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第1章 本研究の視点と目的

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元ハンセン病患者のスティグマと喪失体験に関する研究 ( 課題番号 17530507 ) 平成17年度-平成19年度科学研究費補助金 (基盤研究(C))研究成果報告書 平成20年5月 研究代表者 播磨俊子 神戸大学大学院人間発達環境学研究科 1

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目 次

第1章 本研究の視点と目的

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第2章 政策としてのハンセン病と療養所の生活

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第3章 身体の病としてのハンセン病

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第4章 『春を待つ心』と「十九歳」(『深い淵から』所収)

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第5章 8人の女性の療養所生活

64

玉城しげ,椎林葉子(仮名),上野正子,大月恵子(仮名), 里中ひろ子(仮名),川瀬聡子(仮名),山咲章子(仮名), 笹山典子(仮名)

第6章 まとめ…考察にかえて

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<謝辞>

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第1章 本研究の視点と目的

1. 本研究の視点 1)らい菌の発見と日本におけるハンセン病政策 本研究は,ハンセン病(Hansen’s disease)元患者がその人生に被ったスティグ マと喪失体験について検討することをテーマとしている。 ハンセン病は,かつてはらい(Lepra)病と呼ばれ,『日本書紀』(720 年)や大宝 律令(833 年)の注釈書『令議解』には「白癩」として記されている古い病であ る(山本,1993)。身体の機能の障害や容貌の異変など目にあきらかな身体へのダ メージが症状としてあらわれるために,原因も治療法もわからなかった時代には 天刑病・業病と恐れられ,あるいはまた遺伝病としてその家族までが疎まれた。 そのため発病した者は,ひたすら社会から身を隠したり,家を出,地域社会から 離れて巡礼や放浪の中で生涯を送らざるをえなかったりした。

1873 年(M6),ノルウェーのアルマウェル・ハンセン(Gerhard Henrik Armauer Hansen)によってらい菌が発見された。現在では菌の発見者の名にちなんでハン セン病と称されるこの病気は,感染力の弱いらい菌によって引き起こされる慢性 感染症であることが明らかになった。またらい菌は低温を好み温度の高い内臓で はなく温度の低い体表面を侵すために,皮膚と末梢神経に病変が現れることも明 らかになった。しかし感染経路については明確にならず,らい菌に対する有効な 治療薬も,1941 年(S16)のプロミン発見まで待たねばならなかった。菌が発見され てから有効な治療薬が見つかるまでに約 70 年の月日が流れたのである。 そうした事情の下,らい菌の発見はハンセン病が天刑病や遺伝病ではないとい う事実を示しはしたものの,患者とその家族の過酷な境遇に終止符を打つ力には ならなかった。すなわち,重大な関心事となった感染予防の政策が,新たに,患 者とその家族に逃れ難い支配力を及ぼすことになったからである。我国がハンセ 2

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ン病に対して取った予防政策は,絶対隔離撲滅政策であった。 我国における絶対隔離撲滅政策の特徴は,感染力の弱い慢性の感染症であるハ ンセン病に対して,ペストやコレラのような強烈な伝染力をもつ伝染病と同じ扱 いの絶対隔離政策を取ったことであり,退所規定をもたない隔離法を制定したこ とである。そして世界の動向にも反して,治療薬が発見された後も絶対隔離撲滅 政策が引き続き存続した点である。すなわち1907 年(M40)の浮浪患者の隔離収容 を定めた「癩予防ニ関スル件」,1931 年(S6)に改定された「癩予防法」による全患 者の絶対隔離,それを引き継いだ戦後1952 年(S27)制定の「らい予防法」によっ て,患者は好むと好まざるとにかかわらずハンセン病療養所(現在は国立 13 園, 私立2園)に入所せざるを得ず,社会から遮断された療養所内で生涯を過ごさな ければならなかったのである。 感染力の微弱ならい菌による感染症は本来絶対隔離の必要はなかった上に, 1947 年 (S22)からは日本でも治療薬プロミンが用いられるようになり,ハンセン 病は治癒する病気となって無菌の入所者が増えていった(1949 年(S24)は 26%、 1955 年(S30)年は 74%)。入所者の大半は、後遺症は残っていても、ハンセン 病そのものは治癒した状態になっていったのである。こうした状況の中で厚生省 は 1956 年(S31)に各療養所長宛に「らい患者の退所決定暫定基準則」を示した。 この文書は療養所長以外には厳秘であった上、療養所長の中にもこの文書を知ら なかったものがあったなどその位置づけ・周知性はあいまいであったが、これに より昭和30 年代以降は退所を強く希望する入所者には菌検査などを経て退所許可 が出ないわけではない状況になった。しかし絶対隔離撲滅法が廃止されることは なかった。 プロミン治療が開始されてから約 50 年が過ぎた 1996 年(H8)、「らい予防法の廃 止に関する法律」が制定されようやく絶対隔離撲滅法は廃止された。振り返れば 「癩予防ニ関スル件」の制定以来この時まで、約90 年間にわたって日本のハンセ 3

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ン病患者は退所規定のない隔離法によってその人生を支配され続けたのである。 ハンセン病患者の人生に生じた喪失とスティグマの体験は,こうした事情の下に 生じたものである。 2)「『らい予防法』違憲国家賠償請求事件」判決と本研究の視点 「らい予防法」が廃止された2年後の 1998 年(H10),同法の違憲性を訴える訴 訟が起こされた。元患者13 名が原告となって熊本地方裁判所(以下,熊本地裁) に提訴され,やがて同様の訴訟が東京地裁(1999 年(H11) 2 月 16 日),岡山地裁 (同 9 月 27 日)でも起こされていく。13 名の原告で出発したこの訴訟は,熊本 地裁で初めての判決が出た時には,熊本・東京・岡山の3訴訟を合わせて 1700 名 の原告団になっていた。 2001 年(H13)5月 11 日,熊本地裁は「らい予防法」が違憲であったことを認め, 国に対して元患者への国家賠償を命じる判決を下した。「『らい予防法』違憲国家 賠償請求事件」(以下,国賠訴訟)の原告勝訴の判決である。5 月 23 日,被告の 国側が「控訴断念」を表明し、勝訴判決は確定した。この判決に元患者がつかん だ実感は「人間回復」だった。勝訴報告集会の壇上で全国原告団協議会会長代理・ 東日本原告団長の谺雄二は「人間の空を取り戻した」と叫んだ(高波淳,2003)。 詩人である谺らしい人間回復宣言だった。また熊本地裁に提訴して国賠訴訟の扉 を開いた13 名の原告の1人上野正子は「本名を名乗ることは人間回復につながる」 (高波淳,2003)と言い続けて訴訟を闘い,勝訴の日,入所時に園からつけられた 名「八重子」から本名の「正子」に戻った。上野にとって60 年ぶりに名乗る本名 であり、人間回復だった。 さてこの訴訟で,弁護団は元ハンセン病患者が被った被害の本質を,「隔離」と 「スティグマ」ととらえていた。熊本地裁への訴訟ではこれらの点を次のように まとめている。まず「隔離」について,「絶対隔離絶滅政策とは,患者の人権・人 4

