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兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題

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(1)Title. 兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. Author(s). 佐竹, 道盛. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 28(1): 21-31. Issue Date. 1977-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4729. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめ ぐる学校教育の諸問題. 兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 佐. 竹. は. じ. 道. め. 盛. に. 森有礼が, プロイセン型立憲制採用の方針のもとに国家体制の整備へと踏み出した伊藤博文の支 持を得て, 初代文部大臣として国家体制に見合う教育の制度的整備に尽力したことは周知の事実で ある. 兵式体操もまたこのような教育体制 の一環として採用されたもの であった. それは, 天皇制 国家の臣民として忠君愛国の念にあ つく, かつ国家の富強化のために自らすすんで努力していく, いわゆる気力ある人物の形成のための方途として提唱され, 推進されたものであった, このような課題をになった兵式体操は, 剛毅果断な森の強力な行政手腕によっ て, またたく間に 全国的な普及浸透がはかられ, さらにその後長く学校教育のなかにその影響を残していっ たのであ る. このことは, われわれが地方教育史ないし学校沿革誌をひもとく 時直ちに了解されるところ で あ る.. ところで, 兵式体操がこのように広くか つ長期にわたっ て学校教育に影響をおよぼしたため, そ の導入をめ ぐっ て教育界から提起された幾多の疑問や批判は, ともすれば看過される傾き があっ た ように思われる. 兵式体操は, 文字どおり軍隊にモデルを求めた教育方法であっ たため, 教育界か らは幾多の批判が寄せられていたの である。 全国的な普及をみた兵式体操に対してその内実を見極 めた正当な評価を望むならば, これらの批判は軽視されてはならないものである. 本稿は, このよう な観点にたっ て, 森文政評価の基礎 作業のひとつとして, 森による兵式体操の 学校への導入をめ ぐっ て教育 界から提示された諸問題を検討することを意図するものである. 1. 兵式体操の導入過程. 兵式体操は, 森有礼の多年の抱負がその文部行政参与を契機に現実化したものであっ た. 森の兵 1 { )にみることができる 森によ 式体操論は, その原初的形態を明治1 2年の 「教育論 - 身倦ノ能力」 . れば, 教育の本旨は智識・徳義o身体の三能力を調和的に発達させる ことにあるが, この三能力の うちわが国人に最も欠けるものは, 身体の能力 であるというの であっ た. しかもこの場合に身体の 能力といわれているのは, 「人ノ善ヲ行フニ方リテ, 其力能ク之ヲ助ケ成」 すものであり, それはま た, 「燭身 橿 ノ 健 康 上 ヨ リ 束 ル ノ ミ ノ 者 ニ 非 ス, 敢 鴬ノ 勇 気 モ 亦 之 ニ 加ノ\」 る こ と に よ っ て は じめ て. 完成されるもの であるとされる. このように考えられた身体の能力は, これを育成するためには, それに相応の方法が要請されるものであり, そのために,「強迫髭操ヲ兵式ニ取り, 成り丈普ク之ヲ 行フ」 のが最良であるとして, 兵式体操が提唱されたのである, このように,.兵式体操は森特有の 身体能力観と結びつき, 徳育的効果が強く期待されたところにその特色があったのである。さらに, 2 )のなかで 「一人一己ノ償躯健強ヲ保ツハ即全 森は身体の鍛錬に関して, 明治1 5年の 「学政片言」( , 圃富強ヲ致スノ大基礎ニシテ」「又之ヲ鍛錬スル気質ヲ鍛錬スル鴬メニ不可鉄之一事」 として, これ 21.

(3) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめ ぐる学校教育の諸問題. を国家富強や人心を着実にし風俗を敦厚 ならしめる気質鍛錬の根基をな すものとして位置づけたの であ る.. これらの教育 論には,「以テ久シキニ耐ユヘク以テ難キヲ 忍フヘク以テ協力同心シテ事業ヲ興スヘ シ, 督責ヲ待タスシテ挙ラカメ智ヲ研キ ー国ノ文明ヲ進ムル者此ノ気力ナリ, 生産ニ労働シテ富源 ヲ開裟スル者此ノ気力ナリ, 凡ソ禽般ノ障碍ヲ菱 除シテ園運ノ進歩ヲ迅速ナラシムル者漁テ皆此ノ 気力ニ筒ラサルハナシ」 といわれるような諸般の事業に 積極的にとり組む気力の養成方途として提 3 ( )その他の兵式体操論 の萌芽がみられるの であり また これらの教育 論に現わ 唱される 「閣議案」 , , 8年の 「兵式体操要領」 によっ て明らかに れた森の兵式体操論の教育施策への反映は, これを明治1 することができる. 「兵式体操要領」 によると, 兵式体操の目的は, 「体操科中ニ兵式体操ヲ設ケ専 ラ兵式ニ則トリテ卒伍及司令ノ業ヲ習ハシム其之ヲ設クル本旨ノ・菅ニ体力ヲ発達スルノミナラス併 4 )ると セテ身躯ヲ強健ニシ志気ヲ 鋭ニシ又善ク秩序ヲ守り沈毅事ニ耐フ ル慣習ヲ得セシムルニ在」( いわれ, 単なる健康の維持増進をこえていわば人物養成の方途としての兵式体操論が展開されてい る の であ る.. ところ で, このような兵式体操論が森の文部省御用掛就任(明治17年) により教育施策として 現 実化する前に, 歩兵操練が学校教育に導入され, 兵式体操施策の原型を形成していった. 