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真宗研究12号全

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(1)

異宗連合學會研究紀要

—第十二輯一一

. . 膚

4 2

1 1

颯 函 追 合 亭 會

(2)
(3)
(4)

親鸞聖人画像

釈存

1

文和三年(‑三五四︶十月存覚上人が自坊常楽台に安置した画像︑

康楽寺流の画家浄耀の筆︒蓮花を描いた椅子による真向の合掌像で

ある︒元来︑この種の椅子型の画像は初期真宗の一部に行われてい

るが︑本像が真向である点に特色がある︒それは恐らく大谷影菌安

置の宗祖像を写したのであろう︒しかしこれがまた合掌像であるところは影堂の祖像と異る︒合掌像としては︑覚如上人筆の札銘のあ

る善導︑源空︑宗祖の三祖像に例があるが︑これはともに立像で

ある︒かくてこの聖人像はその形容において特殊な点をもつもので︑それは恐らく存覚上人の意趣に基づくのであろう︒裏髯による

と︑文和三年十月浄耀に命じ︑翌月開眼して常楽台御影殿に安懺し

たという︒この前年六十四歳の上人は東山今小路にあらたに一字を

構えて常楽台と号しているので︑本像の製作もそれと一連のものであろう︒因みに︑常楽台の寺伝では︑これは上人が夢想によって感

得した型人像を浄耀をして描かしめ︑覚如上人から伝授の祖骨をこ(

ヒ月修覆したとき︑写したもので︑次の通りである︒干時康正弐歳夷則上旬之候重奉修覆記之釈空覚︵化押︶本ム文和一二歳拾月廿八日命画工同閏月廿日奉請之本ム同廿冗日昌銘文奉開眼所奉安置常楽台御影殿也

t

康楽寺信濃大法師浄耀

親鸞咽人牌像

(5)

宗 研 究

真 宗 連 合 学 会

(6)

第 十 二 輯

親 鸞

寿 像

に み

え る

聖 的

一 面

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教 行

信 証

の 三

本 校

異 に

お け

る 所

見 ⁝

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東西分派論序説………•••大

. . .

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士 一 ︱

無 量

寿 経

に お

け る

﹁ 十

念 ﹂

と ﹁

一 念

﹂ ⁝

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⁝ 岡

選 択

集 の

中 心

問 題

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⁝ 臼

現 世

利 益

の 現

代 的

意 義

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・ 佐

々 木

選 択

集 と

本 典

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⁝ 池

ー特に化風の相違についてー

内観について

ー天正末し文禄期における教団変革の視覚からー

真 宗

研 究

本 重

井 元 成

︵ 六 一

本 伊

本 愛

慈 ( ‑ ︱

︱ ‑ ︶

斉 (

︱ ︱

写 ︶

信 (

‑ 天

︶ 二 ︵ 栗 ︶

三︵芸︶

臣︵

︿一

石 光 麿

︵ 一

(7)

学 会 彙

道 綽 の 帰 浄 に つ い て ⁝

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⁝ 諏

報…………•………••(一六四)

恵 信 尼 公 書 簡 の 編 次 に つ い て

讃岐における真宗教団の展開:………•藤

大無量寿経における時について••………•………

tJ

真 宗 に お け る 近 代 的 思 惟 の 形 成

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⁝ ⁝ 柏 近 代 真 宗 思 想 史 に お け る 世 俗 性

⁝ ⁝

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⁝ ⁝

⁝ ⁝ 二

ー真宗教団についての一考察ー

末 代 の 僧 伽

••………••••••………•寺

. . .

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上 ︳

H‑

訪 義

地 廓 慧 ︵ 一 哭

葉 憲

原 祐

妻 道

I   J I 

俊 昭 ︵ 九 立 ︶

(1

0

︱ ‑ ︶

生 ( ‑ ︱ 四 ︶

泉 (

︱ ︱

︱ 写

香 ( ‑ ︱

︱ ︱ 写 ︶

譲 ︵ 一 央

(8)
(9)

宗祖の肖像として︑著名なものはそのご存命の姿を描写した鏡御影と安城の御影があり又南北朝前期の作で安城の

御影の系統をひく京都伏見の常福寺に蔵されていた熊皮の御影がある︒現存するこの三幅の御影はいずれも神格化さ

れた聖人の姿ではなく︑極めて人格的な︑凡夫の自覚に立つ人間像を伝えるものと云われている︒︵二畔炉円]立芦 H

門弟

﹄︶

鏡御影は藤原信実の息専阿の描写せるもので︑延慶三年宗祖滅後四十八年に覚如がこれを修補している︒この巻留に

書かれた識語によるとこの肖像は︑宗祖のご存生之尊像で︑その容貌は毛端まで違うものでなかったという︒鏡御影

の風貌は風霧きびしい関東の大地にきたえられて︑ひたすら念仏の教化に努め︑自信教人信︑難中転更難の生涯をお

くられたたくましい宗祖像をしのばせている︒そこには高僧︑清僧というよりは農夫とともに又屠泊の下類とともに

生きられた意思強固な人間像を窃彿させるものがある︒この鏡御影とともに建長七年宗祖八十一ニオのおり描写せられ

た安城御影も又その風貌すこぶる気塊にみちたものを伝えるが︑その顔の描写は﹁此御影テッカラ被御覧御鏡︑

親鸞寿像にみえる聖的一面

(‑) 

ひじり

親鸞寿像にみえる聖的一面

光 麿

︵京

都女

子大

学︶

ヨク

(10)

は熊皮と察せられるような大きな動物の敷物がみえている︒ はなく熊皮か描かれている︒それが狸皮か︑

いずれにしても︑安城の御影︑熊皮の御影とも動物の毛 熊皮のいずれであるかは︑Jの御影の所伝によるほかはないが︑座像に の皮が用いるれていたことを記している︒ 一︑御鹿使ハ桑ノ木ノマタフリ也上ョリマタフリノ所マテ茄皮ヲ被巻︑

とあり︑座像の前こ︑猫皮を巻いた桑の木の鹿杖同じく猫の皮の草履︑火を生げに桑の木の火桶がおかれ又敷物に狸

又熊皮の御影よ調疫品としては鹿杖のみが描かれているが︑安城徊影の模本と較べて︑この鹿杖ぱ同じ形のものであ

ることがわかる︑座像の容貌も安城の御影のそれとよく似ている︒敷物は﹁熊皮の潤影﹂と伝えられるように狸皮で 一︑御座ハ大文御敷皮ヲ被用狸皮一︑御草履ハ猫ノ皮 一︑御火桶ハ桑也連子アリテ火ヲ被生タル連子ョリミニタリ 親鸞寿像にみえる聖的一面

