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(1)

英國古代より十三世紀までの經濟史

重 藤 威 夫

︼の堕問体系に於いて輿間が宥すゑ思端は'その野間体系での偶々の主題についての探い詳細にわたる考察をなすの

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いてはその堪間埜㌫宥すべきすべての主題をでき得る限り洩れな‑網羅することが要求されると共に・各主題隙の垣

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於ける間題の所在を示すと共に︑その解決に努力することが必要であり︑そして全体の論議に於いて嘉した嘘場が保持されねばならない︒

以上はますべての.堕間に於ける概説が要求される紹鮎であると考えられるが,経済史の概説に於いても同様である︒

以上の諾釦藍輿に生かすについては・個々の主題についての原史料の裏付骨が必要であり・経済史全般にわたっての

原史料えのt=J接的研究が璽柵され渇のである0これが一般に嬉兜箪研究の正統的方法であるが,我国にあって西洋経

祈史車研究する場合︑原史料の存在が甚だ乏七という事情から'右の要請を充たすことは殆んど不可能に票︒従っ

て︑挫折史概詮藍掌る場合には'右の詔鮎については,西洋の碩堕の著述に専ら伐存せざるを得ないoこの概詮につ

' Ch en ey :A nl nt ro du ct io nt ot he ln du st ri e an dS oc ia lH is to ry of En gl an d. (R ev .E d. 19 20 )

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.

(2)

ハ一)イングランドの地川l!プリテンのな山は欧州大陸の西北に成わって居り︑英側海峡と北海とによづて︑大陸

から陥てられている︒設も泣いところでは二O切にすぎ宇︑回収も速いところで三

OO

哩を越えない︒市北にわたる英図

の設長距離は三六五哩であり︑川以も川が山川いととろは二八O哩である︒その面積は︑ウヱlルスを含めτ︑五八︑コ三O哩で︑フランス或はドイツの川分の一上ザ混分か大きく︑イタリーの丁度字分であり︑ペンシルベニア或は一一ユ1

l

(

. 1 うイングランドは狭義のもので︑ス'コツトランドとアイルランドを合まない︒)

鳥図の脊梁山脈は川市川.作に刈って川り限引い花山岡山石と火山岩とから博成され︑その高さは二・三千吠である︒それは

一つの注統した山脈ではなく℃.放川の八川除した山脈となっている︒これらの山脈の東側の山肢とそれ以外のすべての

土地の地下は︑れ肘が山川じていろ︒これらの岩府の堅い部分は︑イングランドの東部及び東南部地方で︑君︒

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印と呼ばれているととろの.長い山嶺として隆起してい右︒柔かい岩居は︑︐次第に庚い谷間に砕eけ去っτ

南部と長北部の大部分の河は︑続くて良市一に海に注いでいる︒中部地方の河は比較的に長くて大きい︒土地が︐次第に

沈下しつつある結果として︑地質問γ上の於泣の世代に於て︑加仰が会海岸を通じτ或程度河筋を上って来ている︒

英図︒気候は︑商学球のラプラドルや︑北ドイツや巾市ロシアの同一純度に比絞すると︑温和であり又寒段の差がそ

れほ左側しくない︒とのことは伎一課な市西成によって︑市大四かの段かい炎而の海流が英図の海岸に打ち寄せられ︑か

︿てその対伎を和らげるという事置によるものである︒

かかる池山的牧民は︑英図の淫命に限りなき影響を興えてきた︒古代から中世にかけて︑英図の位置は世界の中心か

らあまりにかけ限れていたのでその時代には英図は殆んど目立たない存在であった︒ととろが︑十五世紀以降になる

と︑英悶の悦也は京間前牛球に封して同じように開かれて居り︑北方や市方の図々に封しでも同様であって・︑明らかに

文明世界の中心的はむを占めるようになった︒

英国が・月間であり又大陸に筏近して居ったために︑古代には度々侵略を受けたが︑海半力を確保した後では︑その孤

立的位置がかえって犯立を保持するに役立った︒そのことは突国の文物諸制度の後訟を鈍いものとしたが︑同時にそれ

}

(3)