文部省は, 3年に体操伝習所に対して歩兵操練の教授を命じたが, それは徴兵年限短縮のために, 各学校 明治1 5 ) つい で明治16年1 2月 28 日 へ漸進的に歩兵操練を導入する手始めとしてとられた措置 であっ た≦ 「 2条に 現役中殊ニ技芸ニ熟シ行状方正ナル者及ヒ官立公立学校(小 改正徴兵令が布告され,その第1 学校ヲ除ク) ノ歩兵操練科卒業証書ヲ所持スル者ノ・其期未タ終ラスト難モ帰休 ヲ命スルコトアル可 6 ( )という規定がなされたことに関連して 文部省は翌年2月体操伝習所に官 公立学校 で実施すべ シ」 , ) 他方この規定に関連して 府県では1 7年以降 き歩兵操練科の程度方法を調査するよう 命じた▽ , 続々と歩兵操練が実施に移されていっ た.明治19年の兵式体操の制 度化以前に各地で実施された歩 7年以降19年のはじめまで, 歩 兵操練およ び兵式体操の情況を示したのが 「年譜」 である. 明治1 兵操練が各地 で実施されたが,他方兵式体操も明治18年末から次第に地方へ浸透するようになっ て いった. そのため,18年から19年初頭ま で両者が併存する情況が生じ, 教育ジ ャーナリ ズムなどで は, これら二つのものを同じものとして扱う事例 も見られるようになっ ている, 8年11月に体操伝習所は歩兵操練科に関する調査結果を文部省に復申したが, その課程表 明治1 には, 「本科ノ順序ヲ生兵学, 柔軟演習, 号令, 中隊学解説ノ五欺ニ 分チ其程度ノ、中隊学第一部第二 ( 8 }とすることが規定されており 明治19年に制 章則チ成列中隊運動ヲ修了スルラ以テ最高 ノ程度」 , 度化される兵式体操の教科課程に連 続する内容のものとなっ ている. 両者の内容上の連続は, 上記 の課程表 を第1表および 「尋常師範学校ノ学科及其程度」 と比較することによって明らかと なる. 9 )において教育的意図にたつ兵式体操と異るものがあるが ( 歩兵操練は, その動機(在営年限短縮) , 内容においては兵式体操の先駆的な形態をなしているとい える. 兵式体操そのものの学校教育への導 入は, 明治18年5月 5 日「東京師範学校体操科中ニ仮ニ兵式 1 0 )え た の を も っ て は じめ と す る そ の 後 同 年 8 月 26 日には文部省御用掛森有礼が東京師 体 操 ヲ加」{ .. 1月12 日 範学校監督に任命され, 同校における兵式体操を強力に督励 していっ た. つい で, 同年1 l ) には体操伝習所に対して 「兵式体操及軽体操教員養 成ノ要項」 が達せられq 兵式体操教員の養成 3号によっ て体操伝習所修業員の採用 の た め の 態 勢 がと と の え ら れ, さ ら に 同 月 18 日には, 達第1 2 3号は,「体育ノ改良就中兵式体操実施準備ノ為メ当省所轄体 ご) この達第1 方が府県に達せられた( 操伝習所ニ於テ兵式体操及軽体操ノ教員タルヘキ者ヲ教養シ卒業ノ後ノ、主トシテ府県立学校ノ体操 「 教員タラシ」 めることを意図したものであった. しかも修業員は, 陸軍歩兵下士ニシテ常備現役ヲ離 22.

(4) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 第1表 府県立尋常中学校体操中兵式体操細目 第. 第一 表. 第 二表. 四. 年. 第. 五. 年. 歩兵操典生兵第一部 第一章第二章第一教 第二教第三教 徒手柔軟体操. 歩兵操典生兵第一部 第二章第四教第五教第六教 執銃ニテ歩兵操典 生兵第一部第一章 ノ復習及生兵第二部 第一章 執銃柔軟体操及其復習. 歩兵操典生兵第一部 第一章第二章 徒手柔軟体操. 歩兵操典生兵第二部第一 章及中隊第一部第一章 執銃柔軟体操及復習. 右第一 表ニ拠ルラ常 トス ト錐モ教員ノ 数充分ナル トキハ 第 二表 ニ 拠ルコ ト ラ得, 歩兵操典生兵第一 部第二章ニ於テ底装 法ヲ施ス能ノ・サル銃又ノ・木銃 (相当 1 7 ) ノ重量アルモノ) ヲ用 フル トキハロ装 法ニ易フ ルコ トラ 得(. し一箇年以内ノ者但従軍ノ実歴アル者ノ・本文ノ期限ヲ超過スルモ採用 スルコトアルヘシ」 とされ, 学校における兵式体操を軍隊に 緊密に結びつける方針がとられている. その後明治1 8年12月 9 日 3 ) その兵式体操の内容は 明 には,「兵式体操及軽体操修業員伝習ノ要旨及教科」 が達せられたが( ; , 治1 9年の 「師範学校ノ学科及其程度」 の原型ともいえるものであっ た. 「要旨及教科」 によれば, 「 「 「 兵式体操は術科において 「生兵ヨリ中隊ニ至 ル諸演習」 , 活用銃槍術」 , 柔軟演習」 , 器械体操」 を実施し, 学科として 「兵学ノ大意」 および測図を教授することとされ, そのうえ 「全期中適宜ノ 時間ヲ以テ射的演習行軍演習野外演習ヲ為サシム」 と規定されている. このように, 明治18年から 19年に至る時期は, 東京師範学校や体操伝習所において兵式体操教員が養成され, 教科課程の輪郭 が形成されて, 兵式体操制度化への準備がととのえられた時期であるといえる. 4 )「兵式磯操 その間に, 森は埼玉県師範学校において兵式体操の趣旨を明らかにする演説をなし( ; ヲ以テ養成セントスル者ノ・第一ニ軍人ノ至要トシテ講スル所ノ従順ノ習慣ヲ養ヒ, 第二ニ軍人ノ 各々伍ヲ組ミ其伍ニハ伍長ヲ置キ, 伍長ハー伍ノ篇メラ思テ心ヲ労シ情ヲ厚クシ, 第三ニ隊ヲ結ヒ テハ其ー隊ノ中ニ司令官アリテ之ヲ統督シ其威儀ヲ保ツカ如ク, 生徒ニモ交互兵卒トナリ伍長トナ リ或ノ・司令官トナリテ各々此ノ三気質ヲ備具セシム ルノ地ヲ倣サシメン」 とするもの であるとして 軍人をモデルに従順・友情・威儀の三気質をそなえた教員を養成するために兵式体操を採用 したこ とを明らかにしているの である. ここ では, 教員に必要な根本的な資格を人物に求め, その善良な 人物の要件として軍人に特有な三気質をとりあげたものである. 明治1 8年12月内閣制の発足に伴ない, 初代文部大臣となっ た森有礼は, 翌年帝国大学令, 師範 学校令, 小学校令, 中学校令の四勅令によっ てわが国近代学校制度の基礎を確立した. このような学 校制度の整備に伴なっ て兵式体操が制度的に確立することとなっ た。 すなわち,「尋常師範学校ノ学 1 5 )(19年5月) 「尋常中学校ノ学科及其程度」(同6月( 1 6 〉 「 科及其程度」( ) , , 府県立尋常中学校体操 1 7 { ) 「 1 8 ) 中兵式体操細目」(同6月 ) および 高等中学校ノ学科及其程度」(同7月( ) が制定されて, そ れぞれの学校におけ る兵式体操の程度が示されたの である. 23.