似タリト被仰︑御シラカノ数マテモ

違奉写云々﹂といわれるほどモデルの聖人に酷似していた︵存覚袖日記︶︒安

城御影ができて九十年後の文和四年に存覚がこの御影を見て︑メモを詳さに残した存覚袖日記によると︑安城御影に

ぱ宗祖の日常生活に用いられた調度品が描かれていた︒すなわち︑

此影参河国安城照空房相伝而文和一二歳甲午九月四日上洛之時此御影事語之偲有拝見志之由依申同翌年文和四歳八月

廿五日上洛奉入之間敬拝見拭随喜之涙銘文之様井御調度等事記之︒

一︑御衣々文キヒシ︑一︑御袈裟ノ緒ハ白

一︑御帽子被巻御頸疇閂門

一︑御小袖ハ桑巻染茜裏ノ

御スソミニタリ

一︑御念珠ハ両手二被持如恒︑御念珠ノ露ノ際ョリ緒ヲハキラル

(11)

︒ 手 塚 唯 聴 氏

皮を用いた調度品が描き添えられていることは︑当時の高僧画には例を見ないものであるというぎ﹁親鸞聖人の画像﹂

一さてこうした調度品は何を意味するものであろうか︒手塚唯聴氏は特に安城御影の調度品が︑京都女子大学紀要11︑

1 4

具体的に何を意味するものであるか不明であるとされながらも桑を使った品があるので︑﹁専修寺文書﹂にみえる﹁桑

畑専信﹂という専信の呼び名から︑専信房専海が聖人に贈ったものであったかも知れないという臆測を提示している︒

履同氏︶さりながらこれはあくまで氏の臆測であって︑氏自身この調度品が具体的には何を意味するか不可解と云

われるように︑管見の及ぶところでもこの問題について明かにした論著は殆んど見られないようである︒たゞ︑宮崎

先生は宗祖の寿像について﹁神格化された聖人の姿ではなく凡夫の自覚に立つ人間像を伝える﹂ものであることを指

適され︑こうした調度品は人格を基盤として立つ宗祖の人間像を示すものであることを明らかにしておられる︒

lつまり具体的にこれらの調度品が何を意味するものであるか明確

﹁親

鸞の

寿像

﹁鏡

御影

﹂私

考﹂

﹃封

建社

会に

おけ

る真

一 宗 教 団 の 展 開

な指適はされていないが︑当時の他の肖像画に見当らない凡夫らしい調度品として︑宗祖の姿を伝えるふさわしいも

のであるとされている︒当時の禅宗の頂相と比較してみても確かにそうした違いを感ぜしめられる︒

私はこうした﹁凡夫の自覚﹂を伝える寿像であることに全幅の信頼をおくとともに︑こうした宗祖の寿像にみえる調

度品

が︑

より具体的には平安時代に庶民の中で念仏を弘めた念仏聖とか阿弥陀聖とか呼ばれる一群の﹁ひじり﹂の系

譜に宗祖がつらなっていることを示すものであると考えている︒以下この問題について愚見を述べたいと思う︒

親鸞が俗聖の系譜につらなるものであることはすでに堀一郎氏の大著﹁我が国に於ける民間信仰史の研究⇔宗教史

篇﹂にみえるところであり又︑近年では五来重氏が同様の見解を示しておられる︒

親鸞

寿像

にみ

える

聖的

一面

(二)

︵﹃高野聖﹄︶両氏の著作ほともに

(12)

親鸞寿像にみえる聖的一面

﹁ひじり﹂の生態についてくわしく述べておられるのでこの問題を論ずることに今更の感をいだかれる方もあろうが︑

しかし親鸞の寿像をめぐって︑聖との関係において︑これを検討して︑私なりの見解を述べることもあながち無駄で

さて︑平安時代には市中にあって庶民を教化した念仏聖や阿弥陀聖と呼ばれる一群があったが︑こうしたひじりの最

初の人物は有名な空也であった︒慶滋保胤の日本往生極楽記には︑空也伝を記して︑

沙門

弘也

︒不

>言

一︳

父母

l 亡

命在

>世

︒或

云︒

出>

自二

演流

ー︒

口常

唱一

︳弥

陀仏

一︒

故号

二阿

弥陀

1

或住

︱︱

市中

1

ー一

仏事

ー︒

号希

聖ー

︒:

・・

・・

中略

:・

⁝天

慶以

往︒

道場

緊落

︒修

二念

仏三

1希有也︒何況小人愚女多忌>之︒上人来後︒自唱令ー一他唱

とあり又最古の空也伝である源為憲の空也昧にも﹁尋常時︑称二南無阿弥陀仏一間不>容>髪︑天下亦呼為ーー阿弥陀聖ー﹂

と伝えている︒すなわち空也が現われるまでの天慶年間以前では︑道場や緊落で念仏三昧を修するものはまれで︑小

人や愚女はこれを唱えるのをきらった︒しかし空也が現われ自らこれを唱え︑他人にもこれをすすめてからは世をあ

げて念仏を唱えるようになった︑これはまことに空也の教化力によるものであったと︑慶滋保胤は空也の伝道を高く

評価し︑その故に世間のひとは空也を﹁阿弥陀聖﹂とか﹁市聖﹂と呼んだと伝えている︒民間浄土教の祖として空也

は民衆の大きな支持を得ていたが︑それは彼の念仏がもともと究術者としてのものであったからであり︑空也の人気

も究術者としてのものであったと云われている︵這瓢国翻澤︶が︑空也伝の伝えるところでは︑必ずしも兜術性ば

かりに民衆の支持があったとは考えられない︒浄土教のもつ本来的な伝道性を自信教人信の立場で表明したが故に︑

すなわち︑念仏が世俗的立場を超越して真実性をもつものであることを弘布したが故に民衆から慕われた︒慶滋保胤

が空也の伝遥性を高く評価したのもこの点にあったと考えられる︒

‑>

之︒

爾後

挙>

世念

仏為

>事

︒誠

是上

人化

二度

衆生

︳之

力也

はないと思う︒

(13)

︹小

右記

1 又︑有名な六婆羅蜜寺蔵の﹁空也像﹂は鎌倉期の彫刻でおそらく時宗系のひとの手になるものと考えられているが︑この空也像は口に念仏をうそぶき︑鹿杖に手にし鉦をた4き︑身に鹿皮を着たものであるという︒︵﹃輝汀可鱈正巻四︒︶

こうした像の伝えるところは空也が市聖と呼ばれ︑民衆の讃仰を得たことを象徴するものにほかならないが︑のちの

遊行を中心とした時宗の一団や︑聖の集団などには︑この空也を模してか︑鹿杖を好んでもち歩いたようである︒又

空也とほゞ時代を同じくして聖とよばれたものに行圃がある︒行園は皮仙とも皮聖とも呼ばれ︑行願寺を建立しここ

に住したので︑この堂は革堂とも称された︒行園の行実については日本紀略︑小右記︑栄華物語等に記事がみえるの

で以下そうした記録を抜粋してみよう︒

︹日本紀略︺後篇十一

寛弘二年五月三日庚戌︑御読経終︑今日修行聖人行薗供う養建立一条堂︳︑件聖人不>論二寒熱︳︑著ーー鹿皮︳︑号二之皮聖

寛弘五年八月十四日壬寅、虹口人於二行願寺ー、自二今日云ざ子十月三日一、始

-1四十八講—‘擬二弥陀四十八願一也、為二法

界衆生逆修1

也 ︑

行円寛弘七年閏三月廿一日庚子︑国網今日︑寂勝講始︑限以二五日ー︑今日皮聖人於二行願寺血竺養法華経一千部︑

千余

鉢仏

像一

︑件

聖人

首戴

二仏

像一

︑身

著元

皮琢

杢︑

元鎮

西人

也︑

生年

六十

余︑

後一条院︒寛仁二年三月十六日己酉︑季御読経始﹂︒是日︒皮聖人認行︒於建立寺10顧翠項始修六万九千三百余燈事10

宛法華経文字ーo

. .. .