は諸外閣の風習を皐び叉同化する機合を興えた︒英図が犬陸から海によって隔てられているととは︑特殊な永銭的︑佐図

家生活を管むに幸したが︑他方に於て︑大陸に近いととは︑欧州の中心的諸図家を動かした重要な諸問題に関興すると

J山脈や高地地方には鋭︑銅︑鈴︑幼年の似物資源が盟合同に埋賊されて居って︑古い時代から採掘されていた︒陶土

や岩塩も存在して居り︑附土は中部地小心の民い純川にわたって工業の基礎を奥えた︒しかしト英国の銭物資源中でム最

重要性をもつものは行川氏である︒行決は以も川品目に存在し︑北部と西部の多数の地方で採掘されている︒中世紀には一品

質上知られて肘ら歩︑近代の仰測に入クてわポかに利川されたにすぎないが︑十八・十九世紀を通じて︑英図の石炭は

その大なる尚工法俊民の主なる法院となった︒

/図土の大部分を占めている低部地方は︑多くの地方でその土が重い水はけのよくない粘土であるために排水と耕作に

多くの代川がかかる欠如はあるが︑概して肥沃な排作地となっτいる︒岩石の多い山岳地方は薄い土で変われているに

すぎないので︑その多くは.長い間森林のままで放出されて居り(現在でも専ち放牧に使われ︑時々耕作されるにすぎな

治判と河川とが盟富であって︑中世時代の小さな加でも容易に航海ができたために︑舟.来稼業は図民の大多数にとっ

て身近なものとなった︒叉海岸や河川に沿っている地方にとうては︑交易が比較的に容易であった︒

かくて以上の地浬的特質を要約すれば︑英閣の品閥的地位︑地球面上の位置及び鎖底資似の多松性ということは︑中

世時代に波分立ち話れた黙はあるにしても︑かなりよく訓和を得た経済的地位を英凶に興えた︒又十五世妃以降︑不断

の且つ急速な後肢を可能ならしめ︑訟に十九世紀に少くともその蛍時には︑世界に於ける鰍著な経済上の優越を興える

給処となった︒

(二)先史時代

li

記録が作られる時代以前の人初の阪史的知識を措成する史料は甚だ乏しく且つ不完全である︒そ

れらの史料は︑多くの場合︑古代の住居や域や道路の遺践であり︑武器︑道共︑装飾品︑基及びその内容物である場合

もある︒古代から生き残って来た種族の子孫の肉体上の特徴もその一に数えられる︒先史時代の幾世紀にわたる英閣の︑

(4)

党住民族が残してくれたものは(紙めて乏Lいそれらの遺践とそれから推冷されるところの漠然たる知識とにすぎない︒との時代には︑共々に色々の何族が佼入じて園土を支配し︑戎場合には先住民族と融合したり︑併存したり︑或場 .

/

キリスト妃泊が初まる也前︑即ち記録が初まる時代には︑プリトン人という一種族が支配して居り︑その血族に他の

すベての精一族が融合した︒プリトン人は︑欧州大陸の英図に長も接近していた地方に住んでいたケルト挨の一である︒彼等は十こか或はそれ以上

om

m践に分れ︑園内の各地方に住んでいた︒彼等は羊や共他の家玄闘を飼養したり︑原始的な

農業によって生活していた︒彼等は穀物を作り︑家玄聞を飼養した︒又'純物︑染色︑'製陶をなし︑舟を作り︑製鋭をな

し︑共他錫等のふ一仇凶狽を製治した︒しかし都市に住んでいたわけではなくて︑最も原始的な工業しか知らなかった︒穴

陸とは僅かに交易していた︒各種族の頭には限られた権力によって支配慌をもっ族長とそれをとりまく少数のより低い

.

2

1マ人の支配時代

1ル地方即現代のフランス地方の征服と統治とに従事していたジユリアス・シ1 j品図的孤立と野設の欣態は︑同紀前川五年にロlマ軍隊の侵略によって絡を告げた︒

が後援が絞か歩︑図内に永久的な駐屯軍を残さないで引上げた︒プリトン人は共後約一世組の問武力に上る侵略主党け 伎は第二回目の戦で勝利を得た峡を股断して軍隊を轍迭し︑実因︒東南部に居った組放にげして二度の戦闘を挑んだo lル援に封して︑プリトン人が援助の千をふ石川しのベわしないかと恐れた︒そこで彼はドl1完全に治っていないゴ は︑最近征服したばかりで未だ1 .

ないで来たが︑大陸の隣接地方との交易はやがて一府盛になった︒そしてロ1マ人の影響は︑図民の風俗︑習慣に残さ

れた︒シlザーの征服から丁度九十年後︑即西紀四十四年に︑プリテンの狂服が再びロ1マの軍隊に上って始められ︑その後三十年間にそれが完成した︒英閣は今や文化の花咲く宮裕なロlマ大帝図の重要な問領となった︒ローマ統治の

長い期聞の大部分︑英闘は全き平和を染み︑国内及び封外貿易は安全であった︒イタリーとゴールの文明の大部分がと

の遜境の図土にまで浸透したに泣いない︒住民の一部はロlマの言語︑服装︑風俗習慣をとり入れた︒

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lマ軍隊か

ら兎役となった兵卒︑官裕な行政官や商人が英図に水位した︒ドイツの凶境地方で︑ローマ平隊に敗北した数例の紐技

英図古代より十三世組までの経済史

(5)