(5) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 1 1 東京師範学校と兵式体操 ( 1 ) 兵式体操の導入とその改編 兵式体操が全国に先がけて導入され試行された東京師範学校 では, 実施直後に早くも同校教員の 間から批判の声が起っ ている. 批判の要点は, 兵式体操が過度に実施されるところから, 学術研究 の時間を奪っ ていることに向けられるものであっ た.明治10年から東京師範学校において理科教育 の指導にあたり, 後に高等師範学校教授となった後藤牧太は, 後年兵式体操試行時を回想し, 同校 教員会において表明された兵式体操批判の意見を次のとおり紹介している. 東京師範学校規則改正あり しに付……諸学科ヲ文科, 理科甲種 (物理, 化学等を主とす) , 理科 乙科 (動物, 植物, 生理等を主とす) の三部に分類し, 梢々専門に近からしむることならむ…… 右の如く柏々専門に近き業をなすに 至りては, 多く実地の研究に依るを大切なりとす. 而して実 地研究は多く時間を要し, 時間を限りて何時より何時ま でとすることは甚 だ不都合なり. 時間を 限らず次ぎに他の教課なき時は午後に非んば得べからず. 然るに午後は彼の兵式 体操の為に全く 奪はる・が故に, 之れを実地研究に十分用ひろこと能は ず, 是前途の大なる不都合なるべし.依っ て此の辺のこと宜しく予め御勘考なし置かれたし, 彼の兵式体操も緊要なるものにはあれど其の 1 9 ) 時間を減じて学術の実地研究に用ひろことを得ば好からむか, 尚ほ他に良き工夫ありや( . ところ で, この兵式体操とともに東京師範学校教員の批判の的になっ たのが行軍であっ た. 一体 行軍は, 兵式体操の原型となっ た歩兵操練が中学校, 師範学校等に導入されるように なっ た明治17 年頃から, す でにそれと不可分の関係をもって実施され, 兵式体操が制 度的に確立された明治19年 9年5月 26 日に制定された には, 兵式体操の一環に組み 入れられたものである. たとえば, 明治1 「 文部省令第9号 「尋常師範学校ノ学科及其程 度」 第二条によれば, 兵式体操ノ・生兵学中隊学行軍演 習兵学大意測図」 から成るものとされたのである. この行軍について, 前記の後藤の回顧 録には教 員の批判の声が次のように記されている. すなわち,「行軍の為臨時休業になりて 正課の時間を奪は る・は甚 だ不都合なれば, 予め行軍の時を定め置き なば, 教員の胸算も立ち甚 だ宜しかるべし. 且 つ行軍も余り屡々やられては困ること故, 此の制 限を設けられた しと, 会員一同之を賛成し, 談論 頗る多かりしが,此の学期は詮方なし,会員皆此の心特にて新教則を議する時に十分議論することに 決せ り.」 と いう も の であ る.. このような批判のなかから, 東京師範学校では行軍を 二つの面で改変する動きが具体化していっ た. その一つは, 行軍の時期を一定にするための年間計画の設定であり他の一つは, 行軍を単に兵 引 参学旅行」 と改めて複合的な目的の校外行事 式演習のみならず学術研究の目的をも加味し名称も 「 0年3月, 修学旅行の期が 「第一 七月 た 明治2 ものであ 第一の点に関しては に改編していく っ . , 第二 十二月二十日より同三十日までの中時宜により執 三月十五日より同三十日ま での中時宜により執行 第四 毎月1回土曜日一泊以下」 と 行 第三 0 定められた( ぞ} 第二の点に関して後藤は次のように記している, 十八年の冬十二月頃 であると記憶 して居りますが遠くに出掛ける事になりました. 下総の銚子 ま で行軍することになりました. 私は余り行軍が多いの で丸で兵士の通りのことをするのである 十六日より九月十日ま での中 三十日以上. から之れを行軍ばかりでなしに, 学問上の事に利用したい修学の方にも利用した いと思ひましたの で私はそれを唯兵式の行軍 でなしに, 学術研究と云ふことを兼ねて 行ふやうにしたいと云ふこと を主張したの であります. 此の行軍は第一回の遠距里行軍 でありまして, 都ての事が兵式 で生徒 は皆鉄砲を担い で兵隊と同様の事を行ったの であります. 其の時の行軍の指揮者は今日の松石少 将彼の人でありました. 私の主張が幾分か行はれて, 私が研学の方の指図をすることに なっ て, 24.

