の成立過程
著者 内田 尚孝
雑誌名 コミュニカーレ
号 2
ページ 91‑117
発行年 2013‑03
権利 同志社大学グローバル・コミュニケーション学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013140
―「土肥原秦徳純協定」の成立過程―
内 田 尚 孝
1933 年 5 月 31 日に塘沽停戦協定が成立し、1931 年 9 月 18 日に始まった「満 洲事変」は一段落した。しかし、その直後に始まった塘沽停戦協定善後交渉 を通して、日中間の溝は一層深まり、1934 年後半期に入ると現地日本軍は 華北分離工作に向けた動きを水面下で活発化させる。そしてこの動きは 1935 年 5 月以降、「河北事件」あるいは「第二次張北事件」として可視化する。
従来、後者に端を発するいわゆる「土肥原秦徳純協定」は、1930 年代の日 本軍による華北侵略の一環として必ず言及されはするものの、前者をめぐる 交渉によって成立したいわゆる「梅津何応欽協定」(1)についての叙述に重点 が置かれ、「土肥原秦徳純協定」に焦点が当てられることはほとんどなかった。
その大きな理由の一つとして、日本側にはきわめて限られた資料しか残され ておらず、詳細な成立過程の分析、検討が難しかったことがあげられる。し かし、もう一方の当事者である中国側には多くの一次資料が残されており、
現地交渉の詳しい経過状況や国民政府(南京)と現地(北平)の間の中国側 の動きはもちろん、残された日本側資料からはうかがい知ることができな かった現地日本軍の動きも、かなりの程度カバーすることができる(2)。
そこで、本稿では、日中双方の資料をつき合わせながら、「土肥原秦徳純 協定」の成立過程を可能な限り復元し、当時の察チ ャ ハ ル哈爾省方面における日中間 交渉の実態を解明したいと思う。まず、「土肥原秦徳純協定」の成立過程を、
第一次察東事件にまで遡って考察する。従来、第一次察東事件についてはわ ずかに記録された日本側資料にもとづいてごく簡単に触れられる程度であっ たが、実は、同事件をめぐる交渉が、「土肥原秦徳純協定」成立に向けた第 二次張北事件をめぐる交渉の原型となっている。そこで、本稿では、大灘会
『コミュニカーレ』2(2013)91-117
©₂₀₁₂ 同志社大学グローバル・コミュニケーション学会
議に至る日中双方の動きを詳細に追いつつ、察哈爾省方面における現地交渉 の実態を明らかにする。これを踏まえ、次に、第二次張北事件発生後、どの ようなプロセスを経て「土肥原秦徳純協定」が成立したのか、日中双方の資 料を読み解きながら交渉の全体像に迫りたい。とくに従来日本ではほとんど 関心が払われてこなかった中国側の受諾決定プロセスの解明を通して、華北 における「主権」をめぐるぎりぎりの攻防を明らかにする。これは「最後の 関頭」を理解する一助となろう。また、「土肥原秦徳純協定」は、「協定」と 呼ばれはしているものの、塘沽停戦協定のように当事者が正式に調印した協 定ではない。最後に、いったい何をもって、どのような手続きを踏んで「協 定」が成立したとしているのか明らかにし(3)、同「協定」のはらむ問題点 について指摘したいと思う。
1.蔣介石の内モンゴル地域視察
1934 年 10 月、西北・華北地域を視察していた蔣介石は、24 日、夫人の宋 美齢、顧問のドナルド(William Henry Donald)を伴って山東省済南から空路 北平(現北京)に入り、26 日から 31 日まで協和医院に入院して検診を受け ていた。この間、蔣は精力的に黄郛(行政院駐北平政務整理委員会委員長)
らと華北情勢、中日関係などにつき意見を交わす一方、内モンゴル方面への 働きかけを強化し、蕭振瀛(軍事委員会北平分会委員)を内モンゴルへ派遣 した。蕭は 11 月 2 日に察哈爾省滂江で徳王(徳ド ム チ ョ ク ド ン ロ プ
穆楚克棟魯普)と、翌 3 日に は徳王とともに綏遠省百霊廟で雲王(雲ユンタンワンチュク端旺楚克)と会見している。これに 先立つ 1 日、蔣介石は、雲王および賽サ イ ン バ ヤ ル
音巴雅爾(包悦卿、蒙古地方自治政務 委員会駐北平弁事処長)と会談し、蒙古地方自治政務委員会の活動状況を聴取、
3 日北平を離れ、翌 4 日察哈爾省張家口で下車して張北、山西省大同などを 視察し、6 日には傅作義(綏遠省政府主席)や宋哲元(察哈爾省政府主席)
とともに綏遠省帰綏に入り、8 日、山西省太原に向けて出発している(4)。 こ の 間 の 11 月 7 日、 蔣 介 石 は、 帰 綏 公 医 院 で 徳 王、 雲 王、 索 王
(索ソ ト ナ ム ラ プ タ ン
特那木拉布坦)らモンゴル族指導者と会見した。日本側資料によると、
蔣はこの場で、
「日本帝国主義者ハ大陸政策遂行ノ為偽満洲国ヲ組織シ既ニ東蒙ハ其ノ管
轄ニ属シ塗炭ノ苦境ニアリ而シテ日本ハ対蘇関係ノ緊張ニ伴ヒ更ニ内蒙侵 略ノ挙ニ出テツツアリ内蒙ハ実ニ華北ノ門戸ニシテ日本ハ先ツ内蒙ヲ得テ 之ヲ拠点ニ全華北ヲ侵略セントシツツアルモ中央ハ日本ノ西侵防御ニ就テ 完全ナル計画アルヲ以テ各王公ハ中央ト提携シテ共同防備ニ任スルト共ニ 漢蒙民族ノ団結ヲ鞏固ニスヘシ」
と述べ、騎兵師団の移駐および内モンゴル地域での要塞建設を提案するとと もに、察哈爾・綏遠の軍事当局に対して内モンゴル援助を要望したという(5)。
第五次囲剿戦の勝利を受けて、蔣介石は国民国家建設・国家統合の新たな 段階を展望しつつあった。今回の察哈爾・綏遠の視察は、同時期に強化され た西南政務委員会への働きかけとともに、これを象徴する出来事であったと いってよい。しかも、日本軍の侵略阻止、抗日戦争への準備を明確に念頭に 置いたものであった点で注目される。
この蔣介石の察哈爾・綏遠視察は関東軍を強く刺激したようである。先の 資料は、「軍ノ対察哈爾工作ニ暗影ヲ投シタルコトハ事実」であり、何らか の対策を講じる必要に迫られていたとしたうえで、「遇ママ々宋哲元軍カ越境満 洲国内ニ駐兵スルヤ好機逸スヘカラストナシ此ノ際一気ニ北支並察哈爾諸問 題ヲ解決セントシ多倫ノ攻略ヲ決意シ其ノ影響及方略攻究打合ノ必要ヲ認 メ」、関東軍、支那駐屯軍、駐在武官らが大連会議を開催して対策を練り、「時 機ノ到来ヲ俟」っていたと綴っている(6)。この記述によれば、次に見る第 一次察東事件以降の一連の日本軍の行動は、大連会議において打ち合わせ済 みで、しかも蔣介石の内モンゴル地域視察への対抗策であったことになる。
しかも、蔣介石が視察に向かう直前、察哈爾省では日中間の新たな緊張の 火種がくすぶり始めていた。一般に「第一次張北事件」の名で知られる日中 間の小競合いで、以下は、日本側資料が伝える事件の概要である(7)。
川口清健(支那駐屯軍参謀)、池田克巳(外務書記生)ら一行 8 人は、内 モンゴル地域の旅行を計画し、旅券[護照]、旅行先各地中国官憲への通報 などの手続きを終え、10 月 27 日に察哈爾省張家口を出発し同省多ド ロ ン倫に向かっ た。ところが旅程途中の張北南門で第 29 軍(軍長宋哲元)第 132 師団(師 団長趙登禹)の衛兵、保安隊員が一行の通行を阻止、池田が殴打されるなど 一時騒然となったが、一行が公安局宛に送った手紙により現場に駆けつけた
