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〈論文〉初代伊藤忠兵衛と「伊藤外海組」小史(史料館新営10周年記念号)

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(1)

初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史

はじめに

宇佐美 英 機

 初代伊藤忠兵衛は、総合商社伊藤忠商事・丸紅の業祖として知られて          ︵1︶ いる。両社ともその社史において、安政五年︵一八五八︶に忠兵衛が母 方の伯父成宮武兵衛と他国への持下り商いを始めたことをもって、その 創業年次としていることは周知のことであろう。しかし、初代伊藤忠兵 衛のみならず二代目忠兵衛の商業・経営活動に関する現況の研究は両社 史に基づいてなされているが、その記述の当否について一次史料を利用 して追検証したものはほとんど見あたらない。これらのことについては、        ︵2︶ すでに別稿でも指摘したところである。本稿は初代伊藤忠兵衛の商業活 動を全面的に再検討する作業の一環として、忠兵衛が関わった貿易業の うち、﹁伊藤外海組﹂に焦点を絞り事実を確定しようとするものである。 本論に先立ち、これまで﹁伊藤外海組﹂についてどのような情報が提供 されているのか見ておこう。  資料1 ﹃在りし日の父﹄、私家版、一九五二年三月︵初版、一九三七     年五月︶   ■明治十八乙酉年︵紀元二五四五︶︵西暦一八八五︶     四十四歳、伊藤外海組を組織して支店を桑港に設置し米国向け     雑貨輸出を創む 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史 □︵二代目忠兵衛︶進歩的であったと周囲の人々から聞くがこれも  今から見れば少し無謀にちかい。明治初年の合言葉のま・に浸潤  した文明開化的行動を鵜のみにして、英独に人を派して毛織物の  輸入をはじめたのが明治十九年、即ち私の生れた年である。自分  も渡航したかったが子が生れるのに後ろ髪を引かれて思ひ止った  らしい。 ◆︵田中良蔵︶先代には又一家の見識があって輸出貿易を盛んなら  しむるには一方輸入の途を大いに開くべしとなし、我国運を洞察  して海外貿易を開拓し益々旺盛ならしむる為め、その指導の必要  を痛感され十八年外海鉄次郎氏との組合で伊藤外海組を組織して  本店を神戸に支店を米国桑港に設置されました。その人員は海外  出張主任として外海鉄次郎氏桑港に渡り、支店詰鶴谷忠五郎氏  ︵昭和十一年物故、神戸商工会議所議員・貿易商鶴谷商店主入︶  内地仕入主任上柳幸吉虐遇で主として米国向輸出を営むと共に翌  十九年には瓦町に伊藤羅紗店を新設し、本店より上田弥七氏を支  配人として転任せしめ、一面刀根福太郎・西村嘉七の両人を英  国・独乙へ渡航せしめて直輸入を試みられたのであります。 ◇︵古川鉄治郎︶十八年には米国向雑貨の輸出を開業して海外貿易  を実際に進めることに努力されてをります。これは伊藤外海組の  名義の下に外海鉄次郎氏との組合経営であって、明治二十二年夏  暮外海氏はサンフランシスコに渡って斯業の発展を講ぜられ、店  員に鶴谷・上柳︵甲賀郡の人︶等数名あったが、のち外海氏が健  康を害ねられたので二十八年店員鶴谷忠五郎氏にこの事業を譲ら  れました。 ご二

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 資料2 ﹃伊藤忠商事100年﹄、一七一一八頁、一九六九年  ・忠兵衛ワ アメリカ ムケ 直輸出商ト シテ、明治18年︿18   85>伊藤外海組ヲ神戸市二創立シタ。彼ノ オイ 外海︿ソト   ウミ﹀鉄次郎氏トノ組合組織デ アツタ。  ・彼ワ コレラノ パイオニア ノ 仲間入リヲ シテ、経験ノ   ナイ直貿易二 苦心ヲ カサネタ。後年 彼ガ“貿易ト 紡績ワ   ホントニ ムズカシイ:”トモラシタ ヨウニ、コノ 直貿易ワ    ナカナカ 業績ヲ アゲル マデニ イタラナカッタ。  ・明治21年外海氏ト 店員ノ 鶴谷忠五郎ヲ ハジメテ アメリ   カ エ 派遣シタ。翌22年12月ニワ サンフランシスコ市ノ マ

  ーケット街トカーネィ街トノカドニ支店ヲヒライタ。外

  海鉄次郎氏ヲ 主任ト シ、店員ワ 5∼6名デ、主ト シテ   絹ハンカチ 花ムシロ ナド 雑貨類ヲ トリアツカッタ。コノ    直輸出業ガ 彼ノ テガケタ 最初ノ 海外進出デ アッタ。   伊藤外海組ノ 営業ワ 明治28年マデ ツズイタ。シカシ 外海   氏ノ 病気ノ タメ、アトヲ 鶴谷忠五郎ニ ユズッテ 同年   組合ヲ 解散シタ。 資料3  ﹃丸紅前史﹄、二四−二五頁、一九七七年  ・忠兵衛の貿易への執心はきわめて強いものがあった。   明治18年、彼は親戚筋の外海鉄次郎の案を入れて、雑貨の対米輸   出をめざして伊藤外海組を組織し、神戸に本店を設けた。21年に   は外海と新採用の鶴谷忠五郎とがサンフランシスコに出張、翌年、   同市マーケット街とカーネイ街の角に開店、日本から絹ハンカチー   フや花むしろなどを輸入した。その後、外海の病気により、組の 三二    事業を鶴谷に譲り、忠兵衛も関係を絶った。28年のことである。  資料1は、昭和十年︵一九三五︶年に初代忠兵衛の三十三回忌が開か れて後、記念に編まれた冊子からの抜粋であるが、■□印は﹁小伝﹂か ら、◆◇印は﹁先代を偲ぶ会﹂︵昭和十﹁年﹁月の追憶記︶での発言で ある。﹁田中良蔵﹂は、明治十年︵一八七七︶十月に本家、翌月に大阪 本店に入店した人物で、当時は別家となっていた。﹁古川鉄治郎﹂は、 忠兵衛の三方の甥にあたり、明治二十四年五月に大阪本店に入店した。 当時は丸紅商店の専務として、実質的経営に従事していた。資料2・3 は、社史の関連部分からの抜粋である。  さて、資料1∼3を見れば明らかであるが、刊行年次が古いものほど 内容が豊かであるとともに、資料1をもとに2・3の社史は書かれたも のと推測できよう。右に掲げた資料が、これまで利用された﹁伊藤外海 組﹂の典拠資料である。もっとも、﹃在りし日の父﹄は、私家版でもあ り実見した人は限られているであろう。それはさておき、右の資料では、 ①﹁伊藤外海組﹂は、明治十八年に設立された、②本店は神戸に、支店 はサンフランシスコに設置されていた、③営業は二十八年まで続き、外 海鉄次郎の病気により鶴谷忠五郎に譲り解散した、④絹ハンカチや花莚 などの雑貨を輸出した、ということが記されている。  しかし、これらのことは根拠となる史料が示されているわけではなく、 いわば記憶をもとに語られたことなのである。もちろん、何の根拠もな く話されたり記述されたとは思わないし、後に示すように依拠したと思 しき資料も存在する。したがって重要なことは、①∼④に上げたことな どが事実なのかどうかを確定することである。また、少なくとも右の記 述だけでは、﹁伊藤外海組﹂の営業の実態は数字的にも全く判明してい

