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伊 知 地 鐵 男 文 庫 蔵 連 歌 懐 紙 二 種 に つ い て

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Academic year: 2021

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(1)

伊知地鐵男文庫蔵連歌懐紙二種について

1

 早稲田大学図書館に帰した伊知地鐵男文庫は︑連歌書の極めて大き

な集積であり︑今年整理が完了して公開されたのは︑研究者にとって

ありがたいことであった︒早速閲覧の手続をして︑特に百韻千句の調

査を試みた︒伊知地本の一部は︑早大出版部の影印叢刊に収録される

が︑それに重ならない小さな資料を紹介してみたい︒すなわち︑同文

庫目録に︑﹁連歌懐紙﹂として六種の原本を載せるうちの︑文明年間

興行と思われる二種である︒

 まず︑文明十二年十一月十二日の何路百韻で︑第一の折のみである︒

この時期の禁裏連歌は︑かなり多くの写本が残っている︒宮内庁書陵

部の賦物連歌︑先年公刊された曼珠院蔵の連歌は︑いずれも興行当時

の原本そのものである︒同じ時期の懐紙︑ないしそれを巻子本に改装       はしたものは︑諸機関に所蔵される例を見る︒転写本が流布しているも

   愛知淑徳大学論集 第十八号 一九九三 のもあるが︑多くは原本が孤本として伝来しているのである︒不思議なのは︑それにもかかわらず︑﹃新撰菟玖波集﹄に︑しばしば共通句が見えることであって︑撰者達はあるいはこれらの諸懐紙を直接資料としたのではないかという想像を禁じえない︒﹃実隆公記﹄が︑明応四年二月廿日条で﹁自禁裏年々御連寄頚故醐+年比一合被出之﹂と言うが︑書陵部蔵の﹁賦物連歌﹂は文明十二年八月廿五日以来の懐紙を含んでおり︑両者の一致する可能性を考えておきたい︒ 連衆は文明十二年の廷臣達で︑禅閤は当然一条兼良︒時に七十九歳の高齢で︑翌年四月に莞ずるのであるから最晩年の事跡の一つである︒以下作者名を書かないのは後土御門天皇御製︑前内大臣︵西園寺実遠又は九条政忠︶︑関白︵近衛政家︶︑右大臣︵今出川教実︶︑勧修寺大納言︵教秀︶︑中院大納言︵通秀︶︑侍従中納言︵三条西実隆︶︑海住山大納言︵高清︶︑新宰相︵姉小路基綱か︶︑言国︵山科︶という人々である︒

(2)

愛知淑徳大学論集 第十八号

 なお︑出座している近衛政家は︑このように当日の会を記録してい

る︒  巳刻令参内︑余令申沙汰一献︑兼日献料千疋付長橋︑西園寺申沙

  汰之時如此云々︑今日御和漢也︑毎事如先度︑御会以後御連歌一

  折有御張行︑禅閤発句也︑盃酌数巡︑以天酌頗被下間沈酔以外事

  也︑子半刻退出       ︵﹃後法興院記﹄当日条︶

 室町時代の連歌の実態をここからうかがうことができる︒巳刻に参

内して子半刻まで︑昼前から深夜に及ぶころまで禁裏にいて︑和漢を

一巻詠み︑さらにこの連歌を巻いている︒ただし︑︸折のみの張行で

あるから︑現存の伊知地本はそのままで完全な保存状態なのである︒

百韻連歌は賦詠後︑懐紙の右端に穴を二つあけて綴じあわせるもので

あるが︑この懐紙にはその穴の痕跡がない︒一折のみの張行で︑綴じ

合せるべき二の折以下が存在しないのだから︑それが当然で︑これが

その原本であることの明白な証拠である︒和漢の余興として︑沈酔し

つつ張行された連歌であった︒

 なお本懐紙は︑三五︑六㎝×五二︑三㎝の無地の楮紙で︑それを通例

の連歌の書式通り︑横に二つ折りして句を書いている︒翻刻にあたっ

ては︑漢字︑仮名とも通用に従い︑各句二行書をしているので︑その

箇所に﹂を附した︒

 注 文明十一年十二月二十五日何船百韻︵東大国文研究室︶︑文明十九年六

  月二十五日︑三条西実隆独吟の唐何百韻︵天理綿屋文庫︶等︑かなりの

  数がある︒ 文明十二年十一月十二日賦何路連歌雪をれぬ竹に﹂しらる・月夜哉軒はの松は﹂風さむきこゑ冬ふかき御池の﹂水のこほりゐて       マへ  いか・ゆくらんにほ﹂のかよ路

