大学院研究年報 第50号 2021年 2 月
『スプートニクの恋人』論 ― 〈コミットメント〉と「比喩的な意味」での暴力 ―
山 本 智 美
*要 旨
村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』を契機に、〈デタッチメント〉から〈コミットメント〉へ転換したと自認している。先行研究では、その認識に沿う形で作品研究が行われ、『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品には〈コミットメント〉が表れるものとして論じられてきた。
しかし、『ねじまき鳥クロニクル』から現在までの最新の長編『騎士団長殺し』までは約二十二年が経過している。その二十二年間に書かれた作品を〈コミットメント〉という言葉でまとめてしまうのは乱暴である。
『ね
じまき鳥クロニクル』以降の各作品に表れる〈コミットメント〉を分析し、その変遷を論じる必要があると思われる。本論では、『スプートニクの恋人』における〈コミットメント〉と暴力の関係性を分析することで、主人公・ぼくと、すみれの結びつきを論じる。二人は各々、「比喩的な意味」での暴力を行使することで囚われていた孤独な過去から訣別することができる。彼らは独立した個人へと転換し、〈コミットメント〉を試みることができるというのが本論の趣旨である。
『ねじまき鳥クロニクル』の直接的な暴力とは異なる、
「比喩的な意味」での暴力が表れ、その暴力が『スプートニクの恋人』以降の作品にも引き継がれていると考える。 目 次
序 論一
「比喩的な意味」での暴力
二 すみれの行使した「比喩的な意味」での暴力三 ぼくの行使した「比喩的な意味」での暴力四 すみれの愛の告白の必然性
結 論
序 論
『ス
プートニクの恋人』は一九九九年四月に講談社より書下ろしで刊行された村上春樹の中編小説である。一九九五年八月に新潮社より刊行された『ねじまき鳥クロニクル 第三部 鳥刺し男編』から、約四年ぶりの中編小説である。村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』を自身の転換点と自認し、以下のように発言している。
『ね
じまき鳥クロニクル』はぼくにとってはほんとうに転換点だったのです。物語をやりだしてからは、物語が物語であるだけでうれしかったんですよね。ぼくはたぶんそれで第二ステップまで行ったと思うのです。
1004
『ね
じまき鳥クロニクル』はぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということが関わってくるんでしょうね (1
(。
この発言から、村上春樹の作風が『ねじまき鳥クロニクル』を契機に、〈デタッチメント〉から〈コミットメント〉へ移行したことがわかる。
さらに、「コミットメントとは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど」、「『井戸』を掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように」「非常に惹かれ」る。「しかし、それがこの現実世界、実際的な生活の面で、ぼくに何をもたらすかというのは、ぼくにもまだよくわからない」 (2
(とも発言している。
以上のことから、村上春樹自身が、〈コミットメント〉を自身の作品を語る上で重要な概念と認めながらも、それが実生活でどのような形を取るのかを理解し切れていないことがわかる。
先行研究では、黒古一夫のように、〈コミットメント〉を「(政治(参加」 ((
(として捉える論がある。黒古は「村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者と加害者(オウム真理教の信者たち(にインタビューした結果をまとめた『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』の刊行は」「『コミットメント』の一つの形であった」 (4
(と論じている。
また、加藤典洋は〈コミットメント〉の観点から『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 (5
(を論じている。「君のことが好きだし、君をほしいと思っている」という、つくるから沙羅への告白を「一つの『小さな』コミットメント」とし、「このコミットメントが、つくるのかつて失った共同体の新たな『再生』につながることでも あることを、暗示して」 ((
(いると論じる。
加藤は〈コミットメント〉を個人と個人の結びつきであるとし、その個人間における〈コミットメント〉によって、失われた結びつきが回復されると論じている。
このように、〈コミットメント〉は一方では、社会と個人の結びつきを論じる際に用いられ、他方では、個人と個人の結びつきを論じる際に用いられている。〈コミットメント〉は定義が曖昧であり、それ故に、恣意性の高いものになっていると言えよう。〈コミットメント〉の概念を明確にする必要があると考える。
また、『ねじまき鳥クロニクル 第三部 鳥刺し男編』から二〇一七年二月に新潮社より刊行された『騎士団長殺し』までは約二二年もの隔たりがある。その二二年間に書かれた作品を〈コミットメント〉という言葉だけで論じることは不可能だろう。
『ね
じまき鳥クロニクル 第三部』で想定されていた〈コミットメント〉と、『騎士団長殺し』で想定された〈コミットメント〉に相違点があっても不思議ではない。
本論では、『スプートニクの恋人』における〈コミットメント〉がいかなるものか、それはどのようにして果たされるのかを分析する。本作品における〈コミットメント〉とは、ぼくとすみれが各々囚われていた孤独な過去と訣別し、独立した個人として求め合うことだと考える。孤独な過去から脱するには、象徴的な母殺しという「比喩的な意味」での暴力が必要である。
一章では、ぼくとすみれが行使した「比喩的な意味」での暴力が〈コミットメント〉に到るための通過儀礼として機能することを論じる。
二章以降は、具体的にぼくとすみれが「比喩的な意味」での暴力という通過儀礼を通して、過去と訣別することを論じる。
1005 山本:『スプートニクの恋人』論
一 「比喩的な意味」での暴力
『スプートニクの恋人』には、
「犬」又は「何か」の「喉を切」るという表現が重要な場面で用いられている。この表現をぼくは、「比喩的な意味でだよ」。「ほんとに犬を殺すわけじゃない」と言う。この発言を基に、本論では、「犬」又は「何か」の「喉を切」るという表現を「比喩的な意味」での暴力という語で捉え、キーワードとして論じる。この語の概念を論じる前に、先に『ねじまき鳥クロニクル』に表れる暴力とはいかなるものかを考察する。『ねじまき鳥クロニクル』に表れる暴力性を明らかにすることで、「比喩的な意味」での暴力の重要性が理解できると思われる。
『ね
じまき鳥クロニクル』では、終始、身体への直接的な暴力が表れている。例えば、「皮剥ぎボリス」に使役された「蒙古人」による残酷な処刑。パントマイム芸人を野球のバットで殴打する僕。日本兵による動物殺し。そして、妻・クミコの精神世界を象徴するホテルの一室で行われた、僕と綿谷ノボルの死闘などが挙げられる。
特に注目すべきは、主人公・僕自身が、身体への直接的な暴力を行使する主体であることだ。このことに関して、村上春樹は以下のように語っている。
『ね