. .. .

 

……••••

親鸞寿像にみえる聖的一面

図絵

一︱

(14)

親鸞寿像にみえる聖的一面

長保元年十一月七日祠卯刻中宮産男子︑麟鵡可世云横川皮仙

. . . . . .

. . . . . .

. . .  

(1

0一 五

︶ 長和四年九月十日5皮仙新占東山結構小堂安置金色釈迦如来︑亦此寺盲仙有暗誦数巻大乗経云々︑初向彼堂場︑頭

中将資平︑前大和守景斉同車︑到坂下騎馬参上︑有皮仙盲仙等︑盲仙暗誦観仏三昧経︑誠随喜︑件仙名延亮︑讃岐

国人︑年舟三目盲︑其後暗誦大乗等経︑若是権者欺︑

(1

0一 六

長和五年四月十日麟去七日行園鱈︹皮︺来云︑従九日可令往還人拾粟田山石︑又以鉄槌鑽等可破大石︑忽令作鑽二可

一昨持来以木作鑽様︑今日重示送云︑只今可送者差使送之︑従大津来云︑彼従昨日令拾小石亦大石︑往還人

響応拾之︑又大石少々破得往反車馬破石之処既無停滞云々︑

すなわち行国はもと鎖西のひとであった︒寒暑をいとわず︑鹿皮の衣を常に身にまとっていたから︑皮仙とも皮聖と

も称された︒仙とは山中で修行する僧のことをいうから︑行圏は初めは横川の修行僧であったと考えられる︒寛弘二

年︑京都一条の北辺に行願寺を建立供養した︒この堂は行園が皮衣をまとっていたので革堂とも呼ばれた︒

寛弘五年八月十四日この行願寺で弥陀の四十八願を擬して四十八講を始め︑同七年三月廿一日には同寺で寂勝講を始

め法華経一千部︑図絵一一一千余鉢仏像を供養している︒又長和四年に新たに東山に小堂を構え︑盲目の仙とともに大乗

経を誦している︒こうした記事は行閥が貴賤の帰依をうけていたことを物語っているが︑それは小右記長和五年の条

に彼が京都から大津に至る道路で粟田山付近の大石を鉄槌をもってくだき道を修理して車馬往還の便をはかったとあ

いずれにしても行闘は鹿皮の衣を著けながらも皮聖︵かわひじり︶と呼ばれて貴賤の尊敬をうけた︒栄華物語巻十﹁ひ

かげのかつら﹂には藤原道長の室︑高松殿明子の次男︑馬頭顕信が皮聖のもとで出家した様子を次のように述べている︒ るので︑その人気は社会事業的な奉仕による面もあった︒

与者

/  

(15)

ギ {

( '

へば︑聖の申し4

やう

貴きものにせさせ給に︑必ず勘当侍なん﹂と申して聞かざりければ︑

栄 華

Aる程に︑殿の高松殿の二郎君︑右馬頭にておはしつる︒十七八ばかりにやとぞ︑いかにおぽしけるにか︑夜中

しと宜はせんにも︑かばかりの身にては苦しうや覚えん︒悪くもありけるかな︒こAになさずとも︑かばかり思ひ

﹁理﹂とうち泣きて︑なし奉りにけり︒聖の衣り著させ給て︑直衣︑

指貫︑さるべき御衣など皆聖に脱ぎ賜はせて︑綿の御衣︱つばかり奉りて︑山に無動寺といふ所に︑夜のうちにお

はしになり︒皮の聖︑あやしき法師一人をぞそへ奉りける︒それを御供にて登り給ぬ︒この大徳などや言ひ散らし

けん︑日の出づる程に︑この殿うせ給へりとて︑大殿より多くの人をあかちてもとめ奉らせ給に︑皮の聖の許にて

出家し給へると言ふ事を聞しめして︑

も参

らず

断った︒しかし︑ いみじとおぼしめして︑皮の聖を召しに遣したるに︑かしこまりて︑とみに

﹁いとあるまじき事なり︒参れ/\﹂と度/\召された︑参りたれば︑殿の御前泣</\有様間はせ給

﹁の給はせしさま︑かう/\︒いとふびんなる事を仕まつりて︑かしこまり申侍﹂と申せ

( 1 )  

﹁などてかともかくも思はん︒聖なさずとも⁝⁝⁝⁝

顕信が急に出家を思い立ち︑皮聖のもとに身を寄せたが︑皮聖は顕信が道長の息男とあっては︑最初はその申の出を

たっての希望で遂に出家を許し︑賤しげな法師を一人つけて無動寺に登らせた︒夜明けとともに道

長は手分けして顕信の行方を探し︑彼が皮聖の許で出家したということを聞いて︑その出家の事由を皮聖に訊ねた︒

その後右馬入道顕信は比叡山から大原に移り住んでいたが︑病気になり絶食状態が続き︑無動寺に帰った︒道長が案

じているうちに︑顕信が亡くなったのでその兄弟たちは弔問のため比叡山へ登ったという︒︵遠立暉疇繹仁十九︶

親鸞寿像にみえる聖的一面 立ちてとまるべきならず﹂と宣はせければ︑ ﹁いと心ぎたなき聖の心なりなり︒殿びんな ばかりに︑皮の聖の許におはして︑﹁われ法師になし給へ︒年頭の本意なり﹂との給ければ︑聖︑

﹁大

との

4

いと

(16)

親鸞寿像にみえる聖的一面

物語のこの記事は貴族階級の中心である道長の息男さえも︑皮聖の許で出家し︑大原の別所で聖の一群に身を投じた

ことを伝えているがそれとともに︑聖という存在が世俗を脱していわば﹁非俗﹂の立場に立つことを意味し︑その故

に世人の崇敬を集めたことを物語っている︒行圃がたとえ鹿皮の衣を著ていても︑卑しいものと扱われずに尊仰され

たのは︑その非俗性のためであった︒持戒堅固な僧の立場から云えば︑動物の皮を用いた日用品を用いることは最も

俗的なことで破戒無戒に等しいと考えられるが︑なお尊仰を集めたのはその信仰が内包する﹁非俗性﹂のためであっ

( 2 )  