将校が取り静め、ようやく一行の通過が許可された。日本側は、このような 行為は「皇軍将校」および外交官に対する侮辱であるとし、29 日に橋本正 康(張家口領事代理)が張維藩(第 132 師団参謀長)に抗議、翌 30 日には 北平滞在中の宋哲元に対して柴山兼四郎(公使館付武官補佐官)が厳重抗議 を行った。これを受け、宋哲元が 11 月 25 日、趙登禹に正式陳謝させるとと もに、29 日、責任者の張書林を免職、12 月 7 日には「将来の保障」(8)を認 めたことで、事件はひとまず解決を見た。
ところが、その直後、察哈爾省と熱河省(「満洲国」)の境界で軍事衝突が 起こった。
2.第一次察東事件
1935 年 1 月 4 日から 5 日にかけて「対支蒙諜報関係者」が大連に会同し た(大連会議)。席上、関東軍代表は、「満洲国境外ニシテ停戦協定線ノ延長 部分間ニ在ル」第 29 軍の「配置ハ黙認スル」としながらも、「明カニ満洲国 内ニ在リ若クハ国境線上ニ在ルモノニ対シテハ常ニ之カ撤退ヲ要求」し、「満 洲国内ニ於テハ所要ニ応シ在満兵団ヲ使用スヘク又国境外ニ於テハ飛行隊ヲ 以テ視察監視スルノ外特ニ北平武官等ノ協力ニ依頼ス」る方針を示すととも に、「熱河省西南部国境問題」について次のような注目すべき説明を行って いる(9)。
「軍ハ該地方ノ国境ヲ殊更ニ明確ナラシムルノ要ヲ認メス支那側ニシテ我 信スル国境線ヲ犯シアル時ハ我方ノ見解ニ基キ各種手段ヲ講シ之カ駆逐ヲ 図ルコト前述ノ如シ
関東軍トシテ多倫ハ永久ニ之ヲ支那側ニ接収セシムル意志ナシ之カ為左記 ノ理由ヲ以テ応酬セントス
満洲国内ニ対シ支那方面ヨリ陰謀団ノ進入スル現況ニ鑑ミ多倫ヲ接収セシ ムルハ益々其策源地化スルノ虞アルモノト認ム
殊ニ李守信軍ノ治安維持ニ関スル貢献ニ鑑ミ軍ハ該地方ノ動揺ヲ惹起スル ノ虞アル変革ヲ希望セス。」
「満洲国」と察哈爾省との境界を明確化する必要はないという方針である。
「国境」線を決めるのは日本側であって、「国境」線をあえて曖昧にしておく
ことで任意に「領土」を拡張し得る余地を残そうとしていた姿勢がうかがわ れる。当時の察東(察哈爾省東部)地域における軍事的緊張の主要因は、長 城線東側に位置する察哈爾省沽源県の管轄域であった長梁、烏泥河、北石柱 子、南石柱子、四道溝や同省延慶県の永安堡一帯を、日本側が「満洲国」の 熱河省豊寧県の管轄域であると主張し始めたことにあった(『大公報(天津)』、
1 月 20 日)。また、1933 年以来懸案の多倫について、中国側に引き渡す考え のないことを明確に示している点も注目される。
1 月 19 日夜、高橋坦(公使館付武官補佐官)が非公式に何応欽(軍事委 員会北平分会代理委員長)を往訪し、次のような通告文を手渡した(10)。
「宋主席側ハ曩ニ松井中佐ニ対シ大灘西南側地区ニ進入セシメアル歩騎兵 隊及其他ノ機関ヲ十二月三十一日迄ニ一律ニ撤退スヘキヲ誓ヒタルヲ以テ 関東軍ハ中国側カ該地域ノ明カニ満洲国領土ナルコトヲ理解シタルモノト 認メ撤兵ノ実行ヲ期待シアリシカ宋主席側ハ誓約ヲ履行セサルノミナラス 却テ一月中旬騎兵隊ラシキモノヲ長梁ニ迫撃砲ヲ北寨溝ニ進入セシメ尚各 地ニ保衛団ヲ増加配置シタルノミナラス十五日烏泥河ニ於テ満洲国人自衛 団ヲ襲撃シ之ヲ小廠ニ拉致セリト斯ル暴挙ハ関東軍トシテ看過スルヲ得サ ル処ナルニ依リ近ク所要ノ兵団ヲ以テ該地方満洲国内ヲ徹底的ニ粛清スル コトトナレリ右及通牒候也。」
これに先立つ 1 月 15 日、現地宋哲元から「日本と傀儡軍の連合騎兵 70~80 がそれぞれわが沽東、長梁、烏泥河一帯をかき乱し、現地の保衛団 が防御に当たり、現在対峙中」(11)との報告が蔣介石に伝えられるなど、察 東地域は一触即発の状態にあった。
何応欽は、係争地で宋哲元の部隊が日本軍と衝突し、日本軍に沽源、赤城 県独石口という両要地占領の機会をあたえ、張北および平綏路がその影響下 に置かれることを憂慮し、宋と面談して、「(一)小廠の騎兵連隊を即日長城 線内に撤退させる、(二)東柵子の歩兵連隊を独石口附近に撤退させ、東柵 子の警戒は保安隊が担当する、(三)長梁、烏泥河およびその他地域の民団 機関などを暫時後方に撤退させる、(四)長城外では極力衝突を避け、日本 軍に口実を与えない」(12)という 4 項目の方針を伝え、ただちに宋は同内容 を前線に指示した。第 4 項の「日本軍に口実をあたえない」ことが喫緊であっ
たことはいうまでもない。
この間、日本軍側は着々と臨戦態勢を整えていった。1 月 17 日、熱河省 承徳駐屯の第 7 師団は、歩兵第 25 連隊のうち約 1 個大隊 600 人を基幹とす る「討伐隊」を編成して出動、20 日、同師団はさらに飛行第 8 大隊第 4 中 隊および野砲 1 個中隊を、翌 21 日には第 13 旅団の全兵力を出動させ、豊寧、
大灘経由で一路沽源に向かっていた。さらに、重爆撃機 3 機を「新京」から 錦州に移動、待機させ、奉山バスにも自動車の集中を命じるなど、本格的な 軍事行動を準備し、察東地域に対する軍事的圧力を強めた(13)。
1 月 23 日、日本軍は、東柵子への爆撃を開始するとともに、独石口東北 の長城線に進駐、東柵子一帯の保衛団・民間人 40 人余が死傷した(『大公報』、
1 月 25 日)。他方、日本側資料によれば、同日、「国境防衛及撤退状況監視 ノ為出動セル皇軍部隊ニ対シ」、宋哲元軍が「発砲スルノ暴挙」に出た(14)、 つまり先制攻撃をしかけてきたという。24 日、日本軍機は、独石口への爆 撃を実施し、中国側兵士 15 人、民間人 13 人が死傷、民家 50 軒が破壊され、
また、東溝子への爆撃では、兵士・民間人 30 人以上が死傷するなど(同 1 月 26 日)、中国側の被害が拡大していった。
3.北平での事前協議
日本軍の軍事侵攻を受け、1 月 25 日、岳開先(察哈爾省外交特派員)が 張家口(張垣)から北平に駆けつけ、何応欽と宋哲元に察哈爾情勢を報告し た。その際、岳は、松井源之助(張家口特務機関長)が第 7 師団の意向とし て「今後満洲地方の政治施設を撹乱しないことを保証する、さもなければ再 び武力を用いる」、「長城は満洲国境に属す、また緩衝地帯を設け、軍隊や軍 事施設を置かず、警察のみを配置して秩序を維持する」(15)と語った旨伝えた。
翌 26 日、同じく張家口から北平に入った松井から報告を受けた高橋坦は、
岳開先、朱式勤(戦区整理委員会常務委員)と察東問題について協議した(『大 公報』、1 月 27 日)。
第 29 軍部隊が長城線西側に撤退したことを受け、1 月 29 日、事態収束に 向けた動きが急速に具体化した。高橋坦は、中南海居仁堂の何応欽を往訪し、
これを機に多倫を含む察東地域全体の問題解決を図ろうとしていた中国側(16)
に対して、関東軍から「速ニ事件ヲ局地的ニ解決スル為熱河駐屯部隊ヲシテ 現地ニ於テ宋哲元軍代表ト商議ヲ開始セシメ度ク広範囲ニ亘リ北平ニテ会議 ヲ行フ事ハ未タ企画シ非サルニ付後日ノ機会ニ譲リ度意見ニテ已ニ杉原(美 代太郎)中将ニ指示済ミナリ故ニ貴方ニ於カレテモ速ニ宋軍ヨリノ代表ヲ差 遣セシメラレン事ヲ望ム」旨の来電があったこと、また、「二月一日大灘ニ 於テ会商シ度キ」考えであることを伝えた(17)。これに対して、何応欽は、「中 国側は北平あるいは張家口での協議を希望するが、広範囲に及ばなくてもよ い」と、取り上げる議題について譲歩しつつ、「日本側が大灘での協議を主 張する場合、まず北平にて相談するのが適当で、その後第 29 軍代表張樾亭 が大灘に赴き形式的な会議を行う」よう求めた(18)。
国民政府にとって北平における行政院駐北平政務整理委員会(政整会)や 軍事委員会北平分会(軍分会)を通しての対日交渉はあくまでも臨時的、変 則的なものであり、当時、黄郛や何応欽ら対日交渉の担当者は、通車・通郵 交渉の妥結を受け、中日外交の一元化を模索し始めていた。本件はその矢先 の出来事だった。しかも一地方軍である第 29 軍が「外交交渉」を行うという、
