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『本朝法華験記』所収説話の諸特徴 (下)

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『本朝法華験記』所収説話の諸特徴 (下)

著者 原田 行造

雑誌名 金沢大学教育学部紀要.人文科学・社会科学・教育

科学編

巻 23

ページ 302‑287

発行年 1974‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/2297/47697

(2)

金沢大学教育学部紀要 302

朝 法 華 験 記﹄所収説話の諸特徴

  ヨ ﹃霊異記﹄説話との対比的考察  ︻

霊『

異記﹄説話が現報善悪を強調し︑なかんずく悪報謂に力点

置いて編纂されているのに対して︑﹃本朝法華験記﹄所収の悪報

説話は︑僅かに中61好尊法師の一話を数え得るに過ぎず︑かわっ

て︑圧倒的に前生謂が多出している実態については︑既に詳細に

言及して来たところである︒また︑焼身往生者の説話群の中にも︑

『霊異記﹄の現世利益中心思想に対して︑後世の安楽国を渇望す

る姿勢が顕著に窺い得ることも瞥見した︒更に︑一連の悪人往生

諌の出現は画期的で︑﹃霊異記﹄の厳しい因果律を以てしては︑容

赦なく断罪されるべき無意な破戒者が︑法華経の加護により西方

浄土に往生し得る姿を︑感動的な筆致で描いていることにも触れ

来た︒本章では︑如上の諸傾向に立脚して︑更に数種の説話の

比的考察を試みて︑問題点を深化してみたいと思う︒

O 蘇生の功徳から往生の歓喜へ

 まず︑﹃本朝法華験記﹄︵以下本書ともいう︶下m筑前国優婆塞

往生諌を素描するところから起筆したい︒本話の梗概を示せば

次の通りである︒

筑前国の一優婆塞は︑常に法華経を読み︑普門品を請し︑観音

菩薩に深く帰依して︑善心を以て悪業を恐れていた︒時に︑香椎

明神の年預に当たった︒彼は︑魚鳥の肉を以て供物に充てるため︑

むを得ず大池に出かけ︑弓を引き矢を射︑その矢を拾いに池に

りていった︒すると︑突然池中に沈み行方不明になった︒父母

(下)

妻子は泣き叫び︑恋い慕ったがいかんともなしがたかった︒する

と︑彼は父母の夢の中に現われ︑﹁三宝の加護により︑殺生戒を犯

さず他界し︑三悪道の苦しみを離れ善身を得ました︒自分の死骸

在を知りたくぽ︑その上に蓮華が生ずるでしよう︒私は︑法

華大乗の普門品のお蔭で浄土に生まれ得ました︒﹂と告げた︒果た

して︑池中から時節はずれの蓮華の一群が生じた︒

 この説話は︑﹃今昔物語集﹄十六ー35にも書承され︑更に︑金沢

文庫本﹃観音利益集﹄36にも類話を見出すのであるが︑相互に若干の屈折が見られ︑説話の文学性といった観点からの追究に︑恰

好な問題を提供している︒即ち︑﹃本朝法華験記﹄の該話では︑﹁優婆

塞以レ弓射レ之︑下レ池取レ矢︒此男沈二池水一不レ見レ形︒﹂と記し︑彼が鳥

を射殺したか否かを朧化し︑鳥ではなく射た矢に読者の視線を集中

させている︒だが︑﹃今昔物語集﹄のそれは︑﹁弓ヲ以テ此ノ鳥ヲ射

ツ︒即チ池二下テ鳥ヲ捕ムト為ルニ︑此ノ男池二沈テ︑不見エズ

成ヌ︒﹂とし︑矢の命中した鳥が池上に浮かんでいるかの如き描法

をとっている︒更に︑これが﹃観音利益集﹄になると﹁或時池二

魚ヲ取ルニイカ・シタリケム︑深キ所二沈ミテ︑ヤカテ不見

リニケリ︒﹂と変容していく︒この三説話を対比させてみると︑

『今昔物語集﹄説話は︑後の個所で﹁神事ヲ勲メムガ為二︑適二殺

生ヲセムト為ルニ︑三宝助給フガ故二︑罪業ヲ不令造ズシテ︑既

他界二移テ︑善キ身二生レニタリ︒しと弁じている点と︑鳥をと

りにいく筋書とに若干の岨鰭を感じさせる︒勿論︑この部分は鳥

矢が命中したと思ったが仏力によって外れ︑殺生戒を犯さずに

(3)