の図体が︑ローマ政府の乎で英図になられ︑診化いした︒それ故︑英国民族はロlマ軍隊によって征服された諸極族中の

多くの程族を合むととによって兆一だ復殺したものとなった︒城塞を築造して︑水久的に軍隊が駐屯した︒それらの城は︑

東部と南部との海岸︑ウヱlルスとの内山︑ティーン河からソルウヱl河口にいたるまでの地方(とれはスコットラン

ドとの図境近くにあってイングランドを悦川して凶り︑そこは泉や堀川連続した地方である﹀にあった︒︑ロl

総滋や駐屯地問の交通のために阿川いたるところ縦践に立沃な道路が築かれた︒これらの大通に沿って住民は掠が

ι住民の派子な生活を物語っている︒との道路は図内の商品の流通を計るた

めにも使川された︒同門山川と川刊に汁外

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H加点防犯凶に行われるようになうた︒常時の輪出商品は多くは原料品骨粗

製品で︑生皮'中・毛皮'次計・♂・公仰・鋭似

' M 州工幼'狐犬?奴隷等であった︒ローマ統治時代の英閣の著るしい

特色は︑町や川市が公泌に投民したということである

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m々なる程度の自治械をもっ五十九の町や都市の名が︑ローマ

調布

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34

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巾に品川附されていろ︒それらの多くのものは︑民範悶にわたる遺蹟や︑治びただしく設見され

lマ代限から刊附して︑人口が多く

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で︑日動的であったととがわかる︒ローマ帝閣の他の地方と同殺に︑と

とでも干リスト殺は凡人け符れられていたが︑それがどの程度まで努力をもっていたかは判らない︒

ローマ統治の

m k 多くの荒野が開墾されたの多くひ淡谷地方や山肢は土日は深い京林で変われτいた︒沼津地は河に沿

っ之肢がり︑海浮からはるか速い内陀にまでのびていた

0

それ此︑開墾できる部分は位かに樹木のない高原か︑山田.

か・千野地方の限られた部分にすぎなかった︒かかる北地主人間が肘住できるように川濯することは︑議世紀にもわたる泌題であった︒それは前史時代から始まり︑次々に谷川政によって叉けつがれ︑現代にいたってようやく段後的な完

成に注したJとの開墾一品誌を促進することと大道路の建設とがロ1マの統治時代の政も水久的な成果である︒西紀第

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Iω1聞に︑英国に於けるロマの行政は明らかに崩壊しつつあった︒英凶に駐屯

1マ軍国の数人の

将爪泌は︑共々にその軍隊を率いてロ1マに反政をひるがえし︑狽立を丘一一目するか或は大陸にわたって︑岨ロly帝閥会

休を支配するための戦争に参加した︒三パ三年と問︒七年には︑かかるやり方で突然にロlマ軍隊が英図から引揚げた

ので︑ローマの民領地である英図の統治が崩れたolマ帝国の中央政府は弱体であったために︑総同たる統治

(6)

を回復するだけの力がなかった︒との時明に蛍肢がしばしば英図に佼入しつつあった︒・スコットランドからはピグト人

やスコット人が侵入した︒サクソン人の海賊や︑後では絶え・下分を附加しつつあったアングル入︑ジュート人の集闘が

来り荒した︒又北海を前一えてフリースランド人が侵入した︒訟には彼等ほ市川岸の諸地方を占践したοとの崩壊と再建の

時代について現存している刈ぬが乏しいので︑震際上何が起ったかについては全く知られていない︒とのこ百年徐の期

間にわたる隠史上の川米市については︑住かに推測し得るにすぎないか︑或はロ1マ帝図の他の部分に起った事件から

知推し

m w るにすぎない︒戒は又それにつづく時代についての知ぬに上っていくらか補充し得るにすぎない︒島領の統治

が︐次第に崩れて行き︑それにつづいて各.都市や各地方の統治利九川札去ったことは確かであるう︒図内の闘争や住民の大

栄を訓練する不羽机紋が鈍かったことは︑位校の侵入や劫掠に泊して抵抗するのを困難にしたであろう︒かかる侵略者︐

は︐次第に却を附し︑その佼入は一民頻袋に一居間同組問となった︒治に彼等はその本図を全く見姶てて︑プリテン人を撃

破した地方に永久的に移住するようになった︒ローマ帝悶が川目︑心へであった時代ですら︑租税の重荷と行政上のきびしい

服治とは︑プリテンの前と人口とを減少せしめた︒騒乱︑位伎の裕之さる劫掠︑他の図・々からの孤立︑恐らくは銭箆と

悪疫とが相まって︑図土の鍛柴と文化とを急速に崩壊させた︒谷部市はその貿易と宮と人口とを夫い︑それら都市の多

くのものは官らくの間全く滅亡した︒英図は一再び野註の欣訟に公述に反りつつあった︒

E(問﹀サクソン初期時代

li

この時代には保存された記ぬの放が市加しτいるために︑第六世記の格頃の欣況は比較

的に明かである︒古いロlマ時代の制度と文明は全く消え去って︑統しい一一一口業をもった新しい民族が表面に現れ来り︑

(

.