じまき鳥クロニクル』の中においては、クミコという存在を取り戻すことがひとつのモチーフになっているのですね。彼女は闇の世界の中に引きずり込まれているのです。彼女を闇の世界から取り戻すためには暴力を揮わざるをえない。そうしないことには、闇の世界から取り戻すということについての、カタルシス、説得力がないからです。だから、僕はあの部分を書くときまで、べつにそういう暴力を出そうと思っていたわけではないけれども、どうしても闇の世界から光の世界へ引き戻す ためには、それだけのインパクトが必要だったんです ((
(。
ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。あれはたしかにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです ((
(。
この引用から、村上春樹が物事を変革するために、痛みや暴力が伴うことは妥当だと見なしていることがわかる。
しかし、『スプートニクの恋人』には『ねじまき鳥クロニクル』に表れたような、直接的な暴力は描かれていない。村上春樹は、『ねじまき鳥クロニクル』が「ネジを緩ませて、そこから何が出てくるかを見る」小説であったのに対し、『スプートニクの恋人』は、「徹底的にネジを締める小説」だと語っている。さらに、「ネジを締めれるだけ締めると、またバッと広がって別のシステムに行く」 ((
(が、『スプートニクの恋人』では、「あんまりネジを締め過ぎて」「だんだん疲れてくるところもある」、「実際、だんだん緩んでくるんですよ、特にギリシャに行ったあたりから」 (10
(とも発言している。
これらの引用を踏まえると、『スプートニクの恋人』は『ねじまき鳥クロニクル』の集大成であると同時に、逸脱する要素が含まれているということだ。それは、直接的な暴力ではなく、「比喩的な意味」での暴力の表れだと思われる。すなわち、『ねじまき鳥クロニクル』では、直接的な暴力の行使によって、物事の変革を試みたのに対して、『スプートニクの恋人』では「比喩的な意味」での暴力によって、物事の変革を試みているということだ。
『スプートニクの恋人』に表れる「比喩的な意味」での暴力とは、
100(考える。 新たな自己として再生するための通過儀礼として機能するものだと 「比喩的
な意味」での暴力を行使する主体は、すみれとぼくであろう。二人は各々「比喩的な意味」での暴力を行使することで、囚われていた過去と訣別し、新たな自己として再生することができるのだ。このことを論じるために、まず、『スプートニクの恋人』に表れる「比喩的な意味」での暴力がいかなるものかを理解しなくてはならない。
本作品には、「犬」又は「何か」の「喉を切」るという表現がある。それは物語の重要な箇所に位置している。まず、物語が生起する「
ための、呪術的な洗礼が必要とされる」と助言する。 れに似ている」、「本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつける い魂は呪術的な力を身につけることになる」。「小説を書くのも、そ かけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古 れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門に ね、それだけじゃ足りないんだ」。「彼らは生きている犬を何匹か連 士たちが自分たちの町をまもってくれるように望んだからだ。でも んだとても大きな門を作った。慰霊をすることによって、死んだ戦 れるだけ集めてきた」。「そして町の入り口に、それらの骨を塗り込 信じられていた」。「人々は荷車を引いて古戦場に行き」「白骨を集め て考えられていた」、「そこには街の魂のようなものが宿っていると つかの大きな立派な門があった」。「門は重要な意味を持つものとし 中国の都市には、高い城壁がはりめぐらされていて、城壁にはいく まで物語を書き通すことができないすみれに対して、ぼくは「昔の 1」章に以下のように表れる。小説家志望でありながら、最後
それに対して彼女は「できたら動物は殺したくないな」と述べる。ぼくは「もちろん比喩的な意味でだよ」、「ほんとに犬を殺すわけじゃない」と言い、行使する暴力があくまで「比喩的な」意味のもので あることを強調している。 この挿話は小説を書き通すことができない自己から脱するために「比喩的な意味」での暴力を行使する必要があると示唆している。 次は、すみれの失踪という、物語の重要な局面である「
的な肯定に変わっている。 イフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない」という積極 極的な肯定から一転し、「血は流されなくてはならない。わたしはナ ている。それは、以前の「できたら動物は殺したくない」という消 を読む。その中に「犬の喉をどこかで切」るという比喩が用いられ 表れる。ぼくはすみれの失踪の手がかりを求め、彼女が残した文書 11」章に
この一文が挿入される前の文章には「もしミュウがわたしを受け入れなかったらどうする?」「そうしたらわたしは事実をあらためて呑み込むしかないだろう」とある。生まれて初めて恋をしたすみれが、意中の相手であるミュウから拒まれるという現実を受け入れることは容易なことではないだろう。その事実を受け入れるためには、彼女自身が、ミュウを求める自己と訣別しなくてはならない。訣別を果たすために「犬の喉をどこかで切らなくてはならない」、すなわち「比喩的な意味」での暴力を行使しなくてはならないということである。
最後は、最終章「
象徴的に」と言っている。 「何かの喉を切ったんだと思う」。「中国の門をつくるときのように、 求める発言をしている。その発言のすぐ後に「わたしはどこかで」 会いたかった」、「わたしにはあなたが本当に必要」と、ぼくを愛し、 ける場面に表れる。彼女が自身の帰還を告げる際、「あなたにとても 16」で失踪していたすみれが、ぼくに電話をか
この発言から、作中で一貫してミュウを求めていたすみれが転換して、ぼくを求めていることがわかる。その転換には「比喩的な意味」での暴力が伴ったと言えよう。
100( 山本:『スプートニクの恋人』論
以上の三つの挿話には共通点がある。それは自己を刷新するために「比喩的な意味」での暴力が用いられたということである。三つの挿話に表れるすみれは、それぞれ訣別しなくてはならないものを有していた。それは、小説を書き通すことができない自己と、ミュウを求める自己である。「比喩的な意味」での暴力は、訣別しなくてはならない自己から脱するための通過儀礼として機能していると考えられる。
二章から詳しく論じるが、「比喩的な意味」での暴力を行使する相手は、象徴的な母である。象徴的な母は、ぼくとすみれの孤独な幼少期を思い起こさせる存在である。象徴的な母殺し、すなわち「比喩的な意味」での暴力は、孤独な幼少期との訣別を意味する。
「比喩的
な意味」での暴力を行使し、囚われていた過去と訣別することは、独立した個人として生きることを示す。失踪していたすみれが「比喩的な意味」での暴力を行使したことで、独立した個人として再生し、ぼくを愛し、求めることができる。換言すると、ぼくと〈コミットメント〉を試みることが可能となるのだ。このことから、『スプートニクの恋人』に表れる暴力と〈コミットメント〉が不可分なものであると言えよう。