原田:『本朝法華験記』所収説話の諸特徴(下) 301

済んだとも解せられるが︑ここは︑やはり﹃法華験記﹄説話のよ

うに︑﹁矢﹂に関心を集め︑鳥の生死に触れない方が︑仏の加護を描

ききっていると思われる︒﹃観音利益集﹄に至っては︑﹁錐レ離二殺生↓

神事有レ限︒為レ設二魚鳥宍食﹁出二山林野外↓伺レ鳥求レ魚︒﹂とする

『法華験記﹄の表現が﹁魚鳥ナトノ入事ニテアリケルポトニ﹂と簡略

化した形となっており︑﹁或時池二入テ魚ヲ取ルニイカ・シタリケ      

︑深キ所二沈ミテ︑ヤカテ不見へ一成リニケリ︒﹂とあり︑池中

不慮の死という描きぶりである︒したがって︑仏のお

思召しによる死でなく︑結果的に︑日頃の観音信仰のため浄刹に

生じ得たというのである︒﹁死様ハアエナカリケレトモ︑浄刹二生

タリケル目出サバ︑ウラヤマシクコソ覚ヘケレ︒﹂という結末部

分の説話評論は︑そのことを明示している︒ここでは︑この不慮

死が︑﹃霊異記﹄でいう悪報によるものか︑﹃法華験記﹄にいう

救いによるものか一切を不問に付して︑浄刹転生のみを強調

しているため︑中途半端な構想となっていて︑迫真力に欠けてい

る︒ さて︑本話と対比される説話に﹃霊異記﹄中5がある︒

第一表 殺生戒と地獄・極楽

   説話集要素日本霊異記 中5本朝法華験記 下旧

 富 裕 人

摂津国東生郡撫凹村 人  物場  所 優 婆塞

前国某所   行漢神のため七牛を殺す     ︑ 香椎明神のため魚鳥をとろうとする

放  生

法華経読請︑普門品諦経

ここに登場する撫凹村の家長公は︑長年の崇りに恐れおののき︑麟のためやむなく七牛を殺したわけで︑この点香椎明神の年預

当たったという特殊的立場にあった本書説話の主人公と酷似し

状況下に置かれていた︒ともに︑自己の意志に反する殺生に関

わるわけだが︑両話の筋書は大きく対庶的な展開を見せる︒即ち︑

『霊

異記﹄においては︑殺された牛たちが︑牛頭人身の怪物とし

場し︑この異形の告発者により家長公は地獄の閻羅宮にひき

られていく︒すると︑裁判の最中に︑彼が生前放生した生物

現 わ て︑大王に対して口々に﹁非二此人処口一︒所レ巣鬼神

為レ祀殺害︒﹂とか﹁我等委曲知レ非二此人答﹁識二鬼神答一︒﹂と

申したて︑蘇生への道を開くのである︒しかし︑とにかく彼は︑

一旦

地獄へと堕ち︑閻羅王の判決を受ける所まで追いつめられて

くのである︒これに対して︑﹃法華験記﹄説話においては︑殺生

えもが仏のお蔭で安楽国への出発点と化しているのである︒両話 未遂のためか︑全くその罪は問われず︑死という最大の不幸さ

本質的相違は︑死に対する認識の仕方にある︒即ち︑一方が死

を恐れ悪報の象徴としているのに対して︑他方は死を肯定し︑浄

門出としているわけである︒﹃霊異記﹄説話が︑地獄からの

をテーマとしているのに対して︑﹃法華験記﹄のそれは死から

浄土への歓喜にある︒そして︑前者が悪行と善行とを分立させ︑

それぞれの善悪報を厳密に描こうとしているのに対して︑後者は

法華経の力で悪心をも直ちに消去し︑善報に支えられて極楽へ旅

人を描き出そうとしているのである︒

⇔ 応報思想から慈悲の示現へ

次に︑国司と路上出会ったが︑下馬の礼をとらなかったため︑

ながれた中71真遠法師の説話につき考えてみたい︒﹃日本霊

異記﹄には︑いかなる高級官人であろうとも︑彼が反仏教的態度に

出た場合には︑悲惨な最期を遂げたり地獄に堕ちて苦しむという悪報を強調する態度が一貫して流れていることは大きな特色であ

る︒元興寺での法会の席上︑一乞食僧の頭を殴打したため忽ちに

(4)

金沢大学教育学部紀要 300

失脚落命した左大臣長屋王︵中1︶や︑西大寺の塔の規模を縮小さ

せ︑法華寺の瞳幡を倒したがため︑地獄で苦しみ︑蘇生しようにも肉体すでになく魂中有に漂う左大臣藤原永手︵下36︶はその好

例である︒まして︑国・郡司階級の悪報謂は頻出している︒殺生・高利貸・紆犯.寺物濫用などによって地獄行となったものが特に

多く︑膳臣広国︵上30︶・大伴赤麿︵中9︶・田中真人広虫女︵下

26︶など続々と登場している︒そうした中で︑路上における高級官人と僧との対面をとりあげた中35は︑﹃法華験記﹄の中71と対比

して考えると︑様々の問題を提供する︒また︑﹃今昔物語集﹄十七

111も宗教人︵僧侶対神官︶同志の対決を描く問題の説話である︒

第二表 路上の僧における対人関係 所人  物

  話  内  容

異鍵鼎背喜山綴

  鏡宇遅王

宇遅王と路上であった諦鏡は︑避けがたいので笠を傾けて面をかくして立っていた︒王は下馬して乱打し︑経を破った︒すると︑忽ちに重病となり狂い乱れた︒三日後に墨のように黒くなって死んだ︒      1      1        ﹁

華71法中朝記本験¶里某国河三

  遠国  司

某  僧和気光時

 まず︑本書の中71においては︑僧が馬上にあり︑それを答めた

国司が夢を通して繊悔するに至る話型をとっている︒これに対し

て︑﹃霊異記﹄のそれでは︑馬に乗っているのは官人の方で︑僧は

元レ所二避退一︑傾レ笠匿レ面︑立二乎路側一︒﹂と極めて謙虚であ

る︒したがって︑それを殴打迫害した報いは物凄い︒何とか赦し

      注3 しいと懇願する宇遅王の家来の願いを︑諦鏡は拒否し

賎王︑千遍痛病︑万遍痛病︒﹂と真向から跳戦的である︒そ

こで︑王の一族は聖武天皇に申し出て︑諦鏡を捉えて殺害する許 可を得ようとするが︑許されない︒三日後︑病者は地獄の焔に焼

か︑真黒になって死んだため︑彼の脊属は収まらない︒

報之者︑殺而報之︒﹂と迫ると︑天皇は敢然として﹁朕亦法師︑

諦鏡亦僧︑法師云何殺二於法師一︒宇遅招レ災︑非二諦鏡答一︒﹂と激

しくつき放している︒ここに︑天皇と寺院勢力との提携を強調す

る﹃霊異記﹄の態度が明確に看取される︒下巻最終説話における

とにあり︑人々の土地は錐を立てる程もないと論断しているので 君問答﹂も︑全く同一線上にある︒日本国すべてが天皇のも

あって︑政権の下に庇護されるべき教権像が景戒の脳裏に形成さ

ある︒中35は︑他の﹃霊異記﹄説話︑上15・上29・

15

ある仏徒を描こうとしている︒ 33などの私度僧迫害謂を一歩出て︑国家機構の保護下に

 宇遅王については︑﹃続日本紀﹄が僅かにその断片を報じている︒

ち︑天平九年九月に従五位下︑同十二月に内蔵頭︑十年閏七月に

部大輔︑同十二月に中務大輔に任ぜられている︒彼が︑聖武天皇

と系譜上どのような関係を有する人物かは不明であるが︑この説

話の舞台が山背国綴喜郡である点が注目される︒というのは︑同

有智里があり︑有智一族が幡鋸していたと考えられるから

ある︒即ち﹃延喜式﹄の神名帳に内神社が名を連ねているし︑

また古くは﹃古事記﹄中巻の孝元天皇の個所で﹁味師内宿禰﹂を

者山代内臣之祖也︒﹂と注している︒また︑当地については更

『日本書紀﹄の雄略紀には﹁土師連祖吾笥︑循進二摂津国来狭々

村︑山背国内村・傭見村・⁝因幡私民部一︒﹂と古い記録が存し︑下っ

倉院文書﹂の﹁智識優婆塞貢進文﹂の中に︑天平年間頃

と思われるが︑内臣東人という年十七になる者が戸主内臣咋麻呂

よって︑貢進された記録がある︒これらの点からして︑この綴

喜郡宇智一帯に︑宇治︵内︶氏が群居していたことは間違いない︒

問題は︑この地と王族宇遅王とがどうして結びついたかにある︒

思うに︑その名前とこの宇智里との近似性によってこの説話の舞

(5)

