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サロン文化における文学受容: コズロフ『修道士』(1825)をめぐって

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はじめに

 本稿では、И. И. コズロフ(1779‒1840)の物語詩『修道士』の初版単行本(1825)の構成に焦 点を当て、サロン文化における文学受容のあり方を考察する。

 コズロフは病のために両足が麻痺し、さらに視力をも失う中で創作活動を開始した。彼は失明 した1821年、42歳の時に雑誌に作品を発表して詩人としてデビューし、1825年に単行本で出版し た物語詩『修道士』が彼に名声を与えることとなる。

 こうした経緯から従来、コズロフの詩才の開花は彼の病、とりわけ失明と関連づけて論じられ てきた。すでに20世紀初頭には、コズロフに関する「ほとんど全ての論文」が定型化しており、

そこでは「詩人を襲った不幸、彼の内で詩的才能を目覚めさせた失明について」記述されると指 摘されている(1)

。他方 И. Д. グリクマンは、「1821年に思いがけず失明して[…]詩人になった」

という「非常に単純化された伝記的図式」を批判して、「当然ながら、こうした魔法のような変 身はありそうもない」と述べている(2)

 このようにコズロフの病の意味をめぐっては見解の対立が見られるのだが、本稿では失明と創 作を関連づける「伝記的図式」の是非ではなく、その背景に目を向けてみたい。彼の病に初めて 大きな意味が与えられたのは『修道士』の初版本においてだが、この単行本は詩人の「不幸」を 読者に強く印象づけるような構成となっている。本稿で注目したいのは、詩人の「不幸」に対し て、読者が関心と同情を寄せうることが前提とされている点である。というのもこうした前提は、

当時のサロン文化における文学受容のあり方と関わってくると思われるからだ。

 ロシアでは18世紀に文学サロンやサークルが現れ始め(3)

、「19世紀の最初の20年間はすでに

サークルや文学的集まりやサロンの急速な増加で特徴づけられている」(4)

。 W. M. トッドによれば、

サロンやサークルといった「うちとけた集まり」においては、「発信者と受信者の関係はより相 互的なものとなり、友情ある交わりによって形成され、経験を共有し、価値観を共有している」(5)

という。より大衆的な雑誌文化への変化が生じるのは1820年代半ばであり、読者層の拡大が目に つくようになるこの時期を

А. И. レイトブラトは「転換期」と呼んでいる

(6)

『修道士』の出版された1825年はちょうど「転換期」に当たるが、この書籍の特徴的な構成か

サロン文化における文学受容: 

コズロフ『修道士』(1825)をめぐって

菅 原   彩

(2)

らは、サロン文化において理想とされていた読者の態度が見えてくるように思われる。本稿では

『修道士』の初版本を取り上げ、当時の読者に要請されていた受容のあり方について考察を行う。

よく知られているように19世紀前半にはしばしば手稿やアルバムによって作品が広まったが、出 版部数は通常1200部(7)と大きくはないものの書籍も流通していた。書籍を主な考察対象とする ことで、新たな角度からこの時代の文学受容に光を当てられるのではないだろうか。さらに1830 年代の雑誌批評を対比的に論じることで、サロン文化における文学受容の特徴をより明確に浮か び上がらせてみたい。

 本稿では第1章でサロンにおける『修道士』の受容の様子を概観し、次いで第2章では『修道 士』単行本の構成を確認しつつ、読者にどのような読み方が求められていたかを考える。最後に 第3章ではコズロフの詩集を扱った1833年の書評を取り上げ、詩人の「不幸」を強調する傾向が 批判された意味をさぐる。考察を通して、『修道士』単行本では親密な人間関係の延長上に詩人 と読者の関係が位置づけられていたこと、こうした想定が社会の急激な変化に伴い、1830年代前 半には成立しなくなっていることが見えてくるだろう。

1 .サロンにおける『修道士』受容

 まずサロンにおける『修道士』の受容について、同時代人の言葉から確認してみよう。

『修道士』が出版されたのは1825年

4月半ばだが

、コズロフの日記によればすでに同年

3月 19日に、当時のペテルブルグの有名な文学サロンの一つ、А. Н. オレーニンのサロンにおいて彼 自身が『修道士』の朗読を行っていた

。オレーニンが娘に宛てた書簡には、この作品に対す

る聴衆の反応が描かれている。

私たちは感じが良くて、本当に、世間で言われているように、実に興味深い人と知り合いに なった。それはイヴァン・イヴァノヴィチ・コズロフとかいう人で、盲目で歩けない[…]。

この人の中で、聖典で言われている、神が盲人を賢くするということがまさに起こったの だ!彼は私たちのところにすでに二回来て、自作を暗唱した。[…]最初のときは、ストロ ガノフ家の伯爵夫人とリーザが泣き、そして昨日は伯爵夫人の兄、Д. В. ゴリーツィン公爵 と我らがウヴァーロフが絶え間なしに涙を拭っていたのだが、一言で言えば、こんな素晴ら しいものを私はロシア語では聞いたことがなかった。(10)

 この書簡が示すように、オレーニンが『修道士』を高く評価しているのはたしかだが、この作 品だけが彼を感動させたとも言い難い。というのも、「盲目で歩けない」というコズロフの境遇 への関心がこの文章から読みとれるからだ。むしろ「この人の中で、聖典で言われている、神が 盲人を賢くするということがまさに起こったのだ!」と書くオレーニンは、コズロフの創作を盲

(3)

人に顕された一種の奇跡として受けとめているように見える。彼の意識の中で、作品への感動は その作者への関心と貼りあわされており、両者は不可分に結びついているのだ。このように作品 ばかりでなくコズロフの境遇にも心を動かされていたのは、おそらくオレーニン一人ではない。

例えば涙を流すほど『修道士』に感動していた

С. С.

