はじめに
1919(大正 8)年頃,第一次世界大戦後の インフレがつづくなかで,小学校教員の実質 賃金が低下することにより生活が逼迫し,各 地において教員組合的な組織が誕生していた. 岡本洋三の研究によれば,同年には「教員の 地位と生活擁護をスローガンにかかげて組織 された教員団体は一二を数えたといわれ,『当 然の報酬を当然の方途によって呼号する』と いう教師の労働者意識も一部には急速に育っ てきた1)」という.しかし,それらの組織が 長期にわたって存続し得たわけではなかった. 「一九二一(大正十)年頃には『極めて微温的 な黄色的な団体』になって有名無実化してし まうか自然消滅してしまった.それは増俸要 求がある程度の成果をおさめたことと『実際 疑ふ余地のない程,地方官憲の圧力が加はっ たため』であったが,主体的な面における弱 さも看過し得ない問題であった2)」と岡本は いう. そして,その三つの理由のうち,三つ目の 「主体的な面における弱さ」について,岡本は 「教師はその存在においてはプロレタリア化し ていたが,その大多数の意識は依然として 『聖職者』意識にしばられていた3)」点にある とみている. 東京市小学校教員会は,1914(大正 3)年 に組織化に着手されているが,実際に発足す るのは 6 年後の 1920(大正 9)年であり,岡本 洋三の評価で言えば,教員組合的な組織が太 郎 良 信 *
The Formation on a National Scale of Unions for Primary School Teachers in
Japan
Shin TAROURA
要旨:本論文は,全国連合小学校教員会(略称・全教連)と,その創立を主導した東京市小学校教 員会の創立の経緯と課題について検討するものである。全教連は,各地の小学校教員会の連合体と して 1924 年に発足した。全教連やその構成団体である個々の小学校教員会は,実際には教員の 「地位向上」や「待遇改善」が必要であることを認識しつつも,教員組合的な要求運動が許されな い状況下にあって,職能団体として組織されたものである。小学校教員が国策を率先して担うもの であることを国家社会にアピールするなかで小学校教員の「地位向上」をはかり,それを「待遇改 善」に結びつけようとする判断によるものとみられる。これまで,全教連や構成団体について「御 用団体」と評価されてきたが,少なくとも創立当初にあっては「御用団体」という評価ではおさま らない性格を含んでいたといえよう. キーワード:小学校教員会 教員の待遇 教育の地位 東京市小学校教員会 全国連合小学校教員 ──────────────────── * たろうら しん 文教大学教育学部心理教育課程「有名無実化」ないし「自然消滅」する時期に 至ってのことであった.それからさらに 4 年 後の 1924(大正 13)年 11 月,東京市小学校教 員会が発起して全国連合小学校教員会(以下 「全教連」と略称する4))が創立されている. 全教連は創立総会の「宣言」において「世 界ノ情勢国家ノ現状ニ鑑ミ吾人国民教育者ハ 茲ニ一大団結ノ必要ヲ自覚シ全国ニ於ケル教 員会連盟ヲ組織シ協力戮力大ニ国民教育ノ振 興ヲ図リ以テ国家ノ進運ニ貢献センコトヲ期 ス」ことを表明するとともに「一,吾人ハ大 ニ国民精神ノ作興ニ努メ以テ詔勅ノ御趣旨ヲ 貫徹センコトヲ期ス」等の三項目を明らかに して,前年の 1923(大正 12)年に発せられた 国民精神作興に関する詔書の趣旨を実践する ことを誓っている5).その「宣言」をさきの 岡本洋三の指摘との関係で見れば「『聖職者』 意識」にしばられるどころか,それを前面に 掲げたものとなっており,教員組合的な組織 ではないことはいうまでもない. 全教連に関する先行研究においては,創立 総会における「宣言」や,1934(昭和 9)年 に全教連が主催者となって皇居前において開 催した全国小学校教員精神作興大会において 「教育報国」を誓ったこと等にもとづいて全教 連に対する評価がなされてきている.たとえ ば「ファシズム教育政策の実現において,そ の権力の浸透の末端的役割を演じたのは,… …帝国教育会や全国連合小学校教員会に属す る教員それ自身であった6)」というような評 価がある.また,全教連そのものが「もとよ り圧迫を加えられるたちの会ではないので, 昭和年代に入つてもずつと存続している7)」 という程度の研究関心に過ぎない場合もある. さらに,その全教連の発起団体の一つである 東京市小学校教員会については「下からの教 員組合を牽制するために,上から用意された, 御用団体8)」と規定しているものもある. 全教連の活動期間は 1944(昭和 19)年まで の 20 年間に及ぶものであり,その間の活動を 総体としてみれば,国策を率先して担う「御 用団体」としての役割を果たしたことは否定 できない9).