原田:『本朝法華験記」所収説話の諸特徴(下) 299

台が設定されたとも考えら舞︒何れにしても︑聖武天皇が親し

関係にある王族の言分を聴かず︑下毛野寺沙門諦鏡の側に立っ

という筋書は︑極めてセンセーショナルなものであったといえ

よう︒それにしても︑諦鏡のとった行為は︑当時の﹁僧尼令﹂第

十 九条の﹁凡僧尼於二道路一︑遇も一三位以上一者隠︒五位以上敏レ馬 相

揖過︒若歩者隠︒﹂に照してみても︑さして不都合なものではな

羅・

 一方︑﹃法華験記﹄説話においては︑国司は︑僧の尊さに夢を通

じて目覚め︑自己反省しているわけで︑僧もよし国司もよしとい

うハヅピーエソドとなっている︒しかし︑﹃令集解﹄所収﹁神亀五年

三月廿八日格﹂ によれぽ︑﹁外五位︑若有二歩行一︑僧尼急逢二道

路一者︑下馬過去也︒﹂とあり︑僧の所行を答めた国司はむしろ常

識的であり︑僧の方が尊大に描かれている︒ところで︑﹃今昔物語

集﹄説話には︑富士宮の神官と僧との対決が描かれているが︑あっ

さり仏教側に凱歌があがり︑地蔵菩薩の口を借りて︑下馬しない神

官を厳しく叱責している︒神官としては︑富士宮神社の長年のしきたりを踏襲していたまでのことで︑さしたる罪とはいえないの

あった︒だが光時は何らの抵抗もなく﹁涙ヲ流シテ答ヲ悔テ︑

上下ヲ不論ズ僧・来ルヲ見テハ︑遠ヨリ下轟㌢テ礼シヶリ︒﹂と極

従順である︒仏教徒への完壁な屈服である︒

 以上の三話を比較してみると︑﹃霊異記﹄説話では僧は被害者で

あり︑聖武天皇の庇護のもとに官人の暴挙を否定している︒﹃法華

験記﹄・説話でも︑僧は迫害を受けているが︑むしろその非は僧の

側にあったのである︒一方︑国司は悪死の報いも受けず︑自ら夢

よっで悔悟する話型となっており︑全体におだやかである︒そ

対して﹃霊異記﹄においては︑憎悪むき出しの宇遅王が︑諦

鏡を水田の中まで執拗に追跡して打ち︑経を全部破り棄てるという激しさだ︒諦鏡もまた激昂して︑仏罰に苦しむ王に︑呪いをあ

せ︑敵意をあらわにしているがその様が極めてリアルに形象化 薩と同様に︑地蔵菩薩が出現し︑仏徒の側からの独善的な描き方 されている︒その点﹃今昔物語集﹄説話も﹃法華験記﹄の普賢菩

とどまっている︒また︑この説話は十四巻本﹃地蔵菩薩霊験記﹄

も類話を有するが︑そこでは光時が﹁元来神職ノ身ナレバ沙門

ヲ敬スベキニ非ズトテ往来ノ僧二下馬スル事モナカリキ己として︑

富士宮の慣例によることに触れず︑対立意識を強調している︒そ

して︑地蔵菩薩は﹁敬レ之永ク絶二長流一︑斯ヲ慎ニスレバ︑現二災難

ヲ免レズ︒末来ハ苦報ヲ招ク︒必ズ失念ナカレトアラ・カニ宣言

カト思ヘバ夢覚メヌ︒﹂と強引に申しわたし︑慈悲深い説教調は消え失せている︒つまり︑神官を悪役にしたて︑仏教の優位性を述

ることに急で︑不自然な感を免かれ得ない︒

⇔  

荒縄から五色の練縷へ

『本朝法華験記﹄の中には︑仏の御手に結んだ五色の糸をしっ

りと自分の手中にして︑西方往生を遂げた人々が登場して来る︒

本書に先立つこと約六十年の﹃日本往生極楽記﹄には延昌僧正が︑

また遅れること約六十年の﹃続本朝往生伝﹄にも源信僧都や小槻

兼任などが繰縷を手中に固く握りしめている︒源信は︑生前﹃往

生要集﹄巻中末の臨終行儀の個所にて︑﹃四分律紗﹄の﹁暗病送終

篇﹂に﹃中国本伝﹄を引用した部分を紹介する形を以てこの糸の

とに触れて︑凡そ次のように懇切に述べている︒即ち︑祇園精

舎の太陽の沈むと目される西北隅に無常院を建て︑そこに病者を

寝かせる︒堂中に一立像を置き︑その像は金箔で覆い西面させる︒

像の右手は上に挙げ︑左手には五色の布をつないで地に長く垂れ

下らせておく︒病者は像の後にねかせ︑左手に五色の布の端を持

り︑この五色の糸は心は観想に耽りつつ︑わが身を確かに極楽へ て︑仏に誘われて浄土に赴く思いを念頭に浮ぽせると︒つま

導いて下さる命綱というべきものであった︒

 次に﹃法華験記﹄に現われた糸引往生讃について概観してみよ

(6)

金沢大学教育学部紀要

う︒第三表に登場する三人の往生者がそれである︒彼等は何れも

第三表 五色の糸と西方浄土

6

 生 者

延   昌

台座主︶

  境中51

  話  内  容 印分し生夢た受 をの しに械 結左終得四ま後 ん手りる品た でにのと朝十毎 入結日告服五日 滅びにげの日法 しつ阿ら人に華 たけ弥れあはを

陀るら衆転  願尊゜わ僧読  文勝後れを  を両に 請毎

把像 法じ夜

 りの彼華て尊

御は経弥勝

 右手三一陀陀  手に七百の羅  に糸日書讃尼  念をの写をを  珠か不す唱百  をけ断れえ反  持そ念ばて請  しれ仏極いし をを楽たて  定自修往゜い1

華経読請に専念し︑二万部に及んだ︒後に行願寺で法華写︑三十講を勤修し︑十種供養と称して極楽の作法を移 し︑菩薩の威儀を模した︒命尽きると思い︑叡山に登り︑

 ︐故老・釈衆・同法に値遇して︑再び行願寺に戻った︒最期

には沐浴して浄衣を着し︑五色の糸を弥陀の仏手にかけ︑

 陀念仏の中に遷化した︒ その糸をわが手にとり︑西方に向かって座し︑法華転読・弥

下99

 釈

てとし行水誉

寂告 な瓶桓

しげ自わを上 たる分ずと人

゜° らの

 臨弥足ず母

 終陀を °

 にで西袈心  おあに裟潔  いり向を白

 て け着「

汝てて慈

 五を寝仏悲  色引な前深  の摂いにく  糸せ゜出戒  をん夢る律  手が想゜を  にたの西守   め中方る  一守でに  心護木大不  にし像小浄  念てが便の  仏い出利手  しる現をに

