「子供の歴史」をめぐる諸問題(I)
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(2) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題 〔工〕. 浜. 忠. 雄. 本稿は, 1985年度後期に行った世界史概説 (工) の講義のために作成したノー トを整理し, これに若干の 補筆・修正を加えたものである.本誌を・ 借りて講義ノートの発表を試みたのは,次のような理由によっ ている, もかかわっ て, 大学教育の在り方そのものを再検討しようと 近年, と りわけ学生の 「実態」 をめ ぐる議論と● する動向が顕著であり,すでに講義形態や講義方法の改善を目指した実践例や提言も数多く報告されるに至っ ている, しかるに, そのような報告に触れるにつけ残念に思うのは, その講義なりゼミナールなりがどのよ うな内 容でなされたか が必ず しも詳細に示されていないことが多いことである, 形態や方法は当然講義内容 に規定され ざるをえな い. とすれば, 「大学における教育実践」 の課題は, 究極のところ, 講義やゼミナール の内容そのものの問題であるといって過言ではないであろう,本稿は,私が担当するひとつの講義を通して「大 学における教育実践」 の自己点検を試みるための準備作業である,. はじめに 今年度は, この講義のテーマを「『子供の歴史』をめぐる諸問題」としました, かつて私は講義テー 17世紀の全般的危機』と子供たち」(1981 マを毎年変えるようにしておりましたが,最近5年程は,「『 , 1 9 8 3 ヨーロ 198 2年) 「 アンネ・フランクとその時代 」( 年 ) 「 ッパ 史のなかの子供たち」(1984年) , , , そして今年の 「『子供の 歴史』 をめぐる諸問題」 というように, すこし焦点を絞るようにしてきて い ま す, そ の 焦 点 と は, ひ と 言 で い え ば, 「子 供」 で す.. 私が 「子供」 に目を向けようとしたのは, 私たちの大学が教育大学であるということとも無関係 で はありませんが, どちらかと言うと, それは副次的な理由です, むしろ, 子を持つひとりの親と. して, いわゆる 「落ちこ ぼれ」 や 「非行」 に始まり, 最近では 「いじめ」 や 「体罰」 などへと, 一 層深刻の度を増しつつ ある子供をめぐる危機的な情況に無関心でいることができず, ついては, こ. うした 「子供」 の問題を歴史的に追跡してみたい, と考えたのが発端でした, 「子供の歴史」 は私 にとってはあくまでもサ ブ・ワークにすぎませんが, 少し調べ始めると, 近年の歴史研究を特徴付 ける顕著な動向のひとつである 「社会史」 の研究成果に触発・啓蒙されるところが多いこと, そし. て, これまたサ ブ・ワークで続けてきた 「女性史」 ともリンクすることに気付かされたわけです, 「子供」 へのア プローチは多様にありうるでしょう. 現に, 教育学や心理学をはじめ, 生物学, 文学; 文化人類学などでの研究は枚挙に暇がないほどです, ところが, 歴史研究からの接近となる と大変心細い状態にあることに気付きます. 「子供の歴史」 に関する本格的な研究は非常に少なく, つが 国 で 研 究 成 果 が 公 け に さ れ る よう に な っ て き た の は, こ の 数 年 の こ と に 過 ぎな い, と 言 っ て よ. いのです. とくに注目されるのは, 『日本子どもの歴史』(全7巻, 第一法規, 1977年) に続いて, 『世界子どもの歴史』(全11巻, 第一法規,1984~1985年) が最近完結をみたことでしょう. 「世界」 といってもヨーロ ッパが中心 であり, ヨーロ ッパ以外では 「アメリカ大陸」 , 「中国」 , 「アジア」 に. それぞれ1巻が割かれているにすぎないとはいえ, まことに画期的なことであ って, 編集者が 「世.
(3) . 浜. 忠. 雄. 界に類例=先行例 のない出版企画」 と自負するのも当然のことと思います, ここで, その 『世界子どもの歴史』 の 「発刊にあたって」 の一文から少し引用 します.. 「子 どものいない時代はありません. ……しかるに, 各時代の子どもたちが具体的=現実的 にどのような生き ざまを残してきたかという問題について, これを明らかにした書物は殆ど皆 無といえます, たくさんの教育史が書かれま したが, その大部分は<子 ども不在>の教育史で し か あ り ま せ ん. … … 考 え て み れ ば, 重 要 な 視 点 を 見 逃 して き た も の で あ り ま す. … … 本 シリ ー. ズ は, さきに述 べ た<子 ども不在>の教育史の欠落部分を補い, 隣接諸科学の学問成果により 獲得された ”新視角” から 『子 どもの歴史』 を描きだそうとの意図から立案=企画されま した, 子どもという生物的かつ社会的な存在が, 人類史のなかでどのようにして生きてきたかを具体. 的かつ科学的に把握し, ひいては, 今日の子どもたちの生きかたを明らかにし, それに対する われわれ大人たちの責任をも明らかにしたいと念願した次第であります, ……」 「子供の歴史」 がにわかに注目されるようになっ た背景のひとつには, この一文から窺えるよう. に, 子 供 を め ぐる 今 日 的 な 諸 情 況 があ る わ け で す が, いま ひ と つ に は, フ ラ ン ス の 歴 史 家 フ ィ リ ッ i l i i es プ. ア リ エ ス (1914~1984年) の 著 書 (Ph 『 腐 り定 危’ ’ z満雄es o“s 物粥彩れ ppe Ar , 8物α〃ze. とその邦訳出版 (杉山光信, 杉山恵美子訳 『<子供>の誕生』, みすず書房, 1980年) がもたらした知的イ ンパク ト, を挙 げなければなりません, 「子供の歴史」 研究は, アリ i 960) 〆 egzma P r a s ,1. ま し よ う, エ ス の こ の 著 書 に 触 発 さ れ た面 が ま こ と に 大 き い と い え・. さま ざまな時代・さま ざまな地域の子供の実相に迫るというのには, いま尚ほど遠い状態であり ますし, また, いっ たい 「子供の歴史」 研究はどのような新しい歴史認識をわれわれに提供するこ. と に な る の か と い っ た 点 な ど, 多 く は今 後 の 蓄 積 に 待 た な け れ ばな らな い と こ ろ で はあ る け れ ど も,. 少なくとも, 従来 はほとんど見過 ごされてきた, そして僅かに子供観とか教育思想を通して垣間見 る程度で満足しなけれ ばな らなかっ た 「子供の 歴史」 に徐々に直接照明が当てられつつあるのは確 か だと 言 っ て よ い で し ょ う.. 以下, この講義では, まず最初にアリエスの 『<子供>の誕生』 の概要を紹介し, その後アリエ スの論説にかかわるいくつかの問題をとりあげ, 私なりの考察を加えてお話しする予定です.. 1. アリエス 『<子供>の誕生』 アリエスの著書の原題は 『アンシャ ン・ レジーム下の子供と家族生活』 です が, 彼は, 絵画, 服 装, 遊び, 性習俗, 学校な どの分析を通して, ヨーロ ッパ における 「子供 (期) へのまな ざし」 =. 「子供の発見」 がす ぐれて17世紀のものであることを検証しつつ, これを, 家族史ともかかわらせ て論じています. 叙述は多岐にわたります が, 概要を ごく簡単に紹介する ことから始めます. ④. 絵画のなかの子供たち. 「ほ ぼ17世紀までの中世芸術では, 子供 は認められていず, 子供を描くことが試みられたことも なかっ た. だが中世芸術における子供の不在は器用さが欠けた ため, あるいは力量不足のゆえであ る と は 考 え ら れ て い な い. そ れ よ り はむ し ろ, こ の 世 界 の な か に子 供 期 に と っ て の 場所 があ た え ら. れていなかっ たと考える べきであろう」(邦訳35頁, 以下同じ) , 子供たちは中世の絵画から排除さ. れ て い た の で はな い. しか しそ れ は, 宗 教 画 に 描 か れ るイ エ ス や マ リ ア の 子 供 像 で あ っ た の で あ り,. 風俗画の中で子供 がたまたま描かれることがあっ ても, それは子供期だけをもっ ぱら表現しようと したものではなく, 仕事や散歩や遊 びと いっ た日常 生活の中で大人たちと 「混在」 ないし 「合流」.
