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『 播 磨 国 風 土 記 』 地 名 起 源 説 話 考

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一三﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶ 一

﹃続日本紀﹄和銅六年五月二日条には、﹁五月甲子、畿内七道諸国。

郡・郷の名、好き字を著けよ。その郡の内に生ずる所の銀・銅・彩

色・草木・禽獣・魚虫等の物、具さに色目を録し。及び土地の沃藉・

山川原野の名号の所由、又古老の相伝ふる旧聞異事。史籍に載せて言

上せよ。﹂という旨の官命が下されたことが記されており、各国﹁風

土記﹂は、この和銅六年の官命を受けた国司主導の元に編纂され 1、官

命に対する解文という形で中央に提出された。地名の起源を明らかに

するという意図が﹁風土記﹂編纂の一つの大きな目的としてある。事

実、各国﹁風土記﹂の編纂、編述方法等には少なからず違いがあるが、

その土地の地名の由来を説く地名起源説話が記載内容の大半を占めて

おり、これは編纂を主導していた国司層が先の官命に忠実に応えるべ

く編纂に当った結果といえよう。

各国の編述者がそれほどにまで意識を割いて語ろうとした地名起源 説話については、すでに数多くの言及がなされており、いくつかの類型が認められることも先行の研究により明らかとなっている。試みに地名起源の分類に関しての先行研究を確認してみると、例えば秋本吉徳氏 2は﹁説話﹂を形成しない地名起源記事と、﹁説話﹂としての地名

起源記事という二つの型に地名起源記事が大分できるとしている。ま

た井手至氏 3は、地勢や産物、その土地の状況などに基づいた、現代の

我々にも合理的に映る︵もしくは解文作成時の合理的解釈による︶地

名起源説話と、伝承説話と土地の現状から合理的な一つの説話を生成

しようとしながらも、現代の我々には不合理に映ってしまう地名起源

説話の二つが﹁風土記﹂の地名起源説話には存在するとしている。そ

して中村宗彦氏 4は、さらに分類を細分化し、第一類を自然的命名とし

た上で、︵

A︶地形・産物による自然地理的命名︵

B︶祭神・居住者・

施設等による人文地理的命名、第二類を説話的命名とした上で、︵

C︶

神・天皇・皇族等の言行にちなむ命名︵

D︶民間の故事・奇聞等によ

る命名の計四種類に分けられることを明らかにしている。 早稲田大学大学院教育学研究科紀要  別冊 

24号―  2二〇一七年三月

『播磨国風土記』地名起源説話考

―託賀郡賀眉里荒田村条について―

奥   田     惇

(2)

一四﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶

﹁風土記﹂地名起源説話例

自然的・地理的命名の地名起源説話

① ﹃常陸国風土記﹄行方郡当麻郷条︵地勢による命名︶

  当麻之郷  古老曰  倭武天皇  巡行過于此郷  有佐伯名曰鳥日子  縁其逆一レ命  随便略殺  即幸屋形野之帳宮  車 駕所経之  道狭地深浅  取悪路之義  謂之当麻︿俗云多々支々斯

② ﹃豊後国風土記﹄海部郡丹生郷条︵産物による命名︶

  丹生郷︿在郡西﹀昔時之人  取此山沙  該朱沙

  因曰丹生郷説話的命名の地名起源説話

③ ﹃播磨国風土記﹄飾磨郡麻跡里条︵天皇の発言による命名︶

  麻跡里︿土中上﹀右  號麻跡者  品太天皇  巡行之時  勅云   見此二山者  能似人眼割下  故号目割④ ﹃出雲国風土記﹄仁多郡布勢郷条︵土地の旧聞異事による命名︶