外交の一元化とは正反対の方向に事態が展開し始めていた。現地日本軍のね らいはむしろそこにあったといってよい。1 月 20 日、何応欽は、蔣介石と 汪兆銘(行政院長兼外交部長)に対して、「対日外交に関して、中央は速や かに根本政策を決定されたし。さもなければ対応する術がない。目下の華北 情勢は、関東軍、(支那)駐屯軍が随時一枚の声明書でただちに直接行動を 起こしており、決して国際的な外交の常軌に則ったものではない」(19)旨訴 えているが、ここにいう「一枚の声明書」が、具体的には前日高橋坦が何応 欽に手渡した先の文書を指していることは間違いない。何応欽は事態を深く 憂慮していた。何が北平での事前協議、事前決定を求めたのは、明らかに「外 交」の地方化、分散化を防ぐためであった。
1 月 30 日、高橋坦は、次のような「会議内容ノ要旨」を中国側に手渡し た(「30 日付高橋案」)(20)。
一、不法越境行為ニ対シ陳謝ノ意ヲ表スルコト
二、中国軍隊ノ押収セシ満洲国民団武器ハ之ヲ完全ニ返却スルコト 三、将来絶対ニ越境不法行為又ハ満洲国領域ヲ脅威スルカ如キ行動ヲ為サ
サルコトヲ誓約シ若シ敢テ之ヲ犯ス場合ニ於テハ日本軍ガ断乎沽源、
独石口ハ固ヨリ張家口ヲモ占領スヘキコトヲ諒承スルコト
何応欽は、殷同(北寧路局長)に高橋坦と協議させた後、これに修正を加 えた次のような対案を高橋に示した(「30 日付中国側修正案」)(21)。
一、今回ノ察熱辺境不祥事件ニ対シ中国側ハ陳謝ノ意ヲ表スルコト(口頭 ニテ)
二、中国側ノ押収セシ熱河民団ノ武器ハ之ヲ全部返却スルコト
三、将来絶対ニ東柵子(長城東側ノ部落トス)、南石柱子、石頭城子、其 北方紛争地域ノ北端ノ線及其ノ東方地域ニ侵入シ又ハ之ヲ脅威スルカ 如キ行動ヲ為サザルコトヲ約ス
尚日本側ニ於テ口頭ニテ支那側カ之ヲ犯ス場合ニ於テハ日本軍ハ断乎 沽源、独石口、張家口ヲモ占領スヘキ意ヲ開示スルコト(22)
中国側が修正を加えた箇所のポイントとして、第 1 項では、「不法越境行為」
という中国軍が「満洲国」熱河省に「越境」したと解釈されかねない表現を
「察熱辺境不祥事件」に改めるとともに、書面での陳謝を回避するため「口頭」
で行うとの断りを加えている点、第 2 項も「満洲国」を承認したと解釈され かねない「満洲国民団」という表現を「熱河民団」に改めている点、そして 第 3 項も、具体的地名を列挙することで同様の問題を回避しつつ、「長城東側」
とあえて断ることで長城線は含まないことを明確にするとともに、ここでも
「口頭」で意思表明することを断っている点をあげることができる。なお、
文書であれ口頭であれ、第 3 項前段の規定を中国軍側が犯したと判断された 場合、「日本軍ハ断乎沽源、独石口、張家口ヲモ占領ス」るとしたことは、
日中間に合意が成立して今次紛争が一段落しても、新たに問題が再燃する可 能性を多分にはらんでいたことを意味しており、今後に大きな不安を残す内 容であった。
同日午後 11 時、高橋坦は、中国側を再訪し、書面で次の 3 点を伝えた(23)。 一、軍ハ小官ト貴方トノ打チ合セ案ニ同意セリ
二、会議期日ハ二月二日午前ト致シ度シ 松井中佐ヨリ沽源ニ連絡スル筈
三、貴方代表ハ二月一日夕迄ニ沽源ニ到着スル様御取計ヒアリ度シ
ここに、関東軍が、高橋坦と中国側との合意内容、 つまり「30 日付中国 側修正案」を了承したことが伝えられたのである。こうして何応欽が求めた 北平における事前協議が終了した。
4.大灘会議
1 月 31 日、何応欽は大灘に向かう張樾亭(第 37 師団参謀長)に対して、
宋哲元を通して 9 項目にわたる詳細な指示を行った。主要な内容を以下に確 認しておこう(24)。
まず、「口頭陳述の件は、協定文に列記する必要はない」(第 3 項)と、先 に見た「30 日付中国側修正案」の第 1 項と第 3 項後段については文書化し ないよう、また、「「満洲国」あるいは国境の字句に及ぶ場合は……請訓の猶 予を求めること。先方が堅持する場合は、本人が受けた訓令にはこの権限が ないと主張し、勝手に範囲を越えてはならない。万一本件が発生した場合に は、ただちに宋主席に打電し請訓すること」(第 4 項)と、「満洲国」という 表現は絶対に回避するよう注意を促している。これに先立つ塘沽停戦協定善 後交渉で、日中双方は「満洲国」問題をめぐって激しい応酬を繰り返し、通 郵交渉では協議の中断や決裂さえ起こっていた。中国側にとって最も敏感な 問題が「満洲国」問題だったのである。
さらに、「察、熱西部境界線は、石頭城子、南北石柱子、東柵子等数箇所 の地名を指すのみである。協定本文はあるいは現地の状況を参照すべきであ り、詳細な地名を加える場合は、大体この線上にあるものなら、認めてもよ い」(第 5 項)、「東柵子の地名の下には必ず括弧をつけ、ここに言う東柵子 は長城東側口外の一小村落のことで、長城口ではないことを明示しなければ ならない。ただし長城口外の外の字は、誤解が生じるおそれがある(先方は わが方を指して長城の外としている)ので、協定文には長城東側の字句を用 いるのが適切である」(第 6 項)と、地域を極力具体的に限定するよう、し かもその地域は長城線の東側で、かつ長城線を含まないよう注意喚起してい る。長城線を日(「満」)・中どちらが管轄するのか、この問題も塘沽停戦協 定成立前後から一貫して日中間の大きな対立点であった。
そして、「30 日付中国側修正案」第 3 項については、「先方がわが方に対し
て協定に違反した場合、沽源、独石口および張家口を占領する云々と言って きた場合、わが方は明確に回答する必要はない」(第 8 項)との対応振りを指 示し、最後に「文字上の規定がないことが最善である」(第 9 項)と付け加えた。
何応欽の希望が第 9 項にあったことは間違いないが、第 3 項から第 8 項まで の内容は明らかに文書作成に際しての注意事項であることから、何応欽は日 本側が文書規定を要求してくることは必至と考えていたことがわかる。
こうして 2 月 2 日午前 11 時、熱河省大灘南圍子で日中会談が開催された(大 灘会議)。日本側からは、谷寿夫(第 7 師団代表)、永見俊徳(同第 25 連隊長)、
松井源之助、岩仲義治(第 7 師団参謀)らが、中国側からは、張樾亭、郭堉 凱(沽源県長)、張祖徳(察哈爾省政府科長)が出席した。中国側資料によ ると、席上、谷寿夫は、「石頭城子、南北石柱子、東柵子のラインは「満洲国」
の地域であり、中国は軍隊を駐屯させてはならない。にもかかわらず沽源県 長は、民団を唆して長梁、烏泥河一帯に進駐させ、さらに豊寧民団の武器を 押収させた。宋哲元の軍隊が東柵子附近で日本軍と衝突したことは、とりわ け忌々しい」と述べたうえで、「沽源が押収した豊寧民団の銃 37 丁、弾薬 1,500 個を 2 月 7 日に沽源県長自らが南圍子に運び日本軍に引き渡す」よう要求し た。これに対して張樾亭は、「宋哲元主席に代わって遺憾の意を表す」とと もに、押収した武器を「期日通りに返還する」旨表明した。続けて谷は、「中 国は陣地を強化したり、陣地の兵力を増強したりしてはならない。さもなけ れば日本側は挑戦行為であると見なし、沽源および張家口を占領する」と、「30 日付高橋案」第 3 項に言及した。これに対して張は、陣地とは具体的にどこ を指しているのか訊ね、谷から「独石口、沽源のライン」であるとの返答を 得た後、「陣地についてはわかったが、双方は平和の維持を期すべきである」
