• 検索結果がありません。

オーストリア・ハンガリー帝国史研究 をめぐる諸問題(2>

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "オーストリア・ハンガリー帝国史研究 をめぐる諸問題(2>"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

オーストリア・ハンガリー帝国史研究

をめぐる諸問題(2>

一当該金融資本成立史研究に関する覚書一

佐  藤  勝  則

1 はじめに       義段階への移行期⑤1896−1914年,独占・金融資

       本の確立期,帝国主義の時代。以下ではこの時期先に我々は,オーストリア・ハンガリー帝国史       区分に即して,主として②の三月革命期から⑤の研究の現状とその問題点を特に最近の西側諸国の

イ動向の批判鰍討樋して明らかにするとと 第歌世界大戦に到るまでの諸醐を叙述の中心

@       それぞれの時期区分       に据えることとしたい。尚,もに,今後の我々の研究の基礎視点をそうした研

究動向の反省のうちに確定しておい蔑輔では の糠}こついては詳しくは徹のうちに示され

       よう。そうした基礎視点を踏まえて詳細な個別的実証分

析に分け入るに先立ち,あらかじめ当該金融資本   ω拙稿「オーストリア・ハンガリー帝国史研究をめ 成立史の全体像について,おおまかな見取図を描     ぐる諸問題ω一研究の現状とその問題点」『西 いておくこととしたい。そこでさしあたり本稿の    洋史研究』新輯第7号,1978年。

課題を以下の二点に限定する。まず第一に,当該   ωオーストリア・ハンガリー帝国史とは・厳密には 帝国史(、848−1914島に関する内タゆ研究成果  ハンガリーとのアウスグライヒA・・g1・i・h(1867

       年)以降,第一次世界大戦まで続くオーストリアの批判的摂取によって,当該金融資本成立史を産

       ・ハンガリーご重王国史に他ならぬが,ここでは業資本確立過程との有機的関連の下に素描し,特

       三月革命の持つ当該資本主義発達史上の編成替えに大不況(1873−96年)を分水嶺として成立して       の起点としての意義に注目し,三月革命期から第

くる当該螺資本の離的特質の幾つかを塑し  一次世界大戦までのハプスブルク帝国史を手旨すも ておくこと。第二に・上記の当該金融資本の成立    のとする。

過程の概観並びに構造的特質把握に関する論点整   (3)帝国主義分析の基礎範疇としての金融資本の構造 理を踏まえた上で,尚研究史上残されていると思     的・類型的特質把握の視角については,大野英二 われる主要な問題点を別出し,我々の今後の研究    『ドイツ金融資本成立史論』1956年,3−7頁,同 課題を明確にすること。       『ドイツ資本主義論』1965年,151−161頁参照。

当該金融資本の成立過程を概観するにあたっ  (4)ハプスブルク帝国史(1815−1918年)の政治史の て,我々はナポレオン戦争後のいわゆるj戦後復興     時期区分としては1848年革命,ハンガリーとのア 期から第一次世界大戦勃発に到るハプスブルク帝    ウスグライヒをもって大きく三区分する矢田俊隆 国史の全体を試論的に以下の諸時期に区分して考    氏の時期区分がある。矢田俊隆『ハプスブルク帝

@を勘てV・くことにしたv・と思号㌔①・8・5−48  国史研究』1977卸32−133鯵風

N三月前期の「早期産業革命∫)の時代②1848−   (5}「早期産業革命」については,とりあえず大塚久 49年,三月革命期,市民革命の時代③1849−73年     雄「産i業革命の諸類型一社会の構造変革との関 三月革命後の本格的な産業革命の時代④1873−96    連において一」r土地制度史学』第36号,1967

       年,60−63頁参照。年,大不況期,産業資本主義段階から独占資本主

(2)

加に対応して貴族領主層主導の下で,農業生産力 豆オーストリア・ハンガリー金融資  の向上力雅進されていくこととなったのである15)

本の成立とその構造的特質      こうして,三月前期のハプスブルク帝国の経済的          調

賰bをなすとともに,旧体制そのものの支柱をも ω三月革命の挫折とブルジョア的改革の基本線  なしていた旧来の賦役労働の搾取と世襲隷民制の オーストリア ハンガリーにおける産業資本の  うちに体現せられる農業における封建的土地所有 確立過程は・同時に株式銀行を中心とする銀行資  関係は次第にそのレゾン.デートルを喪失するに 本の成長そ1)発展の過程と密接に関係していたとさ  到った。フランスの二月革命の衝撃を受け止めた れている。そこで我々は,当該金融資本成立過程  ブルジョアジー,知識階級の主導の下に闘われた 考察の出発点を,ハプスブルク帝国における本格  オーストリアの三月革命は,当時の直接生産者層 的な産業蕩命開始の画期と目される三月革命期に  の圧倒的多数をなした農民の賦役拒否から一揆に 据えよう。       到る運動を背景としており,しかも封建的土地所

周知の如く・19世紀20乃至30年代におけるイギ  有関係の廃止を主要な経済問題としていた点で16)

リス資本主義確立の衝撃は・機械制大工場より溢  こうした旧体制の再編を画する重要な歴史的事件 れ出る大量の廉価な工業製品の輸出を通して,全  乏なったのであった。

世界的な規模で波及していくこととなった・以後   三月革命の渦中,立憲帝国議会において農業問 イギリスはかかる廉価商品の輸出を積秤として自  題わけても賦役問題に一定の解決策が打ち出され らを中心とする国際分業体制の形成を志向すると  たが,これは農民運動を鎮静せしめることによっ ともに・この体制の中に後進諸国を強引に編入せ  て,三月革命の政治運動から圧倒的多数の大衆的 んとした。しかし,こうしたイギリスの動きに対  基盤を奪い取り,革命の挫折,反革命の勝利の方 しては,極の形態をとっ轡儲国の壕り的な対 向を瀧するものとなっ窪.騨命の勝利によっ 応乃至対抗の動きもみられた。後進中部ヨーロッ  てその後成立したネオ絶対主義Neoabεolutismus

パ諸地域においては・イギリス資本主義確立の衝  体制は,対内的には域内諸民族の独立運動の抑圧,      『、

撃,その圧倒的な側圧は・領邦絶対主義の「上か  自由主義,民主主義の革命運動弾圧の,また対外 ら」の対応としてプロイセンを盟主としたドイツ  的にはヨーロッパ反動の枢軸としての覇権政策追 関税同盟の結成(1834年)とその領域内での本格  求の政治体制であったが,こうした政策目標達成 的な産業革命の展開のうちに逸速くその対応形態  のためには,わけても中央集権的軍事・官僚機構

