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Academic year: 2021

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博士学位論文概要

梶田 裕 論文題目:La poésie comme pensée matérialiste de l’événement : Francis Ponge et Henri

Michaux(邦題『出来事の唯物論的思考としての詩作:フランシス・ポンジュとアン

リ・ミショー』

主査:千葉 文夫 教授

本論文は、詩作を出来事の唯物論的思考と規定する立場から、フランシス・ポンジ ュおよびアンリ・ミショーの詩作を研究するものである。出来事の唯物論的思考は二 重の要請に応えるものでなければならない。第一の要請は、思考をその産出の物質的 原因(生物学的メカニズムにせよ社会、文化、歴史および経済的メカニズムにせよ)

に帰着させる還元主義から、唯物論を引き離すこと、第二の要請は、出来事の思考を あらゆる神秘主義から引き離すことである。この二つの課題は密接に連関している。

出来事は、それが到来する状況の物質的な原因によって完全には条件づけられていな いような新しいものの出現を肯定する概念である。しかしそれゆえにまた、出来事の 思考はたやすく神秘主義へと陥ることにもなる。そのとき出来事は思考不可能なもの の形象となり、その超越性において神秘化される。したがって、出来事の唯物論的思 考が還元主義的な決定論と超越的神秘主義から逃れることができるとすれば、出来事 の思考と唯物論的な内在主義とを和解させることができなければならない。アラン・

バディウの「真理手続」は、このような唯物論のモデルを提示している。それは、出来 事の諸帰結の展開が、それが生じた状況を現実に変革していくプロセスである。この プロセスが生み出す「ジェネリックな多数性」は、その出来事に由来するという性格に おいて、状況の要素を名付け、特定の固有性に従って分類するあらゆる言語から逃れ るが、そのことによって、この状況のすべての要素によって共有された、状況に...

在る..

こと..

そのものを証言する。それゆえ、バディウはジェネリックな多数性を、それが生 じる状況の真理の存在論的規定とみなす。この規定は、ある特異なプロセスの産物で ありながら、普遍的かつ永遠である可能性を真理に与えるものである。この思考のモ デルを参照しながら、「文学は思考である」とはいかなることなのかを、ポンジュおよ びミショーの詩作品に則して明らかにすることが、本論文の目的である。

第1部「フランシス・ポンジュ——事物の出来事の詩学」は、ポンジュがどのように その詩作を事物の出来事性のまわりに組織しているのかを明らかにする。ポンジュの 詩作が介入するのは、事物が人間への関係に従って、つまり人間が事物に関して抱い ている臆見や価値判断に従って識別され分類されているような状況である。このよう な状況を、ポンジュは「回転木馬 manège」と名付ける。そこで人間は他者としての事 物に出会うことなく、自分たちの作り上げたコンセンサスのなかをぐるぐると回って いる。ひとつの事物が詩作の対象となるのは、それがこのような状況から外に出ると き、すなわち「回転木馬」の論理に従って規定されている自分自身から自らを差異化す るときである。第1章「示差的質の謎、あるいは範疇混同」では、詩編「花に関する 意見変更」の読解を通じて、ポンジュが詩作の対象としている事物の「示差的質qualité différentielle」とは、このような事物の自己差異化の能力であること、そしてそれは実

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のところ規定可能なあれやこれやの質ではなく、いかなる質にも還元することのでき ない、事物の実存であることを示した。実存は事物の概念的規定からは導き出すこと のできない出来事であり、事物をその実存において捉えることは、それをそのすべて の質とともに、そのあるがままの特異性において捉えることである。そして第2章「物 喜びから物遊びへ」で、この出来事的な実存が、ポンジュが「物喜びobjoie」と呼ぶ、自 己の外への脱自的=恍惚的運動であることが明らかにされた。それはまた、事物がそ の「真理」において姿を現す契機でもある。というのも、ポンジュにとって「真理は享 楽する」ものだからである。このとき、事物はそのあらゆる属性とともに、その実存 において顕現する。事物の持つ様々な質を選択し、価値づけ、それに従って事物の間、