と、何応欽の指示通り、内容に深入りすることなく焦点をずらした返事を行っ て、会議は 30 分で終了した(25)。
中国側資料に「双方とも口頭で陳述し、条文はなく、署名もなかった」(26)
とあるように、日本側が文書規定を持ち出さなかったこともあって、会議は 大きな紛糾もなく短時間で終了した。ただ、日本側資料には、中国側は谷寿 夫が提出した 4 項目を「承認」したとあり、とくに第 1 項と第 2 項は、中国 側記録や 1 月 30 日段階の双方のやり取りとは語調を含めいくつかの点で重
要な相違が認められるため、ここに確認しておきたい(27)。
一、支那側は将来誓て兵を満洲国に入れ関東軍を脅威し若は関東軍の神経 を刺戟するが如きことは勿論密偵其の他を満洲国内に侵入せしめざる こと
二、支那側にして右誓約に反したる行為ある場合に於ては関東軍は断乎と して自主的行動を執ることあるべし其の際の責任は全部支那側に在る こと
尚支那側が陣地を増強し若は兵力を増加するが如き行為あるに於ては 関東軍は軍に対する挑戦的行為なりと見做すこと
第 1 項では、「関東軍の神経を刺戟する」というきわめて主観的で一方的 判断が可能な文言が挿入されている点や、これまでのやり取りでは確認でき ない「密偵其の他」の「満洲国内」への侵入禁止に言及している点が、また、
第 2 項では、前段、後段ともに具体的地域名は示されず、関東軍が「自主的 行動を執る」に際して、容易に拡大解釈できる文面となっている点などが注 目される。ここに現地日本軍側の真意が具現されているといっていいだろう。
第一次察東事件を通して、現地日本軍は今後察哈爾方面で行動を起こす際の 重要な足がかりを得たのである。しかもこれ以降、察哈爾省地域では地方軍 や地方政府を相手とした日中交渉スタイルが定式化していくこととなる。
さて、4 月に入ると「満洲国」側は、長城線の西側、沽源県よりも南西側 に位置する延慶県地域の編入を本格的に開始した。中国側資料によれば、例 えば、東仁三郎(豊寧県公署警務指導官)は、「長城線以東は、すべてわが 大満洲国の領土で、同村民に聞くところによれば、納税に関して以前通り中 国側に完納している由、きわめて大義に悖るもので」、当該村民が 4 月 15 日 までに代表者を豊寧県公署に出頭させず、旧来通りの場合は、「討伐」の可 能性もあり得る旨中国側に通告し、長城線北側に位置する延慶県の柏木井(臼 門井)に加え、長城線南側に位置する松樹楼、碓家梁(対臼梁)など各村を 行政、税制の面から「満洲国」側の熱河省豊寧県に編入する作業を進めた。
また、これとは別の湯河口警察署瑠璃廟分駐所が発した通告は、統治に必要 不可欠な戸籍台帳などを 1 週間以内に提出するよう要求している(28)。こう して「満洲国」は、察哈爾省方面へその支配領域を拡張させていった。
5.第二次張北事件
天津日本租界事件など(「河北事件」)をめぐって北平で緊迫した交渉が行 われていた最中の 6 月 5 日午後 4 時頃、貨物自動車で多倫から張家口に向かっ
ていた阿ア パ カ巴嘎(多倫の北北西約 65 キロ)の特務機関員 4 人が、張北南門で
第 132 師団(師団長趙登禹)の哨兵によって身柄を拘束された後、師団軍法 処で尋問を受け、翌 6 日午前 11 時に解放されるという事件が起こった(第 二次張北事件)(29)。事件後間もなく松井源之助と橋本正康は、宋哲元に対 して「(一)内蒙古内部については中央および察哈爾省の関与を認めない、(二)
滂江の駐屯軍を撤退させる、(三)察哈爾省は日本人軍事顧問を招聘する、(四)
日本軍の車輌は多倫・張家口間を自由に往来する、(五)永安堡附近を熱河 に編入する」ことなどを要求している(30)。
事件発生当時、李守信軍が大梁底に移動して演習を実施すると公言し、馬 蘭峪、喜峰口、古北口の日本軍も続々と熱河・察哈爾省境に移動するなど(31)、 察東地域の軍事的緊張が再び高まり、中国軍は日本側の動きに警戒せざるを 得ないような状況にあった。
6 月 11 日、松井源之助は、秦徳純(察哈爾省民政庁長兼第 29 軍参謀長)
に対して、宋哲元の「陳謝、責任者の処罰及将来の保証」を要求するととも に、「五日以内ニ回答無キ時ハ我軍ニ於テ自由行動ヲ執ル」旨通告し(32)、早 急な対応を求めた。ただ、関東軍は、松井の要求は手ぬるいと見ていた(33)。 この日、延慶県東部の永安堡、四海冶などが日本の傀儡軍によって占領され ている(34)。
当時、日本軍側には今回の「張北事件」を「河北事件」と連動させるべき か否かをめぐって意見の相違があったが、陸軍中央の主導で両者を個別に解 決することで調整が図られた。日本側記録は、その経緯について「出先陸軍 の一部に於ては本事件を北支交渉に包含せしむべしとの意見ありしも斯くて は大義名分に添はざるべきを以て結局陸軍中央部の意見に従ひ北支問題とは 別個に局地的解決を計るに方針一決したり」(35)と伝えている。
日本軍側の方針が固まったことを受け、6 月 17 日、南次郎(関東軍司令官)
は、酒井隆(支那駐屯軍参謀長)と松井を「新京」に呼び寄せて協議を行い、
交渉要領を決定した。そのうち「要求事項」は次の通りである(36)。
(イ)塘沽停戦協定線延長部分の東側地域及北長城線北側地区に於ける宋 軍部隊は之を其の西南方地区に移駐せしめ其の撤退区域には再び支那 軍を侵入せしめず
(ロ)一切の排日機関(東北憲兵、藍衣社、国民党部等)を悉く解散せしむ
(ハ)宋哲元の謝罪及責任者の処罰を即時実行せしむ
(ニ)前記(イ)(ロ)項は要求提出日より二週間以内に完了せしむ そして土肥原賢二が支那駐屯軍と緊密に連絡を取りながら宋哲元と直接交渉 するとされた。ここでは(ロ)に「排日機関」として具体的な機関名が列挙 されている点に注目しておきたい(後述)。
この間、6 月 11 日に独石口に近い東柵子で「満洲国」豊寧県参事官一行 が射撃を受け、翌 12 日には同じく小廠で「国境」警察隊員が射撃を受ける 事件が発生していた。また、しばらく後の 24 日には独石口北側で宋哲元軍 と「国境」警察隊とが衝突し、救援を求められた植山英武(多倫特務機関長)
が李守信軍を独断で送りこみ、双方が対峙する事態も起こっている(第二次 察東事件)(37)。
6.北平と南京
何応欽は、酒井隆と松井源之助が「新京」に向かったことと、関東軍が強 硬な姿勢であることを考慮し、商震(天津警備司令)に対して、「先方が正 式に要求を提起する前に、自発的に解決を謀るのが最良」であるとの見方を 示し、門致中(軍分会委員)、秦徳純らと解決策を協議するよう要請した(38)。 これを受け、門致中と秦徳純はただちに協議に入り、(一)宋哲元を他省へ 転出させる、(二)于学忠の例にならって、相当の名義、例えば陝甘寧辺区 剿匪の職務をあたえ、第 29 軍を他省に移駐させる、という二案をまとめ、
何応欽に伝えた(39)。
因みに後者について、関東軍は、実力行使による察哈爾省占領、察哈爾か らの第 29 軍駆逐、宋哲元の辞任を主張していたが、酒井隆や松井源之助ら は「第 29 軍各級幹部の頭脳は頗る単純で冀察に駐屯させておけば利用価値 がある」と判断し、関東軍の主張に反対していたという(40)。他方、陸軍中 央は第 29 軍の「察哈爾省外撤退は希望」していたが、「黄河以南に撤退を要
求する如きは同意出来ず」(41)との立場をとっていた。