17

1 入の侵略以前の古きケルト人の時代のように一人の去

の下に統治されるところの多数の小玉図が︑チユ1トン民族によって第五世粗から六世組︒初にかけて形成された︒そ

れらのげ五とその輩下の者述はドイツの西北地方から海を波って来︑た︒如何なる程度まで彼等が先住民放を滅亡させた

か︑又如何なる程皮まで彼等が融合したか︑或は被征服者を奴誌としたか︑ということは多くの議論があるととろであ

って︑現代の間十点仰の聞でも問持論が戦わされている︒全体として先住民践は敗戦とロlマ統治の滅亡とによって弱体化され︑次第に征服者の同体内に吸収されて行ったであろうと考えられるoそれ故︑第六'第七世紀のアングロ人とサクソ

}

(7)

一 一 一

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¥ ン人の小玉岡の王建は]複雑な民族を統治した︒その民伎では征服者の種族は︑数に於ては必宇しも多くはなかったで

あろうが︑肢も有力であった︒五九七年にアウグスチヌスが︑英図の異教徒に封する最初の停道者としてロlマから汲

活きれて来たことは︑アングロ・サクソン人による問土の支配の完成を示す表徴として見倣され得るであろう︒との時

までに訴し芦侵略者はもう米ないようになった︒そして浴岸や内陸に七或は八の異った王閣があった︒相互の問に分割

や併合がはげじかったので︑一土川の政はたえ宇佐助した︒ジュート人は東南部の端の方にケント王国をつくった︒南部

と西部のサクソン人は市万の似以とテムズ河の川氏谷にいたるまでの内陸に王図をつくり︑東部サクソン人はテムズ河

口の丁皮北方に主同をつくった︒巾部サクソン人はロンドンとその周・起を占領した︒北方にいたる残の土地と占領地以

¥lサンプリアの諸王図がで

きた︒第七・八沢和乞泊じて︑とれらのは一上川の川に絶え宇侵略戦争があった︒途に︑八OO年頃に西部サクソン王国

が他のすべての沢川を名目上支配するようになった︒同部サクソン王図の政治上の侵越にもかかわらムペ長も多数で全

同にひろがっていたのはアングル人であって︑イングランドの名稲を杢図に輿えたのはアングル人である︒

出泌がその治時の住民の唯一の生誌であった︒都市を中心とし︑ローマ道路を通じで流通し︑海峡を越えて行われた

市議取引は︑ローマ文明の崩壊と共比長い間巾止されたもサクソン時代には都市は防街のための城塞としての都市以外

には︑殆んど存在しなかった︒各地方の産物は食料も衣料もその地方の需要をみたずに間に合ったので︑図内商業は極

めて僅かであった︒製造工業は僅かであっ・た︒というのは一部は熟練の不足により︑一部は露宴と噌向の不足によるも

のである︒しかし︑織物︑農具と武器の製也︑治川町︑余国工業は︑ローマ時代かちの侍統が生きて居り︑叉侵略者に主

.ってその知泌がもたらされた︒人口の大多数は︑恐らくは彼等がロlマ時代や光史時代になしていたであるう上うに︑村沼に住んでいた︒周囲に耕地と森林と未開墾地とを有する村静は︑後世に吉司

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町医﹀として知られている・も

のの均服をなすものである︒

初期O分立していた小王国の統治の形態は︑

gm m 力を図王に興えた︒考古

それらが統一された後の君主慌と同校に︑初は制限されていたが後では

として知られている貴族の関休が︑同政の多くの問題について闘志と協

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(8)

同した︒かかる米関時代には︑川内政の地万的問題については︑有力者

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の地方的集合によって決定され

た︒地方

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﹀は︑政には多少の相泣はあるが言者2

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(小邑)として知られていた︒それは下の裁決︑犯罪の虎罰︑協約の署名及び持他の目的をもっととろの集合に上って統

治されていた

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州)は行交付の集合休であって︑司法︑軍事︑財政について有力者の右と同校の集合があった︒