あるいは事物と人間の間に特定の関係を築く「回転木馬」から解放されて、事物は他の 諸事物と自由かつ未規定な関係を結ぶ。この自由な関係は「遊戯」として規定される。

遊戯は、その対象をその「本来」の用途から引き離すと同時に、その対象に働きかける 行為をその「本来の」目的から解放する操作である。ポンジュの詩作における根源的な

手法、「物遊びobjeu」は、この二重の中断を定める。つまり、一方で事物が通常捉え

られている連関から解放され、他方で言語がその通常の用途、すなわち意味作用から 解放される。第3章「文学的真理の垂直性」では、「深遠に置かれた太陽」と「牧場」の読 解を通じて、物遊びが太陽を唯一の中心とするコスモロジーを脱構築し、無数の太陽 としての星々の自由な関係を現れさせると同時に、音声的、視覚的類似の関係、ある いは語源に基づく関係として具現化される、垂直的エクリチュールを組織することを 示した。詩的言語の垂直性は、語を水平な統辞的連関の拘束から引き抜き、他の語と の自由な関係の中に置き入れる。この関係はテクスト上に星座のように出現し、読者 の眼差しだけが開拓することのできる、新たな有意性の領域を産出する。

第2部「アンリ・ミショー——無限の詩学」は、ミショーにおける無限をめぐる問い が、出来事の思考を構築することを明らかにする。無限は通常の経験世界の有限性を 一瞬断ち切る出来事の帰結として到来する。そもそもミショーにとって、生、そして 存在は根源的に無限であり、あらゆる状況、あらゆる限定された場への位置づけを逃 れさる力を持つ。有限性は根源的な存在論的無限の限定、抑圧の産物に過ぎない。何 らかの例外的な衝撃(薬物、極端な疲労、怪我等)によって、ときに無限はその囲い から解放される。第1章「出来事・無限・リズム」では、ミショーの散文作品を読み解 きながら、ミショーにおける無限の存在論が、無限の物質的な表現媒体としてのリズ ムの概念に至ることを論証した。ミショーは存在を「無数の逸脱へと折れ砕ける一本 の線」と考える。無限に折れ砕ける線として、存在の潜勢力=濃度はあらゆる数え上 げ(たとえそれが無限に続けられるとしても)を超越する。連続体の濃度は、可算無 限の濃度を超えるからである。存在の無限性は、知によって統御することのできない この過剰である。しかしこの超越性が存在論的無限を神学的無限に近づける。ミショ ーはこの両極の間を揺れ動いているように見えるが、この見かけの揺らぎの下に、真 に唯物論的な思考が隠されている。唯物論は人間の有限性の名において神の無限性を 否定することにあるのではない。無限を思考することの放棄は、思考そのものの否定 である。ミショーの真に唯物論的な所作は、神学的無限を存在論的な無限から派生さ せることにある。神学的な無限は、存在論的な運動としての無限を中断したものに過 ぎない。つまり無限に折れ砕ける線が円となって閉じられたものに過ぎない。しかし、

あらゆる囲い込みを逃れるこの存在論的な無限は、単にカオスなのではないか。ミシ ョーはリズムの概念によってこの問いに答える。リズムは無限の逃走線に、それを何

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らかの閉じられた形象に閉じ込めることなく存立性(consistance)を与える。リズムは 存在の折れ砕けの襞と波動をカオスから分け隔てる。リズムはミショーの絵画の実践 と詩の実践を横断する概念である。それは芸術に、その有限な素材の中で無限を身体 化することを可能にする。それは十分に希薄で流動的あるがゆえに、無限を受け入れ ることのできる「物質」である。第2章「無限のドラマツルギー」では、詩集『逃れ去る ものに向きあって』に収められた諸テクスト、とりわけ「折れた腕」の読解を通じて、

