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(1)

長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

(2)

長崎の外人経営解牛場始末

横浜・神戸の外人経営屠牛場

(3)

長崎の外人経営解牛場始末 居留地に多数の外国人が来往するようになって生じた問題の一は︑食用肉の需要に如何にして応ずるかという問

(

) 題であった︒幕末から明治の初期にかけては︑冷凍法がまど工業化されなかったので︑新鮮な食用肉を海上で長距 離輸送することは不可能であった︒従ってそれは現地で調達する外はなかった︒

塩蔵肉や乾燥肉だけでは︑とうて い長期間にわたって︑外国人の食住活を維持することができなかったのは当然であった︒

長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

(註)一八七五年(明治八年)頃︑ドイツ人カール・フォン・リンデによって︑アンモニア圧縮式冷凍機の発明が完成してから後︑近代的な冷凍業が発達した︒我国では︑アンモニアを使つての工業的な製氷は︑一八八三年(明二ハ)に設立された東京京橋新富町の東京製氷会社が︑アメリカから機械を購入してつくったのが始めてであり︑その後一八九九年(明三二)に本所業平稲に東京機械製氷会社が設けられて日産五Oトシの氷を製造した︒長崎では明治二二年二月に︑稲佐に資z

000

円で長崎製氷会社が設立された

ο

邦人の百要は殆んど飲料用︑医療用に限られていたが︑居留地並に艦船の冷凍用として需要が多く︑間もなく増資して工場を拡張するという盛況を呈しに︒我国で海上輸送に冷凍法が応用されるようになったのはこの頃からと考えられる︒

西洋では一八八

O

年(明十三)頃から︑アルゼンチン︑ォ1業として行われるようになったのが︑海上冷凍輸送業の最初である︒一八九四年(明二七)アメリカで凍結した鮭を英国へ輸送するのに成功した︒その後魚類の凍結が企業化された︒その後アメリカで鶏卵︑イチゴ其他果実や果汁の凍結が始

開国当時は日本人はまピ牛肉の味を知らず︑従って邦人経営の屠牛所は長崎︑横浜︑神戸の開港場を通じて︑ど こにも見られなかった︒屠牛場の開設は右の三港共︑先づ外国人の手によらなければならなかった︒

長崎における屠牛場の先駆は︑鎖国時代に出品闘館内に設けられたものである︒

これは平百時は在館者十二名位

(4)

一 一 一 ニ

のものに供給するものであった︒蘭船の入港は正徳五年(一七一五)以後は︑ 毎年二隻に制限されていたが︑関船 碇泊期間中は︑食肉の需要が激増したに相違ない︒ しかしこれは数ヶ月にわたる限られた期間の碇泊中のことで︑

平常は極めて小人数の在館者に供給するものであったから︑ 屠牛場と称するほどの規模のものではなかったに相違

ない︒本来の意味の屠牛場の開設は幕末の開港以後に始る︒

安政六年六月の開港に先立って︑すでに前年の五年(一八五八) 九月頃から︑幕府は稲佐の悟真寺と平戸小屋郷

に︑ロシア人の滞在を許した︒このことは安政六年五月二四日付︑

崎奉行へあてた上申書﹁露人船修復場畑地作徳銀等の件﹂中に﹁右者去午︹安政五年︺九月中旬より︑ 肥前国彼杵郡浦上村淵庄屋志賀九郎助から︑長

魯人共船修

復場に相成候畑地作徳銀其外諸入用:::﹂によって知ることができる︒ これは淵村の庄屋から︑作徳銀の納付を露

人に命ずべきことを長崎奉行に願出た上申書である︒船修復場とあるから︑ ロシア東洋脆隊の一部は︑安政五年七

月十一日(一八五八・八・七) の開国条約調印以後︑直に来航したものと考えられる︒

しかしこの来航は︑安政五年の開国条約に基くものではない︒ この条約の効力が発生するのは︑同条約第十七条

第一項に﹁此条約の趣は来未年六月二日(即千八百五十九年七月一日) より執行ふべし﹂とあって︑安政六年七月

一日以降と規定されているからである︒

この来航はそれ以前の安政元年十二月二十一日 (一八五五・二・一七)に日露聞に締結された修好条約によるも

のである︒これは下回で調印されたので︑下回条約と称されている︒ その第三条には次のような規定がある︒

第三条

日本政府魯西亜船のために︑箱館・下回・長崎の三港を開く︒今より後︑ 魯西亜船難破の修理を加へ︑薪水食料

(5)

欠乏の品を給し︑石炭ある地においては︑又是を渡し︑金銀銭を以て報ひ︑

若し金銀乏しき時は品物にて償ふべ

し︒魯西亜の船難破にあら︑ざれば︑此港の外︑ 決して日本他港にいたることなし︒尤難破船に付諸費あらば︑右三

港の内にて是を償ふべし︒

この規定では船の難破或は薪水︑食料︑ 燃料などの欠乏の場合の入港に限られている口しかし安政五年七月の開

国条約調印以後は︑翌年七月一日からは正式に開港されることになっている事情から見て︑ 右の第三条の規定を広

義 に 解 釈 し て ︑ ロシアの東洋艦隊の一部の入港滞在を許したものと考えられる︒このように解釈しなければ︑右に

引用した上申書中﹁右者去午︹安政五年︺九月中旬より︑ 魯人共船修復場に相成候:::﹂の事柄が︑ 日露聞に成立

しうる根拠がないことになる︒

右のような事情により︑ ロシアの東洋艦隊の一部は︑ 開国に先立って長崎に来航した︒そして稲佐に通商目的で

長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

ない特殊の目的からの居留地の建設を許された︒

稲佐のロシア人居留地は大浦海岸地帯の各条約国人に対して解放した居留地とは別個のものである︒大浦の居留

地は通商の目的のために来往した外国人に対して︑ 永久的に居住することを許した地域である︒稲佐の場合は︑軍

事上の特殊な目的で︑ 一時的に居住することを許した地域である︒即︑ ウラジオストック港が冬期結氷するので︑

ロシアの東洋艦隊に毎年冬期三ヶ月を限り︑ 長崎港碇泊を許したことによる一時的な居留地である︒この慣習はロ

シアが一八九八年(明三一)三月二七日に清国との問に締結した遼東半島租借条約により︑ 不凍港である旅順・大

連を清国から租借した明治一三年頃まで︑約三八年聞にわたって経続した︒明治一二 O 年三月二七日にはロシアの寧

F D  

艦七隻が碇泊していた記録がある︒これらの艦隊の司令長官以下数百名に上る将兵達に新鮮な食肉を供給すること

二三七

(6)