を見い出すが,三月前期のハプスブルク帝国にお  の整備強化,それに基づく絶対主義的中央集権      (8)いても独自な対応の形態が見られた。イギワスの  国家体制の再編強化を急務とした。その場合,

強力な側圧は,ナポレオン戦争後,政治的にはヨ  三月革命後のネオ絶対主義体制は,その強力な中 一ロッパの絶対主義的反動の中軸として,また経  央集権的軍事・官僚機構の存立の基礎をもはや旧 済的には禁止的高率保護関税体制の障壁の内側  来の封建的農業経済の上に置くことはできなかっ で,貴族的大所領経営の存続と支配の下に前近代  た。そこでその後のネオ絶対主義国家は三月革命 的な農業的小宇宙を形成していたハプスブルク帝  期に提起された封建的土地所有関係の最終的解体 国に対しても,その旧体制の決定的再編を促す最  とその編成替えを自ら主導するとともに,その前 大の衝撃となっていたのである。即ち,一方では  提の上に三月前期の「早期産業革命」の成果を継 こうした側圧への対応として,ハプスブルク帝国  承しつつ,これを更に一層推進する形で「上から」

では,高率保護関税体制下に絶対王政乃至貴族領  の工業化過程をも主導することによって,近代的 主層主導の「上から」の工業化が積極的に推進さ  徴税機構と近代的工業生産力とを物質的基礎とす

     (4)       。       (9)

黷驍ニともに,他方では,内外の農産物需要の増      る近代国家への脱皮を計っていくのである。かく

(3)

佐藤:オーストリア・ハンガリー帝国史研究をめぐる諸問題(2}        3 て,三月後の強力な統一的国家権力の一連の自由  びに州解放補助金を一括し,旧領主に対しては5%

主義的経済政策によって,資本制生産の本格的展  利付の解放補償債券Grundentlastungsobligation 開の諸条件が「上から」のブルジョア的諸改革と  を公布する。

して整えられることとなったのである。これは同   みられるまうに,この農民解放においては,世 時に,ハプスブルク帝国における本格的な産業革  襲隷民制に基づく農民の人格的隷属の諸規定は無

(10)

命展開の諸条件を整えるものでもあった。その場  償で廃止されたとはいえ,解放前の農業・土地所 合.後進の当該帝国においてはブルジョア的改革  有関係を所与の前提として・賦役を中心とする封 の最大の課題は,封建的土地所有関係の廃止と営  建地代は有償で廃棄されたのであり,基本的には 業の自由の実現にあった。以下その改革の基本線  旧貴族領主層に有利な有償解放方式が貫徹した。

を要約していくことにしよう。         その結果,貴族の大所領経営は強固に残存し,そ まず封建的土地所有関係の廃止は「上から」の  の下で一方では農民からの巨額の解放補償金の収 農民解放Bauernbefreiungとして,オーストリア  …奪が行なわれ,他方では零細土地所有農民の小経 については1848年9月7日の解放勅令を,またハ  営と圧倒的多数の無産の農業労働者が創出される ンガリーについては同年3月18日の独立議会通過  という,オーストリア・ハンガリーに独自な本源 の解放法案を三月革命後も各々原則的に継承しつ  的蓄積の基礎過程が強行されたのである。因み っ,特に各州の特殊的条件を考慮した各州毎の一  に,経営規模別の農業経営構成や農地面積構成か 連の農民解放実施細則の布告をまって実現に移さ  らだけでも(第1表参照),かかる基本線の貫徹 れ老lb農民解放は,世襲隷民制Erbuntertanigkeit を看取しうるであろう。従って,オーストリア・

の廃止並びに賦役を中心とする封建地代の撤廃を  ハンガリーにおいては以後,零細土地所有農民か その主要な内容としていた。前者,世襲隷民制の  ら莫大な解放補償金(第2表参照)と安価な農業 廃止は領主裁判権の無償廃止,領主の裁判・警察  労働力とを打ち出しつつ,大土地所有貴族の主導 権の国家への委譲によって達成された。また後  の下で「上から」の農業革命(三圃制粗放農業か 者,封建地代の撤廃は,内務省所管の各州解放委  ら家畜の舎飼,輪作集約農法への転換・農業経営 員会Grundentlastungs−Landeskomm{sslonを解  の機械化)によって,農業における資本主義発展 放の実構関とし洛州の実情に沿って実施され の膨ゆるプ゜シア型の途がとられていくのであ た。解放事業の実施過程の詳細は省略するが,オ  る。

一ストリアにおける封建地代撤廃の基本的様式は   市民革命の挫折と関連したこのような農業・土 以下のようであっ讐1①本来の農民の土地R臨 地所有の変革の独自性は,その後の産業齢の過 ticaigrundに課せられていた諸負担は,安価な補  程を大きく制約することによって当該資本主義の 償に基づいて廃棄する。その場合,賦役の価値は  独自な構造を規定する最も基礎的な要因となっ 自由な労働の三分の一として20倍で資本還元し,  た。即ち,まず第一に,大土地所有貴族が農民か 償却額を定める。その償却額から領主支出分三分  ら収奪する莫大な解放補償金は,その大部分が当 の一をi控除した残余の三分の二について,その半  面は農業改良投資(機械化投資,農業労働者への 分を農民が20年以内の償却で負担し,他の半分を  賃金の支払い等)や強大な軍事・官僚機構を支え 州Kronlandが40年以内の償却で負担する。②領  る国債の購入・あるいは株式銀行の設立への参加 主の土地Dom呈nicalgrundを永代借地契約によっ  等にまわされることにより,慢性的な工業盤下資 て農民が耕作する土地の封建地代については,領  本不足Kapitalmangelを結果したことである・資 主支出分三分の一を控除した全額を農民の負担で  本蓄積の一般的低水準と相侯って,こうしてもた 償却する。ただし,その補償り年割賦金は純収益  らされた工業投下資本不足は,急速な編成替え・

の40%を超えてはならない。③農民の償却債務並  「工業化」のためにどうしても外国資本への依存

(4)

第1表  主要地帯別農業経営構成並びに農地面積構成(19世紀末)*

経  営  数 (%) 農地面積 (%)

オーストリア1チェコ1ハンガリー オーストリアレェコ1ハンガリー

0−  5ha (0−5 hold*ホ)

58.0 71.6 53.6

5.9 14.7 5.8

5−50ha (5−100 hold)

39.2 27.5 45.4 40.9 49.0 46.5 50−100ha(100−1000 hold)

1.7 0.4 0.8 7.2 3.5

15.4 100ha以上(1000 hold以上)