第1章で理論的に明らかにされたミショーの詩作の道のりが、ひとつのテクストの中 で「レシ」として舞台にのせられる様が明らかにされた。それは無限についての物語で あると同時に、無限をめぐる思考の冒険でもある。第3章「連続体の言語」では、無限 の思考が要請するリズムの概念が、いかに詩的言語として具現化されるのかを、詩集

『様々の瞬間』に収められた詩編をアンリ・メショニックとジェラール・デソンのリ ズム研究に依拠しながら分析することで示した。リズムは語の非連続性を貫き、それ を言説のリズミカルな流れの中に沈み込ませることで、言語の中に連続性を出現させ る。ミショーの詩作品は、そのデッサンと同様、何も限定せず、いかなる輪郭を取り 囲むこともない線によって構成され、そのリズミカルな折れ砕けとうねりが、ひとつ の無限な連続体を浮かびあがらせるのである。

出来事の思考としての詩作の射程と意義は、出来事をめぐる同時代の哲学的思考を 併せて論じることでより明確になる。本論文では、ポンジュとミショーをめぐる各論 考の後に、それぞれジャック・デリダとジル・ドゥルーズの思想を論じる二つの哲学 的考察、「哲学的句読点」を配することで、哲学と詩作の間で共有された思考を浮かび 上がらせる。デリダはポンジュを好んで論じ、ドゥルーズはミショーを好んで論じた が、そこには単に好みの問題には還元できない存在論的な共鳴がある。しかし、この 哲学的考察は、哲学と詩作の対照にはとどまらない、固有に哲学的な射程を持つ。実 のところ、フランス現代哲学は出来事の存在論的な価値をめぐって分裂している。デ リダやドゥルーズは、それぞれ独自の仕方であるとはいえ、存在そのものの出来事性 を肯定している。それに対し、バディウは出来事を存在論の外部として思考する哲学 システムを構築している。出来事の存在論化を棄却し、バディウは存在論を数学に委 ねる。出来事は存在論に対する例外として存在に到来するが、その現実的な状況に対 する作用とその帰結がもたらす産物の存在様態は、完全に理性的かつ唯物論的に、存 在論=数学の枠組みの中で思考可能である。出来事の存在論化に対するバディウの批 判は、出来事の帰結の現実的な展開(バディウが「主体」と呼ぶもの)の問題に関わ る。存在それ自体が出来事であるとすれば、存在は存在者を生み出すと同時にそこか ら抜け去っている。存在の忘却は必然的であり、存在者にとって、存在の出来事は常 にすでに過ぎ去っていると同時に永遠に来るべきものである。これが現代哲学のメシ アニズム的傾向を形作っている。存在の出来事性に立脚する哲学は、出来事のいま・

ここにおける諸帰結の展開を思考することができないのではないか。デリダとドゥル ーズの思想がこの問いにどう答えるのかを示すことが、この哲学的考察の課題である。

最初の哲学的句読点「デリダ——脱構築は真理手続であるか?」は、脱構築を存在の 出来事を前提とする特殊な真理手続として規定する可能性を探る。デリダは「差延」の 名のもとに、あらゆる超越性を脱構築する存在論を構築した。しかし同時にこの存在 論は、根源的な他者性としての出来事を肯定する。差延は、いかなる超越性、いかな る超越論的主体性を前提とすることもなく、差異のある存在者を生み出す内在的な原

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理である。それは単に存在者間の差異だけでなく、自己から自己への隔たりを生み出 す自己差異化を構成する。すべての存在者は、この自己差異化によって自己に...