しかしながら「御用団体」であ るという評価を下しただけでは,全教連や小 学校教員会が何を課題として活動を展開した のか,構成員であった小学校教員の意識や生 活状況はどのようなものであったのか,なぜ 「御用団体」としての役割をになったのかとい うことを把握することはできない. ここで留意しておかねばならないことは, 教員給与の性格である.三輪定宣の研究によ れば「教師の賃金は……明治憲法第一〇条に もとづき天皇が決定する『身分給』であり, 天皇への身分的接近度と滅私奉公の対価とし て,いわば御恩として給与された一種の封建 的関係10)」によるものであったということで ある. このことを考慮すると,全教連は,教員組 合的な待遇改善要求運動が許されない状況に あって,なおかつ小学校教員の待遇改善をは かるには,国策を率先して実践することでも って教員の果たす役割を国家社会にアピール して,地位の向上をはかり,その結果として 待遇改善を期するという判断をおこなったも のとみられるのである. 本論文は,全教連が創立される経緯と会の 性格について,教員の「待遇改善」や「地位 向上」の課題とのかかわりで検討を試みるも のである. この視角は,全教連が創立される 1924 年前 後からの数年間と,1930 年代以降とでは,そ の課題の置き方において相対的な差異がある との予見に基づいている.これは,1933(昭 和 8)年段階における全教連会長・下川兵次 郎が,同時期までの全教連の活動の課題が教 員の「地位の向上」や「月給の増額」等にあ ったととらえた上で,そのことを否定的に見 ていることに示唆を得ている.ちなみに,下 川は次のように述べている. 「教育者は精神文化事業に従事してゐる以
上,徒に物質的に恵まれんとして,物質上 のことで自ら進んで彼是詮議すべきではな い.従来の会合に於ては,其の宣言決議と いふものを見ると,地位の向上とか,月給 の増額などゝいふ物質的な方面に注意が向 き過ぎて居つた様に思はれる11)」 また,1931(昭和 6)年に全教連に加盟し た大分県郡市連合小学校教員会(1931 年 6 月 21 日発足)の矢野孝吉(1933 ∼ 1944 年の間, 同会会長)の次のような戦後における回想に も,下川の発言と一致するものが見られる. 「本会(大分県郡市連合小学校教員会−引 用者)は教員の地位を擁護し権利を主張す る政治的団体であつたが,昭和八年満州事 変前後は国内の諸団体が自己の権益を主張 することを止めて,大いに国家主義的活動 をはじめたので本会でもその方面に進んで 転向した12)」 下川の発言や矢野の回想からみるとき,全 教連の発足当初においては,教員の「待遇改 善」や「地位向上」が主要な課題として自覚 されていたということが察せられるのである.
1.
東京市小学校教員会の創立経緯と
性格
全教連の創立を主導したのは,1920(大正 9)年に創立された東京市小学校教員会であっ た.ここでは,東京市小学校教員会の創立経 緯をみていく. (1)職能団体としての小学校教員会 東京市小学校教員会の創立経緯にかかわる 第一次資料は乏しい.ここでは,発足時に幹 事長を務めた松下専吉にかかわる資料を主な 手がかりとしてみていく. 松下は,1913(大正 2)年に小学校教員の 「自律」を促すために教員会が必要であるとす る発言をおこなっている. 「吾人は本市に於ける小学校教員会を組織 して,従来の如き教員の他律的行動と,消 極的精神を打破し,奮励一番大に大正の新 精神を鼓舞し,積極的態度を以て各自が自 律的に自己活動をなし以て,本市の為め本 市民の為めに,協同一致初等教育の向上発 展を図るを以て刻下の急務なりと信ずるも のなり13)」 ここでは,「大正の新精神」を担う教員の職 能団体として小学校教員会をとらえている. その翌年の 1914(大正 3)年 3 月に東京市小学 校教員会創立に向けての準備が着手された. 松下の年譜には次のように記されている. 「大正三年(中略)三,一六 東京市小学 校教員会組織委員に小学校長会議長戸野周 二郎(市教育課長)氏より指名をうけて其 の組織に着手14)」 「大正五年(中略)五,二七 小学校教員 会設立実行委員に選ばる15)」 これらの記述により,東京市小学校長会に おいて東京市小学校教員会の組織の準備が始 められたことがうかがえる. 1917(大正 6)年 3 月には,東京市小学校長 会において「市小学校教員会規則」をつくる 実行委員が設けられていることが『教育時論』 の記事で確認できる. 「東京市立小学校長会議は三月三十日市会 議事堂に於て開会,……守屋課長開会の辞 を述べ,市長代理宮川助役の挨拶ありて議 事に入り,御大典記念事業たる/一,体育 上に関する件/二,市小学校教員互助会規 則/三,市小学校教員会規則/に就きそれ ぞれ実行委員を設け(以下略)16)」 ただし,その準備は遅々としたものであっ た.1917 年 11 月に松下は論文「小学教育の改 善と帝都将来の教育」において次のように述 べている. 「帝都小学教育の自発活動を促さんが為に は,教員相互の一致協力を以て必要とし教 員会の設立を最も急務とす.