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漢詩教材 「音読」の理論と効用

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(1)ー授業多様化のための一試論ー. 音読﹂の理論と効用 第十七章 漢詩教材﹁. 一︑はじめに 高等学校 や中 学 校の授 業を中 心とした漢文教育 の現場 に お い て ︑ ﹁音 読﹂は 不可欠 の学 習活動 であると言 うことができるであろう ︒このように言う場 合の﹁音読 ﹂とは ︑ ﹁黙読 ﹂ の 対 照 語で あ り ︑﹁ 朗読 ﹂に 連な る も の で ︑ ﹁ 漢文 を声 に出 して 読 む﹂ と い う︑ 国語教育 的 な意 味 においてのものである ︒﹁ 音読 ﹂の も う一 つの 限 定 的な 意味 は ︑ ﹁ 訓読 ﹂の 対照 語 であり ︑ ﹁ 直読 ﹂ に連 な る も の で ︑﹁ 漢文 を 字音 の ま ま直 読す る﹂ と い う︑ 漢文学上 の 意 味においてのものである ︒本稿で意味 するところの ﹁音読﹂は後 者であり︑ 高等学校や 中学校で扱われる漢文の読 み方に︑新たなる可能性 を考えていこうとするものである︒ 従来︑多くの 先学に よ っ て︑このような﹁漢文を字 音のまま直読 する﹂と い う立場の音 読論が展開 されながら︑ あまり一般に は普及しなかったようである︒ま し て や︑学校現場 における﹁ 漢文﹂ の読み 方は ︑ ﹁訓読 ﹂が 絶対的 であり ︑それ 以外 の可 能 性が︑ ほ と ん ど 見い出されていないのが現状で あ ろ う︒そこで︑ 本稿では先 学の論を検討 しながら︑特 に 学校現場 の授業に お い て﹁音読﹂ が︑どのように実践可能か を理論として 検討してゆくも の で あ る︒ また ︑ここで最 初に確 認し て お き た い の は ︑ ﹁音 読﹂ の可 能 性を主 張することが ︑その まま ﹁訓読﹂の存 在の否定にはならないという立場で あ る︒高等学校 や中学校の授 業で︑ その 中心ともいえる﹁訓読﹂ のあり方を活 かした上で︑ 補助的に﹁音 読﹂という方 法を考 韻 律リズム. が体感できることであろう ︒こうした観 点から︑. え ︑そ の結果として 得られる効用 について考えてみたい ︒そ の効用として 一番顕著な の が︑ ﹁ 訓読﹂では味 わえない. 本 稿では特に 韻律性が作品 の重要な要素 である漢 詩 教 材を中心に ﹁音読﹂の あ り方を検討 する︒ ﹁音読﹂をすることは﹁ 訓読﹂に馴染 みきった漢文 の授業に お い て︑非常に 違和感が生 じることが 予想される︒ しかし︑その 違和感を感 じることが︑ 何らかの刺激 となり︑外国 語に対する 言語意識や ︑外来文化の 摂取・受容を 特徴とする日本文化の あ り方などを︑ 生 徒が主 体 的に考える契 機となることが十分に可 能であろう︒ 授業の中において︑単に読 み 方が多 様 化する上に ︑教材に対す る意識も多 様 化する可能性 がある︒ 本稿で は︑こうした 諸々の立場をふまえて︑ 漢詩教材﹁音 読﹂の理論と 効用について 考 えてみたい︒. 二︑漢文﹁音読﹂の歴史 最 初に ︑ ﹁ 漢 文 音 読﹂ が︑日 本においてどのように扱 われてきたか ︑そ の歴史 を概観 し ておきたい︒ 漢文が我が国 に渡来した時 点で︑最初 にどのように 読まれたかについては︑明 確な見解 は得られていないが︑これを主に江戸時代の諸説に 見てみると ︑次に示すように︑おおむ. - 167-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(2) * 本居宣長﹃漢字三音考﹄. *湯浅常山﹃常山楼筆余﹄ * 日尾荊山 ﹃訓點復古﹄. * 卜部兼倶﹃ 神代巻抄﹄. ね︑ ﹁音読 ﹂したという 説と ︑ ﹁訓読 ﹂したという 説に大別されるようである︒ ○﹁音読起源説﹂ *太宰春臺﹃倭読要領﹄ ○﹁ 訓読起源説 ﹂ * 松下見林﹃本朝学源﹄ ﹁ 音読起源説﹂ の代表的なものとして︑ 荻生徂來の門 人・太宰春臺 の﹃倭 読 