以上のことをまとめると、『スプートニクの恋人』は、『ねじまき鳥クロニクル』に表れた直接的な暴力とは異なる、「比喩的な意味」での暴力が表れていると言える。
それは、「比喩的な意味」での暴力を行使する主体が、独立した個人として再生するための通過儀礼として機能するものであると考える。
二 すみれの行使した「比喩的な意味」での暴力
二章では、すみれが「比喩的な意味」での暴力を行使することによって、どのような自己と訣別したのか、どのような転換を果たし たのかを論じる。 彼女は失踪する前に以下の文を残している。「もしミュウがわたしを受け入れなかったらどうする?」「そうしたらわたしは事実をあらためて呑み込むしかないだろう」。「いいですか、人が撃たれたら、血は流れるものなんです」。「血は流されなくてはならない。わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない」。
この文は、ミュウを慕う気持ちと訣別するためには「犬の喉をどこかで切」らなくてはならないということだ。犬の喉を切るとは、一章で論じたように「比喩的な意味」での暴力を意味している。この一文を言い換えると、ミュウを慕う気持ちと訣別するためには「比喩的な意味」での暴力を行使し、すみれ自身が転換しなくてはならないということである。
すみれのミュウへの思慕とはどのような意味を有するのかを分析することで、彼女の転換を理解することができよう。すみれは母の不在という孤独な過去に囚われ、彼女はミュウを「本当のお母さん」と見立てていたと考える。
すみれの母は、「
「まだ 31歳の若さで亡くなっ」ている。それはすみれが
もすぐに忘れてしまうような顔だち」と語られている。 出は「かすかな肌の匂いだけ」で、写真に写る母親は、「一度覚えて 3歳にもなっていなかった」時期だ。すみれの有する母の思い
すみれの父親は、自身の妻について、「とても物覚えがよくて、字のうまいひとだった」と語るのみである。このことに関してぼくは「彼はそのとき幼い娘の心に深く残るなにかを語るべきだったのだ。彼女がそれを熱源にして、自らを温めていくことができる滋養あふれた言葉を」。「彼女のおそらくは根拠不確かな人生を、曲がりなりにも支えてくれる、軸となり柱ともなる言葉を」と意見を述べている。これらの挿話とぼくの意見は、すみれには「自らを温めていくことができる」家族、特に母との思い出や親密感が欠けていること
100( さらに、失踪前に彼女が残した〈文書 を暴露している。
ている。 いう題の付いた、彼女が「今までに何度か見てきた」悪夢が語られ 1〉には、「すみれの夢」と
それは「本当のお母さん」が失われる夢である。夢の中の母親は現実世界での実母ではなく、若く美しい女性である。すみれは「やはり」「家族アルバムの写真に写っている」「あの人はわたしの本当のお母さんじゃなかったんだ」、「父親にあざむかれていた」と思う。「やはり」とあることから、すみれは自身の生い立ちを受け入れられず、「本当のお母さん」を求めていたことがわかる。
しかし、その想いは抑圧され、意識には浮上してこない。実際、作中で彼女が自覚的に「本当のお母さん」を求めるような発言はなされていない。すみれの抑圧された願望は、夢という形をとって表れる。彼女は気づかぬうちに「本当のお母さん」を希求していたのだ。
この夢を見た後、彼女は「枕を激しく噛み、ひとしきり泣いた」とあることから、すみれが強く「本当のお母さん」を求めていることがわかる。換言すると、すみれは孤独な幼少期に強く囚われているということだ。しかし、すみれの「本当のお母さん」とは彼女の幼少期に亡くなった実母その人である。すみれはこの事実を受け入れられず、自身の孤独を癒してくれる理想的な存在を求める、文字通り子どもであるのだ。
悪夢を見た後のすみれは「床に腰を下ろし、頭を脚のあいだに入れて丸まって」、「ピンク色のハンドタオル」を「強い力で噛みしめてい」る。体を小さく丸めて、おしゃぶりをする彼女の姿を、松本常彦が「幼児退行による逃避症状」 (11
(と論じていることからも、すみれの幼児性が理解できる。
以上のことから、すみれは孤独な幼少期に囚われ、「本当のお母さ ん」を求める子どもであると言える。 孤独な幼少期に囚われるすみれは、ミュウを「本当のお母さん」と見立て、思慕する。 すみれが自身の名前の由来についてミュウに愚痴をこぼす挿話がある。彼女の母親は、「『すみれ』というモーツァルトの歌曲が大好きで、自分に娘ができたらその名前をつけようと前々から決めていた」。すみれは、「そのたおやかな曲想からして、きっと野原に咲くすみれの花の美しさを歌ったものにちがいあるまい」と思っていたが、実際の歌の内容は「野原に咲く一輪の清楚なすみれの花が、どこかの無神経な羊飼いの娘にあえなく踏みつけられてしまうというもの」である。「どうしてお母さんは、そんなひどい歌の題をわたしの名前にしなくてはならなかったのかしら?」と疑問に思うすみれに対し、ミュウは「わたしなら、音楽が美しいことでたぶん満足すると思う」。「あなたのお母さんは歌詞の内容なんか気にならないくらい、その歌曲が好きだったのよ」と言う。 これは象徴的な行為である。ミュウは命名した母親になり代わって、すみれに名前の由来を語る。ミュウの説明がなければ、すみれは自身の名を「羊飼いの娘にあえなく踏みつけられた」花という、歪められたものとして感じ続けていたであろう。ミュウは彼女に、すみれという名の意味を付与し直したのだ。すなわち、すみれが生まれた際に母親が行ったことを、ミュウが再現したということだ。このことから、すみれにとってミュウは第二の母のような存在になり得ると考える。 ミュウと親しくなったことで、すみれは彼女を模倣するかのように振る舞う。それは容姿の変化となって表れている。ミュウと出会うまでの彼女の容姿は以下の通りだ。「髪をわざとくしゃくしゃにして」、「だいたいいつも古着屋で買ってきたようなぶかぶかのツイードのジャケットを着て、ごついワークブーツを履いていた」。「口紅
100( 山本:『スプートニクの恋人』論
や眉ペンシルなんて生まれてから一度も手にしたことはなかったと思う」。
それが、ミュウと出会い、彼女の会社に勤めるようになると「髪はクールなショートカットにまとめられ」「スーツやワンピースを着て、ヒールのある靴をはいて、いくらかはお化粧まで」するようになる。すみれの着る衣服は、ミュウが友人からわざわざ貰ってきたものであり、靴と化粧品はミュウ自身のものである。ミュウについては、「いつも見事に洗練された身なりをしていて、小さくて高価な装身具をさりげなく身につけ」ていると語られている。
彼女はミュウを母親に見たて、実母の死によってなされなかった母子との関係性を二十二歳にして構築しようとしているように思われる。その行為は彼女の内部でミュウと母が結びついていることを意味する。
さらに、〈文書
ることとミュウを語ることが地続きになっていることがわかる。 持ちが語られているのだ。このことから、彼女にとって、母親を語 「本当のお母さん」を求める夢を綴ったすぐ後に、ミュウを求める気 に、わたしが何を求めているかをはっきりと示そうと思う」と続く。 たあとで、わたしはひとつの重大な決心をした」、「わたしはミュウ 1〉で「すみれの夢」が語られた後、「この夢を見
加藤典洋は、すみれが失踪する前にミュウに囁いた言葉を「お母さん」であるという仮説を立てている。その仮説は「ミュウというのは、ギリシャ語で
Mのことです。