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ないのである。これらの諸点を検証することは、伊藤忠兵衛家の商業・ 経営史を解明するにとどまらず、明治二十年代の日米貿易史研究を進め る一助ともなると思われるため、限られた史料を紹介しながら究明を進 めることにしたい。 ﹁伊藤外海組﹂設立前史  前掲の資料によれば、明治十八年に伊藤忠兵衛と姉﹁せい﹂の息子外 海︵田附︶鉄次郎の共同事業として﹁伊藤外海組﹂が神戸に本店を置き 設立されたとされている。しかし、管見の範囲では、それを実証できる 史料は伝来していない。結論を先取りするならば、﹁伊藤外海組﹂が明 治十八年に設立されたとするのは正鵠を射ていない。そこには誤った伝 承がなされたといえる。          ︵3︶  ﹁伊藤忠兵衛家文書﹂のなかに、表紙に﹁明治廿四年九月 記録帳  伊藤外海組﹂︵以下﹃記録帳﹄と略記する︶と記された冊子が伝来し ている。この冊子には、明治二十二年三月∼二十八年七月の記事が認め られており、﹁伊藤外海組﹂に関わっては最も詳しい内容を有している。 注目されるのは、表紙に﹁伊藤外海組﹂と書かれているのが、貼り紙で あるということである。この貼り紙の下には、明治二十四年九月に起筆 された時点の文字があり、そこには﹁日本雑貨貿易商会﹂と認められて いる。また、第一丁表の第一行目、すなわち書き出しは﹁日本雑貨貿易 商会 記録帳﹂である。この事実から容易に推測できるように、﹁伊藤 外海組﹂には前史があり、それは﹁日本雑貨貿易商会﹂という会社なの である。この一事を見ても、明治十八年時点で﹁伊藤外海組﹂という名 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史 称の会社︵組合︶は存在しなかったのではないかと判断できよう。それ では、一体この﹁日本雑貨貿易商会﹂とは、どのような会社であったの だろうか。明治期の日米貿易史研究の中で周知の会社なのか、それとも 未知のものであるのかについて知識を持ち合わせていないので、ひとま ず究明を進めることにする。  右の﹃記録帳﹄の記述にしたがえば、﹁日本雑貨貿易商会﹂の創設に も前史が存在した。それは﹁日本雑貨商社﹂という名称の会社である。  ﹁日本雑貨商社﹂は、明治二十二年三月、松本善七︵神戸︶・井上忠 次郎︵京都・神戸住︶・西田宗四郎︵京都伏見︶・森伊作︵横浜︶・守 安瀧三郎︵横浜︶・高橋竹二郎︵横浜︶らの合資により組織された会社 であり、同年九月にサンフランシスコに支店を開設している。その社員 としては、植松貞二郎・大竹甲子・松嶋正之等の人物がいた。この会社 は社名から推して、日本雑貨を輸出する目的で組織されたものであろう。 しかし、翌年二月に至り、株主の不和が生じ、横浜の株主は退社してし まう。これらの人々の持株のうち五〇株を払込額の丁掛︵一株払込五〇 円︶で購入し、三〇株を忠兵衛が、二〇株を外海が負担した。それゆえ、 明治二十三年二月時点で、忠兵衛と外海は﹁日本雑貨商社﹂の株主とし て貿易業に関わりを持ったことは明らかであり、これが現在史料的に確 認できる最初の出来事である。これをうけて五月に外海は、同社の﹁監 督役﹂としてサンフランシスコ支店へ出張したようである。したがって、 資料1・2・3に記されている外海の初渡米の年次は疑問である。  ところが、翌二十四年春に同社は資本金の不足を生じ、加えて株主の ﹁葛藤﹂により解散の危機を迎えるようになる。そこで外海は六月に帰 朝し、忠兵衛と協議のうえ、サンフランシスコ支店を買い入れることに 三三

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 したのである。これに関わる史料を次に掲げよう。    史料①      契約証書正式謄本          京都府京都市下京区第参組観音堂町拾漆番戸、当          時兵庫県神戸市北長狭通陸丁目捌拾伍番屋敷住          居、平民貿易商        井上忠次郎       緯拾漆年          丘料率県神戸市元町通陸丁目弐阻捌拾番屋敷住居、          平民貿易商        松本善縁       伍拾参年          全県全市栄町通陸丁目弐拾壱こ口壱屋敷住居、平          民貿易商       右代理人   赤木益次       参拾定年          京都府紀伊郡伏見町字紙子屋拾番戸、当時全府京          都市下京区東洞院通漆条下ル塩ノ小路町回騨拾番          戸寄留、平民勲位        西田宗四郎       参拾捌年          滋賀県犬上郡豊郷村大字八目壱番戸住居、平民呉          服商        伊藤忠兵衛 三四       伍拾年        ︵ママ﹀         全県栗田郡葉山村字辻村拾犀番屋敷、当時兵庫         県神戸市元町通参丁目鷺阻重量伍番屋敷寄留、平         民貿易商        右代理人   上柳幸吉       弐拾騨年         丘ハ庫県神戸市橘通弐丁目拾捌番屋敷住居、士族工         業        立会人    木村専一       参拾弐年拾ケ月 右井上忠次郎及松本善七代理委任状ヲ所持セル赤木益次、西田宗四 郎並二伊藤忠兵衛代理委任状ヲ所持セル上柳幸吉ハ、明治弐拾騨年 捌月弐拾騨日、公証人奥座市郎右衛門役場二於テ木村専一ノ立会ヲ 以テ左ノ契約ヲ締結ス 第壱松本善七、西田宗四郎、伊藤忠兵衛ハ其組合二係ル日本雑貨   商社ヲ退キ、左記ノ方法二依リ井上忠次郎へ引渡ス事 毒魚 右参名節各其所有セル株券即出資ノ権利及ヒ其他右商社二対   スル﹁切ノ権利ヲ無償ニテ井上忠次郎へ譲与セシ事    但、右参名ヵ所有ノ株券及置株、左記ノ通     一酌補翼株  松本善七     一陸墨株   西田宗四郎     一垂直株   伊藤忠兵衛     一陸拾陸株  置株 第参 右参名ハ其商社へ対スル権利ヲ井上忠次郎へ譲与セシニ依

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  リ、井上忠次郎幽明治弐拾騨年漆月弐拾日野私署計算表ノ内、   桑港支店勘定ヲ除キ其他総テノ債権ヲ獲得シ債務ヲ負担スヘ   ク、依テ右参名ハ此商社二係ル従前ヨリノ総テノ債務二関係ナ   キ事 第騨 井上忠次郎ハ在横浜森伊作・守安瀧三郎・高橋竹二郎ノ参名   へ対シ自分及右西田・松本ヨリ曽テ差入レアル預り証書陸通ノ   債務ハ米国桑港支店ヲ外海鉄次郎へ売渡シタル代金捌肝円及其   他ノ資材ヲ以テ弁済ヲ為シ、西田・松本両名ノ責任ヲ免カレシ   ムベク、依テ右両名署名捺印ノケ所ヲ切取リ、右両名へ相渡ス   ヘキ事ヲ約諾セリ 第伍 右唐名力此商社ヲ退キタル事ヲ地方長官へ連署ヲ以テ届出ツ   ル事 第陸 右参名ハ井上忠次郎力従前ノ如ク社号ヲ続用スルト否トニ付   異議ナキ事 右関係人へ露呈カセタル処、一同相違ナキ事ヲ認メ、左二署名捺印 ス        井上忠次郎        赤木益次        西田宗四郎        上柳幸吉        木村専一        ︵後略︶  史料②    商号及営業売買証書謄本 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史 滋賀県近江国神崎郡八条村字佐生番地不詳、 当時大阪府大阪市東区本町弐丁目漆拾参番屋敷寄留 平民貿易商        買主  外海鉄次郎       弐拾留年 京都府京都市下京区第参組観音堂町拾漆番戸、 当時兵庫県神戸市北長狭通陸丁目捌拾伍番屋敷住居 平民貿易商        売主  井上忠次郎       騨粗裁年 兵庫県神戸市元町通陸丁目弐阻捌拾番屋敷住居 平民貿易商        売主  松本下拙       伍拾参年 全県△⊥市栄町通陸丁目弐拾壱番ノ壱屋敷住居 平民貿易商      右代理人  赤木益次        参拾漆年 京都府紀伊郡伏見町字紙子屋拾番戸、 塁塞府京都市下京区東洞院通漆条下ル塩ノ小路町陪 蝉拾番戸寄留 平民扇商        売主  西田宗四郎       参拾捌年 三五

