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永 青 文 庫 本 「 手 鑑 」 中 の 連 歌 作 品 に つ い て

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(1)

永青文庫本﹁手鑑﹂中の連歌作品について

 近世初期に籏出した各種手鑑に連歌の切れが収録されていること

は︑特に珍しいことではない︒細川家永青文庫叢刊の別巻として刊行

された﹁手鑑﹂には︑とりわけ連歌作品︑つまり懐紙の切れ︑句集の

切れ等が多く見出される︒本稿では︑この刊本に基づき︑初歩的な翻

字と出典の究明を試みたが︑伝承筆者については関心を持つものでは

ない︒ただ今後の調査のための覚書としておきたい︒なお各句の上に

私意によって記号を付して論ずることがある︒また各切れの番号は︑

永青文庫叢刊編者による整理番号を踏襲している︒

17

@後土御門院

 ﹃うちわひあかす夜はのさひしさ

A霜おもき秋のころもに月深て

  下庵はちれる木のはを枕にて

Bもるをみるさへすこか小山田

  愛知淑徳大学論集 第十一号 一九八六

  後のくれまたは月にも成つへしC秋ふる雨のむら雲のやま  露ちるなみのとりの一つれDほしあひにわたせる橋の天川  雲井にかりのともなへる声Eあまつかせいまを秋とやわたるらん﹄

 このうちBは︑七賢時代連歌句集所収﹁宗砺発句井付句抜書﹂に︑

 二六二三 下庵ハちれる木葉を枕とて

 二六二四守をミるさへす子かをやま田

とあって︑前句に一字異同がある︒

Cも︑同書所収﹁宗劒句﹂に︑

 ≡八一後のくれまてハ月にも成ぬへし

 一二八二秋ふる雨のむら雲のやま

とあり︑これは前句に二字の異同がある︒さてこの二句の共有句を根

       六九

(2)

愛知淑徳大学論集 第十一号

拠として︑この切れは宗砂の句集と見ることができる︒なお出典とし

てあげた二書は︑それぞれ別に伝来した句集であるが︑同書の解説に

よれば︑いずれも宗醐の最晩年の成立と考えられる︒この切れが︑ま

た別に宗醐のその頃の活動を伝えるものとすると面白い︒またこの五

句はいずれも秋の句であるから︑部類された句集であったことも想像

される︒それはそれとして︑宗岡句集の一断片として興味深いもので

ある︒ のへは袖さえてなをわけすてぬ道のさ・はらうつせみの声をりはゆる木隠にぬれてす・しき

露ははらはし﹄

七〇

34@近衛殿信サ公独吟の連歌懐紙の切れと思われるが︑手がかりがない︒

﹃雲の浪わくる氷のわたち哉

暮 山 雪 漸晴﹂

 この切れについては手がかりがない︒和漢の発句と脇の部分である

が︑発句を一行書にしている形式から︑これが原懐紙を直接切断した

切れでないことは明白である︒

51

@青蓮院殿尊朝

61

@聖護院殿道興

﹃滑 園 人 窃雍

胡 地 馬 跳 眼

とをき野の草ふみ

からす小鷹かり

ゆふ山もとに

霜まよふ妹﹂

﹃ねぬよの風に

しぐれふる空

宿もなく暮せる

 この切れも漢和︑ であろう︒

または和漢の断片としかわからない︒これも独吟

(3)