事態が急迫し、議論を重ねる余裕がないと判断した汪兆銘、黄郛、何応欽 らは、門致中と秦徳純の提案を踏まえ、宋哲元察哈爾省政府主席の罷免、秦 徳純の同代理主席就任、趙登禹部隊の陽原、蔚県(察哈爾省と山西省の省境)
などへの移駐を固め(42)、6 月 18 日に開かれた行政院第 217 次会議に諮り、
承認された(43)。成都の蔣介石には事後報告の形でこの決定が伝えられた(44)。 翌 19 日、宋哲元は行政院の決定に従う旨何応欽に返電した。
酒井隆は、「新京」で決定した「要求事項」に山東から察哈爾への移民禁 止を新たに加えた日本側要求を遅くとも 6 月 21 日までに第 29 軍側に伝えて いた(45)。他方、土肥原賢二は、ただちに交渉を始めるため、20 日早朝張家 口に戻った秦徳純の帰北を求めた。秦は「要求事項」の(イ)について、「塘 沽協定ラインの延長線であり……察哈爾省の局部に関することではないの に、どうして地方当局がにわかに承認できようか」(46)との考えを吐露し、
自らが交渉責任者となることを躊躇していたが、22 日朝、察哈爾から北平 に入った。
この間、秦徳純に代わって土肥原賢二との協議に当たっていた程克(政整 会顧問)と雷寿栄(軍分会参謀)は、秦徳純にこれまでの経過および土肥原 が示した修正案について報告した(47)。土肥原が提示した修正案は、酒井隆 が宋哲元に示したものと大差はなく、土肥原はこれを「最後案」として突き つけていた。秦は、これまでの経緯に加え、日本側が省政府の責任者が条件 を承諾し書面で回答するよう求めてきたことを受けて、「交渉は中央が直接 処理するのか、あるいは臨時の措置として地方解決を行うべきか」何応欽に 指示を仰いだ。秦は、「地方が解決すべきであるとするなら、行政院あるい は軍分会が電令を発し、察哈爾省政府に権限を授け、(交渉の)遂行に便宜 を図っていただきたい」、「もし中央が直接交渉すべきであるとするなら、当 地における一切の協議を停止する」と、交渉責任者の確定を求めるとともに、
前者の場合、どのように日本側の条件に臨むべきか訓令を求めた(48)。秦は、
今回の交渉が明らかに「地方の職権を越える」ものであることを認識してい た。しかも交渉の中身は「喪権辱国」の誹りを免れ得ないと容易に判断され るものであった。それゆえにこそ中央の方針を事前にしっかりと確認してお
く必要があると考えたのである。
秦徳純の電報を受領した何応欽は、これを蔣介石に転電するとともに、た だちに汪兆銘を含む「中央の責任者」と協議し、「察哈爾省政府が日本と交 渉し、条件内容については、随時軍分会に報告し、中央の裁可を経る」とい う原則を固め、以下の留意事項とあわせて秦に訓電した(49)。
(一)所謂日本側の察哈爾省における「合法的行動」を、「条約に合致した 行動」に改める。
(二)「不駐兵区域」原則は設けてもよいが、詳細は軍分会が決定する。た だ日本側は当区域内に軍警を進入させてはならない。
(三)省党部撤退などの件については、わが方が自発的に酌量処理する。
(四)「不駐兵区域」は書面規定しないのが最善である。その他いかなる書 面規定も拒絶する。
(五)山東移民問題に関しては、禁止し難い。
ここに秦徳純を交渉責任者とする中国側の基本方針が固まった。無論、察 哈爾省政府との「地方交渉」を要求していたのが日本側であったことから考 えれば、これは中国側の譲歩ではあったが、他方、大きな代償を払って「河 北事件」に関する交渉に一段落をつけた中国側にも、本交渉がこじれ、事態 が拡大、悪化するのを極力回避したいとの考えがあった。
7.土肥原賢二・秦徳純交渉
6 月 23 日午後 10 時、土肥原賢二は高橋坦と松井源之助を伴って北平府右 街の秦徳純宅を往訪し、ここに交渉が始まった。「張北事件」発生以来、こ れが土肥原と秦の最初の顔合わせである。日本側記録は「正式交渉」と記し ているが、秦は「突然私邸を訪れた」と報告しており、事前に来訪の連絡を 受けていなかったのであろう。
土肥原賢二は席に着くやただちに次のような書面による「要望事項」を提 出した(50)。
(一)撤退地域の件 昌平延慶を結ぶ延長線の東側並に独石口北側より龍 門西北側及張家口北側を経て張北南側に亘る線以北の宋部隊は之を其 の西南方の地域に移駐すること。
(二)排日機関の解散を行ふこと。
(三)遺憾の意を表すること並に責任者の処罰をなすこと。
(四)六月二十三日より二週間以内に右を完了すること。
(五)山東移民の察哈爾省通過を中止すること。
これは、土肥原賢二が程克らに示していた「最後案」であったが、これに 加え日本側は、「日、満の対蒙工作を承認し特務機関の活動を援助し且移民 を中止し蒙古人圧迫を停止するを要す」ことや、「軍事および政治顧問」を 招聘することなど全 6 項目からなる「要望事項解釈」を申し入れていた(51)。 この交渉の日本側真意が、「内蒙工作」の推進にあったことをここから読み 取ることができよう。土肥原らが中央政府機関を交渉相手としなかった理由 はこの点にもあったと考えられる。
秦徳純は、ただちに上記会談内容を報告するとともに、書面規定について の最終判断を南京に仰いだ。日本側が求めている書面規定を突っぱねれば、
「交渉は間違いなく決裂する」(52)との情勢判断をしていたからである。
秦徳純からの報告を受けた汪兆銘と何応欽は協議の結果、謝罪などについ ては書面回答してもよいが、「不駐兵区域」については極力書面規定を避け、
また、軍隊や党部の撤退を自発的に実施するのは「喪権」とはならないが、
書面規定ということになれば「両国の約定」となり、「実に大きな喪権」であっ て、中央は賛成できないとの考えを示し、この点につき日本側が要求を取り 下げない場合は、「地方政府の権限の及ぶところにあらず」と応じるようと くに注意を促した(53)。蔣介石は「本件については地方に権限を授け、地方 解決を主とすべきであるが、書面による正式な回答をしてはならない」(54)
と念を押していた。
しかし、6 月 25 日に雷寿栄と陳覚生(政整会顧問)が土肥原賢二を往訪し、
「不駐兵区域」の範囲を中心に協議を重ねた際、土肥原は、秦徳純が署名し た書面回答でなければ受け入れず、「明日(26 日)夜までに完全に受諾しな ければ交渉は決裂し、自分は北平を離れる」(55)と脅した。早急な解決を目 指していた中国側は、決裂という最悪の事態を回避するために文書回答を避 けられない状況に追い込まれた。
6 月 26 日の中央政治会議第 463 次会議で汪兆銘は、23 日に開催された臨
時国防会議で「(1)察哈爾問題は察哈爾省政府と日本が協議して解決する、
ただ軍分会と中央の主旨に則ること、(2)不駐兵区域画定問題は、軍事委員 会が詳細に検討した後、処理すること」がそれぞれ決定された旨報告し(56)、 本件の対応振りについて委員の理解を求めた。後者は、具体的にはその北平 出先機関である軍分会に権限授与されたことを意味した。こうして秦徳純が 地方政府の権限を明らかに越えると懸念を表明していた問題は、中央政府レ ベルにおいて公式に軍分会による処理という形をとることが確認され、ここ に解決を見た。
さらに、何応欽は秦徳純に対して次のような最終指示を行った(57)。
(一)「不駐兵区域」および謝罪などの件に関しては、軍分会の権限内で処 理することができ、書面による詳細な回答も差支えないが、協定ある いは覚書などの正式な文書を用いる必要はない。
(二)軍隊の撤退、党部の解散などの件については、わが国の内政であり、
自発的な処理を告げてもよいが、決して文字規定してはならない。
万一先方が(文書規定を)譲らない場合は、「普通書簡[普通信函]」