要 領﹄を見 ておこう︒ ○太宰春臺﹃ 倭読要領﹄ 〜 顛倒読害文義説 今吾国の人 ︑中華の書を 以て︑此方の 語となして︑ 顛倒して読 む故に︑文義 を害する こと多し︒ 此事上古にはこれあるべからず︑中古 より以来なるべし︒其故は ︑王仁始 て吾國の 人に書を授し 時は︑倭語の 数も少く︑王仁異國の人 にて︑此方の 言語に通ず ることも 難かるべければ︑只異國 の音にて︑異 國の読みを教 るに過べ か ら ず︒其後中 華の書 多く傳はり︑ 文学の教弘まりて︑物の名 も定まり︑ 言語の数も多 くなりて︑中 華の文 学︑民間ま で に行はる︒ 是によりて学士大夫︑書を 読む者︑中華 の字を翻じて ︵ 中略︶. 倭語 となしてこれを読む︒倭語 を以て中華の 書を読むに︑ 其文を顛倒 せざれば︑其 義 通ぜざる故に︑遂 に顛倒の読となれり︒. 然れ ば吉備公の 國字を造り︑ 倭語顛倒の読 を創けるは︑ 後の学者に 甘き毒を啗しめた るにあらずや︒ 此毒人の骨髄 に淪て除きがたし︒若これを除んとおもはゞ︑華語 を習 ふ に し く は な し︒華 語とは中華 の俗語なり ︒今 の唐話なりされば文学に 志あらん者は ︑ 必唐話を学ぶべきなり︒ ここでは︑日本人の漢文 の読み方が﹁ 顛倒﹂させたものであり︑ それ故の意 味の取り違 いが多 いことを述 べ て い る︒そのことは中古以来 の こ と で︑上 古の 時代に は ︑ ﹁音読 ﹂を していたが 為に︑意味 も正確に取ることができたというものである︒したがって︑この 春 臺の 説 に お い て は ︑ ﹁音 読﹂ を 起源 と し た上 で ︑ ﹁文 学に 志 ある 者は ︑中国語 ︵華 語・ 唐 語 ︶を学ばなければならない ﹂としている︒これは当 然ながら次 に示した ︑荻生徂來 の﹃譯 文 筌 蹄 序 ﹄に見られるような ︑ ﹁支那音直読説 ﹂を継承 したものであり︑中国語 の熟達が ︑ 漢籍を 読む上での最 良の方法であるとする︑ 外国語学習へ の視点を持っ た主張で あ る︒ ○荻生徂徠﹃譯文筌蹄﹄序 漢学 の教授法は先 づ支那語か ら取かゝらねばならぬ︒教 ふるに俗語を 以てし︑誦す る に 支那音を以て し︑譯するに 日本の俗語を 以てし︑決し て和訓廻環 の読方をしてはな ら ぬ︒先づ零細 な二字三字の 短句から始 めて︑後には 纏まった書物 を読ませる︑ 斯く て 支那語が熟 達して支那人 と同様になってから︑而る 後段々と經子史集四部の 書を読 ませると云ふ 風にすれば勢破竹の如し だ︑是が最良 の策だ︒ こうした﹁ 音読起源説﹂ に対して︑漢 籍が渡来した 時点から﹁ 訓読﹂が行われていたと する ︑ ﹁訓 読 起 源 説﹂を 立てた 学者も 見ら れ る︒ この中 で︑特 に日尾荊山 は︑徂來学派 の ﹁音読説 ﹂への反対意見を ︑次に示したように ︑その著書﹃訓點復古 ﹄の中で述 べている ︒ ここでは ︑ ﹁訳﹂としての﹁訓読 ﹂にこだわり ︑ ﹁音読﹂ は無益であることを述べている︒ ○日 尾 荊 山﹃訓 點 復 古﹄ 彼此域 を同うせざれば語も亦自ら 異なり ︑ 語異なれば必ず譯を 俟て而後意義始て通ず ︒ ︵中略 ︶. - 168-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(3) もし譯 言もなく空し く或は漢音︑ 或は呉音︑ 又は百済の音 にのみ傳へたならば︑今の 僧徒の 陀羅尼を誦 し︑蘭学者の 蘭書を聞くにひとしく︑何 の益有る可 からず︒ これらはいずれも ︑それぞれが 主張する読 みのあり方を ︑起源に結びつけて考えたもの で あ る︒よって ︑ここで重要 なのは︑起源 の問題で は な く︑江戸時代 において﹁ 音読論﹂ ﹁ 訓読論﹂の双 方が主張されると同時に︑ 一方が主張 される折には ︑一方を否 定 的に捉え る 内容が見られたことである︒ 次に︑大正・ 昭和期に提唱 された﹁音 読 論﹂を見ておくことにする︒まず︑最 初に青木. ︵大正九年十月︶. 