85葉に収められている︒@上冷泉殿為広卿

﹃裾 紅 渉 茂廟盃 酸菊 開庭

九重やめくれる

秋の数くに

いく夜みきとは

月も知らん

うくつらき人こそ

身をはなきになせ

うらみつ・すむ

おなし世の中﹄

海住山大納言中院一位近衛前関白内大臣右大臣

 和漢︑又は漢和の懐紙の断片である︒六句の切れであるが︑人名に

よりある程度︑興行の時を限定することができる︒中院家で一位に叙

せられた人物は︑十輪院内府通秀のみであるから︑彼の叙位された文

明十三年正月七日以降のこととなる︒この頃の人物にあたってみると︑

海住山高清の大納言就任は文明十二年︑長享二年に亮ずる︒近衛政家

は︑関白就任文明十一年︑文明十五年辞職後は再任していない︒した

がって︑近衛政家の関白辞任した文明十五年から︑海住山高清死去の

長享二年に至る︑約六年間の作ということになる︒同じような連衆に

よる和漢としては︑文明十五年八月七日のものが︑内閣文庫本賜盧拾

   永青文庫本﹁手鑑﹂中の連歌作品について ︵岩下紀之︶

瑚 菊亭殿晴季公

﹃この比の野山に

しるき虫の声  長

しれかしおなし

誰も露の身   雪

めにちかくいとふを

見つ・過す世に 碩﹄

 連歌懐紙の切れである︒出典は伊庭千句第九︑二裏十一句から十三

句で︑連衆は宗長︑聴雪すなわち三条西実隆︑宗碩の三人である︒大

永四年のこの千句は︑神宮文庫蔵の荒木田守武筆の古写本等が伝来し

ているが︑この切れも室町写本として貴重なものである︒連歌集書本

では︑宗長の句﹁しけき虫の声﹂となっている︒

呪 連寄師紹巴門弟素丹

 サエ ま ﹃元日    素丹

越てしも身には積らぬ年もかな﹄

七一

(4)

愛知淑徳大学論集 第十一号

 ﹁顕伝明名録﹂に素丹の項がある︒

  肥後国宇土住人桜井氏 紹巴門弟

﹁連歌史論考﹂には︑天正三年五月七日︑肥後国加悦式部少輔入道素

丹興行の︑紹巴一座百韻が記載され︑﹁俳譜大辞典﹂には︑素丹発句

集の項目がある︒この切れは慶長十五年の作であるから︑天正三年に

既に紹巴を迎えて連歌興行をしていた人物が︑それより三十五年後ま

で生存していたことになり︑かなり長命の人であったようである︒こ

の発句の内容から見てもそのように感じられる︒

㎜ 時宗覚阿

﹃かみすちはなにのかつらそう口めの木

さくるひけ籠にか・る袖のは

家つとに其色みゆるこ・うさし

為好所

 この切れも手がかりがない︒作者名の一字名も不明である︒伝称筆

者の覚阿については︑﹁顕伝明名録﹂に八人あがっており︑室町後期

の人物と思われるものも三人ある︒

 一︑越前国時宗法師東北院︵波︶

 二︑堺 金光寺 肖柏時代

 三︑極楽寺﹁上人﹂﹃時宗﹄﹃波﹄

というのであるが︑該当者がいるのかどうかもわからない︒なお︑こ の注記﹁波﹂というのは︑﹁新撰菟玖波集﹂に無縁の人たちではないのである︒

閣 細川殿元常

﹃かへるきこりの

こゑかすか也 藤中納言

笛竹のうた・

かなしむ一ふしに 行応

つれなきもはた

なひかさらめや  元常

いのるてふしるし

あれなとゆふかけて清誉﹄ 七二

にありというので︑連歌

 連歌懐紙の切れである︒細川元常は和泉守護で幽斎の養父であるか

ら︑細川家の先祖として取り扱われているのであろう︒彼の連歌活動

としては︑天文七年二月四日の何路百韻で︑周桂の十四句に次ぎ十三

句を詠んでいること︑コ言継卿記﹂によって︑天文十四年二月廿五日

の細川家千句に出座していることなどが知られる︒天文二十三年六月

十六日に死去している︒

 清誉は当時の連歌数寄の僧であって︑﹁連歌史論考﹂によれば︑﹁永

禄五年に島津貴久の招きで鹿児島の不断光院に移り︑その開山となっ

(5)