  布勢郷  郡家正西一十里  古老伝云  大神命之  宿坐処  故云布世︿神亀三年改字布勢

先行研究に従い地名起源説話の例をいくつか挙げ確認してみると、

①﹃常陸国風土記﹄行方郡当麻郷条のように﹁道狭く地深浅しかりき﹂

という、その土地の地勢が地名の由来として語られている地名起源説

話や、②﹃豊後国風土記﹄海部郡丹生郷条のように﹁昔の人、此の山 の沙を取りて朱沙に該てき。﹂という、その土地の産物が地名の由来

として語られている地名起源説話がある。この二例は、言うなれば自

然的・地理的命名から成る地名起源説話であり、その単純さゆえに今

日の我々にもすんなりと理解できうる内容となっている。

一方、③﹃播磨国風土記﹄飾磨郡麻跡里条のように﹁能く人の眼を

割き下げたるに似たり﹂という、品太天皇の発言が地名の由来として

語られている地名起源説話や、④﹃出雲国風土記﹄仁多郡布勢郷条の

ように﹁大神の命宿りましし處なり。﹂という、古老の伝える伝承が

地名の由来として語られている地名起源説話もある。この二例は、説

話的命名による地名起源説話であり、このような地名起源説話の中に

は一見しただけでは理解し難い、今日の我々にとってしてみれば不明

瞭に感じられる説話も数多く存在するのである。

このようにしてみると、先に挙げた先行研究における地名起源説話

の分類には基本的に頷くべきところが多いものと私は考える。

しかしそこで問題となるのが、なぜ地名起源説話の中には不明瞭な

説話が数多く存在するのかという事だ。地名の由来を報告することを

目的の一つとする﹁風土記﹂の叙述にあっては、少なくとも解文の提

出先である中央の人間が合理的と感じるだけの地名起源説話が語られ

ていなければ、解文として不完全な状態であると言わざるを得ない。

この問題に対し、現代の我々にとっては不明瞭であるが、﹁風土記﹂

編纂当時の人々にとっては合理的な地名起源説話であったという解釈

をする研究者もいる。しかしそういった解釈を成立させるためには、

(3)

一五﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶ どういった点から編纂当時の人々には合理的に映っていたのか、という検証を不明瞭な地名起源説話ごとに個々に行っていく必要がある。

そこで本稿では、不明瞭な地名起源説話に対する解釈の一試案とし

て﹃播磨国風土記﹄託賀郡賀眉里荒田村条を取り上げ、従来説かれて

きた解釈とは異なる解を求めることで、筋の通った一貫性のある地名

起源説話として合理的に読み解けることの可能性を指摘したいと思

う。またその上で、そのような一見不明瞭と思える地名起源説話は、

在地の伝承と解文としての﹁風土記﹂の記載との間に様々な価値観が

混在した結果存在しているということを明らかにしたい。

﹃播磨国風土記﹄託賀郡賀眉里荒田村条︵当該条︶

以号荒田  此処在神  名道主日女命 父而生児為之 醸盟酒 田七町  七日七夜之間  稲成熟竟  乃醸酒集諸神 其子捧  而令養之   其子 天目一命而奉之

乃知其父  後荒其田  故号荒田村

まず従来なされてきた解釈でこの地名起源説話を簡単に説明する

と、①道主日女命が父親も無しに子を生む。②神意を判定する祭儀の

ために田を作り、酒を醸造する。③諸神が集った酒宴の席で、道主日

女命の生んだ子が天目一命に酒を捧げたので、その神が父親だと判明

する。④そして後に田が荒れたため、この地を荒田村と名付けた。と いうような筋の説話伝承となる。

この地名起源説話において問題となるのが、当該条の大半を占めて

いる、前半の破線部分﹁此処に在す神、名は道主日女命、父なくして、

み児を生みましき。~乃ち、その父を知りき。﹂という道主日女命と

天目一命に関する説話伝承と、それに続く後半部分﹁後に、其の田荒

れき。故、荒田の村と号く。﹂という地名の起源を語る説話とが、文

脈上の明確なつながりを持たずに語られている点である。前半部分の

説話伝承と後半部分の地名起源とを結びつけるつもりであれば、前半

部分と後半部分との間には、当然田が荒れてしまった理由を語るべき

であり、むしろ地名起源という点を重視するならば、そこに語られて

いるべきはずの理由こそが、まさに荒田の地名起源説話の核となる部

分のはずなのである。

しかし当該条において、田が荒れてしまった理由が語られることは

なく、その結果、本来当該条全体を通して説明されるべきはずの荒田

という地名の由来が、後半部分のみで説明されることとなってしま

い、前半部分の道主日女命と天目一命に関する説話伝承は、むしろ全

く別の意図を持った説話内容として語られているようにすら見受けら

れてしまう。つまり当該条は、筋の通った一貫性のある地名起源説話

として合理的に解することが不可能となっている点に問題があるとい

えよう。端的に言ってしまえば、当該条の地名起源を説明するだけな

ら﹁所以号荒田者  荒其田  故号荒田村﹂とするだけで事

足りてしまうのだ。事実、次に挙げるいくつかの地名起源説話をみて

(4)

