学校における教育研究について(4)
関 勤
(1984年11月5日受理)
坪 子どもの能力を根本的にどう考えるか 、
ヲ直にいって,よくできる子どもばかりが選抜されて入学している学校の教師になりたがったり,ま た,教育者として同じ努力をするなら,できない子どもを相手にするよりは,素直でよくできる子ども を教育するほうがやり甲斐があると感じたり,さらに,学級内の子どもへの教育的はたらきかけについ ても,できない子どもやひねくれている子どもに対してよりは,よくできる子どもや素直な子どもに対 するほうが,「生懸命になれたり情熱的になれるというのは,人情の自然というものであろう。しかし,
近代の教育思想は,われわれ教職にあるものが,この自然の人情のままに流されて教育の仕事に従うこ とについて禁欲すべきことを要請している。
教育者が,人間性の尊厳についてきびしい自覚や理解を求められているのは,まさにそれにあたると 私は考えている。人間性の尊厳とは子ども(人間)の一人ひとりを掛け替えの無い独自の価値をもつ た主体的存在としてとらえることを意味している。人間性の尊厳という見地からみれば,よくできる子 どももできない子どもも,素直な子どももひねくれた子どもも,教育に熱心な親をもった家庭の子ども も教育に怠惰な親をもった家庭の子どもも,その間に上下や軽重の差異はみとめられないはずである。
教育的には,みな同じように大切に取り扱われなければならない。いうまでもないことだが,みな同じ ようにとは,画一舶な取り扱いを意味しない。子どもの一人ひとりがその個性にしたがって多様に取り 扱われることこそ,すなわち,差別ではなくて個性的な取り扱いを受けることこそ,真の意味で大切に されることであろう。みな同じように大切に取り扱われるとは,根本の人間観において,一人ひとりが 掛け替えの無い独自の価値をもった主体的存在として,とらえられ取り扱われることを意味している。
このような子どもの見方,とくにできる子どもとかできない子どもとかいう場合の子どもの能力につ いての見方や考え方は,学校における教育研究のみならず,常日頃の教育実践においても,極めて重要
な問題だと思われるので,本質的な,原則的な点について検討しておくことは意義の深いことであろう
と,思う。
1.知能の高低は生まれつきか一遺伝論は実証できるか
われわれは,人間の能力をもつとも端的に示すものが知能の高低だと思っているし,また,知能の高 低は生まれつきだと思うかと問われれば,その通りに思っている,あるいは,少なくともその通りに感 じていると答えるだろう。それぐらい知能の高低は生まれつきのものだという考え方は一般化している ものであり,それは常識化している考え方である。
ところが,勝田守一という教育学者(故人,元東大教育学部教授)は,人間の知能の高低は生まれつ
きのものだという考え方は,決して直接的な観察や測定では実証できないことなのだ,と言明し,今ま
で,知能の高低は生まれつきのものであるということを証拠だてるために用意されたいろいろの試みを かたっぱしから吟味し,その実証力のなさを論証している。勝田の論説に賛成するか不賛成であるかは 別として,われわれがこのような基本的な問題について考察を行なうことは,教育上子ども(人間)の 知能をどう考えるべきか,能力をどう考えるべきかに,示唆を与えてくれるにちがいない。勝田はこの 吟味のスタートにあたり,「能力を知能の問題から考えてみようとしたのは,「知能」は生まれつきの素 質によるもので,生まれたときに個人には仕事の能力の未来の発達の可能性が,程度からいって,すで に配分されているという考え方を吟味する」ηためである,と述べている。以下,実証力をもたないもの として批判された遺伝論の諸例を,引用2)することにする。
Z 知能テストの実証力。一つは,先にみたような方法的に吟味された知能テストを・何回かある期 間をおいてくりかえして,得られた得点は,それぞれ相関が高く,大きくても数点の開きしかない,と いう実証である。これは,テストの問題が信頼されるものだということと同時に,そこに何回かのテス トによってはかられた能力が,教育や生活環境にかかわりなく恒常性を保っているということを示すも のだといわれる。
反論。はたして,そうか,といえば,すでに前にのべたように長期間をおいて行なった再テストでは,