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格を無視してその存在そのものを根絶することを目的とし,①家庭内,地域内に おける分離を超えて,強制的に離島・僻地の療養所に収容して外部との交流を厳 しく遮断し,②症状,感染性の有無等を問わずハンセン病患者全員を対象に,③ 退所を厳しく制限して,終生の隔離を行い,④患者作業及び子孫を絶つための優 生保護手術を強制するという点に特徴を持つ政策であり,世界に例を見ない日本 独自のものである。」(『ハンセン病国賠訴訟判決』,2001) また「スティグマ」については,「被告(国―筆者注)は絶対隔離絶滅政策及び それを合法化した新法(1953 年(S28)制定のらい予防法―筆者注)で,ハンセン 病が強烈な伝染病であり,患者は危険な伝染源だと説いた。被告は,地方自治体, 住民を巻き込んで無らい県運動を展開し,患者を社会から隔離すべき未収容患者 として,徹底排除を呼び掛けた。(中略)地域住民にも,罪人扱いの収容や大々的 消毒を目の当たりにさせ,恐怖と不安の感情をあおった。『強烈な伝染力をもつ病 気である』という誤った病像観は,地域住民をも巻き込んでの患者狩りに広がっ た。(中略)新法の存在そのものが,法と医療の名の下に凄まじい差別を繰り返し, 原告らは『烙印』を押され,排除され,隔離された。この差別・偏見の深さ,甚 大さこそ,ハンセン病者との『烙印』を押された者の傷の深さ,甚大さである。」 (同前) そして判決は,「らい予防法」の違憲性を次のように述べている。「人として当 然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるので あり,その人権の制限は,人としての社会生活全般にわたるものである。このよ うな人権制限の実態は,単に居住・移転の自由の制限ということで正当には評価 し尽くせず,より広く憲法13 条に根拠を有する人格権そのものに対するものとと らえるのが相当である」(同前)。そして「隔離」と「スティグマ」ついて,両者は 互いに密接に結びついたものであり,包括して,「社会内で平穏に生活することを 妨げられた被害としてとらえることが相当である」(同前)とした。そして「違法行 5

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為が終了したのは平成8年の新法廃止時である上,これによる被害は,療養所へ の隔離や,新法及びこれに依拠する隔離政策により作出・助長・維持されたハン セン病に対する社会内の差別・偏見の存在によって,社会の中で平穏に生活する 権利を侵害されたというものであり,新法廃止まで継続的・累積的に発生してき たものであって,違法行為終了時において,人生被害を全体として一体的に評価 しなければ,損害額の適正な算定ができない」(同前)と断じている。 さて,本研究はこの国賠訴訟判決の見解に視座を置いている。あえてこの点を 確認をしておきたいのは,判決以降においても,ハンセン病に対する偏見・差別 はまだ根深く,また国による被害はなかったとする見解もあるからである。入所 者の中にも予防法によって救われたと感じている人があり,そうした意見を根拠 にして熊本判決に疑義を呈する人がいるからである。もとより個々の入所者が救 われたと思う気持は否定されるべきではない。それはその人の人生における実感 としての真実であり、進行する病と激しい差別・偏見に直面して療養所の中にや っと安らぎを見出したという体験が語られる時、その体験はその人の人生の実感 として心に沁みてくる。しかしそのことをもって、医学的根拠もなく外界から遮 断された特定の特殊な空間に人間の生涯を閉じ込める法が存在したという事実の 重さが消えるわけではない。 また人はどのように否定的な状況の中にあってもそこに肯定的な生を産み出し ていこうとする力をもっている。そうした力は、元患者の人生でも発揮されてい る。しかしその力故に産み出された人生への肯定的なあり方をもって,否定的な 状況を作り出した主体(原因)が免罪もしくは肯定されるのは筋違いであろう。 そうした混同あるいはすり替えを避けるためには、否定的な状況から目をそらさ ない営みが重要である。被害の実態を語り継ぐことが未来に対して担っている責 任の意味の1つはそこにある。 本研究は元患者のスティグマと喪失体験をテーマとしている。スティグマと喪 6

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失体験をとおして、受身の被害者としてではなく被害を被った人生を生き抜いた 能動的な主体としての元患者の,どのような状況にあってもそこに肯定的な生を 産み出していこうとする力に触れていくことを最終的な目的としている。熊本判 決で「人生被害」と指摘された,その被害を生き抜いてきた元ハンセン病患者の 中のそうした力に触れていくことは,いじめや虐待など個人の尊厳が理不尽に踏 みにじられる事態の中で傷つく心の問題を考えていく上でも,大きな示唆を与え てくれるものと思われる。被害の中の肯定的な人生の輝きを見ていこうとするこ とは,本来被害の実態を無化あるいは免罪する試みではないはずであるが,今な お差別と偏見を絶ち切れない私たちの社会の現実の中にあっては,あえて視座を 確認しておきたいのである。 2.本研究の目的と方法・手続き 1)目的 収容した療養所内で生涯を閉じさせることを前提にした絶対隔離撲滅政策はナ チスのホロコーストにたとえられることもあるが,その政策の下で元患者が体験 した苦悩は単一の心理学的概念で説明することはむずかしい。熊本判決ではその 被害を人生被害ととらえ、弁護団は被害の本質を隔離とスティグマとして押さえ たが,隔離は心理的体験としては喪失体験ととらえることができる。その視点か らみると,元患者の人生はいくつもの重篤な喪失体験を潜り抜けた人生といえる。 たとえば a.身体機能の喪失(感覚・運動機能障害)b.ボディ・イメージの喪失(容 貌の変形),c. 家族の喪失(療養所への隔離・外出禁止),d. 故郷の喪失(同), e.アイデンティティの核となる名前の喪失(療養所入所と同時に偽名使用強制、遺 骨は偽名のまま療養所内納骨堂に納骨された例も少なくない),f. 生殖能力の喪失 (療養所内結婚の条件として断種手術もしくは堕胎の強制)などである。a. b. は 病の進行によるもので喪失の程度に個人差があるが,c.d.は全ての元患者に何 7

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らかの形で,e.f.は少なくない元患者が,逃れ難く被ったふりかかったものであ った。(ただしa. b.についても,単なる病の進行というだけではなく園内作業によ る症状の悪化の例は多い。) ところで,らい菌は感染力が弱く感染から発病までの潜伏期間が長いという特 徴があるため,乳幼児期の感染が潜伏期を経て10 歳を過ぎるころから青年期にか けて発病する場合が多かったといわれる。つまり,思春期前後の時期から青年期 に療養所に入所する人が多かったということである。そのことは自立した個人と してのアイデンティティを形成し始める時期に,喪失の体験を重ねていくという ことであり,また自分の意志で選び取る余地を残さない定められた未来を提示さ れてしまうということである。そうした状況の中で,スティグマを担わされた自 分をどのように受け止めながら青年期の自己形成をしていったのか。 本研究はそうした点に注目しながら,現在国立療養所で生活している女性の元 患者に面接し,生きてきた歳月を自由に語ってもらう中で,特に少女時代・青年 時代をどのように過ごしたのかを語ってもらい,少女たちがスティグマと喪失体 験をどのように受けとめ成人していったのかを探っていきたい。 同時に,松山くに著『春を待つ心』(1950(S25),尾崎書房)と堀田善衛・永 丘智郎編『深い淵から――ハンゼン氏病患者生活記録』(1956(S31),新評論社) に収録されている旗順子の生活記録「十九歳」について取り上げ,少女たちの生 活と思いについて考察したい。『春を待つ心』は,1937 年(S12)に 10 歳で発病し, 12 歳で鹿児島県の国立療養所星塚敬愛園に入所した松山くにが,18 歳でこの世を 去る前の2年ほどの間に書きためた生活綴方集である。「十九歳」は,編者の一人 である永丘智郎の働きかけで全国国立療養所ハンゼン氏病患者協議会(以下,全 患協という)が中心になって編集・出版した入所者の生活記録集『深い淵から』 に納められている1篇である。ただし作品の検討というだけではなく,作者本人 が実際にどのように少女時代を生きどのような状況の中でそれを書いたのかにつ 8