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号        滋賀県犬上郡豊郷村大字八目壱番戸住居        平民呉服商       士冗主   伊藤忠丘ハ衛       伍拾年        △⊥県栗田郡葉山村字辻村拾蝉番屋敷、        当時兵庫県神戸市元町通参丁目騨陪国母伍番屋敷寄留        平民貿易商       右代理人  上柳幸吉       弐拾騨年        兵庫県神戸市橘通弐丁目拾捌番屋敷住居        士族工業        立会人  木村専一       参拾弐年拾ケ月 右、外海鉄次郎及井上忠次郎・松本三七代理ノ委任状ヲ所持セル赤 木益次、西田宗四郎・伊藤忠兵衛代理ノ委任状ヲ所持セル上柳幸吉 ハ、明治弐拾騨年素月弐拾騨日、公証人奥座市郎右衛門役場二於テ 木村専一ノ立会ヲ以テ、左ノ契約ヲ締結ス 第壱 井上忠次郎、松本善七、西田宗四郎、伊藤忠兵衛ハ日本雑貨   商社ノ支店タル米国桑港日本雑貨商社支店ヲ左二列記ノ事項包   含シテ代金南扇円ニテ売渡シ、外海鉄次郎ハ之レヲ買受クル事   ヲ約諾セリ  一商号   ジャパン キユリョウ テレヂング コンパニー        冨9p  Oo二〇   日轟虫躍  Oρ  一営業所  陪弐拾陸番 カアネー スツリート 桑港 三六         旨9     固需要団 ωけ     Q。9。β牢雪。一ω8   一営業 日本雑貨   一明治弐拾騨年︵肝捌阻玖拾壱年︶弐月拾伍日ノ計算資産高壱万    犀肝参阻参拾壱円   一右資産高中ニハ営業帳簿在荷債権其他該店二属スル総テノ資産    ヲ包含ス、但従前ノ債務モ包含ス  第弐 売主騨名ハ右売渡シタル支店ハ買主力直二所有トシテ処分ス    ルニ異議ナキ事ヲ認諾セリ  第参 右売買代金既二授受済ナル事ヲ申述セリ  第騨 右支店露里スル雇人給料其他損益勘定書、本年弐月拾伍日ヨ    リ買主ノ関係ニシテ、売主二於テ関与セサル事  第伍 右商号ヲ用ユルト用イザルトハ買主勝手ニシテ、売主二於テ    異議ナキ事  第陸 右弐月拾伍日立後鼻本店ト右支店トノ問二於テノ取引ハ、此    売買契約以外トシテ計算ヲ立ツル事  右関係人へ百聞山市タル処、一同相違ナキ事ヲ幽幽左二署名捺印ス        外海鉄次郎        井上忠次郎        赤木益次        西田宗四郎        上柳幸吉        木村専一         ︵後略︶ 右の史料①・②は、明治二十四年八月二十四日に神戸市多聞通二丁目

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二四八番地の奥座市郎右衛門公証人役場で作成された契約書の謄本であ るが、この時、いったん松本善七・西田宗四郎・伊藤忠兵衛が日本雑貨 商社にかかる全ての権利を放棄して井上忠次郎に無償で譲与したこと、 これと同時にサンフランシスコ支店を八千円にて外海に売却することで 合意したことが分かる。そのさい、外海が支店の商号・営業権、および 資産を継承したことが明らかであろう。  さて、右のサンフランシスコ支店の購入をうけて、九月十七日に次の ような証文が作成されたようである。      ︵4︶    史料③   今般伊藤患兵衛・外海鉄次郎・出路久右衛門ノ三全強、全日本雑貨   商社桑港支店ヲ買取、合資会社ノ組織ヲ以テ貿易業ヲ営ムニ付、左   ノ条約ヲ仮二締約成シ置キ、実地ヲ試ミタル後、更二本規約ヲ定ム   ルモノトス、但シ明治廿五年三月ヲ以テ本規約締結ノ期限トス   第壱条 当組合ノ名目ヲ日本雑貨貿易商社ト称へ、位置ヲ北米桑港      カアネー街百弐拾六番地トス、日本事務所ハ大阪市瓦町四丁      目拾七番地声置ク   第弐条 当社ノ資本金額ヲ金壱万円ト定ム        此内八千円ハ旧日本雑貨商社桑港店肝属スル資産日本銀        貨壱万四千三百三十円︵千八百九十一年二月十五日、桑        耳翼ノ勘定替︶ヲ金八千円二買取タル支払金高ト、外二        金弐千円ヲ新二出金シタルトヲ以テ成立タル金額ナリ   第参条 出金ノ割合左ノ通ナリ        金四千五百円  伊藤忠兵衛        金四千五百円  外海鉄次郎 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史        金壱千円    出路久右衛門   第四条 利益配当ノ権利ハ出金単二相応スルモノナリ   第五条 商業ノ方針勘定配当ノ方法等、協議ヲ以テ定ムルモノトス   第六条 売買二係ル実務ハ都テ外海鉄次郎担任ス、日本二於ル金銭      取扱其他伊藤忠兵衛是ヲ扱フ   第七条 計算ハ毎年二月廿八日桑港二於テ執行シ、直チニ日本へ廻      付スルモノトス          ︵ママ︶   第八条 外海鉄二郎ノ年俸ヲ米金六百弗ト定ム、以下雇人ノ給料      ハ外海鉄次郎ノ権限ヲ以テ定ムルモノトス   此証書文三通ヲ認メ、各自壱通ヲ所持ス     明治廿四年九月十七日    大阪瓦町十七番地中於テ        伊藤忠兵衛︵印︶        外海鉄次郎︵印︶        出路久右衛門︵印︶  右の史料によれば、﹁合資会社ノ組織ヲ以テ貿易業ヲ営ム﹂にさいし ては、①﹁日本雑貨貿易商社﹂という名称にすること、②﹁日本事務所﹂ は大阪の伊藤西店とすること、③資本金は一万円︵実際の資産は一万六 千円余︶、④出資者は忠兵衛・外海・出路久右衛門︵忠兵衛の縁戚︶の 旧名で、出資高に応じた利益配当を受けること、⑤海外での実務は外海 が行い、忠兵衛は日本で業務に関わること、⑥年次決算は二月二十八日 日にサンフランシスコで行うこと、⑦外海の年俸は六〇〇ドルとするこ となどが仮に確認されている。  史料②作成時点で、日本での商品仕入れは井上羊次郎に委託されるこ とになっていた。また、社員として雇用したのは大竹甲子・鶴谷忠五郎 三七

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 などであったが、十一月に大竹が金員携帯で逃亡したため、その後に福 本末太郎を雇い入れている。そして、十二月二十一日には、サンフラン シスコ店を第四ストリート三四番地に移転するとともに、西田弥一を雇 い入れている。福本以降の従業員は、伊藤忠兵衛の大阪の各店の奉公人 とは別の、サンフランシスコ支店限り、おそらくは外海の権限による雇 用と思われるが、どのような経緯で採用したのかは分からない。  ともあれ、翌二十五年︸月三十一日には第一回の勘定清算が実施され、 そこでは﹁資産之部﹂として︸四三五六ドル三﹂セントとあるが、この うち﹁売掛代金五拾九名﹂分が四九二八ドル四三セント︵三四%︶、﹁持 品元価ヨリ八掛ノ金高﹂が七〇一四ドル一九セント︵四九%︶、﹁伊藤忠 兵衛当座預ケ﹂が九八九ドル三四セント五︵七%︶であった。﹁負債之 部﹂では、﹁利益金﹂ 一六一〇ドル七三セント︵一一%︶と勘定され、 ﹁滞貸準備金﹂五〇〇ドルが差し引かれ、一一一〇ドル七三セントが ﹁金貨﹂として示されている。この﹁金貨﹂は﹁銀貨七十五ノ割﹂で計 算され、一四八○円九七銭が﹁純益金﹂として決算されている。売掛 金・在庫品の比率が高いものの、一応の純益を上げたことが分かる。外 海はこの清算表を携え四月三日に帰国し、七月二十四日に﹁日本雑貨貿 易商会﹂の本規約が制定されたが、﹁商社﹂という名称は﹁商会﹂に改 められることとなった。    史料④      日本雑貨貿易商会規約   第壱条 当商会ハ日本雑貨貿易商会ト称ス、本局ヲ大阪市東区本町      三丁目第八拾弐番地二設ケ、支店ヲ北米合衆国カリホルニヤ      州桑港第四街三拾四号地二年置ス、支店ノ名称ヲ︵冒℃嘗 三入    0霞δ↓毒9口σqOo︶ト称ス 第弐条 当組合ハ伊藤忠兵衛、外海鉄二郎、出路久右衛門ノ三半平    資ヲ以テ組織シタルモノナリ 第三条 当商会ノ資本金ハ壱万五千円ナリ、各自負担ノ額左ノ通      金六千七百五拾円  伊藤忠兵衛      金六千七百五拾円  外海鉄次郎      金壱千五百円    出路久右衛門 第四条 資本金ノ増減、組合ノ解散、組合員ノ増減ハ三名ノ同意ヲ    経テ決行スルモノトス 第五条 当商会ノ目的ハ日本生産品ヲ米国へ輸出販売スルノ専業ナリ 第六条 当商会ハ投機類似ノ商業二関係スル事ヲ禁ス 第七条 商業上ノ方法、其他都テ当商会ノ事ハ、伊藤忠兵衛ヨリ大    体ヲ命令スルモノトス、外海鉄次郎ハ此主旨二遵ヒ当商会全    般ノ事務ヲ処理シ、一切ノ責二任ズルモノトス 第八条 当商会ノ計算ハ毎年一月三拾日桑港二於テ執行シ、計算書    ハ直二廻送スベキモノトス 第九条 計算法ハ持品ヲ八掛トシ、貸金二対シ其年度ノ見込ヲ以テ    相応ノ滞貸準備金ヲ成スモノトス 第拾条 利益金配当法ハ予メ左ノ通相定ム      拾分ノ六  資本金二対シ配当      拾分ノ一  積立金      拾分ノ三  役員賞与金 第拾壱条 役員ノ月給ハ毎年予算会議二於テ決定スルモノトス 第拾弐条 当組合本部ハ左ノ帳簿ヲ備置ス