目下本市小学 校長会に於て調査しつゝあるものを速に決定して,茲に小学教員の団結を作り,互助 研究の途を講ぜしめ,当局の指導に俟たず して進んで市民教育の改良進歩に当たらし むることを要す17)」 ここでも,松下は,1913 年の発言と同様に, 職能団体として小学校教員会をとらえている. 1919(大正 8)年 10 月に至って,ようやく 東京市小学校教員会発足が確定する.『教育時 論』は次のように報じている. 「東京市立百八十七校に奉職せる小学校教 育者は男女合せて四千余名に達するが欧州 大戦後の国民教育は種々の点に改造を促し, 教育者自身も亦社会の大勢に順応し研究す べき問題少からざるを以て今回東京市教員 会を創設することに決定し去月二十二日学 務委員会室にて創立総会の熟議を凝らした 18)」 この決定を受けて,松下は,1919 年 11 月に 再び教員会設立実行委員となっている. 「大正八年(中略)一一,二七 小学校教 員会設立実行委員に重任す19)」 こうして,1920(大正 9)年 1 月に東京市小 学校教員会の創立大会を迎えることとなる. 以上の経緯をみると,東京市小学校教員会 は,東京市小学校長会の主導のもとで,創立 準備に入って以降 6 年間もの時間を費やして ようやく創立に至ったということとなる. (2)教員の待遇改善問題とのかかわり 東京市小学校教員会の創立までに 6 年間も 時間がかかったのは何故なのかについて,そ れを解明する直接の史料は未詳である.ただ, のちに東京市小学校教員会の幹事長を務めた 上沼久之丞の回想のなかに,次のような叙述 がある. 「大正御大典(1915 年−引用者)を記念し て,帝都初等教育の振興を図らんが為め, 当時の田尻市長時代であつたかと思ふが, 東京市校長会に其の方案を諮問されたこと があつた.確か大正四年の五六月の頃で, 各区代表の調査委員が設けられて答申案を 作製した.其の答申要項は,一,帝都臣民 としての訓練要目を制定して,輦轂の下帝 都臣民の品位を向上すべし.二,教員の互 助機関を設けて生活の安定を計り,専心教 育に没頭終始し易からしむべし.三,教員 会を組織し,自覚を高め修養親睦を計り, 大同団結して地位の安定を計り,自治自衛 の方途を講ずべし.といふ意味の含まれた ものであつた20)」 上沼の回想には,田尻市長の名前が登場し ている(ちなみに田尻稲次郎が市長を務めた のは 1918(大正 7)年 4 月∼ 1920(大正 9)年 11 月である)ために,「大正四年の五六月の 頃」と具体的に年月を挙げたことが曖昧にな ってしまっているきらいがある.ただし,松 下専吉の年譜をみると,1914(大正 3)年に は「組織委員」,1916(大正 5)年には「設立 実行委員」があり,1916 年までには,教員会 の組織化が具体的な日程に上りつつあったと いうことになる.そのことを考慮すれば,上 沼の回想にある「教員会を組織し……」を含 む答申が「大正四年」のことであっても矛盾 はない. その際の校長会の答申は,上沼の回想に従 えば,教員会の性格は,教員の「地位の安定 を計り,自治自衛の方途を講ず」るものであ り,職能団体にとどまらぬものを含んでいた ととなる.さらに言えば,文言上は,教員組 合的な性格を含みこんでいたということであ る.ただし,この答申と,のちの東京市小学 校教員会の創立との間には,時間的に見ても, 内容的に見ても,直接的な関連を見出すこと はできない.時間的にみれば 5 年間の開きが あり,また,創立時の東京市小学校教員会は 「地位の安定」等の要求は掲げてはいないため である. ただし,その後の 5 年間に教員の「地位の 安定」等の課題が解消していたわけではない. その点については,松下も前述の 1917 年の論
文において「教員待遇の改善」の必要につい て次のように述べていた. 「教員待遇の改善 (一)教員の地位を一層安固ならしむるこ と. (二)教員俸給を国庫支弁とすること. (三)一般官吏の待遇によらずして特別待 遇とすること. (四)俸給率を高め昇給年限を定めること. (五)退隠料支給額の改正をなすこと. (六)教員の為に特別の勲章を制定するこ と.21)」 ここには,小学校教員の地位と給与,退職 金,勲章に関することが挙げられて,小学校 教員の待遇改善の必要が課題として存在して いることを松下もとらえていたことを示すも のである.ただし,松下論文においては,こ れらの課題を小学校教員会が担うべき課題と しては位置付けられてはおらず,小学校教員 にかかわる政策課題の所在を示すものにとど まっていることに留意しておかねばならない. 1918 年には市町村義務教育費国庫負担法が 成立し,若干の改善がなされた.しかしなが ら,この時期においても,教員の待遇問題は 依然として深刻なものであった.1919(大正 8)年 9 月,渋谷徳三郎(東京市教員課長)は, 第一次大戦後のインフレのもとでの教員の生 活状況を次のように記している. 「近頃最も人の耳目を聳動し社会の注意を 惹起せるは,市立小学校教員待遇問題の右 に出づるものがない様である.