1.2 0.5 0.2

46.8 32.8 32.3

*オーストリアとチェコについては,1902年6月3日の農業経営統計。またハンガリーについては,1895年の 農業統計に依る。

**ハンガリーについてはholdを使用。尚,1hold=0.57haである。

典拠,工℃Berend&G・R加ki, Eσoπo廊 1)θ〃θ oρ規θ廓∫πE4s≠−C例f741 Eκ70ρθ 湧619坊4 4

20魏C8鋭〃7 θ3, New York and London,1974, pp.32−33.(ペレンド・ラーンキ『東欧経済史』南塚信吾監

訳,1978年,33頁,35頁)

第2表  チェコ地方における解放補償金の取得状況

高級貴族層 10万グルデンCM以上の補 桙フなされた所領数

1848年9月7日の解放令第3条によ 髟竢梛

Gulden         Kreutzer

Schwarzenberg

9 2,212,290      30

Lobkowitz

7 1,205,429      50

Waldstein

4 875,000       11

Alois Lichtenstein 3 890,747      50

Kinsky

3 604,940       50

Dietrichstein 3 543,542       10

CoUoredo−Mansfeld 2

531,283      40

1  31  [⑤86亀235   ・・

典拠,J・Pur6, Die Entwlcklung des Kapitalismus in der Landwirtschaft der bohmlschen L加der in der

Zeit von 1849 bis 1879,1960, S.3& を余儀なくさせたのであり,こうした事情は当該  実現される。これによって,中世以来のツンフト 資本主義の利子貢納者=金融的従属国としての発  制度並びに絶対王政の営業独占,産業規制体系が 展を不可避ならしめるのであった。また第二に,  一応解体されるとともに,職業選択,移動の自由 農民解放によって広汎に創出された零細土地所有  をも含む営業の自由が保障され,資本制生産の自        (15)

̲民,並びに尚当面は半封建的隷従関係の下に置  由な展開の条件が創出されたのであった。

かれる圧倒的多数の無産の低賃金農業労働者の存   このような前提条件の下にハプスブルク帝国に 在は,国内購買力水準を押し下げていくことによ  おける産業革命は,特に三月革命後の1850年代か って・国民的産業の蓄積基盤をなす国内市場の狭  らウィーン取引所恐慌に到る70年代初めにかけて 陸性をもたらすことになったのである・      本格的に展開されるが,この過程は同時に近代的 ブルジョア的改革のもう一つの柱である営業の  な株式銀行の成立,発展の過程でもあった。次に 自由の実現はこれに対して若干遅延したが,1859  その過程を概観していこう。

(5)

佐藤:オーストリア。ハンガリー帝国史研究をめぐる諸問題(2}        5

(1)「オーストリアの工業史は,かなりの醸銀行史   がみられた.(,LんMillw、・d&&BSau1,

でもある」とのメルツEMarzの指摘を見よ。      The Economic Development of Austria−Hun・

Vg1. E Marz,δs渉θ77θ∫σ海s 1 4瀦s 7ゴ8一μπ4 B炉      gary,1850−1914, in:T」晦¢.Z)θ θ oρ〃2θ ≠oメ蓄乃8

肋01 備∫〃48アz6髭Fノα 910sψゐs為五摺

@       Eoo o〃2 θ30/Co ∫ θ〃云σ」1享〃ノo♪θ,1850−1914,β6 sが 」4θrゑゑが銑δs θノノθ∫ κ3 乃8π      London,1977, P.274の

C7召4∫卜∠肋3歩4Z≠拶プ∬α 4θZ朔4 Gθ θ7∂θ,      (6}GrUnberg,σ.σ.0,, SS.27−28, S.3a

Wien,1969, S 11.

@       (7) E6θπ4σ, SS.50−51.

(2)ハプスブルク帝国における産業革命の時期規定に   (8}Marz,疏島(λ, S 21.

っいては,拙稿「オーストリア・ハンガリー産業   (9)一方では,中央集権的軍事・官僚機構の整備,強 革命把握の基礎視角一後進資本主義国の編成替え    化のための,また他方では「上から」の工業化の 把握をめぐって一」『東欧史研究』第2号,1979    積粁をなす国有鉄道建設のための財源は,内外で 年参照。      の国債の大量発行によって調達された。しかもこ

(3)イギリス資本主義確立の世界史的意義について     の国債の大量発行は増税を必至とし,独立小商品 は,吉岡昭彦編著『イギリス資本主義の確立』19    生産者層(農民,手工業者)の収奪を伴なってお 68年,毛利健三「19世紀前半の経済」『岩波講座     り,資本主義発展の「下から」の途の展望を圧殺

・世界歴史』第18巻近代5所収参照。         するものでもあった。 (VgL Marz,σ・砿α,

{4)ハプスブルク帝国の工業的発展は,マリア・テレ     SS 20−24)

       ●●

Wア,ヨ・一ゼフニ世以来の絶対主義的重商主義の   ㈲Marz・α・σ・σ, S 15;EMatis・05 θr7θ∫酌3 一連の産業奨励政策(①1753年,オーストリアと    防7歩30加ノ 1848−1913・κo 勉癖魏78 61) ハンガリー間の関税国境を除く統一的関税領域の     翅衆κ 4・9θSθ1Jsσ加メ躍f酌θ7 Wσπ48」∫吻Z匪 形成②高率保護関税の設定③輸出奨励金政策④工    ∫α漉7F7απ2ノ∂sθρ乃3 L・Berlin・1971・SS 37一 業補助金政策)の下で,主としてオーストリアや    3a

チェコの貴族の所領内での工業企業の設立をもっ   (u)解放前のオーストリアにおける農業制度は極めて て開始された。(cf, R LRudolph,βα〃雇π9σπ4    多様iであり・「州と同じ数の農業制度が存在して 1π伽s餌σzr詔 o ∫ !1〃s餌σ一丑% 9〃の     いた」(G滅nberg・伍砿(λ・S2・)。解放もこの 丁加70」θoノδ4π船痂訪θ∫ 4〃s餌α互琵σ≠わπ    実情に即して射1悔に実施される。その結果,解 oノ湧θC28漉C7側〃σ 4ε,1873−1914, Camb一    放後も土地所有制度・農業経営方法・生産性の水 ridge,1976, P.17.)       準に著しい多様性が存続した。(cL Millward&

       Sau1,0ρ」6∫ちPP.273−274)㈲グーツヘルシャフト地帯における領主直営地の拡

      (12}VgL K Dinklage, Die Landwirtscllaftliche En大,農民追放,賦役強化に伴なう租税収入減少並

      twicklung, in:1)fθ 1i「αδ3うκノ9〃〃30πσπ雇θ,びに農民一揆の頻発を背景に,マリア。テレジア,

      Bd.工, hrs昏von A。 Brusatti, Wien,1973 SS.ヨーゼフニ世の啓蒙絶対君主が主として財政的・

403−410.