一六﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶

みると、そのように端的に地名の由来を説明している説話も﹁風土記﹂

中には往々にして存在する。

﹃播磨国風土記﹄飾磨郡大野里条

大野里︿砥堀﹀土中々  右  称大野者  本為荒野  故号大野﹃豊後国風土記﹄大野郡条 大野郡  郷肆所︿里一十一﹀駅弐所  烽壱所  此郡所部  悉皆原野 因斯名曰大野郡

このように、本来は地名の由来について説明すべきはずの説話伝承

と地名起源との間に隔たりがあるとするなら、やはり地名起源の報告

を重要な任務の一つとする﹁風土記﹂中において、当該条は大きな欠

陥のある地名起源説話だと言わざるを得ないのである。

そこで、この当該条を筋の通った一貫性のある地名起源説話として

合理的に読めないかということを考察してみる。まずは当該条に対す

る従来の解釈を整理するため、注釈書の類を参照してみることとし

よう。﹃風土記﹄︵日本古典文学大系︶の注釈において、秋本吉郎氏は﹁ウ

ケヒ酒のための神田が祭事の後、荒廃田となって実らなくなった意。

神が田を荒した意ではなかろう。﹂と推量している。先に述べたよう に、当該条では田が荒れた理由が記されていないのだが、秋本氏は神田が祭事後に荒廃したということに地名起源の理由を求め、道主日女命と天目一命の二神による影響で田が荒れたのではないと考えてい

る。しかし秋本氏のように考えるのであれば、田が荒廃したという結

果的事実が道主日女命と天目一命の説話伝承を通して語られているこ

との必然性を説明する必要がある。土着の巫女神である道主日女命

と、諸神の中から選ばれた天目一命という二神が登場する以上、やは

りこの二神の説話伝承の延長線上に田が荒れたという結果的事実があ

り、そこに地名起源へと結びつく何らかの必然的な理由を編述者は想

定していたと考えるのが妥当ではないだろうか。

また﹃風土記研究﹄一五号所収﹁播磨国風土記注釈稿﹂の校注にお

いて、植垣節也氏は﹁なぜ荒れたかが書いていないが、道主日女の命

の物語と荒田村の地名伝承とが接着したもので、前者の行為が原因で

荒れたわけではない。﹂という指摘をしている。当該条の説話中に大

きな隔たりが生まれてしまっていることは先に確認したが、その隔た

りは植垣氏の言うように、本来別個のものであった二つの説話伝承の

接着が原因と考えれば納得がいく。この点については執筆者も植垣氏

の説に頷けるのだが、﹁前者の行為が原因で荒れたわけではない﹂と

いう点については先の﹃風土記﹄︵日本古典文学大系︶と同様の理由

から頷くことはできない。そもそもこの植垣氏の考え方は、本来別

個のものであった二つの説話伝承が接着したとしながらも﹁前者の行

為が原因で荒れたわけではない﹂と断じているように、前半部分の説

(5)

一七﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶ 話伝承と後半部分の地名起源が接着したとしながらも、文脈上の明

確なつながりがないということを肯定する考え方になってしまってお

り、いささか説明不足で矛盾した解釈になってしまっている感が否め

ない。当該条の前半部分で作られた田を後半部分でわざわざ﹁其田﹂

と言って受けていることなどからも、二つの説話伝承の接着を引き起

こした、この地名起源説話の編述者は、この説話伝承と地名起源との

間に何らかの文脈上のつながりがあることを想定した上で編述にあ

たっていたと考えて、この地名起源説話を解釈していく必要があるだ

ろう。このように先行の注釈書を確認してみても、当該条の問題に対する

明確な解は未だ提示されていないのである。そこでとりあえず、現時

点で考えられる当該条に対する執筆者の見解をまとめてみると、次の

ようになる。

◦ 当該条の前半部分と後半部分は本来別個の説話伝承であったが、

編述される過程で接着が起こった。

◦ 前半部分に道主日女命と天目一命の二神が登場し、後半部分で荒

田という地名に結ばれる以上、二神と荒田という地名の間には何

らかの関連性を考慮すべきである。

以上の二点を踏まえた上で、当該条の地名起源説話を先行研究の如

く、前半部分の説話伝承と後半部分の地名起源とに隔てて解釈するの ではなく、一連の地名起源説話としてより文脈に即した形で解釈できはしないだろうかと考えたとき、吉野裕氏の先行研究 5が参考となる。