さしとめてやす﹂らふ舟のみなれさほ

 うきたる雲の﹂雨はしつくか

うちなひくいなはに﹂露やしけからん

 野わきのあとの﹂くる・山もと

ハウラ すゑの秋まつ虫の﹂ねもうらかれて

 うちよはらぬや﹂あさのさ衣

恨ても月には人﹂をまつ物を

 なとふくる夜に﹂音信もなき

 かはるよりよその﹂契もしられけり

 たかまのさくら﹂色そうつろふ

 山のはのいり日や﹂花にのこるらん

 かすみてくる・﹂遠方のそら

 旅人のとまり﹂いつくとたとられて

 風をたよりにたのむ﹂うらふね        マこ 夢ならてやすすくは﹂ゆかぬもろこしに

禅閤

  前内大臣

    関白

   右大臣

勧修寺大納言

 中院大納言

 侍従中納言﹄

海住山大納言

   新宰相

    禅閤

    関白

   新宰相

    関白

 中院大納言

    言国

海住山大納言

   新宰相

(3)

おもはぬ中を﹂かこつ手枕

ふる雪にをの・かよひ﹂路あとたえて

ゆたかなる世を﹂おもふかしこさ

2

 禅閤

右大臣民部卿

 次の懐紙は︑句上が末尾にあるところから名残の折であることは明

白で︑表示された句数を加算するとちょうど百句になり︑百韻全体が

張行されたうちの一折が残訣本として伝来したのである︒端作がない

ので︑何時成立したものかは不明であるが︑連衆の官名記載によって︑

ある程度の推定が可能である︒

 この懐紙の形態から見て︑さきの連歌とほぼ同時期の張行と思われ

るのであるが︑そうなると︑ここに見える中院前大納言は︑すなわち

中院通秀のことと推定される︒通秀は寛正三年に権大納言に任じて以

来︑途中短い期間現任でない時期があるものの︑ずっと同職にあった︒

ところが︑文明九年三月廿一日に権大納言を辞し︑文明十一年十月五

日に還任している︒したがって︑この二年余りの非職の期間のみが︑

中院前大納言と呼ばれるべき時期なのである︒というのは︑文明十三

年正月七日に従一位を授けられたので︑権大納言を次に辞してからは︑

中院一位と称せられるからである︒すなわち︑この連歌が張行された

のは︑文明九年三月廿一日から同十一年十月四日までの二年余の間と

なるのである︒

伊知地鐵男文庫蔵連歌懐紙二種について ︵岩下紀之︶  連衆は御製が後土御門天皇︑式部卿宮は伏見宮邦高親王ということになる︒その他の人々については︑偶然にもこの期間官職の移動がなく︑

民部卿大蔵卿

源大納言

中院前大納三=ロ

宗綱 白川忠富東坊城顕長庭田雅行中院通秀

松木宗綱

といった比定ができる︒

 さてこの時期﹃お湯殿上日記﹂には伏見宮参加の連歌をいくつか記

録するが︵文明九年八月廿五日︑十一年九月廿五日など︶︑この連歌

断簡と一致する記事は特定できなかった︒

 その他︑御製四十句という句数︑全部で七人という連衆は︑この時

期の禁裏での月次連歌や法楽連歌とはやや異質である︒そのような場

合︑連衆は十人以上︑句数も多い人で十二︑三句というあたりが平均

的であり︑この断簡は︑もっと私的な︑点取︑又は稽古のための連歌

であったろう︒現に何句かに付点が見られ︑また点削のあとがある︒

 作者表記で松木宗綱をただ﹁宗綱﹂と実名で表記している︒彼はこ

の期間兵部卿に任じており︑他の人々が民部卿.大蔵卿などと表示さ

れるのと一致しない︒これは︑宗綱がこの懐紙の執筆を勧め︑自分の

名前については自署との意味あいで実名表記したのかもしれない︒

 以上の考証から︑この連歌を文明九年から十一年までの張行とする

(4)