その後の教育や生活のちがいによって,得点にかなりの変化(一二点)があったという反証がある。何 回も行なわれたテストから得られたデータも,テストが短期間にくりかえされたものでは,その実証の 効力は疑わしい。
イ.家系調査の実証力。すぐれた学者や知識人を輩出した家系と,犯罪者を多く出した家系を追跡し て,一方はますます「優秀」な人物を生み出し,他方はますます多く「劣等」な人間を生産したという データが出されている。遺伝論に大へん好都合な材料のようにみえる。
反論。しかし,これは,同じ度合いで,環境論のための材料ともなるだろう。犯罪者や精神薄弱やア ルコール中毒者,さらに醜業婦を数多く生み出す,家庭的,社会的環境とくに両親の行動は,くわしく 追求しなくても容易に想像がっくし,その想像は現実的である。「優秀」な家系の家庭環境が,その社会 がよしとする能力の発達に,好適であるだけでなく,社会的に有利なコースへ進む条件をそなえている ことは,いうまでもあるまい。
ウ.親の職業と知能の関係の実証力。ついでにいえば,知能発達の条件として,親の職業と知能の関 係をしらべたデータがあげられている。親の職業が知的内容を主とするほど子どもの知能が高いことが 明らかにされている。
反論。このことは,むしろ環境論に有利な実証だろう。
エ,一卵性双生児における調査の実証力。ここでは家庭環境がほぼ同一だと想定される比較対偶を種 々にとって,それと,一卵性双生児の差をくらべてみると,その差は比較的に小さい。そのことから・
知能が遺伝によってかなり強く規定されていることを否定できないというのである。これは,生得論に かなり有利な材料だ。
反論。しかし,この材料も,決して最終的なきめ手ではない。一卵牲双生児の環境が,きわめて類似 していることは,特殊のばあいを除いて,ほかに類はあるまい。父母の対し方も,他のきようだいたち との関係も,ほとんど同一だろう。だから環境の類似性が知的発達に近似的影響を与えるとも考えられ る。もっとも二卵性双生児のばあいにも環境の類似性は同様のように思われるが,二卵性のばあいには,
似てはいても,やはり違いはかなり大きい。性のちがいもあろう。そこでは家庭環境と主体との関係に
は違いが生ずると考えることを拒むわけにはいくまい。
人間の知能の高低は生まれつきのものだという考え方(遺伝論)は,実証できないとする勝田のあげ る諸例は以上であるが,かれは,生まれつきと遺伝との区別,あるいは,環境の影響ということばの意 味が,区別なしに,あるいは,不正確にあいまいに使われてきたことをみずから反省し,つぎのように 言いなおしている。前者については,胎内にいるときに,母親の栄養状態や健康状況によって影響され る痕跡,また出産の折の頭部の損傷の影響は,生まれつきといわれるが,遺伝的に決定されたものでは ない。遺伝的といえば正確には遺伝子によって決定されているということ以外のことを含んでいない,
と。
後者(環境の影響)については,時間的に幼いときに受けた栄養成分の影響や小さいときの習慣の作 用もあれば,フロイトのいうような幼児に形成される深層的な痕跡から,大きくなってからの意識的な 訓練や社会的要求の作用もある。それらがどのように知能の発達に影響するかを考えれば,環境という 概念は粗大にすぎよう,と。
なお,教育論の根本問題として,勝田は,「しかし,いまは,一応遺伝と環境という概念を使うとすれ ば,もともと環境とかかわりなく,遺伝的因子が発達を決定するということも無意味だし,遺伝的に受 けっがれた可能性なしに,環境が発達に影響を与えるということも意味をなさない。一定の生活の歴史 を背負っている子どもの,生まれつきで,不変な知能を想定し,これを測定できるとしたり,固定的に とらえられるとするそのことがかえって非科学的だということも明らかである」1)と遺伝と環境との関係 の把握のし方,知能の高低は生まれつきだとする考え方の危険性を指摘している。これらの諸問題す なわち,遺伝(素質)と環境との根本的な関係,また,教育的に素質や遺伝をどう考えたらよいかにつ いては,拙論4)において相当綿密に考察を行なっているので,参照されたいと思う。
知能の差は言語の差である
知能の高低は生まれつきのものでない,ということの例証として,外山滋比古の「知能の差は言語の 差である」という論説を引用してみよう。
「もう二十年以上前になるが,白人のこどもと黒人のこどもの知能が問題になったことがある。小学 校就学時に,両者の知能指数(IQ)を比べてみると,かなりはっきりした差異が認められた。黒人の