(4) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題 〔1〕 して描かれたにすぎない (3 8~39頁) , しかるに, 「子供だけが単独に描かれる肖像画の数が増大し ありふれたものになっ ていくのは17世紀のことである. 子供の肖像画よりずっと古い歴史を持つ家. 族の肖像画が子供を中心にした構図をとる傾向を見せるのも, また17世紀のことである」(47頁) , 17世紀を画期とする,こうした子供画の世俗化と量的増加は次のような意味をもつ,「新しい感性は, こう した脆弱で, 生命の危険におびやかされている存在にたいし, 以前は認識されてもいなかった ある特異性を認めていくことになる. あたかも社会一般の意識がここに至って初めて子供の魂もま た不滅のものであることを発見したかのようである. 子供の人格に与えられたこの重要性は, たし. かに一層深いところで習俗がキリス ト教化されたことと関係している」(44頁) . ⑤. 子供たちと服装. 絵画にみられる特徴は, 服装の場合も同様であっ て, 「子供服」 が現れるのは, やはり17世紀の ことである. 「中世にはどんな年齢区分とも無関係な服装がされていたのであり, 服装によって配 慮 がな さ れ た の は 社 会 的 ヒ エ ラ ル ヒ ー の ど の 段 階 に い る か を 明 示 す る こ と だ け で あ っ た. 服 装 の う. え で大人から子供を区別するものはなにもなかった. ……しかしながら17世紀になると, 貴族であ れブルジョワであれ, 少なくとも上流階級の子供は, 大人と同じ服装はさせられていない, 本質的. なことは次のことにある, すなわちそれ以後になると, 子供の時期に特有の服装があらわれ, それ は大人の衣服と区別されるということである. このことは, 17世紀初頭の多数の絵画を一瞥すれば 明らかである」(50~5 1頁) )すなわち r obe . ところ で, 大人と区別された 「子供服」 とは, ロー ブ( 裾長の衣裳であり, 「今日の男性が実際につけている服装の祖先 である裾の短い服装, 正真正銘の. ショース( h )へと大人の服装が置きかえられる一種の服装革命以前の服装 である」(55頁) us c a s e .. すなわち, 「最初の子供服は, 1世紀前には大人たちのだれもが着 ていたが, それ以後には子供だ. けしか着用しないことになる衣裳だったのである, 子供たちのために服装を一式考案するなど, 明 らかに不可能であった. とはいえ服装によって一種可視的な仕方で, 子供たちを分離する必要性が 感 じとられていた. それゆえ, 子供たちのために, 一部の身分の人びと に伝統的に保存されている. が,もはや着用されなくなった服装が選ばれたのである」(56頁,傍点は訳書,原文ではイタリ ック) . また, 「子供服」 は主として少年のために用意されたもの であって, 「他方少女たちはさらに長期に. わたり伝統的な生活様式のうちにとどまり, 大人の女性と区別なしに一緒にされていた」(60頁) . この 「特殊化」 は, さらにまた, 専らブルジョワないし貴族の家庭にのみ起こったことであり, 「農 民や職人など庶民の子供たち, 村の遊び場や, 街頭や, 職人の店先, 居酒屋のなか, 邸宅の調理場 のなかで戯れていた子供たちは, いつも大人たちの服装をしている. 庶民の子供たちがローブを着. たり飾袖の服装で描かれることは決してない, この子供たちは, 服装のうえでも, 労働の上でも, 遊びの上 でも, 子供と大人とを分離することのなかっ た古い生活様式を保ち続けるの である」(60. 頁) , 以上を要するに, 最初の 「子供服」 は, 貴族・ ブルジョ ワの男児に限定して, またスカー ト 型のもの (つまり女性化) として出現したということ である. ⑨. 子供たちと遊 び. 「当時 (中世 -- 筆者) は今日見られるような子供用の遊びと大人が行う遊びの間に厳密な区 別は存在していなかったように思われる. 同じ遊 びが, 大人と子供の双方に共通であったのである. 17世紀初期になると, こうした遊びの大人との共有は, 幼児については見られなくなっ た」(65頁) , 子供の遊びは, もともと大人の遊びでもあったが, 「後になると大人の社会では放棄され」(67頁) たものであり, その意味では, 「子供期は大人によって放棄された習俗の宝庫とな っていく」(68~ 69頁)のであり,「子供は最も守1 日的な人間社会を構成している」(6 6頁)ともいえる. こうした 「遊 びにたいする近代的態度」 が確立されるに伴っ て, 「それ以後悪い遊びに分類されたものを子供に. 3.