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      日本雑貨貿易商会根帳

      記録帳

       但シ、伊藤忠兵衛是ヲ保監ス  第拾三条 当商会ハ毎年外海鉄次郎或ハ代理者ノ帰朝後︹春期︺三     拾日以内二組合会議ヲ開クベシ、会場ハ伊藤忠兵衛、田附     甚五郎ノ本宅ニテ開ク      時宜二業リ大阪ニテ開設スル事アルベシ   ︵ママ︶  第拾三条 会議ノ課目        一決算表ノ報告及説明       ︵ママ︶        二予算案 予算案ハ外海鉄二郎ヨリ提出ス         此項目書式ハ雛形二百準ス        雛形略ス   ︵ママ︶       ︵ママ﹀  第拾四条 決算表ハ会議ノ前日記録帳二騰写シ、以テ組合員ノ閲     覧二便ナラシムベシ   ︵ママ︶  第拾五条 予算案ハ組合員ノ同意ヲ得テ成立スルモノトス、然ル後         ︵ママ︶     記録帳二騰載スベシ   ︵ママ︶  第拾六条 此組合規約二修正又ハ更正ヲ要スル時ハ、組合員協議ノ     上決定ス 右之通決定シタル証拠トシテ各自記名捺印スルモノナリ   明治廿五年     七月十四日      外海鉄二郎︵印︶       伊藤忠兵衛︵印︶       出路久右衛門︵印︶ この本規約においては、概略以下のことが明らかである。①本店︵本 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史 局︶の住所が伊藤西店から伊藤本店に変わっている。②資本金が五千円 増資されたが、出資者は親族関係の三名に限られていた。③営業の目的 が﹁日本生産品ヲ米国へ輸出販売スル﹂ことにあると明示されている。 ④会社の統治は忠兵衛が行い、実務を外海が担当し、出路は出資を行い 利益配当を受けるだけの位置にある。⑤店卸し決算にあたっては、日本 からの輸入商品は﹁八掛﹂とし、﹁相応ノ滞貸準備金﹂をすると定めら れている。⑤は、相当数の債務者を抱えたまま営業を開始したことを推 測させるものであろう。この点については先の二十五年一月の精算でも 明らかであり、また、後述することにする。さらに、⑥利益金の配当率 が定められ、役員の給与規定についても定められている。そして、⑦作 成すべき帳簿と会議の﹁課目﹂が定められている。﹁第拾弐条﹂中の ﹃日本雑貨貿易商会根帳﹄は現存しないが、﹃記録帳﹄は伝来し、本稿で 用いている。  このように本規約を作成して貿易事業を本格化させたのであるが、翌 年六月十日に会社の名称を再び改める事態が生じている。それについて は、章を改めよう。 二 ﹁伊藤外海組﹂の設立と組織替え  ﹁日本雑貨貿易商会﹂は前述の規約をもとに営業されていたが、この 頃のサンフランシスコ支店の状況は、二十六年一月三十日に行われた精 算の後に催された宴の席で外海が行った挨拶が﹃記録帳﹄に留められて おり、その記述から様子を窺うことができる。 三九

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号  史料⑤ 私ハ是ヨリ少シク将来ノ方針二付テ陳述シタイト思ヒマスガ、是二       ︵ママ︶ 先ツテ昨年度ノ経歴ヲ略述致マス、吾社が昨年度之成蹟ハ非常ナ ル進歩ヲ現シタモノデアツテ、吾人ハ此点二向テハ大二満足シテ居 マス、此非常ナル進歩ヲ醸シタル原因ハ種々有マスガ、述テ見マス レバ先ツ三年来ノ経験二因テ基礎ノ定マツタ処へ、小生が昨年度ノ 買物ハ概シテ当ヲ得タモノデ有タ、此場合二当テ多数ノ売先ハ福本 氏二依テ拡張セラレマシタ、是ハ太尾テカアルモノデ御坐リマス、 此間二内務ノ椅子ハ常二鶴谷氏二依テ保タレ、殆ド間然スル処ガア リマセンデシタ、而シテ最モ繁雑ナル今更思ヘバ恐シ参着ナル多数 ノ荷物ヲ西村氏ガ・良縁トナツテ藤野ノ若者が是ヲ補助シタルト、殆 ド気ノ毒ナ位デ有マシタ、此処へ佐藤恩貸モ宜シクト云フ一個ノ元 気者が飛込デ参りマシテ、吾々ノ気力ヲ一層壮ナラシメマシタ、此 外二高田氏ハ隠然吾社ノ為二尽力セラレタル事ハ不少事デ御坐リマ ス、吾が前述シタル処ノモノハ、即チ此進歩ヲ現シタル原因デ御坐 リマス、此他二尚一ツノ大原因ガゴ坐りマス、是ハ何デ御坐リマシ ヨカ、私ノ組合ナル伊藤氏が殆ド資本二倍スル大金ヲ吾社ノ為二運 転セシメ、以テ日本ノ品代金肥後慮ノ憂ヒ勿カラシメ、吾々ヲシテ 此大胆ナル運動ヲ成シ得セシメタルモノデ御坐リマス、吾々ハ氏二 対シテ感謝シナケレバナリマセヌ       ママ  昨年度二於ル領置ノ景況ハ概シテ喜ブベキ処ノモノデ御坐リマスタ ガ、亦大二憂フベキ点が御坐リマス、夫ハ持品が沢山二繰越タル事 デアリマス、吾社ノ資本二比較シテハ驚クベキ多額デアツテ、若シ        ︵ママ︶ モ年々此如キ姿デ押行マシタナラバ、資本金が固結シテ立往生ト云 四〇 フ姿ニナリマス、最モ恐ルヘキ事デ御坐リマスカラ、今日ヨリ計画 シテ来年度ノ計算ニハ今日ノ持品ヨリ五割方ノ減額ヲ企テネバナリ マセン、此責任ハ重々小生が負担スヘキ事柄デハ御坐リマスガ諸君 モ此意ヲ体セラレン事ヲ希ヒマス、次二吾社ノ市中商業ハ更二進歩 致シマセヌ、寧ロ退歩ノ傾ガアルト云モ可ナリデ御坐リマスシヨノ、 斯ノ如キ逆比例ヲ顕シマスハ実二歎スベキ事デアリマス、市中商業 ノ微々タルハ商人ノ弱点デアツテ恥ズベキ事デ御坐リマス、何か故 二某社ノ市中売が進歩セヌノデ御坐リマシヨ三十、他ナシ、吾々が 多忙二紛レ疎漏二打過タ罪デアリマス、故二本年ハ期シテ此事ヲ盛 大ナラシメンケレバナリマセヌ、其方法ハ短期ノ貸売或ハ現金売ナ レバ通常田舎取引ノ貸売直段トハ大二差違ヲ設ケ、彼等ヲシテ満足 セシムルノ外気御坐リマセヌ、是ハ吾社が千八百九十三年度二於テ 商案ノ重大ナルモノデ、而モ吾々が威厳ヲ高ムル一種ノ方略デ御坐 リマス、 尚、薮一ニツノ重要ナル事ガアリマス、夫ハ日本雑貨貿易商会ノ時 間ハ西洋人ノ時間程大切ニナツテアリマセン、比価規律上最モ厳重 ニセネバナリマセヌ、三二明日ヨリ諸君ハ午前八時壱分ニハ已二事 務二着手シ、午后六時壱分ニハ店ヲ閉スト主事二決定セラレン事ヲ 望マス、 併シ大繁忙ノ時ハ此限ニアラズデ御坐リマス、斯ノ如クニシテ在々 協和勉強セラレタランニハ、吾々ノ福利ハ益々増進スル餌壷モナキ 事デ後坐リマス 諸君モ知ラル・如ク鶴谷氏ハ今般吾社ヲ退シマス、歯入大二氏ヲ惜 ムモノデ御坐リマスガ、行クモノハ逐ワス、入ルモノハ拒マズト云