こどもの指数の方が底い。これを根拠として,黒人に対して白人の優秀さを云々するものがあとを絶た なかった。黒人自身も一部では,半ばそれを認めようとしたほどであった。
これに疑問をもった社会学者たちが,調査に乗り出した。そして,家庭におけることばの問題に行き 当たったのである。黒人の母親は,たとえば,ガラスを破ったこどもに向かって,ただひとこと「何て ことをしたんだ」といったようなことばを叫ぶように言うと,あとは尻をなぐったりする。なぜいけな いのか,と言うようなことは言わない。かりにきいても,いけないからいけない,くらいしか答えない。
こどもは,なぐられるのはいやだから,ガラスを破るのはよくないことを知る。痛い目にあうのがおそ うしいから,やがてガラスを破らなくなる。このプロセスにおいて言語の果たす役割はごく小さい。
それに対して白人の母親はことばを通じて,それがいかによくないことかをわからせようとする。も ちうん,中には黒人家庭と同じように口より体罰にものを言わせるやり方をとる母親もある。しかし,
多くは,ことばで説明する。どこまで論理的に叱ることができるかは疑問であるが,善悪の区別をこと ばによってつけようとする訓練は,抽象的思考への導入になるという点で効果はある。
白人だから知能指数が高いのではない。ことばのていねいな使い方をしているこどもは,言語文化を
基礎とした知能テストにおいてすぐれた適性を示すだけのことである。この問題の調査に当たったアメ
リカの学者たちは,そこで,こういう試みを行った。黒人の母親を訓練して,こどもにことこまかにわ けを話す叱り方をするようにした。すると,そういう母親のこどもは,白人のこどもとほとんど同じく
らい高い知能指数を示したと報告されたという。」5)
この論説の締めくくりとして,外山は,「つまり人種によるとされた知能指数の差は,日常生活の中の 言語の違いであることがはっきりしたのである」と述べている。お茶の水女子大学の英文学の教授であ
るかれとしては,この論説で幼児期における言語の重要性,あるいは,家庭教育における言語生活の大 、
切さを強調することが趣旨であったろう。しかし,私にとっては,この論説は,知能の差は生まれつき のものではないのだ,それは育て方によるのだ,教育のしようによるのだ,ということを論証する好個 の材料に思えたというわけである。生まれつき,遺伝,先天的素質というようなことを不確かな根拠の うえで不当に強調することは,人間の能力が先天的に決定されていて,本人の自覚も努力も親や教師の 教育的な指導も無意味だというような素質万能論・教育否定論をまねきかねない。それと対極にある環 境万能論・教育万能論に賛成することができないのと同じように,この立場にも組することはできない。
Q.才能とは自分の可能性を能動的に開発しようとする主体性である
(1)根本的な才能とは。昭和55年12月17日の朝日新聞は,「根本的な才能とは,自分に何かができるこ とを信じること一レノンの一番印象に残る言葉です。……」という,溶接工のアルバイトをしながら楽 器修理,バンド活動などをしている山本隆三青年(29)の言葉を報じていた。人間の能力とか才能とかに 関して,科学的であるかないかは別として,私は真実の声を聞いたように感じたのである。能力の発揮 されるばあいに生まれつきだとか先天的素質だとかが無視しえない大切な要素になるだろうことは当然 だとしても,それ以上に大切だと思われるのは,それぞれの個人のもっ人生にたいする自信だとか勇気 だとかやる気やモラール(morale)であるように思う。とりわけ,自信,自己信頼,それも意識的な自 己評価より生じる自信の有無よりも,幼児期における親の育て方によって生じる無意識的な,潜在意識 的な自己評価と結びつく自信の有無が決定的な役割を演ずるのだと考えられるのである。
私は,家庭教育の大切さ,両親とりわけ母親の育児の重要さについて,漠然と観念的にはわかっている つもりでいたが,何か一番肝心な点が見出されなくて長いこと苦慮していた。しかし,つぎの一文に接 したとき,はじめてああそうかと合点のいった理解に達したのである。それは,子どもにほんとうの自 信と勇気を与える母と子の幻想体験に関するフロイトの学説の紹介であった。