吉野氏は、荒田村の地名起源となった荒田を元は鉄を産出する鉱田で

あったと解することを提示している。当該条の説話中において稲が成

熟したことを語っている以上、荒田を産鉄場という意味の鉱田として

解することには難がある。しかし当該条の地名起源説話の背景に、産

鉄に対する意識が働いていたということに関しては一考の余地がある

と執筆者は考える。

そこで、﹁風土記﹂編纂当時の播磨国内での産鉄に関する状況を﹃播

磨国風土記﹄の記事から推察してみる。

﹃播磨国風土記﹄中の産鉄に関する記事

①讃容郡総記

  即鹿放山  号鹿庭山  々四面有十二谷  皆生鐵也   難波豊前於朝庭始進也  見顕人別部犬  其孫等  奉発之初

②宍禾郡柏野里敷草村条

  敷草村  敷草為神座  故曰敷草  此村有山  南方去十里許 有沢  二町許  此沢生菅作笠最好︿生柁杉栗黄蓮黒葛等

  生鐵  住狼羆

③宍禾郡御方里金内川条

  大内川  小内川  金内川  大者稱大内  小者稱小内

  生鐵者稱金内

(6)

一八﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶

④讃容郡中川里条条

  昔  近江天皇之世  有丸部具也  是仲川里人也  此人  買取河内国兔寸村人之賷劒也  得劔以後  挙家滅亡  然後苫 編部犬猪  圃彼地之墟  土中得此劒土与相去  廻一尺許 其柄朽失  而其刃不渋  光如明鏡  於是  犬猪  即懐心  取劒帰家  仍招鍛人  令其刃  爾時  此劒 屈申如蛇  鍛人大驚  不営而止  於是犬猪  以為異劒 献之朝庭  後  浄御原朝庭  甲申年七月遣曾禰連麿  返送本処  于今安置此里御宅

ここに挙げるように、﹃播磨国風土記﹄には多くの産鉄記事が散見

される。特に①として挙げた讃容郡総記の記事によれば、十二箇所も

の谷すべてからそれぞれ鉄が産出したことや、そこから採れた鉄を第

三十六代孝徳天皇に奉ったことが記載されており、和銅の段階におい

て播磨国は産鉄国と言うに十分な量の鉄が産出される国であり、少な

くとも第三十六代孝徳天皇の代には中央からも産鉄国として認識され

ていたであろうことがわかる。また、④として挙げた讃容郡中川里条

の記事では鍛人の存在が語れている。この讃容郡中川里条の記事は後

の追録とされる記事で、いつの時代の追録かは未詳であるが、少なく

とも現存する﹃播磨国風土記﹄の伝本﹁三条西家本﹂が書写された平

安末期以前の追録であることは確かなことであり、それ以前にはすで

に播磨国で鍛人の存在が一般的に認められていたことの証明にはなる かと思う。④に関しては﹃播磨国風土記﹄編纂当時と言えないのが弱い点ではあるものの、播磨国が早い時期から産鉄国と呼ぶに充分な程の鉄を産していたことは、﹁風土記﹂の記載内容を鑑みるに想像に難

くはない。

では今確認した、播磨国が産鉄国であったという事と、先に挙げた

荒田村の地名起源説話の問題との間にどのような関係があるかと言う

ことを考える上で参考となるのが、﹃出雲国風土記﹄大原郡阿用郷条

の地名起源説話である。

﹃出雲国風土記﹄大原郡阿用郷条

阿用郷  郡家東南一十三里八十歩  古老伝云  昔或人  此処山田佃 而守之  爾時  目一鬼来而  食佃人之男  爾時  男之父母  竹 原中隠而居之時  竹葉動之  爾時  所食男云動動  故云阿 欲︿神亀三年改字阿用