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Mと廷設であった︒五九七年から六

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14

救とその影響によって人々に叉け入れられた︒彼等の多︒のものはロI

ち沃治されていたが︑中にはスコットランドやアイルランドから来ているものもあった︒それ応引きつづいて数合の組

織がすぐ始った︒それは主としてテ庁ド1ル大司敬(﹀同島古谷o

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の努力に負うものであって︑第七世紀の末

以前に賢際上完成した︒との組問に上って児問は十七の

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(数区)に八刀たれ︑各教匿の宗教に闘するととは司数

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( 心へ寺院)と呼ばれるととろの司教の教舎は︑信仰篤き図王や貴族定か

ら院中へな土地の寄迭を受けたので︑僧正はん

M m な大土地所有者であり︑加うるにその数匿の聖職建(巳刊誌とを支配し︑‑

同時に俗人法の良心と行動に封して有力な影響を及ぼした︒往司政管区(﹃一岳︒

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は集って︑カンタベリーとヨ1ク

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に分たれる︒との犬司教管尻の司政は作に犬司救(誌の

55 3)

の名で呼ばれ︑より高い

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の詑物や︑十分の一税(各農民の

土地の年有物の十分の一を致合に約めるもの)や︑信徒の寄進によって支持さ札ていた︒司殺や款問問一の司祭やムヘ寺院や

︿

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是認可)を養成した︒その他︑俗世との株主断ち切って︑一一万致問休

の特殊た宗規の下に生活することを誓った多くの篤信の男女があった︒彼等は円伶間巳誌の

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と呼ばれているが︑との

人達がいわゆる修道伶

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であり︑修道尼

25 )

である︒アングロ・サクソン時代の英国では︑修道併は聖べ︑ネ

デイクト(五四三年死)の規則に従って生貯していた︒又大小の相法はあるが︑集国生活をなして居り一つの建物か或は

(9)

幾似かの建物の位指図の中に住んでいた︒これらの修道院は司教管区と同絞に︑白敬皮た図王や貴族や共他の俗人建によっ

て土地を寄進され︑それは︐次第に増加していった︒かくて致合図休は︐次第に図土のかなり買い部分を所有するようにな

った︒聖戦遣の官と数安.又殺人刊の山崎物生美しく装飾し︑勤行を一居既設ならしめ上うとする彼等の照的石は︑外図貿易

を促進した︒大陸諸閣の致合との交泊が保持され︑又このことが他の世界からの英図の訳立をいくらか綬和するに役立

った︒かかる野響の外に︑兆同全休ωV地十心からル拾ってくる聖政注の宗致合議が︑問家の目︑同な統一を促進したことを

忘れてはならない︒

(主)デlン時代とサクソン役川時代

1

1第八沢紀ω格頃.デンマーク︑ノルウヱl

lデンの島々や海岸に住

んでいたデl

(

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(Z 2

53

)

と呼ばれるととろの際惇な呉教を奉宇る民族が英図の海岸地

方に矧箆に佼入するようになった︒間もなく彼等は一防火除になり︑その数を増して英図の諸河川に沿って根挨地を作

り︑そこを巾心として川川ω地叫を泊した︒列後︑十・十一世紀には︑彼等の間に於ける指導者としての諸王の下で︑

多くの地方ω征服将となり︑永久的な移山Mれとなった︒一時はデlン人と同様に英図人をも統治するためにデ1ン王朝

をつくったことさえある︒間部サクソン系の

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代の一土はデlン人を図土から駆逐するか或一はその勢力を弱くするために

皮々収って勝利を収めた︒しかし︑一品質上に於て兆川の北部︑取部及び中部地方は︑一世紀字以上殆んど完全にデl

人の支配下にあった︒との時代にスカンジナピア小山から絶え十移住が行われたととは︑人口に重要注要素を加えた︒

との仰仰しき移住民族は︑・間もなく英悶人に完全に吸収され同化されて了った︒

山削減的な佼入者であるデ1ン人に引きつづいて貿易尚人とし℃のデl

λて米た︒スカンジナピアの諸閣

はヰくからパルチック海や北海沿岸の諸図と治淡な

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lン人の円以得︒下にある英凶は同方面との貿dを白んでいたQ

易に訪山された︒デIン人は又英国人よりも部ん凶作一川をより愛好していたので有利な杭むにある村落は貿易都市とし

て夜以した︒そして昔のロlマ時代の都市のむ批でむうたところで再び商主都市として一返り咲いたものもあった︒商業

の設以と北ハに︑子エ設が大いに後達したので︑アングロ・サクソン後期の人口は︑往昔専ら農業に依存していたのとは

兵って︑阪北が戎税度多殺となり︑生活の手段が俊雄化した︒

(10)