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  ルが如キ方針デ御坐リマスカラ、潔ク氏ノ意二任セマシタ、希ハ諸   君ヨ氏ノ職務ヲ分担スルニ止マラズ、一層事務ヲ敏速二処分シ光輝   ヲ放タレン事ヲ希マス明日ヨリ西洋人ヲ壱人雇入マス事ニナリマシ   タカラ、最初ノ問ハ彼ノ感情ヲ損セヌ様御互二注意セネバナリマセ   ヌ  ここでは店員については、福本が販売拡張、鶴谷が内務、西村が荷物 主任、藤野が荷物補助として従事していたことが分かる。しかし、佐 藤・高田の両名については雇用・出自関係が不明である。また、営業の 実態については、大量の在庫品があり、﹁田舎取引﹂に比して﹁市中売﹂ が芳しくない状況にあることが注目される。また、忠兵衛が運転資金を 提供することによって維持されている状況が判明する。ちなみに一月十 四日になされた精算によれば、当期の純益は七三七四ドル五セント︵二 六%・六三二〇円︶上げているが、資産総額二八二七ニドル五四セント のうち、﹁商品棚卸高﹂は一二九六四ドルニ四セント、﹁売掛代金︵一〇 三名︶﹂は一三一〇九ドル寒入セントであった。﹁商品棚卸高﹂﹁売掛代 金﹂とも資産総額の四六%余にのぼる。負債においては、﹁伊藤忠兵衛 当座借﹂勘定に五一四一ドル余︵一八%︶あり、﹁滞貸予備金﹂に一〇 〇〇ドル当てられている。しかも、﹁滞貸﹂に関わっては、﹁予備金﹂以 外に二六六ミドル亡児セントを償却していることを勘案するならば、不 良債権を多く抱えたまま営業がなされていたことに変わりはなかった。  さて、﹁伊藤外海組﹂が正式な名称として姿を現すのは、﹃記録帳﹄の 明治二十六年六月十日の記事が初見である。そこでは、﹁吾社ノ名称ヲ 伊藤外海組ト改称ス、而シテ買入事務本部ヲ神戸栄町三丁目廿九番地鼠 置ク﹂とある。この住所については後述するが、まずなぜ会社名を改め 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史 たのかを明らかにしておこう。﹃記録帳﹄には次のように記されている。    史料⑥        ︵ママ︶   是ヨリ先、吾社ノ買入代理店日本雑貨商社井上忠二郎氏ハ、経済   ノ不整頓日二月二分敷、加ルニ此場合二臨デ彼が最重ノ三主ロンド   ンマーカスナルモノハ断然井上トノ取引ヲ絶シタル為、一層金融ノ   必迫ヲ来シ、殆ド吾社ノ信用ヲ害スルニ至リタル而已ナラズ、彼井   上氏ハ大胆ニモ新二君主ヲ米国二得ント企テツ・アル兆現レ、彼是   共二二社二対シ大二不利益ナルヲ悟り、藪二断然新設スル事トハナ   レリ  すなわち、日本での輸出品買入代理店であった﹁日本雑貨商社﹂が経 営の悪化にともない、その主たる輸出先を従来のロンドンからアメリカ に変えようとする動きが出てきたため、忠兵衛・外海たちは新たに独力 で輸出業を営むことに決し、﹁日本雑貨貿易商会﹂を﹁伊藤外海組﹂と 改め新会社を設立したのである。これにともない、六月下旬には上柳幸 吉︵滋賀県栗太郡辻村・現栗東市辻︶を雇用し神戸店支配人とし、横浜 に仮事務所を開設して峯村平吉を雇い入れている。そして、八月八日に 外海は渡米したが、この時に西川福太郎︵東京入︶を雇い入れ、荷造方 として同道させた。もちろん、サンフランシスコ店もまた、﹁伊藤外海 組﹂に改称された。もっとも、サンフランシスコ支店においては、鶴谷 忠五郎が一月置いったん退社したが、十二月三十日に福本末太郎を解雇 したこともあってか、鶴谷を再雇用している。  この﹁伊藤外海組﹂が忠兵衛と外海との﹁組合﹂として発足されたこ とを示すのは、次の契約書である。 四一

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  滋賀大学経済学部附属史料館概究紀要 第三十九号  史料⑦     共訳商業組合契約証書正式謄本      滋賀県犬上郡豊郷村大字八目拾弐番屋敷、平民呉服商       伊藤忠兵衛        伍拾壱年 置    △⊥県神崎郡八条村大字佐生伍拾在番屋敷、平民貿易商       外海鉄次郎        弐拾翌年     兵庫県神戸市栄町通参丁目弐拾玖番屋敷、平民当組合雇人        右代理人    毛利理忠太        弐拾弐年      県全市下山手通漆丁目弐阻漆拾玖番屋敷、士族雑業        立会人     長沢源十郎        伍拾伍年 右、伊藤忠兵衛及外海鉄次郎代理委任状ヲ所持セル毛利理忠太ハ、 明治弐拾陸年拾月拾参日、公証人奥座久重役場二於テ長沢源十郎ノ 立会ヲ以テ左ノ契約ヲ締結ス      伊藤外海組契約 第壱条 当組合ハ伊藤外海組ト称シ、本店ヲ神戸市栄町通参丁目弐    拾音源屋敷二設置シ、支店ヲ横浜市弁天通舜丁目及ヒ北米合    衆国カルホルニア州桑港第星野第参拾宝蔵二設置ス 第弐条 当組合ハ組合組織ニシテ滋賀県犬上郡豊郷村大字八目第拾    弐番屋敷伊藤忠兵衛及滋賀県神崎郡八条村大字佐生第伍拾捌 四二    番屋敷外海鉄次郎ノ両人ヨリ支出セル資本ヲ以テ営業スル事 第参条 資本金ハ協議ノ上、其事要二応シ支出スル事 第騨条 当組合親愛商人ヨリ雑貨ヲ買入レ外国二輸出スルヲ以テ営    業ノ目的トス 第伍正当組合ハ本業ノ外決シテ他ノ事務二関渉セサル事 薄鼠条 当組合ノ存立時期ハ明治弐拾陸年陸墨ヨリ明治参拾伍年伍    月迄、満拾ケ年トス 第漆条 利益金ハ出資額二応シテ配当スル事 第捌条 当組合ノ本店及横浜支店二面ノ名称ヲ附シタル使用人ヲ置    ク事 本店支配人 本店簿記係 本店倉番 本店丁稚 横浜支店倉番兼雑務係 米国支店販売係及荷扱係   以上陸名、以下 米国支店簿記係 米国支店丁稚   但シ、

参壱数壱壱壱

遺名名名工名

壱名若クハ弐名 数名       米国支店ノ都合二依リ外国人ヲ雇入ル・事 第玖条 本店及ヒ横浜支店ノ使用人ノ任免及ヒ給料賞与金ハ伊藤忠    兵衛之レヲ決行シ、米国支店ノ使用人ノ任免及ヒ給料賞与金    ハ外海鉄次郎之レヲ決行スル事 第拾条 本店及横浜支店二関スル債権債務其他一切ノ行為ハ伊藤忠

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   兵衛之ヲ担任スル事 第拾壱条 米国支店二関スル債権債務其他一切ノ行為ハ外海鉄次郎    総テ之ヲ担任スル事 第拾弐条本店及横浜支店ノ使用人ヲシテ左ノ業務ヲ取扱ハシムル事      一支配人ハ本店及横浜支店二黒ケル凡テノ業務ヲ管理シ      其責解任スル事      一簿記係ハ渋滞ナク帳簿二記載シ明確ナル精美ヲナス事      一倉番ハ支配人ノ命令二従ヒ物品ノ出納ヲ司り緻密ノ注       意ヲ為ス事      一横浜支店二於ケル倉番兼雑務係リハ本店支配人ノ命令       二従ヒ、支店万端ノ事務ヲ取扱フ事 第拾参条 当組合ノ使用人ハ本務ノ外決シテ他ノ業務二干渉セシメ    サル事 第拾騨条 米国支店ノ使用人ハ凡テ外海鉄次郎ノ指揮ノ下二在テ    夫々ノ業務二従事セシムル事 由日夕勘当組合ハ毎年壱月参拾壱日ヲ以テ決算スル事 象拾陸条 当組合ノ契約ハ伊藤患兵衛及外海鉄次郎ノ合意二依リ変    更スル事アリ 昏昏玉条 当組合二使用スル印章、左ノ如シ       方伍分﹁伊藤・外海・組印﹂︵角印・三行︶      ﹁O神戸市・伊藤外海組・栄町三﹂縦直径玖分・横直径       漆分︵楕円印・三行︶ 右関係人へ椿聞カ扇売ル処、一同相違ナキ事ヲ認メ、左二署名捺印ス       伊藤忠兵衛 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史 毛利理忠太 長沢源十郎          ︵後略︶  これによれば、﹁伊藤外海組﹂は、本店を神戸市内に、支店をサンフ ランシスコと新たに横浜に置くとともに、忠兵衛と外海の合資で設立さ れたことが明白であろう。その目的は、日本雑貨を外国に輸出すること にあった。そして、十年間存続を当初の規定として定めている。本店や 支店に配属する店員数も一応の定数があったことも分かる。また、本 店・横浜支店の業務は忠兵衛が、サンフランシスコ支店については外海 が担当することも従前通りであった。ここで注目されるのは本店の住所 である。それは、大阪に所在する伊藤本店や単一ではなく、神戸市内に 設定されている。しかもその住所は、﹁毛利理忠太﹂の住所と一致して いる。毛利は﹁伊藤外海組﹂の﹁組合雇人﹂とされているが、伊藤忠兵 衛藁葺の奉公人を記した﹁短冊﹂には、明治二十六年六月に西霞に入店 したことになっている。もっとも、同三十年前後の﹁奉公人書上﹂では、 その名前が見えない。したがって、いったん西店に入店してから﹁伊藤 外海組﹂の店員へと転属したのであろう。少なくとも子供からの叩き上 げの奉公人ではなく、ある程度の貿易実務の経験を有する者として採用 されたものと考えられる。そのことは、これまで記してきたサンフラン シスコ支店に勤務する店員に共通している。  このようにして発足した﹁伊藤外海組﹂であったが、明治二十七年一 月十五日のサンフランシスコ支店清算はどうなっていたのだろうか。こ の時、﹁当期純益金﹂は一四八○ドル余であり、前年度の五分一程度に 減少している。資産は四〇五三五ドル余であるが、在庫品︵﹁持品﹂︶は 四三