   愛知淑徳大学論集 第十八号

と︑まさしく︑応仁文明の大乱がようやくおさまった時期のこととな

る︒作品中︑

  節会春にもかへれ手云のうへ

  ほかよりもなをのとかなる都にて

  はこひてつきぬこやみつき物

などという句に︑そうした日々の感慨を読みとることができよう︒た

だし︑連歌は元来非個性的な文芸であり︑時事問題をそのままに詠み

込むことはないはずである︒例として︑応仁二年四月廿八日の幕府に

おける百韻を見ておこう︒当日の連衆には足利義政︑細川勝元といつ

た︑乱の責任者達がいる︒

  船人も波風しらぬ比なれや

  国治りて民ぞたのしむ

  たへて世に君が恵を仰くらし

という一連を︑東西両軍が激突し︑灰儘と化した京都市街を念頭に浮

べて読むと︑何か不思議な気がする︒現代であれば︑これは将軍に対

する批判や皮肉を言っているのかと深読みしたくなるところであろ

う︒ しかし連歌を読むというのは︑単にテキストを読むことではあるま

い︒何よりもまず︑その一座の雰囲気を追体験することであろう︒同

じような平和をことほぐ句も︑乱中の一座では平和への祈願と読み︑

乱後の一座では︑安堵感の表出として読むべきなのであろう︒

 本断簡は三一︑五㎝×四六︑○㎝の無地の楮紙で︑これも通例通り︑

横に二つ折りして用いている︒翻刻にあたっての方針は︑

じである︒

山ふしのおこなひ﹂のみをす・かけに

\わくるもけはし﹂かつらきのみね

\朝またき立しら雲を﹂はなと見て

春のこ・うそ空﹂になりぬる     べ \長日に夜をまつ﹂ちきりおもひやれ

 たえなはさても﹂おしきたまのを

引人もなくて残﹂れるきむのこと       ヱあるへき物か﹂夏にふる霜

卯のはなのさくをは﹂雪にまかふ也     ユしける木のまそ﹂ふかく見えたる

夕くれのふもとの﹂さとは月遅し

秋のこ・うになに﹂かなくさみ  ハユ ころもうち田のもに﹂しつはくるしみて

 さまくなれや﹂人のなすわさ

 ウラ  いたつらにすくる日﹂かすをおしめた・

\又ほともなく﹂歳そくれゆく

\節会春にもかへ﹂れ香云のうへ

竹のうてなに﹂きなくうくひす

 ほかよりもなを﹂のとかなる都にて

 なにはのうらは﹂浪そた・よふ 1の項と同

中院前大納言

  源大納言

中院前大納言

中院前大納言

中院前大納言

  同

  式部卿宮

中院前大納言

式部卿宮﹂

中院前大納言

  源大納言

中院前大納言

(5)

    う こく船はいつく泊﹂とさたむらし はこひてつきぬ﹂こやみつき物 式部卿宮

  宗綱

     へ  御製 四十句

式部卿宮

民部卿

大蔵卿

源大納言中院前大納言

十十五二廿

八一

宗綱 四

     注

︵1︶ ﹁くれ﹂を消して﹁夜を﹂と変更している︒

︵2︶ ﹁のよの﹂を消して﹁にふる﹂と変更している︒

︵3︶ ﹁陰﹂を消して﹁の﹂と変更している︒

︵4︶ ﹁きぬた﹂を消して﹁ころも﹂と変更している︒

︵5︶ ﹁や﹂を消して﹁は﹂と変更している︒

︵6︶ 句数の部分に︑合点の数をあらわす﹁︒﹂の記号が︑御製に十︑

  民部卿︑源大納言に一つずつ︑中院大納言に三︑附されている︒ 式部卿︑

伊知地鐵男文庫蔵連歌懐紙二種について ︵岩下紀之︶

参照

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