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いて,可能な限り直接に確かめ作者の実像に近付くことを目標にした。前者では 松山くにを知っている人を尋ねて生前の松山くにの様子を聴き,後者では消息を 尋ねて直接ご本人から話を聴くことをめざし,その営みをとおして作品を検討す ることを目指した。 2)方法に関して 当事者から聞取りをする,あるいは当事者に語ってもらうというアプローチは さまざまな研究領域で取り入れられ,またその方法論についての議論も盛んであ る。しかし本研究においてはそうした方法論についての議論を保留し,とりあえ ず,筆者にとって最も自然な面接スタンスである心理臨床の場面での相手の心の あるがままに耳を傾ける姿勢で聞き取りを進めていくことにした。 元患者は人生の多くの時間を隔離された生活の中で汚れた存在として処遇され, 世間(社会)を恐れ心を閉ざして生きてきた人々である。先述した国賠訴訟の弁 護団の一人国宗直子は,陳述書作成から原告本人尋問までの過程の中で明らかに なった原告のスティグマの深さについて述べる中で,「この裁判で一番難しかった のはなんといっても,被害の聞き取りだった」と述べている。そして本研究が開 始された2005 年(H17)の時点で国立療養所の入所者の平均年齢は 77 歳であった。 そうした点を考慮して,本研究では研究計画を持ち込むという姿勢ではなく,ま ず元患者に会い,話を聴き,その状況に応じて研究計画を立てていく方法をとっ ていくこととした。 3)研究の手順 まず全国にある13 の国立ハンセン病療養所の全てを訪問した。その際,特に紹 介者を介せずに各療養所の福祉課に見学申し込みをした。結果として福祉課の職 員から園内の案内をされた園,自治会に紹介され自治会の役員に園内を案内され 9

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た園、また自治会役員との面談の機会を得た園,個別に入所者を紹介され面談で きた園などさまざまな対応の中で,それぞれの園の地理的な隔絶感や雰囲気,た たずまいなどを感じることができた。 そして、そうした訪問をとおして話を聞く機会を得た入所者,さらに元「ハン セン病問題に関する検証会議」の内田博文委員(副座長・九州大学法学部教授) と牧野正直委員(国立療養所邑久光明園 園長)から紹介された入所者の中から, 女性入所者8名に許可を得て聞き取りの協力者になっていただいた。 本研究に関わる療養所訪問は全国13園計23回であった。初回の訪問を除けば、 大半は園内の面会者宿泊所に宿泊させてもらい1~3泊の滞在で話をうかがった。 なおその訪問の中で,星塚敬愛園の資料館から松山くにの『春を待つ心』の初 版を,長島愛生園の資料館で『深い淵から』の初版をみつけ,コピーの許可を得 ることができた。 <文献> ①山本俊一,1994(1993 初版),日本らい史,東京大学出版会,P54~55 ②高柳淳,2003,生き抜いた,草風館,P.108 ③高柳淳,2003,同上,P100 ④解放出版社編,2001,ハンセン病国賠訴訟判決――熊本地裁[第一次~第四次], 引用順に,P.17,P54~55,P55,P282,P310,P318~319 ⑤松山くに,1950(S25),春を待つ心,尾崎書房 ⑥堀田善衛・永丘智郎編,1956(S31),深い淵から――ハンゼン氏病患者生活記録, 新評論社 ⑦全国国立療養所ハンゼン氏病患者協議会,1956,全患協ニュース No.64 号 ⑧国宗直子,2002,2002 年自由法曹団5月新人弁護士研修会講演録 10

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第2章 政策としてのハンセン病と療養所での生活

日本のハンセン病政策は絶対隔離撲滅政策であった。1907(M40)年の「癩予防ニ 関スル件」,1931年(S6)の「癩予防法」,1952年(S27)の「らい予防法」がその根拠 となる法であった。法の制定に伴って患者を収容する施設(療養所)がつくられ, 患者は次第に療養所の中に囲いこまれ,そこで生涯を送るしかない境遇に追い込 まれていった。社会から遮断された療養所内での生活の実態が広く明らかになっ たのは,2001年(H13)に始まった国賠訴訟における原告たちの証言によってであっ た。そこにあったのは,外の世界の常識からは想像もできない,人間の尊厳が踏 みにじられた生活の現実であった。以下に元患者が生きた現実を理解する上で不 可欠と思われる事項に焦点をあてて,元患者を支配した政策と療養所の生活の実 態の一部を概観しておきたい。 1.「癩予防ニ関スル件」と「癩予防法」 の時代 療養所は,「癩予防ニ関スル件」が制定された2年後の 1909 年(M42)に,全国を5 区に分けた5つ連合都道府県立療養所としてつくられた(表1参照)。「癩予防ニ関ス ル件」の制定と療養所の設置には,感染予防や治療以外のさまざまな国家の思惑がか らんでいたといわれる。日清戦争を経て富国強兵政策の下に世界の「一等国」たらん としていた明治政府にとって,文明国としての体面を保つ上で,先進列強諸国ではす でにほとんど目にすることがなくなっていた浮浪患者を公共の場から排除・収容する 必要があったこと,強兵の軍隊をつくるためには「弱く劣悪な体質者」を排除する必 要があるとする発想があったことなどである。牧野正直(2007)によれば「当時わが 国には欧米諸国に比し,ハンセン病患者は単純に推計しても対人口比で約 1000 倍は存 在していた」ということである。しかし牧野は同時に次のような指摘をしている。「当 時の専門家が大方の認識として,ハンセン病が慢性の感染

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症であることは明らかであったし,伝染性もそれ程強いものでもないと理解され ていた。“らい菌”の感染のみで死に至ることも稀な疾患であったなどの,『癩』 の本質的な部分については充分理解されていたことは種々の文献から推測し得る。 すなわち予防医学上隔離を必要としない疾病であることは,少なくとも専門家の 中では正確に理解されていたのである。であれば『癩』本来の病態である『癩は感 染防御の観点からみて隔離の必要のない疾患である』という信念の下に,隔離を否定 する考え方が主張されてもおかしくなかった」。しかしそうした議論は起こらず、明 治政府は浮浪する患者を隔離収容するために,治療についての見通しはないまま に,退所規定をもたない終世隔離法を制定したのであった。 療養所への収容がはじまって4~5年が経過した 1914 年(T3),第1区の全生病院 の院長であった光田健輔は入所者の風紀の乱れを理由に園内秩序の維持のための意見 書を提出した。それがきっかけになって,1916 年(T5)に「癩予防二関スル件」の一 部が改正され,療養所長が入所者に対して懲戒検束権をもつことが法制化された。以 下のような内容である。 5条の2 療養所ノ所長ハ被救護者ニ対シ左ノ懲戒又ハ検束ヲ加エルコトガ デキル 1.謹慎 2.30 日以内ノ謹慎 3.7日以内常食量2分ノ1マデノ減食 4.30 日以内ノ監禁 前項第3号ノ処分ハ第2号又ハ第4号ノ処分ト併科スルコトヲ得, 第1項第4号ノ監禁ニ付イテハ,状況ニ拠リ管理者タル地方長官又ハ 代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ其ノ期間ヲ2個月マデ延長 スルコトヲ得 12