蓋し物価騰 貴の趨勢は,殆んど底止する所を知らざる 有様で,近時一層其の甚だしきを加ふる所 から,一般に生活上の困難を感ずるは当然 であるけれども特に小学校の教職に従事す る人々は,平素菲薄の待遇を受け普通の物 価の時でさへ,衣食を支ふるに困難なる実 情であつたのだから,此の節の如く平素の 二倍にも三倍にも騰貴して,而も底止する 見込もつかざる場合に際し,生活資料の根 源となり,又其の職務上の体面を維持する の資料たるべき待遇問題の高潮し沸騰する は,寔に止むを得ざる必然の事象といはね ばなるまい22)」 東京市の課長自らが教員の待遇改善の必要 性が依然として存在することを確認する内容 となっている.したがって,東京市小学校教 員会発足直前の時期においても,小学校教員 の待遇改善の課題が切実なものとして存在し ていたことは確かである.しかし,そこにお いても,小学校教員会が担うべき課題として 言及されているわけではなかった. こうしてみると,東京市小学校教員会の発 足にいたるまでに 6 年間を費やさざるを得な かったことの理由には,小学校教員会の性格 づけをめぐって議論が分かれていたこと,よ り具体的には,待遇改善要求を小学校教員会 の課題として含むか否かの議論が分かれてい たことが察せられるのである.この点は,史 料の発掘を待つほかはない. (3)東京市小学校教員会の発足 1920 年 1 月 15 日に東京市小学校教員会創立 大会が開催されている.そこでは次のような 「宣言」を発している. 「宣言 吾人は大正四年に於て御大典の記念事業 として本市の小学校教員会を組織せんこと を発起し之れが準備に従事したりき,然る に世界空前の大戦乱の裡に在りて四囲の事 情急速に之が実現を見るに至らずして今日 に及ぺり,今や全世界は殆ど全く平和に帰 し各国相競ふて戦後の経営に意を注ぎ国力 の増進と文化の向上とを企画す.而して此 の企画を遂行せんが為に何れも教育の施設 を完備するに力を致さざるは無し. 此の時に際し輦轂の下に在りて児童教育 の任に当るもの奮励自彊其の職に尽し共同 一致其の務を完うし以て大に本市教育の改 善進歩を計図せざるぺからず,之によつて
吾人は益々曩の計画を実行すべき急を感じ, 茲に東京市小学校教員会を組織し左の事項 を決議し以て如上の所期を貫徹せんとす. 一,宇内列国の趨勢に鑑み国民教育の尊重 を図ること. 二,重厚堅実なる思想を養ひ浮華矯激の気 風を排すること. 三,体育を奨励して市民の身心を鍛錬する こと. 四,自発自動の教育を重んじ市民活動の能 率を増さしむること. 五,社会奉仕の念を高めて以て公共道徳を 進むること.23)」 ここには教員の待遇改善に関する言及はま ったくなく,職能団体としての小学校教員会 の発足を宣言するものであった.「東京市小学 校教員会規則」においても,親睦を含めた職 能団体となっている24). この創立大会について,東京市教育会の 『都市教育』は次のように報じている. 「小学教〈ママ〉員会創立大会 慶應義塾大講堂に 開催 百八十七校五千名を含有する東京市小 学教 〈ママ〉 員会創立総会は十五日午後一時半慶應 義塾の講堂に開く.折柄の雪をふみ会する 者千五百余名杉浦誠之校長の開会の辞に次 ぎ君が代合唱勅語奉読の後創立経過報告あ りて議事規則の議事に入異論続出互に思切 し露骨の問答もありしが五ヶ条の宣言は伊 藤鞆絵小学校長の説明により会則は松下本 郷小学校長の説明によりて無事可決し田尻 市長渋沢男爵江原翁高木男爵等の祝辞演説 終つて両陛下万歳教 育〈ママ〉会万歳を三唱し午 後五時閉会せり25)」 具体的な事情は記されていないものの「異 論続出」であったと報じられていることが注 目される.ちなみに,前述の上沼は創立大会 の状況について「満堂立錐の余地なき盛況で, 対内的自治自覚修養親睦の精神は勿論あつた が,対外的対抗的結束を強調して地位の安定 に勇往邁進の意気が漲つてゐた26)」と回想し ており,参加者の間には「対外的対抗的結束」 「地位の安定」が関心事であったことを伝えて いる. 『都市教育』の記事と上沼の回想を併せて 考えれば,小学校教員会が教員の待遇改善に ついて顧みていないことに対する異論であっ たと推察されよう27).
2. 全教連の創立経緯と課題意識
(1)創立の経緯 全教連の創立は,東京市小学校教員会発足 時からの計画であった.『全国連合小学校教員 会報告 第一回』の「創立の経過」には次の ように記されている. 「東京市小学校教員会は,大正九年二月創 立と共に,全国に散在せる現職教員団体を 糾合して,一大連盟を組織するの意志を有 し,相当考究を重ね,十一年三月役員更迭 に際し全国連合小学校教員会設立の件も引 継たり,次いで次期役員は,更に設立方法 に関して調査を進め,大正十二年中に之が 実現を計画し,同年秋季東宮殿下御成婚の 好機を期して,創立総会を開催せんことを 決定したり.依て之が準備として,同年六 月全国連合小学校規約案を草し,同七月全 国三十八都市(括弧内の都市名列記は略− 引用者)の代表小学校長諸君に委嘱して, 其地の現職教員団体の有無を調査したるに, 団体の設立せるもの僅に九市なりき.