ムウテル、ママ。 Mといえば、マザー、メール、
がる頭文字です」 12( Pが父につながる頭文字であるように、母につな
(という考えに支えられている。
加藤の論は、この後すみれは母なるものに拒絶されるという方向に進んでいく。本論では、すみれが主体的に象徴的な母との別れを選択するという趣旨であるが、ミュウが象徴的な母であることには異論はない。 すみれは無意識に「本当のお母さん」を求めている。その想いがミュウへの思慕の根底にあると考える。仮に、すみれがミュウから受け入れられたとしても、それは「本当のお母さん」を獲得したとは言えないだろう。すみれは孤独な幼少期、「本当のお母さん」を求める想いと訣別する必要があるのだ。それは、子どもから独立した個人への転換を意味する。 すみれは自身の帰還をぼくに告げる際、ミュウについて一言も言及しない。ミュウはすみれの失踪を語る上では欠かせない存在であるにもかかわらず、すみれはまるでミュウなど存在していなかったかのように振る舞う。彼女が語ることは、自身が「象徴的に」「何かの喉を切った」ことである。これは彼女が「本当のお母さん」を求める想いと訣別した証であろう。すみれにとっての「比喩的な意味」での暴力とは、ミュウへの思慕との訣別、換言すると、ミュウという象徴的な母殺しであったと考える。 象徴的な母殺しを行い、子どもから独立した個人へと転換したすみれは、ぼくに「あなたと会わなくなってから、すごくよくわかったの」「あなたが本当に必要なんだって」と言って、ぼくと結びつく、すなわち〈コミットメント〉を試みる存在へと転換している。 以上のことから、すみれは孤独な幼少期に囚われ、「本当のお母さん」を求める想いから、ミュウを母親に見立て、彼女を思慕していたことがわかった。そして、「比喩的な意味」での暴力という、象徴的な母殺しによって、ミュウを慕う想いと孤独な過去と訣別する。 この「比喩的な意味」での暴力なくして、すみれが子どもから独立した個人へと転換することはないのだ。さらに、独立した個人としてぼくとの〈コミットメント〉を試みることもまた、「比喩的な意味」での暴力を行使したことでなされたと考える。
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三 ぼくの行使した「比喩的な意味」での暴力
すみれは自身の帰還を告げる際、自身が「比喩的な意味」での暴力を行使したことを認め、さらに、「あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身」と発言し、自身とぼくとを同一視している。このことは、ぼくも「比喩的な意味」での暴力を行使する存在であることを示唆している。ぼくは「指をひろげ、両方の手のひらをじっと眺める。ぼくはそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。血の匂いもなく、こわばりもない。それはもうたぶんどこかにすでに、静かにしみこんでしまったのだ」と語り、すみれの示唆を肯定している。三章では、ぼくが行った「比喩的な意味」での暴力がいかなるものかを論じる。
すみれの消息が掴めぬまま、ぼくはギリシャの小島にミュウを残して日本に戻る。本来であれば「まっすぐ東京に戻るつもりだったが、前日予約をとったはずの飛行機の席がなぜかキャンセル扱いになって」おり、ぼくはアテネで一泊する。そこでぼくは以下のような感慨に耽る。
ぼくは明日になれば飛行機に乗って東京に戻る。すぐに夏休みが終わり、限りなく続く日常の中に再び足を踏み入れていく。そこにはぼくのための場所がある。ぼくのアパートの部屋があり、ぼくの机があり、ぼくの教室があり、ぼくの生徒たちがいる。静かな日々があり、読むべき小説があり、ときおりの情事がある。
にもかかわらずぼくはもう二度と、これまでの自分には戻れないだろう。明日になればぼくは別の人間になっているだろう。しかしまわりの誰も、ぼくが前とは違う人間になって日本に戻ってきたことには気づかないはずだ。外から見れば何ひとつ変わっ てはいないのだから。それにもかかわらず、ぼくの中では何かが焼き尽くされ、消滅してしまっている。どこかで血が流されている。
ぼくのこの感慨は、来るべき訣別の予感ではないか。すみれを失ったぼくは、失う前のぼくとは異なる。しかし、この段階では、ぼくはどのような存在へと変わったのかはわからない。ぼくの変貌を表す挿話は、ガールフレンドとの関係の清算であろう。彼女との関係を終わらせたことは、どのような意味を有するのか。それを論じるためには、ガールフレンドとの結びつきがいかなるものであったのかを理解する必要がある。
ぼくは、すみれから「男性としてのぼくにはほとんど(あるいはまったく(関心を抱」かれていないという「苦痛をやわらげ、危険を回避するために、ほかの女性たちと肉体的な関係を持」っている。その「いちばん新しい相手」が、「ぼくのクラスの生徒の母親」、すなわち、作中でガールフレンドと称される女性である。ぼくにとって、ガールフレンドはすみれの代替物に過ぎない。性交渉の際、ぼくは日焼けしたガールフレンドの姿から、「ギリシャにいるであろうすみれ」を想像する。ガールフレンドとの関係によって、一時的に欲望が満たされたように思われても、むしろ、すみれに対する想いを増幅させることになってしまう。
また、すみれと共にいる時は、「どれだけ語りあっても、飽きること」はなく、「孤独という基本的なアンダートーンを、一時的にせよ忘れることができ」る。しかし、ガールフレンドと共にいる時は、「すみれと一緒にいるときにぼくがいつも感じる、あのほとんど無条件と言ってもいいような自然な親密さが」「どうしても生まれな」い。ぼくは、ガールフレンドに対して「いつも一枚、薄い透明なヴェールのような」隔たりを感じている。その隔たりによって、「とくに別
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れ際に」「何を口にすればいいのかわからなくなってしまうことがあ」ると語られる。ぼくは、ガールフレンドとの関係により、孤独を深めていると言えよう。
ところで、ぼくは、孤独な幼少期を送っている。ぼくは家族の「誰のことも好きにはなれ」ず、「誰とも気持ち」を「通じあわ」せることができなかった。幼少期のぼくは「よく自分のことをもらい子じゃないか」と思い、「本物の家族」を想像している。その「本物の家族」との生活は、以下のように語れている。「小さくて質素だけれど、心が安らぐ家」。「みんなが自然に心を通いあわせることができたし、感じたことをなんでもそのまま口にすることができ」る。「夕方になると母親が台所でご飯を作る音が聞こえ、温かいおいしそうな匂いが」する。
ぼくの想像で重要な役割を果しているのは、食事を作る母親である。父親は何をしているのか、家族構成はどのようなものかなどの情報は除外されている。実際のぼくの家族は、「日曜日はいつもゴルフに出かけて」不在がちの「大手食品会社の研究所に勤め」る父親。「掃除が好きで、料理が嫌い」な母親。「東大の法学部を卒業し、翌年には弁護士資格をとった」、「掃除も料理も大嫌い」な姉。互いの「気持ちを伝えあうことができた」が、ぼくが「小学校
に」死んでしまった愛犬である。 5年生のとき