(5) . 浜. 忠. 雄. 禁止し, それ以後良いと認められた遊びを子供に仕向けて, 子供の道徳性を保ち, また教育もしよ うとする, 以前には見られなか っ た配慮 が生まれるのである」(79頁) . また同時に, 上流階級と庶 民との間にも違いが発生する. すなわち, 「私たちは遊びがどの年齢にもどの身分にも共通であっ た社会状態から出発した. 強調しなけれ ばならな い現象は, こうした遊戯が上流の社会階級の大人 の間ですたれていき, 逆に, 庶民と同時に上流階級の子供たちの間に残されていくことである. … …古い遊 びの共同体が時を同じく して子供と大人, 大衆と ブルジョワジーの狭間で崩壊したのは, 実に注目に値することである. この符号は, すでに子供期の意識と階級意識の間の関係を垣間見せ てくれるのである」(96頁) . ④. 淫らから慎みへ. 性的な, とくに子供を前にして提談を口にすることを慎む 「現代のモラル」, 「この感覚はまさし く旧社会のあずかりしらぬものであっ た」(96頁) . 「子供を前にしてこの慎みのなさ. いささか度 の過 ぎた性的な冗談に子供を巻き込むこの流儀に, 私たちはただ驚く ばかりである」(99頁) . しか 16世紀以来執筆されてきた一群の礼儀 し, 「 17世紀になると習俗に 一大変革が現れる」(106頁) .「 作法集の中では, 大人向けのものと子供向けのもの を識別するのはきわめて難しい」 が, 「この混 同は17世紀になると次第に減少していく」 . 「大人の書物とは区別される, 子供向けの教育的な文献. が出現」 して, 「自制」 や 「慎ましさ」 が説かれるようになるのである (115頁) . ◎ 学校・家庭と子供たち 子供は, 中世社会においては, 「小型の大人」 として扱われた, しかし, 次第に, 「子供を大人た. ちと一緒に混清するに先立って, ある特殊な体制のもとに, 世界から隔離された体制のもとに置い ておく必要 があることが認められるようになる」(385頁) . その 際に絶大な力をもっ たのが, 学校 と家庭であっ た. すなわち, 「家庭と学校とは一緒になって, 大人たちの世界から子供をひきあ げ. させた. かつては自由奔放であっ た学校は, 子供たちをしだいに厳格になっていく規律の体制のう ちに閉じこめ, この傾向は18世紀・19世紀には寄宿生として完全に幽閉 してしまうに至る. 家族, 教会, モラリス ト, それに行政者たちの要請は, かつては大人たちのあいだで子供が享受していた. しま っ た」(386頁) 自由を, 子供から奪っ て・ . こう した子供の 「私化」 は, 同時に, 家族の観念や その在り方をも変化させた. 中世家族が有した社交性や開放性は, しだいに稀薄になる, しかも, 「近代の家族は, 子供たち だけ でなく, 大人たちの大部分の時間と関心をも, 共同の社会生活から ひき戻 し」(386頁) , こうして, 両親と子供とからなる, きわめて閉鎖的な核家族に価値をおく, 新しい家族の意識 が形成されることとな ったのである.. アリエスが, 17世紀の社会の中から抽出した 「子供の発見」 とは, 一言でいえば, 子供の 「囲い 込み」 と でも言う べき現象 ですが, アリエスは, 近代の子供観がそのような性格のものとして開始. されたことを, 批判的に捉えて叙述しているわけです.. と こ ろ で, ア リ エ ス の 著 書 に は合 計25枚 の 図 版 が 収 録 さ れ て い ま す の で ひと 通 り 見 て い た だ き ま. すが (ただし, 本稿では, 図7-④の1枚を除いて省略した) , 「服装」 , , ここではさらに, 「絵画」 「遊び」 にかかわるものに限られますが, 別の手段で得られた図版も示しておきます, 美術史や服 装史の研究や図版・画集は数多く出版されておりますが, 残念なことに, 「子供」 を主題に編集し た便利なもの は未だないようです. そのため, 僅かな図版しか示すことができません (また本稿で は, 紙幅の制約から講義で示したもののうち約半分を割愛せざるをえなかっ た) , 図 1 はラ フ ァ エ ロ の, 図 2 はダヴィ ンチの聖母子画です が, 中世美術が中心的に描いた子供=イ. エス像の代表例でしょう. ちなみに, 山折哲雄氏はこのふたつの絵に描かれた幼児イエスの表情が. 4.
(6) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題 〔1〕 ま る で 違 っ て い て, ラ フ ァ エ ロ の 場 合 は 「い か に も 子 ど も ら しい」, 「穏 や かな」 表 情 で あ る の に 対. して, ダ ヴィ ン チ の方 (た だ し, こ の 絵 は ダ ヴィ ン チ 自 身 で はなく ボ ル トラ ッ フ イ オ と い う 人 物 に. よっ て完成されたと考えられているようです) は, 「見る者をにらみつけるような不気味な」 , 「す ごい」表情になっているのを見て取っておられます, 言われればそう見えなくもありません. ダヴィ ンチのイエスの手や足は母から逃れようとするような動きを感じさせます, 山折氏はそこからさら. に, 子供というものには, 「純粋で, 汚れや罪を知らない, 柔和で可愛らしい子ども」 と, もう ひ とつ, 「肉体は子どものままであるけれども心が人間の深淵を見てしまっ た, 精神と肉体が極端に. アンバランスな形で成長した子ども」のふたつの類型がある, ということを指摘しておられます(山 85年, 所収) 折哲雄 「子 どもと老人」 , 図3 か ら図 6 , 本田和子他,『子 どもの発見』, 光村出版, 19. までは, アリエスが 「家族の肖像画が子供を中心にした構図をとる傾向」 と書いていたものに相当 すると思われる, 18世紀から19世紀初頭の作品です. いずれも, 健やかな子供と明るい家庭が描写 されています, 図7では, ロー ブ型の男児用子供服の諸例としてアリエスの著書に収録された◎幼. 8~32年頃) 少のアンジュー公のほか, ◎ヴァ ン・ ダイク画の 「紳士と息子の肖像」(162 , ◎同じヴァ. ン ・ ダイ ク 画 に よ る 「チ ャ ー ル ズ 1 世 の 子 供 た ち」 (チ ャ ー ル ズ, メ ア リ, ジ ェ ーム ズ) , ④ ルイ14 ズ ベ ー 1 8 4 1~1 0年) F・D・ロ ー 1 8 8 2~1945年) ◎ エ ドワ ド7 世 ( 9 1 ① ル ト ( 世 (1638~1715年) , ,. の幼年時代の肖像画・写真も挙 げま した, メアリを除き全て歴とした男の子です, 「遊び」 につい ては, 図8の ブリュー ゲルの有名な作品 「子供の遊戯」(1560年) の他に, 阿部謹也氏の 『中世の 窓から』(朝日新聞社, 198 1年) から借用 した図9の図版もご覧ください.. 2, ア リ エ ス 学 説 への い く つ か の 疑 問. アリエスが挙げた例証は実に膨大で, そのような知見に欠ける者にとっては, まことに興味深い ものばかりです. 私自身, あえて異を唱えるべき材料をほとんど持ち合わせておりませんから, ア リ エ ス の 所 論 の 多 く は そ の ま ま 受 け 入 れ る ほ か な い の で す が, こ の 本 を 読 ん だ と き, いく つ か の 疑. 問を抱きました, 以下に列挙します, 第1. アリエスは, 17世紀以前の絵画では宗教画を除けば, 子供が主題になることはなかったと し て い ま す が, 果 た して そ の よ う に 言 い切 っ て い いの だろ う か, 図10~ 図15 , あ る い は先 に 挙 げた. ブリ ューゲルの 「子供の遊戯」 もそうですが, 子供が主題になっているか, あるいは主題にはな っ ていないにしてもその構図の中で重要な役割を占めている絵が, 主に民衆画の領域になりますが, 存 在 す る の で す. ア リ エ ス はこ れ ら を 無 視 して い る よう だ が, 果 た して 妥 当 で あ ろ う か. 第 2. な. ぜ服装によって 「一種可視的な仕方で子供たちを分離する必要」 があっ たのか. また, 「子供服」. が貴 族 ・ ブ ル ジ ョ ワ の男 児 に 限 定 さ れ て, か つ ロ ー ブ 型 が 採用 さ れる こ と に な っ た の か何 故 か, そ. れらの点についての説明 が見当たらない. ロー ブ型の男児用子供服は, 当時どの程度普及したもの か 定 か でな い が, 少 なく と も 後 の 時 代 ま で 長 く か つ 広 く 継 承 さ れ た も の で はな か っ た だ け に, こ の. ような特異な服が考案された理由の吟味は不可欠であると思われます. 第3, アリエスの考察は余 りに 「都市」 に偏り過 ぎてはいまいか. 例えば, 「古い社会では, 労働は1日のうちに今日ほど多. くの時間を占めていず, 世論の上でも重要視されることはなかった. つまり1世紀ほど前から私た ちが労働に認めている生活上の価値は, 有していなかっ た」(70頁) という指摘は大変気になると. ころである, 最後に, アリエスは, 幾度も17世紀の画期性を指摘しているが, 「子供の発見」 がほ か な ら ぬ17世紀 に現 象 す る こ と に な る の は何 故 な の か. 敷 延 した 説 明 が 欲 し い と こ ろ で あ る,.