正児の﹃漢文直讀論﹄である︒この論 では﹁訓読の 読書に害あること﹂として ︑次に示し た三点を挙 げている︒ ○青木正児 ﹁漢文直讀論 ﹂ ︵一︶訓 読は読書に手間取って︑支那人同様に早 く読む こ と が出来ない︒ 是に関して 音読は幾 ら早く読め て も小僧が経 を読むようで 意義が解らないでは無益の 沙汰 だと云 ってゐる人もあるが︑そ れ は音読の罪で 無く︑罪は 読者にある︒ 吾人は 今 日 欧 文を学んだ経 験や支那俗文学を読んだ 実験から︑此 くの如き議論 の最早 問題 にならぬ事を 知ってゐる︒ ︵二 ︶訓読は支那固有の文法を 了解するに 害がある︒何 となれば訓読 の結果日本文法 に因 はれ︑是を 以て彼を束縛 せんと欲する 弊に陥る こ と が往々ある ︒ ︵ 三︶訓読は意 義の了解を不正確にする ︒訓読が隔靴掻痒の感があるのは云ふ迄 も無 い が︑甚し き に至っては実際了解出来てゐない事を自 分には解ったやうな幻覚 を起こす場合 がある︒何故 ならば所謂訓 なるものは 多く古語で︑ 中には現代一 般に通用し難 いものも少 なからざるに 関らず︑そ れ が日本語で あ る為に解っ て ゐるような 気がする︒ こ れ は︑いずれも ﹁訓読 ﹂の害 を述 べているが︑ 逆な見 方をすると ︑ ﹁音読 ﹂を行 えば 解決 する問 題で あ り ︑ ﹁音 読﹂を 行う意 義と い う点 で︑示 唆を与 えてくれる 論である ︒. ︵ 昭和七年︶. さらに︑ 昭和に な っ て提唱された ﹁音読論﹂として昭和七年 に出版された ︑岡田正三 の ﹃漢文音読論﹄が あ る︒ ○岡田正三﹃漢文音讀論﹄. ⁝⁝⁝⁝⁝私は漢 文の中にある 特殊の文法を 見出した︒ これに因って 読めば漢文は 実 に明 晰になり︑反 読で歪め ら れ誤られ︑殺 されたものが ︑全く生れかはった様な生 々 とした判然した 姿を以て現はれて来る︒そこで私は感じ た︑漢文は 音読に因って 再吟 味 されなければならない ︑私 は音読法を世 に伝へる使命 を有すると ︒ ︵著者自序より ︶ 古人は漢文を 反読と言ふ方 法に因って 取入れた︒そして︑此方法 は今日に至る 迄無 批判に踏襲 せられてゐる ︒人人は之に 対して何ら語学的検討を 加へようとはしない︒ 併し其は反 読が語学的方法として完全無欠︑何ら の批判を許さないからではなく︑学 ︵第一編第一章﹁語学的方法としての反 読 ﹂より ︶. 者が徒ら に古人の糟粕 を嘗めるのみで︑語学的良心を欠いでをることを立 証するに止 るものである ︒. 吾人が 漢文を音読するのは単に反 読の誤謬を 訂正しようと 云ふばかりでなく︑其の 文中の 細かい言葉 のアヤの中に 著者の生きた 声を聞き︑そ の構文の中に 著者独特の 思. - 169-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(4) 惟形式 を発見し︑かくの如く に し て従来見付 けられ得なかった点を見付 け出して漢文 を見直 そうと云う 所にその目的 を有してゐた 筈である︒それが為には 音読してゆく 内 に一語一語で其語 の意味を味ひ ︑その文法的意味・位置 を感受して行 かなければなら ない ︒訳して始 めて意味がとれるのではなく︑音読せられたその中に 意味が味はれな くてはならない ︒そこで必要 なことは反読 をすっかり 忘れると云ふことである︒ ︵ 第四編第七章 ﹁反読を捨 てて音読する 人へ﹂より︶ この著作においては︑その 自序の中で﹁ 音読を世に 伝える使命感 ﹂を述べ︑第一編第一 章の﹁語学的方法と し て の反読﹂では ︑反読に﹁語学的検討が欠 如していること﹂を述べ ている ︒さ ら に ︑ ﹁反読 の誤読 ﹂という章 の中で ︑古来 か ら の漢文 の読み 方を具体的に 検 討しつつ︑ そこには文法 の意識が欠 如しており︑ 幾多の誤読が 受け継がれてきていること を指摘している ︒また ︑第四編第七章﹁反読を捨 てて音読する 人へ ﹂では ︑ ﹁音読の意義 ﹂ を ま と め る と共に ︑﹁反 読﹂を す っ か り忘 れることを述 べ て い る︒このように︑ 従来の 漢 文の読 み方が︑古人 の経験に頼っ た受身的なものであり︑ 西欧の古 典 研 究のように論理的 思考の 働く余地が な く︑解釈上 の進歩が見られないことを ︑具体的に述 べた著書で