を用いることのみ認める。
南京は明らかに譲歩の幅を広げることを決断していた。「不駐兵区域」に ついては軍分会の権限内という形式をとることによって書面回答しても差し 支えないとの判断を示している。また、軍隊の撤退および党部の解散につい ても「普通書簡」という形式ではあれ文書回答の可能性を否定しなかった。
これを受け6月27日早朝、軍分会常務委員会で最終協議を行った秦徳純は、
午前 11 時、雷寿栄と陳覚生を伴って北平陸軍武官室(大使館内)に土肥原 賢二を往訪し、高橋坦同席のもと次のような内容を記した「書簡[函]」(第 一書簡)を手渡した(58)。
本省政府は、ここに中日親善の主旨にもとづき、土肥原閣下が 6 月 23 日提起された事項に対して以下の如く返答申しあげる。
一、本省政府は、6 月 5 日張北で発生した事件に対し、遺憾の意を表す るとともに、事件の責任者を免職処分とする。
二、本省政府は、貴方が国交に不良な影響を与えると認める機関を撤廃
する。
三、本省政府は、貴国の察哈爾省内における正当な行為を尊重する。
四、本省政府は、河北省昌平から本省の延慶、大林堡を経て長城に至る 線以東の地域、および独石口北側から長城線に沿って張家口北側を 経て張北県南側に至る線以北の察哈爾省内の宋軍部隊をそれより西 南の地域に移駐させる。撤退地域内の治安は、察哈爾省保安隊が維 持し、軍隊を進入させてはならない。
上述第二、第四の両項は、6 月 2ママ5 日から 2 週間以内に完了する。
関東軍代表陸軍少将土肥原賢二閣下
中華民国察哈爾省政府暫代主席秦徳純 中華民国二十四年六月二十七日
中国側記録によれば、秦徳純は、これとは別に、山東の移民問題について は「中日間の紛糾を惹起するおそれがあるため、努力して中止せしむ」(59)
と書かれた第一書簡と同様の形式の「書簡[函]」(第二書簡)も同時に土肥 原に手渡しているが、これについては日本側の「文書回答」としての記録の 中には見当たらない。
いずれにせよ何応欽の指示に照らせば、両「書簡」が「普通書簡」による 回答ということになるのであろう。しかし、秦徳純の書簡は、「河北事件」
に関する何応欽の 7 月 6 日付梅津美治郎(支那駐屯軍司令官)宛「書簡」と 比較すると、具体的に受諾事項を列挙、明記している点で大きく異なる。第 4 項の前半部分は、内容の性格上、誤解が生じないために、また、実質的に 塘沽停戦協定(文書)によって規定された停戦ラインの延長であるために、
ある程度の文書化は避けられなかったものと思われるが、国民政府としては
「普通書簡」とはいえ、第 2 項および第 4 項後半の軍隊撤退に関する部分を 文書化することは極力避けたかったに違いない。
なお、この 4 項目のうちぎりぎりまでもめたのは第 2 項である。土肥原賢 二は、決裂を仄めかしながら「不良影響之機関(不良な影響を与える機関)」
の下に「中央東北憲兵、藍衣社、国民党部」という具体的機関名を加えるよ う強く求めた(60)。これは 6 月 17 日に関東軍が決定した「要求事項」(ロ)
に見える一節である。報告を受けた汪兆銘と何応欽は、先に見た 6 月 26 日 の最終指示にもとづいて回答するよう、また、このような一節を「文書化し たら、わが主権は失われ、自発的に処理することが外交協定に変相すること は決してあってはならならず」、絶対に文書規定しないよう指示した(61)。こ れを受け、雷寿栄と陳覚生が扶桑館内に土肥原を往訪し、同一節を加えるこ とはできない旨伝えた。土肥原は、「これはわが要求の主眼であり、削除す ることは無意義に等しい」と突き返し、交渉は繰り返し決裂寸前に至りなが ら、最終的に「この条を取り除いてわが方が別に書簡を作成することとなっ た」。中国側記録が伝える書簡(第三書簡)とは、「張北事件に関連し閣下が 提起された第二条一切の排日機関を解散する件につき、本省政府はすでに本 月 25 日解散を完了した」(62)というもので、形式は第一、第二書簡と同様で ある。中国側としては主権維持という点で、あくまでも「自発的」に行われ なければならない事項だったのである。
ところで、若杉要(大使館参事官)が広田弘毅(外務大臣)に宛てた電報 によると、「第一書簡」の第 3 項に関して以下のような「土肥原秦徳純間ニ 口頭ヲ以テ約束セル支那側ノ承諾事項」があったという(63)。
一、察哈爾省ニ於テ飛行場及無線電信設置ヲ許スコト 二、山東、山西移民ノ察哈爾入境ヲ阻止スルコト
三、張家口ノ徳華洋行ノ事業ヲ漸次立チ行カサル様仕向クルコト 四、察哈爾省ニ日本人ヲ軍事又ハ政治顧問ニ傭聘スルコト
五、内蒙ニ於ケル我方ノ徳王ニ対スル工作ノ如キモノヲ阻止セサルコト
「第二書簡」の山東の移民問題に関する内容は、第 2 項にそれを認めるこ とができる。しかし、その他の項目については、6 月 23 日夜の土肥原賢二 との会談の模様を報告した秦徳純の何応欽宛電報に「土肥原の希望」として ごく簡単に触れられている以外、27 日の会談で話題に上ったことさえ中国 側記録では確認できない。このうち第 4 項の顧問について、日本側記録には、
「差当リ松井中佐ヲ無給ニテ名誉軍事顧問ニスルコト」と具体的な注書きが 付されている。土肥原は、中国側が「第一書簡」第 3 項を認めることは、必 然的に 6 月 23 日に口頭で伝えた「要望事項解釈」も受け入れたことになる と考えていた可能性が高い。逆に中国側は、移民に関する第 2 項以外は公式
に受諾したという認識がなかったものと考えられる。ここに日中間の新たな 火種を確認することができよう。
おわりに
以上がいわゆる「土肥原秦徳純協定」の成立過程である。「河北事件」の 処理過程との最大の相違点は、中国側の交渉責任者が察哈爾省政府代理主席 という一地方行政長官であった点である。これは、第一次察東事件~大灘会 議の枠組みを継承したものであったといえる。察哈爾省は第 29 軍の拠点で あり、同じ華北とはいえ平津地域に比べ国民政府への統合度が相対的に低 かったことが背景にある。他方、日本軍が国民政府統治下から内モンゴル地 域の分離を目論む「内蒙工作」を本格化させる中で、内モンゴル地域は「南 京政権」の管轄範囲ではないことを形式的とはいえ既成事実化する意図が あったことも指摘しておかなければならない。とはいえ、国家主権そのもの に関わる諸事項を含む取極め作成という観点から、国民政府が中央の北平出 先機関である軍分会による処理という受諾決定回路を構築した点にはあらた めて注目しておく必要があろう。
さて、この直後から引き続き「第一書簡」第 4 項の実施によって出現する
「不駐兵区域」をめぐる交渉が開始されることとなり、8 月 1 日には「松井 張允栄協定」が成立している(64)。
国民政府の影響力を華北から排除することを追求してきた日本軍は、こう して塘沽停戦協定にもとづく停戦ラインの察哈爾省内への大幅な延長、拡大 を実現し、いよいよ「内蒙工作」を具体化していく段階に入っていった。宋 哲元は、「日本人がわが軍に察北各県からの撤退実施を迫った目的は、蒙古 自治政府を実現し、民族自決を以って傀儡を創り、さらに南への侵略を図る ことにある」(65)と報告している。宋が分析する南への侵略拡大はもう少し 後のこととなるが、この後、日本軍による軍事工作の対象地域は、モンゴル 族居住地域に沿って華北西部地域へと拡大し、対立の前線は察哈爾省の西に 位置する綏遠省へと移っていったのである。
注