浄行堅固な人々で︑中51と下99は﹃拾遺往生伝﹄や﹃今昔物語集﹄

も収録されている︒ここには︑﹃往生要集﹄の臨終の行儀そのま

まの五色の糸が︑とりあげられている︒とくに上6延昌は︑加賀

国江沼郡の槻本氏出身で︑天慶九年には天台座主に任ぜられ︑天

二年には僧正にまで昇った人である︒尤も﹃日本往生極楽記﹄

収話では︑三七日不断念仏を天徳三年十二月二十四日に行ない︑

年の次の年︑康保元年示寂と報じている︒後述する如く︑彼は補 年に入滅と記すが︑本書及び﹃扶桑略記﹄など多くが応和三

落寺を開き︑様々の験力を示現しているが︑彼の如き高僧が︑

五色の糸を祈りを込めて握りしめ︑往生していった点にこの期の

厳粛な臨終の儀式のあり方が管見される︒

 さて︑臨終の作法につき詳記した源信もまた︑儀式に凝って往

生を遂げた人である︒﹃続本朝往生伝﹄9の報ずる所によれぽ︑彼

亡くなる前日に︑端正な稚児が三人五人と自分の寝ている部屋

出入して︑まわりに座していると観想し︑翌早朝に仏の御手に

ないだ糸を手にし︑頭を北に右脇を下にして逝ったという︒ま

た︑﹃法華験記﹄下83においては︑死もま近となった頃︑天上から

二童子が下り︑弥勤菩薩のいる兜率天へ誘導しようとするが︑そ

を辞退し西方浄土を望んでいる︒すると︑その後時々観音菩薩

が目前に出現するようになったという︒ここには︑異常な信仰心

超人的な観念を生み出し︑確固とした観想の世界が構築されて

る︒彼が示寂したのは︑寛仁元年六月十日寅の刻と伝えられて

るが︑それから十年後に没した藤原道長の往生儀式もまた壮観

を展望していたが︑いよいよ死を予感した時に︑そこへ床を移し あった︒彼は法成寺を建立し︑その阿弥陀堂内で既に極楽浄土

た︒最期には屏風の西面をあけ放たせ︑九体の阿弥陀仏を凝視し︑

仏の相好より他のものを見ようとも思わず︑仏法の声より他のも      注7

聞こうともせず︑ただ後世のみを思い九体の阿弥陀仏の御手

通した五練の糸を握りしめ︑北枕で西向きに臥せていた︒この

糸は︑この日のために﹁又蓮の糸を村濃の組にして︑九体の御手

より通して︑中台の御手に綴めて︑この念請の処に東ざまに引か

せ給へり︒常にこの糸に御心をかけさせ給て︑御念仏の心ざし絶

へさせ給べきにあらず︒御臨終の時︑この糸をひかへさせ給て︑

極楽に往生せさせ給べきと見えたり︑九体はこれ九品往生にあ

x造らせ給へるなるべし︒﹂︵﹃栄花物語﹄十八︶と準備されてい

ものであった︒道長のこの往生の様子は︑源信のそれと全く同

形式である︒九品浄土を示す九体仏の御手になる五色の糸をひた

      注8すら一手にしっかりと握りしめたこの儀式は︑観想浄土を至上と

する阿弥陀信仰の頂点をゆくものであった︒

 ちなみに︑源信は往生の儀式に関連して︑諸衆来迎の演出を試

る名手でもあった︒﹃今昔物語集﹄十九14の源満仲出家謹︵多々

院縁起︶がそれである︒父満仲の無類の殺生の罪をみかねて︑源

賢は師の源信に父を出家させる手だてはないものかと相談する︒

(7)

/、

原田:『本朝法華験記』所収説話の諸特徴(下) 297

彼等は一計を案じ︑源信が覚雲阿闇梨と院源君とともに︑箕面山

参詣に来たついでと称して源賢のもとを訪れた形にして︑満仲

と対面する︒そこで全力を尽し説法し︑出家への関心を高めさせ

ようということになった︒事は順調に運び︑決然として満仲は髪

を切った︒そこで源信たちは﹁道心発シタル時ハ︑狂フ様二何二

盛二発タラム︒此ノ次二今少シ令発﹂と考え︑トリックを思いつ

く︒その仕かけは︑次のように大がかりだった︒即ち︑菩薩の装

束十着ほど持ってこさせ︑笛笙を吹く楽人数名を雇う︒満仲が説

聴いている所へ庭の池の築山の後から妙なる楽の音とともに

彼等の変装した菩薩がしずしずと近づいて来る︒新発満仲がびっ

くりしてそのわけを聞くと︑そ知らぬ顔をして聖人たちは﹁何ゾノ楽ニカ有ラム︒極楽ノ迎ヘナドノ来ルハ此様ニヤ聞ユラム︒念

仏唱ヘム﹂と言ってのける︒感極まった新発は︑傍らの障子を明

けると︑﹁金色ノ菩薩︑金蓮華ヲ捧テ︑漸ク寄リ御ヌ︒﹂といった

思がけぬ光景にまたもや直面する︒彼は声を放って泣きながら板

敷から転げ落ちて伏し拝んだ︒その場に居合わせた一同もこれを礼拝した︒その後︑菩薩は楽の調べを整えて帰っていった︒満仲

直ちに罪滅のため寺を建立しはじめたというのである︒これは︑

一種の﹁迎講﹂と思われる︒源信が迎講の創始者であることは︑

『古事談﹄第三に﹁迎講者︑恵心僧都始給事也︑三寸小仏ヲ脇足ノ

上二立テ︑脇足ノ足二付緒テ︑引寄々々シテ浦泣給ケリ︒寛印供奉

ソレヲ見テ智発シテ︑丹後迎講ヲハ始行云々︒﹂とあることにより

明白で査石︒丹後迎講は寛印により例年三月十日に行なわれたと

るが︑﹃今昔物語集﹄十五123には︑丹後国守大江清定のも

とで催された迎講に︑一聖人が望み通り往生する説話がある︒そ      注10

他雲居寺では暗西上人が迎講をとり行訴恥︑六波羅蜜寺や雲林

院でも菩提講のおりに催していたようである︒

 さて︑如上の壮厳な迎講と直結した平安朝の糸引往生に対して︑

奈良時代の糸引きはどのようなものであっただろうか︒そこで︑ まず思い浮かぶのは﹃霊異記﹄中21である︒本話では︑金鷲優婆塞が東大寺の前身の山寺で︑執金剛神の縛に縄をかけて︑昼夜発

願していた︒すると︑彼の異様な熱意のためか︑跨の部分から光

発して宮中にまで届くのである︒驚いた天皇は︑勅使を遣わし

情を探った結果︑一優婆塞のしわざと判明する︒そこで︑そ

目的を尋ねた所︑﹁欲三出家修二学仏法一︒﹂と答えたため︑早速得

度を許し︑彼を金鷲菩薩と称するようになったというのである︒この所伝は︑﹃扶桑略記﹄紗本﹃今昔物語集﹄十七149﹃東大寺要

録﹄などに︑殆ど直輸入的に書承されているが︑﹃古事談﹄三や﹃元亨釈書﹄二十八及び﹃三国仏法伝通縁起﹄中﹃七大寺巡礼私記﹄

菅原本﹃諸寺略記﹄などには︑それぞれ若干の異伝を収録して

る︒﹃古事談﹄においては﹁良弁僧正童行者ニテ草庵ヲ結テ︑土

造タル執金剛神ノ像ヲ安置シテ︑其本尊ノ足二付綱テ︑毎礼

       ロ拝引動テ聖朝安穏︑僧長福寿ト唱ケリ︒其声カスカニ天皇之御耳

聞ケリ︒﹂と記し︑この行者を良弁︑そして天皇の関心を惹起し

は︑彼の祈る声が届いたためということになっている︒﹃東大

寺要録﹄二の諸旧人伝の部分もこれと大同小異であるが︑更に同

書二の古老の伝においては︑聖武天皇が東山を謄望していると︑

紫雲が空に聾えて︑徐々に殿上を覆いつつあるため︑使をやった

ところ︑童行者が執金剛神の前で華厳経を諦していた︒その願い

を問うと︑伽監を造りたいといったのが東大寺のおこりとなった

というのである︒また︑﹃三国仏法伝通縁起﹄でも︑﹁金鐘道場執

金剛神者︒良弁僧正之本尊也︒良弁元名二金鷲仙人一︒是弥勒応 ︒

自造二弥勒像一安二絹索堂一︒執金剛神放レ光照二内裏一︒﹂と報じて

るが︑縄を跨にかけた表現は見られない︒

糸が︑専ら極楽往生への確とした絆の役割を果たしていたのに対  さて︑ここで問題となるのは︑平安朝浄土信仰における五色の

して︑如上の金鷲優婆塞講では︑それは得度のためとか︑或は伽

監造営のためという極めて形式仏教的なものの段階に意味を持っ

(8)