たと思われる︒

空也や行圃が民衆の帰依をうけたのは︑その信仰が非俗的意味をもつからであったが︑又この両者は鹿皮の衣や鹿

杖等を身につけている︒こうした調度品は︑﹁聖﹂の好んで用いたものらしく︑﹁梁襄秘抄﹂第二に︑

聖の好む物︑木の節︑鹿角︑鹿の皮︑蓑の皮︑錫杖︑木槃子︑火打笥︑岩屋の苔の衣

(

とあり︑また僧智印が天治二年十一月二日筆写した﹁三州俗聖起請十二条事﹂に︑﹁一問︑以愚昧之心可読誦大乗哉︑

答︑可読誦⁝⁝﹂︒﹁一問︑愈食鹿衣︑可厭之如何︑答︑更不可厭之︑最所好也︒﹂︵以上抜粋︶とあるので鹿皮は聖の最

も好むものであった︒同時に彼らは大乗の立場を理解することに努めていたことが知られる︒このように聖の衣食等

は極めて世俗的な臭気の充満するものであったが︑反面︑彼らの修道は世間的認識を超越する非俗の立場を追求して

いる︒また聖が﹁尊きもの﹂として︑崇められていることは︑同じく﹁梁鹿秘抄﹂に

大峰行ふ聖こそ︑あはれに尊きものはあれ法華経誦する声はして︑確の正体まだ見えず︒

(三)

(17)

合が少くないので︑尊称︑蔑称両方で使用されている︒ 山寺行ふ聖こそ︑あはれに尊きものはあれ行道引声阿弥陀経︑暁懺法釈迦牟尼仏゜と見えるので︑山中で修行する法華聖や阿弥陀聖は﹁尊きもの﹂として謡われた︒

このように山中で修道する聖の中には己れの身を修行のために唯︑山中に置くばかりでなく民間に降って念仏をす4

めたり︑又念仏に専念して他の事を知らないものがあった︒今昔物語には︑この例があるので示してみる︒

H

今昔物語巻十七の二﹁阿弥陀の聖といふ者有けり︒日夜に行き︑世の人に念仏を勧むる者也︒

巻二十の十二﹁其山に久しく行ふ聖一人あり︑心に智り無して︑法文を不>学ず︒只弥陀への念仏を唱るよ

り外

の事

不乙

知ず

世の中の聖どもさながら参りたり︒賀茂の祭の一条の大路に出で来てののしる︒新阿弥陀︒前阿弥陀などいふ法師

ばら声を捧げて阿弥陀めくさへぞ尊かりける︒⁝⁝⁝⁝⁝

と万灯会に人が多く集まり︑阿弥陀聖が沢山やってきて大変賑やかであったと述べており︑そのようすが尊かったと

いう︒ここで阿弥陀聖を﹁法師﹂と呼んでいるが︑この﹁法師﹂は敬意的に使用されている︒

ついては平安中期以前の文献では︑例えば日本三代実録や栄華物語では充分敬意を以て使用されているが︑平安末︑

古田

武彦

氏︒

﹁親

鸞の

奏状

と教

行信

鎌倉期に入ってからはむしろ蔑称として使用されるケースが激増しているという︒ぐり成立﹂宮崎博士記念会﹃真宗史の

愕麟︶今昔物語巻一十九ノ九﹁阿弥陀ノ聖︑殺人宿其家被殺語第九﹂では阿弥陀の聖という法師は悪僧限りない

ものとして語られ︑法師は蔑視的に用いられている︒しかし今昔物語には﹁聖﹂は真面目な求道者として語られる場

以上のように乎安時代中期以前の聖は大むね尊敬を受けているものが多く︑末頃になっても敬意をもって接せられる

親鸞寿像にみえる聖的一面

又 ︑

﹁栄華物語﹂巻十九御裳ぎ︒にほ︑

仁)

"  

﹁法師﹂という呼称に

(18)

ば賀茂河にいれてうほにあたふべし﹂ で ︑

源空聖人私日記︵西方指南抄中巻︶には︑

(四)

る ︒

親鸞寿像にみえる聖的一面

その時︑法然

聖があり︑心ずしも室町以降とくにみられるような卑しい存在ばかりではなかった︒鎌倉期に入ってからも源空の言

行を記述した﹁和語灯録﹂巻五には﹁ひじりにて申されずば︑

りにて申へし﹂という源空の言葉を伝えており︑ めをまうけて申へし︑妻をまうけて申されずば︑

ひじ

また﹁法然上人行状画図巻四十五﹂にも﹁ひじりで申されずば在家

になりて申すべし︒在家にて申されずば遁世して申すべし﹂と同様な瀕空の言葉を記している︒瀕空は在家でも︑出

家でも念仏すべきをすすめているのだが︑この﹁ひじり﹂の遣い方には世間を離れて修行するものの意味で用いてい

﹁ひじり﹂と妻帯の俗人︑及び﹁ひじり﹂︵遁世︶と﹁在家﹂というようにこれを対比している︒

天台座主中納言法印顕真が大原に籠居して念仏門に入り︑

聖人が浄土宗義を立したと聞いて処処の智者をさそって大原竜禅寺に集まり︑法然聖人を請じて念仏の功徳を聞いた

という︒その集ったひとのなかに︑光明山僧都明偏や笠置寺解脱上人の名がみえている︒明偏は東大寺三論宗の学匠

一門の貞慶などともに学オの誉れ高い高僧であったが︑後世︑高野聖の元祖といわれているように建久六年︵一

一九五︶五十四オで高野山に入った︒︵三麟峠聖﹄参照︶明偏は空阿弥陀仏と称し﹁出家遁世の本意は︑道のほとり野

辺の間にて死せんことを期したりしぞかし﹂二認言う︶と述べているが︑これは親鸞の言葉と伝えられる﹁某閉眼せ

︵改邪紗︶という言葉と何とよく似ているであろうか︒

高野聖として明偏が専修念仏と深い関係をもつようになったのは︑大原龍禅寺集会における源空の導きにあった︒源

を﹁聖人﹂と呼んでいるのがみえるがこの﹁聖人﹂の呼称は﹁聖﹂のことを指呼していることが多いという︒ 空のもとにはこのように聖と呼ばれるひとが集っていたようである︒﹁西方指南紗﹂や﹁ご消息﹂にも︑源空のこと

堀一

︵前

1 0

 

(19)