﹃日本書紀﹄巻第二神代下第九段一書二

即以紀國忌部遠祖手置帆負神、定爲作笠者。彦狹知神爲作 盾者。天目一箇神爲作金者。天日鷲神爲作木綿者。櫛明玉 神爲作玉者

この地名起源説話を簡単に説明すると、その土地に住んでいた農業

に従事する人を一つ目の鬼がたべてしまい、食べられる際の﹁アヨア

ヨ﹂という農耕民の言葉から阿用郷の地名を導くという説話伝承であ

(7)

一九﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶ るが、この中である種異様な存在感を持って語られるのが﹁目一鬼﹂

という存在体である。

この阿用郷条に見える﹁目一鬼﹂については、柳田国男氏 6が一つ目

の鬼の最も古い例と断じて以降、多くの研究者が﹃日本書紀﹄巻第二

神代下第九段一書二に見られる作金者天目一箇神を証として、鍛冶と

関連のある存在として論じるようになり、反対意見 7もあるものの、そ の論調は以降の注釈書 8の類にも定説として踏襲されるに至った。

とりわけ﹁目一鬼﹂と鍛冶の関連性について精力的に論じたのは瀧

音能之氏 9で、瀧音氏は次のように述べた。

このように考えるならば、鬼の背後には製鉄集団の存在を想定す

ることができよう。さらに、積極的にこの説話を解釈するなら

ば、先住者として田を耕作している農耕民を製鉄集団が徴発しよ

うとしたことの反映ととらえることが可能であろう。⋮︵執筆者

略︶⋮実際の製鉄作業には、もちろん熟練したいわば専門家が必

要であったであろうが、それと同時に、砂鉄の運搬や薪・炭の伐

り出し、そして運搬といったような激しい肉体労働に耐え得る豊

富な労働力もまた不可欠であったと考えられる。こうした製鉄作

業の状況を想定するとき、そこに製鉄集団による労働力の確保を

目的とする農耕民の徴発という行為を考えることは十分に可能で

あろう。 柳田・瀧音両氏の論を参考にすれば、﹁目一鬼﹂は元来鍛冶の神と

して信奉されていた存在であり、その﹁目一鬼﹂が農耕民を食べてし

まうという﹃出雲国風土記﹄大原郡阿用郷条の地名起源説話は、端的

に言えば農業の衰退と鍛冶の発展という社会的背景を象徴していると

解することができる説話伝承だということになる。

そこでこの﹃出雲国風土記﹄大原郡阿用郷条の地名起源説話を受

け、本稿において考察すべき当該条に立ち返ってみると、当該条も同

様に、地名起源の基になっている﹁荒れた田﹂という農耕に関する要

素を有する︵田の使用目的は儀式のためであり、農耕のためではない

が︶地名起源説話であることがまず注目される。

また、天目一命という﹁目一つ﹂の存在体が当該条にも同様に登場

していることも注目すべき点である。ただ注意すべきは、﹃出雲国風

土記﹄では﹁目一鬼﹂とされているのに対し、﹃播磨国風土記﹄や﹃日

本書紀﹄では﹁天目一命﹂あるいは﹁天目一箇神﹂と呼び名が異なる

点である。一方では﹁鬼﹂とされているのに対し、他方では﹁命﹂﹁神﹂

とされているのはなぜなのか。それは松本直樹氏 0がすでに指摘してい

るように、﹁目一つ﹂と言う存在体をどう捉えているかという、編述

者あるいは伝承者の価値観の問題である。先に述べたように﹁目一つ﹂

という存在体は元来鍛冶の神として信奉されていた存在であり、その

神を信奉する者、あるいは神として認める視点を持つ者にとってして

みれば、﹁天目一命﹂あるいは﹁天目一箇神﹂といった認識となるが、

﹃出雲国風土記﹄の地名起源説話に登場する農耕民のように鍛冶と何

(8)