金沢大学教育学部紀要 296

た︒また︑﹃霊異記﹄において︑この糸引きは︑別に現世利益

的な側面を有していたことも忘れてはならない︒中34諾楽の右京

槻寺近辺に住む孤女が︑観音菩薩像を作って︑﹁其銅像手繋レ縄

索之︒供二花香燈一︑用願二福分一日︑我乃一子而尤二父母一︒孤唯

独居︒亡レ財貧レ家︒存レ身尤レ便︒願我施レ福︑早賜急施︒﹂と願っ

た︒かくするうちに︑同じ里の富裕な男から求婚されたが︑

貧しいので承諾しない︒男は無理に押入った︒明る日以降は雨となったため︑男は三日留まった︒女は食事を与えようにも米がな

い︒♂そこで︑口を漱いで観音堂の内に入り︑像に懸けた縄を引い

て︑﹁莫レ令レ受レ恥︒我急施レ財︒﹂と願かけをする︒ここでは︑現

世利益を達成させるため︑この縄が一役買っているのである︒

 以上を要すると次のようなことがいえよう︒即ち︑華麗な五色

糸が九体仏の御手にかけられた平安中期とは異なり︑奈良時代

それは︑まだ素朴な縄であり︑懸ける場所も必ずしも手ではな

く︑跨の場合もある︒そして︑来世に誘われるあかしとしての糸

という個人救済の意味合いとは異なり︑得度志願・致富願望とい

う︑極めて現世的な場に用いられていたのである︒

四 物質的樫食から精神的執心へ

 本書の上37において︑六波羅蜜寺における読師康仙が死後予期

反して蛇身を得たが︑このケースは︑極めて注目に値する︒そ

理由については︑死後霊が人に遇いて語っている︒即ち︑生前

房辺に橘を植えて︑それを愛していた︒枝葉滋茂し︑開花結実に

至るを愛翫しすぎたため︑執心積もって蛇形と化し︑今や件の橘

木の下に在るというのである︒この説話は︑当時人々に強烈に

ールしたと見えて︑同想の説話が次々と派生していった︒例

えば︑﹃拾遺往生伝﹄中にも同源の説話を有し︑それは中世の﹃発

心集﹄巻一にも流入していく︒そして︑同書の妄執・余執を排す

る思想を顕現する中核的説話として︑大江佐国が花を愛したあま り︑蝶と化した説話とともに接合して一話を形成している︒また︑この康仙蛇身謂は︑﹃今昔物語集﹄十三142に書承され︑当話は同43

と連結している︒43は︑西尾光一氏の言葉によれば︑連纂の文      注13

学を目指している︒富豪の心やさしく端正な娘が︑紅梅に深く心

を染めたがため︑その妄念で小蛇と化す説話である︒

 これらの諸説話と︑﹃霊異記﹄中38の銭三十貫隠し持っていたが

め︑死後蛇と化してその銭にまといついていた説話とは一線を

画するものがある︒﹃霊異記﹄説話においては︑景戒の﹁誠知︑食

銭因レ隠︑得二大蛇身一︒返護二其銭一也︒錐レ見二須弥頂一︑不レ得

見二欲山頂一者︑其斯謂之ム矢︒﹂とする評言を挨つまでもなく︑そ

悪因は明確である︒しかるに︑物質に倉著するのみならず︑風

流な草花をめでることさえも︑執心を発するに至れぽやはり同様

悪報を受けるとは︑厳しい限りである︒さて︑﹃法華験記﹄にお

は︑上37康仙蛇身謂とは別に︑﹃霊異記﹄中38と等質説話に上

7無空律師の話がある︒彼は︑自分の亡き後︑葬式のことで弟子

えたまま︑そのことを告げずに死んだ︒後に︑左大臣仲平と親し 迷惑をかけてはいけないというので︑房内の天井裏に万銭を貯

無空は︑仲平の夢に現われて︑今自分は蛇身を得て︑銭の

ある天井裏で苦しんでいると告げ︑その銭で法華経書写供養をし

くれと懇願する︒仲平は急遽自ら叡山に登り︑調べてみると果

してその通りであったため︑書写供養して無空の苦しみを救う

ある︒この類話は︑つとに﹃日本往生極楽記﹄7にも見え︑

左大臣仲平が登場するのでニュース価値が高いためか︑﹃扶桑略

記﹄二十五や﹃宝物集﹄などにも︑採られている︒当話の話型は︑

勿論経典に典拠が存するわけであるが︑ここでは﹃経律異相﹄四十

を管見するにとどめておく︒即ち︑七瓶に黄金を貯めた男が食愛

重なって一毒蛇となったため︑その非を悟り﹁正当三為レ金受二此悪

報一︒当三捨施二福田一︑求二寛善処一︒﹂と決意し︑七瓶の黄金を衆僧に施し︑切利天に転生するという類型的なものである︒また﹃法華

(9)

原田:「本朝法華験記」所収説話の諸特徴(下) 295

験記﹄上29定法寺の破戒僧が死して大毒蛇と転生した六波羅蜜寺

関係説話も︑上7無空のそれと同心円上にあるといえる︒本書に

て︑同じ六波羅蜜寺の蛇身謂が︑二系列に分かれるのは面白

現象である︒即ち康仙型と定法寺の別当型である︒前述した﹁今

昔物語集﹄十三143の紅梅の説話は前者に属し︑本書上7無空の

説話は後者に属する︒﹃発心集﹄に至ると︑前者の型を更に発展さ

せ︑悪報が現われぬ先に予防線を張って︑大切にしていた水瓶を

打ち壊した教懐上人や︑愛する紅梅の木を根本から伐ってしまっ      注14

陽範阿閑梨の行為を説話化している︒思うに﹃法華験記﹄は︑

『霊

異記﹄中38の如き物質に樫食なるがための蛇身謂と接点を有

するとともに︑また風流心をも執念として否定する中世説話とも

共有面を有しているのである︒また︑別に︑人間同志の愛欲の問

題を︑蛇身謂で以て構゜成しようとする道成寺関係説話も大きな問

題を孕んでいる︒

 悪報の強調から善報の優位性へ

 本書には︑悪人往生説話が相当数収録され︑浄土宗の芽ぽえが

ここに挙げる餌取法師往生謂もその一つである︒肉食妻帯の半俗 顕著に認められることについては︑上巻でも縷々と論述して来た︒

半僧の破戒者が︑昼は鳥獣を追いかけて殺生し︑夜は堂に籠って

転不乱に諦経して︑やがて念願の往生を遂げるという説話である︒中73で︑浄尊の信仰心に心うたれた修行者は︑自ら数年後に

その地を訪れて︑彼等夫妻が往生するのを見届けている︒しかし︑

下 94

聖人は︑これほどの破戒放逸な者が往生する筈がないと頭

ら信用していない︒そこで︑わざわざ無動寺にまで紫雲がたな

き︑天に声あって薬延の往生を告げる形をとっている︒

以上の二話に比して︑下90には宿家の主人の悪行は何も記されて

ない︒また入滅までの期間も短く︑滞在中に往生に立ち会ってい

る︒しかし︑これも変型の餌取法師往生謂であろう︒日本古典全集 第四表 肉食と信仰生活との無矛盾聖 薬   摂 尋

人 延 円 寂

寺国

比加 叡賀

れは力翌沐家無 来本で朝浴主動 て気極 しは寺 に楽薬浄半の 天しに延衣僧一 声な生はをの聖 がいま「着男人 薬゜れ殺しでが 延数る生 肉美 の年゜放後食濃 往を結逸のし国 生経縁破持乱に をてし戒仏暴下