軍事的観点より遂行した農民保護,農業改革の一

      (1紛VgL J・Pur首, Die Entwicklung des Kapitalis一 Aの諸政策は,農民追放,直営地拡大,賦役強化

mus in der Landwirtschaft der bOhmischen

によるグーツヘル経営の拡大を阻止し,その経営      Lander in der Zeit von 1849 bis 1879, in:ノご一 菇@の転換を迫るものであった。 (Vg1. Kar1      乃7δ〃σんプ寵7曜7歩sc乃4ン「渉sgθs 乃 乃加, Bd.3, Be−

fr菰nberg, Die Grundentlastung, in:Gθε 雇.

@   ..      rlin,1963, SS。39−42.

配θ4β70s 6776∫o雇so乃θ Lσ〃4一μ〃4 Fo73ず一

      (14)Matis,σ.σ.α, S 2a癖κε加拶襯4訪7卯1π4〃s醒鋼,1848−1898,      (均Eゐθ 4σ,S4甑

Bd.1, Wein,1899, SS・5−19)すでに三月前期

にオーストリアの一部先進地域では,賦役の金納  ㈲産業革命の展開と株式銀行の成立

化,農業労働者の雇用へと経営方法の転換の動き   一般に,イギリス産業資本の強力な側圧の下に

(6)

産業革命を展開する後進諸国の場合には,綿業  が,それ自体かかる創立活動の一産物たる株式銀

を起点とする自生的産業革命を遂行したイギリス  行であり,その活動の主要な舞台はウィーン取引       (3)

と比ぺてその初発からより大きな固定資本投下を  所にあった。従って,ハプスブルク帝国における 余儀なくされた。というのは一つには,これら後  産業革命の本格的な展開は,銀行資本の主導する 進諸国の編成替えは競争の強制法則の下でイギリ  株式会社形態での活発な企業創立の過程,即ち創 スがすでに達成した技術,生産力水準を殆んど全  立時代GrUnderzeitとして現象した。1850−57/

ての部門について一一挙に導入することによって完  59年の最初の創立時代,1867−73年の創立熱狂時遂されなければならなかったからである。また第  代がそれであっ農

二にはそうした編成替えの時期が丁度鉄道建設期   しかし,この展開は先に述べたブルジョア的改 に当っており,これらの諸国では多かれ少なかれ  革の基本線よりする制約条件の他に,当該期のハ 鉄齪設罐業靴韓引していくからであ£ プスブル帰国をとりまく世界市場競争の条件並

ハプスブルク帝国の産業革命もその例外ではなか  びに世界市場恐慌の発展段階によっても大きく規       、      (5)った。イギリスの達成した生産力水準を「上から」  定されていた。即ち,ハプスブルク帝国の産業革

導入することによって展開をみた「早期産業革  命はまず第一に,イギリス資本主義を中軸に形成 命」の後,上記のブルジョア的諸改革を前提条件  されつつあった国際分業体制の中で,イギリスの に三月革命後50年代前半期までは,政治的,軍事  側圧と並んで特に等しく生成途上にあったドイツ

的臨から材絶対蟻の強力姻家勧の先導 鮪蟻と嚇烈な競争の下に麟されたのであ

の下に,フランスを中心とする諸国からの外国資  り,同時にまた1857年恐慌,1866年恐慌といった 本の導入によって国有鉄道の建設が推進される。  本格的な世界市場恐慌によっても大きな影響を受 しかし,軍事・官僚機構整備のための国債の大量  けていた。加えて,帝国内の民族闘争や相次ぐ対 発行の負担の過重にあえぐ国家財政の危機はまも  外戦争(クリミア戦争,イタリア戦争,普填戦争)

なく国有鉄道原則を放棄せしめ(1854年の鉄道認  における敗北も基礎過程の推転を圧迫した。その 可法EiSenbahnkOnzessbnSgeSetZの制定),以後  結果,三月革命後のハプスブルク帝国の産業革命 建設のイニシアティヴは民間の手に移った。ハブ  は1859−66年の停滞を挾んだ,緩慢な遅滞せる漸

スブルク帝国では,、政府の投下資本の利子保証に  次的工業化過程乃至経済成長過程として量的には      (7)よって支えられたこの民間主導の本格的な鉄道建  現象したのであった(第1図参照)。

設の開始が,石炭業,製鉄業,機械工業の変革を   こうしてハプスブルク帝国では,産業資本の飛 促迫し・(蒙国経済全体の編成替えを牽引していく  躍的発展は種々の制約条件の下に抑えられていた のであり,イギリスにおける綿業起点の編成替え  が,当該産業革命期には同時に,後のオーストリ の場合とは異なり一挙に莫大な固定資本を投下す  ア・バンガリー金融資本の中核をなす有力株式銀 る必要に迫られたのである。この必要は一方では  行が相次いで設立されていった(第3表参照)。

国内遊休資金の動員により,また他方では国内の  それは,本格的な「工業化」のために商工業の金 資本不足を補完すべく外国資本,主としてフラン  融需要が著しく増大し,三月前期に支配的であっ スやドイツの資本の導入によって充足された。特  た特権発券銀行,オーストリア国立銀行03terre一 に国内遊休資金の動員,集中のためには,ハプス  ichische Nationalbankやロートシルト家に代表 ブルク帝国でも株式会社制度が逸速く採用され,  される個人金融業者Privatbankierの資金供給が 以後株式会社形態での企業の創立活動が盛行をみ  その限界に達したためであり,編成替えはひとえ

ることになった。しかもその場合;投機的性格を  に株式銀行の創設によってはじめて可能となる国 随伴する鉄道並びに工業株式の引受=発行業務を  内遊休資金の動員,集中とこれを補完する外国資 通して企業創立活動を積極的に推進していくの  本の導入とに依存することになったからであ窺

(7)

佐藤:オーストリア・ハンガリー帝国史研究をめぐる諸問題{2)        7 第1図 オーストリアの工業発展の主要指標

(1913年=100)

100

o.

90

層●・●

80

.・曾・ o・o o

70 o

.●

60

・    .

50 A

●o ●・ o,

・ ..