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 二六八八ニドル余、売掛金︵=二六名︶は一二一四六ドル余︵三〇%︶ となっている。在庫品は資産総額の六六%余もあり、日本から輸出した 商品の販売が不調であったことを推測させる。同時に﹁売掛代金滞貸準 備﹂は﹁○○○ドル計上されているが、これ以外に多額の売掛金を﹁棄 却﹂したとあるので、不良債権も相変わらず抱え続けていると考えられ る。﹃記録帳﹄でも次のように記している。    史料⑧   本年度葦葺商業ノ如何二困難ナリシ哉長野計算表ヲ見テモ少シク推   知スルヲ可得、抑々千八百九十三年度二於ル米国ノ恐慌ハ商業歴史   二特筆大書スベキモノニシテ、銀行ノ閉鎖、商家ノ倒産、数ル島風   ナク、実直ナル花霞ハ殆ト休業シ、不道徳ナル豊門此機二乗シ破産   ヲ真似シ、卸売商人ノ困難蓋シ此時ヲ以テ極度脚達シタルナラン、   兎二角亀虫モ損害ヲ受タル彩敷カリシ  また、負債では﹁伊藤氏当座借﹂が一九九五ミドルもあり、前年度の 四倍近くなっている。この額は、純益を除いた負債総額の五一%を占め ることから、患兵衛の運営資金の提供なくしては存在しえない経営であ ったことが歴然としているのである。  ところで、史料⑦の契約証書は明治二十六年十月十三日差作成された のだが、二十七年七月二日、新たに鶴谷忠五郎と上柳幸吉が組合に加わ ると同時に、一万円の増資を決議している。この時、鶴谷・上柳には ﹁吾社ノ損益負担ハ吾々同様ノ権利義務﹂があることを認める証書が忠 兵衛・外海の連名で出されている。ところが、出路は増資には加わらな かったとするものの、二千円の出資をしていることが明らかなので、こ の間の事情は不明である。 四四  二十七年九月二日、外海は渡米し、十一月にサンフランシスコ支店を 移転させた。その場所はサター街一一六番地であった︵﹃記録帳﹄では ﹁拾六号地﹂とある︶。建物は借家であり、家賃は月三〇〇ドルであった。 この支店は、﹁従前ノ場所二比較シテ地位モ上等こシテ、店モ大ナリ、 則チ小売卸売兼業ノ目的二出タルナリ、日本ヨリ朱塗欄干ヲ送り、二階 ヲ装飾セリ、蓋シ太平洋西岸二三テ崇美ノ日本雑貨店ヲ現出シタルモノ ナリ﹂と﹃記録帳﹄に記されている。外海は翌年二月に帰朝したが、二 十七年度の﹁伊藤外海組計算書﹂を携えていたのは、従来通りである。 それによれば、﹁当期利益﹂は三八九一ドル柔なので、前年度よりは経 営が改善されたといえる。しかし、﹁貸方﹂総額三=二五七ドルのうち ﹁持品﹂は一九六四四ドル余︵六三%︶、売掛金は一〇三四ニドル余︵三 三%︶となっており、前年度と比較すれば在庫品比率が減少したものの 売掛金比率は増加している。この状態は、﹃記録帳﹄によると、東部地 域に﹁創メテ物品ノ託宣ヲ遂ケ﹂たこと、恐慌が過ぎ去ったこと、仕入 品を減少して﹁貨幣ト交換スル事ヲ勉メタ﹂結果であった。また、忠兵 衛からの当座借は一一四九ドル余へと大幅に減少していることから、忠 兵衛の資金回収が進んでいる状況も分かる。  さて、前年に組合加入者を増やして営業していた﹁伊藤外海組﹂であ ったが、二十八年十月七日、新たに合名会社組織に変更されることとな った。次にその史料を掲げる。    史料⑨        合名会社伊藤外海組契約証書正式謄本   第壱条 此契約二規定外ノ事項ハ総テ商法ノ規定二身フ   第弐条 当会社ハ合名会社伊藤外海組ト称ス

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第参条 当会社ノ社員ハ左記伍名トス       ︵ママ︶    伊藤忠兵衛 外海鉄二郎 出路久右衛門 鶴谷患五郎 上    柳幸吉 第騨条 当会海難本店ヲ神戸市栄町通参丁目弐拾玖番屋敷幅設置    シ、支店ヲ米国カリフヲルニや州桑港サター街第陪拾陸番地    二置キ、横浜二出張所ヲ設置ス 第伍条 当会社ハ日本物産ヲ米国へ輸出販売シ、又ハ諸外国ノ物品    ヲ輸入販売シ、日本物産ヲ諸外国へ輸出スルヲ以テ営業トス 第陸条 当会社ハ存立ノ期限ヲ定メズ、総社員ノ合意ヲ以テ伸縮ス 第漆条 当会社ノ資本金ヲ参万円トス      但シ、営業ノ都合二依リ総社員ノ合意ヲ以テ増減ス 第捌条 当会社員ノ出資額左ノ如シ 第玖条 一金壱万弐降伍阻円 一金壱万弐心墨陥円 一金弐肝円 一金量器円 一金事肝円 当会社ハ資本台帳ヲ備へ、 トス 伊藤忠丘ハ衛 外海鉄二郎 出路久右衛門 鶴谷忠五郎 上柳幸吉 各社員ノ出資額ヲ記載スルモノ      但シ、各社員ノ払込資本二対シ其領収証ヲ交附スベシ 第拾条 当会社ハ参名ノ業務担当社員ヲ定メ、左ノ名称ヲ用ユルモ    ノトス     業務担当人       外海鉄二郎     同       鶴谷忠五郎 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史     同      上柳幸吉 第拾壱条 業務担当社員ハ協議ヲ以テ営業部類ノ規則ヲ定メ、各其    任務二服ス 第拾弐条 当会社ノ営業方針及傭人給料並二業務担当社員ノ報酬賞    与金ノ割合ハ、伊藤忠兵衛外海町二郎ノ両人協議ヲ以テ之ヲ    定ム 第拾参条 当会社ノ営業二関スルー切ノ取引文書ニハ総テ社名ヲ用    ヒ社印ヲ押捺ス 第抽斗条 当会社ノ印章ハ左ノ如ク之ヲ定ム        ︵角印押捺・印字﹁合名会社伊藤外海組﹂︶ 第拾伍条 当会社ノ損益勘定ハ毎年参月ト定メ、総会二於テ計算及    営業ノ報告ヲ為シ、認定ヲ求ム       但、総会ノ場所ハ神戸其他便宜ノ場所二開設ス 第拾陸条 前条ノ計算ハ桑港支店ノ計算書ヲ受取タル後、毎年弐月    弐拾捌日、本店二於テ計算ス 第拾漆条 当会社ハ毎計算期毎二総益金ヨリ経費ヲ引去、持越品    ︵桑港二於テ︶着元価ノ弐割ヲ減シ、貸金不確ナルモノニ対    シ滞貸準備金ヲ引去リタル純益金ヲ左ノ通配当ス      一純益金阻分ノ拾    積立金      一跡晒分ノ参拾     業務担当員及雇人賞与金      一全陥分ノ陸拾     配当金 第拾捌条 前条ノ如ク定ムト難トモ霧多ノ利益金アルトキハ、前条    ノ外別途積立金ヲ為スコトアルベシ 第拾玖条 当会社ノ融通岳樺銀行当座預ト為シ置クベシ 四五