二〇﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶

ら関係のない者にとってしてみれば、﹁目一つ﹂という存在は異形の

怪物以外の何物でもなく、まさしく﹁目一鬼﹂という認識になるのだ

ろう。このように呼び名に差異はあるものの、出雲・播磨の両国﹁風

土記﹂で語られる﹁目一つ﹂という存在体は同一のものとして考えて

一向に問題のないものと思われる。

すると、当該条と﹃出雲国風土記﹄大原郡阿用郷条の両地名起源説

話は、農耕に関する要素を同様に持つという点と、﹁目一つ﹂という

鍛冶の祖神たる存在体が同様に登場するという二点において共通して

いることがわかる。このことから、当該条の地名起源説話にも﹃出雲

国風土記﹄大原郡阿用郷条と同様に、農耕と鍛冶技術の対立という社

会的背景を想定し得るのではないかと執筆者は考える。

先に確認したように﹃播磨国風土記﹄には産鉄記事の多いことから、

﹃播磨国風土記﹄編纂当時、既に播磨国内において鍛冶に対する認識

が存していたことは確かなことかと考えられる。さらに﹃延喜式﹄﹁神

名帳﹂には、播磨国多可郡に天目一神社のあることが記されている。

この天目一神社が天目一命を祀る神社である事は神社名からも明らか !

であり、古くから託賀郡には鍛冶の祖神たる天目一命を祀る人々がい

たことにどうやら間違いはなさそうだ。

また﹃播磨国風土記﹄の編纂時期から時代は下るが、歴史学的ある

いは地理学的な視点からいえば、有岡利幸氏 @は、江戸時代頃にはすで

に中国地方とその周辺の産鉄国で、タタラ製鉄の過程で行われる木炭

確保のための山林伐採であったり、鉄穴流しにより流下してくる土砂 が原因となって起こる洪水であったりといったことが、地域の農林

業にとって軽視できない程には公害化していたことを指摘している。

﹁風土記﹂編纂当時、既に播磨国で鍛冶技術が存していたのであれば、

江戸時代程ではないにしろ、多かれ少なかれ同じような問題が顕在化

していた可能性は考えられる。

このように実際、播磨国で出雲国と同様に鍛冶技術の発展があった

ということと、その結果引き起こされる農耕民との対立があったであ

ろうこと自体は想像するに難くはないのである。

以上のことを踏まえ当該条を再検討してみると、当該条の地名起源

説話を次のように解釈することができる。

土地の巫女神である道主日女命が、鍛冶の祖神である天目一命と結

びついたことを前半部分の説話伝承で語る。その背景にはもちろんそ

の土地と鍛冶技術とが結びついたことを語ろうとする意図があり、そ

の結果、農耕技術の衰退、あるいは淘汰が起こったというような農耕

と鍛冶技術の対立という社会的背景が原因となって、後半部分の田が

荒れたという地名起源説話へとつながるといった具合である。こう

いった社会的背景を踏まえることで、当該条を筋の通った一貫性のあ

る地名起源説話として合理的に解することができるのである。

またそのように解釈する上で、現在ほとんど一本化しつつある当該

条の訓読についても少し言及しておく必要がある。というのも、当該

条の前半部分と後半部分に大きな隔たりがあるという問題は、当該条

の訓読にもその原因の一端があるためである。

(9)

二一﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶ 当該条の後半部分﹁後荒其田﹂の箇所の訓読について注釈書を