な無堂者向

げ全さ懸にでし 知くいな入あ

ら忘L°れりつ路 せ却とど た辺 たしいも法゜の

たつ 華夜家 1頃た必を半に

がず請す宿

紫 法しぎ  雲聖華た彼た  垂人の゜は゜

響浄

西 予会たの

告つ゜僧山 して翌はの てほ朝 入し 夜僧 滅い彼中摂 往とはす円 生告摂ぎは しげ円沐 たるに浴北

゜° し陸

 三自て  七分持に  日は仏往  後数堂き

日に 

 極後入人  楽入り占 に滅法に 生す華宿 ずる読し るゆ請た こえ念゜

と立仏家 をちし主

は例る法食山 の旨華を中 持場を経しで 仏所告をた迷 堂にげ諦がつ に出たし てむ゜ 丑修 光く感弥の行 明と服陀刻者

しのにが

音三た念湯一 楽四修仏を夜

嘉薯議

香肉はえてを と食 た と とを後゜裏つ も断にそ手た につ指しの゜

往た定て持そ 生彼さ後仏の しとれ年堂家 た彼た往に主

の時生入は  妻にすり肉

本﹃今昔物語集﹄は︑これら一連の説話群を評して︑﹁伝統的な法華

滅罪信仰を踏まえて念仏易行を主張する浄土教の普及が︑破戒的

在家僧の極楽往生を可能にし︑しかも︑その往生譜を類型的なもの

仕立てていったのである︒﹂と解説している︒この説話の精神は︑

永観が﹃往生拾因﹄の中で︑﹁一心称二念阿弥陀仏一︑衆罪消滅故必

得二往生一︒﹂と強調した考えと符号するものであり︑後年親驚が

歎『異抄﹄の.中で﹁またく悪は往生のさはりたるべしとにはあら

ず︒持戒・持律にてのみ本願を信ずべくば︑われらいかでか生死

をはなるべきやと︒かsるあさましき身も︑本願にあひたてまつり

こそ︑げにほこられさぶらへ︒さればとて︑身にそなへざらん

をひき︑つりをして世をわたるものも︑野やまにしxをかり︑と 悪業はよもつくられさぶらはじものを︑またうみ・かわに︑あみ

りをとりて︑いのちをつぐともがらもあきなゐをし︑田畠をつく

りてすぐるひとも︑たぶおなじことなりと︒﹂と唯円の筆を通して

説く思想に連なる要素が︑ここに具体的に展開しているのである︒

これら説話群の背景には︑地方において狩猟や漁業に従事してい

(10)

金沢大学教育学部紀要

人々の日常生活をそのまま認めて︑そこに往生の可能性を説こ

うとする姿勢が窺われる︒殺生と信仰とが矛盾することなく併存しているので羅︒そして︑殺生の罪科をも法華読請︑念仏口称

ょり消滅するのである︒

 さて︑︐本書の中73と酷似した説話が﹃今昔物語集﹄十五ー27に

収録されている︒僧延昌が修行中に道に迷って北山の或る家で一夜の宿を借りる︒主人の老僧は︑やはり肉食をしているが︑夜半

すぎに湯をかぶり身を潔め︑浄衣を着て堂に入り︑灯明の前で念仏を唱える︒彼は延昌に︑自分が死ぬ時は知らせるので︑この家

を寺にしてくれと告げる︒叡山に帰った延昌は︑数年後かの老僧

      注17死を夢告によって知った︒彼は︑村上天皇に申しあげて︑その地

補陀落寺を建てたというのである︒ここに登場する延昌は︑かの

糸引往生を遂げた加賀国出身の僧であった︒幼い時は︑国内の寺

修行していたが︑記憶力抜群の英才であった︒後に平泉寺僧に

伴なわれて叡山に登って学んだのであるが︑その頃北山あたりで

も修行した形跡がある︒高橋貢氏によれば︑﹃貞信公記﹄の承平元

年 三月二十四日の条に﹁暁余入︑令三延昌施二北山修行者一︒﹂と記

され︑実際に北山の修行者と何らかの交渉を有していたようであ注18      .る︒この説話は︑﹃打聞集﹄27にも見られるが︑要記しただけで︑国東文麿氏が﹁自己を泥まみれにすることによって浄土往生を確      注19

ようとする主人公の悲痛さに訴えらるべきであろう︒﹂と述

べられる如く破戒者救済の主題が描かれていないのである︒即ち

『打聞集﹄説話では︑﹁年来如是念仏より外にする事元︒死時必告

申べし︒又口後には︑此所をぽ寺に立給へ︒をまへにゆづりまうす︒﹂

という記録体の背後にある老僧の心の葛藤や︑一見破戒無葱に見

えるこの法師の中に燦然と光るものを発見しつつも恐怖・驚きか

ら徐々に尊崇の感情が芽生えて来る延昌の心理描写は︑説教僧の

手腕にゆだねているのである︒

 さて︑﹃霊異記﹄の因果応報思想に従えば︑ここにとりあげた餌

る後に法華経の力で蘇生し得る話型をとるであろう︒つまり︑悪 取法師往生譜は︑主人公の僧すべてが︑一度地獄に堕ちて︑しか

報の方にひどく傾斜しているのである︒そして︑その厳正な罪の

程度を決める計量主義的態度は︑二重因果譜という独得な発想を

際に︑心を入れかえて弥陀にすがれば︑十悪五逆の罪をも消滅す るのである︒だが︑﹃法華験記﹄の基本的態度は︑臨終の

るという浄土宗の思想に︑一応沿っている︒したがって︑善悪行を天秤にかけて計算する方式はとっていないのである︒そこには       注20

極楽往生のしそこないというものはあり得ない︒ところが﹃霊異

記﹄では︑そこが極めて厳格である︒同書の下37佐伯宿禰伊太知

地 獄

堕ちた時︑閻羅王は先ず彼の犯した罪と書写した法華経

経巻とを対比させたが︑罪の方が格段に多かった︒そこで︑今

度は生前に彼が書写した法華経の文字数六万九千三百八十四字と

罪とを対応させてみたが︑まだ罪の方が倍ほど多かったために︑

閻羅王は︑こんな悪行だらけの人間は見たことないと慨嘆したと

う︒ここでも厳密に言えぽ︑功徳と罪科とを対応させて︑悪行

を帳消しにしていこうという発想が見られるのである︒事実﹃霊

異記﹄に頻出している蘇生講では︑堕地獄するも︑生前の写経と

仏像供養の善行のため︑悪行が消去して娑婆に戻るを得るので

ある︒しかし﹃法華験記﹄と異なる点は︑必ず罰を受けて地獄ま

なければならぬ点である︒﹃霊異記﹄は︑現世の福徳に意義

を見出し︑﹃法華験記﹄は︑来世の安楽国での生活を理想とする思

想を際立たせている︒したがって︑同じく死を取扱った説話にお

も︑前者は現世に蘇生させなければならぬが︑後者は往った

きりの筋書で事足りるわけである︒勿論﹃法華験記﹄での堕地獄

は︑ほぼ﹃霊異記﹄と同様に現世に蘇生させてはいるが︑それ

以外の往生謂は︑善行が極めて大きな力を発揮して︑悪行を消滅

させていくのである︒ここに︑両説話集の善悪報の計量的計算法

相違を明らかに感知し得るのである︒

(11)