ウヴァーロフは『修道士』を100部も予約 注文しているが(11)

、これは困窮するコズロフへの援助という意味を持っていたと考えられる。

 こうした人々の反応は、サロンでの朗読という受容状況によるところが大きいだろう。

P. デブ

レチェニーは

А. С.

プーシキンの政治的な詩の受容を論じる際、詩を賞賛する仲間による朗読を 聞くという状況が、聞き手の抱く作品の印象に影響した事例を報告している(12)

。 『修道士』

の場合、

コズロフの姿を目にして彼自身による朗読を聞くことは、聞き手の感涙を誘い、集団での受容は さらに感動を増幅させただろう。

 ただし詩人の境遇への関心はサロンの聴衆に特有のものではなく、読者にも求められている。

第2章では『修道士』単行本の構成に注目し、読者にどのような読み方が期待されていたかを明 らかにしてみたい。

2 .サロン文化における読者受容:『修道士』単行本の構成から

2‑1.詩人紹介と自伝的な抒情詩

 現在最も権威ある1960年のコズロフ全集において、『修道士』の本文に収められているのは献 詩と物語詩本編のみだが(13)

、1825年の単行本ではそのほかに「出版者より」と題された序文、

そしてコズロフが1822年に

В. А. ジュコフスキーに宛てて書いた書簡体詩「友人 В. А. Ж. に(旅

からの彼の帰還に際して)」[以下「友人に」]が加えられていた。この単行本はまず序文(2頁)、

次いで献詩(2頁)、それから物語詩本編(33頁)、最後に「友人に」(22頁)という順序で構成 されており、標題紙等を含めて全体の頁数は64頁になる。なぜ当初は、序文と3年も前に書かれ た自伝的な詩で物語詩をはさみ込むという構成になっていたのだろうか。以下ではまず、コズロ フのデビュー作である詩「スヴェトラーナに」(1821)の雑誌掲載時の注釈の役割を考察しつつ、

『修道士』の序文の機能について検討してみよう。

 この序文は無署名だが、執筆者はコズロフの友人で『修道士』の出版に尽力したジュコフス キーとみなされている(14)

。ここでは詩人を襲った突然の病と苦しみ、そして絶望に打ち勝つ詩

人の内的な強さが読者に紹介される。序文の書き手によれば、詩人は若い頃は「彼の魂の内に何 が隠されているかを知らなかった」が、「不幸が彼にこの秘密を明かした」のだという[4

(15)

彼から人生の最良の幸福を奪い、不幸は彼に詩を与えた。彼が足を失い盲目になってからす でに5年になる。現実の世界は彼にとっては永遠に消え失せた。だが魂の世界、詩的思想や、

最上の希望や、信仰の世界はその美しさのかぎりを尽くして彼に開かれていた。[4

(4)

『修道士』序文ではこのように、詩人の人生における「不幸」に大きな意味が与えられている

(16)

一方で『修道士』という作品にはほとんど触れられず、序文としてはいささか奇妙なものである。

 実は詩人紹介が作品に添えられたのは、これが初めてではない。『修道士』の出版の4年前、

詩「スヴェトラーナに」が雑誌『祖国の息子』に掲載された時には、「これは受難者の最初の試 みであり、彼は元気な盛りに足を、それから視力を失ったが、心のあらゆる熱情と想像力を保っ ていた」(17)という注釈が付けられていた。この注釈の役割は、コズロフの抒情詩の特徴を考える ことで見えてくる。コズロフは病の苦しみをうたう自伝的な作品を数多く残しているが、Л. Я.

ギンズブルグによれば、「彼は自分の困苦について[…]たいてい、あまりにも伝統的な詩の形 式の中で語るので、テクストの奥にある現実を理解できたのは伝記的事実を知っている人々だけ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 00

」[強調は引用者]

(18)という。ギンズブルグはその例として、「スヴェトラーナに」の中の「私 には春は早くに色あせ、/太陽も真昼に沈んでしまった」といった詩行を挙げて(19)

、「詩的象徴

性は、当該の個人的な困苦にも、きわめて普遍的な、哀愁に満ちた魂の状態にも当てはまりう る」(20)と述べている。

 おそらくコズロフの抒情詩のこうした特徴は、彼がもっぱらごく身近な人に向けて詩を書いて いたことと関係がある。例えばこの詩の名宛人スヴェトラーナとは、ジュコフスキーの姪でコズ ロフの友人となった

А. А.