「赤ん坊は,口唇・舌・周囲の皮膚におびただしい性愛的な快感感受性をそなえ,母親の乳房を吸い 母親の肌との接触とともに胱惚となる。もうろうになった赤ん坊は,外界への注意を失い,眠りへと誘 われ,母親との一榔感におちこんで自分を失ってゆく。
そして,このような幼想体験のおびただしいくり返し一エロス的コミュニケーションーが子ども
に生きる力を与える。母親の愛とは,子どもの幻想一自分との一体感一に母親もまた共感し同一北
することである。母親の保護機能というと,人びとは雨風現実の危険から子どもの身を守ることだけ
を思い浮かべるが,根源的な母親の愛とは,子どもの弱さ,無力さをそっと気づかせないようにするば
かりか,ひいては自分の無力を否認するその否認を許容し,彼らの幼い万能感や幻想をわかちあうこと
である。子どものエロス(幻想機能)を快く触発し,開発し,そのよろこびと胱惚を共にすることであ
る。自分もまた不死と永生の存在であるかのように幻想し,この幻想を子どもに信じこませることであ
る。そしてこの母の愛を通して,はじめて子どもは,生きる自信と勇気を自分のものにすることができ
る。」6}
人間にとって根本的な才能である生きる自信と勇気とを与えるものとして,根源的な母親の愛を考え るからこそ,乳幼児期における親の家庭における保育の重要さが素直にわかるのであり,また,「三つ子 の魂百まで」の意味も容易に把握せられるのである。母親の愛がまことのものであるかいなか,あるい は,家庭教育がうまくいったかどうかのきめどころは,根本的な才能である生きる自信と勇気とを与え えたかどうかにあるといってもよいように思う。それほど人間の能力の発揮と自信や勇気とは深くかか わっていると考えられるのだ。似たような例になるがもう一っ報告を引用しておきたい。
「またホスピタリズムの研究で有名な英国のボールビィはその著書の中で世界各国の育児法を比較し,
とくにアメリカの心理学者ゴールドファーブの研究をたびたび引用して興味ぶかいことを述べている。
乳幼時期に充分な母の愛をうけていない子どもは抽象的思考能力が充分発達せず,自分以外の人やもの に愛情や興味を抱くことができないという。ボールビィの考えるところでは,母または母代理者という
● ● ● ●
一人の人物に連続して世話をしてもらった経験がない子どもは時間と空間の中で行動を組織だてること ができず,眼の前の具体的事象を超えて抽象する能力が育たないのであろうという。集団保育で有名な イスラエルのキブツにおいてさえ,子どもは毎日一定時間は親もとにかえされ,しかもこの時間は延長 7)
ウれつつあることが知られている。」
この引用の鮨は,乳幼嘲における充分な母親曖情力弍燗の基本的能力の鍵にとっていか1こ大 切かを説くところにある。しかし,私がいまここで述べたい根本のことは,根本的な才能とは,自分に 何かができることを信じること,能力の発揮には生まれつきだとか先天的素質だとかといわれるものよ りも,臥のもっ姓にたいする自信や勇気ややる気のほうがはるか踵要だということである。その 根本的な才能を養い育てることに関連して,家庭教育の重要性やとりわけ根源的な母親の愛情の問題が 論究されてきたのである。
(2)自己概念(自分の力と限界とがどのくらいかと信ずること)と人間の能力の発揮
これまで述べてきたように,人間がその能力をどのように発揮するかは,固定した,あるいは,ある 一定分量のものとみなされた生まれつきや先天的素質によって規定されるのではなく,その人の生きる
自信や勇気ややる気に依存すると考えられる。その自信や勇気ややる気の根源にあるものが自己概念で ある。それは自分の力と限界とがどのくらいかと信ずることである。私はこの力は,意識的に自覚され ているよりも,むしろ人間の意識の深層に,無意識的に潜在意識的に沈潜しているように考えられる。
S.1.ハヤカワは,「心理学者カール・R・ロジャーズ(Carl R. Rogers)は,このわれわれが自身 について作る「地図」を「自己概念」eSelf−concept )と呼び,かれの用語にしたがえば,それには
「現実的」CYealistic )なものと「非現実的」Cunrealistic )なものとがある。われわれが何をなし,
いかに着,いかなる態度・性癖を好み,いかなる仕事をなし,いかなる仕事を拒むか,いかなる社会を 理想とするか,等々は,実際の力や限界によって決定されるというより,われわれの力と限界とがどの
● ● ●
くらいかと信ずるところによって決定される一すなわち,われわれの「自己概念」によって決定され る」%述べている。