此に 於て九市には創立発企者たるの照会をなす と共に,加盟方を依頼し,一方未設の各市 には之が設立方につき勧誘したり28)」 こうした経過報告から,全教連は 1923(大 正 12)年秋の発足を予定していたことが明ら かになる.このような動きについては,たと えば『北海道教育』誌上の「東京市教員会の 活動も折々伝へられて居り,且つ其会は近く 全国未設の諸地方に檄して『其地教員の団結を勧める』さうでありますし,尚近くは札幌 市に於ても其会が創設されんとしつゝありま す29)」というような記事にも反映している. ところが,9 月 1 日に発生した関東大震災に より,事情が一変して,実現は延期されるこ ととなる. 「斯くして着々準備を進行せしに,突発せ る九月一日の大震災に,同会も多大の打撃 を蒙りしのみならず教員の救済,学校復興 に全力を傾注せざるべからざる事情となり, 本事業も自然延期の已を得ざるに至りき, 大正十三年四月役員更迭し,一方臨時救済 の事業も完了したれば,同年秋季を卜とし て,再び本連盟の実現を図るに決し,前回 準備せる一件書類は殆之を焼失したれば, 茲に計画を新にし,且其規模を大にするこ とにし,六月全国道府県の有力なる小学校 長六十七氏に,其管下に於ける教員団体有 無の調査を嘱托したり.其結果九月迄に 解答 〈ママ〉 ありたるもの五十四地方,未回答十三 地方(県名列記は略−引用者)にして,回 答ありたるものの中,団体の設立なきもの 十四県,郡市州支庁を単位として設立せる もの七十八ヶ団体なりき30)」 1923(大正 12)年に把握できたのは 9 団体 のみであったが,1924(大正 13)年には 78 団 体を把握できたということになる. 「斯くて東京市小学校教員会発企者を代表 して諸般の設立事務に当り,創立総会も亦 同会主催となりて之を開催することとし, 同会は之が為に創立迄の所要経費を負担す ることにしたり.八月諸般の準備と各地方 の回答とを整理し,愈々九月十日設立趣意 書規約案規約施行規則案其他一件書類を以 て,教員団体既設の地方には加盟方を,未 設立地方には各郡市の有力小学校長諸君に 嘱托して設立方を勧誘し,且つ創立総会に は何れも二名乃至五名の代議員派遣方を通 知せり.其数実に六百三十八通なり.然し て十一月十日に加盟せられたもの二十八団 体,未設都市より有志代表参加方二此等の 代議員は規約案に基き,主催会十名各会五 名以下にして,計六十六名出席を申込する. 但し加盟会にして都合により本年代議員を 参加せざるもの三団体あり.十一月十四日 より三日間東京市小石川区東京府女子師範 学校に創立総会を開会して,愈本会の創立 を見るに至る誠に慶すべきなり31)」 全教連の設立が,東京市小学校教員会の主 導によってなされたものであることを仔細に 記録したものであり,創立時に加盟したのは 28 団体であったことが判明する. (2)設立趣意書 「全国連合小学校教員会設立趣意書」の全 文は次のものである. 「全国連合小学校教員会設立趣意書 世界の情勢に鑑み帝国の進運を慮ります ると,国民教育の振興愈々切なるものがあ ります.吾人国民教育の任に膺る者転々其 責務の重且大なるを感ぜざるを得ません. 吾人は此間に立つて如何にして此使命を果 しませうか,是実に焦眉の重要問題である と信じます.吾人が此使命を果さうとする には,先づ吾人自体の修養と教権の確立と を図り,進んで協心戮力提携して以て一層 国民教育に寄与貢献することが最緊要であ ると考へます.現に各地に設立された小学 校教員の諸団体は,思ふに此目的に因るも のと存じます. 今や各地には此種の教員団体設立の機運 が鬱勃として旺溢しつゝあるのは,時勢の 要求に応ずる必然の結果でありませう.惟 ふに各団体が各個孤独の活動では十分にそ の実力を発揮し,実効を収むることは至難 な事であつて,どうしても綜合された知識, 結合された力とが融合調節して,始めて妥 当なる解決と,適切なる実績とを挙げる事 が出来ると考へます.茲に於て吾人は絶叫 いたします.此際此種教員団体の大同団結
を図り互に連絡気脈を通じ,大に教育の改 善振興を期し,以て国家の進運に貢献した いと存じます. 吾人は斯の如き趣意を以て,茲に全国連 合小学校教員会を設立することにいたしま した.全国各地の教員団体諸君,幸に本趣 旨に賛同せられ,奮つて御加盟あらんこと を切望いたします. 大正十三年八月 全国連合小学校教員会設立発起者 (順序不同) 京都市小学校教員会 名古屋市小学校教員会 広島市教員協会 呉市小学校教員会 山形市小学校教員会 奈良市小学校教員会 豊橋市小学校教員会 岡崎市小学校教員会 福井市教員協会 福井県教員協会 東京市小学校教員会 (事務所 東京市神田区猿楽町, 金華小学校内)32)」 ここにみられる全教連の性格は「吾人自身 の修養と教権の確立」ということばにみられ るように,教員の職能団体としてのものであ った.文言上は東京市小学校教員会のそれと 共通するものであったということとなる.