た人である﹂ことのほか︑天文十六年から天正九年に至る断続的な百

韻出座が確認される︒

 他の二名については不明であるが︑この二名の活動から見て︑この

連歌は天文十年代の興行の可能性が高いと思われる︒

捌 連歌師心敬

﹃A旅の道ひとりくに身はなりて

   同於妙国寺

B朝しほは椴かせふく浜辺かな

  しはしこ・うそ空にまよへる

C袖まては花をおとさて吹風に

  心ををくる老そかなしき

D待ゆふへこぬ夜の中に年を経て

E なをさりのたまつさならはとめしとや﹄

 これは心敬句集の切れと思われる︒Bの句は︑﹁心敬作品集﹂によ

ると︑﹁芝草句内発句﹂四三⊥ハ︑﹁心玉集拾遺﹂一七三五︑﹁芝草内連

歌合﹂二五九四と三個所に見え︑心敬の自信作であった︒さらに︑﹁竹

林抄﹂三二七〇︑﹁新撰菟玖波集﹂三七六九にも採られている︒

 Cは﹁苔莚﹂の面白躰︑二〇=二〜二〇一.四︑﹁吾妻辺云捨﹂七〜

八であって︑両書では︑共に前句﹁こ・うそしはし空にまよへる﹂と

   永青文庫本﹁手鑑﹂中の連歌作品について ︵岩下紀之︶ なっている︒

 Eは﹁竹林抄﹂二〇二〇の前句であって︑   なをさりの玉章ならはとめしとや  たひのつてをもいそくはやふねというのが完全な形で︑勿論心敬の句になっている︒ このように心敬作の明証が三句にわたって判明するので︑この切れが心敬の一句集からの断片であることは疑いない︒さらに︑共通句を収録している心敬句集は︑いずれも彼の関東下向のころの編であって︑この切れがそのころの心敬の書きとめというような第一次的資料であることも︑充分に考え得るのである︒

額 連歌師宗醐

﹃なに・口せまし

これやこのきみか

代をのみいはゐ寄

わかなつむなる

かすかの・はら

今幾日花に

待見む春さむし

人まれにして

かすむ山さと﹄

七三

(6)

  愛知淑徳大学論集第十一号

独吟百韻の懐紙の切れと思われるが︑

捌 連寄師宗長

﹃はなれそまくら

はつ鴫もなけ

日くるれはあまの

小船も山のかけ

みそれふりたえ

雲かへる見ゆ

なき空やあはれ

玉ゆらかけるらむ 牡丹花

宗碩同﹄ 今のところ手がかりがない︒

 この切れは︑永正十年二月十六日に興行された︑牡丹花宗碩両吟百

韻の︑三表二句から五句である︒この百韻は天理本︑京大平松本等︑

かなり流布した作品で︑桂宮本叢書にも翻刻されている︒同書とこの

切れを比較してみると︑全く異同がない︒

猫 連寄師行助法印

﹃あらはれのこる

松はらの路専順 磯つたひ舟ひくあまのこゑはしてそことも見えすかすむうらく浪にさく花やうしほにくもる覧いつくの春もけしきある比 義直

藤 桐

口﹄ 七四

 専順が一座している懐紙の切れとして貴重なものである︒連衆中の

桐と藤の一字名については︑﹁満済准后日記﹂永享二年六月廿九日条に︑

  御連歌字桐字今日初被遊之︑摂政藤字也

とあって︑足利義教︑二条持基がこの字を用いた明証がある︒さらに︑

両者の子の代である足利義政︑二条持通も︑同じく桐︑藤を一字名と

していることは︑寛正五年四月二十八日の将軍家の百韻等によって明

らかである︒専順の活躍期から考えて︑義政・持通と見る方がよいと

思う︒将軍︑摂関家とが同座した晴の連歌である︒他の連衆について

は︑難読であるけれども︑﹁義直﹂と読めば一色義直が幕臣として出

座していたかもしれない︒切れの最後の行の一字名も︑もし﹁聖﹂と

読むなら聖護院等が考えられる︒

(7)

額 堺連寄師宗柳

﹃夢想之連歌

生そふや竹の

林の嶋かくれ 御

かすみて松の

遠きま砂地  宗味

鶴あそふ朝けに

春の霜とけて 宗柳﹄  この切れは︑宗長作の長享年間の独吟太神宮法楽千句の第七︑冒頭の二句である︒この千句はかなり流布した作品ではあるが︑後の大永二年の宗長宗碩両吟伊勢千句と違って古写本にめぐまれない︑そのため正確な興行日時も判明していない︒この切れはおそらく現在最古の写本と思われる︒本文は連歌集書本と比較して仮字遣いの他は異同ない︒

加 下問侍従法橋頼純

  点加筆連寄師紹巴

 夢想連歌懐紙の第三句までの切れである︒第三の作者で︑伝称筆者

の宗柳については︑﹁連歌史論考﹂第十一章・二・堺の連歌と主要作家︑

に記述がある︒それによって︑この連歌は天正頃の作品と推定される︒

脇句作者宗味は未詳である︒

珊 連寄宗匠兼載

﹃賦朝何連歌

露にたに紅葉の

いかにはつ時雨 宗長

しもをくまての

なか月のくれ﹄

永青文庫本﹁手鑑﹂中の連歌作品について ︵岩下紀之︶

㌔かり..︑にはかきりもそなき関戸をあくる夜ふかし鳥のこゑ とふに猶うきさすらへのはてS郷の夢おとろかす須磨の波

      此五もし猶あるへく候

 さしのほる山は光のほのかにて鄭まけは月になる空

 中にはけしき人の秋風トりをきしことのはもかつう窟て      ︑   ︑

七五

(8)