●  ●●,・

40

30

●. 8

E

o 竃,

Oo ・電  ・

20 Io

1848  55 60 65 7。 75 8。 85 9◎ 95 1900 05 1°

13(年度)

_銑鉄生産  一一一綿紡錘数  一一石炭消費量  一ビール生産 典拠,EMatis und k. Bachingeら6sterreichs industrielle Entwicklun島i旦:1万8

17αδs∂κ7gθ7〃20πακ乃fθ1848−1918, Bd.1, S.15α

@      1 第3表  ウィーンおける株式銀行の発展(1816−1883年)

創設数

解  散  数 存続

1873 前11873年「1874年}1875年1876年1・877年i1878年11879蕊年[・883年末 行数

1816−1863年

4

一4

ユ864年 2 2

1868年 4

3

1

1869年

13

7 2 1

1 1 12

1、

1870年

2

1

1

1

187ユ年

12 2 5 2

9

3

1872年 29

18

8

1 1

28

1873年 10

5

1

2 1 9 1

1874一ユ883年 1

1

計 「77171271・41215i31・[ 1621・5

典拠,Matis,α.α.σ, S 220・より作成。

かくてオーストリアでは短期の商業信用需要を満  めとして,中世以来の商業,金融の中心地ウィー たす目的で設立された下部オーストリア割引銀行  ンに有力株式銀行が相次いで設立されていった。

Nieder6sterrdchische Escomptegesellschaft(1853年  フランスのクレディ・モビリェCr6dit Mobilier        、

ン立)を皮切りに,鉄道建設と密接に関連しなが  やクレディ・フォンシェCr6dit Foncierと連繋

らフランスのベレールP6reire兄弟との激しい競  しつつ,当初は主として大土地所有貴族の金融需       り

争の後ロートシルト家を中心に設立されたオー  要に応ずぺく設立されたオーストリア土地信用 ストリ撮初の動産銀御・bilb・nk・財一スト 銀行6・terrei・hi・chお・d・n−Credi・・n・t・1t(1863

リア商工信用銀行6sterreichische Credit−Anstalt 年設立),イギリスのグリ/・ミルズ商会Gly一 fUr Handel und Gewerbe (1855年設立)をはじ  n馬MIIs&Cαとの連繋の下に設立されたイギ

(8)

誌磁孟諮簿継繍購舞撫貰甥:磯罐講難諜数:そ

P三講識謹藩襟騨灘1籔灘i解撫灘謹

またハプスブルク帝国の他の諸地域,チェコや 従って,チェコやハンガリーにおける大部分の

ハンガリーで鮪力株式銀行の設立は,丁度この 有力株式銀徹立の背後には,きまってウ,一ン醐喋中していた・例えば灌難命の主要中 の騎資本の支配の手がみられた.こうして結

P纂灘警1叢1灘欝警鱗;;震瑳縣諜蕪£欝蜷蔓窪蓮臨誌㌫談譜毒繋讐蒙と関連して一群の株式銀行が設立された・下部オ く・かかるウィーンの錨上の桶的鱒ま漉

一ストリア割引銀行との縢の下に設立されたべ 業靴の完了の後,ユ877年に中央発券銀行として

一メン割引騎86hmi・ch・E・c・mp・・b・nk(1863囎され,帝国内の全信用制度の轍をなしたオ年設立)・チェコ最大の商業銀行として設立さ 一ストリア・ハンガリー銀行6、terrei。hi,ch,_

れ・チェコ民族蟻運勉繍的館となるチェ U・g・・i・ch・B・nkの存在のうちをこ最も良俵現さ ヨ・モラヴィア商業銀行Zivnostenska banka pro  れていた。

Chechy a M°「av・(1868鞭立)・そしてこの商 以腰するに,護の倉σ立時代にわたって展開撒行の創立活動に対するウィーン蔚の繊政 するオーストリア・ハンガリーの産業輪を鰍策のためにかストリア資本との胴の下に設立 づけるのは,ウィーンを中心として一連の株式銀を余儀なくされたチェコ地撮初の動産,万能銀 行がまずもって設立され,それによって国内遊休行・チェ聡鱗行Vぎ・・b・n・na 6・・ka b・・k・(18資金の動員,集中力・可能となり,鑓融更には69年設立)等々。       鉄道関連工業部門の莫大な資金需要が充足されて

またかストリア゜ハンガリ己重王国の中・さ いくという形喉開されたことであった.そして膿親帯として固定化され汰土地薦貴旗 そ暢合国内の資杯足を概すぺく主としてフ

唐P鰹響讐1疇1継羅灘雛驚♂1資本との縢の下に主としてマグナーテンや醗 れら諸外国に対するオーストリア.ノ、ンガリーの

資本の信騰要に応ずぺく株式銀行の設立が行な 金融的従属の㈱を不可避とした.しかもまたこ

われていた・ハンガリーの大土地所韻族の禾喀 うした織翫を主導す賄力株式鋤テを事実上関係を代表するハンガリー国民経済連合Orszagos 支配していたのは,ロートシルト家に代表される

Magya「Gazd4gi Egy・・UI・tの鱒下にブダペス 醐的諜・高禾可麟本の系譜に連なる個人金融

トに設立されたハンガリー土地信用鋤テM・gy・・業者並び膿民解放過程において莫大な貨幣資本F61dhiteLTintez・t(1863轍立)・オーストリ を蓄積していく大土地所韻族であった.因み

アとのアウスグライヒの後,・一トシル嫁の主 に,オーストリア・ハン別一におけ磁道緻

(9)

佐 藤:オーストリア・ハンガリー帝国史研究をめぐる諸問題(2)        9

の殆んどあらゆる場合に主導権を握るオーストリ  は,基幹産業部門の重要な担い手となっていくの ア商工信用銀行の監査役会を占めていたのは,ロ  である。特に食料品工業を中心とする農業関連工 一トシルトAnselm von Rothschildやハーバー  業は,消費資料生産部門のうち繊維工業部門が普 Louis von Haberといった金融貴族並びにチェコ  填通商条約(1854−64年)をはじめとし,1860年 の大土地所有貴族,シュヴァルツェンベルク侯  代の一連の自由貿易通商条約の下で先進諸国の強 Johann Adolph Furst schwarzenbergやフユルス  カな側圧を受けて停滞したために・確立期オース テンベルク侯Emil FUrst zu恥rstenbergといっ  トリア・ハンガリー・資本主義の再生産構造全体の

(li)

た高級貴族層であった。特に前者は,三月前期に  中でその比重を決定的なものとしていったのであ

(16)

は絶対王政並びに貴族領主層に対する信用貸付業  る。

務,わけても国債発行業務を主要な蓄積基盤とし   このような独自な産業革命の展開の中で・産業 て成長してきたのであったが,当該の好況期には  資本の飛躍的成長,発展は著しく制約されていた これらの伝統的業務と並んで有力株式銀行設立へ  のに対して,株式動産銀行は万能銀行として・正 の関与によってこれを支配し,旧来の資金動員力  規の銀行業務(当座勘定業務,手形割引業務,抵 の限界を突破するとともに,株式銀行,鉄道建設  当貸付業務)と並んで銀行,鉄道そして工業株式 会社,工業企業の創立・発起活動の領域にも進出  の引受・発行業務を通して莫大な創業者利得を取 していったのであった。しかしながら,このよう  得していったのであり,ここに銀行資本はオース な金融貴族と大土地所有貴族との結合によって成  トリア・ハンガリーの経済生活全体の中で支配的 立した株式銀行の発起業務は顕著な投機的性格を  な地位を確立することとなった・