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表1.療養所設置年表 挿入 ・・・修正、有り・・・

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所長に与えられたこの懲戒検束権は恣意的な運用の余地を残すものであったた め,療養所長は入所者に対して減食や監禁をいわば自由に科す権限をもつことに なった。 また同じ頃,1915 年(T4)に光田は園内での結婚を許可する条件としてワゼクト ミー(Vasektomie,輸精管切除術)を実施した。入所者の安定を図る上で有効な結婚 を許す一方で療養所内の出産・育児を許さないという方針の下,ワゼクトミーは法的 根拠のないまま,結婚の条件として全国の療養所に普及し,戦後昭和 30 年代半ばまで 強制的な力をもつことになった。ワゼクトミーと,妊娠した場合の強制堕胎,たとえ 元気に生まれたとしても誕生直後に生を奪う,そのようにして療養所内での出産は固 く禁じられた。 1919 年(T8),政府は全国一斉調査を行った。その結果患者数1万 6200 人,その うち療養資力のない者は約1万とみなされた。それを受けて 1921 年(T10),第一 次増床計画が策定され,国立療養所の設置と公立療養所の拡張によって 10 年間で 病床数を5千床にして収容者数を増やすという目標がかかげられた。1925 年(T14) には浮浪患者だけではなく事実上すべての患者の入所をめざすとした内務省衛生 局長通牒が地方長官に出され,1930 年(S5)には初の国立療養所長島愛生園がつく られた(表1参照)。 この年,内務省衛生局は「癩の根絶策」を発表し絶対隔離が唯一の正しい政策 であるとして,強制収容の方向を明らかにした。 こうした政策の背景には,「民族浄化」の思想があったといわれる。民族の血を 浄化するためには「癩」は根絶されるべき病であり,そのためには絶対隔離撲滅 が必要であるとする発想であった。こうした流れの中で,1929 年(S4)の愛知県の 民間運動が発端となって「無らい県運動」が起こってくる。住民が身の周りから 患者を徹底的に見つけ出し、通報し,1人残らず療養所に送りこもうというもの である。 14

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1931 年(S6)には,「癩予防ニ関スル件」がほぼ全面的に改定され,「癩予防法」 が制定された。改定された主要な点は,全患者の療養所への収容,患者の従業禁 止,患者が使用した物品の消毒もしくは廃棄である。退所に関する規定は,改定 前と同様につくられておらず,終生隔離の法であった。同時に国立療養所患者懲 戒検束規定も認可公布され,療養所の絶対隔離強制収容施設としての性格が明確にな った。 1935 年(S10)には「癩の根絶策」を受けて「20 年根絶計画」の実施が決定される。 1936 年(S11)からの 10 年間に病床数を1万床に増やし,その後の 10 年で患者を徹底 的に収容して「癩根絶」を果たすというものであった。1940 年(S15)には,厚生省が 都道府県に指示を出し「いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。(中略)あま ねく国民に対し,あらゆる機会に種々の集団を通じてらい予防思想の普及を行い,本 事業の意義を理解協力せしむるとともに,患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せ ざるべからず。」として,戦時下,官民一体になった「患者狩り」が展開されることに なった。この「無らい県運動」はわが国におけるハンセン病への差別・偏見を決定的 なものにしていった。国賠訴訟の熊本判決(2001)ではこの点を次のように述べてい る。 「無らい県運動により,山間へき地の患者までもしらみつぶしに探索しての強 制収容が繰り返され,また,これに伴い,患者の自宅等が予防着を着用した保健 所職員により徹底的に消毒されるなどしたことが,ハンセン病が強烈な伝染力を もつ恐ろしい病気であるとの恐怖心をあおり,ハンセン病患者が地域社会に脅威 をもたらす危険な存在でありことごとく隔離しなければならないという新たな偏 見を多くの国民に植え付け,これがハンセン病患者及びその家族に対する差別を 助長した。このような無らい県運動等のハンセン病政策によって生み出された差 別・偏見は,それ以前にあったものとは明らかに性格を異にするもので,ここに, 今日まで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言で 15

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はない。」(『ハンセン病国賠訴訟判決』,2001) 2.療養所内の生活 ハンセン病は慢性の感染症であり,病気自体が急激に直接的に患者の命を奪う わけではない。それゆえ退所規定を持たない隔離法は,収容した患者の生涯を療 養所の中に封じ込めるという意味をもった。選択の余地なく家族との生き別れを 強いられ,あるいはそれまでの人生を断絶され,子どもを産み育てる希望を絶た れ,生涯を療養所の敷地内だけで過ごさなければならなかった現実は,それだけ で個人が被る喪失体験として耐え難いものといえるが,さらに,適応していくし か す べ の な い 療 養 所 で の 生 活 は 人 間 と し て の 尊 厳 を 根 こ そ ぎ に し て い く よ う な 日々であった。療養所は無らい県運動によって激しくなっていった外の世界での 差別と偏見に対してシェルターのようなものであったと見る人もあるが,実際の 療養所の生活は医学的根拠のない規則と差別を前提にして組み立てられた理不尽 な世界であった。その世界に適応するしか生きていく道がない患者たちは,理不 尽さや不条理を容認し,順応していくしかなかったともいえる。療養所での生活 の現実の全様を記すことはむずかしいが,以下に,入所者の生活の現実を理解す る上で前提になると思われる,外の世界では考えにくい園に独特のいくつかの事 柄について概観したい。 1)患者地帯・園金・園名 ①患者地帯 療養所内は患者が居住する地域「患者地帯」と職員が仕事する地域が判然と 区切られていた。園によって多少異なるが,前者が「下」,後者が「上」と称 され,患者が「上」にいくことは固く禁じられていた。職員が「下」にいく時 は予防着(帽子・白衣・大きなマスク・ゴム長靴など)に身を固め,「下」か 16

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ら「上」に戻る時には浅く消毒液を溜めたパットに入って長靴を消毒すること になっていた。弱い感染力しかないらい菌に対して,強い感染力をもつ病原菌 に対するやり方を当てはめた奇妙な規則であるが,法によって定められたもの であり厳密に守らねばならないものであった。予防着の大きなマスクのために、 患者作業(後述)で看護補助として毎日いっしょに仕事していた看護師の顔を ついに知らないままだったと語る入所者も多い。また,病気で動けなくなり自 分の舎で寝ていると,応診にきた医者が土足(長靴)で枕元まできたという話 も少なくない入所者が語っている。 ②園内通貨 療養所内では,患者が現金を所持することを禁じられていた。公的には,患 者が使用したお金が社会に流通することはらい菌伝播の予防上防がねばなら ないという理由であったが(そしてこれ自体が非科学的であったが),実際に は患者にお金を持たせないことが逃亡を防ぐもっとも有効な方法であるとい う理由からであった。入所時に持ってきた現金は保管金として施設に保管され た。送金されてきたり面会時に家族などから渡された現金も同様に保管金とな った。そして栗生楽泉園以外の各園では園内でしか通用しない園内通貨(園金) が発行された。園金はブリキ製が多く,『名もなき星たちよ――星塚敬愛園入 園者50年史』(星塚敬愛園入園者自治会編,1985)には「入園してこの薄っぺ らな園金を渡されると,自分の存在までが急に軽くなった気がしたものだった。 園金を持つこと,それがハンセン病療養所の人間になることだった。」と記さ れている。この制度は,早くは1919年(T8)に全生病院ではじまっていた。 保管金は建前上は必要に応じて払戻してもらえることになっていたが,実際 には領収書の提示が必要だったり,職員から嫌味をいわれたり,取り合っても らえなかったりと,払戻しを受けることはむずかしかった。 17

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③園名 園内で使用された仮名で,終世を園で過ごした人の場合,周りの入所者も 本名を知らないことがあったという。そのため,園名のまま納骨堂に納骨され た人もあるといわれる。園名の由来は必ずしも明らかではないが,家族に差 別・偏見が及ぶことを避けるために身内にハンセン病患者がいることがわから ないように名前を変える,入所と同時にこれまでの人生を忘れてハンセン病療 養所の人間になるように本名を捨てる,などが起源といわれている。実際,園 名で生きることによって家族を守っていると考えている入所者や,現在でも家 族への影響を恐れて本名を明らかにすることを避けたいという入所者も少な くない。しかし園によっては入所時に職員から有無を言わさず園名を付けられ た例もあった。見も知らぬ他人に突然自分の名前を取り上げられて適当な名前 を押し付けられるという体験は,人間としての尊厳を深く傷けるものであった。 本名を取り戻すことが人間性回復のシンボルとしてとらえられるのは当然と 言えよう。入所者の半数位が園名ではないかといわれている。 国賠訴訟の後に本名に戻った人,園名のままでいる人,園名さえ隠しておき たい人など,名前をめぐってのさまざまな思いは,名前が個人のアイデンティ ティの重要な柱であることを思うと、それ自体が日本のハンセン病政策の本質 と元患者のスティグマの深さをよくあらわしている。 2)住居 時代や園によって多少異なるが,一般の住居施設としては,男子一般成 人舎,女子一般成人舎,男子若年成人舎(青年舎),女子若年成人舎(乙女 舎),少年・少女舎があり,各舎ともおおむね12畳半1部屋に8人程度が雑 居していた。また男女の不自由舎があり,症状が悪化し身体の障害が重度化 して日常的に介助が必要な患者はここで暮らした。さらに重病舎,精神病舎 18