   愛知淑徳大学論集第十一号

 添削を加えられた句稿であることは明白であるが︑句自体からは手

がかりを見出せない︒極められた人名︑頼純を調べてみると︑天正十

六年九月十⊥ハ日﹁言経卿記﹂に︑大村由己亭における連歌会に出座し

ている記述がある︵﹁連歌史論考﹂︶︒以下︑天正十九年十一月八日以

降の数巻の百韻に出座しており︵﹁連歌資料のコンピュータ処理の研

究﹂︶︑紹巴と同座していることが多く︑句数は紹巴に及ばない︒﹁下問﹂

というのが適当かはわからないが︑連歌に関しては紹巴の弟子筋にな

ると思われる︒この切れ自体が両名の手になるものかどうかはさてお

き︑師の批点を仰いだものと見て不審はない︒

加 連寄師専順

﹃のみやかよはまし

また雪ふかき

春の朝あけ

風ふけはかすみし

山もあらはれて

月にこえゆく

夜はのたつたち

うき秋は関もる

百韻の懐紙の切れであるが︑成立年代等不明である︒作者名︑祇は        七六宗祇︑順は専順であろう︒況というのは︑﹁白妙の一重の外は梅もなし﹂を発句とする何路百韻で心敬と同座している宗涜なる人物があり︑この人と思われる︒残る一人の長は︑宗長とするには時代が合わず︑不明とする他はなかろう︒七賢時代の懐紙として︑わずか四句の切れではあるが︑貴重なものである︒

蹴 牡丹花門弟宗椿

﹃あやしきはしらぬ所のね覚にて

 のこりおほかる琴の緒あはせ

こ・うみをふく笛竹のよひのまに

 夕へくにうかふ江の水

雲とりはをのか葉山に又見えて﹄

 伝称筆者宗椿については︑﹁連歌史論考﹂第十一章・二堺の連歌

と主要作家に記述がある︒この切れの内容については︑連歌句集の切

れであるが出典不明︒

細 連寄師玄陳

﹃月

山のは・つらからぬ

(9)

月のゆふへかな

      玄陳﹄

 発句を書いた色紙である︒玄陳は玄伍の子︒寛文五年正月五日没︒

年七十五︒︵﹁俳譜大辞典﹂による︶

㎝ 連寄師紹巴法眼

 ﹃三条西殿嚇筋院殿於駿河府中

  御興行

A浅からぬ道は残れる夏野かな

B絶やらぬ根や年をふる石竹

  於一花堂

C風ふれて蓮は花の車哉

  冨士社司にて

D夏の日も陰をやめくる冨士の雪

  於宗長遺弟孝甫

E跡まても風かうはしき扇かな

 この切れは紹巴発句の書き留めである︒すべて﹁紹巴富士見道記﹂

に見える句であって︑同書によって︑永禄十年五月二十一日から︑六

月十二日までの作であることがわかる︒DとEの句の間に︑さらに何

   永青文庫本﹁手鑑﹂中の連歌作品について ︵岩下紀之︶

句かの発句があったことは﹁道記﹂に出ている︒さてこのような場合︑この切れと﹁道記﹂の先後関係は興味深い問題になってくるわけである︒文字の異同については︑両書よく一致し︑Dの句が﹁道記﹂で﹁夏

  む

の日と﹂となっているのが唯一の相違点である︒

狙 連寄師紹巴息玄切

﹃花さけは霞の

うへの伊駒山  昌叱

舟のとかにも

よるなにはかた 紹巴

かたふくもをそき

日影のかねの声 恕慶

こと・ひ口へる

跡はさひしも  宗口﹄

紹巴出座の百韻懐紙の切れである︒特に言うべきことはない︒

出 素眼

﹃心さへ花なき

程に年たけて 口

七七

(10)

愛知淑徳大学論集 第十一号

七八

なからへは又

いにしへの春 旨

隠家の山と成

てやかすむらん 兼

雲の下行

谷水のすゑ  口﹄

 素眼と極められた連歌関係の書跡は︑﹁菟玖波集﹂が有名で︑時代

もかなり古いものが多いようである︒この切れは残念ながら百韻懐紙

の切れというだけで︑作者名も解読困難で手がかりがない︒

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