ヴォエイコヴァを指す。コズロフをよく知る名宛人はその実人生と結 びつけて作品の示唆を読み取り、彼もまたそうした読解を予期していたはずだ。もともと親しい 人に宛てられていたからこそ、詩を雑誌に掲載する際にはより多くの読者が理解できるように、

伝記的情報を含む注釈が付けられたのではないだろうか。注釈によって、コズロフを知らない読 者も「テクストの奥にある現実」を理解できるようになっただろう。

 このことは『修道士』の序文についても当てはまる。序文に続いて読者が読む妻宛の献詩には、

「私には見えない、黄金の輝きをまとう日も、/春のバラも、心にとって愛しい顔も」[

]とあ

り、失明が示唆されるものの、そこでうたわれる苦悩は個人のものとして十分に具体化されてい ない。また物語詩の後に置かれた詩「友人に」でも、失明していく様が描かれてはいるが、例え ば「若い盛りに早くも私は失った/この世で私たちを惹きつける全てを、/喜びが私たちに約束 する全てを」[48]という詩行から「個人的な困苦」を読み取るのは「伝記的事実を知っている 人々」でなければ難しい。

 しかし『修道士』が出版された1825年はじめ、「テクストの奥にある現実」を読み取れる人は それほど多くはなかったと思われる。コズロフを知る人も彼を社交界の寵児として記憶しており、

例えば

К. Я.

ブルガーコフにとって彼はいまだに「かつての輝かしいダンスの名手」(21)だった。

だがコズロフをよくは知らない読者も、序文を参照することにより、献詩と詩「友人に」に詩人 の人生を読むことができただろう。

 もちろん、注釈や序文はコズロフの伝記的事実を伝えるだけでなく、彼を「受難者」として描

(5)

いているという点には留意する必要がある。紹介文と共に自伝的な抒情詩が読まれることで、

「受

難者」という詩人像が確立されていったと考えられる。

 ここまで序文の機能について自伝的な抒情詩と関連づけて検討してきたが、それでは詩人の人 生を知ることは、『修道士』という物語詩を読むことにどのように関わってくるのだろうか。第 2節ではロマン主義物語詩というジャンルを扱った

Ю. В. マンの研究を参照しつつ、献詩および

「友人に」という二つの自伝的な抒情詩と物語詩本編の関係性を見ていこう。

2‑2.物語詩本編と自伝的な抒情詩

『修道士』の内容は、若い修道士が臨終にあたって、妻子を死に追いやった敵に復讐を果たし

て修道院に入るまでの己の生涯を物語るというもので、人物の告白を主体とする構成は

G. G.

バ イロンの物語詩『異教徒』(1813)の第二部を下敷きとしている(22)

。1820年代後半から1830年代

に書かれた他の詩人による物語詩には『修道士』の影響が認められており(23)

、この物語詩はロ

シアのロマン主義物語詩の基礎をつくった作品の一つに数えられている。

 ロマン主義物語詩というジャンルは、叙事詩の伝統につらなると同時に抒情詩の要素も保って おり、三人称の人物が現れるだけでなく、しばしば作者の「私」の運命も示される。両者の辿る 運命の関係性に注目するマンは、「作者と中心人物の経験の共通性とパラレリズム」を「ロマン 主義物語詩の構築上の原則」とみなしている(24)

。マンによれば、この「「作者の」ラインと「叙

事詩の」ラインという二つのラインのパラレリズム」によって「ロマン主義的内容の普遍性と包 括性」がつくりだされるという(25)

 ロマン主義物語詩において作者の「私」はどこに現れるのだろうか。マンは作者の運命が示さ れる部分として献詩やエピローグを挙げており、『修道士』においても献詩によってパラレリズ ムがつくりだされていると指摘している(26)

。献詩の中で「私」は「私の魂は彼の魂と親しんだ」

]と修道士との内的な近しさをうたい、次のように続けている。

Как мой Чернец, все страсти молодые    私の修道士のように、若い熱情の全てを В груди моей давно я схоронил;         胸の内に私はとうに葬り去った。

И я, как он, все радости земные      私も、彼と同じく、地上の喜びの全てを Небесною надеждой заменил.       天上の希望ととりかえた。

[5-6]

「私」は「生けるものの間で/感覚なき霊廟の冷たい影」[

]であり、「地上の喜び」から縁遠

く、天上に希望を見いだしている。一方「よるべないみなしご」[12]として育ち、唯一愛した 妻と幼子を喪った修道士もまた、「地上の喜び」とは無縁となる。

(6)

«Я все имел, все потерял. 「私は全てを持っていた、全てを失った。

Нам не дали жить друг для друга.    私たちは互いのために生きることが許されなかった。

В сырой земле моя подруга,         しめった土には私の女友達が眠り、

И не в цветах младенец мой;        花々の中に私の赤子はいない。

Его червь точит гробовой.»         彼を墓場の蛆虫がかじっている。」

[27]

修道士にとってもやはり「天上の希望」だけが残されている。それは天上での妻子との再会であ り(「おそらく、私は彼らと一緒になるだろう、/そうして彼方では彼らは永遠に私のものとな るだろう!……」[23])、修道院に入った後、彼は殺人の罪が許され、その希望が叶えられるこ とを願って死んでいく。

 このように「私」と修道士の運命は共通性を持っているのだが、パラレリズムは「類似のもの と異なるものの相互作用にもとづいていた」(27)のであって、「私」と修道士が同じ運命を辿るわ けではない。修道士には妻子と暮らすというささやかな幸福さえも与えられないが、「私」には 妻と二人の子供のもとでの安らぎは残されている(「私はお前たちの内に生きる。すると夢想は 私には甘やかになる!」[6