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  滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 第弐拾条 将来此契約二関シ若クハ当会社ノ事業又ハ社員トシテノ    行為二対シ、社員間ノ争議ヲ生スルトキハ、各壱名ノ仲裁人    ヲ撰定シ、其仲裁人ヨリ更二壱名ノ判断長ヲ選ヒ置キ、各    自撰タル仲裁人ノ意見異ナルトキハ、判断長ノ仲裁ニョリ其    争ヲ止ムベシ     但シ、其裁判二就テハ法律上二取消スヘキ暇理アル場合ノ     外ハ、其執行ヲ拒ムノ権ナキモノトス 第弐拾壱条 此契約中改正ヲ必要トスルトキハ、総社員合意ヲ以テ    修正加除スル事ヲ得 第弐拾弐条 此契約書甘干ヲ製シ、各社員壱通宛所持ス 右関係人へ読聞カセタル処、一同相違ナキ事ヲ認メ、左二署名捺印 ス      滋賀県犬上郡豊郷村大字八目拾弐番屋敷、平民呉服商        伊藤忠兵衛       伍拾騨年      全県神崎郡五峯村大字佐生騨拾番屋敷、平民貿易商        外海鉄二郎       参拾年      全県全郡栗虫村大字新宮弐拾番屋敷、平民呉服商        出路久右衛門       伍拾壱年      岡山県備前国児島郡西興除村参番屋敷、平民雑業        右代理人    永井粂次郎       弐拾尊宿        四六   府京都市下京区四条通室町西へ入月鉾町弐拾壱番戸、平民貿易商        鶴谷忠五郎       弐拾捌年        全府全市下京区西新屋敷揚屋町拾番戸、平民呉服商       右代理人    森川良三郎       弐拾玖年        滋賀県栗太郡葉山村大字辻参番屋敷、平民雑業        上柳幸吉       弐拾捌年        兵庫県神戸市下山手通捌丁目参拾捌番屋敷、士族雑業       立会人     長沢源十郎       伍拾漆年          ︵後略︶  右の契約証書で注目されるのは、史料⑦においては一〇年の存立期限 を定め、かつ二名の合資で﹁伊藤外海組﹂を設立させていたが、ここで は五名の社員による合名会社に改めたことであろう。鶴谷は﹁日本雑貨 貿易商会﹂時代からサンフランシスコ支店で﹁内務﹂を担当しており ︵史料⑤︶、また、上柳は神戸店支配人でもあり、ともに貿易実務に通暁 していたため、十分経営に参画しえたのであろう。もっとも、明治二十 七年﹃掌許帳﹄によれば、忠兵衛は上柳に七月一日に五百円を月八朱で 貸しており、鶴谷に対しても外海を通じて百円貸していることから、手 元資金を潤沢に保持していたわけではないと考えられる。それはともあ れ、このような組織替えをうけて、﹁山岸健助﹂なる人物を雇用し、彼 を担当者として﹁カヤトロツグ﹂の製本に着手した。﹁カヤトロツグ﹂

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とは、おそらく﹁カタログ﹂のことであろう。この製本の目的は、これ を米国東部・欧州各地に配布し日本品買入の代理店たることを期すこと にあったと﹃記録帳﹄は記している。新しい組織体制で新規市場の開拓 を目指そうとする意志があったと思われるのである。  ところで、﹁伊藤外海組﹂のサンフランシスコ支店の精算表は作成さ れているが、神戸・横浜店を含めた決算がどのようになされたかについ ては不明な事が多い。両店の運転資金が忠兵衛から支出されていたこと は、﹃掌許帳﹄に﹁伊藤外海組当座貸借﹂の項目があり、一部の状況を 垣間見ることはできる。たとえば明治二十八年分については、一月一日 時点で一万一三一二円八三銭一厘が﹁廿七年元利指引貸﹂とあり、一月 中に二二五〇円、二月に三〇〇円、三月に二七八五円、四月に二〇〇円 が﹁貸﹂勘定として記され、五月二七日にいったん二五〇〇円が﹁為導 入﹂とされている。この﹁貸﹂は、﹁鶴谷へ・神店へ・横浜へ﹂などと 記され、明らかに商品購入代金などの資金であったと思われる。この後 も十︸月を除き毎月﹁貸﹂があり、七月二十六日の四〇〇〇円と十二月 三十日の七四四九円二三銭四厘の﹁入﹂などを差し引きして、十二月三 十一日には一万五二八円五九銭七厘の﹁貸﹂と利子を加えて一万一二三 三円六四銭が次年度に繰り越されている。二十九年度末には、この額は 一万九三九八円四一銭六厘となっていたが、三十年度中に回収が進み、 年度末では逆に四四六六円五三銭三厘が﹁預り﹂勘定となっている。 ﹃掌翠帳﹄は、公債・有価証券・貸金などの保持状況を記しているが、 これは伊藤本家ないし忠兵衛が管理・運用している実態を記録した帳簿 だと推測されるため、忠兵衛の統括下にある諸宗と同様に﹁伊藤外海組﹂ も位置づけられていたと考えて良いだろう。 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史  さらに、この帳簿を見ると興味深い点が一つある。それは、二十八年 四月一日付けで﹁真宗生命株五拾鼻背﹂として六二五円が﹁貸﹂とされ ていることである。そこでは、﹁右伊藤外海組分﹂とある。このことか ら﹁伊藤外海組﹂は、日本においては﹁真宗信徒生命保険会社﹂と﹁日 東貿易会社﹂の株式を資産として保持していたものと思われる。ただ、 どのように運用されたのかについては、詳細は不明である。 三 ﹁伊藤外海組﹂の解散  冒頭の資料1・2・3によれば、明治二十八年に﹁伊藤外海組﹂は外 海が健康を損ねたため、社員の一人である鶴谷忠五郎に会社を譲り解散 したとされている。しかし、史料⑨を作成して合名会社に組織替えし、 市場の開拓を目指してカタログ作製まで試みたのは十月のことであった から、その後三ヶ月足らずの間に外海が健康を損ね、会社を解散すると ともに鶴谷にサンフランシスコ支店などを譲ったということになる。  ところが、﹃記録帳﹄によれば、外海は十月十八日目﹁清国ノ商況視 察ノ為渡航セリ﹂とあり、十二月二十二日に帰国している。この時、彼 は上海、漸江・江蘇省を巡視しており、政府派遣の志村・有賀参事が同 行している。この費用は忠兵衛・外海で分担したが、忠兵衛は二百円を ﹁外海渡清費﹂の名目で﹁雑損益﹂として処理している︵明治二十九年 ﹃掌﹄︶。この事実を見ると、外海が健康を損ねた事実があったとしても、 それが﹁伊藤外海組﹂解散の主要な理由ではなかったのではないかと思 われる。サンフランシスコ支店は、わずかながらも利益を上げており、 毎年、出資額に応じた配当金を受け取ることができていた。しかし、年 四七