(6) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 他の多くの教員と共に出掛けました. この時は兵式の行動兵式の演習が主 となっ て居りましたか ら燈台を見るとか, 少しばかり海浜 の動物を観察するとか海藻を採集するとか云ふようなことの 外は出来ません でした。 第二回の行軍是は翌年行はれました. 此の時には山川浩君が校長になっ て居られました, それ で此の時から行軍と云ふ名が変っ て修学旅行となりました, 修 学旅 行といふ名 は 此 時 始めて出 来たのであります. 併し兵式流の仕事もした のでありますが, 余程学術上の仕事をすることが多 くなりました. このように, 東京師範学校監督森有礼 の督励のもとで兵式演習に傾斜して行っ た行軍 が, 教育的 見地から改編され, 修学旅行という新たな行事形態 が生み出されるに至っ た動きのなかに, 東京師 範学校教員の教育的見識が現われているの である. なお第二回の遠距離行軍, すなわちわが国最初 の修学旅行に ついては, 明治1 9年12月 20 日に, 東京者渓会が 「東京者渓会雑誌」 第47号の附録 として 「高等師範学校第二回修学旅行概況」 を発刊しているが, 同誌の緒言には, この修学旅行の 意義が次のように総括されている。 此行タルヤ我校ノ教員及生徒ラシテ夏期休業ヲ其身心上最良ニ使用セシメントスルニアリ是故 ニ行軍ノ法ニ則ルト錐徒ニ 峻山鴫野ノ間ヲ威渉シテ筋骨ヲ強健ニシ或ノ・兵式演習ノミラナシテ以テ 其目的ヲ達スルトスルニ非 ルナリ抑学生ノ校中ニ在ルヤ諸般ノ学術ヲ修 ルト離異境ノ風土ヲ観察 シ新奇ノ現象ヲ研究スル等ニ至テハ蓋 シ足ラザル所アラン故ニ其外ニア ルヤ或ノ・動植鉱ノ採集ニ 従事シ或ノ・天然ノ美景ヲ描写シ或ノ・各般ノ現象ニ注目シ其平常校中ニ在りテ情ル所ノモノラ挙テ 之ヲ実境ニ徴スルラ得セシム是し其好学ノ情ヲ盛ニシ併セテ心思ヲ壮快ナラシムル事疑ヲ容レザル ナリ加フルニ武技ノ操 練ヲ以テシ其志気ヲ旺盛ニシ身体ヲ強健ニス此行ノ学生ニ利スル大ナリト 謂フベシ……且又平常教師ノ生徒ニ接スル多クハ教授上ノ事項ニ止り其関係目ラ隔靴ノ憾ナキ能 ハズト錐其相率ヰテ校外ニア ルヤ宿泊ヲ共ニシ飲食ヲ同フシ苦楽-軌其親愛ノ情ヲ加フルモ亦惟 平常校舎ニアリテ教授ヲ受ク ルノミノ比ニ非ズ薫陶の及フ所亦浅少ナラザルラ知ルヘシ このように修学旅行は多様な教育的価値をになう全く 新しい行事とし ての評価を受けるように なっ ているの である。 なお, この修学旅行は後藤によれば, さらに, 「斯う云ふ有様で二十三 四年 , 頃ま で行はれて居っ たと思ひます. 併し段々と兵式の方が衰へて研学と云ふ方が重く 見られるやう になりました. さうして後には全く鉄砲は 持たないということになりました それで兵式の演習と , 修学旅行と云ふものとは別にやるやうにな」っ たといわれる 第二回修学旅行の22日間の日程のう , ち1 9年8月 23 日から 27 日ま での分を抜粋したのが第2表 である この段階の修学旅行の複合的な . 性格がうかがえるもの である. ( 2 ) 修学旅行の普及 行軍に修学の目的を附加して新に形成された修学旅行は, その後全国的な ,普及をみることとなっ た. このような動きを森文政期に, 各府県から文部省に 報告され官報に掲載された行軍関係の記事 によっ て表示したのが第3表である. 第3表は, 府県報告を「行軍演習を単独に行なっ たもの」(A) と 「行軍およ び学術研究をあわせて行なっ たもの」(B) に区分し掲載したものである もとより , . こ れら の 報 告は, 全 国の 行軍演 習を残らず調べあげたものではないであろうが 行軍が修学旅行 , へ改編される動きは, この表によってみても明らかである. 表中の (A) は, たとえば 「宮城県師 範学校ニ於テハ去月十八日該校生徒ヲ兵式学隊ニ編成 シ同校職員及附属小学校教員一同管下名取郡 2 1 〉という事例に代表されるようなものであり (B) は 「和歌山県 岩沼駅へ行軍翌十九日帰校セリ」( , 尋常師範学校生徒五十七名ノ・兵式体操演習及学術研究ノタメ校長及職員之ヲ率ヒ去月十九日和歌山 25.

(7) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 第2表 修学旅行日程 鉱泉 実 検. 教員. 中. 川. 謙二郎. 仝. 後. 藤. 牧. 中学師範学科 第三級後期生. 仝. 小. 山. 正 太郎. 中学師範学科 第一級前期生 第二 級後期 生. 仝. 中学師範学科 第三級前期生. 地 文 観 察. 8 月2 3日. 景. 写 △ 24日 工. 兵 式 演 習. 各. 生. 仝. 伊. 藤. 竜之亮. 地 文 観 察. 中学師範学科 第三級前期生. 仝. 後. 藤. 牧. 仝. 岩. 川. 友 太郎. 中学師範学科 第三級後期生. 仝. 小. 山. 正 太郎. 生. 仝. 伊. 藤. 竜之亮. 級. 動植物、 採集 景. 写. 仝 .27日. 中学師範学科. 第一級前期生. 仝. 第 二 級後期 生. 各. 兵 式 演 習. 全 26日. 大. 第 一 年 生. 理 化 学 科 全 25日. 大. 第 一 年 生. 理 化 学 科. 級. 地 文 観 察. 理 化 学 科. 第 一 年 生. 仝. 後. 藤. 牧. 動植物、 採集. 中学師範学科 第三級前期生 後期生 全 中学師範学科 第一級前期生. 仝. 岩. 川. 友太 郎. 路上測図法. 仝. 第二 級後期 生. 仝. 小. 山. 正太郎. 大. 注 「高等師範学校第二回修学旅行概況」 による 第3 表. 府 県報 告にあらわ れた行 軍 演習の 実 況. 毒 巻 き 喜 き ぶ き. 明 治 19 年 A. B .. 21. 20. 22. A. B. A. B. A. B. 7. 7. 6. 10. 4. 1. 尋常中学校. 2. 尋常師範学校. 2. 12. 24. 9. 15. 6. 1. 計. 4. 19. 31. 15. 25. 10. 2. テヒ ヲ発シ大和国吉野地方へ行軍シ地理歴史等ノ諸学ヲ講究シ帰途同校五条河原ニ於テ 発火演習ライ 2 2 高野山ヲ経テ同二十六日帰校セリ」( }という事例に典型的に あらわれるような内容のものである. 表にみられるように,20年,21年と複合型の修学旅行が増加 していっ たのは, 行軍演習の改編が教 育界の強い支持を得た結果とみられる. 1 1 1 教育ジ ャーナリズムと兵式体操 森有礼をその推進者として展開された兵式体操施策に対し, 教育 界から提起された批判を教育雑 誌を手がかりに検討していくのが本章の課題 である. 教育雑誌にあらわれる兵式体操批判は, 現実 の施策の展開過程に対応して, その論調が次第に変化していっ た. 東京師範学校において兵式体操 が試行され, 体操伝習所においてその教科課程の検討と教員養成がすすめられていた明治1 8年以降 26.