3. 全教連発起者の教員会の性格
全教連の発起者として連署した個々の教員 会の綱領や規約等には,全教連の「設立趣意 書」にみられる教員会の性格どおりのものと, それとは相違する面を持つものとが含まれて いたようである.東京市小学校教員会以外の 組織で綱領や規約が確認できるもの 4 組織に ついて見ておく. (1)名古屋市小学校教員会 名古屋市小学校教員会は,1921(大正 10) 年に発足した.その発足については『教育時 論』に次のように報じられている. 「名古屋全市の小学教員一千余名を会員と し其名称を名古屋市教員会と称し来る四月 十日を以て愈よ其発会式を挙ぐる事となり. 文部省より乗杉督学官の出席ある筈にして その目的を達せんが為に左の事業を行ふ事 を規定し居るといふ. 一,会員の研究修養を期すること 二,会の意志を発表し時に之を建議する 事 三,会員の互助救済をなす事 四,其他必要と認むる事業33)」 ここには互助会の側面を含む職能団体とし ての性格がみられる.「二,会の意志を発表し 時に之を建議する事」のなかに,地位向上や 待遇改善が含まれていたか否かは不明である. (2)京都市小学校教員会 京都市小学校教員会は,1921 年 10 月に発足 している.「京都市小学校教員会略沿革」によ ると発足の経緯は次の通りである. 「大正九年五月本市小学校首席訓導を以て 組織せる庚申倶楽部より校長会に対し『教 員組合の如き鞏固なる団体を組織せられた し』との申出ありたるに依り,校長会は其 意見に賛同し十名の委員を設け同倶楽部と 交渉熟議し規約案を作り更に事業細則を定 めたるに依り校長会は之を是認し,十年六 月二十一名の創立委員を挙げ之が実行に着 手せり.創立委員は調査委員案に二三の修 正を加へ会員の募集に着手し同年十月茲に 本会の成立を見るに至れり34) 首席訓導や校長会の主導のもとで発足した ことが明らかである.その規約は次のもので ある. 「京都市小学校教員会規約 (大正一〇・一〇制定)第一条 本会ヲ京都市小学校教員会ト称シ 事務所ヲ会長在職ノ学校内ニ置ク 第二条 本会ハ会員相互ノ協力ニヨリ教育 者タルノ使命ヲ全ウシ併セテ会員各自ノ 生活ヲ向上セシムルヲ以テ目的トス 第三条 前条ノ目的ヲ達センカ為左ノ事業 ヲ行フ 一,会員ノ互助共済ノ方法ヲ講スルコト 二,会員ノ社会的地位ヲ高ムル途ヲ講ス ルコト 三,会員ノ智徳ヲ向上スルコト 四,教育ノ権威ヲ確立スル途ヲ講スルコ ト 五,教育改善ノ方法ヲ講スルコト 六,其ノ他本会ニ於テ必要ト認ムル事 (以下略)35)」 ここには,「教育者タルノ使命ヲ全ウ」する という職能団体としての性格とともに,「会員 ノ社会的地位ノ向上」や「会員各自ノ生活ノ 向上」を規約等に掲げており,地位向上や待 遇改善要求を含んだものとなっている. (3)広島市教員協会 広島市教員協会は,1921 年 2 月 22 日に発足 している.その綱領は次のものである. 「一,国家ノ現状ト世相ノ実際トニ鑑ミ大 ニ教育振興ノ実ヲ挙ゲンコトヲ期ス 一,協同一致教育能率ノ増進ニ力メ益々 教権ノ伸張ヲ計ランコトヲ期ス 一,市民ノ教育ニ対スル覚醒ヲ促進シ併 セテ立憲思想ノ涵養ニ努メンコトヲ期 ス36)」 同会は職能団体であるが,とくに「教権の 伸張」を掲げている.そして,活動の面では 市民の教育への理解を求めて,市議会議員選 挙に大きな関心を払っている. (4)呉市小学校教員会 1921 年 11 月 21 日に呉市小学校教員協会と して発足したものがあったが,市議会での派 閥間の対立の余波を受けて解散し,1923 年 3 月 25 日に再発足したものである.「呉市教員 会規約」は次のものである. 「一,本会は呉市小学校に奉職せる教員を 以て組織す 二,本会は呉市教員会と称す 三,本会は協力戮力互に修養研鑽に勉め 相助け相戒め教権の確保を図り以て天 職に奏任し教育の向上発展に努むるを 以て目的とす(以下略)37)」 同会も職能団体であるが「教権の確保」を 掲げている.これは,市議会による教員への 干渉を排除することを念頭においたものであ る. (1)から(4)の 4 つの教員会をみるとき, 地位向上や待遇改善を明確に掲げているもの は京都市小学校教員会のみということとなる.
4.
帝国教育会長の沢柳政太郎の教員
会観
帝国教育会長・沢柳政太郎は,全教連創立 総会と同時期に開催されていた第十回同会小 学校教員会議の決議を経て,全教連創立総会 において祝辞を述べている.その祝辞は「外 国の例につきて申述ます」と断りつつ,次の ような内容をもつものである. 「米国に組織せられた国民教育会は最有力 なる団体でありますが近時教員会が出来, 連合して大団体となり,労働組合と連盟し てゐます.然し教育会は教員会をよく思ひ ません. (中略)英国では教員組合があります.教 員の国民的組合であります.(中略)労働組 合には連盟してゐませんが,有力なる団体 で政府に代表を送るを常としてゐます.(中 略)組合は教育者の地位向上の保証を計り 若し圧迫があれば研究して理由なければ排 去するに力めなければならない.(中略)米 国では自分の国団(団体の誤植か−引用者)の利益を保護する為にストライキを行ふ. 教員会は如何といふに今はしてゐません. 如何となれば連盟してゐるものが少数であ るから痛痒を感じないからです.(中略) かゝる次第故に実力の大なることを望みま す.(中略)要するに教員会の性質目的を明 にし,有力なる団体として国家に立つこと を望む次第であります.38)」 この祝辞において,沢柳は,外国の労働組 合に近い性格をもつ教員組合を紹介して,間 接的な表現ながら,全教連が教員組合的な活 動をすることを強く期待しているとみること ができよう.
5.