(7) . 浜. 忠. 雄. 以上が当時の主な疑問であり, 今も変らず抱いているものです, そのうちでも, とくに気に懸っ. て き た の が, 最 後 の 「な ぜ17世 紀 な の か」 で あ り ま し た. 比 較 的 最 近 に な っ て 知 っ た こ と な の で す. が, 1984年11月 に刊行された 『子供の社会史, 子供の国家史』(『叢書・産育と教育の社会史, 4』, 新評論) 所収の座談会の中での福井憲彦氏の発言によると, 「アリエス自身, 『子供の発見』 がある 時期に行われたというような言い方はおそらく間違いだ, とのちに語 っています」(38頁, 傍点筆者) と の こと で す. 私 自 身 は 確 認 で き て い な い の で す が, も しア リ エ ス が 自説 を 修 正 したの だ と す れ ば, 私 の 疑 問 は 的 外 れ で あ っ た と い う こ と に な り そ う で す が, し か し, に も か か わ ら ず, 「な ぜ17世 紀. なのか」 を考察しておくこともあながち無 意味ではなかろうと考えております. そこで, 次からは そ の 話 に 移 り ま す.. 17世紀の全般的危機」 と子供たち 3. 「 l 17世紀の全般的危機」(Gen e r a アリエスの本 を読み進むうちに私 が想起 したのは, いわゆる 「. i i thcent ury) の こ と で し た, ア リ エ ス は17世 紀 と い う 時 代 を 日 常 生 活 と 習 俗 - - 最 nthe17 cr s si l i e)」 と な り ま し ょ う か --冊 t t 近の 「社会史」 の研究でよく使わ れる言葉でいうと 「 a ノい性 (men. 17世紀の全般的危機」 について は特段の論及があり における変革の時代と捉 えてはおりますが, 「 ません. もっとも,「 17世紀の全般的危機」論は今でこそ西洋近代 史研究の常識とな っているものの,. “ その研究史は比較的浅く, 1954年 に 書 か れ た E.J .Hobsbawm, GeneraICrisisofthe European Eco‐ l hcen ≠”“αPだ彫れご t nomyi urず (Pαs nthe 17t .5 ~ 6) を起点に, ち ょう どアリエスの著書が ,vo. 出た1960年頃に ピークを迎えたという事情, またアリエスが 「日曜歴史家」 と自称したごとくいわ ば 「在野の」 研究者であ っ たことにも付言するのが公平でしょうか, (1)「全般的危機」 の諸相. 17世紀の全般的危機」 とは何か 17世紀とは一般にどのような時代であっ たか, あるいはとくに 「 について は志垣嘉夫編 『近世ヨーロ ッパ』 (有斐閣新書, 1980年) の第2章で宮崎洋氏が簡にして 要を得た概説を与えてくれていますので, この諭文に依拠しつつ若干 の補足をします.. 17世紀の全般的危機」 とい っても, 論者によって内容や本質把握に違いがあり, ま ひとくちに 「 17世紀 たやや混み入っ た論争もあるのですが (詳しく は, トレヴァ-=ローバー他, 今井宏編訳 『 疫病 大量死 凶作・飢錘 ださい 異常気象 総じて ) 危機論争』, 創文社, 1975年を参照してく , , , , , ,. 戦乱, 魔女狩りなどの諸相をもって特徴付けることができそうです, まず, 大陸別人口数を示した図16の表を見てください. 100年あるいは50年を単位にとったとき, ヨーロ ッパ は16世紀から現在までの間だけで2回, 人口成長率の停滞ないし減少を経験しているこ と が わ か り ま す. ひと つ が1600~1700年 の 間, もう ひ と つ が1900~1950年 の 間. 後 の 方 の 主 因 は 容. 易に推測できるでしょう, 2度の世界大戦ですね. 第一次世界大戦におけるヨーロッパの人的損失 はおおよそ1千万人, 第二次世界大戦では, 5百万 人とも6百万人とも推定されるユ ダヤ人犠牲者 17世紀の全般的危機」 の所産 を含めて約2千5百万人でした, 前の方の 人口停滞 が, ほかならぬ 「 な の で す. 念 の た め, 図17の 表 に よ っ て 地 域 毎 の 人 口 動 態 の 推 定 値 も 見 て お い て く ださ い.. こ の 人 口 停 滞 を も た ら し た 最 大 の 原 因 は ペ ス トの 流 行 に あ り ま す. ボ ッ カ チ オ の 『デカメ ロ ン』. で ご 存 知 の ペ ス ト は1348~49年 の そ れ で, 普 通 「大 ペ ス ト」 と 呼 ん で い ま す. と こ ろ が, 図18に 不 さ れ て い る よう に, ヨ ー ロ ッ パ は そ の 後 も ペ ス トに 襲 わ れ続 け, 1630年 代 に は 「大 ペ ス ト」 に 匹 敵 6.