示すとともに,景況の変動に伴なって激しく動揺   さてこうした株式銀行の活発な発起業務を背景 するのを常とした。というのはこれら有力株式銀  に,1860年代後半以降,オーストリア・ハンガリ 行は,国債発行業務や大土地所有貴族に対する伝  一の産業革命は更に一層強力な展開をみせるが,

統的な貸付業務,工業企業の発起業務,更には対  すでに取引所恐1荒勃発以前の1872年末には・綿業・

外投資業務,商品取引業務等のうち安全にして最  砂糖工業・鉄工業をはじめとする基幹産業部門内 大の収益を生み出す源泉を求めて活動を行なって  に過剰生産の気配が見え始めていた。生産の基礎 いたのであり,国内産業資本の運動に対して一定  過程では,価格引下げ競争が激化し・操業短縮す の自律的な蓄積運動を展開していったからであ  ら行なわれるに到った・しかし・1873年5月のウ る115セの点は,オ_ストリア.ハンガリ_におけ  イーンでの世界博覧会の開催を前に,対仏戦争に る緩慢な漸次的「工業化」過程を考える場合,注  勝利した新生ドイツ帝国からの莫大な資本流入に 目を要する。      支えられ・恐慌の勃発は押し留められ・しばらく ところで一連の産業部門の編成替えの過程それ  は取引所での創立熱狂ブームのうちに泡沫会社設 自体においても金融貴族と並んで大土地所有貴族  立ブームが続いた。かくてウィーン取引所を舞台 の支配的地位は顕著であり,オーストリア・ハン  として,投機的株式銀行をはじめとする全ヨーロ ガリーにおいては,この大土地所有貴族の工業経  ッパの投機家の取引所投機は過熱し,遂に調73年 営が一つの特徴をなした。即ち,広大な山林・土地  5月9日のウィーン取引所の崩壊に帰結する・これ 所有に立脚した木材業,鉱山・製鉄業の経営ある  はドイツを経て全ヨーロッパに波及し・アメリカ いは漸次的資本主義化の展望を持つ半封建的大農  での恐慌勃発によって本格化する世界経済の長期 場経営における小麦,甜菜,大麦,ホップ等の大  的,慢性的不況「大不況」への突入の端初的一契 規模生産とこれを原料基盤とする製粉業,砂糖工  機をなすとともに,オーストリア・ハンガリーに 業,ビール醸造業等の農業関連工業の兼営を通し  おける最初の内発的な全般的過剰生産恐慌の現実 て,オーストリア・ハンガリーの大土地所有貴族  化を示すものでもあった。その意味で当該恐慌

(10)

は,オーストリア・ハンガリーにおける産業資本     体制への転換によってオーストリアからチェコ地

(18)

の確立を告知するものでもあったのである。      方にその生産立地上の中心が移動している。

(cf. Rudolph, o♪ご鉱, pp.46−47.)

(1)ペレンド・ラーンキ『東欧経済史』南塚信吾監訳・  (11)Rudolph, o♪ 鉱, PP.70。7臥

1978年,108−109頁参照。      (12}1.工Berend&G.R加ki,∬翻8・α7箔!1 Cθ ≠一

(2)VgL Matis,σ.α.0., SS.101−109.      μアy o/E60πo吻ゴ D8〃θJo1励θ躍, New York,

(3)Marz,σ.α.0., SS.363−364.尚,ウィーン取引     1974, PP.28−34.

所は1771年国家的機関として設立され,国債を中   ⑯外国資本導入の形態は国債並びに運輸業関連証券 心とする有価証券並びに外国為替等の取引が行な     の形態をとったが,国債のかなりの部分も鉄道建

われた。(Vg1. Matis,α・α・(λ, SS・203−204・)     設関連の支出にまわされた。 (cf. Millward&

(4)Matis,α.α・αSS・9−21・       Sau1,01臥 鉱, PP 322−323.)

(5}当該期の世界市場の編成と後進国の産業革命との   (14>J.Mentsch1, Das dsterreichische Unternehm一

関連については,吉岡昭彦「産業革命の展開」『経     ertum, in:」Dfθ∬訪3う〃プg召ア彫o σ70海θ,1848一

済政策講座』第2巻,75−76頁参照。オーストリ    1918,Bd.1, SS.258−25g.

ア・ハンガリーは三月後,旧来の禁止的高率保護   (15)Rudolph, o♪ 鉱, p.6乳

関税体制から漸次・適度な保護関税体制へ移行す   ㈲且Matis und K Bachillger,6sterreichs ind一 るとともに(1851年7月,内国関税線の撤廃,1851    ustrieUe Entwicklung, in:D∫θ∬如ε枷プgθ7〃2一

年11月,禁止的高率関税制度の廃止),対独自由     o〃σ7凶∫θ,1848−1918,Bd.1, SS.211−21g.

貿易体制を規定した普襖通商条約体制(1854−64   (17)Marz,σ.α.σ, SS.171−173.

年)の下で産業革命を本格的に展開,1860年代中   ㈹pur6, D量e Entwicklung des Kapitalismus, SS.

葉以降にはイギリスを中心とする自由貿易通商条     85−86.

約網に編入されている。かかる世界市場体制への

      (3)大不況と独占・金融資本の成立編入は,当該産業資本の確立過程を規定する外的

(、)例えば綿業は,ドイツ関鯛盟並びにイギリス, の勃発とその後の大不況3到来ば当灘業資本 フランス等との自由貿易体制下での強力な側圧,  の確立を画するとともに,資本主義の世界史的発 イタリア戦争時や南北戦争時の棉花飢鰹による打  展段階に規定されて,当該資本主義の独占・金融 撃などによって,1850年代前半期の発展を除いて  資本段階への推転過程の開始を告知するものでも 1880年代初めに到るまで停滞を続けた(第1図参  あった。

照)。製鉄業,機械工業等においても先進諸国の   産業資本確立期のオーストリア・ハンガリー資 側圧は強力であった・      本主義は,以下のような独自な型制を打ち出して

(7}Matis・α・σ・σ・S・22・      くると考えられる。第一に,当該資本主義の基底

(8)EMarz und K S。che「・Wah「ung und Ban一@ は農業進化の「プロシア型」のコースをとって漸

ken in Cis1elthanien, in:ヱ)∫θ17σδsゐκ79θ7〃30π一

@       次,資本主義化していく展望をもつとはいえ,当

αアc雇θ,1848−1918,Bd.1., hrsg. von A. Brus一

@       面は尚,半封建的隷従関係の下に置かれた特殊な

 atti, Wien,1973, SS 329−331.