(8) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 1 9年初頭にいたる時期に, 早くも兵式体操批判があらわれている. 現実の施策の根底にある教育観 2 3 ) に注目して, その兵式体操至上主義を批判した論説 (「教育時論( 」 第22号) がそのはじめであっ た。. この論文はまず,「各個人ノ身体ヲ強壮ニスルハ一国富強ノ原素ナリ仮ヒ各個人ノ知力ノ・十分ニ開 発スルモ身体薄弱ニテハ未ダ以テ外侮ヲ禦 グニ足ラズ」 として官立公立学校に続々歩兵操練 (兵式 体操) が実施され, 従前の体操法が衰退しつつある事実をあげ, それに対して知・徳・体の調和的 発達を教育の目的とみる三育主義に立って, 身体のみを強壮にすることは国家富強につながらない とし, さらに注意力, 観察力を養成し, 労働の暗好および習慣を養成する上に効果のある工芸教育 を推奨する立場にたって学校を兵営と同一にする兵式体操を批判している. また, 歩兵操練が剛勇 と忍耐力を養成することは認めつつも, 道徳的情操を開発するものではないの で, いわゆる有形の 修身ともなり得ないとしたのである. 森自身くり返し三育主義の立場を主張したのであるが, 現実 の施策は, 欧米諸国民に比し日本国民の体力が劣勢にあるとの危機意識のもとに, 兵式体操による 身体の鍛錬を特に強調し, しかもそれに多様な教育効果を認め, 教育の基底にすえる傾きすらあっ たのである. したがっ て, ここにみられる兵式体操批判は, 森指導下の兵式体操施策の実態をよく つ い た も の とい え る.. 2 4 ) ) があらわ つい で, 兵式体操施策の背後にある国家主義を批判する論説 (「教育時論」 第23号( 「 れたのが注目される. それは, 生徒を教育するとは……生徒の身体を健康に発達せしめ其心意の諸 能力を適当に開発するに在るのみ」 とする開発主義の教育観にたち, さらに 「其身体の健康を維持 し其心意の諸能力を適当に開発せしむるは果して何の為なるか各生徒が他年成長の後世に処し事に 臨みて能く之を措置するの材幹を備具せしめんが為のみ左れば常に教育家の目的中に置く べき者は 実に生徒其人の幸福を求むるの 一点にあり」 とする個人主義的教育目的観を表明して, 兵式体操の 背後にある国家至上主義を次のように批判したの である. 吾輩世の教育者の所論を同ふに常に国家上の見解に偏重に して各生徒に就て見解を下すの偏軽 なるを覚ふるなり……近日大に流行せる歩兵操練の如きは果して生徒の身体を健康にするの目的 に出てたろか吾輩の聞く 所に拠れは生徒の健康を維持する為には兵式体操にては少しく 激に過 ぐ る所ありて到底従来行はれたろ学校体操式の適度なるに如かずと云へり然るに今日の風潮を見る に漸く 此を捨て彼に就くの趣きを呈したろは全く国家上の見解より出てたろ者にして教育の上よ り下せる見解にあらざるべ し. 近代教育の組織原理をめ ぐる二大路線の相旭が明らかであるが, これを国家主義に収束させるの が森に負わされた課題であった. このように, これらの論説には 森のそれとは明らかに異なる教育 観からの兵式体操批判がみられ, それだけに徹底した批判が展開されており, いずれも兵式体操論 の 本 質 を つ い て い る.. 9年から22年までの時 森が文相に就任し, 兵式体操が制度的に整備され普及浸透していく明治1 期は, 兵式体操の普及期と でも呼ばれるべき時期 であるが, この時期の教育ジャーナリ ズムの論説 は, 政府の施策に賛意を表明しつつ, その現実化のための条件の不備をつくもの, あるいは兵式体 操の行き過 ぎを指摘し強く 改善を促すものが主になっ ていく. しかし, そのなかにも兵士をモデル に展開される教育方法に不可避な教育的欠陥があらわにされており, 期せずして兵式体操の本質を の ぞかせ る も の と な っ て い る,. 兵式体操の実施をめ ぐる条件の不備をついた批判としては, まず服制と体操場にかかわるものが ある。 一体, 兵式体操に関連して服制を洋風に改める動きは, 中学校, 師範学校については, す で 2 5 )をめ ぐる服制の問題は j 0年代末期にみられるものであるが,/ に明治1 ・学校への兵式体操の導入( , 27.