OO

O六六年までのサクソン後期時代に︑日取も著グ刊であり︑川以も有力な統治者はアルフレッド大玉であっ

た︒八七一年に彼は五日についたが︑その年にデ1y侵略軍に完全に敗れ︑彼の少数の臣下と共に森を一時の避難所とし

て敗走せざるを仰げなかった︒彼は間もなく少数の精兵と共に脱出した︒そして彼の治世は九O一年まで続いたが︑その

問デlン人を繰返し幣悦川レ︑彼与をキリスト敦に改宗させ︑デlン人の統治地域を東北の諸州に制限する保約を結ん

だ︒又皇太子の千に内山川市の統帥仰を移したので︑彼はデlンの支問地域である東北諸州の多くを奪い返した︒アルフ

レッドは大なる秩序と絞公主もたらし︑致合に於ける敬虞の念を犯川川した︒又彼は自らの著述によるとか或は皐者を保

護するととに上って︑プングロ・サクソンの文墜と事問の中で︑デlン人の劫掠と図氏︒道徳的額一肢とが図土を破滅に瀕

せしめていることを待合し︑それに討する国民の関心を喚起した︒アルフレッドは図玉としての治績の外に︑その優れ

た人格とたくましい性怖とに上ってその時代の図民のみなちゃ後悦の人々にも深い感銘を興えている︒

アングロ・サクソンの統治組織に於ける王椛は︑アルフレッドやその後泌者中の賢王たちによって強められた︒又そ

の他中央集慌の傾向を一同町出︑めた諸原凶がある︒その一は凶枕としての

UP Rm mE

の創設である︒それはデlン人から

その占領地をアングロ・サクソンの千に氾してもらうための賠似合.を机扮として図民から徴収したもので︑一ハイドO所布地につき三乃五四シリングの地租であった︒叉図王からの土地の幼児に上って︑多くの白下をして悶王に忠誠を誓手

わしめた︒闘志の司法般は法律と文明の設展を増大せしめた︒政府の行政は有能な役人の手によって行われた︒

他十心に於て︑山れの傾向とは逆の傾向が十枚組と十一世紀の始以に起った︒それは各州の集合体をそれぞれ太守︿

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2

ヨ﹀の統治下に必くことである︒各太守が図王に服従する程度は法だ碕海であった︒図王から民大な土地の賜阻ハ5

にあやかった致命や兆他の凶休は︑その支配下の山氏民に討して︑可訟︑財政及び恐らくは半現の支配慌を揮うようにな

った︒これらは本米は政府ω役人が閲叫すべきものである︒その結洪は︑中央政府は州や百家村の地方政府に比べると

一法活動的になったが︑四五の⁝脱力は大賞族の仰人的な能力に比してより弱いものとなった︒援一札は度々起った︒

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と文明の進歩の微は見られなかった︒恰も一O

14 公によって英国が征脱され︑全く新しい情勢が

(11)

一 一 一 四

(六)ノルマン征服につづく時代llノルマンデイーは︑英悌海峡の沿岸にあるフランスの一地方である︒そとの諸

侯と住民0・文部分は︑英図の入町の主嬰な一一史おをなすととろのスカンクナピア人である︒しかし彼等は生活と政治の

校式を大部分犬陸の文化から堕んだ︒児問とノルマシデイーとの閲係は︑第十一世紀の初明に密接となった︒即︑英問

主エセルレッドはノルマンデイーに亡命してそこに庇践を求め︑ノルマンデイl公の妹と結婚した︒その子であるZ

Aワード険悔玉は︑その後︑英同の一士山肌を問復したが︑彼はノルマンデイーで成長し︑俳誌を話した︒そして英図に戻る

時にノルマシデイーからの臣下をつれてきた︒エドワードの即位後九年目即一O五一年に︑ノルマンデイl公ウィリア

ムが英閣を訪問し︑エドワードに引制がないために︑彼の死後︑英図の王牝に即くべき約束を得たと侍えられている︒

O六五年にエドワードがM叫んで︑兆凶の心へ党政ハロルドが閤王に謹ばれた時・に︑ウィリアムは直ちに王位に即

くととを要求し︑それを飢行するために武力に将える川立をした︒彼は一千徐年前にシlザーがしたように︑一︒六六

年に市除をひきいて兆仰向映を位え︑へlスチングス或はシヱンラックの戟で英図軍を破り1ハロルド王は戦死した︒

それからウィリアムはロンドンに治不し︑新しき限力の箆頭を防ぎ︑王伏に即いた︒彼は一O六六年のクリスマスに戴

冠式を取げた︒火の五年間に彼は土法の英凶人の側からの多くの叛乱を鎮医し︑彼とその子孫が英国の唯一の図王であ

るととを認めさせた︒

ノルマン征服は単に王朝の竣勤に止るものではなかった︒それは少くとち三の段も主要な変動伊良えた︒第一にそれ

は住民の構成に新しい要素を加えたことである︒第二にそれは従来は皐に大陸の北方税関との夜間に止っていたのを︑中央及び市方諸問との援簡をもたらした︒第三にそれは中央政府の様力を逢かに増大せしめた︒ウィリアム征服王と共