あ る︒ こ の岡田氏 の論 においても ︑﹁ 音読 ﹂の 意義 は 十分 に理 解で き る が︑ や は り ︑ ﹁ 訓読 ﹂を 否定 する立場をとっている︒こ の点に お い て︑たとえ﹁ 音読﹂の意義 が理解で き て も︑長 い歴 史の中で根 強い﹁訓読﹂ に対等するまでの読み方に ﹁音読﹂が 普及し得ない 一つの原 因 を見ることもできよう︒ このことは︑こ の後も展開 される﹁音 読﹂の 主張に﹁よりすぐれた 方法としての﹁音 読 ﹂ によって︑よ り劣った方法 としての﹁訓 読﹂を廃止 しようという 意欲と方向性 が含まれて 1 いた ﹂ ことで︑よ り一層︑論 争の摩擦を大 きくしていく 背景が見られたようである︒. このような 立場の︑典 型 的なものとして昭和十六年に出版さ れ た倉石武四郎 の﹃支那語 教育 の理論 と実際 ﹄では ︑﹁漢文 も中国語で 学ぼう ﹂と い う主 張から ︑次に に示したよう ︵ 昭和十六年︶. な︑いわゆる ︑﹁訓読塩鮭論﹂が展開 されている︒ ○倉石武四郎﹃支那語教育の理論 と実際﹄. 論語で も孟子でも︑ 訓読をしないと気分が出ないといふ人 もあるが︑これは孔子や 孟子に 日本人になってもらはないと気が済まないのと同様 で︑漢籍が国 書であり︑ 漢 文が 国語であった 時代の遺風である︒支那の 書物が︑好 い国語に翻訳 されることは ︑ もっとも望ましいことであるが︑翻訳さ れ た結果は︑多 かれ少なかれその書物の持 ち 味 を棄てることは免れない︒ 立体的な も の が平面化することが予想 される︒持ち 味を 棄 て︑平面化したものに慣れるとその方 が好くなるのは︑恐るべき 麻痺であって ︑い は ば信州に育 ったものが ︑生 きのよい魚 よりも ︑塩 鮭をうまいと思ふ様なものである ︒ 元来︑日本 において支那 の詩を読ませるのに︑今ま で︑ほ と ん ど訓読の方法 を使用 したため︑ 大学で詩の講 義があっても︑まったく 詩の音律の問 題には触れていない︒ 平仄がいかなる意味を 持つか︑何故 ︑支那の詩句 が一句の末で 韻を踏むか ︑韻文とし ての死活問題がまったく放擲されて ︑それで詩 の巧拙が論ぜられている︒ ⁝⁝⁝ 勿論︑訓 読も一 種 語 学には相違ないが︑前にも 云ふ塩鮭語学 であって︑ 本当の生きた 持味が 出ないのみか ︑国語の夾雑 によって不 純なる概念を 多く導かれる ︒ ︵﹁漢 文 教 育の衰徴 ﹂十五よ り ︶. - 170-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(5) 以上 ︑平安朝初期以来の長 い伝統を持つ﹁訓読 ﹂という 圧倒的な方法 に対して ︑ ﹁音読 ﹂ を提 唱してきたいくつかの論 を概 観してきた︒ い ず れ も ︑﹁訓 読 批 判﹂の 上に立 った論 で あ り︑ それゆえに ︑ ﹁ 訓読 ﹂の 絶 対 的 な安定度 に対 する 違 和 感ば か り が 目立 ち ︑﹁ 音読 ﹂ 普及 にまでは至 らなかったものと考え ら れ る︒近年においては︑中国古典研究の 立場から ﹁ 音読﹂と﹁訓 読﹂の相補性 を以て︑それぞれの長所 を場面に応じ て活用していくことが. ﹁国語科﹂の古典分野における ﹁訓読﹂の位置づけと﹁音読﹂の方法. 2 提 唱さ れ て い る︒こ の︑相補性 を保つ こ と こ そ︑語学教育的な 視点と ︑日本 に お け る伝 統の中の﹁訓読古典学﹂という文化的な 視点を共有 できる方法と 考えてよいだろう︒. 三 それでは次 に︑学校現場 での 実践の 中で ︑﹁漢文訓読 ﹂が ど の よ う に位 置づけられてい るかを整 理しておきたい︒ 学 校 現 場で扱う漢文教材は︑基 本 的には訓点が 付けられている︒これは ︑教材を理解 し やすくするための配 慮として︑ 例えば︑高等学校学習指導要領︵平 成 元 年︶にも﹁内 容の 取 り扱い ﹂の中 で ︑﹁ 特に漢 文については 訓点を 付け ︑時に は書き 下し文 を用いるなど 理 解 しやすいようにする ︒ ﹂ と唱わ れ て い る︒そして ︑その 解説文 の中に は ︑ ﹁﹁訓 点﹂は︑ 返り 点や送り仮 名などを言う