(9) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 服制改革をいわば国民的規模に拡大することとなり, 国民の生活慣習や生活の実態とのずれをあら 2 6 )は 「木銃ヲ担ヒ 『ラ わに し, 大きな問題となっ たものである. 「教育報知」 第12 5号掲載の論説( , ン ドセル』 ヲ背ニスルニモ似ズ, 尋常日本服ノ袖長ク裾潤キモノラ着シテ運動ラナ スラ以テ, 銃ノ 取扱ニ, 運動ニ, 甚不活発, 甚不整頓ニシテ, 迎モ紀律ヲ守 ルノ習慣ヲ養成シ, 身体ノ発育ヲ十分 ナラシムルコト能ハザルガ如ク, 且ツ体操場ノ・人家細密一ノ空地ナキ程ノ場所柄ナ ルラ以テ, 甚狭 ク, 先頭数歩進メ バ忽チネ テキ当り,『 ノ・一ル』 ノ令ヲ下サ ゞルラ得ザルガ如ク, 実ニ不都合千万」 と し, 服制およ び体操場の不備が, 兵式体操の効果を減殺している事実を指摘し, 洋服の着用と体操 場の整備を促している. 論者の主張とは別に, このような事実は, 国民生活の実態を無視して上か ら強行される施策が, 正しく行きづまっ ていることを示しているといえる.「流行熱ニ侵サレ, 教員 ノ・生徒ニ向テ一般 ニ洋服ヲ着スベ シ, 旗轍ヲ製スベシ, 又背嚢ヲ造し銃ヲ買へ 等ノ要求ラナスニ至 2 7 ) りテハ, 其父兄ノ感情ヲ損スルノ恐アリテ, 予ノ最モ不賛成ヲ表スル所ナリ{ 」 という主張がなさ れるゆえん である. 他方 で, 兵式体操の行き過 ぎを指摘し, その改善を要求する議論が多く現われるのもこの時期の 特徴 である. これは, 政府の施策を是認する点で前記の条件整備論に通ずるものがある 「教育時論」 . 2 8 )所 載 の 論 説は 鎮台の兵式体操が戦場を想定して命令- 下人を器械のごとく動かすこと 第 122 号{ , を目 ざすものであることを指摘した上で,「学校ニ於テ兵式体操ヲ課スルハ, 鎮台ニ於テ兵式体操ラ ナサシムルトノ・ , 大ニ其目的ヲ異ニスルモノニシテ, 順良, 信愛, 威重等ノ良性質ヲ養成シ, 一個独 立ノ人物ヲ養成セント欲ス……然ルニ世間兵式体操ヲ実施スル学校ノ有様ヲ見聞スルニ, 或ノ、某学 校ノ生徒ハ, 数日夜営演習ラナシテ, 大ニ疲労シ, 版校ノ後課業ニ就ク能ノ・ザルコト数日ナリトカ, 或ノ・某学校ニテハ生徒ニ卿 臥ヲ吹クコトラ稽古サセシニ,終ニ血ヲ吐キシモノ数名アリテ,父兄ヨリ 大ニ苦情ヲ言ヒ立テシトカ, 或ノ・某学校ニテハ余りニ兵 式体操ニ身ヲ入し過 ギシニヨリ学期末試業ノ 成蹟非常ニ悪シク, 職員ノ・之ヲ処置スルニ, 大ニ当惑セシトカ, 或ノ・某府県ノ郡内小学校ニテノ\ 教員ノ兵式体操ヲ教フ ルモノナキラ以テ, 陸軍ノ版休兵ヲ雇フテ, 兵式体操ヲ教授セシムルトカ, 全ク教育的ヲ 離しテ単ニ兵隊的ノ兵式体操ヲ施行スルモノアルガ如シ」 と, 行き過ぎの実態を明ら かにし, つい でその改善を要望している. しかし, このような事実は単なる行き過ぎではなく, 軍 隊に範を求める兵式体操に不可避な弊害 であるといえよう. このような弊害は, 遂に大阪府会の是 ) 同様に行き過 ぎの是正を要求し 正要求決議のよう な動きを呼び起こすこととなっ たもの であるぞ9 0 「 ( ) 「 たものに 教育報知」 第1 56号がある… 同誌は, 兵式体操ノ如キ道具攻メノー具トシテ之ライ テヘ バ, 美ハ則チ美ナノい キモ, 若シ之ヲ過 ッ トキハ徒二強勇ヲ尊ヒ猪突ノ暴威ヲ遥フシ腕力 二誇り健歩 ニ慢シ, 大ニ殺伐ノ気象ヲ養成スルカ故ニ今ニ於テ最モ慎重ヲ加ヘラレタク存スル」 と府県学務課 長の意見に仮託して暗に兵式体操施策の行き過 ぎに注意を喚起したのである. さらに兵式体操教員の資質低下をとりあげ, 兵式体操教師の招聴の停止から兵式体操の廃止を示 3 1 }掲載の論説は 条件整備論から次第に兵式体操廃止論へ傾いていっ 唆した 「教育報知」 第1 65号( , たものとして, 森文政期直後の兵式体操否定論に連なる過渡的特色を示すものといえる. さらに, 森文政期直後の明治23 , 4年にあらわれる論説は, 森文政 期 の兵 式 体操 の実 況 を根拠 3 2 )の社説は 森が従順・信愛・ に,その効果を否定したところに特色があ った.「教育時論」第1 87号( , 威重の三徳養成の方法として兵式体操をとりあげ, 確固たる決意のもとにこれを実施した結果が果 して効果があっ たかどうかを問い, これを証するには, 理論によるより実験に従うべき であるとし て, 旧時の師範学校と兵式 体操実施後のそれとの比較論を展開するの である. そこでは特に, 兵式 体操実施前の師範学校に生徒騒擾が全くみられず, 実施後の師範学校に騒擾が多いことを根拠に, 兵式体操が従順・信愛・威重の三気質の養成に成功していない事が主張され, さらに,「兵式体操は 28.