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があった。重病舎はハンセン病の急性症状が出た場合や他の病気で入院が必 要な場合に入院治療する舎であった。また新入所者が入所後すぐに一時的に 入る収容所があり、ここにいる間に身上,病状,余病,などがチェックされ, どの舎に入るかが決められた。以下に,他の設備等も含めて,もう少し詳し く見ていくことにする。 ①一般成人舎(大人舎) 12畳半1部屋に8人程度が雑居し,個人が占有できる空間は半畳分の押 入れだけであった。年齢も気性も生い立ちも異なる同室者との雑居生活は 息苦しく,辛いものであったことを多くの入所者が述べている。この辛さ を逃れたいという思いが大きな理由になって,不自由舎の付添や結婚の決 心をしたと話す女性入所者は少なくない。この点については、④不自由舎, および、3)結婚もしくは夫婦舎で後述する。 ②青年・乙女舎 園によってはない場合もあり,少年少女舎から直接一般成人舎に移る園 もあった。青年・乙女舎での生活は、同世代の若者同士の共同生活であっ たため、長い療養所生活の中では良い時期だったと話す入所者が多い。 ③少年・少女舎 古くは療養所内に少年少女のための施設はなく,子どもたちは軽症者の 多い成人一般舎に分散し,大人に混じって生活していた。大人との同居は 可愛がられることもあるが,猥雑な大人の生活に巻き込まれたり,同室の 大人のご機嫌を損ねないように顔色を見ながら生活しなければならず,子 どもにとって負担の多い生活だった。東北新生園入園者自治会編の『忘れ られた地の群像――東北新生園入園者自治会40 年史』は次のように述べて いる。「時にはからかわれ,時には使い走りをさせられるから大人には負け たくないという,いわば世間ずれを余儀なくされ,口達者と云われるよう 19

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になった。」そうした子どもの状況に心を痛める大人の努力や子どもの入所 者数が増えてきたこともあって,少年・少女舎が作られていくことになっ た。 少年少女舎は,それぞれの園によって若干の違いはあるものの大部屋で の共同生活で,たとえば星塚敬愛園(1935年(S10)開園)では,開園当初は 大人の寮が転用されていたが,1938年(S12)に少年舎1棟・少女舎1棟が建 設され,各棟は12畳半の部屋4室から成っていた。12畳半の部屋に多いと きには12人の子どもが生活していたという。 少年舎には「お父さん」,少女舎には「お母さん」と呼ばれる寮父・寮母 が軽症患者の中から選ばれ,起居を共にしながら子どもたちの面倒を見た。 加えてお姉さん,お兄さんと呼ばれる若い軽症患者が配置されているとこ ろもあった。 子どもたちは少年・少女舎で16歳ないし18歳くらいまでを過ごした。戦前 では高等科2年の卒業の年,戦後では中学校卒業の年が少年舎・少女舎から成 人寮(一般寮)に移るめどになっていた。しかし入所前に,発病ゆえに登校を 禁じられていた子どももあり、その場合は登校できなくなった学年に入ること になっていたので学年と実年齢が一致していない場合もあって,移動の年齢に は幅があった。 ④不自由舎 上述したように,症状が悪化して身体の障害が重度化・固定し,日常的 に介助・看護が必要になった患者が暮らす舎で,介助する付添は軽症患者 であった。付添は患者作業(後述)の1つで,住込みの24時間介助であっ た。付添を「お父さん」「お母さん」と呼んだため,高齢の不自由者が年の 若い付添を「お父さん」「お母さん」と呼ぶ光景も見られた。介助は大変な 仕事であったが「成人舎で雑居で暮らす方がもっときつかった」という入 20

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所者は多く,成人一般舎での雑居生活の息苦しさから逃れるために付添を 希望した軽症患者も少なくなかった。 3)結婚もしくは夫婦舎 結婚に関する問題は,療養所内の生活の非人間性を最も肌身に感じる問 題といえよう。 園内での結婚は先述したようにワゼクトミーが条件とされたが,結婚と住 居の問題は療養所での生活の非人間性を端的に物語るものであった。すなわ ち戦後に至るまで,夫婦の生活は夜に夫が女子成人一般舎の妻の元に通って いくという,通い婚の状態であった。夫婦にとっても独身の同室者にとって それは辛い事態であった。とくに少女舎から移ってきたばかりの10代の若い 女性にとっては,当時を思い出して「嫌でしたねえ」と表現するその一言に 万感が籠る事態であった。1947年(S22)になってやっと夫婦のための寮がで きるが,それも当初は独身者と分けられたというだけの12畳半に3組の夫婦 が雑居するというものであった。 夫婦1組1室の寮ができ始めるのは 1950 年(S25)になってからで,この 時に造られたのは4畳半の部屋が長い廊下でつながった,共同玄関,共同ト イレ・共同炊事場の長屋の夫婦棟であった。「壁1枚・4畳半のプライバシ ー」にすぎなかったが,それまでの雑居に比べると夢のような住居環境であ ったという。またこの「壁1枚・4畳半のプライバシー」は,雑居生活を強 いられていた独身入所者にとってもあこがれであり,女性入所者の中には雑 居生活から抜け出したいために結婚に踏み切った人もあり,また夫が亡くな った後の再婚率の高さも雑居生活に戻る苦痛を回避したいためという面が 少なからずあったという。 4)生活 21

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①患者作業 入所者に割り当てられた園内の作業で,内容は治療・看護部門(看護師 補助,病室・不自由舎付添,薬配,古くは包帯の洗濯・包帯巻など),裁縫 (衣服作成や布団のうち直しなど),給食,配食,残飯・ゴミ回収,清掃, 理髪,屎尿汲み取り,土木作業,火葬など生活全般に及ぶものであった。 建前上は入所者の無聊をなぐさめる慰安作業として位置づけられていたが, 実際は,職員の人手不足が恒常化した療養所の運営は患者作業を抜きには 成立しなかった。 作業は本人の希望にそって従事する建前であったが,戦前には作業を拒 否すると懲戒処分を受けるなど,強制労働に近いものであった。とりわけ 戦争中は無理な重労働のため病気を進行させ,重篤な後遺症を残す結果に なった患者も少なくない。 患者作業には作業賃が出た。しかしあくまで作業慰労金としての位置 づけであり、労働に見合う賃金という視点からみればきわめて少額であっ た。つまり患者は安あがりの労働力として作業に従事させられていたとい えようが、それでも患者にとっては唯一の収入源であった。しかし公費と して作業賃予算があったわけではないために作業賃は療養所運用経費から 支出されていた。たとえば土木関係の作業,屎尿処理,火葬等は営繕費か ら,看護部門の作業は医療費から,給食部門の作業は食糧費から支給され ていた。そのため,作業賃が増えれば運用経費が少なくなって患者にはね かえるというものであった。 なお各園には自助会・自治会等の患者組織がつくられ,ここが患者作 業の割振りなどを請け負う形になっていた。自治会役員は患者の中でいわ ば高い地位にあるものとして処遇され,自治会の長(自治会長あるいは総 代)はその頂点として強い権力をもつ場合もあった。 22