文部大臣宛の建議書にみる教員の
地位向上要求
全教連の創立総会においては,東京市小学 校教員会から提出された議案「教員会の使命 と其の施設上に関し適当なる方案如何」が審 議され,次のような結論を得ている. 「小学校教員会は現に小学校教員の職にあ り其の責務を同くするものゝ団体にして, 会員相互の親睦を厚くし共済を図り,心身 の修養地位の向上につとめ,教育に関する 研究調査を遂げ,与論を喚起し,公議を発 表して,其の実現に努め,国民教育の改良 上進を期するを使命とす39)」 ここでは,職能団体としての性格を保持し つつも「地位の向上」が含まれていることが 注目される. この「地位の向上」に関しては,東京市小 学校教員会が別途に議案「小学校教員の地位 向上に関し適当なる方法如何」を提出してい る.この討議の結果は,12 月 26 日に,文部大 臣か宛てに提出された次のような建議書に反 映している. 「一,小学校教員ノ地位向上ニ関スル件. (1)生活ノ保障ヲ与フルコト イ,権勢者ノタメ地位ノ動揺ヲ来スガ如 キ悪風ヲ剪除スルコト ロ,初任給ヲ引キ上ゲルコト ハ,年功加俸ヲ増額シ且ツ全国共通トス ルコト ニ,住宅料ハ必ズ之ヲ給与スルヤウ法規 ヲ改正スルコト ホ,俸給旅費ノ正当支給ヲ督励スルコト ヘ,休職給ニ関シ小学校令施行規則百五 十三条但書中『市町村学校組合町村学 校組合又ハ其ノ学区ニ於テ特別ノ事情 アル場合』ノ項ヲ削除スルコト ト,教員ノ子弟ニシテ教員養成ヲ目的ト スル学校ニ入学セントスルモノニ優先 権ヲ与フルコト 理由 国民教育ニ従事スル小学校教員全 国ニ十数万,往々権勢者ノタメニ其地 位ヲ左右セラルヽ者アリ,或ハ生活ノ 安定ヲ欠キ,或ハ既得権ノ行使伸張ヲ ナスコト能ハザルノ境遇ニアリ,斯ク テハ教育上決シテ良好ナル結果ヲ招来 スル所以ニアラズ,是ニ於テ国家ハ初 等教育者ノ生活ヲ保障スル上ニ於テ, 更ニ一段ノ努力ヲ払フ必要アリト信ズ ルモノナリ. (2)奏任待遇者ノ員数ヲ増加シ其ノ標準資 格ヲ改正スルコト. イ,定員数ヲ撤廃スルコト ロ,在職拾五年トスルコト ハ,奏任待遇者ニシテ小学校ニ就職シタ ルモノニハ前待遇ヲ与フルコト 理由 初等教育者ハ当ニ一郷ノ先覚者ト シテ教化ノ中心タルノ重要ナル職責ヲ 有スルモノナレバ,相当ノ年限教職ニ 従事シタル学校長ニ対シテ,国家ハ宜 シク一層ノ優遇ヲ与フベキモノト信ズ. (3)師範教育の改善ヲハカルコト (4)俸給ヲ国庫支弁トスルコト (5)教育功労章ヲ制定スルコト (6)被選挙権ヲ与フルコト 理由 (4)乃至(6)ハ小学校教員ノ地位向上ト,並ニ生活ノ安定ヲ得シメ, 国民教育者トシテ栄誉ヲ保タシムルモ ノニシテ,教権尊重ノ実ヲ挙ゲ,国民 教育上至大ノ好結果ヲ来スベシト信ズ 40)」 給与の引き上げから,奏任待遇者の増大, 被選挙権までに及ぶものとなっている.とり わけ「一,生活ノ保障ヲ与フルコト」の要求 は具体的なかたちで示されており,切実なも のであったことがうかがえる.
おわりに
東京市小学校教員会や同会が創立を発起し た全教連は,基本的には職能団体としての性 格をもっていた.とりわけ,東京市小学校教 員会は,創立時において教員の「地位向上」 や「待遇改善」についてはその要求を掲げな かった.全教連の創立を発起した際の「設立 趣意書」にも,「地位向上」や「待遇改善」は 含まれておらず,創立総会の「宣言」でも言 及がない. しかしながら,全教連の創立総会における 沢柳政太郎の祝辞は,教員会が教員組合の性 格を持つことを期待したものとなっている. また,加盟団体の一つである京都市小学校教 員会は,地位向上や待遇改善を課題として掲 げていた. そして,全教連の創立総会においては,東 京市小学校教員会が教員の「地位向上」を議 題として提出している. これは,全教連が職能団体としての性格を 保持しつつも,教員としての職務を遂行する うえでは「地位向上」や「待遇改善」が不可 欠であるということを明言するに至ったとい うことである.そして,結果としては,文言 上は教員組合の要求ともいうべき「生活ノ保 障ヲ与フルコト」にかかわる諸要求が掲げら れることとなったのである. ここには,東京市小学校教員会のみならず, 京都市小学校教員会をはじめとする各地の小 学校教員会の活動や要求が集約されることで, 前述のような建言書の内容として結実したも のとみられる. したがって,全教連は,職能団体であると 同時に,教員の地位向上や待遇改善要求を担 うものとして発足したとみることができよう. こうした全教連の創立とその活動は,全国 各地の小学校教員会の組織化を促したり,性 格の変更を促したりしていくこととなる.そ の後の動きについては,機会を改めて論じる こととしたい. <注> 1)岡本洋三「教師の団結と権利意識」中内敏夫・ 川合章編『日本の教師 3』明治図書,1970 年, 105 ページ. 2)同上論文,106 ページ. 3)同上. 4)「全教連」という略称は,全国連合小学校教員会 機関誌『教育報国』(1935 年 11 月 15 日創刊)の 常設欄の名称「全教連通信」に用いられているこ とにみられるように,当事者が「全教連」という 略称を用いていたことに依拠している.