は当時は大きな問題であった︒

二三八

露人達は安政六年(一八五九)五月に悟真寺所有畑地四四 O 坪を借受け︑内一二三坪を牛飼場所とし︑一一二坪を普

請 場

︑ 一

OO

坪余を風自場二五坪を屠牛場と薪置場にした︒乙の件については安政六年五月二四日付︑浦上村淵庄屋

志賀九郎助から︑長崎奉行宛﹁露人借請畑地坪数作徳銀等の件﹂について上申書が出されている︒生牛は日本人から

し か

し ︑

買入れた︒この屠牛場は横浜︑神戸の場合より︑四年乃至九年位早く︑我国における屠牛場開設の起源と考えられる︒

一般的な営業の目的をもつものではな これはロシアの将兵達に生肉を供給する目的に限られて居り︑

ぃ︒その目旧からつくられたも ω

は ︑

次以述べるも ω でぬる︒これが本米 ω

ω 起源というべきであるう︒

大浦の居留地に各国の領事︑貿易商人其他多数の外国人が来往するようになると︑彼等に生肉を供給しなければな

八月に居留地

/一¥/ー¥/一、、/一、、‑tJ'‑‑ー¥/ー¥....‑‑、

一 /.../ 戸,ー‑¥/ー‑¥/ー‑¥〆,ー‑、、

7

〆,ー‑、、〆‑¥/ー‑¥

三 二 ミ

(井戸)

三 二 ミ

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尺一¥ヒヱご 一 一 一 一

三ミ 6

( 三

海 面

らなくなった乙とは当然であった︒文次元年(一八六一)

の英国人から︑同国領事を通じて︑解牛場の設置について︑長崎奉行に

願出たので︑長崎奉行は同年八月一二日付をもって︑幕府宛に上申書を

出している︒﹁英商の内︑牛をひきぎ候者ならびに船匠の者︑居留地外

に住居為仕度旨同国コンシユル申立候に付奉伺候書付﹂と題するもの

RU  である︒幕府の許可が下りて︑解牛場と修船場がそれぞれ建設された︒

文久元年十一月付で︑長崎奉行所居留場掛の福井金平から︑外国人三

名宛に﹁各国解牛場は︑浪の平先手の図面朱筋の海面を築添え五

0 0

坪余貸渡すよう取計うつもりである︒解牛商業の者が増加しても右の

(7)

長崎居留地貿易時代の外人の経営解牛場

2 9

長崎居留場全図慶応

2

年刊

( 1 8 6 6 )

幕 末lとほぼ完成した長崎 外国人居留地の全図

ForeignSettlemnt

, 

Nagasak

i.  長崎の居留地と異人館

NAGASAKI AND FOREIGN SETTLEMENT 

上万図の右端近くの入江が解牛場 (坂本勝比古編,明治時代の異人館,

2 9

図による)

地所に限る︒﹂旨の通知書が出されている︒

右の平面図及び慶応二年刊︑長崎居留場

全図によると︑北・東・南の三万は崖に取

りかこまれ︑西面が長崎港に向って開けて

いる︒広さは約五

OO

坪の入江を埋立てる

ことによってできた狭少な地面である︒最

初の予定では六二 O 坪余を埋立てることに

なっていたが︑実際には約五六 O 坪の地面

ができた︒場所は一戸町村宇古河海岸で︑外

国人居留地から南方のかなりはなれたとこ

ろ で

あ る

翌文久二年(一八六二)六月に掛乙名か

ら︑英・米・葡の各国領事宛に﹁此節築立

出来候に付︑絵図相添:::﹂という書面が

出されている︒その頃埋立工事が完成した

わけである︒また同年八月付︑

﹁ 外

国 人

牛場の儀につき掛乙名より伺出候害付﹂に

二三九

(8)

O

は︑解牛場の総坪数︑建坪︑地代等について︑かなり詳細に記述してある︒

解牛場の総坪数は五五七坪である︒地代については︑ 米国官吏からの申立によれば外人の方では居留地の中等地

と下等地との平均をとり︑ 一 O 坪につき一ヶ年洋銀二 O 枚を希望をしている︒

(

)

乙の価格では引合かねると申立てた︒彼は解牛場から四粁位の北方にある大浦妙行寺下手川筋の居留場の貸地の振 しかし地主である百姓の勝之盈は︑

ム ロ で ︑

一 OO

坪につき一ヶ年洋銀二八枚の地代を要求している︒ 地代はこの価格に定められた D 地代の総額は︑右

の 計 算 方 法 で ︑ 総坪数五五七坪に対し一ヶ年洋銀一五五枚九合六勺と定められた︒

( 註

) ζ

の 関

係 文

書 で

は ︑

解 牛

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は 屠

牛 場

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で は

解 牛

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慶 応

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崎 居

留 場

全 図

に は

︑ 解

牛 場

と 書

か れ

て い

る ︒

解牛所は四ケ所建築される予定である︒解牛所一ケ所は次のような内容をもっている︒解牛所一棟の建坪は二ニ

坪九合︒附属の牛小屋が二軒あり︑各々二二坪余と十一坪余の建坪である︒者人居所は一ケ所で二・五坪の建坪で

ある︒他に板囲塀と柵門が作られ︑海面から海岸への上り石段が構築される︒ 四ケ所建築される理由は︑英・米・

日葡等の各国領事から解牛所設置の希望が出ていたからである︒ 四ケ所共同様の建築であった︒右の文久二年八月付

の文書中に﹁取建万早々取掛呉侯様:::﹂ の文言があるので︑土地の築立はできたが︑建物はこの時まではまだ建

一築には着手されて居らず︑建物が落成したのはそれ以後のことである︒

四ケ所の建物の家賃(宿料)