確認してみると、多くの注釈書は﹁ノチニソノタアレキ﹂と訓んでお

り #、言うなれば行為の主体がなく、放っておいた田が勝手に荒れたと

しか解釈できないように訓読している。この訓読では前半部分の説話

伝承と後半部分の地名起源につながりを見出すのは難しい。

ではどのようにこの箇所を訓読すべきなのかというと、敷田年治氏

と栗田寛氏が揃って﹁ノチソノタヲアラシキ﹂と訓んでいるのが非常

に参考となる。残念ながら両氏がなぜこの訓みを採用したのかは判明

しないが、このように訓めば、何者かの行為により田が荒れたという

文脈となる。そして行為者として想定し得るのは、﹁天目一命﹂とし

たいところだが、ここは前半部分との文脈的つながりを考えて﹁道主

日女命の子﹂とするのが穏当であろう。

この訓読の優れたところは、前半部分の説話伝承と後半部分の地名

起源との隔たりを解消し、一つの文脈たらしめるという一点に留まら

ず、土地の巫女神である道主日女命と鍛冶の祖神である天目一命が結

びついて成った子が田を荒したことを語ることで、先に述べた農耕と

鍛冶技術の対立という説話伝承の背景を、訓読を通して補完的に説明

することができるという点にある。言うなれば﹁ノチソノタヲアラシ

キ﹂という訓読自体が、当該条に不足していた﹁田が荒れた︵厳密に

言うなら﹁田を荒らした﹂だが︶﹂理由を説明する機能を有すること

となるのである。 四

以上、﹃播磨国風土記﹄託賀郡賀眉里荒田村条の地名起源説話に関

する考察をしてきたが、結論をまとめると次のようになる。

当該条は、農耕と鍛冶技術の対立という社会的背景を踏まえ、後半

部分を﹁ノチソノタヲアラシキ﹂と訓むことで、前半部分と後半部分

との説話伝承の隔たりは解消され、土地の巫女神である道主日女命と

鍛冶の祖神である天目一命とが結びついた結果、その子が原因となっ

て田が荒れたということを語るといった、文脈的に筋の通った一貫性

のある地名起源説話として合理的に解釈できる。

しかし以上のように解すると、当該条の地名起源説話を国司一人の

述作によるものと考えるのは些か難しくある。というのも、和銅六年

の官命を受け﹁風土記﹂の編纂にあたったのは、主に中央より各国に

派遣されていた国司であった 1はずだが、当該条のようにその土地の社

会背景を説話伝承に取り入れ、地名と結びつけたうえで編述するとい

うことが、ほんの数年単位の任期でその土地へと赴任させられていた

国司一人の手によっては到底成し得ないことのように思われるためで

ある。当該条の地名起源説話に編述者の作為性を読み取るとき、そこ

に垣間見えるのは、その土地に長く、そして深い関わりを持った在地

の人間による伝承や価値観であり、在地の有力者が﹁風土記﹂の編述

に携わっていたということを想定するのは難くない。

そういった有力者によってもたらされた、いわば当事者的な視点か

(10)

二二﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶

ら語られるべき在地の伝承を、第三者である国司が解文としての﹁風

土記﹂の記載へと編述していった結果が、当該条のごとき一見不明瞭

に思える地名起源説話の正体なのではないのだろうか。そして当該条

のごとき一見不明瞭に思える地名起源説話にこそ、編述過程において

混在することとなった、様々な層の価値観を見出すことが出来るので

ある。

注1  ﹃出雲国風土記﹄は国造が主体となって編述されたことが明らかなため除く。

 2  秋本吉徳﹁地名起源説話の特質―播磨国風土記を中心として―﹂﹃国語と国文学﹄五三―四号  一九七六年四月  3  井手至﹁風土記地名説話と地名﹂﹃日本神話﹄︵日本文学研究資料叢書︶有精堂出版  一九七〇年  4  中村宗彦﹃古代説話の解釈:風土記・霊異記を中心に﹄明治書院一九八五年

 5  吉野裕氏は﹁もちろん﹁生活上の必要﹂を形づくる歴史的にもまた主体的にも多様でありうるから、一様に単純化することはできず、まして播磨の奥深い山間部に住みついた人たちの生活事情がわからない現在では、そこでどんなことが起こったかはほとんど不明である。ただ漠然と想像される限りでは、彼らは決して純粋な水田耕作農民ではありえず、むしろ︿山の民﹀の範疇にぞくする人たちであった。そして︿アラタ﹀という地名の問題もこうした︿山の民﹀の見地からとらえることをゆるすであろう。私は簡単に言おう。このアラタは︿鉱田﹀の意のものであり、山砂鉄ないし鉄鉱石を生産するところの︿田﹀、すなわち産鉄場の呼称なのであった、と。﹂と指摘する。︵﹃風土記世界と鉄王神話﹄三一書房 一九七二年︶  6  柳田国男﹃一目小僧その他﹄小山書店  一九三四年