現実の母親と違って、料理を作る母親を理想とするならば、日曜日に一緒に遊んでくれる父親や、掃除と料理が好きな姉も、理想の家族の一員として想像することは不思議なことではない。しかし、ぼくが想像する理想の家族とは、理想的な母親ただ一人である。このことは、幼少期のぼくが感じていた孤独は、母親の在り方が大きく関わっていたことを意味するだろう。ぼくは家族と「親しく話をしたおぼえはほとんどない」。そして、幼い頃から「いつ果てるともなく小説を読んで」過ごし、「どちらかといえば孤独な人間」に成長 した。すなわち、孤独な幼少期を過ごしたぼくと、「現在」のぼくは、地続きである。 「何
を話せばいいのかわからなくなる」時があり、なお且つ「薄い透明なヴェールのような」隔たりを感じるガールフレンドとの関係は、ぼくに孤独な幼少期を思い起こさせる、象徴的な母として機能してしまっているのだ。
つまり、すみれと同じくぼくもまた、訣別すべき孤独な幼少期に囚われているのだ。ぼくに孤独な幼少期を思い起こさせるガールフレンドとの関係を清算することは、過去との訣別を意味する。
ぼくが関係の清算を切り出した際、ガールフレンドは、「あなたと会えなくなるのは、わたしにとってはかなりきついことなのよ」。「わたしがまだ若かったころには、たくさんの人がわたしに進んで話しかけてくれた」、「でもある時点を通り過ぎてからは、もう誰もわたしには話しかけてこなくなった。誰ひとりとして。夫も、子供も、友だちも……みんなよ」と言って、別れを渋る。彼女もまた、孤独な生活を送っていたのだ。それでもなお、ぼくは彼女に殆ど一方的に別れを告げ、自身の内部と生活から彼女の痕跡を消す。この、ガールフレンドの痕跡を消す、存在しなかったものとして語るという行為こそが「比喩的な意味」での暴力と言えよう。
ぼくとガールフレンドが関係を清算した後、物語内部の時間は過ぎ去り、「九月が終わり、秋があっという間に通り過ぎ、冬がやってきた」。そして、「年が明け、学年が終わ」り、にんじんは「新しいクラスに移」る。「担任が移ったおかげで、ぼくが『ガールフレンド』と顔を合わせる機会もなくなった」と語られている。
たった数行で半年間のことが語られ、あたかも、その間一度も顔を合わせなかったかのように語られている。しかし、学年が変わるまでの半年間に全く顔を合わせないことはあり得ないだろう。この語りには、ぼくの生活にガールフレンドが介入しなかったこと、介
受けていたのかであるため、ミュウは除外する。 ものである。本論の関心事は、ぼくが日常的に誰からの電話を待ち ミュウは、すみれの失踪に関してぼくに助けを求めた、非日常的な に電話をかけてくるのは、すみれ、ミュウ、ガールフレンドである。 1012 ぼくの生活には、電話が重要な意味を担っている。作中で、ぼく 入する余地が既に失われていることが強調されている。
ぼくは、日常的にすみれからの電話と、ガールフレンドからの電話を待っている。すみれから電話があると、「今日、暇はある? 会って話したいんだけど」、「夕方ならあいているよ」、「五時にそちらに行く」のように会う約束を取り付けることができる。ガールフレンドからの電話も同様に彼女との密会を取り付けることができる。
すみれは、ミュウと出会ってから自身のアパートの部屋に電話を設置したが、それ以前は公衆電話を使用している。すみれが公衆電話を使用するということは、ぼくは彼女に電話をかけることができない、彼女からの着信を待つのみということを意味する。ガールフレンドには夫と子どもがいるため、ぼくから電話をかけるわけにはいかないだろう。ガールフレンドとの間でも、ぼくは電話がかかってくることを待つ存在である。
以上のことから、ぼくは日常的に二人の女性からの電話を待つ存在であり、電話がかかってくることで、ぼくは人と関わることが読み取れる。
ガールフレンドとの関係を清算したことで、電話というツールは、不在のすみれからの着信をもたらすものとしてのみ機能する。「ぼくは夜中の三時に目を覚まし」「枕もとの電話機を眺める」。「電話ボックスの中で煙草に火をつけ、プッシュ・ボタンでぼくの電話番号を押しているすみれの姿を想像する」。「彼女の頭の中にはぼくに話さなくてはならないことが詰っている」。「電話機は今にも鳴り出しそうに見える。でもそれが鳴ることはない。ぼくは横になったまま、 沈黙をつづける電話機をいつまでも眺めている」。この語りには、既にガールフレンドが介入する余地および、介入していた痕跡は表れていないと思われる。関係の清算までは存在していたガールフレンドのための余地は、「今」では、不在のすみれによって占められているのだ。 ぼくは意図的に半年という時の流れを数行で語る。さらに、ガールフレンドとの関係を維持するために用いられていた電話というツールを、すみれからの着信をもたらすものとしてのみ語る。以上のことは、ぼくが自身の内部および生活からガールフレンドの痕跡を消す意図が読み取れる。 ガールフレンドが語った「夫も、子供も、友だちも」「誰も」「話しかけてこな」いという状況は、実際に生活を営む上ではあり得ないだろう。この場合「誰も」「話しかけてこな」いとは、そのままの意味ではなく、彼女に関心を払わない、忘れるという意味を含んでいると思われる。 忘れられたくないという彼女の想いを裏切るように、ぼくは彼女の痕跡を消し、忘れていく。この行為無くしては、関係を終わらせることは不可能であろう。すなわち、「比喩的な意味」での暴力無くしては、二人の訣別はあり得ないと言えよう。 清水良典は、「
ガールフレンドとの関係の清算について、以下のように論じる。「 15」章の、にんじんの万引き事件から端を発した
至って、ようやく『門』に到達した」 1(( すみれから電話がかかってくる」。「『ぼく』は、この小説の最後に この事件ののちに、どこからかタイミングを計っていたみたいに、 は流されなければならない」定めを全うする試練だったのだ。現に て『ぼく』の三人の中で『ぼく』だけに残された責務、つまり「血 章は「付け足しの『後日譚』などではない。すみれ、ミュウ、そし 15」
(。
清水は、ミュウ、すみれ、ぼくが同じように「血は流されなけれ
101( 山本:『スプートニクの恋人』論
ばならない」試練を体験したと論じているが、本論では、すみれとぼくのみが「比喩的な意味」での暴力を行使したと考える。清水は、ミュウが「かつてヨーロッパ留学中に恐ろしい体験に遭遇し、その際に魂に『血』を流し」 (14
(たことを示している。しかし、それでは「比喩的な意味」での暴力をかつて受けたことがあることを示しているのみで、行使したことを示してはいない。作中の表現は、あくまで「犬」又は「何か」の「喉を切」るであり、「比喩的な意味」での暴力の行使を示している。それ故に、清水とは異なり、本論では、すみれとぼくのみが「比喩的な意味」での暴力を行使した主体として同列だと考える。
さらに、清水は「
殆ど一方的に別れを告げたことと関連している。 ちからまかせに切断してしまった」とは、ガールフレンドに対して、 と言った際に、彼女が発したものである。つまり、「命のあるものを ルフレンドに「いろんな人のためにも」「会うのをやめた方がいい」 かしら?」という文章が挿入されている。この言葉は、ぼくがガー る。その後すぐに「いろんな人?」「そこにはわたしも入っているの を力まかせに切断してしまったようななまなましい感触が残ってい」 ある。関係を清算し、帰宅した後のぼくに「手には、命のあるもの 喩的な意味」での暴力の行使は、ガールフレンドとの関係の清算で 味」での暴力に値するかにまで言及していない。ぼくにとっての「比 15」章でぼくが行った行為の何が「比喩的な意