])。

 マンの論考で注目したいのは、『修道士』初版では詩「友人に」の発表と序文によって、「作者 の運命のラインがさらに補足され強調されていた」(28)と述べられていることだ。この「補足と強 調」は当時の読者にとって、どのような効果を持っていたのだろうか。前節で示した序文の役割 を踏まえて、献詩と詩「友人に」の関係を整理してみよう。

「友人に」は、「私」が自分の嘗めた苦しみと絶望、そのさなかにもたらされた救いについて

「君」に打ち明けるというきわめて自伝的な詩である。『修道士』の単行本に入れられたことで、

この詩は同じく自伝的な献詩と内容面での関連性を持つことになった。献詩では「私」が盲目で あることが示唆されていたが、「友人に」では失明に至る過程が語られる。献詩において、妻と 二人の子供を愛する「私」は「私には見えない[…]心にとって愛しい顔も」[6

]と嘆いていた。

一方「友人に」の「私」は、徐々に視力を失う中で妻と子供たちの姿を心に焼きつけようとする。

Ах! на жену и на детей       ああ!心は望んでいた

Хотело сердце насмотреться,        妻と子供たちを飽かず眺めることを、

Хотел я, чтоб в душе моей      私は望んでいた、私の魂の内で

Уже вовек не мог стереться         もはや永遠に薄れることなどないようにと Очам незримый образ их.       眼には見えない彼らの姿が。

[50]

(7)

絶望する「私」の支えとなるのが信仰心だ(「信仰は炎の流れとなって/受難者の心をよみがえ らせた」[53-54])。そして献詩の「私」に妻と子供たちという慰めが残されていたように、「友 人に」における「私」も友情、夢想、文学という慰めを得る。

 このように内容面で重なり合う二つの抒情詩は、前節で確認した通り、序文と合わせて理解さ れる。読者は二つの抒情詩が示す「私」の運命に、序文が伝える詩人の人生を、その「不幸」を 読みとるのだが、上述したように「私」の運命は物語詩本編における修道士の運命とパラレリズ ムを形成していた。それにより、読者は「不幸」に見舞われた詩人の人生を意識しつつ、それと 共鳴するものとして修道士の告白を受けとることになる。

 さらに詩人、「私」そして修道士の共通性は、そうした読解を容易にしただろう。序文の書き 手は詩人を「受難者

страдалец」[

]と呼んでいたが、詩「友人に」の「私」も「受難者」[54]

であり、物語詩本編では修道士もまた「受難者」[9,  11,  28]と言い換えられる。『修道士』の出 版直後に書かれた

П. А.

ヴャーゼムスキーによる好意的な書評では、序文が引かれ、詩人の人間 性に関心が向けられているが(29)

、このことは人々が詩人の人生を強く意識して『修道士』を読

んでいたことの一つの証左となっているだろう。

2‑3.詩人に対する読者の態度

 ただし、もちろん出版当初の読者だけが、コズロフの作品と彼の人生を関連づけていたわけで はない。例えば1833年のコズロフの詩集の書評では、詩人は「地上の受難者

страдалец земли」

と呼ばれ、「『修道士』でも、彼の魂から流れ出た他の大きな作品においても彼自身が見える」と 評されている(30)

 1825年の出版当時、『修道士』の読者に求められていたのは、詩人の人生と作品を関連づける だけでなく、詩人に対して心からの関心や同情を抱くことだった。詩人の「不幸」を伝える序文 には、「彼の運命は各々の気高い心にこの上なく優しい同情をかきたてるはずだ」[3

]とある。

この序文を読んだ読者が詩人への関心と同情を抱いたとすれば、二つの自伝的な抒情詩はそうし た感情をさらに強めただろう。そして前節で取り上げた「私」と修道士の運命のパラレリズムに よって、物語詩に対する興味も高まったのではないかと考えられる。

 実際、当時の読者の反応からは、詩人の運命が人々の関心を惹きつけたこと、とりわけ詩「友 人に」が強い印象を与えたことが見てとれる。例えばプーシキンは1825年5月上旬、弟宛の書簡 の中で「詩人が自分の失明を描いている恐ろしい箇所は、苦悩に満ちた詩の永遠の手本として残 るだろう」(31)と述べてこの詩を称賛した。またヴャーゼムスキーは「この心情吐露[「友人に」]

を読めば、この先、人としてもかくもその精神が魅力的な詩人の作品を、より大きな関心をもっ て、非常に生き生きとした同情とともに読み進めるだろう」(32)と書いている。

 出版に際して序文と詩「友人に」が、詩人に対する読者の関心と同情を喚起するために加えら

(8)

れたとすれば、なぜ読者にこうした感情を抱かせることが重要だったのだろうか。この問題を考 えるために、詩「友人に」がこの単行本で発表された意味に目を向けてみたい。

 コズロフの

「友人に」

では、前述したように

「私」の苦悩と絶望、その克服がうたわれる。「友

人に」を紹介する序文の書き手によれば、これは「彼[詩人]が最大限正確に自身の真の運命を 描いた」詩であり、「詩人の作品ではなく、受難者の誠実で感動的な告白」なのだという[4

]。

だがこの「告白」は、詩の名宛人である「

В. А. Ж. 」に向けて行われたものだ。実際、「再び君は

ここに来てくれた!」

[43]