する

と︑

敬愛の念をもって書かれたものといえよう︒ いて︑古田武彦氏は︑ た

り︒

爾者已非1

僧玉

空俗

郎氏

著書法師の呼び方についても︑平安末以降は餌取法師とか餌差法師とか蔑称的な用い方が多くなっているが︑親鸞自身も

又﹁正像末和讃﹂に﹁僧ぞ法師という御名はたうときこと4き4しかど︑提婆五邪の法ににていやしきものになづけ

と述べており︑法師という名は卑しいものに名づけたとしている︒しかるに﹁教行信証﹂後序には﹁真宗興

隆大祖源空法師︑井門徒数輩︑不ー玉空罪科1

猥坐

1

1

罪ー

︑或

改ー

ー僧

1

ーー

姓名

1

ーー

遠流

ー予

其一

一是故以ーー禿字五空姓ー空師井ーー弟子等坐二諸方辺州丘竺五年居諸ー﹂と源空を法師と呼んでいるが︑この後序の呼称につ

﹁親鸞流罪時︑旧仏教側の圧力によって︑公式文書において﹁源空聖人﹂の表現がとり得なか

った事情を明かすものである︒従って︑親鸞自身にとっては﹁真宗興隆大祖﹂であっても︑公式文書内の表現では罪

科中の法然を指称する時﹁源空法師﹂と表記する他なかったのである︒﹂面即膨論文︶と述べておられる︒だが存覚は

袖日記に︑安城御影にはもともと﹁親鸞法師真影建長七歳

月八日︑法眼朝園筆口筆一字別行也﹂と御表書してあっ

たと記録しているので︑親鸞生前から歿後直後にかけてすでに門弟は祖師を法師と呼称していたと考えられる︒すな

手塚唯聴氏わち安城御影の製作は建長七年︑専信房専海が高田本教行信証を書写した際に図画したものとされており合京都女子大

学紀要

塁︑それは元久二年︑親鸞が源空より選択集の書写を許された際にその真影をも図画されたことと相応じる1 4

意味をもっていた︒祖師の主著を書写することと︑その肖像画を図画することは人格的関係の深い師弟の結びつきを

示すものであるが︑安城御影がそうした宗祖と専海との深い人間関係を示す資料ならば﹁親鸞法師﹂の呼称も︑深い

﹁法師﹂という呼称は後序で﹁源空法師﹂と使用されていても︑それは﹁非僧非俗﹂という言葉と密接な関

連をもって使用されたものであって必ずしも﹁正像末和讃﹂で親鸞が使った﹁卑しきもの﹂という意味ではなかった︒

親鸞寿像にみえる聖的一面

(20)

(Z)  て

いる

註〇 えているのは︑

親鸞

寿像

にみ

える

聖的

一面

平安時代には聖が法師と呼ばれ可成りの尊敬を受けた事実は前述の通りである︒親鸞が源空を﹁聖人﹂と呼び又﹁法

師﹂と記しているのも元来﹁ひじり﹂が脱俗の立場にあって︑而も年脳を無視し僧階を意としなかった非僧非俗の生

親鸞自身﹁非僧非俗﹂と自覚し︑又﹁法師﹂と呼ばれている事実はこの聖の系譜に連っていることを示している︒非

僧ということは︑出家持戒によらない立場を示しているが︑而もその中で非俗を自覚することは︑世俗的価値を超え

る信心為本の立場に徹することであった︒親鸞の立場が権力を拒否し︑身分︑地位にこだわらない同朋主義に立つこ

とができたのも︑それが世間的認識では測ることのできない信心という非俗性に貫かれていたからであった︒

安城御影や熊皮御影に描かれた調度品はまきしく聖が本来もっている非俗性と而も妻帯を可能とする在俗者の生活

の両面を示していると思われる︒僧であることを示す衣の姿に聖の好む鹿杖や動物の皮を用いた敷物︑草履を描きそ

﹁非僧非俗﹂の自覚を持った宗祖の聖的一面を門弟達が受けとめていたことを物語っている︒

松村博司︑山中裕校訂︑岩波古典文学大系

7 5 ︑

7 6 ︑では従来︑横川聖とされていたのは誤りで﹁かわの聖﹂が正しいと校訂され

堀一

郎氏

の前

掲著

書に

も﹁

ひじ

りは

本来

非僧

俗の

求道

者で

あっ

た﹂

と述

べて

ある

2 2 頁 ︒

(五)

活にあって真の求道者の意味をもっていたからであろう︒

(21)

﹁教行信証﹂の古本には︑次の三種が現存する︒

ヽ ー ノ

草稿

本︵

坂東

本︶

・・

・・

・・

東本

願寺

蔵ー

ー東

︵ 清書本••………•西本願寺蔵i西

専信書写本⁝⁝⁝⁝⁝専修寺蔵

i

これらの三本については︑その筆跡・奥書・体裁などの面から史的考証がなされているのであるが︑今は本文の字句

や訓点など内容の同異によって考察せられるところを︑試みに述べてみたい︒なお︑右の三本とは時代を異にするけ

れども︑比較対照する便宜上︑左の一本をも併せて示すこととする︒

ヽ し

存如蓮如両筆本・・・⁝⁝西本願寺蔵ーー両︵ 

以下︑これら四本を東西高両の記号で示し︑引文については︑大正蔵経を︹正蔵︺とし︑現在一般に流布している諸︵︵︵︵ 

教行信証の三本校異における所見

﹃ 教 行 信 証 ﹄

の三本校異における所見

本 愛 慈

︵本

願寺

派︶

(22)

信末店﹁涅槃経﹂

化本饂﹁末法灯明記﹂

脱字・脱文の一致

c  b 

シ ヲ ス ル コ ト ノ ヲ シ

行坤﹁易行品﹂四本共﹁皆称>名憶二念阿弥陀仏本願一如>是﹂

信末店「本願成就文」即旬「至心廻乱タマヘリ」、船「至心回郎シメタマヘ〗 ‘m 「至心鱈即シメクマヘリ」

異字の一致

四本共﹁名ーー日月称こ︑︹正蔵︺は﹁名曰二月称こ

0

ヨリ

四本﹁彼酒家至酒家こ︑︹現流︺は﹁従二酒家云ぎ酒家

1﹂ a 独特の訓点の一致

( ‑ 〕

いずれも︱つの原本より成る同類のものである︒

本 論

相違の様態は種々雑多であって︑ き ︑

教行

信証

の三

本校

異に

おけ

る所

︵文

例は

代表

的な

もの

を挙

げる

にと

どめ

た︒

本を︹現流︺として表わす︒また︑文の所在は西本願寺蔵版の丁数によって示した︒

さて︑これらの諸本は︑その内容において本質的な相違は見られないけれども︑

かいなど微細な差異まで悉く挙げるならば︑相当な数にのぼる︒その中︑殆んど問題にならないと思われるものを除

一応注意を要すると認められるものだけ抜き出しても︑およそ八千の項目が数えられるのである︒

昭和四十二年五月西本願寺で改版発行せられた蔵版﹁教行信証﹂には︑それらの一々について脚註を付し︑校異を

示し

てあ

る︒

一概にこれを分別判断することはできないけれども︑全般を通じて窺われる主な

特徴をまとめると︑次のように考えられる︒ 一々の字句・訓点・字体・仮名づ

一 四

(23)