の 合

計 は

一ヶ年銀十三貫三三三匁三分三匡である︒建物の建築費(入用銀)を銀

囚 O 貫と見積り︑その三分の一宇伊二ヶ年分の家賃とした︒ この四ケ所の建物の一ヶ年分の家賃の合計は洋銀で三七

(9)

O

枚三合七勺となる︒洋銀一枚につき三六匁替である︒ 一ヶ年分の地代一五五枚九合六勺と家賃三七

O

枚三合七勺

の合計は五二六枚三合三勺に上る︒ 一ヶ月四三枚八合勺で︑解牛所一ケ所について︑借 これを十二ヶ月に割ると︑

用者の外人の負担は一ヶ月洋銀一

O

枚九合六勺五才になる︒ 土地は百姓達が築立てたものを奉行所が借上げたので

あるが︑建物は横浜の屠牛所の場合と同様に建築主であり︑且つ所有者であるのは幕府である︒

一八六三年(文久三)七月二八日付︑米国領事ウオルスから長崎地所掛高士官宛の書面によると︑ 解牛場は次の

ように割付けている︒解牛所四ケ所のうち三ケ所について借用希望者即ち︑ 解牛業経営希望者があらわれている︒

第一番デヴイス並アダムス︹英国人︺

第二番レ

l

︹ 米

国 人

第三番カウエナ

︹ 米

国 人

長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

解牛場は大体において文久三年(一八六三)夏頃から開設︑営業を始めたと考えられる︒

周年七月二

O

日付で︑米国人カウエナから︑養牛場として浪の平山手の荒畑地およそ一︑ 000 坪の地面の借請

を長崎地所掛士宮宛に願出ている︒しかし地主である百姓二名から︑養牛場の設置のための貸地は断っている︒理

由は種々の面倒なことが生ずるのをおそれたからである︒

解牛場では多量の水を必要とすることは明かである︒その水源の確保は重要な問題である︒解牛場の山手寄の東隅

に井戸︑があったので問題は容易に解決した︒乙れは海岸を埋立てる以前からあったものである︒解牛場から少しは

なれた崖の下で︑地形的に容易に湧水し易いところである︒井戸の使用料(地料)は一八七三年(明治六)六月六日

ヴ ︐ .

から一ヶ年十二円五

O

銭と記録されている︒廃物の処理については︑港外に船ではこび海中投棄の方法がとられた︒

二 四

(10)

二四二

この外国人経営による解牛場は︑長くつづかず︑明治十四年(一八八一)以後は︑次第に輸入された石油の貯蔵

所に変更され︑その目的で外国人に貸渡されるようになった︒即ち︑ 十四年十一月から解牛所第二番地区七五坪九

合は︑英商アダムス商社に解牛場並に石油貯蔵所兼用として貸渡されることになった︒ また第一番地区一七三坪余

は ︑

明 治

一 二

O

年三月からニユ

1

・ョ!ク・スタンダード石油会社に石油貯蔵所専用として貸渡された︒石油貯蔵所に

変更された理由は︑邦人経営の屠牛所の出現により︑それとの競争上︑外人経営の屠牛所が経営困難に陥ったことに

よるものであることは明かであろう︒横浜・神一戸何れも開港後︑間もなく外人によって屠牛所の開設と経営の先鞭

をつけられたが横浜は明治七年以前に邦人経営のものができて居り︑ 神戸もすでに明治四年には邦人経営のものが

開設されている口長崎の場合も明治初年頃から邦人経営のものができたと考えられる︒この点については後述する︒

明治十四年十一月に長崎県から発行した屠牛場第二審証書によれば︑ 屠牛場第二番地区七五坪九合を周年一

O

一日(一八八一・一

0

・一)から︑次の条件に従って英国商人エム・シ

l

・アダムス商社に貸渡すことになった︒

第一条

借地料一ヶ年一

0

八ドルとす︒但し毎年七月 坪︑メキシコ銀三七ドルの割︑即︑七五坪九合につき二八・

O0

一日長崎県庁に前納すべし

第二条

右地所は解牛場並に石炭油に限り貯蔵兼用のために貸渡す︒他の物品は一切貯蔵を許さず

(以下第三︑四︑五︑六条略)

なおこの地所の借地権は︑明治二八年九月一六日以後︑英国人メリ

l

・アダムスが譲受けた︒ 乙の証書に次の

(11)

文面が附加されている︒これは後で附加したものである︒

本証書面の所借地明治二十八年九月十六日以後英国人メリ1・アダムス譲受けたることを公認す

また屠牛場の第一番地区一七三坪余は︑

l

・ ヨ

l

ク@スタンダード石油会社へ石油貯蔵所専用として明治三

︒年三月から向う一0ヶ年貸渡されることになった︒

地所貸渡証書

米国ニュl

i

ク・スタンダード・オイル石油会社支配人エス・デ

llルンえ古河町屠牛場第一番

地一区一七三坪三合二勺を明治三

O

年三月一日より明治四

O

年二月二十八日まで︑

0ヶ年間左の条件で貸渡

すことを証す

第一条

長崎居留地貿易時代の外人経営併牛場

借地料一ヶ年一

OO

坪︑メキシコ銀三七ドルの割︑即︑一七三坪三合二勺につき六四・一三ドルとす︒但し毎

年四月一日長崎県庁へ前納すべし

第二条

石炭油に限り貯蔵するために貸渡す︒他の物品の貯蔵は許さず︒

明治三十年三月一日

大森

長崎県知事

明治一四年には解牛場ならびに石油貯蔵所兼用として貸波されるようになったが︑乙の当時まではまだ外人経営

の解牛場がまだ余命を保って居り︑また石油の輸入額も専用の貯蔵所を必要とするほど多くはなかったのであろ

ぅ︒三

O

年になるとニュ

l

・ヨ!ク・スタンダード石油会社に石油貯蔵所専用として貸渡されることになった︒こ

二四三

(12)

