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『春を待つ心』と「十九歳」(『深い淵から』所収)

ドキュメント内 第1章 本研究の視点と目的 (ページ 45-65)

この章では,療養所の生活の中から生まれた2人の少女の生活綴り方・生活記録を 検討していきたい。とりあげるのは、松山くに著『春を待つ心』と旗順子「十九歳」

(『深い淵から』所収)である。

1.『春を待つ心』

1)川端康成の序文にみる松山くに

『春を待つ心』は,国立ハンセン病療養所星塚敬愛園で18歳の命を閉じた松山 くにが,死の直前の約2年間に書きとめた生活綴方集で,44篇の作品が収録されて いる。

くには,1927年(S2)に奄美の徳之島で生まれた。10歳のときにハンセン病を発 病し,尋常小学校4年生で登校を禁じられた。その2年後(1939年(S14)),12歳の 時に一人収容船で故郷を離れ,鹿屋(鹿児島県)の星塚敬愛園(1935年(S10)創設)

に入所した。そして入所7年目の1945年(S20) 1月,結核性脳髄炎のためこの世を 去った。

くにが残した生活綴方は,くにが慕っていた星塚敬愛園の看護師井藤道子の手 にゆだねられ,死後5年経った1950年(S25)に『春を待つ心』と題して出版された。

川端康成が序文を寄せている。その中で川端はくにの作品について次のように書 いている。長くなるが一部を引用する。

「 (前略)この松山くにさんの『春を待つ心』には,ライ病人の苦痛や悩悶はあ まり書いてない。自分のライ病のことも,まわりの人たちのライ病のことも,あ まり書いてない。そうしてこの子は自然も人間も素直なむしろ明るい愛情で見て いる。生の恩寵と幸福とを感じている。そこにこの子とこの書との意味があると 私は思う。この書の文章の成功は写生にあり,その写生は児童の綴方の写生であ る。この子は小学校を四年で止して療養所にはいり,18歳で死んだというが,文

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学好きの18歳には成長していない。11,2歳の文章,療養所に行く時の『故郷を離 れる』と17,8歳の最後の文章らしい『床の中で』とのあいだに,大した変化も成 長もない。この7年の少女期にいちじるしいはずの変化も成長も,『春を待つ心』

には目立って現れていない。そこにこの子とこの書との秘密があると私は思う。

『今死ねば子供で,今までの罪は神様がゆるして下さつて,天国へ行くかもわか らない。』と,松山くにさんは『床の中で』に書いているが,この子は子供の魂の まま死んだのだろう。ライと結核という病気のために,ライ療養所という世間離 れのために,あるいは読書と教育との変則のために,この子は年相応の成長はし なかつたのだろう。成長しなかつたから,この子の文章が悪いというのではない。

物足りないのは勿論だが,この子の幼げな明るげな文章のうちに,自らな生の悲 しいよろこびが流れている。この子が自然を,人間を,小さい動物や植物を,愛 とよろこびとでよく写したのは,この子がライ病の苦しみを負い,狭い療養所に 世間と隔てられていたからであった。(後略)」

また宮本百合子は「日本読書新聞」(1950年(S25) 4月12日号)で,川端の序文 について「この写生文集の本質をよく物語っている」とした上で,次のように書 評している。「(前略)しかし全体とするとどこか客観的なつかみかたの足りない 話しかたで書かれている。この少女にとって,療養所の生活が,精神年齢の成長 をおくらせたということは『春を待つ心』の「床の中で」と「故郷を離れる」を よみくらべると,はっきりわかる。12歳のとき書いた「故郷を離れる」の方が,

17,8歳でかかれたものよりも生活的であり描写に現実の重量がある。(後略)」

これらの序文もしくは書評には,事実誤認の部分がある。「故郷を離れる」が11,

2歳の文章とされている部分で,この体験は12歳の時のものではあるが書かれたの はもっと後のことのようである。星塚敬愛園入園者自治会自治会編『名もなき星 たちよ――星塚敬愛園入園者五十年史』(1985(S60))には『春を待つ心』につい て次のように記されている。「<春を待つ心>の出版に努力した元看護婦の井藤道

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子は,松山くにのよき理解者であり,その才能を支え励ました。この作品集は死 ぬまでの2年ほどの間に書かれたものである。」これによると、「故郷を離れる」は 12歳の時のことを書いてはいるが、実際に書かれたのは16歳から18歳の頃という ことになる。筆者は井藤に直接その点を確認したが,『春を待つ心』の文章の全て は,やはりそれくらいの間に書かれたものだということであった。つまり「故郷 を離れる」と「床の中で」との書かれた時期の差は,あったとしても1~2年くら いらしいということである。

しかしこのことは,2つの文章を11・12歳から17・18歳への変化として評する ことは不適切ということであっても,『春を待つ心』の文章全体が「文学好きの18 歳には成長していない」という指摘と齟齬をきたすわけではない。そして本章で 注目していきたいのはその点なのである。「文学好きの18歳には成長していない」