〔 三 〕

証廷﹁論註﹂

四本

﹁爛

壊﹂

︑︹

現流

︺は

﹁不

ーー

爛壊

ー﹂

00四本﹁不>得二異不>一﹂︑盈現流︺御加点本﹁不>得>異不>得>一不>一﹂

化末霙﹁弁正論﹂

C 二 〕

等衆甕

1 ヽ ー ノ

東が原本である︒︵ 

a東の推敲後に他本に書写している︒︵ 

0行碑﹁正信偽﹂東﹁唯説本願一乗海﹂を﹁唯説弥陀本願海﹂︵ 

0

化本喫﹁小経﹂顕説の釈﹁此即此経示二顕義一﹂を﹁此是・・・・・・﹂

b

他本は東の字形を誤まり写す︒︵ 

l

n

教誌﹁述文賛﹂東﹁元>匹故﹂の﹁匹﹂が﹁匝﹂に似た形に書かれている︒西高両﹁匝﹂︑︹正蔵︺

(

︵  

西両﹁土﹂︑高﹁士﹂に作り﹁土﹂と註記︑

︑ ̲

0化本碑﹁大集経﹂東﹁了二知清浄土士﹂の﹁士﹂が﹁土﹂に似る︒︵ 蔵︺﹁士﹂

西は東を忠実に清書したもの

︵  

︶ a直接東によったと考えざるを得ない例︵ 

信本話﹁論註﹂﹁信心不>淳﹂の﹁淳﹂の頭註︑東は上欄左から右へ﹁淳﹂の註︑更に﹁諄﹂の註を横向けに記す︒︵ 

0 0

︑ ̲

︵  1国は上欄右から左へ﹁諄﹂の註︑次に﹁淳﹂の註を縦書きす︒これでは﹁諄字・・・同二上字﹂が解しがたい︒高

難読・難解の訓点の一致d 

0

n

四本

﹁既

知=

t上首恐同二長劫一﹂︑︹現流︺御加点本﹁既知二上首ー恐同

1

長幼こ

j

東西高概ね﹁撥太史云等衆覺ヵクトモ﹂に作る︒

(︵︵ 

教行信証の三本校異における所見 信本饂﹁往生要集﹂証碑﹁論註﹂

一 五

に改む︒西高両﹁唯説弥陀本願海﹂

に改む︒西高両﹁此是⁝⁝﹂

(︵︵ 

︹ 正 ﹁ 匹 ﹂

︹正蔵︺は﹁検

1

史公

等衆

書一

﹂︑

両﹁

l太史公

(24)

教行信証の一二本校異における所見

ヽ ー ノ

頭註なし︑両割註とし﹁諄﹂の註なし︒︵ 

ヽ ノ フ キ ャ ウ ウ ト

︑ ノ フ ウ ト キ ャ ウ

︶ 信末碑﹁涅槃経﹂東﹁日

1一行雨︱﹂に作り︑﹁雨﹂を﹁行﹂の上に入れる記号を付す︒西﹁日ーー雨行こ︑高両︹正蔵︺

︵   フ ト

﹁日

ー一

雨行

1

形の誤まり

ヽ ノ ニ ス ル

︑ ノ

行坤﹁小経蔵疏﹂東﹁口誦﹂の﹁ヨム﹂が﹁ヨス﹂に似ている︒西左仮名﹁ョス﹂︑高両左訓なし︒

︵ ョ ム

n

シ キ ー ニ

信末琺﹁礼讃﹂﹁少苦﹂の苦の横線と﹁ヽニ﹂︵キニ︶と交わり﹁トニ﹂に似る︒西﹁苦﹂︑高﹁苦﹂︑両﹁苦﹂

)

︑ ノ

︶ 四西は高によって補筆註記改訂し︑更に︹現流︺などを参照

C (

︵ 

ヽ ノ

a高による訓点の補筆註記︵ 行紘称名破満の釈東両﹁破﹃・・光明一﹂︑高﹁破こ︑西﹁破スイ本﹂とある︵ 

ヽ ノ ヽ ノ

0ニシテヽノケシヽノニシテ行碑﹁易行品﹂東両﹁智慧明﹂︑高﹁明﹂︑西﹁明ケシイ本﹂

︵  

サ フ ス ル

コ ト 行 釦 大 智 の 文 凍

﹁ 無

v嘩﹂︑償﹁雑﹂︑国﹁雑ば戸幻‑]頃﹁雑﹂

信本芦本願成就文東﹁諸有衆生﹂︑高﹁諸有﹂︑西﹁諸有﹂︑両﹁諸有﹂︵ 

b

高による字句の校異註記

本イマ云

﹁ 又 言

信本琺﹁涅槃経﹂を引くのに東両﹁又言﹂︑高﹁又云﹂︑西ニノニ

ノ シ ク マ

フ コ ト

ヽ ノ 信本雌﹁涅槃経﹂東﹁為>衆修二苦行こ︑高﹁為>衆故苦行ノタマフコト﹂︑西﹁為>衆修二苦行ーシタマフn卜﹂に作り︵ 

ヽ ノ

︱ ー ノ シ ク マ フ ヲ

︵イ

マノ

本二

故二

有ナ

リ︶

と脚

註︑

両﹁

為>

衆修

︱︱

苦行

1﹂︑︹正蔵︺﹁故苦行﹂但し南の三本﹁修苦行﹂︵ 

ヽ ノ

C高による訓点・字句の改訂︵ 

ヽ ノ ラ ム モ ノ ク ヘ ニ セ ム

︑ ノ ラ ム モ ノ ニ ク ヘ ノ ニ ヽ ノ

︑ ノ ラ ム モ ノ 一 一 夕 へ 行江﹁涅槃経﹂東﹁不>堪孟吊行

1施﹂︑高﹁不>堪孟吊行施こ︑西は東の如き点を高の如く改む︑両﹁不>堪

1

(

︵  

一 六

(25)

4

化巻尾題︶︑ノ︑ノ五高は東などに比べて相当異なる︒

C (

︵ 

教行信証の三本校異における所見 東高は﹁顕浄土真実教行証文類六﹂︑両は﹁

. .

.  