の時代にはすでに外人の解牛場はなくなり︑ また石油の輸入室も三十一年度は一六年度の四・二倍に増加している

乙とから見て︑専用の石油貯蔵所を必要としたことがわかる︒

石油貯蔵所設置の必要が生じたことは︑ 文明開化の発展により燈火用及び工業用として石油の需要が著しく増加

したことによるものである︒しかも長崎港はその当時︑九州唯一の石油集散地であった︒解牛所が石油貯蔵所に変

更された理由は次の二つの事情に基く︒付はそれ以前から邦人の手による屠牛場︑即ち︑ 浦上山里村の村営屠牛場

と浦上地区松山町に民営の屠牛場が設置されたために︑それらの屠牛場との競争の結果︑外人経営の解牛場の採算

がとれないようになったので︑早晩廃止の運命にあった乙と︒ 同外人経営の解牛場は人家からかなりはなれたとこ

ろにあったので︑石油炎上などの万一の災害発生の場合︑比較的安全地帯であった乙と等である︒

石油貯蔵所といってもまだその頃は巨大な石油タンクが建造されたわけではない︒米国から輸入された箱詰の石

油鐘の貯蔵所にすぎなかった︒石油タンクについては︑ 石油輸入の増加と共にその必要が感ぜられるようになり明

治二六年五月に松尾己代治が︑西泊に石油タンク設置の許可をえた︒西泊は長崎港内で︑右の戸町の外人屠牛所の

港口に一一間接近した人家の稀な海岸の一部である︒そのほか港内の奥深いところにある稲佐 対岸の方向にあって︑

方面にも設置を計画するものが出た︒そこで港内漁民の反対運動が起り︑ 周年十一月‑日の市会で一議員から次の

ような発言があった︒ ﹁神戸の和田仰に石油タンクが設置された結果︑ 運搬取扱の際に石油が漏せっする外︑タン

クに陸揚後︑船体を洗い︑船内掃除に使用した糸屑︑網屑︑ぼろ布を放棄するため︑ 海水に臭気が附着し︑魚類の

繁殖を妨げるので調査中と聞いている︒汐流の急な神一戸でこのような被害があるとすれば︑長崎港は袋の底の観が

あるので︑被害は遠く港外の福田にも及ぶであろう︒ 港内の魚族が尽き︑魚の供給は茂木方面だけに限られること

(13)

になれば︑市民生活にに重大な影響を与えるから︑タンクの設置には極力反対しなければならぬこという反対意見

を述べた︒そこで︑同月二十八日に市会の議決で調査委員五人を挙げて利害を調査させることなどして︑港内奥深

その後港内に石油タンクが建造される

QO ことはなく︑港口の神崎︑女神等か或は港外の木鉢︑小瀬戸︑土井首等の海岸に多数建造された︒ くタンクを設置する乙とに対して反対意見が強かった︒右のような関係で︑

長崎港並に全国での石油の輸入額は遂年増加している︒長崎港では明治六年には繰綿︑石油の順で︑輸入金額の

第一位︑第二位を占めていたが︑一六年には石油︑繰綿︑油かす︑二六年には繰綿︑米︑石油︑油かすの順位にな

った︒ゴ二年以降は砂糖︑米︑繰綿︑油かす︑石油︑鉄類︑機械類等が主要輸入品になっている︒石油については

九州全土に供給されるものは全部長崎港に輸入された︒長崎から三十一年一月中に九州各地へ供給された石油は左

Q U  

表のように︑二三︑

000

余箱に上っている︒

長崎居留地貿易時代の外人経営陣牛場

O七一箱

I

J

鹿児島

五︑五O九箱

二︑三九O

口H.J

円H

l'

一 ︑ 一 二

O O

O

O

L

一一七箱

(14)

壱岐・対島

七六箱

その他 五 O

その後︑九州における各治の発展に伴って︑ 長崎港の石油輸入の独占的地位は失われたが︑発動機漁船漁業の発 達により石油の輸入を促し︑また燃料として重油の輸入が増加した D

明治時代の長崎港における石油輸入金額を全国との対比において次に示す︒

とが看取される︒ 全国では飛躍的に増加しつつあるこ

二三︑九四七円一一一一一四︑五二五一二五一一︑九

O

七一九五一一︑五

0 0

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0

O 二 O

0

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ー皇ー・

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外人経営の解牛場が明治十四年頃から︑石油貯蔵所に変更されたのは︑ 浦上山里村に村営の屠牛場とその近くの

松山町に民営屠牛場が開設されたことによるものであろう︒居留地の外人用だけでなく︑ 明治に入ってから邦人の

間にも急速に食用肉の需要が増加したことが考えられる口邦人はスキヤキと称する我国独特の美味な牛肉調理法を

発明し︑その晴好が急速に普及したことは顕著な事実である︒

船舶用ならびに内外人の問に食用肉の需要が増加したために︑ 従来の外人経営のものだけでは間に合わず︑より

大規模の屠牛場の必要が生じた︒ それに応じて邦人経営のものが浦上地区に開設されたが︑浦上地区は牛・豚等の

供給の点で︑戸町地区より交通上はるかに有利であった︒また水の供給の使も良好であった︒ 浦上地区ならば農村

(15)

であるために︑牛・豚を屠牛場の近傍で入手できるが︑外人経営の戸町の屠牛場までは︑牛・豚の供給地である浦 上山里村から約十数粁の陸路を牛を引いて行くか或は海上を船で運送しなければならなかった︒外人経営のものは