われわれが,人生において何をするか,いかなる仕事をなしとげるかは,実際の力や限界によって決
定されるというより,われわれの力と限界とがどのくらいかと信ずるところによって決定されるという
のである。まさに「信は力なり」というべきである。われわれ教師や親にとって大切なことは,子ども
に小さな自己概念ではなくて,より大きな自己概念,大きな自信と勇気を抱かせしめることである。ジ
ヤック・フォーラーは,人間の能力と自己概念との関係を,「ナポレオン・ヒルは,r考えよ,そして豊か になれ』というその著書のなかで,「われわれが自分で認めていることを除けば,人にとって限界などと いうものは全くない」と述べている。そして私は今,もしあなたがそれを達成できると信じさえすれば,
あなたにできないことやあなたが得ることのできないものは絶対にないとあなたにいいたい」9)というよ うに,よりわかり易く説いている。S.1.ハヤカワのいうことと意味は同じことである。
「いつの時代にも己れを高く持するというのは大切なことである」1①という,座右の銘とすべきことば 馬
がある。己れを高く持するとは高慢や自惚れではない。自己についての大きな自信と勇気を,すなわち,
より大きな自己概念をもっことを意味するだろう。ものこころついた年齢になれば,本人みずからがそ れをもっ努力をすることが求められるが,幼少年期には親や教師が,子どもがこれをもつようにいかに 工夫し努力し育てるかが期待されるはずである。
⑧才能とは自分の可能性を能働的に開発しようとする主体性である
高田求は,「新・人生論ノート」という論説のなかで,才能とは何かにっいて,「私は,幸福とは完了形 のものではなく,進行形のものだということを答えとしたい。そしてそのような不断の努力の過程のな かでは,やはり無数の小さなひらめきがあり,無数の小さな飛躍があって,それがその人に,さら に汗まみれの努力をつづける勇気と自信とをあたえてくれるのだといいたい。その自信とは,自分の
「才能」を開発しうるという自信だ。(原文改行)そこで私は,さらに才能とは完了形のものではなく,自 分の可能性を能動的に開発しようとする主体性にほかならない,といいたい。この主体性を失って完了 形で自分を見てしまうと,ある場合には自信喪失,不安に,ある場合には自信という名のうぬぼれに,
おちこんでしまう。どちらの場合にも,創造的な活動はでてきようがない。(原文改行)だから私たちは,
どんな場合にも,自分の可能性に線をひいてしまってはならない,と思う。可能性に線をひくな。それ が,にんげんであるということだ」1?という積極的な進歩的な見方を示してくれている。
才能とは,たしかに生き方,生きる態度,生活の仕方そのものであるのかもしれない。昭和56年6月 9日,NHKテレビで聖路加病院相談室長深沢道子が「心のひだを探って」のなかで,あまりにも慎重 であり,憶病でもある人,ものごとに気らくに手や足を出せない人,何事でも実行することが気重な人,
このような人は,自分のもっている才能を殺してしまうかもしれない。なぜなら,才能というものは使 用することによって,またそれを表現することによってのみ,その存在がたしかめられ,それを伸長す ることができるものだから,と話していた。慎重すぎたり,憶病である人は,せっかく恵まれた才能を 所有していても,それを使用も表現もせずにすごしてしまうことになりかねないわけである。才能ほど,
所有しているということと,それを使用するということとが,まったく別のことは珍らしいのではある まいか。使わなければ,芽も出さず,あるいは,さびて朽ちはてて衰いてしまうものなのである。
「ひとは情念(情熱)の悪い面ばかり見て,むやみに情念を排斥する。しかし情念は,一方であらゆ
る苦悩の源であるだけでなく,同時に他方では,あらゆるよろこびの源泉でもある。偉大な情念によっ
てはじめて,人間の魂は偉大なものごとに到達しうるのだ。これに反して控え目な感情は凡庸な人間を
っくり,弱々しい感情はもっともすぐれた人間をも台なしにしてしまう」乎,といわれている。凡庸な人間
をつくる控え目な感情とか,もっともすぐれた人間をも台なしにしてしまう弱々しい感情とかは,自分
の可能性を能動的に開発しようとする主体性と相反するものといってよいであろう。これは行きすぎた
抑制や禁欲的態度がおちいりやすい陥穽を示している。いうまでもなくそれは,詩・絵画・音楽といっ