が︑漢文を国語科の古典の 一分野と し て取り扱う以 上︑訓点 を 付けて読みやすくしたものによるのは 当然のことであって︑白文 の読解︑復文 の練習は 原 則 と し て行 わ な い ︒﹂ と さ れ て い る︒ し た が っ て ︑朗 読な ど に お い て も ︑﹁ 訓読 ﹂ した 上で指 導するのが一般的 な方法 であり ︑その 中で ︑﹁範読 ﹂ ﹁斉読 ﹂ ﹁群読﹂ などを 効果的 に実施 す る よ う工 夫が さ れ て い る︒特 に ︑ ﹁群読 ﹂などにおいては ︑昨 今 多くの ユ ニ ー ク な実践報告 が為されているようである ︒ このような ︑学習指導要領の﹁国 語 科の古典の一分野として取 り扱う以上訓読が原則﹂ とする立 場は︑広く日 本の学問・文 化の歴史を 考えたときに ︑それらが漢 籍を対象とし ︑ これを﹁ 訓読﹂する 事により解釈 ・理解されて 形成されてきたという点において︑極 めて 妥当 かつ本来的 な も の と考え て よ い だ ろ う︒とりわけ ︑ ﹁国語科の ﹂という意 味において は︑ 現代日本語 に お け る︑論理的文体の 基礎が ﹁漢 文 訓 読 体﹂であることを見 ても ︑ ﹁訓 読 漢 文﹂が深く言 語・文化に関 わっていることで︑教科 の内容として 重要な分野と 言うこ と が で き る︒このように﹁ 訓読﹂ は ︑﹁ 国語﹂ という 教科の 一 分 野で あ る﹁漢 文﹂の 読み 方 としては︑歴史的・文化的 な背景から重要性を具えており︑積 極 的に位置づけうるもの である︒ 3 これまでに述 べた﹁ 訓読﹂ は︑ ﹁ 翻 訳 論と し て客 観 的に見 た場 合︑原文音読 の省略 に よる︑日本語文語文への直 訳﹂と考えることができる︒確かに︑ 前述したような意味にお. いて ︑﹁訓 読﹂ は ︑ ﹁国 語﹂ の中 の ﹁漢 文﹂ における 読み 方と し て は ︑中心的 な位 置づ け がされている︒しかしながら︑そ れ が直ちに﹁音 読﹂を省略したり︑ま し て や︑排除しよ うとする 理由にはならないであろう ︒したがって ︑学校現場の ﹁漢文﹂の 授業の中に お い ても ︑ ﹁訓 読﹂という原 則を十 分に 活か し た上で ︑相 補 的に ﹁音読 ﹂を実 践してゆく方 向 を考えてもよいのではあるまいか ︒ こ こ で問題 になるのは ︑﹁音 読﹂をどのような ﹁発音 ﹂で行 うかということである︒ 第 二節 で述 べた﹁ 音読﹂ の諸論 や現 況の﹁ 中国古典学﹂ の立 場からすれば ︑ ﹁現 代 中 国 音﹂. - 171-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(6) 4 によって 発音するのが 一般的 で あるとされている︒ 昨今の 高 等 学 校において ︑外国語科. 目の多様化が進む 中で︑興味あ る方向で あ る が︑現実の国 語としての 授業を考えたときに は 広く用 いられてゆく 方法 とは言 い難い ︒なぜなら ︑ ﹁ 中国語 の発音習得﹂ という ︑外国 語学習上 の障壁 を︑ 指導者 も生徒 もク リ アしなければならないからである︒ よって ︑ ﹁現 代中国音﹂に よ る﹁音読﹂は ︑高校現場で は考え づ ら い︒仮に︑指導者が﹁現代中国語﹂ に 習熟している 場合や︑視聴覚教材な ど で︑中国人の 発音が聞ける 場合においても︑生徒 には参考に聞 かせることにとどめておくべきである ︒ましてや︑ 中学校現場においては︑ な お さ ら参考程度 と限定 して扱 うべきである ︒そこで︑ 学 校 現 場で実 施される ︑ ﹁音読 ﹂ においては ︑﹁現代中国語 に よ る音読 ﹂と﹁ 訓読﹂ の中 間 的 存 在で︑ 語 学 習 得の有 無や程 5 度を問わ ず に実践できる ︑ ﹁日本漢字音﹂を利用すべきである こ とを提言 したい︒. ここで提 言する﹁日本漢字音﹂に よ る﹁音読﹂によって復元 されうるものは︑漢文教材 6 の﹁ リズム ﹂︵節 奏 性︶ で あ る ︒したがって ︑ど の 教材 にも ﹁音 読﹂ を実 施していくわ. けではなく︑厳選す る必要がある ︒とりわけ︑ 散文教材は ﹁中国語音の 音読﹂に慣れ た人 でないと ﹁リ ズ ム ﹂︵節奏性︶ の復 元が困 難で あ り︑中学校 ・高校 の﹁音 読﹂対 象と は な りにくいといえる ︒それに対し て︑漢詩教材 は︑その表現 の基本と し て﹁韻律性﹂ が重要 な要 素であるから ︑ ﹁音 読﹂の対象として積極的に 扱うことができる︒ 7 漢 詩 教 材 を﹁ 日 本 漢 字 音﹂ で﹁ 音 読﹂ した 場合 ︑ ﹁ 韻律 の三要素 ﹂ の うち 最 重 要で あ. る ﹁リ ズ ム ﹂︵ 音数律 ︶が 復元できる︒ つぎに 重要 である ﹁押 韻 律﹂もほぼ復 元すること が で き る ︒し か し な が ら ︑﹁ 四 声・ 平仄 ﹂︵ 音調律 ︶は 復元 す る こ と が で き な い︒ そ れ ゆ えに﹁日本漢字音﹂による ﹁音読﹂は﹁ 現代中国語 による音読﹂ と﹁訓読﹂の 中間と位置 づけることができるわけである ︒こ れ は ︑ ﹁国語 ﹂と い う教科 における﹁ 漢文﹂ の中に ︑ 中国古典としての原詩における﹁共通 ・不変なリズム﹂を復元 することを導 入することに なり︑教材 の根元的な 中国文学としての要素をも 味わうことが 可能となる ︒ ここで︑ ﹁日 本 漢 字 音﹂を 利用 した﹁ 音読﹂ の実践 の際 に留意 することを︑ まとめてみ ると︑ おおむね次の 三点を考えておく必要があろう︒ ﹁日本漢字音 ﹂は原則と し て﹁漢音﹂を 用いるが︑ リズムの再現 を目的としているた ﹁音読﹂の 直後に﹁訓読 ﹂を必ず続け て朗読す る こ と︒. ① ②. 朗 読の際 には︑ 生徒が 聞き手 に な る場合 においても ︑﹁ 原文の 同一箇所﹂ を必ず 見て. め状 況に応じた例 外を認め て も何ら問題はない︒ ③. いること︒いわば︑ ﹁ 聴覚﹂と﹁視 覚﹂の両面 からの朗読にすること︒. 四︑﹁日本漢字音﹂による﹁音読﹂の実践 前節 の立場 をふまえて︑ ここでは︑ 中学・ 高校の 安定教材を 選び ︑﹁音読 ﹂と ﹁訓読﹂ を併 用した 朗読の 実 践 例をいくつか 紹介しておくことにする ︒まず 最初は ︑﹁渭城曲﹂と も呼ばれ ︑唐の時代 からすでに朗 誦されていた 韻律のはっきりとした漢 詩である︑王 維の ﹁送元二使安西﹂を 取り上げる︒. - 172-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(7) ・. じょう. そう. 送. いー. しゃ. ︑. ゆう. じー. 二. うー. げん. 元. ちょう. せい. せい. りゅう. しん. ×. ・. ぢん. しー. 使. けい. しょく. 渭 城 朝 雨 邑 軽 塵. きゃく. 関. かん. じん. 無. む ー. いっ. 故. こー. ぱい. 人. じん. しゅ ー. あん. 安. せい. 西. 軽塵 を邑 し. 王維. 元二 の安西に 使ひ す る を送る. 渭城の朝雨. 柳色新たなり. よう. こう. 客舎青青. 客 舎 青 青 柳 色 新 ×. しゅつ. くん. 更に尽 くせ. せい. かん. 君に 勧む. 陽関を 出づ れ ば. 陽. 故人無. 一杯の 酒. 勧 君 更 尽 一 杯 酒 ×. 西のかた. 出. ×印は﹁ 休音﹂を示す ︒ 印 は﹁二音一拍性﹂を示す ︒ 日本漢字音が︑日 本 語の一音節になるものは ︑二音節に伸 ばして読む︒. からん. ×. 西. ○ ○ ○. ○○. ○○. ○×﹂という四拍子を 再現しているた. この詩においては︑特 に第二句︵承 句︶の訓読が ﹁客舎・青 青・柳色・新 たなり﹂とな り︑ほぼ 原詩のリズム に近い﹁○ ○. め︑音 読をしても違和感が少ない ︒また︑朗誦 にも適した 作品であるため︑韻律の流 れの 中で音 読を理解しやすい上に ︑韻字を 認識する際も﹁塵︵ぢん ︶ ・新︵しん ︶・人︵じん ︶﹂ ︵ 上 平 声 真 韻︹ 真 韻 ︺︶ と一 首 全 体の リズム の中 で明 確に 把握 することができる ︒ ﹁ 日本 漢 字 音﹂で読んだ 時と﹁現代中国語音﹂で 読んだ時の近似性が︑強く 体感できる教材例で あ る︒. しゅん. 