という、長旅から帰還した友を迎える歓喜の叫びで始まるこの詩には、

「君」への親しげな呼びかけが随所に見られる。「友人に」を「告白」と呼ぶ序文の書き手は、こ

の詩の私的な性質を強調しつつ、それを公開していることになる。

 ここで想起しておきたいのが、当時のロシアの貴族社会では私的な領域と公的な領域が曖昧に 接続されており、しばしば詩や書簡が人々の間で回覧されていたことだ。J. ハーバーマスは、18 世紀ヨーロッパにおける書簡の交換に「小家族的に親密な人間関係の中で発見された主体性」の 現れを見いだし、「この主体性は、私的なものの最奥庭として、はじめから公衆への関わりをもっ ていた。文芸的に媒介された親密性の反対物は、暴露であって、公開そのものではない」と述べ ていた(33)

。乗松亨平によれば、こうした「私秘性が暴露されずして公開されうる「小家族的に

親密な人間関係」での公共性」(34)は、ロシアでは19世紀初頭の貴族社会を特徴づけるものであり、

「サロンやサークル、夜会といった場所、そしてそこで回覧される手稿やアルバム、手紙がこの

親密な公共圏を支えたのだ」(35)という。

「友人に」に関して言えば、この「告白」は詩人の「真の運命」が描かれたもの、つまり詩人

への「この上なく優しい同情」を呼び起こすものとして読者に差し出されている。この出版者の ふるまいは、友人たちの間での詩の回覧をなぞっているかのようであり、読者を

「親密な公共圏」

の中にいざなっているとも言えるだろう。そして読者は、あたかも詩人の友のように読むことを 求められるのだ。この詩の結びでは、心情吐露を終えた「私」が「君」への信頼を表明している。

「私」は、「君」が「私」の運命を理解し、共感してくれることを信じて疑わない。

Теперь ты зришь судьбу мою,       今や君は私の運命を目にしている、

Ты знаешь, что со мной сбылося;    君は知っている、私の身に起きたことを。

О! верь, отрадно в грудь твою       おお!信じてくれ、喜ばしく君の胸に Мое все сердце излилося!      私の心の全てが注がれたのだ!

[64]

「私」が「君」の理解と共感を望んでいたとすれば、それと同じ反応は単行本の読者に対して

も期待されている。序文では、この詩は詩人が「自身の真の運命を描いた」、「誠実で感動的な告

(9)

白」であるとされていたが、この詩から詩人の「真の運命」を読み取り、感動するよう促される 読者は、いわば詩人の友(「君」)の位置に置かれている。

 ここで前提とされているような、詩人の運命に感動する読者は、サロンで涙する聴衆に似てく るだろう。サロンの人々はコズロフの境遇を意識しつつ作品を受容しており、彼らにとってコズ ロフの人生への感動と作品への感動は分かちがたく結びついていた。『修道士』単行本において

「受難者」への読者の関心の喚起に重点が置かれていたのは、読者と詩人の関係が、詩人をとり

まく親密な人間関係の延長上に位置づけられていたためではないだろうか。

3 .読者層の拡大と文学受容の変化

 読者はあたかも詩人の友のように読むことが期待されていたが、実際、コズロフと面識がない にもかかわらず、読者が彼に親愛の情を示した例もあった。例えば

М. Н.

ザゴスキンは1825年4 月末、モスクワからコズロフに宛てて、熱烈な調子で『修道士』を賞賛する書簡を送っているが、

その中で彼は

「もしあなたがここにいらしたら […]ただあなたを抱きしめに駆け寄るでしょう」

と伝え、さらには相手に向かい、

「自分の友と呼べればと望んでいるのです」

と呼びかけている(36)

ただしザゴスキンとコズロフは共通の知人を持っており、間接的な知り合いではある(37)

。この

ようにコズロフと近い関係にあることが、彼に対して親しい感情を抱くことを容易にしていたの だろう。

 しかし1830年代前半にはすでに、詩人への読者の関心と同情を当然の前提とすることはできな くなる。このことを端的に示しているのが、1833年に雑誌『モスクワ・テレグラフ』(第10号)

に掲載されたコズロフの詩集の書評である。署名はないが、グリクマンによれば執筆者はこの雑 誌の発行人

Н. А. ポレヴォイだという

(38)

。ここで評されているのはむろん『修道士』だけではな

いが、注目したいのは、『修道士』単行本で見られたような詩人の「不幸」の強調に対して批判 が向けられていることだ。この書評によれば「同情という感情」のために、コズロフを評価する 人々の関心に偏りが生じているという。

感情(それも気高い)[чувство 

(впрочем благородное)]、視力と足を失った人の痛ましい運

命への同情0 0という感情[чувство участия]は、彼を最も熱心に評価する人々のうち多くの 者に、詩人自身のことを忘れさせ、あまりにも多大な関心を彼の運命へと向けさせてきた。

[強調は原文]

(39)

 この皮肉めいた言葉は明らかに、「彼の運命は各々の気高い心[благородное сердце]にこの上 なく優しい同情[

нежнейшее участие ]をかきたてるはずだ」という『修道士』の序文を念頭に

置いたものだろう。こうした文言について、批評子は「私は詩人についてのこの種の見解を苛立

(10)

たずに読むことはできなかった」(40)と書き、次のように続ける。

彼は己の作品自体の中で真の才能を示しており、痛ましい体の状態によってではなく、詩的 な知と感情によって美を愛好する全ての人の関心を惹きつけているのだ。あなた方が詩人コ ズロフのことを話している時、受難者コズロフはあなた方に何の関係があるというのか?(41)