(1)「梅津何応欽協定」の成立過程については、拙著『華北事変の研究-塘沽停 戦協定と華北危機下の日中関係 1932-1935 年』、汲古書院、2006 年、第 6 章。
(2)中国側刊行資料を用いて「土肥原秦徳純協定」の成立過程を扱った研究とし て、臼井勝美「付論 土肥原・秦協定」(『日中外交史研究-昭和前期』、吉 川弘文館、1998 年)があるが、タイトルに「付論」とあるように考察の中 心は「梅津何応欽協定」の成立過程で、「土肥原秦徳純協定」については概 観しているに過ぎない。
(3)本稿の舞台となる察哈爾省は、現在の内モンゴル自治区、河北省および一部 山西省に跨り、漢族とモンゴル族が雑居する地域である。国民政府による国 民国家統合の進展は、モンゴル族自治運動を刺激し、1933 年以降可視化する。
ここに、これを利用して華北西部地域に影響力を拡大しようとする現地日本 軍の各種工作が加わり、政治的、軍事的、外交的にきわめて複雑な展開を見 せる。「土肥原秦徳純協定」の成立もその一環の歴史事象であるため、本来 はあわせてこの三者間の動きを丹念に考察、論述する必要があるが、第 1 節 で触れる以外、紙幅の関係で断念せざるを得なかった。この点は別稿にて詳 述したい。
(4)周美華編註『蔣中正総統檔案-事略稿本』第 28 巻、国史館、2007 年、358- 420 頁、および沈雲龍編『黄膺白先生年譜長編』下冊、聯経出版事業公司、
1976 年、791-799 頁。(以下、『年譜長編』と略す。)
なお、日本側外交史料を用いて蔣介石の足取りを紹介した研究として、林 正和「一九三四年蔣介石の北方視察に関する史料について-在中華民国若杉 公使館一等書記官調査報告を中心に-」、『外交史料館報』第 14 号、2000 年。
(5)南満洲鉄道株式会社総務部『察哈爾事件概要(秘)』(1935 年 6 月 1 日)。
(6)同上。
(7)軍令部「察哈爾省張北問題(支那特報第 13 号)」(1935 年 7 月 3 日)、島田 俊彦・稲葉正夫編『現代史資料 8 日中戦争 1』、みすず書房、1964 年、75-76 頁。(以下、「察哈爾省張北問題」と略す。)
(8)日本側資料には、具体的には「日本人の察哈爾省旅行の自由如何なる携帯品 も之を検査せざること長城は満洲国国境なるを以て之以西に撤退すること 等」とある(同上、76 頁)。
(9)関東軍参謀部「昭和十年一月大連会議ニ於ケル関東軍説明事項」(1935 年 1 月 3 日)、昭和十年『満受大日記(密)』十一冊ノ内其一、国立公文書館所蔵。
(10)「大灘会議全巻」、外交部『日軍窺伺察哈爾案』、(台湾)国史館所蔵。
(11)「宋哲元発蔣介石宛電報(咸亥参電)」(1 月 15 日)、『特交文電-日寇侵略 之部・迭肇事端』第一巻、(台湾)国史館所蔵。(以下、『迭肇事端』第一巻 と略す。)
(12)「何応欽発汪兆銘・蔣介石・黄郛宛電報(哿午行秘電)」(1 月 20 日)、何応 欽将軍九五紀事長編編輯委員会『何応欽将軍九五紀事長編』上、黎明文化事 業股份有限公司、1984 年、381 頁。(以下、『紀事長編』と略す。)
(13)『察哈爾事件概要(秘)』。
(14)同上。
(15)「何応欽発蔣介石・汪兆銘・黄郛宛電報(有午行秘電)」(1 月 25 日)、『迭 肇事端』第一巻。
(16)「何応欽発蔣介石・汪兆銘宛電報(有午行秘二電)」(1 月 25 日)、『年譜長編』、
842-843 頁。
(17)「大灘会議全巻」、『日軍窺伺察哈爾案』。
(18)『紀事長編』、383 頁。
(19)「何応欽発汪兆銘・蔣介石・黄郛宛電報(號已行秘電)」(1 月 20 日)、『年 譜長編』、842 頁。
(20)「大灘会議全巻」、『日軍窺伺察哈爾案』。
(21)同上。
(22)第 3 項後段「尚」以下の文書は、1 月 30 日に何応欽が蔣介石に宛てた電報 では高橋坦の発言とされている(「何応欽発蔣介石・汪兆銘・黄郛宛電報(卅 未行秘電)」(1 月 30 日)、『迭肇事端』第一巻)。
(23)「何応欽発蔣介石・汪兆銘・黄郛宛電報(世子行秘電)」(1 月 31 日)、『迭 肇事端』第一巻、および「大灘会議全巻」、『日軍窺伺察哈爾案』。
(24)『紀事長編』、384-385 頁。
(25)同上、386-387 頁。
(26)同上、387 頁。
(27)「宋哲元部隊熱河侵入事件続報(支那時局月報第 2 号)」、『現代史資料 8 日 中戦争 1』、76 頁。
(28)「宋哲元発蔣介石宛書簡」(4 月 18 日)、『特交檔案分類資料-中日戦争・華 北局勢』第 16 巻、(台湾)国史館所蔵。(以下、『特交檔案』第 16 巻と略す。)
(29)「察哈爾省張北問題」、『現代史資料 8 日中戦争 1』、73 頁。
日本側は、第一次張北事件の際、宋哲元が注(8)の諸事項を承認したにも かかわらず、「監禁、訊問、脅迫、断食等恰も敵国人に対するが如き暴行侮辱 を加ふるが如きは全く言語道断」と断じているが、中国側は、そのような「承
認」があったことは認めておらず、戦後も秦徳純は、「察哈爾省政府と日本領 事の間に、日本人が察哈爾省を出入する際には、領事が省政府に書簡を送り、
許可証を発給するという規定があった」にもかかわらず、「今回日本人は旅券
[護照]を携帯せず」、さらに「検査を受けずに強引に通過しようとした」と語っ ている(秦徳純「張北事件及其他」、『伝記文学』第 2 巻第 2 期、1963 年)。
(30)「何応欽発蔣介石・汪兆銘・黄郛宛電報(陽巳行秘電)」(6 月 7 日)、『紀事 長編』、405 頁。
(31)「何応欽発蔣介石・汪兆銘・軍事委員会宛電報(歌亥行秘電)」(6 月 5 日)、
秦孝儀主編『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期・緒編』(一)、中国国民 党中央委員会党史委員会、1981 年、677 頁。(以下、『重要史料初編』(一)
と略す。)
(32)「察哈爾省張北問題」、『現代史資料 8 日中戦争 1』、73 頁、および「若杉要 大使館参事官発広田弘毅外務大臣宛第 187 号電報」(6 月 13 日発)、外務省 編『日本外交文書』昭和期Ⅱ第 1 部第 4 巻上、外務省、2006 年、352-353 頁。
(以下、『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 4 上と略す。)
(33)「何応欽発蔣介石宛電報(篠秘電)」(6 月 17 日)、『紀事長編』、417 頁。
(34)「宋哲元発蔣介石宛電報(真酉参電)」(6 月 11 日)、『迭肇事端』第三巻。
(35)「察哈爾省張北問題」、『現代史資料 8 日中戦争 1』、73-74 頁。
(36)同上、74 頁。
(37)同上。
なお、参謀本部は、前二者の事件について次のような注目すべき判断を下 している(参謀本部「宋哲元軍ノ満洲国侵犯射撃事件ニ就テ(支那時局報第 33 号)」(6 月 18 日)、国立国会図書館所蔵)。
「本事件ハ満洲国侵犯、挑戦行為ナルコト勿論ニシテ日満協同防衛上帝国軍 ノ看過スヘカラサルハ明ナルノミナラス更ニ左ノ公約ヲ蹂躙シタルモノト解 釈セラル
一、大灘会議ノ誓約ヲ犯シタルモノナリ
二、停戦協定ニ於ケル一切ノ挑戦撹乱ヲ為ササルヘキ公約ニ反スルノミナラ ス独石口附近ハ停戦協定区域内ト解セラルルヲ以テ宋軍カ仮ニ満洲国内 ヲ侵サストモ独石口附近ニ駐屯スルコトハ已ニ停戦区域ヲ蹂躙シタルモ ノト解セサルヘカラス
三、仮令今後事件紛糾拡大スルモ其責任ハ支側ニ在リ」