そして、ぼくの手に残る「なまなましい感触」は、すみれとの電話を切った後の「両方の手のひらをじっと眺める。ぼくはそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。血の匂いもなく、こわばりもない。それはもうたぶんどこかにすでに、静かにしみこんでしまったのだ」という感慨とつながるだろう。この場面は、ぼくが既に「比喩的な意味」での暴力を行使していたことを認めるものである。
以上のことから、ぼくの「比喩的な意味」での暴力は、ガールフ レンドとの関係の清算であり、すみれの行った「比喩的な意味」での暴力と重なるものだと考える。 ぼくは、すみれが残した何通かの長い手紙と、一枚のフロッピー・ディスクに書かれている文書を読むことで孤独に耐えている。文書を読む間だけ「ぼくはすみれとともに時間を過ごし、彼女と心をかさねあわせることができ」る。それは「ぼくの心を、ほかのどんなものよりも親密に温めてくれ」るが、その温かみは「あっという間に背後の闇に吸い込まれて消えてしまう」。ぼくは、すみれとの思い出によって孤独を和らげようとするが、結局のところ、彼女が不在である現実に直面せざるを得ない。しかし、その孤独は幼少期の孤独の再現ではない。ぼくの感じる孤独は、孤独な幼少期、それを再現する象徴的な母から脱し、すみれという他者を求めることで生じるものである。 この孤独を受け入れてでもなお、独立した個人としてすみれを求める姿勢こそが、『スプートニクの恋人』における〈コミットメント〉だと考える。ぼくが行った「比喩的な意味」での暴力は、忘れられたくないというガールフレンドの想いを裏切ることであった。彼女を忘れなくては、二人は関係を終わらせることができないだろう。その意味で、彼女への「比喩的な意味」での暴力と訣別には必然性がある。 彼女との関係は、ぼくの孤独な幼少期を思い起こさせるものであり、彼女との訣別は、孤独な幼少期から脱することを意味する。同時に、関係の清算は、「不在のすみれ」を念頭に置いたものだ。それはすみれという他者のみを求めることを意味する。ぼくは、「不在のすみれ」を求めることで生じる孤独を甘んじて受け入れる。象徴的な母殺しによって、独立した個人が他者を求めるという、この一連の過程が、『スプートニクの恋人』の〈コミットメント〉だと考える。
1014
四 すみれの愛の告白の必然性
これまで、作中に表れる暴力は「比喩的な意味」での暴力であり、それは、象徴的な母殺しという形をとって表れると論じてきた。ぼくとすみれは、各々、自らの孤独な幼少期を彷彿とさせる関係を清算する。そうすることで、彼らは独立した個人として生きることが可能となる。
すみれが行ったであろう「比喩的な意味」での暴力は、彼女が「あちら側」の世界に行き、語り手・ぼくの視線から逃れてしまうため論証できない。しかし、すみれは「象徴的に」「何かの喉を切ったんだと思う」と言って、「比喩的な意味」での暴力を行使したことを自認している。
ここで、問題となるのが、彼女が帰還を告げる際、「あなたにとても会いたかった」、「わたしにはあなたが本当に必要」と、ぼくに愛の告白を思わせる言動をとることだ。すみれが孤独な幼少期と訣別する、すなわち、ミュウを求める想いから解放されることと、ぼくを愛することとは、一見無関係なように思われる。
このことに関して渡辺みえこは、「『すみれ』の『ミュウ』への情熱と喪失は、『ぼく』に再遭遇するための通過儀礼であったのか。かつて同性愛は異性愛に至る過渡期的なものであると言われ、無害化されたように」 (15
(と論じている。渡辺の論は、すみれのミュウへの同性愛がぼくへの異性愛へ回収されたということを意味する。しかし『スプートニクの恋人』という物語を論じる上で、同性を愛するか、異性を愛するか、その意義を問うことに焦点を当てる必要性は低い。何故なら、本作品の主軸は、本論で論じるように、「比喩的な意味」での暴力や、それを経た上で行われる〈コミットメント〉であるからだ。
さらに、村上春樹は「登場人物の誰のことも、そんなに深くは書 き込んでいないような気がする」。「男性であれ女性であれ、その人物がどのように世界と関わっているかということ、つまりそのインターフェイス(接面(みたいなものが主に問題となってくるのであって、その存在自体の意味とか、重みとか、方向性とか、そういうことはむしろ描きすぎないように意識しています」 (1(
(と発言している。
これらのことから、すみれの同性愛が異性愛へ回収されたか否かではなく、同性愛者を自認していたすみれが、何故ミュウについて何も言及せず、逆にぼくに愛の告白をするかという因果関係を論じることの方がより重要であると考える。
すみれの愛の告白には、彼女を視点に、ぼくとミュウが対置関係にあることが含意されているのではないか。二人が対置関係にあるならば、すみれがミュウと訣別することと、ぼくを愛することは関連すると言えよう。つまり、すみれにとって、ぼくとミュウが対置関係にあるが故に、彼女は二者択一を迫られるということだ。どちらかを愛することは、同時に他方を見捨てることになる。ミュウについて言及せず、ぼくを愛する発言をしていることこそ、すみれがミュウと訣別した、換言すると、「比喩的な意味」での暴力を行使した証である。
すみれにとって、ミュウとぼくとの対置関係は、「あちら側」と「こちら側」の対置関係を表していると思われる。
「あちら側」と「こちら側」は、
『スプートニクの恋人』を論じる上で重要な概念である。本論の関心事は、「あちら側」が具体的にどのような世界かということではなく、「あちら側」を描くことで、どのような意味があるのかという点である。
加藤典洋は、本作品を「二つの恋(=片恋(の物語」とし、一方を「すみれのミュウへの恋」で、「『あちら側』の世界に行きたい、超越的なものへの恋」、他方を「『ぼく』のすみれに対する恋」で、「この世にとどまろうという」恋とする。「つまり、この小説を作者
1015 山本:『スプートニクの恋人』論
に書かせているのは、『超越しないでこの世にとどまる』ことは、どのようにして、『超越してこの世ならぬところに行ってしまいたい』欲求と、つながることができるか、あるいは、どのようにして、『超越してあちら側に行ってしまいたい』希求を、否定することなく、また、それに負けずに、『この世界にとどまること』は、これと対峙できるか、という問いなのでしょう」 (1(
(と論じる。
加藤は、村上春樹が「こちら側」に対して「あちら側」を表すことで、「こちら側」に留まるには、どうすればよいか、という問いを立てていると論じているのだ。
宇佐美毅は以下のように論じる。「〈こちら側〉で生きていく決意を描くことから、〈あちら側〉に大切な〈なにものか〉があるということを描くことに重点が移行している以上、それを描き出す視点は〈こちら側〉の人間だけというわけにはいかないはずである」。「『ぼく』を全体の語り手として設定しながらも、ミュウの過去の体験をすみれが聞き、また、そのミュウの体験を含めたすみれの文書を『ぼく』が読むという構造が必要であったのである」。「これ以降の村上春樹は、大きく言えば『スプートニクの恋人』系列の作品世界を描いていくことになる」。すなわち、「〈こちら側〉にいては知ることのできない何ものかを描き出すための小説の方法を試みるようになる」 (1(
(。
宇佐美は、村上春樹が、窺い知れない何かを表出するために「あちら側」を描いていると論じている。