(10) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 原と兵士を訓練して, 一朝事あ るに方り, 協同一致して危難を共にするの気質を養成すべき方法な り. 故に此法によりて鍛錬せられたるものは, 互に智を戦はし芸を磨きて, 競進せんとするの気風 無く唯協同して事を成就せんと企望する」 ところから, いきおい付和雷同して騒擾を生み出すこと になる, として兵式体操そのものを騒擾の原因とみたのである. この論説の主張するところとは別 の理由, すなわち軍隊式の強圧教育が生徒の不平を招き騒擾を招いたことは, 今日よく知られてい 3 3 } ともあれ 騒擾とのかかわり で 兵式体操の効果が全面的に否定さ れたの であ るところである{ , , 。 る.. 同様の趣旨によ って, 教育 界の外から兵式体操の失策を批判 したのが 「国民之友一 であっ た。 同 誌は, 師範学校の騒擾とのかかわり で特に, 兵式体操が教育の本旨たる自主自律の人物養成に 欠け る点を批判して, 次のように記している. 森子の所謂惟一の教育法た る, 軍隊組織に依りて訓練せらる)所の師範学校の如きに 於ては , 往々生徒の-撲を見ること有り, 世人或は之を称してスツライ キと云ふ, 吾人は寧ろ彼等に与ふ るに一撲の名を以てす可し……柔順を以て立教の大精神と為す師範学校にして, 斯の如き不柔順 の生徒を出すは, 抑々誰の責 ぞ, 是を以て訓練行はれたりと云 ふ可き 乎, 所謂訓 練 なる 者は, 令せさるに行はれ,命せざるに為され, 肯て強迫を須ひず, 威権を仮らず, 全く自主の行為に由り て, 知らず識らず紀 律に合し,動揺周旋,みな其規矩を失はざる者に非ずや, 吾人は彼の官立学校が, 兵式を以て生徒訓練の要と為し, 却て訓練の実を行はずして, 空しく千百の生徒をして卑屈の民 たらしめ ざれば, 暴民たらしむるの実を観, 深く其道を誤まりたろを情む, 然り吾人は実に之を 3 4 ) 情 む( .. 兵式体操の根本的欠陥を指摘したものというべき である. 兵式体操批判は, ここに極まっ たとい える であろう. こうして,「今日は吾等が痛論したろ功績と云ふにあら ざるも, 兵式体操の弊害は漸 3 5 ) っ たと い わ れる く 人 の知 る 所 と な りて, 其 流 行 熱 も 次 第 に 下 た 火 と な( 」 。 む. す. び. 兵式体操は, 森有礼の強力な督励のもとに, 全国のすみずみま で浸透していっ た. しかし, 全国 的な普及のなかで教育界からは多くの批判が起っていた. 兵式体操への批判は, 早くも東京師範学 校における試行時に活発になっ ていったの である. 同校では, 学術研究との時間的競合が批判の的 となり, 遂に兵式演習に学術的目的を加え修学旅行という新しい学校行事を生み出すに至っ たので ある. しかも修学旅行はその後全国に波及し, 学校行事 として定着していっ たの である. 兵式体操 が教育的改編を受けた事例といえる. 一方, 教育ジャ ーナリズム では, まず兵式体操制度化の準備の始まる明治18年には, 個人主義的 教育目的観にたっ て, 兵式体操にまつわる国家主義を批判する論説があらわ れ, 三育主義によっ て 兵式体操至上主義を批判する論文が発表されるなど, 兵式体操への否定的論調が顕著であっ た。 ついで, 明治19年5月以降兵式体操が制度的に整備されるとともに, 教育雑誌からは否定的論調 が影をひそめ, 兵式体操現実化のための条件の不備が批判さ れ, さらにその普及に伴なう行き過ぎ が問題とされるようになっ ていっ た. しかも行き過 ぎの事実のなかには, 期せずして, 兵式体操の 非教育的な本質をあらわにするものが少なくなかっ たのである。 こう して, 明治22年2月きわだっ て個性的に展開されていた森文政が終烏するとともに, 兵式体 操への否定的論調が再び活発となる。 そこ では, 気質鍛錬の方法としての兵式体操の有効性が否定 され, 森文政期の流行熱が冷却していっ たのである。 しかし, 兵式体操は日本近代国家の軍国主義的体質に即応するものであっ ただけに, 大正期には 29.

(11) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. その再編をめ ぐっ て臨時教育会議の活発な論議をよ びおこしたの である. その意味でも森は, わが 国近代学校制度の基礎の確立者 であるといえよう. ともあれ, われわれとしては強力な森文政の施 策さえ教育 界の世論の前に屈折 している事実の方に留意しておきた い. 兵式体操関係年譜 明治1 3年 明治1 6年 明治1 7年. 文部省は体操伝習所に歩兵操練を教授すべき旨を命ずる. (1 1月) 徴兵令改正が布告される. (1 2月) 文部省は, 官立公立学校において演習すべき歩兵操練科の程度施行の方法および小学校において該科 施行の適否等取調具申するよう体操伝習所に達する, (2月) 京都府は, 師範学校, 中学校に歩兵操練科を新設する, (4月) 新潟県は, 師範学科および中学科に歩兵操練科を新設する. (同年中) 府立大阪師範学校は歩兵操練科を新設する. (同年中). 明治1 8年. 体操伝習所は, 歩兵操練科の程度施行の方法等に関する調査結果を文部省に復申する.(11月) 東京府中学校体操科規則改正, 歩兵操練の初歩を演習せしめる. (6月) 広島県は, 広島師範学校, 医学校, 中学校, 農学校生徒中56名を選抜し, 広島鎮台附歩兵による歩兵操 練科の伝習に着手する. (9月) 九州各県連合教育会は, 小中学校師範学校等体操科への歩兵操練科挿入の有無を諮問する,(1 1月) 岐阜県華陽学校 (師範, 中学部) は兵式操練を導入する.(11月) 体操伝習所は兵式体操導入のための諸取調べに着手する. (11月) 兵式体操実施準備のため体操伝習所は修業員を募集する.(1 1月) 東京府師範学校およ び中学校生徒体操術演習において兵式体操が施行される. (1 1月) 「教育時論」 は兵式体操批判を掲載する (1 1 ) 月 . 東京師範学校生徒, 体操伝習所本科伝習員は行軍を実施する.(11月) 石川県専門学校, 師範学校は歩兵操練を学科に加える.(1 2月) 体操伝習所修業員伝習要旨に兵式体操が掲示される. (1 2月). 明治19年. 石川県師範学校は, 第一回の兵式体操講習を開く.(1月) 東京師範学校生徒行軍において兵式操練および学科講究が行なわれる.(2月) 山口県山口中学校は, 兵式体操実施に伴ない被服冠帽の制を定める. (2月) 広島県県立学校, 公立小学校運動会において兵式体操が実施される.(2月) 島根県第二中学校は, 歩兵操練科実施を決定する.(3月) 広島県は, 同県師範学校, 医学校, 中学校, 農学校生徒に歩兵操練科卒業証書を授与する.(3月) 滋賀県師範学校は, 兵式体操手続を定める.(3月) 大分県師範学校および中学校においては, 毎週3時間歩兵操練を授ける, (4月) 大阪府立中学校は行軍を実施する.(4月) 石川県師範学校男生徒は, 洋装銃を携え兵式体操を演習する. 福島県師範学校, 中学校生徒は, 運動会において歩兵操練を実施する. (4月) 埼玉県師範学校は, 兵式体操に関する準備をなし, 寄宿舎の構造を改造する. (5月) 文部省は府県立尋常中学校体操中兵式体操細目を訓令する, (6月). 注. 30. 1. 資料は雑誌 「教育時論」 , 官報および文部省年報による. 2, 紙幅の都合上, 全国的な動向を示すものを選択掲載した..