 ここでは「詩人」と「受難者」が明確に区別された上で、前者のみを問題にすべきと主張され ている。この主張は、詩人の「真の才能」や「詩的な知と感情」が作品に見出される以上、「痛 ましい体の状態」ではなく作品に目を向けるようにという要請と捉えることができる。

 しかし、詩人の「運命」に読者の注意を向けさせる『修道士』の序文の書き手が、作品を軽視 しているとも言い難い。むしろこの単行本から見えてきたのは、「詩人」と「受難者」の区別が 意味をなさない、そのような読み方が想定されていたことだった。前述したように、読者と詩人 の関係は詩人をとりまく親密な人間関係の延長上に位置づけられており、サロンに集うコズロフ の知人と同じように、読者が詩人の人生に関心を寄せることが前提となっていたのだ。

「受難者」ではなく「詩人」を見るべきという批判はおそらく、ロシアで1820年代半ば頃に始

まり、1830年代に進んでいった社会的変化と無関係ではないだろう。読者層の拡大が目立ち始め るこの頃、広い読者層を対象とした定期刊行物が次々に創刊され、その購読者数は急激な増加を 記録した。1820年代まで定期刊行物の発行部数が一般に600から1200部だったのに対し、例えば 1825年に創刊された雑誌『モスクワ・テレグラフ』の発行部数は1820年代末には3000部に伸び、

1834年に創刊された雑誌『読書文庫』の発行部数は当初の5000部からすぐに6000部にまで達した という(42)

。この数値の増大からは、文学が少数のエリートの専有物ではなくなっていく様が見

てとれる。レイトブラトはこの時期の定期刊行物が果たした役割について、「定期刊行物は読者 の関心を惹きつけ、共通の文学領域をつくりだし、文学をサロンやサークルから引き出して万人0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の観覧に供し、文学を同時代の文化的社会的生活の事実としている0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

」[強調は引用者]

(43)と述べ ている。

 こうした定期刊行物に作品を発表する作家は、サロンやサークルとは異なって、顔の見えない 多数の読者を相手にしなければならない。これは読者との関係の根本的な変化を意味している。

デブレチェニーは職業的出版制度における作家と読者について、「その関係はもはや直接的なも のではなく、ほとんどもっぱら印刷された頁という媒介に依存していた」(44)と指摘している。

 作家と読者の直接的な関係が失われることにより、文学受容のありかたはどのように変化した のだろうか。その一例として、プーシキンとレールモントフの抒情的主体を比較している乗松の 論を参照してみたい。プーシキンと入れ代わるように詩壇に登場し、1830年代後半から商業的な 雑誌上に作品を発表していたレールモントフは、乗松によれば、「文学テクストと人生を同じ理

(11)

念的水準にある「芸術作品」として扱い、統一的な主体の形象を創造する」(45)

。一方、プーシキ

ンのテクストにおける主体の形象は「断片的」だという。

プーシキンのテクストにはそうした統一的形象が不在であるが、作者の人生に関係づけられ ることで多様な形象の統一性が理解される。つまり作者の「人生」の所在が異なるのであり、

単純化すれば、前者[レールモントフ]のそれはテクストの内でつくりだされるのに対し、

後者[プーシキン]のそれはテクストの外にある参照点だったといえるだろう。テクストの 外にある作者の実人生を読者が直接知っている環境が、そのような参照関係を支えたの だ。(46)

 レールモントフとプーシキンのテクストにおける主体の形象が前者では統一的、後者では断片 的とされているが、ここで注目したいのは、その相違が文学環境の変化と関連づけられている点 である。レールモントフは自身の読者の中には雑誌の読者、すなわち「テクストの外にある作者 の実人生」など知りえない読者が多くいることを考慮せねばならなかった。それに対しサロン文 化の最盛期を生きたプーシキンは、多様な形象を実人生と関連づけてくれる読者の存在を前提と することができた。

 コズロフに関して言えば、その抒情的主体のありようはプーシキンのそれとは異なるものの(47)

身近な読者が実人生と関連づけながら作品を読むことを予期していたという点で、コズロフはま さしくサロン文化の詩人と言えるだろう。2‑1

で見たようにコズロフが読者として想定してい たのは、「テクストの奥にある現実」を理解してくれる友人たちだった。『修道士』単行本出版に 際しては、詩人を紹介する序文が付けられ、詩人の実人生を知らない読者が考慮されているが、

上述したように、この場合も親密な人間関係が読者と詩人の関係の根本に置かれていた。

 また、コズロフに近しい人々が『修道士』の出版、普及に関わっていたことも想起しておきた い。前述したように、おそらくコズロフの友人ジュコフスキーが序文の執筆者であり、さらにジュ コフスキーの友人たち、ヴャーゼムスキーと

А. И.