 7  主な反対意見としては、内田賢徳﹁﹁目一つの鬼﹂という潤色―出雲国風土記述作の一面―﹂︵﹃風土記研究﹄三四号  二〇一〇年十二月︶などが挙げられる。

 8  ﹃出雲国風土記﹄大原郡阿用郷条に対する注釈をいくつか挙げる。① 異種族人の身体的特徴を異様に見たものであろう。鍛工者が祖神を天目一命とするのと関係あるか。︵秋本吉郎﹃風土記﹄︵日本古典文学大系︶岩波書店  一九五八年︶② 出雲国大原郡阿用郷の話は、日本の鬼の観念が備わっている最古の例である。人食い鬼の類話は、古くは﹃日本霊異記﹄︵上巻三話・中巻三三話︶や﹃伊勢物語﹄六段、﹃三代実録﹄仁和三年八月十七日などにある。一つ目というのは妖怪のしるしで、類話は外国にもあるが、日本には一つ目の神がある。播磨国託賀郡賀眉里に天の目一つの神が見える。神代紀には天の目一箇の神を作金神とするとある。鍛冶の神である。︵小島瓔礼﹃風土記﹄角川書店  一九七〇年  補注三七︶③ 出雲は明治以前、鉄の生産が日本一であったが、鉄鉱から鉄を取り出す技術は大陸から伝えられた。技術者は尊敬されながらも、一方、不思議な術を使う集団にみえたと思われる。ところで、鍛冶の仕事では火の温度を知るため火の色を見る。これを長年つづけると片目が失明する。目一つの鬼の正体は、じつは自分の片目を犠牲にして仕事をした人であった。愚かな恐怖感から鬼に仕立て、子を食う話が語られた。八岐の大蛇の伝承の原形はこれであろう。︵植垣節也﹃風土記﹄︵新編日本古典文学全集︶小学館  一九九七年︶

 9  瀧音能之﹃出雲古代史論考﹄岩田書院  二〇一四年  0  松本直樹氏は﹁当該条の﹁目一鬼﹂は、神代紀︵第五段一書第二︶の﹁天目一箇神﹂、播磨国風土記託賀郡の﹁天目一命﹂という神に通じている。前者は﹁作金者﹂であることからも、鍛冶職の神であったことが知られ、それは鍛冶職が長年の就労によって多く失明したことの経験によると考えられている。それを異形のものとするのは、異なる民族の価

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二三﹃播磨国風土記﹄地名起源説話考︵奥田︶ 値観によるものである。﹁目一鬼﹂の物語には、小さな村落共同体における、その内部の価値観では把握することの出来ない未知なる物との接触の記憶が留められている。﹂と指摘する。︵﹃出雲国風土記注釈﹄新典社  二〇〇七年︶

 !  谷川健一氏は、天目一神社について﹁国鉄鍛冶屋線の周辺には、むかし鍛冶を行ったという伝承をもつ地が多く、天目一を祀る古社が少なくない。⋮︵執筆者略︶⋮特に天目一神そのものを社名とする当社こそ、その最も顕著な例であろう。﹃日本書紀﹄天孫降臨の一書に﹁天目一箇神を作金者とす﹂とあるが、この神はギリシア神話のキプロスなどと同じように一つ目の鍛冶神といわれる。この神を祀る神社は全国的に見られるが、神名をそのまま社名とするのは当社が式内社唯一の例である。﹂と指摘する。︵﹃日本の神々―神社と聖地―﹄第二巻  白水社  一九八四年︶

 @  有岡利幸﹃里山Ⅰ﹄︵ものと人間の文化史一一八︶法政大学出版局 二〇〇四年  #  ﹁後荒 其田 ﹂に対する諸注釈書の訓読を一覧にして挙げる。①﹁ノチ  ソニタヲアラシキ﹂と訓読する注釈書   敷田年治﹃標注播磨風土記﹄  一八八七年   栗田寛﹃標注播磨風土記﹄  一八九九年②﹁ノチ  ソノタアレヌ﹂と訓読する注釈書   植木直一郎﹃風土記集﹄︵大日本文庫地誌篇︶春陽堂  一九三五年③﹁ノチ  ソノタアレキ﹂と訓読する注釈書   武田祐吉﹃風土記﹄岩波書店  一九三七年   小島瓔礼﹃風土記﹄角川書店  一九七〇年④﹁ノチニ  ソノタアレキ﹂と訓読する注釈書   秋本吉郎﹃風土記﹄︵日本古典文学大系︶岩波書店  一九五八年   久松潜一﹃風土記上﹄朝日新聞社  一九五九年   植垣節也﹁播磨国風土記注釈稿﹂﹃風土記研究﹄一五号  一九九二年   植垣節也﹃風土記﹄︵新編日本古典文学全集︶小学館  一九九七年

  沖森卓也、佐藤信、矢嶋泉﹃播磨国風土記﹄山川出版社  二〇〇五年   中村啓信﹃風土記上﹄角川書店  二〇一五年

※ ﹁風土記﹂﹃日本書紀﹄の本文は日本古典文学大系による。割り注は︿  ﹀で示した。

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