現前す る。この隔たりは自己への現前にとって構成的であり、決して抹消することができな い以上、自己への純粋な現前は際限なく遅らされ続ける。こうして、差延は存在者間 の差異を構成すると同時に、その定まった境界を攪乱する。すべての存在者は、その 自己同一性を揺るがせる差異化の運動によって絶えず貫かれているからである。こう して、差延は現前の形而上学に対する決定的な差異を刻み込む。この差異こそ、まっ たき他者、そしてすべての他者の、根源的な他者性である。それは他者を他者自身と 異なるものにする、他者自身にとって我有化不可能な他者性である。したがって哲学 の課題は、他者の識別可能な他者性ではなく、他者をそれ自身から差異化させる他者 性を思考することにある。しかし、この他者性は定義上決してそれとして現前するこ とはない以上、どのようにそれを思考したらよいのか。この問いがデリダにおける「痕 跡」の思考を組織している。他者において他者自身にとって他者である差異は、他者 が存在者として現前するとき、常にすでに消失している。しかしデリダによれば、こ の差異はその他者性の何らかの痕跡を残す。差延、この形而上学の彼方は、到来する と同時に消えさる以上、それは自らの消失そのものの痕跡を残すほかはない。痕跡は、

現前性の領域の中からその根源的な他者へと合図する、唯一の物体..

である。脱構築の 哲学は、このような痕跡を読み..

、そこで告げられている他者性を思考しなければなら ない。ところで、デリダによれば、痕跡の存在様態はそれ自体「思考不可能」なもので ある。つまり、痕跡を他の現前的存在者から分け隔てること可能にするような、いか なる存在論的規定も本質的に不可能である。というのも、デリダにおいては、現前的 存在者の形而上学的な存在様態以外のいかなる存在様態も思考不可能だからである。

他者の出来事とその痕跡は、それが到来する状況の中で、いかなる存在論的な異質性 を示すこともできない。だからデリダは形而上学の外部の思考が必然的に形而上学の 内部へと転がり落ちることを絶えず強調した。しかし、この理論的、存在論的な不可 能性が、出来事の思考としての脱構築の実践的課題を定めている。デリダにとって、

存在論的な思考不可能性は、痕跡のような何かがそれでも存在することの可能性を妨 げるものではない。したがってデリダの哲学は、痕跡の異質な存在様態を規定できる ような存在論を構築することではなく、そのテクストを痕跡として存在させることへ 向かう。デリダの特異なテクストの実践は、ここにその思考としての根拠を持つ。し かし、デリダのテクストが、そこで形而上学の彼方、すなわち他者の告げられるよう な痕跡となる保証はどこにもない。痕跡の存在は、その「すでに到来した」と「いまだ 来るべきものである」を決定不可能なものにする「おそらく peut-être」に、永遠に宙づ りのままである。脱構築は、自らの操作およびそれが生み出すものの理論的規定を放 棄したところに成立する、出来事の唯物論的思考の実践である。

二つ目の哲学的句読点「ドゥルーズ、あるいは新しい身体の創造」は、ドゥルーズの 生成変化の存在論が、いかに新しいもの.....

の創造としての思考を可能にするのかを明ら かにする。ドゥルーズは、生成変化と出来事の共外延性に基づいて、内在主義的な存 在論を構築する。生成変化は、それが物事の状態、そしてある現在の一点への位置づ けを逃れさるという点において出来事的である。すべての生成変化は、限界なき線で あり、それは同時に過去と未来へ向かいながら、無限に分割される。出来事は何らか の物事の状態の中で実現されるが、同時に実現不可能な部分を含んでおり、それを通

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じて、生成変化の限界なき線につながる。この線は、常にすでに過ぎ去っていると同 時に永遠に来るべきものである時間の真理としての「アイオーン」の線であり、その 上で、出来事は他のすべての出来事と離接的綜合の論理に従って連結し、唯一の同じ 大文字の出来事を形成する。この大文字の出来事は、内在性の存在論的領域であり、