とくに第 2 項で、本件が塘沽停戦協定に反する行為であるのみならず、同 協定にもとづく停戦ライン西端の延慶から 50 キロ以上も北北西に位置する
赤城県独石口附近も停戦協定区域内であるとの見方を示しており、すでに 6 月 18 日以前に陸軍中央においても察哈爾省内への停戦ラインの延長、拡大 で合意形成ができていたことがうかがわれ、きわめて注目される。
(38)「何応欽発商震宛電報(篠未秘電)」(6 月 17 日)、『紀事長編』、418 頁。
(39)「門致中・秦徳純発何応欽宛電報(篠戌電)」(6 月 17 日)、同上、418-419 頁。
(40)「何応欽発蔣介石宛電報(巧秘電)」(7 月 18 日)、『特交檔案』第 16 巻。
(41)軍令部「藤原部員参謀本部ニテ聴取セル事項其ノ二」(6 月 14 日)、『現代 史資料 8 日中戦争 1』、94 頁。
(42)「何応欽発蔣介石宛電報(巧未秘電)」(6 月 18 日)、『紀事長編』、419 頁、
および「何応欽発宋哲元宛電報(巧午秘電)」(6 月 18 日)、同 420 頁。
(43)「廿四年六月十八日行政院第二一七次会議決議」、『日軍窺伺察哈爾案』。
(44)「汪兆銘発蔣介石宛電報(巧午電)」(6 月 18 日)、『重要史料諸編』(一)、
687-688 頁。
(45)「秦徳純発何応欽宛電報(馬酉電)」(6 月 21 日)、『紀事長編』、424-425 頁。
酒井隆が提示した 5 項目のうち中国軍の撤退ラインに関する第 1 項の内容 は次の通り。
「現在の停戦協定線(昌平、延慶)延長部分の東側地域および長城線北側 の地域に駐屯する宋軍部隊は、この線の西南地域に移駐すること。今後中国 軍はこの撤退地域に入ってはならない。」
(46)同上。
(47)「秦徳純発何応欽宛電報(養電)」(6 月 22 日)、同上、425-426 頁。
土肥原賢二が提示した 5 項目のうち中国軍の撤退ラインに関する第 1 項の 内容は次の通り。
「昌平、延慶の線の延長部分の東側地域、および独石口北側から龍関西北 側站を通り張家口北側を経て張北南側に至る地域内の第 29 軍部隊は、その 西南地域に移駐する。撤退地域内に再び軍隊を進入させてはならない。当該 地域の治安は察哈爾省保安隊が維持する。」
(48)「秦徳純発何応欽宛電報(養二電)」(6 月 22 日)、同上、426 頁。
(49)「何応欽発軍分会・秦徳純宛電報(漾酉秘電)」(6 月 23 日)、同上、427 頁。
この内容は、発電当日開催された臨時国防会議で確認された内容を踏まえ たものと考えてよい。
(50)「察哈爾省張北問題」、『現代史資料 8 日中戦争 1』、75 頁。
(51)同上。
(52)「秦徳純発何応欽・汪兆銘宛電報(敬未電)」(6 月 24 日)、『紀事長編』、
427-428 頁。
(53)「何応欽発軍分会・秦徳純宛電報(有午秘電)」(6 月 25 日)、同上、428 頁。
(54)「蔣介石発何応欽宛電報(敬申機蓉電)」(6 月 24 日)、『特交檔案』第 16 巻。
(55)「秦徳純発何応欽・汪兆銘宛電報(有亥電)」(6 月 25 日)、『紀事長編』、
430 頁。
(56)「中国国民党中央執行委員会政治会議第 463 次会議速記録」、中国国民党中 央文化伝播委員会党史館所蔵。
(57)「何応欽発軍分会・秦徳純宛電報(宥午秘二電)」(6 月 26 日)、『紀事長編』、
430-431 頁。
(58)同上、431-432 頁。
なお、6 月 27 日に秦徳純が土肥原賢二に提出した「文書回答」として日 本側に残る内容は次の通り(「若杉要大使館参事官発広田弘毅外務大臣宛第 214 号電報」(6 月 27 日発)、『日本外交文書』Ⅱ- 1 - 4 上、362 頁)。
一、張北事件ニ関シ遺憾ノ意ヲ表シ責任者ヲ免職ス
二、日支国交ニ不良ノ影響ヲ及ホスト認メラルル機関ヲ察哈爾省ヨリ撤退ス 三、日本側ノ察哈爾省内ニ於ケル正当ナル行為ヲ尊重ス
四、昌平延慶大林堡ヲ経テ長城ニ至ル線以東ノ地域及独石口北側ヨリ長城ニ 沿ヒ張家口北側ヲ経テ張北県南側ニ至ル線以北ノ地域ヨリ宋哲元軍ヲ撤 退セシメ撤退後ノ治安ハ保安隊ヲシテ当ラシム
五、以上ノ撤退ハ六月二十三日ヨリ二週間以内ニ撤収ヲ完了ス
(59)『紀事長編』、432 頁。
(60)「鮑文樾・秦徳純発何応欽・汪兆銘宛電報(宥十一時電)」(6 月 26 日)、『日 軍窺伺察哈爾案』。
この段階での中国側案は次の通り。
一、本省政府は、6 月 5 日張北で発生した事件に対し、遺憾の意を表すると ともに、事件の責任者を免職処分とする。
二、本省政府は、貴国の察哈爾省内における条約に合致した行為を尊重する。
三、本省政府は、貴方が国交に不良な影響を与えると認める機関を撤廃する。
四、本省政府は、河北省昌平から本省の延慶、大林堡を経て長城に至る線以 東の地域、および独石口北側から長城線に沿って張家口北側を経て張北 県南側に至る線以北の察哈爾省内の宋軍部隊をそれより西南の地域に移 駐させる。撤退地域内の治安は、察哈爾省保安隊が維持し、中日両国の 軍隊およびいかなる組織の軍隊も進入してはならない。
五、本省政府は、山東等の移民に対し、中日間の紛糾を惹起するおそれがあ
るため、努力して中止せしむ。
上述三、四の両項は 6 月 23 日から 2 週間以内に完了する。
これに対して土肥原は、本文で考察した第 3 項(第一書簡では第 2 項)の ほか、第 2 項については、「条約に合致した」を「正当な」という語句に改 めるよう、また第 4 項については、「察哈爾省保安隊が維持する」以下の文 言を削除するよう求めた。
(61)「汪兆銘・何応欽発鮑文樾・秦徳純宛電報(宥十九時半電)」(6 月 26 日)、
同上。
(62)「鮑文樾・秦徳純発何応欽・汪兆銘宛電報(感三時電)」(6 月 27 日)、同上。
なお、張群が閻錫山に宛てた報告にもこの第三書簡の内容を確認すること ができるが(「察省張北事件」(1936 年 11 月 28 日)、『閻錫山檔案-各方民 国二十五年往来電文原案』、(台湾)国史館所蔵)、中国側刊行資料にはこの 第三書簡は収録されていない。
(63)「若杉要大使館参事官発広田弘毅外務大臣宛第 220 号電報」(6 月 28 日発)、『日 本外交文書』Ⅱ- 1 - 4 上、362-363 頁。
なお、後に外務省が作成した文書には、6 月 23 日に土肥原賢二が秦徳純 に申し入れた「要望事項解釈」全 6 項目に本若杉報告のうち三を加えたもの が「諒解事項」としてまとめられている(外務省東亜局第一課『最近支那関 係諸問題摘要(第六十八議会用)』下巻、第廿五章「支那関係各種案件」、第 三節「北支事件及察哈爾事件」、外務省外交史料館所蔵)。
一、日、満ノ対蒙工作ヲ承認シ特務機関ノ活動ヲ援助シ且山東、山西移民ノ 察哈爾省入境ヲ中止シ蒙古人圧迫ヲ停止スヘシ
二、日、満ノ経済発展及交通開発工作ニ協力スヘシ例ヘハ張家口、多倫間其 他満洲国、北支那間ノ自動車鉄道交通等ノ援助ノ如シ
三、日本人ノ旅行ニ便宜ヲ与ヘ各種調査ヲ援助スヘシ 四、軍事及政治顧問ヲ招聘スヘシ
五、日本軍事諸設備(飛行場ノ設備、無線電台ノ設置等)ヲ援助スヘシ 六、撤退地域ノ治安維持ハ停戦地域ニ準スル方法ニ拠ルヘシ
七、張家口ノ徳華洋行ノ事業ヲ漸次立チ行カサル様仕向クヘシ
(64)「松井張允栄協定」の成立過程については、拙稿「「松井張允栄協定」一考
-中国側資料の検討を通して」、『安井三吉先生停年退官記念文集』、神戸大 学国際文化学部、2004 年。
(65)「宋哲元・張自忠発蔣介石宛電報」(7 月 19 日)、『重要史料初編』(一)、
695 頁。