(12) . 佐竹道盛:兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題. 〈注〉 97 2年 森有礼全集第一巻 32 ( 1 ) 大久保利謙編 1 5-329頁 2 ( ) 同 上 332-334 頁 ( 3 ) 同 上 344-346 頁. な お,「閣 議案」 は 大 久 保利 謙氏 に よれ ば, 明治 20年 の 起 草 に か かる も の と み ら れて いる.. 6頁 7号 5 4 ( ) 大日本教育会 明治19年1月 大日本教育会雑誌第2 ( 5 ) 歩兵操練の学校教育への導入に関しては, 木村吉次氏の詳細な研究がある, 木村吉次 「兵隊教練論」(「体育の 964 0号,1 964年)同 「兵式体操の成立過程に関する-考察」(「中京体育学論叢」 第5巻1号,1 科学」 第14巻第1 年) 参照 2月 28 日 6 ) 官報第15 2号 明治16年1 ( 2頁 2年報附録 所載 5 8 明治1 7年 文部省第1 7 ) 体操伝習所第6年報 ( ( 8 ) 同 上 586一587頁. ( 9 ) 1 0 ( ) ⑪ 2 q ) 億 ) 4 q ). 94頁 海後宗臣監修 昭和46年 日本近代教育史事典 3 8年 5頁 3年報 明治1 文部省第1 同上 3頁 1月18日 226 頁 官報第71 6号 明治18年1 月 18日 247-248 頁 明治1 2 8年1 4 1号 官報第7 8年1 2月 1一4 87頁 なお,この演説は森の文部大臣就任前の1 2年 森有礼全集第一巻 48 97 大久保利謙編 1. 19 日に 行 な われて い る.. 1 ( 5 ) q 6 ) Q 7 ) Q 8 ). 6日 官報8 6 8号 文部省令第9号 明治19年5月2 91号 9年6月 22日 官報第8 同第14号 明治1 9日 官報第89 7号 文部省訓令第6号 明治19年6月2 9年7月1日 官報第89 9号 6号 明治1 文部省令第1. 4年 3 2-35頁 Q 9 ) 若渓会 教育-東京高等師範学校創立40年記念号 明治4 明治44年 37頁 α の 東京高等師範学校沿革志 00頁 31号 1 1日 官報第11 回 生徒行軍 明治20年4月1 53号 5 鰹 ) 生徒行軍 明治20年5月 6 日 官報第11 4頁 2号 3-6頁 1月25日 教育時論第2 回 教育ノ至極ノ・兵式体操ニ在ルカ 明治18年1 2月 5日 教育時論第23号 2-7頁 ( 2 4 ) 教育上にては国家より各個の事を先にすべし 明治18年1 0条中体操ノ 2日 「明治1 9年5月文部省令第8号小学校ノ学科及其程度第1 ( 2 5 ) 文部省令第2号 明治21年1月1 部隊列運動ヲ兵式体操ト改ム」 25号 5-6頁 岡 兵式体操ニ付テ 明治21年6月 30 日 教育報知第1 0号 18頁 5日 教育時論第21 肋 軍事教育ノ必要ヲ論ス 明治24年2月1 22号 1 3-1 4頁 ( 2 8 ) 兵式体操ニ付テノ卑見 明治21年9月 5日 教育時論第1 35号 24頁 5日 教育時論第1 ( 2 9 ) 兵式体操に付大阪府会の建議 明治22年1月1 5 6号 2-4頁 縄 文部大臣学務課長ヲ召集ス 明治22年2月 2 日 教育報知第1 6 5号 11頁 鯉 ) 体操小言 明治22年4月 20 日 教育報知 第1 3 ( 2 ) 師範学校生徒の気質鍛錬 明治23年6月2 5日 教育時論第1 87号 5-8頁 8頁 森有礼における人間像 鰯 ) 武田清子 昭和34年 人間観の相池 21 0頁 2号 7-1 3日 国民之友第11 御 教育界の時事 明治24年3月1 4号 8頁 筋 ) 三度び師範学校生徒の気質鍛錬を論ず 明治24年3月2 5日 教育時論第21. 参 考 文 献 0年 ( 1 ) 東京大学教育学部紀要第8巻 昭和4 2 ( ) 木下秀明著 日本体育史研究序説 昭和46年 不昧堂出版 (本 学 講 師 ・ 函 館 分 校). 31.

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