商品の方が多いととを確一一一目している︒彼は﹁小官商の大部分は信用によって買入れ︑通常︑資本︐金の倍伐の信用を受け
ていること述べている J デフオーは英図の取引の三分のこは信用の基礎の上に行はれている︒そして英図の商人は世界
の何庭の商人上りも信用の運営をーより土︿理解していると主政している o 英図の商人は閣内で信用を受けるのみならや/ 外閣に封して信用を興えている︒そしてこの事は二重の結果を招いている︒それは海外貿易の後展を促進し且つ市場に
於ける英国の地侶を強化した︒外悶市場は或場合には著るしく英国の恩恵に興つ古いる︒〆
図内商業での信用取引の用具は債務手形ハ
z z t ι o t c
或は内図魚替手形︿
g z a z
ロ 0
H n 向 ︒ v g 開
︒ )
で あ
っ た
︒ 十
七 世
紀
の終までは債務手形は支掛川不能の場合に訴えるととができなかったのを・﹁取引に於ける長も厄介なもの﹂であった︒加 うるに十・七世紀伊大部分︒問︑それは譲渡できなかった︒三島田 g は二ハこ二年の著述中でほ務手形を一人から他ヘ譲
渡する﹁讃むべき般笥﹂は英閣で行われ τ いないが︑外閣の民
O R
E 忌
﹀
g を
E 5 3
の聞で人土踏的広行われていると漣ぷ
o u
民宮包含ロは同年に依務手形の買え︑一口却及び譲渡は合法的となさるべきことを勧告している
O
ロ パ ¥
1 ツ 2EC
は ﹁
取 引
に流通するととなく手形や設努の形で絶えや取引業者の子中に肢わっている玉図の大なる資本﹂について歎いている︒
チヤイルドハ同志∞﹀はオランダの繁柴を︑他の要凶と共に千形の譲渡性を認める法律に節している︒ところが英国では
人々は﹁口頭契約だけで商品を資買するに慣れている﹂ととを指摘している︒一占ハ六九年に内閣翁替手形を外因潟替手︒ 形のように譲渡性を有せしむべき一法律案が園舎に提出され・たが︑合期の終了と共に‑審議未了に終った︒五年後に他の
法律案が起草された︒それは﹁債務の跡前のために手形を譲渡をーなし得ない﹂ために商人に多くの﹁不便﹂が起ってい
H P
プ ツ
シ 清
教 徒
革 命
前 に
於 け
る 英
図 の
資 本
主 義
的 企
業 l
ウ エ
1 バ
ー へ
の 一
批 剃
j
七
一 経 替 と 経 捕 阿
ることを述べているが︑それは宥議されるにいたらなかった@しかし商人建の問に手形譲渡の慣習が一般化し︑十七世・
紀の絡頃には内閣魚替手形は府民際上容易に譲渡し得るものとなった︒そ ρ ととは一六九八年の一法律によっ‑て合法的で
あると認められた︒その法律は依務不履行の場合には︑手形を何人から受取ったかを問わや︑宇︑形所持人は利子並に諸費
用を合めて︑支梯請求の訴訟をなし得るととを規定している︒それに引続いて一七 O 五年の法律は︑約束手形 QSE34
n o
g v
も義者によって譲渡し得ぺきとと並に内閣錦替手形と同様に訴訟を友し得べきことを規定している ο とのととは
貨幣移轄の持を省くだけでなく.千形の所持人は手形を割引するととにより術明日以前に支姉を受けたり或は依務の支
梯のために手形を譲渡できるから︑資告を一居急速に流通せしめ得る︒十七世紀に銀行業が後述した L めに︑他の形式 の信用々旦れが創始された︒それは銀行家と賞金属商設赤信
0 5 3 5 . :
.F323SFS 1 彼等には第三の道︑即借入資本ゼ取引するということが浅されている︒ト マス・アンは一六六問年の著述白色 S5 商人或は製治業者が自らの資本或は帳符信川によって取引じないか︑若くはこの一山者が何れも不泊岱な場合には︑ けでなく 1 一居続動的のものとした Y 商工業の速度を平めるととによって新しき関宿の源泉として役立った︒ うになり又豆額︒支梯を容易にするととによって取引の過程を容易にした O とれらの種々なる積類の信用書類は岡信を 5 宮ろであり︑それらは疋貨に代って流通するよ
目 何回