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戦後,1947年(S22)になって作業慰労金が厚生省で予算化された。しか しその額が少額であることに変わりはなかった。1959年(S34)に国民年金 法が施行されて不自由舎の入所者に障害者福祉年金が支給されるようにな ると,福祉年金のほうが作業賃より多い,つまり介護を受ける人の年金収 入よりも付添介護をする人の付添作業賃収入のほうが少ないという事態に なり,不満が噴出した。戦後は作業賃の増額とともに作業の返還問題が大 きな問題となった。 ②園内学級 教育については療養所が隔離施設であったことによって正式の教育から も隔絶されていた。栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋――栗生楽泉園患 者50年史』には次のように記されている。「施設当局は入所児童の教育施設 すら設けようとはしなかった。さりとて,学齢期にある子供が,いかに療 養所とはいえ学業もなく遊びまわっていることは,やはり同病の大人たち の心痛めるところとなった。」そして有識の患者が教師となって園内学園が 開設されていく。その成り立ちや教育指導体制は園によってさまざまであ った。たとえば栗生楽泉園の園内学級は1941年(S16)に設立された(湯之沢 部落の解散により、湯之沢の望小学校の校舎が移築された)が,「はじめて 授業する場」ができたのは1935年(S10)であった。「それは,前年の外島風 水害で当園に依託された患者の一人室谷政人が,同じ依託患者で学齢期に あった西脇一美という少女のために,自分が入居した浪速ヶ丘表四号を使 って授業を行ったことにはじまる。しかしその頃には,所内に西脇と同じ ような学齢期の児童が10名ほどいて,彼らも周囲の大人たちに勧められ, 1人,2人と誘い合いながら“室谷教室”へ通うようになり,やがて生徒 は6~7人にまでなった。となればさすがに施設当局も放置はできず,必 要分の座り机や学用品を支給したが,但しそれ以上の姿勢を示そうとはし 23

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なかったのである。」(『風雪の紋』1982)。一番早い園内学級は,1910年(M43) にはじめられた全生病院での寺子屋方式の教室であったとされている。 成長しても園の中で生涯を終えなければならない子どもたちに対する 教育目標は園内生活に必要な読み書きができれば良しとする発想を超える ことがむずかしく,星塚敬愛園入園者自治会編『名もなき星たちよ――星 塚敬愛園入園者五十年史』によれば,正規の授業は形だけでその空白を埋 めるために文芸指導に力が入れられていたという。 なお,1942年(S17)に大島青松園と松丘保養園で,1944年(S19)に長島愛 生園で,1945(S20)に邑久光明園で,園内学級が県知事から認可され,国民 学校令に基づく正式の教育機関になった。しかし教育予算や教師の派遣が あるわけではなく,依然として有識患者が教育にあたっていた。 戦後,1947年(S22)の6・3・3制教育の実施に伴い各園の園内学級は 近隣小学校・中学校の分校として教師が派遣されるようになるが,派遣教 師の数が少なく患者の教師が引き続き補助教師として教育にあたった。派 遣された教師は「癩予防法」に従って予防服に身を固めて授業をしていた。 5)特殊な施設・設備など ①監禁所(室)・特別病室 療養所長の懲戒検束権に基づき全国の療養所には監禁室がつくられて いた。監禁室は明かり取りの高窓,食事の差し入れ口,そして排泄口(便 所)があるだけの部屋で,刑務所の独房よりも劣悪であったといわれる。 懲戒検束権は恣意的な運用の余地を残しており懲罰・検束の基準があいま いであったため,監禁室への監禁理由もさまざまであった。園外への無断 外出は監禁室入りを覚悟して実行されたという。また職員に「反抗的態度」 をとったと見なされると秩序の維持のためとして監禁室に入れられた例も 24

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少なくない。 特別病室は,全国の療養所の患者刑務所として,1938 年(S13)に栗生楽 泉園に設置された。別称「草津重監房」と呼ばれた。四面をむき出しのコ ンクリートに囲まれた4畳半の房は,外には出るには4つの扉を通過しな ければならなかったという。ふとん2枚と一日2食の食事だけが患者に与 えられたもので,冬は零下 20℃にもなる房内は吐く息も,湿気を含んだふ とんも凍ってしまったという。戦後 1947 年(S22)に廃止されるまでの9年 間に全国の療養所から 92 名が送りこまれ,22 名が房内で命を落としてい る(死者数は諸説あるが,しっかりした記録さえないという。22 名がほぼ 定説)。 「草津送り」(「草津重監房に送致する」)の恐怖により,療養所長の懲 戒検束権は,患者にとっていっそうの威力をもつことになった。戦後,新 憲法下の 1953 年(S28)に改定された「らい予防法」にも,所長の懲戒検 束権は以下のように残された。 第 16 条 入所患者は,療養に専念し,所内の規律に従わなければな らない。 2.所長は,入所患者が紀律に違反した場合において,所内の秩 序を維持するために必要があると認めるときは,当該患者に対 して,左の各号に揚げる処分を行うことができる。 一 戒告を与えること。 二 30 日をこえない期間を定めて,謹慎させること。 ②火葬場・納骨堂 療養所には火葬場と納骨堂があった。これらの施設は療養所が絶対隔離 撲滅の施設であることを象徴している。火葬は患者作業であり,患者自身 の手で行われた。納骨堂は寄付と入所者自身の浄財で資材を購入し,入所 25

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者の労力奉仕によって建設された。 入所者は長期の療養所生活によって身寄りがないのと同然の境遇にあっ たため,死亡しても家族に連絡が取れなかったり、連絡がつく場合でも葬 儀への参列が拒まれたり,遺体や遺骨の引き取りが拒絶されることも少な くなかった。差別と偏見の中で,患者との縁を切って生活せざるを得ない 家族が少なくなかったし,身内に患者がいることを結婚相手や我が子にも 秘密にしている人が多かったからである。またいったんは遺骨を引き取っ たものの,家に持って帰ることをためらって遺骨を電車の中に置いていく 家族もあった。ある園の関係者が語ってくれた「この園とつながる電車の 線は遺骨の忘れ物が日本一多い路線じゃないかと思いますよ」という話の 意味は重い。 全国ハンセン病療養所入所者協議会編『復権の日月』には納骨堂に関し て次のように記されている。「死んでもなお,帰るところも,家族に引き取 られることもなく,今は亡き先輩病友の遺骨は小さな骨壺に納めて安置さ れ,苦しい療養所生活を共にした者同士が,墓所を死後までともにしてい る。」(『復権の日月』,2001) 邑久光明園入所者の詩人中山秋夫の詠んだ次の句が,胸に迫る。(中山秋 夫,2002) 「もういいかい 骨になっても まあだだよ」 3.戦後の状況 戦後2年目の1947年(S22)という年について,藤野豊は『ハンセン病問題資 料集成<戦後編>第1集』の解説の中で次のように述べている。 「日本のハンセン病問題は,1947年に大きな転換を遂げると言っても過言では ない。すなわち,この年,ハンセン病患者への虐待の象徴とも言える栗生楽泉園 26