293

原田:『本朝法華験記』所収説話の諸特徴(下)

【四】

類 話

関する素描と覚書

 次に本書に見られる二三の類話をとりあげ︑若干の考証を試み

ることとする︒

O 仏菩薩の身代りと慈悲

 刀刃や弓箭で︑今まさに命を断たれようとする瞬間に︑日頃信

奉していた観音菩薩などによって︑虎口を脱し得るという説話に

考えてみたい︒その場合︑観音が身代りとなって矢や刀を

身に受ける場合と︑霊力を発揮してそれらの武器を寄せつけない

場合との二類型がある︒前者が︑自らの身を鮮血に染めて危難を

受苦してくれた勿体なさを強調し得るのに対して︑後者はその霊

験の素晴らしく広大なる点に畏敬の念を催させることを目的とし

るのである︒

 まず︑中72近江国金勝寺の僧光空への襲撃時においては︑兵部

部下に矢を射させるが︑法華経の威力で当たらず自らの矢

も折れて︑二十九箭すべてが身に立たないのである︒この発想は︑

『霊

異記﹄下7において︑今にも刀で首を落とされそうになった丈

直山継が︑観音を念ずると︑忽ちに出現し咄嵯にむかばきを彼の

らすっぽりとかぶせたために︑特赦の朝使が間一髪のところ

着するという筋書とも︑相通ずるものがある︒また︑﹃古本説

話集﹄下51の百鬼夜行に遭遇した常行大将が︑尊勝陀羅尼を縫い

けておいた乳母のお蔭で無事であった説話とも同想である︒﹃法

華験記﹄中72においては︑兵部平公の夢に普賢菩薩が出現して身

代りとなった由来を述べるが︑問題となるのは︑更に両三日後に

見た再夢である︒そこで普賢菩薩は厳しい調子で︑﹁汝年来供二養

我一︒依二其功徳一︑応当二引接一︒唯依二無実事一︒欲レ致二害於我

︒見レ悪早レ去︒見レ善早レ近︒是如来所レ説︒是故我今去二此処一︑

永趣一他処一︒﹂と告げる︒ここでは︑悪行を悔い繊悔した兵部平公 を許さず︑これまでに積んだ善行をすべて御破算にしてしまうと

う峻烈極まりない態度が見られる︒下田もまた盗人が観音の加

護によって︑矢を身に立てぬという筋書の説話である︒類話関係

第五表 仏菩薩の加護と現世利益

場人物

  話  内  容

中72

  空兵部平公

空︑兵部平公の妻と密通の疑いをかけられ︑二十九矢も射られるが当たらない︒その夜平公の夢に金色の還酷擁獣舘醒霧製鷺賢賃碓劃袴他所に赴くことを知った︒

播磨国赤穂郡多々寸丸

人がいた︒強力猛盛にして年二十︒人々は捕えて竃澱舗灘働竃繰鱗吻竃捕使の従者多々寸丸とした︒

判官代某 周防国玖珂郡一弄山寺

  

灘霧難耀遷諏繰

に︑ある﹃観音利益集﹄38に︑おいては︑﹁縄ヲモテシハリナカラ︑頸

ヲキラスルニ︑キリテ度々打ハツシテ︑エキラサリケリ︒サラハ

トテ︑弓ニテイサセケレトモ︑尚矢タ・ス︒﹂と述べて︑刀杖をも

えている︒山根賢吉氏によれば︑この﹃観音利益集﹄説話は︑

『法華験記﹄と直接関係を有していると考えておられるが︑氏説

い︒蒜に︑この種の話型の説話では︑刀と弓矢の使用関係は微 注21 如くこの改変が編者の手によってなされたか否かは明確でな    

  

上巻で考察を加えた下85仏師感世譜においても︑真福妙である︒

寺文庫蔵本や続群書類従本では御肩が切られているが︑彰考館文

庫蔵本では御胸が射られているのである︒そして︑この下85と類

話関係にある﹃観音利益集﹄16でも︑やはり仏師を一矢で射殺し

が︑後日観音の頸から鮮血が流れているのを見たとあり︑刀で

傷つけた発想に急傾斜している︒下鵬周防国判官代某の説話では︑

そうした意味では︑刀・弓矢・鉾と全部揃っている︒そしてその

危害の加え方も﹁切レ足折レ手︑剣レ目削レ鼻︑種々擢折破壊︒﹂と

(12)