暁. ぎょう. 春. 暁. 孟浩然. 次 に五言絶句 の安定教材︑ 孟浩然の﹁春 暁﹂を取り上 げる︒. 春. - 173-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(8) みん. 眠. しゅん. 春. ふー. 不. 知. ちー. 風. ふう. 聞. しょ ーぶ ん. 落. らく. 来. らい. 処. し ょー. 処. やー. 夜 かー. 花. かく. 覚 てい. 啼. うー. 雨 たー. 多. ぎょう. 暁 ちょう. 鳥. せい. 声 しょう. 少. ×. ×. ×. ×. 花落 つること知る 多少. 夜来. 処処. 春眠. 風雨 の声. 啼 鳥 を聞く. 暁 を 覚えず. この作 品は︑中学 ・高校を通し て多くの教 科 書に採られており︑漢文 を学習すれば 必ず 一度 は扱う教材である︒したがって︑その 安定度の高さゆえに︑訓読 のリズム以外 にはあ まり 目が向けられないようである︒また︑ 学校現場で﹁ 訓読﹂のみで 学習した場 合︑すで に 教科書に掲載 してある段階 で︑当然な が ら訓点が施 されているので︑リズムの 味わいが. ○× ﹂という形で 一致している ︒いわば ︑ 正調リズム. ○ ○× ﹂ ︶と﹁ 意味 となっている︒. 変 調リ ズ ム が 適 宜 混 在していることによって ︑表現 が. ○○ ﹂ ︶の間に ズレが生じており ︑ 変調リズム. ○○. を有していることがわかる︒. この詩 の第 一 句・ 三句に お い て は ︑﹁韻律 のリ ズ ム﹂と ﹁意 味のリズム﹂ が﹁○ ○. 制 限されてしまっている︒ ここでは︑こ の詩を﹁音読 ﹂する事によって見えてくる︑鑑賞 の深化に つ い て触れておきたい︒ ○ ○×. それに 対し て︑第二句・ 四句においては﹁ 韻律リズム ﹂ ︵﹁○○ リズム ﹂ ︵﹁○○ 一首 の中に ︑ 正 調リ ズ ム と. 多元化 ・重層化しているのである ︒このように ﹁訓読﹂のみでは理解し 得ない中国古典詩 と し て の鑑賞と問題意識を﹁音 読﹂は提示するのである︒ ﹁日本漢字音﹂による﹁音読﹂ は︑このように深化した鑑賞面のみならず︑生徒が 漢文 8 に ︑ある 程 度 習 熟す る以前 の 中 学 段 階や高 校の 入門期 においても︑ 実践することが可 能. であろう ︒単純 に棒 読みすることにより 親しみを覚 えると 同時に ︑ ﹁ 訓読﹂ が い か に巧妙 な 日本語への直 訳であるかを 意識した上 で ︑ ﹁ 訓読﹂習得の 学習を可能とする︒ 以上 ︑﹁日本漢字音 ﹂に よ る﹁ 音読﹂ を漢詩教材を 中心に ︑実践例を 挙げてみた︒ ここ で︑ ﹁音読 ﹂の長 所をまとめておきたい︒ 第二節 で述 べた︑ 岡 田 正 三の﹃ 漢文音読論﹄ に おいても︑ 既に詳細な検 討から︑その 長所が述べられている︒ それを参考にしながら指摘 をしてみることにする ︒ ①﹁訓読 ﹂の方法によって識別できなかったものが︑音読によって始めて 知られるように なり︑ 従来の解釈︵ 訓読の妥当性 を含めて︶を 再検討するきっかけになる︒具体的に. - 174-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(9) は︑例 えば一つ一つ の漢字の音や 意味を調べ 直すことで︑ 日本人が無 意 識のうちに漢 字に託 している日本的な語感を 払拭できる︒ ②﹁ 訓読﹂は︑経 験で何となく 理解したような気になっているが︑音 読だと漢字の 用法を ③ だ と︑無理に解 釈を決定しなければならない︒ 語順・虚 字など︑文章 をもとのまま ︑その全体 を伝えることができる︒そのため︑暗. 意 味 が は っ き り し な い と き ︑﹁ 音読 ﹂ な ら そ の ま ま に し て再検討 できるが ︑﹁ 訓読 ﹂. ふまえなければ 理解できない ︒. ④ 記などに際し て︑脱字をすることが少 ない︒ ⑤﹁拍節リズム﹂が再現 されるので︑ リズム感があって覚えやすく語順も間 違わない︒ま た︑本 来の 中国古典詩としての 鑑賞 が深まると同 時に ︑ ﹁訓読 リ ズ ム﹂と の対比 から さまざまな問題意識を 持つ可能性がある︒ 以上 の よ う な長 所の あ る﹁日 本 漢 字 音﹂ による ﹁音読 ﹂を ︑﹁訓 読﹂の 補助的手段と し て実践 し︑さらに︑ 時と場合に 応じて視聴覚教材などによる﹁現代中国音による音読 ﹂を まじえれば︑実に 多種多様な朗 読や群読の実 践が教室内で 可能になり ︑漢詩教材を 扱う授 業の 多様化が促進 されるわけである︒. 