杉山祐紀は、「あちら側」を「ありえたかもしれない別様の現実」 (1(
(
としつつ、その世界を描くことで、「『こちら側』を中心とするような世界観に揺さぶりがかけられ、『こちら側』という世界が相対的なものとな」る (20
(と論じる。
以上のような先行研究は、具体的に「あちら側」とは何かを論じるのではなく、「あちら側」を設定することで、どのような機能があるのかを論じている。 本論でも同じく、「あちら側」の有する機能に焦点を当てる。「あちら側」を考察する前に、本作品に「あちら側」という概念を導入する存在であるミュウについて分析する。 本論では、ミュウを「こちら側」にいて、「あちら側」へと誘う存在と見なす。彼女は「半分のわたしは」「あちら側に移」り、「わたしはこちら側に残っている」と言う。この発言から、彼女は「引き裂かれ」た存在であり、「あちら側」と「こちら側」のどちらにも属していると言えよう。彼女の分裂に焦点を当てるのではなく、分裂した結果、どのような機能を持つ存在になったのかという点が重要だと思われる。ミュウは分裂したことで、「こちら側」から「あちら側」へ誘う存在として機能している。 実際、すみれは「いうまでもなくこちら側のミュウを愛している。でもそれと同じくらい、あちら側にいるはずのミュウのことをも愛している」と文書に残している。ぼくは、この文書を読み、すみれは「あちら側のミュウに会いに行ったのだ」という仮説を立てる。 ぼくは、ギリシャの小島にミュウを一人残して旅立つ際、「新学期なんてどうでもいい。島に残って彼女を励まし、一緒に納得のいくまですみれを探し、なにかつらいことがあればしっかりと抱きしめてあげるべきだった」。「ミュウはぼくの心を不思議な強さで惹きつけていた」と感じる。すみれと同じく、ぼくもまた、ミュウに誘われ、東京というぼくが属する現実世界に戻れなくなるところであった。 以上のことから、ミュウは「あちら側」へ誘う存在だと位置付ける。この位置付けは、現実世界に留まったぼくとの対置関係を意味する。そして、ミュウに誘われたすみれが「あちら側」から、ぼくの属する「こちら側」へ帰還したことは、ミュウという象徴的な母と訣別したことを示唆していると考える。
ミュウとぼくの対置関係を具体的に論じるために、失踪したすみ
101( れの残した〈文書
1〉を分析する。
注目すべきは、〈文書
だ。 現実世界、すなわち、「こちら側」につなぎとめられるということ 立つ。そして「思考」すること、文章を書くことによって、彼女は すみれにとって文章を書くことイコール「思考」という等式が成り があ」り、彼女は「日常的に文字のかたちで自己を確認」している。 について考えるためには、ひとまずその何かを文章にしてみる必要 おく」ために、「思考」すると文書は続く。さらに、すみれは「何か 「混沌」に補助線を引き、「自分をどこかにしっかりとつなぎ止めて にわかちがたく、混沌として存在している」と認識している。その 体に過ぎ」ず、「『知っていること』と『知らないこと』は」「宿命的 えることを意味する。彼女は「理解というものは、つねに誤解の総 とは、自分がある対象について「何を知り、何を知らないか」を考 的に定義するところの思考」であることだ。すみれにとって「思考」 1〉で表れる「思考」とは、すみれが「個人
また、「知っていると思っている物事の裏には」「知らないことが同じくらいたくさん潜んで」おり、ある対象について知っていると思い込み、安住することで「手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない」とも語っている。すみれは「裏切り」とそれに伴う痛みを回避するために、「思考」し、「知っている」領域を増やし、本当に対象について「知っている」のかを常に検証し続けているのだ。
と語られる。 としてもそこには痛みはない。でも現実は違う。現実は噛みつく」 「だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こった 何故なら、そこには「境界線というものが存在しない」からである。 手段として機能する。「夢の中」では「ものを見分ける必要がない」。 である。この場合の「夢」とは、「思考」停止状態を維持するための 「思考」、文章を書くこと、現実世界と対置関係にあるのが「夢」
「思考」
し、文章を書くこととは痛みを伴う現実世界を生きることであり、「夢」を見ることとは「思考」を停止させたままで生きることを意味する。すなわち、「思考」、文章を書くこと、現実世界と対置関係にあるものが、「夢」を見ること、換言すると「思考」を停止することである。
〈文書
意味するだろう。 ことは、自身を現実世界につなぎとめるための手段を失ったことを みれを示唆しているように思われる。また、「思考」を止めたという 「流されている」とは、ミュウに誘われ、「あちら側」へ移行するす というべきだろう(流されている」と理解している。「どこか」に のような状態を「どこかに(どこかのわけのわからないところに、 ところの思考」をやめたことを意味している。すみれは、自身のそ んど書かなくなってしまった」とある。それは「個人的に定義する 1〉には、「ミュウに出会ってから」「文章というものをほと
さらに、すみれはローマからぼくに宛てた手紙で「ミュウと離れて一人ぼっちになると、どこかに行きたいという気持ちがわいてこない」と語っている。このことから、すみれはミュウと共にいることで、「思考」や意志を停止させていると言えよう。
〈文書
ついて分析する。 書くこと、さらに、すみれにとってのぼくである。ここで、ぼくに これらと対置関係にあるのが、現実世界、「思考」すること、文章を ないところ」、すなわち「あちら側」へと「流され」ることになる。 点がある。彼女は「思考」を止めたことで、「どこかのわけのわから とってのミュウと「夢」には、「思考」を停止させるものという共通 1〉を分析したことで、以下のことが読み取れた。すみれに
すみれは、ローマからぼくに手紙を送る際、「自分が自分でないようななんだか不思議な気分を味わっています」。「ぐっすりと眠りこんでいるあいだに、誰かの手でいったんばらばらの部品に分解され
101( 山本:『スプートニクの恋人』論
て、それから大急ぎで組み立てられたみたいな感じ」がすると語っている。しかし、そのような「ばらばら」に「分解され」たような感覚は、ぼくに「手紙を書いているうちに」「薄らいできた」と続く。
さらに、すみれには自身が書いた原稿を見せることができる相手は「この広い世界にぼく一人しかいな」い。彼女はしばしば、ぼくから受けた助言を自身の文章に取り入れている。例えば、〈文書
国の城壁の話もまた〈文書 の喉を切ってその血をかけることで「呪術的な力」を賦与させる中 すく変換していく」という発言が基になっている。ぼくの語った犬 らやってくる力の作用を、歯車を使ってうまく調整し、受け入れや あいだに置かれたトランスミッションのようなものなんだよ。外か フィクションの中に置いている」。「それは現実の荒々しい世界との 的だ」という一文は、ぼくの「世界のたいていの人は、自分の身を の「Kの言うフィクション=トランスミッション説はなかなか説得 1〉
をどこかで切らなくてはならない」と用いられている。 1〉に「わたしはナイフを研ぎ、犬の喉
すみれにとってのぼくとは、自身に文章を書くことを促し、なおかつ「ばらばら」になったような感覚を統一させ、現実世界につなぎとめる存在であると言える。