それとの競争上︑とうてい太刀打できなかったであろうことは明かである︒

浦上山里村の村営屠牛場と松山町の民営居牛場が開設された年度は明かでない︒山里村役場関係の資料は︑

場が原削減中心地のすぐ近くであったために︑

すべて焼失して現存しない︒本年八十才になる古老森田喜二郎民の話 では︑今から七

O

年前即ち︑明治二八年頃には︑村営の屠牛場がたしかに存在して居り︑同氏がいつも飼犬の餌を 買いに行ったとのことである︒場所は今の大学病院の北側の崖下の谷間であった︒その近くの松山町の民営屠牛場

については同氏の記憶にはないとのことである︒食用肉の需要増加に伴って︑

明治五年頃すでに長崎の市街地で養

豚をなす者が増加した事実を考えると︑その処分場所である屠牛場の実際の建設年度は︑横浜︑

神戸の場合と同様 長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

に明治初年であったと考えられる︒

長崎港に出入する船舶からの需要増加と居留地の外国人だけでなく︑市民の間にも食肉の晴好が普及するに伴っ

て︑食用肉需要の増加に応ずるために︑長崎の市街地内に養豚をはじめる者が泊加した︒しかし盛夏にいちじるし い臭気とその不潔さから︑明治五年に市中での養豚が禁止された︒従って養豚業者は浦上地区に移転しなければな らなくなり︑その地区が長崎での養豚業の中心地になった︒その頃から浦上山里村々営の屠牛場ならびに松山町の

民営の屠牛場が開設されたであろう︒何れも船舶ならびに市民に対して食用肉を供給して︑良好な成績を示してい

た︒しかし明治三十九年に公共団体に限り︑

底牛場設置を許可する居場規則が公布された︒そこで長崎市もこの規

則にもとづき︑市営居場の設置を計画し︑その建設に着工したが︑

既存の二居場から強い反対をうけ︑工事は一時

二四七

(16)

二四八

中止となった︒松山町の民営屠牛場は事業の継続を希望し︑市と交渉の結果︑ 明治四十二年六月までをその存続の

期限とし︑それ以後は建物と附属物を一切市に無償譲渡する乙とに市との聞に契約が成立した︒市は明治四十三年

一月に︑当初予算三︑二二九円に一︑三三七円を追加して市内稲佐町(現長崎市立養老院の位置) に市営居場を建

設 し

た ︒

市営居場開設当時は使用料収入は順調であった︒ しかし浦上山里村々営屠牛場との競争が激しくなるに従って︑

広い販路と手なれた経営に一日の長がある村営屠牛場に圧迫されて次第に経営が不振となり︑しかも居場従業員の

不正事件が生じて事業収入はさらに低減した︒大正九年に第二次市域拡張により︑ 浦上山里村が長崎市に編入され

村営屠牛場も市営に併合されたので︑それ以後は市営居場一本となり︑現在にいたっている︒

転して居り︑現在は住吉町にある︒ その後居場は数回移

船舶用としての食用肉の需要増加も考慮しなければならない︒安政六年の開港当時長崎は貿易港として最優位に

立ち︑我国輸出入貿易金額総額の五七%を占めていたが︑地理的関係から︑ その優位はすぐ横浜に奪われ︑逐年貿

易額は急速に減少して行った︒明治二年から十年頃までは︑ わずかに五%乃至八%位を占めるにすぎなくなった︒

従って内外汽船の出入もそれに伴って減少した︒しかし日清戦役前後までは対支︑対鮮︑

対露航路を独占してい

た︒明辺八年二月には三菱会社が海運業を営むために︑ 居留地内に支屈を開設した︒大阪商船会社は明治十七年五

月に支屈を開設し︑日本郵船会社もその翌年支屈を開設した︒ これらは内外汽船貨客の取扱をした︒ホーム・リン

l

商会などの外国商館は︑外国汽船会社の代理屈として︑ 専ら外国船の貨客を取扱った︒

二十四年四月にはカナダ太平洋汽船会社の第一船エムプレス・オブ・インデイア号が入港している︒乙れはホン

(17)

コン│パンク

l

i

間の定期航海路線で︑ 途中での長崎寄港は毎月往路と復路の二回である︒同様に米国太平洋汽 船のホンコン

l

サンフランシスコ線は毎月往復二回寄港している︒明治中葉には長崎を起点とする近海航路は七線

を数え︑内外定期及び不定期船の寄港が多く︑海港として我国における重要な地位を占めていた︒ 明治二十六年七

月中の出入艦船は軍艦・商船を合計して(帆船を含まず) 五一五隻に上っている

Q

二九年二月一五日の港内には内

外七ヶ国の軍艦一七隻︑汽船四三隻が碇泊していたことが記録されている︒ 四三年中の内外汽船の出入は九︑六六

三 笠

一 O ︑九二三︑四七六トンに上っている︒

明治二十二年二月には長崎製氷会社が設立され︑八月から製造販売を開始した︒漁業用のほか船舶の冷凍設備用

に供給された︒この当時入港した艦船には冷凍設備があったことは明らかである︒ この冷凍設備は長崎港における

艦船の食用肉の需要を減少させるものではなく︑かえって高めるに役立ったであろう︒幕末から明治初年当時は船

長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

舶に冷凍設備がなかったので︑ 入港地の長崎・横浜・神一戸に外人経営の屠牛場を必要としたことは明かである︒し

かし船舶にかかる設備ができた後は︑船内での牛肉の大量貯蔵が可能になったので︑船内の料理が改善され︑肉類

の使用量の増加が考えられるからである︒当時の船舶の運航速力では︑港から港への航海日数が長くしかも当時の

幼稚な冷凍能力では︑外国の一港で多量の生鮮肉を仕入れることは多大の危険と困難とが伴ったことは明かであ

る︒従って各入港地で生鮮肉を仕入れねばならなかったであろう︒ かかる意味で船舶用の食用肉の需要も逐年増加

し た で あ ろ う ︒ その当時の艦船の冷凍能力については︑戦艦ポチョムキン号の反乱事件を想起せざるをえない︒

冷凍能力が現在のように発達していたならば︑かかる事件は起らなかった筈である︒

乙の事件はロシア第一革命

一 九

O 五年(明三八) 六月十四日に同艦の昼食のス

l

プに腐肉が使用されて

( 一

O 五

l

七)の高揚期に起った︒

二四九

(18)