@      農業労働者を直接生産者とし,貴族的大土地所有{g)Vg1. Eδθπ4σ, SS.339−342.

制に立脚した半封建的大農場経営の支配にあるこ

(10)製鉄業では,1880年代以降のトーマス法の導入を   (2)

@       ために農村購買力の低さと限られた大土地所       と。 契機にその生産中心地は,伝統的なシュタィエル

       有貴族の奢修的消費とが規定する国内市場の狭隙マルク地方から石炭と含燐鉄鉱石の地理的近接と

いう好条件に恵まれたチェコ地方に移っていく. 性が,麟資本の蓄積減長を著しく制約してい ネ業では,トリエステ経由の近東棉依存体制から  ること・第二に,主にその農業・土地所有の変革 ハンブルク,エルベ河経由のアメリカ棉輸入依存  の独自性並びに前期的個人金融業者の支配する金

(11)

佐 藤:オーストリア・ハンガリー帝国史研究をめぐる諸問題(2}        11

融構造の特殊性とが必然化する一般的な工業投下  の故にオーストリア・ハンガリーの産業革命ば 資本不馬外国資本への依存によって,オースト  大土地所有貴族個人金融業巻問屋制大商人に

リア・ハンガリーはドイツ,フランスを中心とす

驫O国列強への金融的従属の型制によって特徴づ 第4表 就業別人口構成の国際比較(1920世紀の交)

けられる従属資本主義国として自己形成を遂げる 降林剰鉱工剰諜騰

こど1魔三に,オーストリア・ハンガリーの産業

オーストリアa) 60.9 23.3f)

5.4

革命はイギリスを先頭とする先進資本主義諸国, ハンガリーa) 68.6 13.4f)

4.1

わけてもドイツの強力な側圧の下で展開された結 ド  イ  ツb)

35.2

37.5

12.4

果,量的には工業化の飛躍的展開は阻止されると イ ギ リ スc)

13.0

45.8f) 21.3

ともに,質的には側圧の強度によって規定された フ ラ ン スd)

I ラ ン ダe)

41.8 R0.7

35.5

R3.7

9.5 n1.7

部門間の不均等発展によって特徴づけられ,オー アメリカ合衆国a) 35.9

24.1 16.3

ストリア・ハンガリーの経済構造は,尚農業的性

       a)1900年,b)1907年, c)1901年,アイルランドを格を色濃く帯びた(第4表参嘱〜特異な産業構造   含む,d)1906第e)1899年, f)風俗営業を合む。

(第5表参照)を打ち出すこと。第四に三月革命   典.拠,Matis,α.σ.α, S 423・より作成 の挫折,「上から」の不徹底なブルジョア的改革

第5表  オーストリアとチェコの産業構造(1885年)

単位%

オ ー ス ト リ ア

チ    ェ    コ

付加価側就業者陣用馬力 付加価値障業者陣驕力

鉱   山   業 7.75 20.59 9.70 8.19 24.78 18.01 冶   金   業

@ 械  工 業

3.45

R.57

5.94 T.42

11.80

P.76

2.62

P.82

{翫37 3.65 R.30

食料品工業 61.52 26.60 55.72 63.33 24.61 36.30

繊 維 工 業 22.23 38.19 19.74 22.35 37.18 35.19 陶器・ガラスエ業

1.48

3.25 1.27 1.78 8.06 3.55

計  【1・㈹  1⑳・・i・・α・・}・・q・・11・α・・1・・q・・

典拠,Rudolph, oρ・σ ≠., PP・42−43・より作成

         (6)

謔チて主導的に担われ,一方では少数の巨大企業  の蓄積運動は産業資本の蓄積運動に対して自律的

が成立するとはいえ,他方では技術者型の独立小  に展開され,その優位支配が決定づけられてい      (9)

商品生産者の産業資本への「ドから」の自生的転  ること。第六に,オーストリア・ハンガリーにお 化の展望は押し留められ,オーストリア・ハンガ  ける産業革命の展開の中で,民族的,地域的市場 リーに独自な産業構造における小営業のイヒ旬ヒ を背景に独自な蓄積基盤に立脚したチエ裾族資 Petrif三kat三〇n des Kleinbetriebesに帰結すること。  本,マジャール民族資本等の拾頭によって,民族 第五に,当該資本主義における主導的・支配的資  闘争の新しい経済的基礎が創出されること。そ 本は,産業資本的蓄積に対する種々の制約条件の  れによって当該資本主義は,その共同帝国市場 故に,主に土地貴族と金融貴族との結合をもって  common imperial marketという統一的・求〔〉的

成立レ利子産み資本であると隙・諜資本的 離の帖強力な遠酌分澱因を同時々こ内

@能をも吸収した銀行資本であり,この銀行資本  包するという特異な多民族国家の経済構造を持つ

(12)

(11)

に到ること。       ハンガリー資本主義の構造を大きく震捲させた。

このような当該資本主義の独自な構造は,端的  ウィーン取引所を舞台とする過剰信用,過剰投機 には先進資本主義国と比ぺての工業生産力の立遅  の破綻を契機に,銀行,鉄道会社,建設会社の破 れ(第6表第7表参照)として現われている。  産が相次ぎ,繊維工業,鉄鋼業,機械工業をはじ       (12)

チに,構成高度化,生産の集積の物質的基礎をな  め基幹産業は深刻な不況に突入した。恐慌は農業 す鉄鋼業の発展の国際的劣位は覆い難く,これが  関連工業をも巻き込み,それは更にこの部門への オーストリア・ハンガリーにおける独占形成に一  原料供給者たる農民経営には壊滅的作用を及ぼす 定の制約を与えるとともに,後にみるようにこう  とともに貴族の大農場経営に対しても深刻な打撃 した産業資本の成長の未成熟性は,大不況脱却以  を与えた。また,農業ではこの時期の連年の不作 降の本格的な独占,金融資本成立の際の銀行資本  に加えて,交通革命の結果,アメリカやロシアか の圧倒的優位,主導性をも規定していくこととな  ら安価な穀物がヨーロッパ市場に大量的に流入し るのである。       たことは,ヨーロッパの穀倉としてのオーストリ 第6表 綿紡錘数の国際比較(1870−1913年)   ア ハンガリーわけてもハンガリーの農業不況

単位,100万錘 を深刻かつ慢性的なものとした。更に大不況の到

1 811卑[1889!年} 8gll年}19°鞠191%年

来に伴ない,有力株式銀行は工業企業の発起業務 ゥらは一斉に手を引き,安全な高収益の源泉を求 イギリス 35.9 41.2 44.9 46.6 54.6 めて正規の銀行業務にその活動を後退させていっ フランス

h イ ツ

4.0 S.3

3.9 S.9

4.4 U.0

5.9 W.4

7.2

P0.5

た。こうして不況は慢性化し,工業製品並びに農

ロ  シ ア

3.7

8.6

産物の持続的な価格低落の下で,工業並びに農業      (13)