た狭い意味での芸術にかかわるだけではなく,もっと広い人間の知的活動や精神的活動にもかかわらて
いる,と指摘されているのも当然である。才能とは自分の可能性を能動的に開発しようとする主体性で ある。今日の教師にとって,子どもの才能を,また,子どもの能力をこのように考え,そして発達させ る努力をすることは,なによりも大切なことだと思われる。
踊師の大切な職分一 穀ヤ噺解鼎雛難預醜総
教育者が子どもの能力(才能)をどのように考え,どのように取り扱ったらよいかということに関し て,私がジョン・デューイの思想から学ぶことのできた要点は,上記のこと,すなわち,「教育者にとっ て大切なことは,子どもが現にもつものを最も有益に働かせること,すなわち,その天賦の才能を最も 都合のよい条件の下で働かせること,だけである」,という教訓である。子どもの素質をどう考えたらよ いカ、より根本的には遺伝と環境との関係をどう考えたらよいかについては,以前の拙論13,において,
ある程度考察されているが,ここでは一部の重複を承知のうえで,子どもの能力の開発と教師の職分と の関係をおさえておきたいと思っている。
m子どもが現にもっものを最も有益に働かせる。
デューイは,この点について,「一人の子どもの能力を他の子どもの能力と量的に比較してどちらが多 いかなどということは,教師の職分に何の益もないことだ。それは教師の仕事に無関係のことだ。教師 に要求されることは,一人ひとりの子どもに,意味をもった活動において,かれ自身の能力を発揮する ような機会をもたしめる,ことである。精神・個人的方法・独創性(これらの言葉は相互に転換しうる 言葉である)は,目的のある行為,あるいは方向づけられた行為の質を意味する」14}と述べている。子
どもの能力を相互に比較することの無意味さを語ると同時に,かれは,そんなことよりも,子どもにそ のもてる能力を発揮できるゆたかな機会をそなえた活動をあたえることが重要であり,それこそ教師の 大切な職分だと強調しているのである。
さらに,かれは,誤まっている遺伝観,あるいは,正しい遺伝の見方について「遺伝とは,過去の生 命が何らかの方法で個体の主要な特徴をあらかじめ決定してしまって,それらの特徴は,重大な変化を 加えることがほとんどできないほどに,固定されている,ということを意味するものと考えられている。
このように考えると,遺伝の力は環境の力と対立させられ,後者の力は軽視されることになる。しかし,
教育の目的にとって,遺伝が意味するものは,個人が生まれつきもっている天賦の素質にほかならない。
教育は人間をあるがままに受けとらねばならない。ある特定の個人がまさにかくかくしかじかの生まれっ きの活動力をそなえもっているということは,基礎的な事実なのである。しかし,それらがしかじかの 方法で産み出されたとか,祖先から生じてきたとかいうことは,それらが現に存在しているという事実と
くらべて,教育者にとっては特別に重要なものではない。たとえ,それが生物学者にとって,どれほど 重要であろうとも」1吃いっている。
以上に述べられたところには,きわめて重要な素質観,けっきょくは児童観が,示されている。遺伝 の力を,環境(教育)の力と対立させて,変化の可能性にたいしてマイナス(拒否)にはたらくものと 見るのではなくて,個人が生まれつきもっている天賦の素質,生まれつきの活動力として,プラスには たらくものとして見るということである。遺伝の力,素質,可能性は発達のための貴重な財産である。
ふたたび,子どもが現にもつものを最も有益に働かせるということにたちもどるが,デューイは,「教
育者は,ただその児童のあるがままの遺伝的特質を,もっとも都合のよい条件のもとにおき,もっとも
有益にはたらかせることを心がけねばならない。かれ(教育者)は,明白にそこにないもの(子どもに めぐまれていない才能)を使用することはできない。この事実を認識すれば,教授によって,個人のな かから,かれが本来そうなるように天賦の才能をあたえられていないあるものを,つくり出そうと試み るあまりにも一般的な習慣から生ずるところのエネルギーの浪費と焦燥とはさけられるはずだ。………
これらの生まれつきの諸能力は,低脳児の場合は別として,いや,それよりもっとひどい素質の子ども
の場合ですら,われわれがこれまでにいかに正しく活用すべきかを知っていた以上に,多様で潜在して A