六末﹂とす︒西のみ﹁顕浄土方便化身土文類六﹂とあり

3

全般的に仮名が詳しい︒

2

願名などに関する傍註も多い︒ などの傍註が多い︒

1

各巻の引文について︑行巻には﹁成就行﹂︑信巻には﹁成就信﹂︑証巻には﹁難思議往生﹂︑真仏土巻には﹁成就土﹂ f  現流本を参照

信末癖﹁涅槃経﹂東高両﹁羅閲祇王﹂︑西﹁祇﹂の右傍に﹁老ィ﹂の註︒︹正蔵︺﹁吾﹂に作る︑但し南の三本は﹁祇﹂(︵︵ 

化本年﹁末法灯明記﹂東高﹁如二今時一是最末時也﹂︑︹正蔵︺﹁是像法最末時也﹂西両は右傍に﹁像法﹂を補記

︵   e x

本を参照

﹁住

二導

師行

ー﹂

︑西

は右

下に

﹁道

0 7

こ の 註 あ り

西のみ特異な個所 教碑﹁大経﹂

信 末 菜 願 成 就 の 釈 J I o

﹁町

R心悦予乙釦耐﹂︑鉛二釈尉心悦予ご年記已酌は即の如きをェ釈↓一身︑知即引ュ年紀セ印﹂

︵  

9

に改む︑両﹁形二身心悦予一之貌也﹂

j

: ヽ

信末位﹁止観﹂東両︹正蔵︺﹁菩提者﹂︑高﹁薩﹂に作り﹁提こと頭註︑西﹁提﹂を﹁薩﹂と改む︵︵ 真仏土廷﹁大阿弥陀経﹂東﹁莫>不二聞知この仮名﹁ルコト﹂とありしを﹁ルハ﹂に改む︑高﹁ルコト﹂︑西﹁ル︵ に改む︑両﹁ルハ﹂ハ﹂を﹁ルコト﹂ ーーセム常行

1施﹂

一 七

(26)

信末匹具仏弟子釈の結び東西両﹁愚禿鸞﹂︑高のみ﹁鸞﹂の字なし︑

︵  

名な

し︒

信本詞﹁論註﹂

訓点が異なる

行芦﹁論註﹂東西両﹁聖智元知也﹂︑高﹁聖知元>知也﹂

n

行但一乗海釈東西両﹁元

t

i

如 来 云 ざ 異 法 身

1﹂︑高は﹁元涵空如来一元ら空法身こ

︵  

信末2本願成就の釈東﹁形ー一身心悦予一之貌也﹂

高は﹁形

1一身心悦予一之貌也﹂︑西両は四のCの第二文に記した通り︵ ヽノスル、~スルヲハヽノヽノヽノ信末2

本願成就の釈東﹁摂二多少之言

1也﹂︑高は﹁摂二多少一之言也﹂︑西両は東にほぼ同じ︒

(

︵  

c  a  教行信証の三本校異における所見

字体の違い

教ほ総標綱紀即酌剛﹁按﹂︑即のみ﹁案﹂に作る

同 右 凍 国 噴

﹁ 廻

︑ 儘 の み

﹁ 回

﹂ に 作 る

00、~信巻別序東西両﹁釈親鸞﹂︑高のみ﹁釈墜﹂に作る

︵  

b

経言・論日・釈云の用例が異なる︒

ヽ ノ

行碑﹁安楽集﹂を引く﹁又云﹂︑高のみ﹁又日﹂に作る︵ 

ヽ ノ

行蜘﹁述文贄﹂を引く﹁又云﹂︑高のみ﹁又言﹂に作る︵ 0

︑ ー ノ

行郷﹁涅槃経﹂を引く﹁涅槃経言﹂︑高のみ﹁:・⁝云﹂に作る︵ 

その他の違い

東西両﹁摂二取衆生こ︑高のみ﹁摂取﹂に﹁ヲサメムカニトリタマフトナリ﹂の左訓ありて︑右仮

︵  

一八

(27)

行碑﹁論註﹂

行碑﹁論註﹂

行寧﹁礼讃﹂

﹁ 称 ﹂

信本5

﹁論

註﹂

〔 六 〕

﹁ 由 ﹂

﹁ 淳 ﹂

ヽノ

︑'

高は東の補訂前の形態に近い

0 ︵  教廷引文の結び﹁則此﹂東は﹁是﹂とありしを﹁此﹂に改む︒高﹁是﹂︑西両﹁此﹂ ︵ 

a

東の改訂前の文字や送り仮名に合う ︶   

︶ ヽ ノ ヽ ノ ヽ

l/

信本螂﹁如来会﹂﹁元>退﹂東﹁シ﹂とありしを﹁ク﹂に改む︒高﹁シ﹂︑西両﹁ク﹂

︵  

ヽーノヨリ

﹂に改む︑高両﹁ニシテ﹂西﹁方﹂

0ヨ リ ヽ ー

証位﹁玄義分﹂﹁此方発遣﹂東﹁ニシテ﹂とありしを﹁ヨリ

(

lニハ0、~)化本餌五専の釈﹁四専名﹂東﹁称﹂とありしを塗抹し﹁名﹂と頭書︑高﹁称﹂︑

︵  

ヽ ノ ヽ ー

西﹁名﹂に作り左傍に﹁称﹂と註記︑両﹁名﹂

︵   ヽ ノ

b

東が後に補筆したと思われる字句がない︒︵ 

ヽ ノ

﹂とし真の右上に﹁浄土﹂を補記し︑択の右下に﹁本願﹂を補記す︒高﹁真実之

︶ 虹 実 之 行 行 巻 標 挙 の 細 註 東 は

︵ 選 択 之 行

ヽノ

ヽノ

行﹂のみ︒西両﹁浄土虹実之行﹂

︑ ー

︐ , ノ ヽ ー

︵︵選択本願之行

化本認三願転入の釈のあと﹁報二謝至徳こ東は﹁至﹂右傍補記︑高﹁至﹂なし︑西﹁至﹂の左傍に﹁イ本アリ﹂

︵  

ヽ ノ

の註︑両﹁至﹂あり︒︵ 

ヽ ノ C東の頭註がない場合が多い︒︵ 行2

五 瓢 疇 昇

O I o

⑥ぱ頭註︑⑦向にはなし︒

ヽ ノ ヽ ノ ヽ ノ ヽ ノ

﹁命﹂の字の註東は頭註︑西は

1 4

右の﹁命﹂の所で頭註︑高にはなし︑両は割註゜

︵  

ヽノ)、~の字の註東西は頭註︑高にはなし︑両は割註゜

︵  

ヽ ノ

︑ ノ ヽ ノ

の字の註東西は頭註︑高にはなし両は割註゜

︵  

ヽ ノ ヽ ノ

︑ ノ

の 字 の 註 東 西 は 頭 註 高 に は な し 両 は 割 註

゜ (

︵  

教行信証の三本校異における所見

一 九

(28)