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(群馬県)の「特別病室」=重監房における患者虐殺の事実が発覚し,国会で問 題化した。それまで,あたかもハンセン病患者にとり『愛の殿堂』のように宣伝 されていた療養所の実態が明らかになり,厚生省としてもなんらかの改善措置を 執らざるを得なくなる。また,この問題を機に栗生楽泉園における入所者の生活 擁護のたたかいも始まっていく。重監房問題は,戦後の隔離撤廃を求める入所者 の運動の出発点ともなったのである。 さらに,1947年から日本でもハンセン病に対するプロミン治療が開始されてい る。プロミンの登場は,この病気を不治と決めつけ,生涯に亘って隔離してきた 国家の論理を崩壊させた。入所者側も,プロミン治療により退所への希望が現実 化し,ますます隔離撤廃の声を高めていった。まさに,1947年は絶対隔離政策の 崩壊の始まりとなった年である。しかし,国家はすぐには隔離を撤廃しなかった。 以後の入所者の想像を絶する苦闘が続く。」(藤野,2003) 戦時下には園側の入所者管理機関のような役割を担うことになった各園の自治 会は,戦後新たにプロミン治療の予算獲得運動や夫婦舎の個室化要求など患者の 切実な要求の実現に積極的な活動を始める。1941 年(S16)にアメリカのカーヴィル 療養所でその効果が発見されたプロミンは,1946(S21)に東京大学の石館守三に よって日本での合成に成功し,1947 年(S22)年から試験的な治療が開始された。各 園の自治会は全患者に渡るだけのプロミンの獲得に積極的に行動した。 またこの年には夫婦寮ができた。ただしこの時できた夫婦寮は一部屋に3組の 夫婦が入るというもので,通い婚は解消されたが,相部屋雑居の状態は解消され なかった(個室化するのは 1950 年(S25)以降である) 。患者作業賃(作業慰労金) についても厚生省で予算化され,また園内学級は近隣の小・中学の分校として教 員が派遣されるようになった。さらにこの年から選挙権が得られ,療養所の生活 に新しい風がふくようになっていた。 27

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1951 年(S25)になるとプロミン治療によって軽快退所する患者が出た。しかし国 の隔離政策は継続されたままだった。1950 年(S25) ,厚生省は全てのハンセン病 患者を入所させる方針を打ち出し,「らい患者の全国調査」をおこなった。全患者 収容を前提にした1万5百人収容の大増床計画(第2次増床計画)が立てられ, 徹底した患者収容が実行されることになった。医学的妥当性を欠いた大げさな患 者の自宅消毒や隔離移送などによって,ハンセン病は強い感染力をもつ恐ろしい 病気であるという偏見を宣伝・助長した(第2次無らい県運動)。患者の自宅は物々 しい予防服を着た保健所職員によって徹底的に消毒され,収容のための移動には 「ライ患者用」「ライ患者移送中」などと記した専用車両が用いられ、「お召列車」 などと称された。専用車両は普通車両の場合もあったが、貨物車が使用されるこ とも少なくなかった。 こうした政府の予防政策の流れの中で,1951年(S26)2月に「全国国立癩療養所 患者協議会(全癩患協)」が発足し,9月には「らい予防法改正促進委員会」を設 置した。そして「強制収容反対」「退園を認めよ」「懲戒検束規定の廃止」「家族の 一斉検診反対」「秘密の保持と家族の生活保障」「ハンセン氏病を正式名称に」を スローガンに法改正運動を展開していくことが決められた。 この年の 11 月,参議院厚生委員会で「らいに関する件」が取り上げられ,参考 人として証言した3療養所の園長(長島愛生園長 光田健輔,菊池恵楓園長 宮 崎松記,多摩全生園長 林芳信)の発言(「3園長発言」)が大きな波紋を引き起 こす。「3園長発言」は多くの文献に引用されているが,ここにごく一部を紹介す る(以下「3園長発言」についての引用は山本俊一『日本らい史』よりの抜粋で ある)。なお,光田はこの委員会が開かれた前年に文化勲章を授与されている。 <光田園長> (強制収容の強化について) 28

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「(前略)手錠でもはめてから捕まえて強制的に入れればいいのですけれども, ちょっと知識階層になりますと,何とかかんとか逃げるのです。そのような者 はどうしても収容しなければならんという,強制のもう少し強い法律にして頂 かんと駄目だと思います。(後略)」 (罰則強化について) 「(前略)逃走罪という1つの体刑を科するかですね,そういうことができれば ほかの患者の警告にもなるのであるし,今度は刑務所もできたのでありますか ら,逃亡罪というような罰則が一つほしいのであります(後略)」 <宮崎園長> (患者数について) 「(前略)らいの数を出しますことは,古畳を叩くようなものでありまして,叩 くほど出て参ります。出てこないのは叩かないだけのことで,徹底的に叩けば もっと出てくるのではないかと思います。(後略)」 (強制収容の強化について) 「(前略)この際本人の意志に反して収容できるような法の改正ですか,そうい うことをして頂きたいと思います。(後略)」 「3園長発言」はらい予防法闘争に一気に火をつけることになった。国会で審 議中の「癩予防法」を継承した「らい予防法案」に対して,全癩患協は先述のス ローガンの事項の実現を求めて反対運動を展開した(らい予防法闘争)。総決起集 会や患者作業拒否,デモ行進,直接陳情や国会・厚生省前での座り込み,ハンス トなどあらゆる方法で闘いが繰り広げられた。それは療養所内で社会に対して息 をひそめるように生きてきた患者にとって画期的なできごとであった。 この運動の中で,1953 年(S26),全癩患協は組織の名称を「全国ハンゼン氏病療 29

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養所患者協議会(全患協)」に改称する(なお会の名称は 1983 年(S58)に「ハンゼ ン氏病」を「ハンセン病」に改称し,1996 年(H8)には「全国ハンセン病療養所入 所者協議会(全療協)」に改称される)。名称の問題について全療協編の『復権の日 月』(2001)には次のように述べられている。「らいという病名には古くからの, 忌わしい,因襲的な観念がまつわりついている。らいという名称には,患者が社 会的にさげすまれ,差別されてきた歴史的な実態が反映されている。不治,業病, 天刑病,なりんぽう,かったいぽう等,数多くの俗称がまた,らいへの恐怖を増 幅させてきたし,国による強制隔離撲滅政策に基づく『無癩県』運動の患者狩り など,ハンセン病に対する偏見と恐怖を根拠あるものとして国民の意識に徹底さ せた。」「人人は『らい病』ではなく,なぜ『ハンセン氏病』でなければならない のか,考えることによって正しい認識に向かって少しでも近づくであろうし,考 えるきっかけになれば,病名変更の訴えも決して無意味ではないはずであった。」 と述べている。国際らい学会は,すでに 1949 年(S24)に,「レプラ(lepra)」の名 称を菌の発見者に由来するハンセン病(Hansen’s disease)に変更していた。しかし 厚生省は「癩」を「らい」と修正しただけであった。 結果的に,いくつかの紆余曲折を経て,1953 年(S28)3 月に「らい予防法」は原 案どおり可決した。全患協の要求を取りこんだ9項目の付帯決議がつけられたも のの,退所規定のない強制隔離法である「癩予防法」をそのまま継承した法が制 定されたのである。 以降,人権無視の絶対隔離法である「らい予防法」を撤廃したいという願いと 「らい予防法」の付帯決議を根拠にしてこそ成立する療養所内の生活水準向上へ の思いとが,入所者の心の中で交錯する状況が続いていくのである。全患協は, 1954 年(S29)以降,付帯決議の実施をめぐり国との間で陳情・折衝を繰り返し,療 養所での生活は少しずつ改善されていく。しかしそれでも国は積極的に改善を実 行したわけではなく,1971 年(S46)から全患協の中央執行委員になりその後8年間 30