第23号 昭和49年 金沢大学教育学部紀要

山寺で三井という名の寺とされている︒ところで︑中75斎遠法師 う手の込んだやり口である︒この説話の舞台は︑周防国玖珂郡

観音身代り諌も同じ寺を舞台とするものである︒或る冬︑斎遠

法師はこの山寺に籠っているうちに︑雪に閉じ込められ飢えにせ

られ数十日絶食をしていた︒すると狼の殺した鹿が目に入った

で︑悪いとは知りつつその肉を以て命をつなぐのである︒里人

て来ると即座にその肉は柏と化し︑不思議に思った斎遠は︑

皆の帰った後に﹁比丘後見二観音一︑観音御腰皆被二割切一︑有二大

空穴一︒﹂という意外な事実を発見するのであるが︑この発想は直

丹後国の成合寺の観音霊験謂を想起させずにはおかない︒成

合観音の説話は︑﹃今昔物語集﹄十六14・﹃古本説話集﹄下53・﹃伊

呂波字類抄﹄.﹃諸寺略記﹄・七巻本﹃宝物集﹄四・﹃三国伝記﹄八14

などに見られ︑相当広く流布したようである︒成相の意味は︑観

音菩薩像の両股の切り口が︑直ちに成りあった︵接合治癒した︶

第六表 観音菩薩の加護

   説話要素  ノ

華験記 中75

主人公 ー四

僧斎遠貧   僧   所周防国玖河郡三井山寺

後国成合山寺

というのである︒この説話は︑先の観音身代り謂とは筋書を異

しているが︑観音像が進んで傷を蒙る点では一致している︒

とくに﹃伊呂波字類抄﹄が﹁股割血流︑宛如二生身一︒﹂と述べて

る点は︑﹃法華験記﹄下85と類同の表現となっている︒また︑﹃古

本説話集﹄では︑鹿が狼に追われて堂の中まで板の破れ目から入っ

したものが鹿であったり猪であったりしているが︑股肉を食した 来て死ぬことになっている︒その他︑諸書によって修行者の食

点では一致しているのである︒成相の発想と観音の欠損した部分

とが密接に関わりあっているからである︒その点﹃法華験記﹄中75

は︑観音の腰の部分が破損しているわけで︑両説話は載然と一

線を画している︒

⇔ 燃える法華経・多宝塔

 次に︑敬慶な仏徒であるが︑蹟惑の炎を燃やすため︑自己の善

根の象徴たる多宝塔が燃え上るというセンセーショナルな説話群を紹介してみたい︒関係類話に上19・上32が存し︑更にそれらに

関連するものとして上23・下囎が挙げられる︒上19道乗は︑夢の

中ではあるが︑坂本から比叡の山頂にいたる山腹一面に金銀模閣

美しく輝く様を見た︒その金銀の重殿・棲閣・廊舎には︑無量

と︑大嶽から水飲に至る間の経は︑お前が西塔院にて読んだ所の 経典が安置されていた︒そこで︑傍らの僧にその意味を尋ねる

経巻であり︑水飲から柿本に至るまでのそれは︑法性寺にて読ん

あると告げられる︒すると︑忽ちに一部の経が燃え上った

で︑その理由を聞くと﹁汝発二脹惑一︑罵三言童子一︒脹惑火炎焚

善根一︒若断二志心一︑善根増長︑次定往二生極楽世界一︒﹂と告げら

る︒これと類似の発想を有するのが︑上32多々院の持経者謂であ

る︒即ち︑多々院に住む持経者に仕える優婆塞が︑卒然と死ぬ︒

彼は︑五日後に蘇生するが︑その述べる所は興味深い︒自分の如き罪深い者が赦されたのは︑法華の持経者である多々院のあの方

面倒を見ていたからである︒帰途︑山野の間を眺めると︑七宝

塔が数十も立ち並び︑微妙壮厳であった︒すると︑あのお方が宝

塔に向かって口中から火を出して焼いている︒不思議に思ってい

(13)

=一

原田:「本朝法華験記」所収説話の諸特徴(下) 291

るうちに︑虚空から声が聞えて来る︒﹁当レ知︑此塔持経者聖人請

法華一時︑至二宝塔品一所二出現一也︒然彼聖人以二瞑圭心心一︑呵

ー噴ゴ罵−言弟子脊属一︑其脹素火従レロ出来︑焼二宝塔一也︒若止

悲心一︑謂二此経一者︑微妙宝塔充﹂一満世界一︑不レ可二勝計一︒汝

以二此事一可レ告二聖人一︒Lと︒直後に彼は甦って妻子近隣の人々に

その事を語り︑かの持経者に報告したのである︒この聖人が住む

多々院は︑前述した如く源信が迎講に類似したトリックを用いた

すっかり発心した源満仲の建立したものである︒上19と上

32は︑その舞台が叡山と地獄との相違はあるにしても︑同一のテー

を取上げていることは明らかである︒瞳とは︑善根をそこなう

三毒︵食眼癖︶の一つであり︑高僧によくありがちな煩悩であっ

た︒例えば︑物狂いで有名な増賀上人が怒りっぽかったのは周知

事実だ︒﹃今昔物語集﹄十九ー10はその辺の様子を臨場感あふれ

る筆致で書き綴っている︒蔵人宗正が愛妻の死に耐えきれず︑愛

娘をおいて多武峰に登って出家したが︑彼が東宮から手紙を戴い

泣いたのを見た師増賀は激怒した︒﹁目ヲ銑ノ如ク見成シテ︑東

宮ノ御消息得タル人ハ仏ニヤハ成ル︒此ク思テヤハ頭ヲバ剃シ︒

成レトハ云ヒシゾ︒出給ヒネ︑此ノ入道︒速ヤカニ東宮二参

テ坐シカレト糸半無ク云テ追ケレバ︑入道和ラ出デ・︑傍ノ房二行

居タリケルヲ︑聖人腹止ニケル時ナム入道返り行タリケル︒﹂と

報じている︒また︑﹃宇治拾遺物語﹄十五19に登場して来る山階寺の英才仁戒上人も弟子を恐れさせていた︒往生の時に再会を約

した郡司のもとに身をよせた彼が︑朝なかなか起きて来ないため︑

粥が出来たから起こしてくれと弟子に家人がいうと︑弟子は﹁腹

悪しくおはする上人なり︒悪しく申して打たれ申さん︒今起き給         注23

ん︒﹂と答えている︒

世での読経・写経が法華経と化して︑宝塔の中に蓄積され

て︑浄所へ往生する力となることをテーマとした説話は他にもあ

る︒﹃法華験記﹄上23比叡山西塔の道栄の夢がそれである︒西塔の

前庭に黄金の多宝塔が立っている︒そして︑梵天か帝釈天の如き

男から︑﹁此塔汝経蔵︒開レ戸可レ奉レ見︒﹂と告げられる︒また下

ぐに恐ろしい強力の人四五人にひきたてられていったとするこの 田賀前司兼隆女の蘇生謂も︑同工の内容を有している︒死後す

筋書は︑やはり地獄行の描写であり︑諸衆の迎接でない︒だが︑

そこにある一大寺の中には美麗な建物が並び︑極楽か兜率天を思

る︒時期をたがえて早く来すぎたこの女は︑或僧によって一

中に山積した法華経が︑おまえのこれまでの読経したものだ

と告げられる︒また金色の堂に釈迦如来が居り︑顔を覆っていた︒

そして︑釈迦は﹁善女因レ読二法華経一︒我身示レ汝︒又令レ聞レ声︒

汝還二本国一︑能受二持此経一︑井開結経︑可レ奉二加読一︒其後我更

不レ隠二面目一︑令三汝見二我身一︒﹂と語りかけ︑蘇生後の善行を勧

る︒ここでは︑地獄の中に極楽や兜率天・霊山浄土の如き

世界が併存しているわけである︒考えてみれぽ先の上32多々院持

経者讃においても︑地獄の山野に多宝塔が立っていたわけで︑こ

こにも両世界が交錯している様が窺われる︒これは︑﹃日本霊異記﹄

中7において︑堕地獄者智光が︑行基の生まれかわるべく予定さ

金の棲閣を︑閻羅王宮へ赴く途中で望見している世界観

と同一のものであろう︒

 さて︑このような善根の蓄積が具体的な形をとって出現する説

話を更にもう一歩進めると︑清水寺に二千度詣りをした功徳を入

手した男が︑めきめきと開運して司などになり得たとする話型

(『古本説話集﹄計57など︶にまで展開していくし︑はては士.備真

備の夢買い説話へと発想の糸は連なっていくのである︒

【五】

結びにかえてi中世遁世者への展望1

 先に︑六波羅蜜寺の読師康仙の蛇身謹に中世的萌芽が見られる

ことについて触れた︒また上巻にて︑中66神明寺容実の行為が偽

悪の伝統に連なるものである点にも若干言及してみた︒ここで

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