トゥルゲーネフは『修道士』の普及に尽力し ていた(48)

。『修道士』単行本は、詩人をとりまく人間関係に支えられて出版され、広まっていっ

た書物なのだ。

 一方、広い読者層をもつ雑誌の場合、作家と読者の関係は「印刷された頁」を介したもので、

サロン的な人間関係にもとづいてはいない。

「受難者」

への同情の喚起に対する反発が現れたのが、

『モスクワ・テレグラフ』という雑誌上だったことは示唆的である。詩人と親密な人間関係にあ

るかのように読むことが

『修道士』

単行本で前提となっていたとすれば、

『モスクワ・

テレグラフ』

誌の批判は、1833年にはもはやこうした前提が通用しないことを示しているのではないだろうか。

(12)

おわりに

 雑誌の頁を通してのみ詩人を知る多数の読者が、詩人個人に対して「この上なく優しい同情」

を抱くことは難しい。だが1840年になっても、コズロフの運命に対する人々の感動が期待されて いた。コズロフの死後、彼の詩集の出版を告知する文章の中で、ジュコフスキーは詩人の生涯を 紹介し、彼の作品をその「謙虚な魂」の表れとみなしている。

多くの作品の魅力は、それらが最大限の正確さで真実を0 0 0

、深く苦しみ、深く信仰する謙虚な

魂の状態を表している、という点にある。己の苦悩の秘密を明かしつつ、同時に我々を感動 させ、自身の詩的な魂の深みで汲み取ったかの高遠な慰めを我々と分かつ詩人への優しい同 情なしには、誰一人としてこれらの作品を読むことはできなかった。[強調は原文](49)

 このジュコフスキーの文章に応え、彼に

「ひそかな論争」

(50)を仕掛けたのが

В. Г. ベリンスキー

だ。上述の詩集に対する翌1841年の書評の中で、ベリンスキーは「彼[コズロフ]の才能は彼の 魂の表れだった」ために「彼を芸術家の一人とみなすことはできない」と述べ(51)

、さらに次の

ように続けている。

恐ろしい不幸が彼に自分自身のことを知らしめ、己の魂の秘められた聖堂をのぞき込ませ、

そこで詩的霊感という自然の泉を見出させた。不幸が彼に内容も、形式も、歌の色合いも与0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 えた、そのために彼の作品は全て単調で、全て同じ調子なのだ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

。[強調は引用者]

(52)

「恐ろしい不幸が[…]詩的霊感という自然の泉を見出させた」という表現は、『修道士』の序

文の

「不幸は彼に詩を与えた」

という言葉を思い起こさせるが、ベリンスキーの書評では、

「不幸」

によって詩人となったことはコズロフの作品の単調さの根拠となっている。

 しかし「不幸」と創作のこうした関連づけは、詩人の人生に関心と同情を寄せる読者にとって は、作品を読む際の感動をより強めるものであっただろう。そして1820年代半ばにはまだ、この ような読者の存在を前提とすることができたのだった。1833年の『モスクワ・テレグラフ』誌の 書評、さらに1841年のベリンスキーの批評は、詩人の人生への関心と作品への感動が一体となっ ていた文学受容のあり方が過去のものとなっていく過程をはっきりと示しているように思われる。

(1) Данилов Н.М. Иван Иванович Козлов. Пг., 1914. С. 2-3.

(2) Гликман И.Д. И.И. Козлов // Козлов И.И. Полное собрание стихотворений. Л., 1960. С. 7.

(13)

(3) Аронсон М.И. Кружки и салоны // Аронсон М.И., Рейсер С.А. Литературные кружки и салоны. СПб., 2000. С.

40-41.

(4) Аронсон. Кружки и салоны. С. 50.

(5) William M. Todd III, Fiction and society in the age of Pushkin: ideology, institutions, and narrative (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1986), 55-56.

(6) Рейтблат А.И. Как Пушкин вышел в гении: Историко-социологические очерки о книжной культуре Пушкинской эпохи. М., 2001. С. 18-19.

(7) Гессен С.Я. Книгоиздатель Александр Пушкин: литературные доходы Пушкина. Л., 1930. С. 40. なお『修道士』

の部数は確認できなかったが、ゲッセンによれば通常、1200部以上の場合記載されるとのことであり、それ 以下と推測できる。

(8) コズロフは刷り上がった『修道士』を月14日にジュコフスキーから受け取っており、この頃に出版され たことがわかる。Дневник И.И. Козлова (Публ. К.Я. Грота) // Старина и новизна. Кн. 11. СПб., 1906. С. 46.

(9) Дневник И.И. Козлова. С. 46.

(10) 引用は次の資料による。Тимофеев Л.В. В кругу друзей и муз: Дом А.Н. Оленина. Л., 1983. С. 158. 出席者の一 致から、コズロフの日記に記された月19日の朗読とは、二回目の訪問の際の出来事と推定できる。最初の 訪問は、チモフェーエフによれば1825年月28日である。

(11) Остафьевский архив князей Вяземских. Т. 3. Переписка князя П.А. Вяземского с А.И. Тургеневым. 1824-1836.

СПб., 1899. С. 116.  ちなみに、後に文部大臣となるウヴァーロフはジュコフスキーら詩人たちとも近しく、文 学サークル「アルザマス」(1815-1818)にも加わっていた。

(12) Paul Debreczeny, Social functions of literature: Alexander Pushkin and Russian culture (Stanford, Calif.: Stanford University Press, 1997), 6.

(13) 注釈では序文の全文が引用されるものの、こうした序文が付けられた意味は説明されていない。Козлов И.И.

Полное собрание стихотворений. Л., 1960. С. 479-480.

(14) Козлов. Полное собрание стихотворений. С. 479.