以上のことから、すみれにとって、ぼく、「思考」すること、文章を書くことは彼女を現実世界につなぎとめるものである。それらと対置関係にあるものが、ミュウ、「夢」という、すみれを現実世界から浮足立たせるものであることがわかった。つまり、すみれにとって、ぼくは「こちら側」を象徴し、ミュウは「あちら側」を象徴するということだ。
すみれにとって、ぼくとミュウが対置関係にあるが故に、一方を選択することは、他方を捨て去ることを意味する。何故なら、その選択とは、「こちら側」で生きるか、「あちら側」で生きるかを象徴 しているからだ。両者を選ぶこと、又はどちらも選ばないことは生きる上で不可能である。彼女がミュウに一切言及せず、ぼくを愛する発言をしたことこそが、ミュウという象徴的な母との訣別の証となる。 そして、象徴的な母との訣別は、すみれの「象徴的に」「わたしはどこかで
―
どこかわけのわからないところで―
何かの喉を切ったんだと思う」と発言するように、「比喩的な意味」での暴力の行使という形をとったと考えられる。結 論
本論では『スプートニクの恋人』に表れる〈コミットメント〉と暴力の結びつきがいかなるものかを論じた。本作品に表れる暴力は「比喩的な意味」での暴力であり、それは行使する主体が囚われていた孤独な幼少期と訣別するための通過儀礼として機能している。「比喩的な意味」での暴力を行使することによって、独立した個人へと転換することができるのだ。
「比喩的
な意味」での暴力を行使することで、ぼくとすみれは、独立した個人として互いを必要とし、結び付くことができる。すなわち、「比喩的な意味」での暴力なくして彼らは〈コミットメント〉を試みる存在へと転換できないということだ。
すみれは孤独な幼少期に基づく「本当のお母さん」を求める想いから、無意識にミュウを母親に見立て、彼女を慕う。すみれがミュウから受け入れられない現実を認めるには、囚われていた孤独な幼少期と訣別しなくてはならない。
自身の帰還を告げる際、すみれは「象徴的に」「何かの喉を切った」と言い、「比喩的な意味」での暴力の行使を自認している。しかし、彼女の失踪により、語り手・ぼくの視点から逃れているため、彼女が実際に「比喩的な意味」での暴力を行使した描写はない。
る。 停止させ、現実世界から浮足立たせる、「あちら側」に誘う人物であ につなぎとめる存在である。一方のミュウは、すみれの「思考」を すことができよう。すみれにとってぼくとは、彼女を「こちら側」 101(女自身が現実世界に帰還し、ぼくを愛する発言をすることから見出 すみれが「比喩的な意味」での暴力を行使したであろう証は、彼
すみれが現実世界に帰還し、ぼくを愛し、求める発言をすることこそが、ミュウを求める想いからの訣別の証と言えよう。彼女はぼくに愛の告白をすると同時に「比喩的な意味」での暴力を行使したことを告げる。これは、彼女の転換が「比喩的な意味」での暴力によってなされたことを意味する。
すみれは「比喩的な意味」での暴力を行使することで、孤独な幼少期と訣別し、独立した個人としてぼくと〈コミットメント〉を試みる存在となり得たと考える。
ぼくもまた、孤独な幼少期を思い起こさせるガールフレンドとの関係を清算することで、過去と訣別する。ガールフレンドが介在していた痕跡を消すかのように物語を語るぼくの振る舞いは、周囲の人々から関心を払われないことで孤独に陥っていたガールフレンドを傷つけるものであろう。これがぼくの行使した「比喩的な意味」での暴力だと考える。ガールフレンドの想いを裏切ることなしに、ぼくの訣別はなされないのだ。
ガールフレンドとの関係を清算したぼくは、不在のすみれを求めることで孤独に陥る。しかし、それは孤独な幼少期の反復ではない。ぼくは不在のすみれを求めることで生じる孤独を受け入れ、彼女を待ち続ける。ぼくのこの姿勢は孤独な幼少期と訣別し、独立した個人として他者・すみれとの〈コミットメント〉を求めるものであるのだ。
『ね
じまき鳥クロニクル』に表れた、身体への直接的な暴力から一 転して、『スプートニクの恋人』では「比喩的な意味」での暴力という、象徴性の強い暴力が表れた。それは行使する主体が独立した個人として再生するためのものであった。そしてその暴力なくして〈コミットメント〉はあり得ないことがわかった。 今後の研究では、『海辺のカフカ』 (21
(やそれ以降の作品に、暴力と〈コミットメント〉がどのように表れ、変遷していくのかを論じる計画である。*やまもと ともみ 文学研究科国文学専攻博士課程後期課程二〇二〇年一〇月一五日査読審査終了
注※『スプートニクの恋人』の本文の引用は、『村上春樹全作品 1990~2000②』(講談社、二〇〇三年一月(による。(
( 年一二月、六九頁から七〇頁。 1(村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、岩波書店、一九九六
2(村上前掲書(注
( 1(と同じ、七〇頁から七一頁。
3(黒古一夫『村上春樹
「喪失」の物語から「転換」の物語へ』
、勉誠出版、二〇〇七年一〇月、二三八頁。(
4(黒古前掲書(注
( 3(と同じ、二三九頁。
( 秋、二〇一三年四月。 5(村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、文藝春
( 店、二〇一五年一二月、二四五頁。 6( 加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書1575(、岩波書
7(村上前掲書(注
( 1(と同じ、一七二頁から一七三頁。
8(村上前掲書(注
( 1(と同じ、一八〇頁。
タビュー集1997 9( 村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです村上春樹イン
- 2009
』、文藝春秋、二〇〇九年九月、四三頁。(
10 (村上前掲書(注
( 8(と同じ、四八頁から四九頁。
11 (松本常彦「孤独―村上春樹『スプートニクの恋人』」(『國文学解
101( 山本:『スプートニクの恋人』論
釈と教材の研究』
( 46、二〇〇一年二月臨時増刊(六二頁。
( 三五頁。 の恋人』、(『小説の未来』、朝日新聞社、二〇〇四年一月(三四頁から 12(加藤典洋「行く者と行かれる者の連帯―村上春樹『スプートニク
13(清水良典『村上春樹はくせになる』(朝日新書
( 〇〇六年一〇月、四四頁。 004(、朝日新聞社、二
14 (清水前掲書(注
( 12(と同じ、四一頁。
における「ぼく」の物語と読者―」(『社会文学』 15(渡辺みえこ「村上春樹文学、最後の一人称―『スプートニクの恋人』
月(六六頁。 16、二〇〇一年一二 (
( 一七年四月、二四七頁。 16(川上未映子・村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』、新潮社、二〇
17 (加藤前掲論文(注
( 11(と同じ、一七頁から一八頁。
( て」(『文学』八巻一号、二〇〇七年一月臨時増刊(二〇六頁。 18(宇佐美毅「非現実的な現実―村上春樹作品の〈二つの世界〉をめぐっ
問題を軸として―」(『歴史文化社会論講座紀要』 19(杉山祐紀「村上春樹『スプートニクの恋人』論―こちら/あちらの
( 八九頁。 14、二〇一七年二月(
20 (杉山前掲論文(注
( 17(と同じ、一〇三頁。
21(村上春樹『海辺のカフカ』、新潮社、二〇〇二年九月。