O

いたので︑水兵達が食事を拒否したことが事件の発端であった︒

後年和牛の肉の美味な ζ とが広く内外に知られるようになったが︑ この頃まではかかる事実はなく︑この方面か らの需要の増加は考えられない︒明治十五年頃までは︑和牛の品種改良が進まず︑ 和牛の肉がよくないことが記録 されている︒従来︑我国で飼育されて来た和牛は乳牛として用いることができず︑ また食用肉としても︑輸入洋牛 の平均斤量が六五

O

斤もあったのに対し︑ 和牛はわずか三

O O

斤位しかなく﹁日本牧牛ハ養法其術ヲ得ザルユへ体 躯甚小ニシテ肉モ亦下味﹂と言われた︒ ζ のため政府は外国から︑極午・馬・豚を輸入してロ同和の改良を図ると共

に︑繁殖のための保護を与えた︒

横浜・神戸の外人経営屠牛場

横浜・神戸の場合も屠牛場の開設は︑長崎と同様に外国人の手によって初められた︒ これは明治初年当時まで︑

我国の社会全般に牛・豚肉食用の慣習がなかったことによるものである︒ 豚は我国では飼養されていなかった︒

横浜では元治元年七月(一八六四・八)現在で︑ 居留地内に五乃至六ケ所の居牛場が開設され︑その経営は英国

人 (

g 同 仏

28

ロ と

2 当

3

米国人

( )

仏 国

人 ︑

スイス人︑オランダによって行われていた︒しかし︑

英米両国の経営者は廃物の処分にあたって︑ 外人社会の健康や娯楽の妨害にならないように細心の努力を払い︑各

人が充分な数のボ

l

トを所有していたので︑ 居留地から三マイル乃至四マイルはなれた海中に投棄した︒しかし他

の 三 ヶ 国 の 屠 夫 は ︑ この点に何の注意も払わなかった︒またこの頃︑英国海軍用地(海軍物置所) に近い海浜で臓

(19)

物を洗うものがあり︑海軍中将キューバーからその停止万を︑ 英国領事ウインチェスターに依頼した︒そこでウイ ンチェスタ

i

は︑不快な悪臭を除去するために廃物を一そう遠くへ運ぶ乙と︑新しい屠殺場を指示されれば早速と りきめることを神奈川奉行に厳重に申入れた︒幕府もその年の七月上旬に︑ そのための地域の提供を約束した︒幕

府は同年八月に本牧峠と山手の中間に位する海岸に面した好適地に公設屠殺場の設置を決定した︒ その後幕府は居

留地内の各国人の屠牛場を北方村宇小湊山下の人家のない海浜に移し︑

それぞれ英・米・仏・関・独の各国人に貸与したーその経営は各国人の計算で行われた︒居牛場に関する日本側と ここに官賀で屠牛場家屋を造営し︑五区を

の取権は︑その年の十一月に調印された﹁横浜居留地覚書﹂

ベ ︒ 討 ︒

} g B m )

第四条氏規定された︒

5 0

句 ︒ 円

‑ m ロ

ω 2

2 0 目

︒ 三

( 宮 σ

O

ω

ロ 門 田 口

B

向 ︒ 円

横浜居留地覚書

長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

第四条 外国人のみならず恐らく日本人のためにも健康を破るへき害を避けんとして︑ 屠牛舎を造営せんがため

海岸において一個の場所を示しおけり︒故にかねて差出しおける図面通りに︑緊要の舎屋を延引すること

なく︑日本政府にて造営せらるべきを今約定せり︒ E コンシユルの許せる屠者の外はみだりに立入ること

を禁ずべし

o E 右舎屋落成せば︑ 建造の入費高一割の租を年々払うべし︒もっとも建造の失費は銀一万一元

LI出h

いささかの増減あるべし︒もっとも真の高はコンシユル等と取極むべし

地代は長崎の居留地の山手なみの一

00

坪につき一ヶ年十二ドル︑ 波止場使用料として各居夫は一五ドル︑家賃

として建造賀の十五%をそれぞれ支払うべき乙とが︑外国側から提案された︒ それがどの位に決定されたかは明で

ないが︑おそらく提案と大差ないところで決定されたであろう︒また屠牛場の建物の保持者は︑ 火災・地震または

(20)

二五二

険風により破壊される場合を除いては︑それを修繕し︑維持しなければならないことを外国側から提案されている︒

長崎の場合は地代は先に述べたように︑ 一

OO

坪につき一ヶ年洋銀二八ドルに定められた︒横浜の方が半額以下

ではるかに安いのである︒長崎の地代が高価である理由は︑ 長崎の場合は地域が狭少であり︑しかも他の京都・江

一 戸 ・ 大 阪 ・ 堺 等 の 諸 都 市 と 異 っ て ︑ 明治六年七月までは徳川時代から引つづいて地子銀を政府に上納しなければな らなかった関係からであろう︒地子は徳川時代専ら都府市街屋敷等の宅地に課する正租であり︑ 銭又は銀で徴収さ

れた︒しかし実際は多く免除されていて︑地子を課せられた場所は少かった︒京都の地子は織田信長以来永久に免

除され︑江戸の地子も徳川氏によって免除された︒また大阪・堺・奈良等の地子銭が︑寛永十一年に家光によって

免除された︒長崎だけは元和年間秀忠が︑ その海岸を埋立てて地子銀を課して以来︑埋立地の拡張毎にしばしば地

子銀を増徴され︑長崎地子銀はこの時代の地子の下で最も主要なものであった︒明治維新後も地子はしばらく従来

の慣例を維持された︒維新政府の基礎が確立するに伴って︑従来の地子免除の地に課税する方針をとり︑ 明治五年

一月先づ東京府下の市街地に地券を発行して︑地価百分の一の地税を課した︒ 次いでこの制度を次第に京阪その他

各県の無税の都会地に及ぼすことにしたが︑翌六年七月地租改正条例発布の結果︑ 従来の都会地は市街宅地として

田畑山林又は郡村宅地と同様に︑地価百分の三の地租を課せられることになり︑地子の制度は全く消滅した︒

一 八

O 年(明一ニ)十一月一日に屠殺に関して横浜居留地取締役規則を布告した︒

ト )