(15)『修道士』初版本の引用はКозлов И.И. Чернец, киевская повесть. Сочинение Ивана Козлова. СПб., 1825.により、

[ ]内に頁数を記す。訳は引用者による。コズロフ全集(Козлов. Полное собрание стихотворений. С. 313- 329.)も参照し、原文の引用に際しては新正書法での表記に改めた。

(16) 失明により「現実の世界」が消えるかわりに「魂の世界」が見えてくるという逆説は、おそらく盲目に積 極的な意義を与える18世紀以来の文化的コンテクストの中に位置づけられる。例えば18世紀後半の西欧にお いてJ. ミルトンの光への賛歌は、「しばしば、身体的な盲目が「神の光」を知覚する高次の視覚の獲得に寄与 する、という逆説として解釈された」という。(鳥山祐介「18世紀末ロシア文学における光学・視覚的要素:

ミハイル・ムラヴィヨフの詩『視覚』(1776、1785?)とその周辺」『ロシア語ロシア文学研究』第37号、2005年、

11頁。)

(17) «Сын отечества». 1821. № 44. С. 177.

(18) Гинзбург Л.Я. О лирике. Л., 1974. С. 163.

(19) Гинзбург. О лирике. С. 163. 引用の際はコズロフ全集(Козлов. Полное собрание стихотворений. С. 55.)を参 照した。

(20) Гинзбург. О лирике. С. 163.

(21) Из писем Константина Яковлевича Булгакова к брату его Александру Яковлевичу. 1825-й год // Русский архив.

1903. Кн. 2. С. 174.

(22) Жирмунский В.М. Байрон и Пушкин: Пушкин и западные литературы. Л., 1978. С. 269. なお、コズロフは『異 教徒』の一節を『修道士』のエピグラフとしている。

(23) Б. В. トマシェフスキーは『修道士』を1820年代前半のプーシキンの南方詩と1830年代のМ. Ю. レールモン

(14)

トフの物語詩をつなぐ作品とみなしている。Томашевский Б.В. Пушкин. Кн. 2. Материалы к монографии (1824- 1837). М. Л., 1961. С. 368. また、А. И. ポドリンスキーといった他の詩人の物語詩に与えた影響についてはジル ムンスキーの論考に詳しい。Жирмунский. Байрон и Пушкин. С. 270-284.

(24) Манн Ю.В. Русская литература XIX века: Эпоха романтизма. М., 2007. С. 185.

(25) Манн. Русская литература. С. 185.

(26) Манн. Русская литература. С. 184.

(27) Манн. Русская литература. С. 186.

(28) Манн. Русская литература. С. 184.

(29) «Московский телеграф». 1825. Ч. 2. № 8. С. 313.

(30) «Московский телеграф». 1833. Ч. 51. №10. С. 320.

(31) Пушкин А.С. Полное собрание сочинений: В 17 т. Т. 13. М., 1996. С. 174.

(32) «Московский телеграф». 1825. Ч. 2. №8. С. 320.

(33) ユルゲン・ハーバーマス(細谷貞雄訳)『公共性の構造転換』未来社、1973年、70頁。

(34) 乗松亨平『リアリズムの条件──ロシア近代文学の成立と植民地表象』水声社、2009年、140頁。

(35) 乗松『リアリズムの条件』、141頁。

(36) Из бумаг поэта И.И. Козлова (Публ. А. С. Хомутова) // Русский архив. 1886. Кн. 1. С. 191.

(37) ザゴスキンはモスクワのЗ. А. ヴォルコンスカヤのサロンに参加しており、彼女はコズロフと親交があった。

Муравьев В.Б. Среди рассеянной Москвы // Муравьев В.Б. (сост.) В царстве муз: Московский литературный салон Зинаиды Волконской. 1824-1829 гг. М., 1987. С. 19.; Сайкина Н.В. Московский литературный салон княгини Зинаиды Волконской. М., 2005. С. 56-62.

(38) Гликман. И.И. Козлов. С. 6.

(39) «Московский телеграф». 1833. Ч. 51. №10. С. 317.

(40) «Московский телеграф». 1833. Ч. 51. №10. С. 318.

(41) «Московский телеграф». 1833. Ч. 51. №10. С. 318.

(42) Debreczeny, Social functions of literature, 104.

(43) Рейтблат. Как Пушкин вышел в гении. С. 8.

(44) Debreczeny, Social functions of literature, 97.

(45) 乗松『リアリズムの条件』、142頁。

(46) 乗松『リアリズムの条件』、142頁。

(47) コズロフの抒情詩の特徴についてはすでに1.で述べたのでここでは繰り返さない。詳しくは1. 挙げたギンズブルグの研究を参照されたい。

(48) モスクワで『修道士』の販売を担っていたヴャーゼムスキーは、1825年の月末から月初めにかけて、

ペテルブルグにいるトゥルゲーネフに宛てて、この本をさらに送ってくれるよう何度も頼んでいる。

Остафьевский архив князей Вяземских. Т. 3. С. 114, 119, 120.

(49) Жуковский В.А. Полное собрание сочинений и писем: В 20 т. Т. 12. М., 2012. С. 370.

(50) Белинский В.Г. Полное собрание сочинений: В 13 т. Т. 5. М., 1954. С. 788.

(51) Белинский. Полное собрание сочинений. С. 72.

(52) Белинский. Полное собрание сочинений. С. 73.

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