五︑おわりに〜授業多様化の中から主体的な学習を〜 現在 ︑国際化の視点 から ︑ ﹁異文化理解 ﹂が重要視されると共に ︑古典教育においては ︑ ﹁自国の文化 と伝統﹂に 対する関心や 理解を深める 態度を養う方向性が示唆 されている︒ 我が国における ︑文化の普 遍 的な特徴と し て﹁外来文化の 摂取・受容 ﹂を考え る と き ︑ ﹁漢 詩文享受﹂ が各時代の 古典分野において︑言語を 中心とする諸文化の源となったことは 疑 いのない事 実で あ る︒したがって ︑ ﹁漢 文﹂を ﹁音読 ﹂す る こ と は︑そ の妥 当 性が過 去に も数 多く述 べ ら れ て お り︑本 稿で述 べたように ︑ ﹁日 本 漢 字 音﹂を 利用 すれば ︑学校現場 でもすぐに実践できることから︑ 生徒にとって 身近に﹁日本文化のあり 方﹂を考える 材料 となる ︒学校現場において︑こうした方法が ︑言語・文化 への興味を深 めつつ︑よ り広い 視野 の元に実践されていくことこそ︑今後︑ 望まれるべき古典教育の 方向性で あ ろ う︒ ﹁訓読 ﹂と い う原則を十分 に活用した 上で︑ ﹁日本漢字音 ﹂と い う共有化さ れ た﹁音読 ﹂ を 相互補完的に 実践することで︑生徒が﹁ 日本文化﹂と ﹁大陸文化 ﹂の関係を主体的に考. 注1. 松浦氏所掲論文. 松浦氏所掲論文. に お い て﹁音読 ﹂ ﹁訓読﹂ それぞれ. ﹁﹁訓読古典学 ﹂と﹁ 音読古典学﹂ ーそ の意義 と相 補 性についてー ﹂. えられうる授業 こそ︑今後の 漢文教育の 可能性を大き く広げることになるのである︒. 松浦友久氏. 平 成 九 年︶. 2 注1. 1. ﹃新しい 漢文教育 ﹄ ︵第二十五号. 3. 中国古典作品を﹁現代中国語﹂で読む 意義の妥当性 を述べたものとしては︑ 松浦友久. の主張の当 否を客観的に検 討している︒. 4. - 175-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

(10) 5 6. 7. 8. ︵ 平成九年五月. 明 治 書 院︶に詳しい︒ 第一八三号﹄. 大修. 氏﹁言語時空における゛発音の 可変性゛と゛ リズムの普 遍 性゛ー古典 と現代を つ な ぐ ﹃漢文教室. ﹃リズムの美 学﹄ ︵平成三年三月. ﹁漢詩音読の可 能 性﹂. ものー ﹂ 小論 松浦氏所掲論文 においては ﹁リズム﹂の 概念を狭義のものと捉え︑ 発音の高低. 館︶ において︑漢詩 の﹁日本漢字音﹂ による音読の妥当性と可能性を述 べている︒ 注4. 明 治 書 院︶序論︹一 ︺ー︵二 ︶ ﹁日中比. や 強弱や長短 などを含ま な い゛音数律 ゛︵節奏性︶ の要素と規定 している︒ここでの ﹁リズム﹂の意味 もこれに従う︒ 松浦友久氏﹃リズム の美学 ﹄ ︵平成三年三月 較リ ズ ム論の 客観的基盤 ﹂によれば ︑ ﹁韻 律 性の三要素 ﹂とは ①音 数 律︵句 型・句 数︶②押韻律 ︵押韻︶③音 調 律︵平仄︶であるとされる︒ 講談社現代新書 ︶ に︑ より低年齢の 子供たちに﹁ 訓読﹂. ﹁音 読﹂の実践 が︑高度で専門的なものではないことは︑安達忠夫氏﹃素読の す す め ﹄︵昭和六十一年十二月. 本稿 は︑平成十年四月二十五日に行われた ︑早稲田大学国語教育学会例会︵第. よりも﹁ 音読﹂が好評であったという実 践 例が紹介されている︒. ︽付 記︾. 一九五回︶の口頭発表に基づいてまとめたものである︒ 席上︑貴重 なご意見を 下 さった多くの先 生 方に厚く御礼申 し上げます︒. - 176-. 漢詩教材「音読」の理論と効用 第十七章.

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