(8) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題 [工〕. する規模で再発するのです. 2・3年ほど前に私は, 『歴史 -- 核狂乱の時代 --』 というフィ ルムで, オラン ダで催された反核集会の参加者 が 「核兵器は現代のペス トだ」 と書いた プラカー ド を掲 げているのを見たことがあります, ペス トはまことに破壊的・悪魔的なものとして強烈に記憶. されているのですね. 村上陽一郎氏は 『ペス ト大流行』(岩波新書,1983年) のなかで, 「大ペス ト」 による死亡者数に関する諸説を紹介しつつ, 全世界 で7千万人, ヨーロ ッパだけでもおおよそ3千 万人に達したと推定しています, すると, ヨーロ ッパの人 口は当時約7千万から7干5百万人です から, 4割を越える人々が死んだことになります. ペス トは核兵器だと言うのもうなずけます. 17世紀の ペス トによる人的被害についての総括的な研究はないようですが, 地域, 都市によっ て は死亡率が40%, 50%を越える事例は少なくありません. それにしても, ペス ト菌がいかに強力で. あっ たにせよ, また当時のペス ト対策・予防法 (村上前掲書の他, 木村尚三郎 『近代の神話』, 中 公新書, 1975年, 72~82頁の内容を紹介したが略す) がまことにお粗末なもの であったにしても, ペス トに対する抗体がある程度形成されている筈ですから, 17世紀になって再び蔓延することにつ いては, どうも解せないところがあり, 何か複合的な要因の存在を予想せ ざるをえません,. 図19が示すように17世紀は太陽黒点数が異常に少なく, また, 地層位学や氷河学 ではこの時期を 1も参照) 「フェ ルナウ氷期」と呼ぶ寒冷化の時代であることを教えておりま す(図2 ,寒冷化は凶作・. 飢錘を誘発し, 図22の表のとおりヨーロ ッパの穀物の平均収穫率は下落します. 凶作だ, 飢鰹だ, 収穫率が0 ,5減っ たと言っても, その深刻さ は実感できないかと思います, 仮に, 幡種量1に対す る収穫量が6 だと して, 農 民 の 口 に 入 る の はそ の う ち 2程度でしかない, なぜなら収穫の半分相当. ま ′ 保存しなければ は, 現物であれ貨幣であれ地代として納めなけれ ばならす, また次の幡種用に1も な らな い.か ら で す. こ う した 状 態 で す か ら, 収 穫 率 が0 .5減 る な ど と いう の はと て つ も な く 重 大 な. ことであっ たわけです. 飢鯉と ペス トとが同じ年に発生することが多いという事実がわかっていま す, こ れ は, ペ ス トが飢 錘 の 随 伴 現 象 で あ っ た こ と を 示 して い る で し ょ う.. 0) が示すように, ペス トの来襲地数と戦乱の発生・拡延地 J・ パーカーが作成したグラ フ (図2. 数と がま た ほ ぼ パ ラ レル に な る こ と も注 目 さ れ ま す. ペ ス トは し ば し ば戦 乱 の 原 因 と な っ た. しか. し, それだけでなく, 宮崎氏が強調しておられるように, 衛生観念が欠如していたために 「疫病の 温床」 となっていた軍隊は 「戦地を移動するため, 疫病の流行をおおいに助長した」 のである, 17世紀の全般的危機」 は, 寒冷化と飢鰹, ペス トと大量死, 不安・狂気と戦乱がひとつの悪循 「 環を成して進行したところの, すぐれて構造的な危機であった, とすることができましょうか,. (2) 近世フランスの家族と産育 (その1) ‐世紀 後 半 の 北 フ ラ ン ス の - 地 方 の 話 題 に な り ま す, ピ エ ー や や グ ロー バ ルな 話 か ら 一 転 して17 ず Z i ル ・ グ ゥ ベ ー ル の 学 位 論 文 (Pi t re Gouber sの/ eB卿〃頃s sd幻6の 々 ” の,Par s er ,Beα“りα ,1960). によると, 17世紀後半のボー ヴェ地方における1婚姻あたりの出生数 (ここでいう 「出生数」 は厳 密には洗礼を受けた子供の数) は5 .04人になるようです, 諸君のなかでもあるいは, 中世・近世と. いうと大家族をイメー ジする人がいるかと思いますが, それは間違いになります, 生まれる子供の 数は平均5人. 後でも触れるように死亡率は現在よりも遥かに高いわけですから, 1家族の人数は. 6,7 人 な い し8人程度にしかならない, 図2 3に掲 げた 「子沢山の夫婦」 という16世紀に描かれた 子供の数は5人, これで 「子沢山」 なのです, ル・ナンの有名な 「農民の家族」(図24 , 1643年頃) では子供は7人で, 全部で9人家族ですが, 決して大家族とはいえません. 中世ないし近世のヨーロ ッパが大家族だったという 「神話」 が生まれたのは何故なのか. ふたつ 7.
(9) . 浜. 忠. 雄. ほ ど 理 由 があ り そ う で す, ひ と つ は, 家 族 史 そ の も の の 歴 史 が き わ め て 浅 い こ と で す. ヨ ーロ ッ パ. における家族史学の成立は, エンゲルスの 『家族, 私有財産および国家の起源』 第4版序文 (1891 年) の叙述に従 っ て, 1861年に出たバ ッハオーフェ ンの 『母権論』 に起点を求めるのが普通です.. また, 前近代の家族について具体的・実証的に研究しよう とするとき資料上の制約が大きく, 「歴 ique) が 確 立 さ れ た の は 戦 後, と く に1960年 代 に な っ て か ら の こ i 史 人 口 学」 (Demograph e histor. となのです (二宮宏之編 『家の歴史社会学』, 新評論, 1983年参照) , もうひとつの理由は, 私たち l l l が 「家族」 と翻訳する<f ami e >) の内容が当時においてはかなり ami y > (フランス語では<f. l l 広 い こ と で す. 例 え ば, ア カ デ ミ ー ・ フ ラ ン セ ー ズ の 編 集 に な る『辞 典』(1694年)に よる と, <f ami e. >とは 「1軒の同 じ家の中で, 1人の同じ家長の下で生活している全ての人々」 とあって, この規 定は当時のイ ギリスの場合と同じであるようです(志垣嘉夫「家族と性と愛の社会史」, 木村尚三郎,. 志垣嘉夫編 『概説フランス史』, 有斐閣, 1982年, 所収, 182頁 -- なお, この本は1985年度の教 l l l 科書に指定したものである) ami e >や<f ami y >には家僕や召使も含まれること . ですから, <f に な る の で す. 図 版 で 例 を 示 せ ば 図25が こ れ に当 り ま す. こ の 絵 の 主 人 公 レチ フ ・ ドゥ ・ ラ ・ ブ ル. トンヌ (画面右端の人物) はかなりの富農ですが, その夕食には合計22名 (絵には16名 しか描かれ ていません が) が会食し, その中には小間使いや葡萄 づく りなども 「家族」 の一員として加わった LJ の だ そ う で す (jacques Boudet edBFγ鯛c e郷γ 肋’ z噌e . 今日の .2 ,60) , 腸s筋γ ,Bordas ,1982 ,t ,p. l 私たちがいう家族, すなわち夫婦とその子供を構成単位とするものに相当する用語は<f ami y>で l はな く て < househo d > (フ ラ ン ス 語 で は< menage > な の で す ね. つ い で に 申 しま す と, 中 世 ・ 近 世 の ヨ ー ロ ッ パ 人 は早 熟 で早 婚 だ っ た と いう こ と が 今 で も し ば し. ば言われることがありますが, これも神話にす ぎません. 