オーストリア・ハンガリー

1.5 1.8

3.2 4.7

の生産は深刻な停滞に陥ったのであった。

@こうした不況の深刻化に対応してオーストリア イタリア

1.0

4.4

・ハンガリーでは,1878年6月の自主関税体制へ

典拠,N. T Gross, Die Ste11ung der Habsburge一

の移行を転機として,1882年には農産物並びに工

「monarchie in der Weltwirtschaft・in:D∫θ  業製品関税の大幅引上げによって保護関税体制に

∬αδ3蝕78θ7 zo紹7 雇θ・Bd・るWien・197葛  移行するとともに,この防壁の内側で,国内市場

&2臥より作成・      価格引上げ,販売市場分割,生産量規制等を目的

第7表  鉄・鋼生産の国際比較

とする一連のカルテル結成がまずは工業大企業の      (14)イニシアティヴの下に推進される(第8表参照)。      レー・ル

騰諜靱鞭隅罐響1年) 1878年の鉄道軌条カルテルの結成を先駆として,

イギリス 134.6 3157 1886年の鉄カルテル,1888年のソーダ・ヵルテル

アメリカ@合衆国 47.0 1890年の銅線カルテル,1891年の砂糖カルテル,

ド イ ツ

33.3 2563 1892年の石油カルテル等が相次いで成立するが,

フランス 23.6 744 このうちオーストリア・ハンガリーを代表する独 オーストリア。

nンガリー

8.5

486 占的結合は,鉄,砂糖,石油のカルテルであっ

ロ シ ア 429 た(第9表参照)。しかしオーストリア・ハンガ

ベルギー・

11.3

244 リーにおける独占形成は,産業資本の蓄積が制約

典拠,Matis,σ.α.α, S.180. されていたために,第1部門の飛躍的発展のうち

に示される生産の集積が必ずしも充分な展開をみ    (15,

さて・大不況の過程は同時に慢性的な農業恐慌  ることなく,不況期における弱小企業の淘汰によ を随伴したことによって,脆弱なオーストリア・  る資本集中を主要な局面としで展開された。そし

(13)

佐藤:オーストリア。ハンガリー帝国史研究をめぐる諸問題(2)       13

第8表 オーストリアのカルテルの発展 激化と国際カルテル結成の動向に対して余儀なく ウれた防御的対応としての側面を強く有するもの

年劇カルテ磁          (16)

ナもあったのである。

1880

4

大不況期に始まるこのようなオーストリア・ハ 1886 7 ンガリーにおける独占形成は,大不況脱却以後,

1888

18

銀行資本の圧倒的な主導性の下に新たな展開をみ 1890

P897

18

S0 せる。オーストリア・ハンガリーでは,1880年末 1900 57 の世界的好景気を背景に新興石油,化学,電機工 1905 約100 業の躍進と国右鉄道網の建設,わけても世界市場 1907

100

分割闘争の激化によって促進された帝国主義的軍 1909 120 備拡張,建艦競争に伴なう大規模な財政支出に支 1910

P912

122

Q00以上 えられた軍需工業の躍進のうちに大不況は克服さ

黷驕Bかかる基礎過程の推転に照応して銀行の工

典拠,J. Kfi茗ek, Die wirtschaft!ichen G「undzOge@業政策は転換さ払再度創立活動が活発となり,

des 6ste「「eichisch儒unga「ischen ImPe「ialis一@ オーストリア・ハンガリーは第三の創立時代(18 m・・i・d・・V・・k・ ・gszeit(19°研1914)・ 96_1913年)を迎え£?この過程にお・・て銀行資 P「aha・196箒2&@     本は自らが集中・独占の傾向を強めつつ,外国資

第9表 カルテルの産業部門別分布状況

本との密接な連繋関係にあるウィーンの大銀行を      9

カルテル数 帝国全体の銀行網の統合,支配の頂点としてほぼ

l群の巨大銀行グループを形成していった。ドイ 産業部門 1890年 1900年 ツのディスコント・ゲゼルシャフト Disconto一

鉄工業 8 7 Gesellschaftと連繋したオーストリア商工信用銀 金属工業

1 6

行=下部オーストリア割引銀行グループ,同じく 石 炭業

1 2

ドイツ銀行Deutsche 8ankと連繋したウィーン 化学工業

@維工業

2一 15

X

銀行連合グループ,またイギリス,フランス,オ

食料品工業 3

5

ランダの銀行と連繋したイギリス・オーストリア

ガラス工業

1

3 銀行=レンダーバンクLanderbank=ウニオン銀

陶器工業

1 6

行Unionbankグループ,そしてフランス資本と

1

4

/計 い8157

連繋したオーストリア土地信用銀行グループが,      (18)

サの四大銀行群であった。こうして成立する巨大

典拠,

K瀧ek,σ.α.α, S.27. 銀行独占は以後発起業務,創立活動の拡大はも

ニより工業企業への直接参与関係の拡大,交互計 て当該期における結合の形態は,工業企業相互間  算勘定業務を媒介とする工業企業への長期信用の の価格協定を中心とした比較的結合力の弱いカル  供与,また監査役の派遣をもって表示せられる人 テルの形態をとるに留まり,産業循環の推移とと  的結合関係の形成によって・工業企業を自己の勢 もに消滅,生成を繰り返した。しかもこうした一  力範囲のうちに組み込み・これを支配していった 連のカルテル結成は,集積・集中過程の充分な展  のである・例えば・商工信用銀行・下部オースト 開を踏まえた強者の結合というよりはむしろ,国  リア割引銀行,ウィーン銀行連合の三行は・鉱山・

際競争力が依然として極めて弱体であったオース  製銑機械の重工業部門に合わせて約7,000万ク トリア.ハンガリ_工業が,世界市場分割闘争の  ローネンの株式資本を掌握し,交互計算勘定並び

参照

関連したドキュメント

-2-

 24 彦根論叢 第238軽

能であったのではなかっただろうか。もとは本命星に祈念すると軍神が現れ、勝利を

 な書きぶりからも知られるとおり,柳田はミコが本当に死者の声を伝えているとは考えていない。

 アジア経済の発展にともなって東アジアの諸港はめざましい躍進を遂げてきた。これにとも

まさに決定的な点で,諸民族の代わりに帝室直属地を押し付けるなら,民族的問題(nationale

されているのですね. 村上陽一郎氏は 『ペス ト大流行』(岩波新書,1983年) のなかで,

というのは正 しいであろうか。実 はこれ自体 は間違 いではない。 しか し日和見 主義 におちいる原因は,主 に政治的 ・社会的原因である。例えば,合法性