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事務局長務めた鈴木貞一は「1つ1つの改善が闘いでしたね」と話している。そ して同時に、「らい予防法」を寄り拠にして「闘う」ことの矛盾を次のように話し ている。「生活レベルの改善を勝ち取って喜んでいた時,ある記者の言った『檻の 中のよろこび』ということばは忘れられない」。国は療養所内の生活環境の改善に は対応しても,人間としての尊厳に関わる隔離法自体を見直すことはなかったの である。そして 1996 年(H8)の「らい予防法の廃止に関する法律」が制定されるま でに,さらに 40 年余の年月が流れたのである。 ちなみにプロミン以降,より有効な治療薬が開発され,在宅での投薬治療が可 能にするはずであった。しかし「らい予防法」によりハンセン病の治療は療養所 でしか受けられないために,患者は入所せざるをえなかったのである。またその 他の病気や怪我であってもハンセン病である(あった)がゆえに外の病院で治療 を受けることは難しく,外出制限や退所等が運用上厳格ではなくなってきても, 結局は療養所を離れることはむずかしかったのである。哀切と怒りを込めて「ら い予防法」の非人間性を浮かび上がらせている島比呂志の小説『海の沙』は、こ のあたりの事情を背景にしている。 退所への支援・生活保障がないまま、病気を隠して社会の差別・偏見におびえ ながら生活することの苦しさが退所をためらわせる大きな要因であったことはい うまでもない。 しかしそうした本質的な問題を抱えたままではあったが,戦前やプロミン以前 の非人間的な状況にくらべると,療養所での生活そのものは少しずつ改善されて いった。 1955 年(S30)には入所者の高等学校が長島愛生園に新良田高校(邑久高校新良田 教室)として開校する。第1期生は全国の療養所から 56 名が入学した。新良田高 校の開校は入学した生徒だけでなく,療養所の中で教育の機会を得られずに年を 重ねた入所者にとっても希望を感じる出来事であった。しかし全国各地の療養所 31

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から愛生園に向かう生徒は「お召し列車」で移送され,教壇に立つ教師は予防着 に身を固めた姿であった。「お召し列車」での移送は 1959 年(S34)まで続いた。卒 業後の進路などむずかしい問題もあったが、『復権の日月』によれば、新良田高校 は 1987 年(S62)に 29 期生の卒業をもって閉校するまでに 307 名の卒業生を送りだ し、卒業後出身療養所に戻ってそこにとどまっている割合は 27 パーセント(2001 年現在)である。 患者作業の返還は,もともと療養所の運営そのものが患者作業に依存して成立 していたため,返還する作業に対して職員が配置できなければ療養所生活が立ち 行かなくなる。そのため一気には実現せず、過渡的に患者が作業を続ける場合の 正当な賃金の要求も含めて,各園の事情に応じて,返還職種についての自治会と 施設の合意を重ねながら進められていった。しかし職員への返還には新たな雇用 と賃金の予算措置が必要であり,簡単には進まなかった。1950 年(S25)から始まっ た病棟看護,不自由舎の付添の職員への切り替えは,全ての園で完了するまでに 10 年の年月がかかっている。 住環境については,1975 年(S50)頃になると,居住棟の整備が進み,夫婦2部屋 制,独身舎の個室化が実現していく(逆にみれば、高度経済成長に沸く日本の中 にあって、療養所では 1970 年代後半に至るまで雑居生活が続いていたのである。) 40 歳代になってやっと個室に暮らせるようになったという入所者も少なくない。 また老朽化した病棟や治療棟も更新築され,医療センター棟が完成していく。さ らに藤楓協会の斡旋により日本船舶興振会や日本自転車興振会,郵政省(お年玉 付き年賀はがき)の資金補助を得て,公会堂や福祉会館,面会人宿泊所,盲人会 館などがつくられていき,また社会交流用バスが購入される。バスは里帰りやレ クリエーションに利用され,長く閉鎖された生活の中にいた入所者は療養所の外 に出る機会をもつことができるようになった。 1987 年(S62),17 年間という長い要求運動と計画作成の月日を経て邑久長島大 32

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橋が完成した。海で隔絶された島の療養所長島愛生園と邑久光明園が,対岸の邑 久と陸路でつながったのである。それは,長く隔離されていた療養所と社会とを つなぐ橋であった。入所者はこの橋を「人間性回復の橋」として祝った。 この後,1987 年 (S62)に療養所長連盟がらい予防法の改正要請書を,また 1991 年(H3)に全患協が改正要請書を厚生大臣に提出されたが,全体としては,やっと 人間らしい生活水準が可能になった福祉的措置が法の改正によって後退するので はないかという心配から,大きな動きにはならなかった。 そして 1994(H6)になって,厚生省医務局長を退官(1983 年(S58))し藤楓会の 理事長等をしていた大谷藤郎が,らい予防法を廃止し在園者の処遇は今までどお り保障するという内容のらい予防法廃止のための提案(大谷見解)を発表した。 かつて厚生省の要職にあって「らい予防法」以降の療養所の生活改善に尽力した 大谷の影響力は幅広く,事態は「らい予防法の廃止に関する法律」(1996 年(H8)) に向かって動き出すことになるのである。 これ以降の経過は他書にゆずることにしたい。 <引用文献> ①牧野正直,2007,絶対隔離政策の成立と世界の医学界からの乖離,大谷藤郎監修・ 牧野正直他編,総説現代ハンセン病医学,東海大学出版会,P434 ②牧野正直,2007,同前,P438 ③解放出版社編,2001,ハンセン病国賠訴訟判決――熊本地裁[第一次~第四次],P254 ④東北新生園入園者自治会編,2003(1997初版),忘れられた地の群像――東北新生園 入園者自治会40年史,P150 ⑥栗生楽泉園患者自治会編,1982(S57),風雪の紋――栗生楽泉園患者 50 年史,p189 ⑦全国ハンセン病療養所入所者協議会編,2001,復権の日月,光陽出版社,P243 33

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⑧中山秋夫,2002(1998 初版),句集 一代樹の四季,P78 ⑨藤野豊,2003,解説,ハンセン病問題資料集成<戦後編>第1集,P1 ⑩山本俊一,1994(1993 初版),日本らい史,東京大学出版会,P268~271 ⑪全国ハンセン病療養所入所者協議会編,同前,P73~74 ⑫島比呂志「海の沙」,大岡信他編,2002,ハンセン病文学全集 第3巻 小説3, 皓星社 ⑬全国ハンセン病療養所入所者協議会編,同前,P182 34

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第3章 身体の病としてのハンセン病

治療法がなかった時代,ハンセン病は慢性的に進行しながら皮膚症状(斑紋・ 結節など)や感覚麻痺,神経の痛みや発熱,顔や手足の変形・機能の障害,視力 障害等をもたらす苦しみの多い病であった。現在の国立療養所の入所者は,ハン セン病そのものは癒えている元患者であるが,身体へのダメージが後遺症として 残っている人は少なくない。その後遺症から病のつらさをうかがうことができる が,聞き取りの場面での,元患者の淡々とした話ぶりは当時の苦悩を感じさせな いほどさりげないものであったり,あるいは病の苦痛についてはあまり触れずに 話が進むことも少なくない。それゆえ元患者が生きた人生の重さを感じ取るには, 病としてのハンセン病がもたらす苦痛についてある程度知識を持っていることが 必要であると思われる。したがって,以下に症状を中心に病気としてのハンセン 病を概略しておきたい。 1.症状と病型分類 ハンセン病は結核菌と同じ抗酸菌に属するらい菌によっておこる慢性の感染症 である。らい菌の毒性は極めて低く,感染しても発病までの潜伏期間は 10 年以上 もあることが多く,また発症することはまれである。同じ抗酸菌の結核菌が肺と いう重要臓器に寄生して直接命を脅かすのに比して,らい菌は 30~33 度が至適温 度であるため温度が高い内臓ではなく,皮膚や末梢神経,目・耳・鼻・口・咽喉 の粘膜など体表に近い低温部に寄生する。そのため生命に直接影響せずに慢性の 経過をたどるが,皮膚症状は容姿をそこない,神経症状は激しい痛みや手足の変 形・機能の喪失といった後遺症をもたらすつらい病である。 発症は,手足や顔あるいは全身に現れる皮膚症状(斑紋や結節などの皮疹)や, 神経症状(やけどや傷を負っても痛みを感じないといった感覚麻痺など)で気づ 35

参照

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