そこでは、存在はすべての齟齬する存在者に対して一義的に言われる。出来事間のこ の統一がそれ自体出来事であるのは、それがその都度作り出されなければならないか らである。すべての出来事は、統一の到来としての大文字の出来事を反復するが、そ れはこの反復それ自体がこの統一を出現させることを意味する。この内在主義的存在 論は新しいものの創造を可能にする。潜在的な出来事は現働的な物事の状態の中で実 現されるが、それらの間にはいかなる類似もありはしない。個体化された身体ないし 事物は、その都度新しいものの出現である。しかし、それは消えさりゆく新しいもの である。実現された出来事は、物質的な因果性、そして排他的な矛盾律に従って説明 されるがままとなり、その出来事性を失うからである。そのとき、思考の課題は出来 事を反=実現し、その実現不可能な部分を抽出することである。この部分は、もはや 物事の状態にではなく、あらゆる齟齬を肯定する存在論的な内在性の領域へと差し向 ける。それによって、物事の状態は生成変化へと引きずり込まれ、新たな現働化を誘 発する。しかしこの現働化においても生成変化の出来事性はやはり失われるので、思 考は袋小路に陥ることになる。この袋小路は脱領土化と再領土化の二元論としても現 れる。ある領土は他の領土へと相対的に脱領土化されるだけでなく、それを可能にし た潜在的な平面へと絶対的にも脱領土化される。しかし、この絶対的な脱領土化ない し逃走線が再領土化されることでしか現実的な変化を生まないとすれば、創造的思考 は脱領土化とその再領土化を繰り返すだけとなる。この袋小路は、再領土化なき脱領 土化を思考することの危険性によってさらに強化される。あまりに性急な脱領土化は、

逃走線を単なる破壊のプロセスに変えてしまう。袋小路はとりわけ政治の領域で顕著 となる。革命的脱領土化は、破壊的ファシズムか多かれ少なかれ抑圧的な国家的再領 土化かという二者択一に囚われる。ガタリと共に、ドゥルーズは「アレンジメント agencement」という概念の創出によってこの袋小路を乗り越える。この概念は、物事 の状態と出来事の関係、前者が後者を再領土化し、後者が前者を脱領土化する様々な 様式を分析ないし構想することを可能にする。こうして、二元論的な袋小路を逃れる アレンジメントの可能性が探究され、ドゥルーズとガタリはそれに「戦争機械」という 名を与える。それは領土や国家機構の単なる破壊でもなければ、脱領土化の絶えざる 再領土化でもなく、脱領土化上の..

再領土化として形式化される。つまり、ここで逃走 線は中断によって再領土化されるのではなく、そのプロセスそれ自体がひとつの領土 を構築する。ひとつの具体的なアレンジメントが、ある特定の領土の中で、来るべき 新たな大地の断片として展開される。この大地は、潜在的な存在論的平面、すなわち 内在平面へと絶対的な脱領土化の線を引く。「器官なき身体」とはこのようなアレンジ メントであると言うことができる。しかし、具体的なアレンジメントとしての器官な き身体は、それ自体器官なき身体である内在平面ないし存立平面の上に構築され、そ れに連接されている。このような内在主義的存在論とアレンジメントの理論から、思 考の三つの形式が取り出される。出来事を実現する現働化の思考、出来事を身体化す る反=実現的思考、出来事に存立性を与える反=実現的思考、すなわち、科学、芸術、

哲学である。芸術と哲学は、前者は感覚によって、後者は概念によって、逃走線の上 に具体的な領土を作り上げる二つの様式であり、来るべき新たな大地、そして人民へ と呼びかけるという点において一致する。科学と哲学は、それぞれが現働化と反=実

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現という、出来事の二つの運動に対応している点で相補的である。これらの思考の形 式は、カオスに立ち向かう三つの様式である。そしてまた三つの創造様式でもある。

科学は出来事の新たな現働化を説明する関数を創造し、哲学は出来事に存立性を与え る概念を創造し、芸術は出来事を身体化する感覚を創造する。創造は常にカオスとの 対決によってなされる。それが創造的な思考にオピニオンから身を引き離すことを可 能にするのである。

本論文は、文学が思考であるとは何を意味するのかという問いに、出来事の思考と いう回答を与えた。そしてそのような思考が存在すること、またそのような思考の存 在を肯定する哲学的思考が存在することも明らかにした。その研究成果は、文学や哲 学の終焉を宣言する現代の懐疑主義に抗して、来るべき新たな思考の可能性を肯定す るものである。

参照

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