国民学校 制度発足にともなって全国連合国民学校職員会に 改称した後の『教育報国』1944 年 3 月号(終刊号) 誌上においても「全教連通信」の欄がある. 5)全国連合小学校教員会『全国連合小学校教員会 報告 第一回』1925 年 4 月,1 ページ. 6)久保義三『日本ファシズム教育政策史』明治図 書,1969 年,234 ページ. 7)石戸谷哲夫『日本教員史研究』野間教育研究所, 1958 年,389 ページ. 8)同上書,387 ページ. 9)全教連の歴史を概括的にとらえたものとして, 太郎良信「全国連合小学校教員会研究序説」(鈴 木博雄編『日本教育史研究』第一法規,1993 年) がある. 10)三輪定宣「教師の生活の窮迫と教師観の変化」 中内敏夫・川合章編『日本の教師 3』前出,72 ペ ージ. 11)下川兵次郎『全国小学校教員諸君に告ぐ』藤井 書店,1934 年,53 ∼ 54 ページ.12)矢野孝吉『人生七十年』私家版,1952 年,35 ∼ 36 ページ. 13)松下専吉「須らく小学校教員会を興すべし」 『都市教育』1913 年 1 月号,43 ページ. 14)松下専吉君功労記念会編『松下専吉先生』帝都 教育会,1937 年,277 ページ. 15)同上書,278 ページ. 1 6 )「 東 京 市 小 学 校 長 会 」『 教 育 時 論 』 1 1 5 4 号 , 1917 年 5 月 5 日,17 ページ. 17)松下専吉「小学教育の改善と帝都将来の教育」 『初等教育』1917 年 11 月号.『松下専吉先生』前 出,255 ページ. 1 8 )「 東 京 教 員 会 の 組 織 」『 教 育 時 論 』 1 2 4 4 号 , 1919 年 11 月 5 日,23 ページ. 19)『松下専吉先生』前出,279 ページ. 20)上沼久之丞「教員会最初の幹事長」『松下専吉 先生』前出,99 ページ. 21)松下専吉「小学教育の改善と帝都将来の教育」 前出,252 ページ. 22)渋谷徳三郎「市立小学校教員待遇問題に就て」 『都市教育』1919 年 9 月号,7 ページ. 23)東京都教育会編『東京都教育会六十年史』1944 年,504 ∼ 505 ページより再引用.『都市教育』 1920 年 3 月号にも紹介があるが,そこでの「宣言 書」には 30 文字程度の脱落があるとみられるた め,ここでは『東京都教育会六十年史』のものを 採用した. 24)「東京市小学校教員会規則」は次のものである. 「東京市小学校教員会規則 第一章 目的及事項 第一条 本会ハ東京市小学校教員ノ親睦ヲ厚ウシ 本市小学校教育ノ改良上進ヲ企図スルヲ以テ目 的トス 第二条∼第四条(略) 第五条 本会ノ事業左ノ如シ (一)教育社会ニ於ケル公の発表 (二)会員ノ互助 (三)教員倶楽部ノ設立 (四)教育学術ニ関スル事項ノ研究調査 (五)教育学術等調査ノ為メ視察員ノ派遣 (六)会誌ノ発行 (七)其他本会ノ目的ヲ達スル為メ必要ト認メタ ル事業(以下略)」(『教育時論』1255 号, 1920 年 2 月 5 日,21 ページ) 25)『都市教育』1920 年 3 月号,17 ページ.下線は 引用者. 26)上沼久之丞「教員会最初の幹事長」前出,100 ページ. 27)岡本洋三は「教員組合を明らかに名乗らないが, 教師の生活権・教育権の要求で団結してつくられ た組織がいくつもあった.たとえば二〇年四月結 成の東京市教員会の綱領は次の通りである」(岡 本洋三「教師の団結と権利意識」中内敏夫・川合 章編『日本の教師 3』前出,105 ∼ 106 ページ)と して「東京市教員会」の「綱領」を紹介したこと がある.その典拠は示されていないが,同様の叙 述は,上田庄三郎『教育戦線』(自由社,1930 年) 103 ページにみられるものである.しかしながら, 上田や岡本が紹介している「綱領」は「全国教員 組合」の綱領(「全国教員組合成る」『教育時論』 1262 号,1920 年 5 月 5 日,24 ページ参照)であり, 東京市小学校教員会のものではない. 28)『全国連合小学校教員会報告 第一回』前出,3 ∼ 4 ページ. 29)川西清「教員会の設立を急ぐ」『北海道教育』 1923 年 8 月号,9 ページ. 30)全国連合小学校教員会『全国連合小学校教員会 報告 第一回』前出,4 ページ. 31)同上書,4 ∼ 5 ページ. 32)同上書,2 ページ. 3 3 )「 名 古 屋 市 教 員 組 合 」『 教 育 時 論 』 1 2 9 4 号 , 1921 年 3 月 25 日,33 ページ. 34)『京都市小学校教員会報告 第十一号』京都市 小学校教員会,1935 年,73 ページ. 35)同上書,47 ページ. 36)「広島市教員協会状況」『教育報国』1936 年 1 月 号,65 ページ. 37)呉市史編さん委員会編『呉市史』第 4 巻,1976 年,532 ページより再引用. 38)「帝国教育会長澤柳政太郎君の祝辞」全国連合 小学校教員会『全国連合小学校教員会報告 第一 回』前出,10 ∼ 11 ページ. 39)全国連合小学校教員会『全国連合小学校教員会 報告 第一回』前出,13 ページ. 40)同上書,21 ∼ 22 ページ.