に或は征服後に於て︑Eれほど多数のノルマン人及び兆他の種族が英図に移住したかについて知るべき充分な史料がな

いが︑それは多数であり且つその努力はその数Uりも透かに強かったであろうととは疑ない︒ウィリアム征服王(一O

八七年死)とそのこ人の子︑ウィリアム二世とへンリイ一世の治世を通じて︑吏に一一五四年にまで及ぶスティーブンの名目だけの治世を通じで︑貴族の全体︑司敬及び政府の官僚はノルマン系か或は他の大陸系によって占められるよう

になった︒とのほか︑全図いたるととろ見られる城や穴寺院や数合堂を建設した建築家や美術家建はノルマンデイーが

(12)

らの移住者であった︒かかる各放のは築はこの時代の著るしい特色である︒ル

1

7

l

yのようなノルマンの諸都

市から商人がロンドンや共他の沼市に移住して来た︒又フラング1スから織物政人が各都市や回合にまでも来往した︒

普くの問︑との析しき移住汗は同化しなかったが︑十二世妃が怒る以前に彼等は英図入の大衆と殆んど区別がなく友る

ほど同化して了った︒呉氏放の侃入によって英図人は上り如く︑元気に︑活設となり︑その職業や生活関係が一居愛化あるものとなった︒

ゥィ寸アム一土とその後彼才悩は︑その大陸の領土を保持し︑英闘を征服した後にその大陸の領土を強大ずらした︒そのため︑英仰海峡をはさんでの.山地川の貿易は以前よりも一居頻終に且つ容易となった︒ノルマン王朝の強力な政府は

との貿易に保波と奨励とを川(えた︒そして武技法の反乱を抑医すると去に上って︑園内ο商業に良い影響を奥えた︒ノ

ルマン征服の也前の政年川に兆問の都市は︑その数と大さと宮とに於いて増大しつつあった︒一O六六年につづく動乱の数年間は︑短い表込の時期を粍験したが︑その後間もなく商工業の後尽によって一医大なる進歩が見られた︒特にロンドンは営昨欧州の大都合の一としての地似を占めてい川たが︑英国段大の都市としての優越佐を犬ったことがなかった︒

市部及び東部海岸に沿う漁港や閃泌坊や︑内陸の諸都市は︑アングロ・サタソン時代よりは一居有力な地位を図土に釘

して持つようになった︒

玉川山が強化されたことについては︑第一にそれは凶土ο征械と仏うその武力的性絡によるものであり︑第二にそれほsウィリアムとその後縫者建の個人的な性格により︑第三にはノルマンデイーからもたらされたか或は英図で護達した統

治行政組紋のより能率的な機織によるものである︒よく訓練された有能な政府の役人があって︑図王の意思を代行し︑

その歳入を集め︑裁判を行い︑軍隊を徴募する︒又北バ他の方図に於いて従来見られなかったような程度にまで有効に法

規を賀行したoアングロ・サクソン時代から各州に居った快官

(m ZZ

︐ウエストミンスターにやって来て︑大蔵大臣(円︒ヨ

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z 雪之に財政上の報告をして︑その収入を提出する︒中央政

O役人は︑判事として法廷に持ち出される多数の訴訟一品件を裁くだけでなく︑企図を巡回して訴訟を裁き︑各州に於

いて犯罪人を蕗詞した︒図王の収入はベアングロ・サクソン王朝時代よりも活かに多かった︒昔のデl

一 一一 五

(13)

一 一 二 ハ

異った名

に上って時々徴牧された︒問主ば征服の常時波牧した土地を借地人陀貸すととによって犬地主とたり︑借地m m

ノルマン時代の政府の強大さを設も椛訪に物一社るものは︑定大た統計資料である r

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虫色ミ回

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O八五年にウィリアム王は︑使対を英同の存地に派

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し︑各煎閏の財政朕態︑その慣値︑将来の拾挽力等についての

情報を集めさした︒この調授によって促められた氾ぬは二叶の芳夫な記録文書に記哉されて居り︑現在もロンドy

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に保存さ札ている︒それはその後幾世紀後までも欧州の他の図々で集められた如何

なる記録よりもはるかに大きな知ぬの県内川である︒その氾述内容は多くの黙に於いて詳細且つ正確であり︑多くの興味を惹くが︑しかじ

. b v .