といわれる文章を書いたくにの実像に可能な限り近づいていく努力をする中で,

療養所という隔離の空間の中で過ごす思春期について考えてみたいからである。

そしてその視点からいうと,「この子は子供の魂のまま死んだのだろう」「幼げな 明るげな文章のうちに,自らな生の悲しいよろこびが流れている。この子が自然 を,人間を,小さい動物や植物を,愛とよろこびとでよく写したのは,この子が ライ病の苦しみを負い,狭い療養所に世間と隔てられていたからであった。」とい う川端の指摘は心に迫るものがある。

ところで,くにの実像を尋ねていく前に,引用した川端の序文を考える上で興 味深いと思われる,川端とハンセン病文芸,特に北条民雄との関係を見ておきた い。川端と北条との関係は,川端の知名度から予想されるほどには知られていな いが,1934年(S9)に始まった。同年8月,当時35歳だった川端は,後に川端自身が ペンネームを北条民雄と命名する21歳の青年から手紙を受け取る。北条はその1年 前にハンセン病を発病し,公立療養所全生病院(現国立療養所多摩全生園)に入 院していた。この手紙を契機に北条は川端に師事することとなり,その作品は川

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端を通して『文学界』誌上に掲載されることになる。1936年(S11) 2月の文学界賞 を受賞した北条の代表作「命の初夜」は,原題「最初の一夜」を川端が改題して

『文学界』に掲載したものであった。12月には作品集『命の初夜』(創元社)が出 版され,北条は作家として世に知られることになったが、翌1937年(S12) 12月5日,

腸結核により24歳で世を去った。知らせを受けた川端は全生病院におもむき,葬 儀に立ち会っている。「その作家が死んだという,癩院からの電話は,12月の夜明 け前,ベルの音まで氷原の中でのように響いた。」という書き出しではじまる川端 の「寒風」は,生前の北条とのかかわりと葬儀の折の様子を題材としている。北 条の死の翌年,川端は『北条民雄全集上・下』(1938(S13),創元社)を編集・出 版している。

川端は生前の北条から66通の手紙を受け取りまた24通の手紙を送っているが、

その後角川文庫で出版された『命の初夜』(1955 (S30)初版)のあとがきに,北条 の文学について次のように書いている。「まだ不治の悪病であるばかりでなく,感 覚が麻痺し,精神が鈍弊し,肉体が腐爛する最後の予想は北条民雄の絶え間ない 不安の底にあった。(中略)発病してから癩院へ自分を埋伏するまでには,苦悩の 彷徨と死活の惑乱を通ったことは言うまでもない。自殺は終始北条民雄の念頭を 去来していた。しかし自殺の思いが病衰と虚無とに沈まず,絶望がかえって精神 を強めたのが北条民雄の文学であった。」

川端が初めて手紙を受け取った時の北条は21歳,くにが没した年齢は18歳。年 齢の差はあるとしても北条の文学に深く関わっていた川端にとって,『春を待つ 心』における病の位置は北条に見られるものとは大きく異なるものに映ったと思 われる。そのことは,川端に『春を待つ心』もつ明るさと幼さをいっそう強く感 じさせる背景になっていたのではないかと思われる。

ところで,北条もくにも治療薬プロミンが日本で使用される以前にその生涯を 閉じた点では共通している。しかし病による生活への具体的な影響は大きく異な

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っていた。症状の重さの点では,くにの病状は入所した時すでに軽くはなく1目 でそれと判る症状が出ていた。くに自身が『春を待つ心』の中の「故郷を離れる」

で近所のおばさんのことばとして次のように書いている。「くにちゃんの病気は,

すぐになおるよ。顔だけで手足 そんなに出ていないからね。外に丸く飛び出し ている豆がとれヽば中にはないからね。」一方,北条の症状は軽く,川端が先述の 文庫本のあとがきの中で「少し眉が薄く皮膚の色が悪いくらいのことで,目立っ て癩者らしいところはなかった。」と書いているように,生前の写真を見ても病気 のことを知らなければ見過ごしてしまうほどの症状しかでていない。また子ども で入所したくにと,すでに結婚もしていた北条(発病により離婚)とでは,病に よってもたらされた挫折感・喪失感・絶望感の自覚に質的な違いがあったと想像 される。より本質的には2人の個性や文学的資質の違いに問題があるといえよう が,具体的な影響の違いが病への態度や文章に違いをもたらしていたであろうこ とは想像される。

2)少女舎の友だちから見た松山くに

くには入所すると少女舎に入り,療養所内の学園(敬愛学園)に通うことにな った。当時の敬愛園は子ども舎が2棟完成したばかりで,1棟が少年舎,もう1棟が 少女舎であった。各棟は12畳半の室が4室あり,およそ15歳未満の子どもたちが1 室に約8人で生活していた。少女舎では学園に通う少女たちが1・2号室に,学園に 通わない比較的年長の少女たちが3・4号室に入っていた。くには2号室に入った。

くにが通った敬愛学園は,当時開園3年目で,教師は園長が入所者の中から任命す るという形で運営されていた。先出の『名もなき星たちよ――星塚敬愛園入園者 五十年史』によれば,正規の授業は形だけでその空白を埋めるために文芸指導に 力を入れていたという。少女たちは園の図書館から『綴方教室』(豐田正子著)を 借りて読んでいた。くには誰よりも熱心にこの本を読み,やがてそれを導きとし

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