化本畑横超の釈

東による送り仮名の補記

﹁法縁﹂あり

乃真

宗也

﹂︑

︵  高は本文に﹁斯﹂なく﹁斯ィ﹂と頭書補記 ヽ ノ

︹現

流︺

真仏土竿﹁論註﹂ 教行信証の三本校異における所見

r ̲

五の

b

に示す通りである︒

c  J︑

j

j,

七高は推敲後の東によって校異補記し︑現流本その他を参照す︒

C (

︵ a東による字句の校異

行廷﹁十住論﹂﹁諸仏大法﹂︑高は本文﹁海﹂に作り﹁法﹂と頭註︵ 

ヽ ノ

行臨﹁十住論﹂﹁威儀尊貴﹂︑高は本文﹁議﹂に作り﹁儀こと頭註︵ 0

︑ ー ノ

行碑﹁要集﹂﹁多足﹂︑高は本文﹁即﹂に作り右傍に﹁足この註︵ 信末は﹁止観﹂東両﹁菩提者﹂︑高本文﹁薩﹂に作り﹁提こと頭註︑西﹁提﹂を﹁薩﹂に改む

信末癖﹁涅槃経﹂﹁特見﹂高本文﹁持﹂に作り左下に﹁特ィ﹂の註︵ 

カ チ

︑ ノ

化本癖﹁弁正論﹂﹁河池﹂︑高本文﹁何﹂に作り左傍に﹁河ィ﹂の註︵ 

b

東による字句の補記

行釦﹁大智﹂についての註︑東西﹁元照律師也﹂と頭註︑両﹁大智唱云﹂の下に割註︑

照律師こと補記

ヽ ノ

東は﹁法縁﹂右傍補記︑西は﹁法縁﹂なく右傍に﹁有縁﹂と補記︵次下の

︵  

ヽ ノ

﹁三者無縁﹂に対して﹁有縁﹂と記せるか︶︑高﹁法縁﹂右傍補記し﹁或本ニアルイ本ナルヘシ﹂の註︑剛

︵  

0 0  

﹁二

者法

縁是

中悲

﹂︑

経言・論日・釈云の体裁が整っていない︒

高﹁大智﹂の左傍に﹁元

0

(29)

教行信証の三本校異における所見 化本年﹁平等覚経﹂

東西

両﹁

不>

可>

致﹂

︑高

﹁到

﹂ (

︵  

信本誌﹁礼讃﹂

註記

の左

﹁ス

﹂と

送り

︹正

蔵︺

下に

﹁疑

ィ﹂

と註

し︑

異本は﹁疑ヲ致ス

行塩﹁易行品﹂東両﹁帰二命彼仏本願力'﹂︑高﹁帰一︳命彼仏本願ヵ︱‑﹂に作り﹁力﹂に﹁ヲィ﹂と註記︑酌﹁帰ニ︵ 

(

︵   命彼仏本願カー﹂とあり︵命の左仮名は高を写し誤るか︶

信本年﹁序分蔵﹂﹁不>従﹂償は﹁従の右﹁クノミクテマツラ﹂とあり︑左に﹁シクカヒタテマツラィ﹂と

ヽ ノ

高﹁切﹂と頭註︑両﹁一切﹂.︹現流︺は﹁一切﹂︑︵ 

﹁暦﹂とある たゞし高山 ︹現流︺による校異

行廷r安楽集﹂東高西﹁計二衆生念仏之功一﹂︑

寺本・高野山宝寿院本は﹁一﹂に作る

四本とも﹁歓喜至二‑心こ︑高﹁念﹂と頭註︑両﹁念この註︑︹現流︺の﹁礼讃﹂では﹁念﹂とあ

︵  

り﹁懺骰﹂では﹁心﹂とある

信末饂﹁涅槃経﹂東西両﹁屑口﹂︑高右傍に﹁屑ィ﹂の註︑

(

︵  

ヽ ー ノ

ヽノレン化末虚﹁大集経﹂東﹁憐二陀衆生ー故﹂︑高﹁陀﹂の左傍に﹁イ無﹂の註︑右傍に﹁ミン﹂の仮名あり︑﹁慾﹂と頭

︵  

註す︒西﹁陀﹂の右に﹁欧乞パ﹂と註記︑両﹁陀﹂を﹁他﹂に作る︒︹正蔵︺﹁憐二慾衆生一故﹂とある︒

︵  

e x

本による校異

ヽ ーl

v

行誌﹁五会法事讃﹂東西両﹁観音勢至自来迎﹂︑高﹁自﹂の左に﹁ミッカラこと註記

(

︵  

行誌﹁観経義疏﹂東西両﹁円頓一乗純一﹂︑高﹁ナリ﹂の右傍に﹁イ無﹂の註あり

︵  

証碑

﹁論

註﹂

東西

両﹁

言>

日未

>足

ーー

ー以

,

不動1

1﹂︑高左傍に﹁イマククラサレトモアキラカナルヲモテフトウトイフィ︵ ︵︵︵ 本﹂の註あり

(30)

化末碑﹁大集経﹂

化末餌﹁大集経﹂

g  f 

教行

信証

の一

︳一

本校

異に

おけ

る所

ヘカラス﹂とあるを示す

その他の考証を示す

l,

行碑﹁弥陀経蔵疏﹂﹁終帰﹂︑高は左傍に﹁シテ欺﹂の註︵ 

J行畑﹁論註﹂﹁音曲﹂︑高は左傍に﹁オム欺﹂の註︵ 

ヽ ノ

ヽ ーノ ヽ

信末寧﹁涅槃経﹂東西︹正蔵︺﹁殺者殺果﹂︑高は右傍に﹁因欺﹂の註︑

  ヽ ノ

のか︶︑両右傍に﹁因ィ﹂と註記︵ 貼紙あり

0 0

ヽ ノ

行年﹁五会法事讃﹂﹁聞名念我徳迎来﹂︑高﹁十八願迎来﹂の貼紙あり︒︵ 

ヽ ノ

信本6﹁散善義﹂を引く﹁又云﹂︑高右傍に﹁自此観経三心﹂の貼紙あり︵ 

八東は高西の書写した後にも補筆あるか

C (

︵︵ a文字の補記

証店﹁論註﹂﹁摘二聴歴﹂︑東は﹁摘字他暦反排除也﹂等の頭註を付す︒高西両頭註なし︒

﹁暦ィ﹂と註し︑﹁玉ニイハク﹂等の脚註あり︒

化末竿﹁大集経﹂西﹁盈満にホ時:.﹂東ホ時の上に﹁又言﹂を補記︑高ホ時の上﹁又云﹂とあり︑両﹁又言﹂あ

り右傍に﹁月蔵分云ィ﹂の註あり

﹁ 然 ﹂

訓点文字の改訂

西高両﹁受提謂

1波利一諸商人食﹂︑東は上記の如き点を改めて﹁受二提謂波利諸商人食こと訂正

ヽ ノヽ ー

西 高

﹁ 正 法 熾 燃

︑ 東 は

﹁ 燃

﹂ を

﹁ 然

﹂ に 改 む

︒ 両

︹ 正 蔵

︺ に 作 る

︵︵  両は﹁歴﹂の右傍に ︵下の﹁殺果﹂に対して殺因と考えたも

参照

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