横浜外国人居留地内では牛・馬・羊・豚の屠殺を禁ずる︒

屠殺その他の営業者は︑右居留地内でこれらを畜養するととを禁ずる︒

この規則の違反者はその領事へ引渡し︑その処置を請うべし︒

(21)

明治元年六月に英人 は︑屠牛場の地所の一部を貸与され︑自費で屠牛場を建設した︒彼は同年に神戸

(

V U 1 )

の海岸通でも屠牛場を開設している︒ また五区のうちオランダ屠牛場は明治三年八月に経営をやめ︑その家屋など の施設は売却処分になった︒フランス人経営のものは五年七月に返還して来たので︑ これを後にドイツ人ド

l

グ ラ

スに貸与された︒米国人経営の屠牛場は︑ 明治六年四月にその破損がはなはだしいために修繕を懇請して来て︑

れが認められて七月に修理が完成した︒しかるにこの屠牛場の地代︑家賃および牛税などは数年間滞納し︑しかも

この屠牛人パージエスは病死して︑その他の負債も多く残し︑後継者もいなかったので︑政府はこれに破産の宣告

を下した︒米国領事シェパードはこの屠牛場を別の人に貸与させるべく︑ 洋銀二ハ七・八ドルを添えて︑明治六年

六月に神奈川県令大江卓につぎのような趣旨を申入れた︒

﹁このたび破産したブルジエス社中に関する訴訟金︹負債の弁済金︺の内渡として︑ 洋銀五

00

ドルを去る四月

長崎居留地貿易時代の外人経営解牛場

二日に差出すよう同社中に申進めておいた︒なお右の他一六七ドル八 0 セントを納付致します︒両者の合計は六六

七ドル八 0 セントになる︒これは一︑五 O 六ドル二三セントの負債高の四五

M m

相 当

す る

の で

すべて他の債権者

にも同等の割合で弁済して頂きたし︑云々:::﹂

これにより権令大江卓は︑七月大蔵省事務総裁大隈重信にあてて︑右の事情を伝え︑ 新な屠牛人は社中を結成し

ている様子であるから九修繕金一︑一ニ O 九円余の許可を乞う旨を申請した︒ これに対して参議大隈は九月二二日に

指令を下して︑修繕の件に許可を与え︑かつ落成のとき清算内訳帳を提出すべきこと︑ 滞納税取立金のうち︑免許

税および地代洋銀合計三一一・三五ドルは租税京へ︑家賃洋銀三五六・四五ドルは土木寮へ別途納入すべき乙と︑

および今後は約定期限には速かに取立て上納されるよう注意すべきことを指令した 1

(22)

二五四

横浜の場合も長崎と同様に邦人経営の屠牛場の進出によって︑外人経営の屠牛場が次第に採算がとれなくなって

きた結果︑衰退の傾向にあることが以上の諸事実によって看取される︒ これは長崎・横浜・神戸の各港に共通する

当然の成行であろう︒その頃居留地外国人と入浴船舶数の増加︑ また邦人の問で牛肉晴好の急激な普及などにより

食用肉の需要が急速に増加した乙とは明かである︒従って屠牛場の経営は当時の新しい有望な企業であって︑利に

さとい邦人が見のがす筈はなかったのである︒畜類買入の使︑人件費其他の点において︑ 外人経営のものが邦人経

営のものに太刀打できなかったであろうことは明かである︒

横浜港での邦人経営の屠牛場は︑明治七年七月以前からすでに存在して居ったことは︑ 同年七月二四日付大久保

内務卿の神奈川県令中島信行に対する指令のなかに︑ 邦人の屠牛場の地所の坪数と家屋の建坪などを詳細に調査報

告すべき旨があるので明かにする乙とができる︒右についての調査報告は︑

東直砥から︑内務卿伊藤博文宛に出されている︒ 八月十三日に中臼県令代理・県参事山 横浜の北方村の屠牛場の移転問題はすでに明治四年頃から問題になった︒ その近辺も次第に繁栄して人家が軒を

つらねるようになり︑屠牛場に近接している外国人から二・三年前から臭気がはなはだしく︑ 人に与える害も少く

ないとの苦情が盛んに出るようになった︒そこで英国領事から︑本牧木郷村字八王子山下への移転を要望して来

た︒乙れに対して政府は許可を与えている︒ n M

横浜の場合︑外人により皮類製作所の設立が︑屠牛場に隣接して︑ 明治五年七月に許可されている︒横浜は開港

後居留地の外国人の数が︑他の開港場よりもはるかに急速に増加したので︑ 屠殺される牛・豚数も多かったことは

当然である︒従って外国人による皮類製作所の設立も採算がとれる見込があったのであろう︒

(23)

明治三年すでに横浜では次表 ω ように︑在留外国人(支那人を含まず

o )

の数は九四二人に上り︑

の在留外国人合計の六O%を占めている︒

b  口

9 4 2  

3 1  

(1

0 2 8 )  

3 3 4  

6 4  

4 0  

1 0  

1 9 6  

長崎居留地貿易時代の外人経営航

{ t j

明治

3

年全開港場国籍別人口去

( 1 8 7 0

1 2

3 1

日現在)

: : : M  

2 1 2 1 2  

2 1 7  

1 0 1   3 

ブ一ブンス人

4 1  

2 6  

1 2  

p h U 7 t a

門/﹄

7 1 d 斗 つ

1 2  

抗山HJR1 

全国の開港場

また明治十年(一八七七) には︑次表(上馳)