「早婚」 説の一例として, 福田和彦 『世 界風俗じて ん・皿・性風俗の巻』 (三省堂, 1978年) の中の叙述をみましょう, 「男 は15 , 女は12歳, で成人になる」 との見出しで,「今から200年前, いや, それ以前でもヨーロ ッパの結婚年齢は低かっ た. 肉体的な早熟さも原因していよう が, 男子は15歳で, 女子は12歳でもう大人の仲間入りができ た. い ず れ も こ の 年 頃 で は, よう や く 性 的 成 熟 が は じま る 時期 で あ っ た, … …18世 紀 に お い て は, 普 通,女 子 に あ っ て は 結 婚 適 齢 期 は15歳 か ら17歳 く ら い ま で,男 子 で は18か ら23歳く ら い ま で で あ っ. た, ……」(146頁) とあります. 「ダフネスとクロエ」 や 「トリスタンとイ ズー」 , 「ロミオとジュ リエ ッ ト」 などの例を直ちに一般化していることの問題もさることながら {貴族など一 部の特権階 級においては 「早婚」 の事例がしばしば発見されるのは確かですが, これをマスの世界にまで拡げ. るのは誤りです) , 決定的な間違いは法律上の 「結婚適齢」 を現実のそれと混同あるいは取り違え 1条で 「結婚適齢」 を 「男 は満18歳, 女は満16歳 ていると思われることです. 日本 の民法は, 第73 に な ら な け れ ば 婚 姻 を な す こ と が で き な い」 と 規 定 し て い る の は ご存 知 の 通 り で す が, しか し, そ. の年齢で結婚する人はごく稀ですね. 法律上の 「結婚適齢」 と世間一般にいう 「結婚適齢」 とはまっ たく違うわけです. そのような事情はこの時期のフランスでも同じでして, 法律上の 「結婚適齢」 は地域や時代によっ て違うけれども, 例え ば, 1792年9月20日~25日の法令で示せば, 男15歳, 女. 13歳, と 随 分 若 い. しか し実 際 の 結 婚 年 齢 は も っ と 遅 い. グ ゥ ベ ー ル が取 り 上 げて い る オ ー ヌ イ ユ. 91人の初婚年齢を図26で見てく ださい. 10歳台で結婚するとい というパロワス (小教区) の女性2. う 例 も あ り ま す が せ い ぜ い 1 割, ピー ク は23歳, 単 純 平 均 は24歳 ~25歳 に な り ま し ょ う」 要 す る に,. 現在の日本女性の場合 と大差がな いわけです. ちなみに, 厚生省の 『人 口動 態統計』 によると,. 1980年 の 日 本 の 平 均 初 婚 年 齢 は妻25,3歳, 夫27 .9歳 だ そ う で す, そ れ に, 当 時 の ヨ ー ロ ッ パ で はも っ. と高齢の初婚年齢の例は数多く知られており (例えば, ジャック・ソレ, 西川長夫他訳 『性愛の社 会史 -- 近代西欧における愛 --』, 人文書院, 1985年) , 相対的には, オーヌイユの初婚年齢は. 8.
(10) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題,〔工〕 i む し ろ 低 か っ た と も い え る の で す, デ ュ パ キ エ の 研 究 (j er eα“菟 .Dupaqu ,LαPゆ 粥のあれルαれfのs ee と が 一 る の は 晩 婚」 に よ 1 8世 紀 フ ラ ン ス 「 層 進 行 し, P i で 1 9 7 9) X輝l 云ד刀βs鷲de s , , ars ,. 7歳, 男性で28~29歳にまでなるとのことです, また, 「肉体的 1770年頃の初婚年齢は女性で26~2 な早熟」という点も大いに疑問でして,例えば当時の女性の初潮年齢は17歳頃ないしはそれ以後だっ. たようです (ソレ, 前掲訳書,18頁;志垣嘉夫 「近世生活史覚書き」 , 同編, 前掲 『近世ヨーロ ッパ』 所収, 18頁) .. さ て, オ ー ヌ イ ユ で は, 1649年 か ら1673年 ま で に225組 の 婚 姻 があ り, 合 計1 ,128人 の 子 供 が 誕 生. し て い る. 1 婚 姻 あ た り5 ,01人 と な り, ボー ヴ ェ 地 方 全 体 の 平 均 に ほ ぼ等 し い. と こ ろ が, こ の. 1,128人 の う ち28.8% がi 歳 未 満 で 死 亡 して い る, 4 歳 ま で に は43 .3% が, 19歳 ま で に は 実 に 半 分. 以上の51 ,7%, 成人未満 ,1%が死 亡してしまっ ている, 現在の日本の乳児 (1歳未満) 死亡率は0 の そ れ は 5 %以下ですから,1 7世紀オーヌイユの場合(それは当時にあっては ごく標準的 であって, もっと高い死亡率を示す例 があります) がいかに高率かがわかります. いずれにしても, 諸君のよ. 7を見てください, 結婚後 うな年齢まで生き残れるのは半分以下にすぎないわけです, 関連して図2 に夫または妻の死亡によっ て 「欠損家族」 になっ た件数が5年間隔で示されていますが, これによ ると, 結婚後20年以内には約50%が 「欠損家族」 になっ てしまう. つまり, 子供 (長子) が諸君の ような年齢までかろう じて生きられたとしても, その時点で, 半数は片親を失っており, さらにそ. の半数が, 少なくとも計算上は, 既に両親共に失っ た状態にあるということを意味するわけですか ら, 実に大変なことですね. 図27ではまた, 妻が5年以内あるいは10年以内に死亡してしまう割合 が極端に高いことも注目されます. その多く は, 妊娠-分娩にまつわる病気が原因していると思わ れます. しかし, ここでは, しばしば死に至ることもある母親の産握病が, 同時に, 生まれた子供 にも否定的な影響 を与えたろうことにも注目したいと思います. オーヌイユ女性の実際の出産例を. 図28で見てく ださい, ここに示されているのは, 妻が閉経期 (受胎能力を喪失する時期) に達する ま で夫婦とも健在であっ た 「完全家族」 の場合ですが, いずれも平均的な出産数 (5人) よりも多 い 8 人 な い し10人 の 子 供 を 出 産 し て い る, と こ ろ が, 5 人 の 第 1 子 はす べ て 死 亡 し て い る (ひと り. は死亡時不明だが, 他の4人は6箇月以内に死亡) . この事実は, 妻が5年以内に死亡する割合が 高いという先に見た事実と無関係で はないでしょう. 出産間隔が長くかつ規則的であるほど子供の 生存率 が高く, 逆に間隔が短いかあるいは不規則であるときは死亡率が高くなる, 当然といえ ば当 然です. 「完全家族」 にあっては, かなり 「多産」 ではありますが同時に 「多死」 という特徴をもっ て い た わ け で す.. 17世紀のヨーロ ッパ人とりわけ子供たちをめぐる生活環境=生存条件は, まことに厳しいもので. あったろうことは, 以上に示した限られた事例からも容易に推察できるかと思います, アリエスが 指摘しているように, およそ子供とは, 「脆弱で, 生命の危険におびやかされている存在」 なのだ と す れ ば, と り わ け17世 紀 の 子 供 た ち こ そ, そ う 表 現 す る に ふ さ わ しい, と 言 え な い で し ょ う か,. (本 学 助 教 授 ・ 岩 見 沢 分 校).