史的川先の上からは心へなろ川似をもたない︒それは政府の租税徴牧の目的から集められたものであ

って︑住民の生活の生きた弘一を一以すことがぜきないし︑各階級相互の関係をも示すととができない︒それらの黙につい

ては︑それから一品川紹午以後にあらわれた谷川の私人の記録文書によって一居容易に知るととができる︒ドウl

イ・プツクの川崎の一例を瓜・げるとその制作一が如何に詳'測を秘めていたかがわかる︒﹁サリI州リンプスフィールド領

ful

t主也符の炉︑めには︑刻中一五と同扱の午あり︒また出奴と二十五名と小屋炭六名ありて想十四を共有す︒毎年二シリング

を摂ぐる水平一︑漁場一ー致合堂一︑牧場問エーカー︑阪一五O頭を飼養し得る森林一︑それぞれ二シリングを卑・ぐる

石切羽二︑森には院の巣二︑及び奴隷十名あり︒との所俄は︑エドワード王時代には勾年一︑一0

O六六年には

十五ポンドをぬ・げたりしも現在は二十四ポンドなり︒﹂川

J

VA︐時代に比べて特別に際立った存在ではなかったが︑世俗的と修道併との教は多く︑司数

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は限成をもって居り︑修道院や尼院は増加しつつあった︒数人間の最も者るしい謎化は︑宗教裁判の税収建であ

る︒可決とその代理人達は信徒の裁判のために法廷をもっ上うになった︒しかもことでの事件の決定は︑法律の或一部門

内での事件の判決の意味をもっていた︒とのことは従来殺人げがもっていたその宗政上の使命から穫する様成や︑一大地主

としての似成︑或はその裁判官の優れた数義や能力から後ずる構成に加えて新しい努力を数舎に奥えた︒しかし︑そのととは又救命川が行政府や私人と争う大きな原凶となった︒

(14)

一一三五年にヘジリl一味が死んだ筏に混乱と争闘の時代がつづいた︒ウィリアム征服王の孫であるスティーブンと

同じく孫娘であるマチルグとの川に一土仇を乍ふととから内乱が起った︒行政の組織は混乱に陥入った︒図王の牧入を徴

収したり︑新しい司法制皮主位行したり︑秩序を前持したりボるための努力は殆んぎ合されなかった︒貴族遣は王位え

の闘争について二汲に分れ︑政府の

m m 休化に宋じて自らの領地では同一人の上うにふろまった︒私的争闘︑弱肉強食︑叫問︑

︐産牧一キは限りなく行わ札た︒件公政の減は渦立政府のようになり︑法作も中央政府も存咋一しないかの上うに︑各貴族の

自由意思に上って動かされた︒似人上の江川ωはしばしば無法な飢恭さを示し︑デlン人の劫掠以後︑嘗て見られない無秩

序と苦雌とが英同に生じた︒

アジグロ・サクソン時代には︑玉川以が弱くなった時に︑州議合(神宮谷町内目︒︒件﹀或は数州の代表者が中央政府に代

る椛力を掌

した︒十二仕組にスティーブシの慌力の弱さと内飢とによって︑中央政府の様力が同様に消滅した時に︑m m

中央政府にとって代ったのは大賞族注であった︒とのととは右の二つの時代の中間期に於ける封建制度の設建によるも

のである︒大領主は彼等から土地を借りている土地保有者誌に討して支配慌を掠った︒領主は土地保有者を軍事に徴集

し︑租税を負捨せしめ︑土地保有者相互間の訴訟を裁き︑しばしば彼等の犯罪を虎罰した︒土地保有者が死亡してその

子が幼い場合には︑領主が後見人となり︑土地の一時的保有者となった︒そして予がない場合には︑その土地は閤王に

返さないで︑領主の千に師した︒大領主と土地保有者とのかかる関係は︑克にとれらの土地保存者とその下位にある土

︐地保行符との聞にも生じた︒かかる中聞の土地保有者は彼等自身しばしば一つの町査体や住民を含めた大土地の領主で

あったからである0・各段階の領主はそれぞれ下位の小領主に討して封法的様力を揮い︑かくて最後の土地保有者即ち農

民にまで一巡する︒かくて大災族は中間的地位を占めるもOであり︑彼等の上に図王があり︑彼等の下に各段階Q土地保

有者がある︒彼等の土地保行北は大貴族に封して︑犬貴族が問主に討して負うのと同絞の財政上と行政上の義務を負捨

した︒ノルマン征服以来︑英図のすべての土地は︑図王から直接土地を賜った比較的少数の大貴族と犬貴族を通じて問r

接的に土地を保有する件︑他の小領主によって支配された︒加うるに少くともノルマン征服也後から︑先に述べた軍役や

租税は土地保有者が領主に到する義務であると考えられるようになり︑︐次第に組織化されて行き︑はっきりしたものと

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一 一 一 七

参照

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