のように︑横浜での在留外人の数(支那人を含む

) は

二 ︑

五O一人の多数に上っている︒これは全

開港場の在留外人(支那人を含む)四︑ 五九九人

の約五五%に当っている︒明治十年代には︑横浜

の在留外人は全国の五五%から六四%の聞を上下

している︒また外人商社の比率においても︑横浜

は次表(下段)のように︑明治十年代に全国の五

九%から七二%の間を上下している︒

横浜の皮類製作所はドイツ人クニフレルが経営

した︒彼は明治二 l 四年頃︑長崎で︿︒ロ﹁同巳

同 町 目

m g

品︒︒・の商号の下に貿易商として活動し

たことは︑その頃の訴訟事件記録中に︑その名が

皮々出てくるので明かである︒また彼はすでに安

政六年(一八五九)九月に横浜に向い︑文久二年

(24)

(一八六二)には横浜で商館を経営する商人であった︒更に神戸の開港と共に︑

A却

人として︑その名を連ねている︒

明治 1 0

年代横浜在留外国人対全開港場在留外国人比率 +

全 開 港 場 横浜比率 年次

欧 米 人 何 人

B

欧 米 人 一 人 口

C  I D 

1 8 7 7   1

3 5 9   1

1 4 2   2

1 0 7   5 % 5  5   % 4   

1 8 7 8   1

3 7 0   1

8 5 0   2

, 

3

0 2 8   5 5  

1

3 9 4   2

2 4 5   2

, 

3

6 4 9   5 8  

1 8 8 0   1

3 7 6  

2

2 5

0 4 5 5    2

, 

3

5 8 4   5 8  

1 8 8 1   1

4 9 8   2

, 

2

, 

3

5 5 3   5 9   6 3  

1 8 8 2   1

3 6 6   2

1 5 5   2

, 

3

5 4 5   5 8   6 1  

1

2 8 7   2

6 8 1   2

, 

4

1 3 8   5 4   6 5  

1 8 8 4   1

2 2 9   2

4 7 1   2

, 

3

7 6 9   5 1   6 6  

他国人に雇用されるものを除く。

明治

1 0

年代問浜欧米商社対全開港場欧米商社比率

7 %  2  

F

I

I I

‑ 5

1 u

一 院 一

2 3 2  

2 4 3  

明治lO

( 1 8 7 7 )

6 8  

6 8  

7 8 )  

︐ ︐ ︑ ︑

aEEE

最も早く神戸に来た外国商人の一

6 2  

6 3  

2 3 1  

2 5 8  

1 5 7  

1 5 9  

1 7 0  

7 9 )  

8 0 )  

8

1) 

8 2 )  

1 2 C  

1 3 C  

神一戸の場合も長崎・横浜の場合と同様に︑屠牛場は先づ外国人によって開設された︒

慶応元年に兵庫沖に来泊した外国軍艦一の乗組員等が農家で牛肉を買求めようとしたが︑

がなかった︒そこでやむをえず長田村の午商人を説得して︑生牛類を入手し︑

2 6 8  

1 4 C  

5 9  

6 3  

6 2  

2 2 2  

2 0 8  

1 9 9  

農民は嫌忌して応ずる者

1 3 0  

1 3 2  

1 2 4  

8 3 )  

8 4 )  

1 5 C  

1 6 C  

1 7 C  

艦内で屠殺した D 後では和田岬で屠

(25)

牛を行ったと言われている︒明治元年以降︑外国艦船の出入が頻繁となり︑ また外国人で神戸に来往する者が多く なったので︑英人カ

l

ビーが明治元年中に︑神戸海岸通の酒造庫を借りて︑屠牛場を経営した︒彼は前述のように

横浜でも同年七月に屠牛場を開設している︒

明治三年神戸・大阪二港の在留外国人数は三三四人を占め

横浜の九四二人に比べて︑全国中第二位を占めている口また明治十一年末には︑次表(上段)に示すように神戸・ 前掲の﹁明治三年全開港場国籍別人口表﹂によれば

大阪の在留外人は九二一人に上り︑横浜の三︑二二 O 人に次いで全国の第二位を占めている︒

数の一六%余にあたる︒また明治十一年における外国商社数では︑次表(下段可のように︑ これは全国在留外人

横浜の一六五社に次い

で︑五五社を占めている︒これは全国の約二 O%

に あ

た る

前記の英人カ

l

ビーが経営した海岸通の屠牛場は︑市民の抗議により廃業した口 しかし当時別に英国人が小野浜

長崎居留地貿易時代の外人経営

f u 7

?L!

海岸に屠牛場を閃いていた口この屠牛場は慶応年間生田川の東岸の河口近くに開設されていた︒

哨 り

bIW 

神戸港全図に屠牛場として掲示してある︒後に仏・米・清の三国人が参加して︑ 乙れは慶応年間の

共同して屠牛場七ケ所を設けた︒

生 牛

の 供

給 は

メリケン波止場前の墓地に牛馬市場を開いていた邦人によってなされた︒ 明治三年に藤田泰蔵が外

人経営の屠牛場に隣接した地所を県から借りて︑諸鳥獣取締商会を設け︑牛馬の売買を開始した︒

邦人経営の屠牛場が神戸で開設されたのは明治四年である︒同年に前記の藤田組︑ 宇治野組︑神戸組︑大栄組及

び京都の京都組等の商社が連合して︑小野浜に鳥獣売込商社を設け︑外国人牛豚家畜類を供給し︑ 同時に屠牛場設

置の許可をえた︒乙れが神戸で邦人による屠牛場経営の起源である︒ 周年二月御崎村(湊川の西南方で兵庫沖の方 向)弥三郎という者が︑諸地方の博労に交渉して商社を組織し︑牧場を東尻池村(兵庫海岸) に設ける計画をたて

二五七

参照

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 大正期の詩壇の一つの特色は,民衆詩派の活 躍にあった。福田正夫・白鳥省吾らの民衆詩派

一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

賞与は、一般に夏期一時金、年末一時金と言うように毎月

その認定を覆するに足りる蓋然性のある証拠」(要旨、いわゆる白鳥決定、最決昭五 0•

モノーは一八六七年一 0 月から翌年の六月までの二学期を︑ ドイツで過ごした︒ ドイツに留学することは︑

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