(11) . 浜 図 1. 忠 雄 類 灘. 緑 ( ラフ野 の エ聖 エ 母 ロ画. 1 灘、. 滴 湖 綴ノ 織 , 塁 . き. 、 一 五○. .. 七年 ). 図 2. 図3. 自然の躍動 (M, ジェ ラー ル画、 19世紀初). ‘ 豪 畿 語 1 1 湖 離農. マ 画 ( レ ド 、 オナン 一 四九ナ ル ・リ ド 四年 ・ ッ ダタ 頃). ヴ ィ ンチ. 翻 競 闘鞭 鞭 - 器 ラウ . ー 11. …. =■ ー ー ー 1ー ー. 1 鶴. 野 龍 奏 蒋 憲 嚢 圏繍 錆 瞳 園5. 朝食 (F . ブー シェ 画、 1739年). 図6. 『. ルソー 『エミール』 への挿画 櫛 ・ ジュ ンヌ画、 1777年).
(12) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題 〔1〕. 図7 「 ロー. ◎ 紳士と. ④ ア ン ジ ュ ー 公. ブ 型 」によ る 男 児 用 子供服の諸. ④ル イ 一 四世. 例. ①チ. 子 供たち ャ. ( ヴ ァ ン 息 ・ 子の ダ イ 肖 像 ク画). と母. ー ルズ. ( 同画). 一 世. の. ◎ エ ド ワ ー ド 七世. ア ン ヌ. 図8. ①F ・ D ・ ロー ズ ベル ト. 子供の遊戯 (ブリ ュ ー ゲル画、 1560年) 11.
(13) . 忠. 浜 . . . ・. . . . 冬基C14濃÷. &. .. . . ‐. , .. 捺 M 巡 - ムー. . . . . . . . 、1. 琉像. . . 圏 圏 鰹慈. 塞 ぎ. . ト モも. 増. . k 需 繋. . . ㈱. ●. . ●. . , , たこおげ 格闘. 図9. 圃国 おうむを矢て射る. リを射る. 着打ち遊び. 梓鳩遊び. 雄. 4. 吹き天. 木 版画やタイ ルに描かれた子供の遊 び (ネー デルラン ド、 18世 紀). z. ー. 』 -. . . -N. . = .” . )▼ 十 . ● ・ ・ ,. 図12 生徒の喧嘩 (ハンス ・ ブルクマイ ル画) 12. . もN N. . . . . . N N 枕 ′ . 図11 17世紀の民衆学校. 図lo 学校のロ バ (ブリ ュ ー ゲル画) 馨塾嫁 誓- ‐ -; ; ~ 蓋≧蔓暁 呂愛ぎ - - 髭謡 ≧匿 群雲蔓露〆≦ - 竺. 醇. 「 ナ …- ト二& 、 h き 達 蔓.. ;湖 舵 理騨蟻 r 獣諌 ;〆 ÷:= ’. 図13 大人をからかう子供たち (1650年頃).
(14) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題 〔工〕. 〔上〕 図14 貧民の子供たち. (アウ グス ブルク、 1539年). 〔右〕 図15 乞食の少年. (B, E, ムリリ ョ画、 1650年) 10 0万人) (. ヨ ー ロ ツ ノ聖 北 ア メ リ カ ラテ ンアメ リカ ア. リ. フ ジ. ア. カ アb. オ セ ア ニ ア. 世. 計. 界. 1000. 1500. 36 0 .5 8 ,5. 1600. 1700. 1750. 1800. 1850. 1900. 81. 100. 120. 140. 180. 265. 390. I. I. 13. 10 ,5 55. 33. 46. 185. 280. 1 .5 265. 375. 1 ,2 11 ,8. 2 .3 13 .7. 5 5 ‘ 上. 610. 81 .25. 31 .5. 63 ,75 110. 70. 81. 625. 795. 720. 2 2 6 .25 .5 .75 1 1 9 ( ) O ,625 ,200. 2 425. 26 ,5. 495. 61 415. 6 .5 17 .5. 970. 1975 1975 515 635 1数 233 161 312 2鮎 385 L45 0 2 ,300. 超. 年 平 均 成 長 率 ヨ ー ロ ツ ノ塾 北 ア メ リ カ ラテ ンアメ リカ ア ア. リ. フ ジ. 力 アb. ア セ ア ニ ア. 世. 界. 計. 1500‐1600 1600‐1700 1700‐50 31 8 n1 v 21 0. 紅 ( 用 U 0 30 2 n1 v - -0, 21 n1 U 0 一 18 0. 35 n m = v 0. 29 一 - 33 n u ) 0, 25. 23. ろ5m. 3 ,900. (%). 1750- 1800 1800‐50 1850‐1900 1900‐50. 1950‐75. 0, 50 2, 10. 0. 78 2. 85. 0. 78 2. 27. 56 0. 1, 4 I .. 0, 84 1. 41. 49 0.. 1,25 0. 29. 1, 36 0, 61. 1. 87 1,25. 2. 68 55 2.. 0. 47. 48 0, - -0, 21. 0. 81 1. 47. 1. 86 2. 01. 0, 45. 0, 58. 40 0. 2 22 ‘ ,. 0. 87. 1, 79. 0, 61. b 注:a . アジア・ロシアを含む, . ヨーロッパ・ロシアを含む. r i 8 Z - f ok 197 出所:McEv 8 u ノ Wor!〆 Popー血行o〃 H oり ー 1 n Bo ch ardJones ed g . y , Pe , A耳αso , Cりand Ri. 〔上〕 図16 世界の人口数の推移 〔右〕 図17 ヨーロッパ主要地域の人口数の推移. l i Tab l t a on Data e l. European Popu. l i l i ) ( - , mi ons. Ye αr 155o Bohemi a Eng l and & W ′ l a es Fran oe Germany 12 1 1 l l l l t a y Lo i 3 t ・ un r e s V Co Po l and Russ i 9 a Spa 3 i 6. n AI I Euro 5 e8 p. 5 1650 1 6 0 162 0 ( ) 70 675 1 1575 1 25 4 3 2. 20 13 3. 9 5. 5. 8. 4, 5 14 13. 1 1 1 4 1 3 12 3. 5. 11 8 6 7. 00 1 00 1. 5, 8 19. 3 15 5 11, 5 11,. 16 9. 5 13 2 5. ) ( 90 10 8 0. 13.