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十九号 間を通じて運転資金は忠兵衛が出しており、一万円を超える貸勘定とな っていた。これは、忠兵衛にとって負担となる会社であったと思われる。 忠兵衛はこのころ体調は思わしくはなく、須磨の別荘に引き籠もること にした時期でもあった。それゆえ、﹁伊藤外海組﹂の経営から手を引き たいという意識はあったのではないだろうか。その一方で二十八年四、 五月頃には、忠兵衛・外海は﹁朝鮮及清国ノ新占領地ヲ巡遊セント企テ﹂ ていたようで、コレラ流行のために断念したと﹃記録帳﹄にある。すな わち、日清戦争の勝利による﹁新占領地﹂での商いに関心が移りつつあ ったのではないかと思われる。  この間の実情については明らかにできる史料を欠くが、右のことから 推して﹁伊藤外海組﹂の解散は急遽決定されたものではなかっただろう か。﹃記録帳﹄は、次の記述をもって欄筆されている。    史料⑩   廿八年七月、即合名会社組織後ハ別二記録帳ヲ製シ会社二備置セリ、   随テ以后ハ此帳簿ヲ特二伊藤外海ノ問二存シ記事ヲ持続スベシ  これによれば、合名会社化されるとともに別の﹁記録帳﹂が作製され るようになり、﹁日本雑貨貿易商会﹂の﹁記録帳﹂として書き始められ、 後に﹁伊藤外海組﹂の貼り紙がなされた﹁記録帳﹂は、忠兵衛・外海の 間で記事を書き継がれる予定であったことが分かる。しかし、現実には 右の文章をもって中断し、後は白紙のままに今に伝えられたのである。 もし﹁合名会社伊藤外海組﹂の﹁記録帳﹂が作製されたとすれば、それ は鶴谷のもとで継承されたのかも知れない。いずれにせよ、﹁伊藤外海 組﹂が解散されたことは間違いないものと思われる。﹃掌﹄命毛の記録 によれば、忠兵衛が出資した一万二五〇〇円︵二十四年九月一日、四五 四八 ○○円。二十五年一月七日、二二五〇円。二十六年、二二五〇円。二十 七年、三五〇〇円︶は、三十一年五月十一日に﹁第一回割賦金﹂として ﹁三分八厘﹂の四七五〇円を、九月二十日に﹁第二回割賦金﹂として ﹁三分弐厘︵原本のママ︶﹂の四〇〇円を受け取っていることが分かる。 差引額の七三五〇円は、﹁三十一年店卸損﹂として処理されている。も っとも、帳簿上では損金処理した後の明治三十三年四月七日に、﹁雑損 益﹂の項目で六二五円が﹁伊藤外海組割賦金、入﹂と入金している様子 が記されている。この後の﹃二重帳﹄では伊藤外海組関係の金銭の動き は記されていないことから、この時点で最終処理が済んだものと推測さ れる。ただし、右の帳簿では﹁合資会社伊藤外海組﹂の﹁出金高﹂が精 算されているのであり、﹁合名会社﹂としては記載されていない。それ ゆえ、規約上は合名会社が組織されたことは明らかであるが、その実体 が機能したのかどうかについては疑問である。 結びにかえて  以上、﹁伊藤外海組﹂の成立と解散の過程を明らかにしてきた。再び 福塩することはしないが、冒頭で掲げた四点についてのみまとめておこ ・つ。  まず第一点の﹁伊藤外海組﹂が明治十八年に設立されたとしているこ とについては、史料上では明治二十六年六月十日の﹃記録帳﹄の記事が 初見であり、﹁組合﹂の正式謄本は同年十月十三日に作成されたことが 明らかである。したがって、明治十八年を設立の年とすることは誤りで あるといえる。﹁伊藤外海組﹂が設立される前史として、﹁日本雑貨商社﹂

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への資本参加があり、その後に﹁日本雑貨貿易商会﹂が設立され、その 後を継いで﹁伊藤外海組﹂が設立されたことが史実だといえる。しかも、 それは合資会社から合名会社への組織替えも経験したことも明らかとな った。ただ、後年に明治十八年創設と伝承されていったことには何らか の理由があったと思われるが、それは全く不明である。  第二点の本店は神戸に、支店はサンフランシスコに設置されていたと いうことについては、確かにそれは﹁伊藤外海組﹂段階においては事実 であったが、サンフランシスコ支店も移転していたことや横浜にも支店 ︵出張所︶が存在したという史実が記憶から忘れ去られてしまっている。 明治二十四年時点で横浜の﹁本町一丁目一二﹂に﹁小鳥﹂を扱う﹁伊藤       ︵5︶ 忠兵衛﹂なる人物がいたが、住所や取り扱い品が異なることから別人だ と思えるものの、追跡調査はできておらず詳細は不明である。ただ、サ ンフランシスコ店の営業実態の一部については、清算表が残されており、 営業利益の推移や資産・負債の一部については本論で明らかにすること ができた。しかし、神戸本店・横浜支店の実態を明らかにできる史料は、 現在のところ見出してはいないため、これらの解明は依然として今後の 課題として残さざるを得ない。  第三点の﹁伊藤外海組﹂は明治二十八年に外海の病気により、鶴谷に 営業を譲渡して解散したということについては、外海が病気であったと いうことを証明できる史料は欠けている。しかし、合名会社に組織替え した後に渡清していることを明らかにした。会社の解散、鶴谷への譲渡 の経過については、残された﹁伊藤忠兵衛家文書﹂からは明らかにでき ないものの、﹃掌﹄三三の記載から明治三十一年決算において返戻出資 金の残額が損金処理されたことが明らかとなった。 初代伊藤忠兵衛と﹁伊藤外海組﹂小史  第四点の輸出雑貨品については、﹁絹ハンカチ・花心﹂であったのか どうか、また、他の商品があったのかどうかについては、明らかにでき なかった。これは、﹁日本雑貨商会﹂に参画していた西田宗四郎が扇子        ︵6︶ 輸出で財を成したとされていることに鑑み、﹁日本雑貨貿易商会﹂の代 理人であった井上忠治郎、﹁伊藤外海組﹂の営業を譲渡された鶴谷忠五 郎などの営業の実態を関わらせて解明する必要があろう。  このように、﹁伊藤外海組﹂は初代伊藤忠兵衛が雑貨輸出を旨に最初 に取り組んだ貿易会社であったが、利益は出していたものの長くは維持 しなかった。資料2にあるように、後年になって﹁貿易ト 紡績ワ ホ ントニ ムズカシイ﹂と述べたこと、あるいは、明治二十一年頃に﹁貿         易その他新規事業で損をして﹃これでワシの店もギチギチだ﹄﹂と吐露 したことなどを考えると、西店開店以降の輸入貿易の損失を埋めようと いう意識があったのかも知れない。しかし、その時期においては必ずし も人的資源や貿易の知識に恵まれたわけではなかった。本格的に貿易事 業に乗り出すには、まだしばらくの年月と経験が必要であり、明治二十 九年の日東合資会社の設立、翌年末の日東綿糸株式会社への組織替えと 解散、﹁日東洋行﹂の創設と自然消滅などの変転を経なければならなか った。伊藤家にとっては、貿易事業への本格的参入は二代目忠兵衛の時 代に委ねられることになるのである。 注  ︵1︶ ﹃伊藤忠商事100年﹄︵伊藤忠商事株式会社、一九六九年︶、﹃丸   紅前史﹄︵丸紅株式会社、一九七七年︶。  ︵2︶ 拙稿﹁初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一三﹂︵﹃同志 四九

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 五〇   社商学﹄第五六巻五・六号、二〇〇五年︶。 ︵3︶ ﹁伊藤忠兵衛家文書︵仮称︶﹂は、平成十五年︵二〇〇三︶八月に   発見された伊藤忠兵衛家伝来の史料群である。これらの史料は伊藤   家ならびに︵財︶豊郷済美会のご厚意により本学経済学部附属史料   館に借用を許され、現在史料の整理・目録作成の作業を継続してい   る。したがって非公開の文書群ではあるが、特別に利用することを   ご許可いただいた。関係各位には、記して深謝申し上げたい。以下、   特に断らない限り本文中の引用は右の文書群のものである。 ︵4︶ ﹁伊藤外海組設立の契約書︵写︶﹂︵伊藤忠商事所蔵︶。現在までに  確認した限りでは、伊藤忠商事が所蔵している﹁伊藤外海組﹂関係   の史料としては、これが唯一のものである。しかし、この史料も罫   紙に記されたもののコピーであり、原本は見あたらない。しかも、   史料本文から明らかなように、これはあくまでも﹁日本雑貨商社桑   港﹂支店を買い取り、合資会社を組織するための仮契約書であって、   ﹁伊藤外海組設立の契約書︵写︶﹂と史料題をつけるのは正しくはな   い。 ︵5︶ 太田久好﹃横浜沿革誌﹄二六一頁、一八九二年。 ︵6︶ ﹃御大礼記念京都府伏見町誌﹄五六三頁、伏見町役場、一九二九年。   なお、西田宗四郎に関わる史料文献については、京都市歴史資料館、  小林丈広氏、秋元せき氏のご教示を得た。 ︵7︶ 阿部房次郎﹁先代伊藤忠兵衛氏を語る﹂、﹃在りし日の父﹄所収、  六二頁。 [付記]本稿は、平成十七年度科学研究費補助金﹁近世・近代商家活動に関す  る総合的研究﹂︵基盤研究︵B︶︵2︶研究代表者・宇佐美英機︶の研究成  果の一部である。また、︵財︶昭和報公会︵伊藤忠兵衛基金︶の研究助成  を受けた成果である。史料利用にあたっては、伊藤勲氏・吉田欣治氏、お  よび伊藤忠商事大阪総務室のご高配を得た。記して感謝申し上げる。

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