(15) . 浜. 忠. 雄. 1 5 0. 1 0 0. 5 0. 0 13 3 013 5 0. 1 4 5 0. 1 4 0 0. 1 5 0 0. 1 5 5 0. 16 0 0. 1 6 5 0. 1 0 0 7. 1 8 0 0 年. 1 5 0 7. 図18 北西ヨーロ ッ パにおける ペ ス トの来襲地数 dP I 恕‘だ3 50 1 7 0 0 ra n nEu r o e 雄鶏ef p ,Wa ,1. 黒 点の 数. 1 0 0 7. 1 6 5 0. 1 6 0 0年. 」. 1 8 0 5. 1 9 5 0. 0 1 9 0. 〔上〕 図19 太 陽黒点数 の変動 〔右〕 図20 ヨーロ ッ パ における 戦 争 と ペ ス トの相 関. 6鶴年ころのグリソデルヴァルトゑ , I. .. 1 図2 14. 1 5 0 0. 1 5 5 0. 1 5 0 0. 1 5 5 0. 1 0 60. 1 6 5 0. 0 0 1 7 e a r s y. 0 16 5. 0 1 7 0 r s e a y. 5 1 8 0 . 18 0 0. 5 0 1 7. ”. 16 0 0. lmo面E ht d d d、 t i e画a t r a e f画t町a n sc omp 副 c o t lmomgt so o Td e脚a i db 任 e t a i E eae l ce yp 仰 ・ r o c e sn u l a p t o韻 sofp ds 9 7 5 3 2 P 勘 加鮎J ) n 2 ’ 2 e se””知‘ e a e , .N .B鱗b ,1 ,1 ,L郷′獅2 ,1(. 7 7 5一1 7 8 0年ころのグリソデルヴブルト 1. 1 9 6 6年のグリソデルヴァルト. グリン デル ヴァ ル トから見 たアル プス氷河の 変動.
(16) . 「子供の歴史」 をめぐる諸問題 〔1〕 * 地帯* 期間. 第工地帯 第江地帯 第m地帯 第I V地帯. 1500~1549 1550- ‐1599. 7 .4 7 .3. 1600~1649. 6 .7. 1650~1699. 9 .3. 1700~1749 1750~1799. 10 ,I. 釧 一 一 鎚 砧 知. 4 ,O. 3 ,9. 4 .4. 4 .3. 4 ,5 4 ,I. 4 ,O 3 ,8. 4 ,I. 3 .5. 5 .1. 4 .7. * 播種量に対する収穫量の倍率. ** 第1地帯:イ ングラン ド, ネーデルラント. 第ロ地帯:フランス, スペイン, イ タリア. 第m地帯; ドイツ, スイス, スカンディ ナヴィ ア. 「地帯:ロシア, ポーランド, チェコ, ハンガリー 第n br i ! Ez z 出典;丁′ z nomr ・ e Cm 7 ( e Eco c ″! s ‘ r or o g y pe ,V , 19 77 .. 図22 ヨーロ ッ パの 穀物収穫率. 図23 子沢山の夫婦 (アウ グス ブルク、 1539年). 図24 農民の家族 (ル・ナ ン画、 1643年頃). 5 家族の食事 図2. (ベ ルテ画、 レチフ・ ドゥ ・ フ ブル トンヌ 『堕落した農 民』、 1775年への挿画). 15.
(17) . 忠. 浜. 図 婚 ・ 女性 の 初婚年. 雄 Ag l ea a i r l コ ほ d e s s a n c e e r en a “ 1 6 2f l l l e ( t ) ami e s” c omp e s. 1 4α 足 o o. 4 1 a n s. の Ag ea u ば せ 4 雫 凸 1e r a e g . mad 2 ( 9 1 凹 山O O O Hf 名 b o 山 国2 e ) n ・ l n e s 3 a n s 1 0 0. 1 4 C %○. l o o. 齢と最終 出産年. O Z 国口 5 00 回 〆 陶. 5 0. 齢. 1 5. 2 0. ′ 5 0 4 0 4 5 3 0 3 5 2 5 AGESDESFEMMES( l i e ) na r u l sa c c omp e s e e. 図 2 7 婚 姻継続 年 数. 30 Nomb r e ed S 2 u na e Sr omP ma g 0 を e c s ri a ed p l 0 d emme el af J DUREEDt MAR強GE. ÷ ÷ 合 一4 → ー45→}5 ÷ -3 0 -1 ÷ラー 5÷ 0÷ 0÷ ÷→5÷→ 5→ー2 0→ー2 5÷→〉3 ○÷ e )。÷ ( e s n n a. Nomb r ed e o d e sr omp u s l ma a g e ri s a ed e c p 2 h d e’ omme. ? ◎. + ◎. 図. . du t n ne面a. 図 2 8 28. 出 産 A,RYTHMELENTETREGUL.ER l i B 1 h t 間隔 Fa l ma e:Be r n ‐ n c r a eme. t o nかo r el ad a ed e 4 5 e 5c ) e r ss u s( a o nd c s. i t6mo s r f tme n v a una e n a n ) i ts b e ( n e v r a e na v a g ?. Da t d 6 6 2 ed uma a e=1 g Ag 7a ed el af en l me:1 n s. の 諸タ イ プ. I ER DEETREGUL I B .RYTHMERAP 4 i Du l 7 7 3 B t a n s c o s z e - .1 .2. +. C I SSEMENT .CASDERALENT TERMI NAL( e e t t ) r s官 u e n q. +. C Re b 6 9 0 6 r r - r o s国e o u s a n s .1 .2 + D NFLUENCENETTEDE .I ’ ALLA L I TEMENTs rl u e sINTERVALLES. + ? De Cr i 7 2 5 c a ux s n ‐ o r e a n s ,1 .20 E NFLUENCENULLEDE .I ’ INTE“ RVALLES ALLA r r NTs L m EMEN= u rl s, , L皿A e 1 i 1 6 9 1 2 1 Be n s a u a a u s r eJume . .. ±. +. + - +. + r. +. 一LL L 」旦- - 」 “ーLLL-L-L 」 」 L LL - - - - -- 一 3 2 0一 2. 16. 5. 1 5 1 0 AGE I ANN宣EsDEMAR.
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