学校における教育研究について(3)
関 勤
(1983年10月29日受理)
皿 教育理論と教育実践との関係
学校における教育研究について考察する場合,教育理論と教育実践との関係の問題を簡略ではあ っても取り上げて検討し吟味しておくことは大切なことであろう。なぜなら,教育理論と教育実践 との関係をどのようなものとして捉えるか,というその捉え方の違いによって,教育研究はそのあ り方が大きく左右されるからである。大まかにいって,教育理論と教育実践とは必ずしも結びつか ないもの,結びつかなくても差し支えないものという捉え方をすれば,その立場からなされる教育 研究は,教育実践とはなんのかかわりもないものとしての単なる教育理論の研究になったり,ある いは,その逆に教育理論とはなんのかかわりもないものとしての単なる教育実践の研究になったり するだろう。それに対して,教育理論と教育実践とは相即不離の関係にあるもの,不可分の関係に あるものという捉え方をすれば,その立場からなされる教育研究は,教育理論と教育実践とを,意 識的にも無意識的にも結合させよう,統一しようというねらいや形態をもったものになるだろう,
といっても過言ではあるまい。
筆者は以前に,断片的にではあるが教育理論と教育実践との関係について論じたさい, 「実践に とじこもるだけでよいのか」という問題意識をもって,「以上に述べたような教育理論の未成熟,
あるいはその有効性のモデルとしての限界からくるのでしょうが,教育界には,教育理論に対する 不信感がかなりあります。実践になんの役にもたたぬ抽象的なものとして理論を蔑視したり,その 役にたたぬ抽象的理論をもてあそぶものとして大学の教師を椰愉したりすることもあります。
そこまではいいのですが,私が心配になることは,「だからわれわれは実践だけを大事にすれば よいのだ。実践だけがアルファでありオメガなのだ。理論などは問題じゃない」と現場の先生方が,
ほんとに実践にとじこもり,いわゆる実践に埋没してしまうことです。こういう態度を,もし持っ たとしたら,まともな教育実践ができるのであろうかという心配です」n,と述べたことがある。
ここに論じたことは,直接的には教育の現場において実践のみが重視せられて,教育理論が軽視さ れるにとどまらず無視されたり拒否されるような事態にたちいたることを憂慮したものであるが,こ の主張の根底には教育理論と教育実践とは相即不離の関係にあるもの,不可分の関係にあるものと いう認識が存在していたことは明らかである。
本稿においては,上記の論述の場合よりも,教育理論と教育実践との関係についてより詳細に,
より正確に把握し叙述したいと考えている。なぜなら,教育理論と教育実践との関係という主題につ いて語る場合,教育理論とはなにか,あるいは,教育実践とはなにか,ということに関してはその定 義も概念規定も検討することなしに,ただちに両者の関係という本論に入ることが通常のようである。
教育理論,あるいは,教育実践という概念に関しては,すでに自明なものという暗黙の了解がある かのごとくである。しかしながら,教育実践という概念はともかくとして,教育理論とはなにかと
いうことに関しては,一般にその捉え方がアイマイで漠然としていると感じられるのである。そのア イマイで漠然としている概念規定の上に立脚して論じられるために,教育理論と教育実践との関係 という主題についての論述もまたアイマイで漠然たるものにならざるを得ないようである。この点 に留意して論をすすめたいと思う。
1.理論とはなにか.それはどんな特質をもっているか
「現実的存在はすべて具体的,特殊的,個別的である。それは本質的存在の規定が抽象的,普遍 2}
I,一般的であるのに対抗する。」
(1)理論についての概念規定
教育理論と教育実践との関係を考察するにあたって,まず手初めに理論,あるいは教育理論につ いての概念規定を明確にしておこうと思う。ところで,手元にある戦後に出版された代表的な教育 学事典や百科事典3)には,理論も教育理論もともにとりあげられていない。この点から考えると,
理論も教育理論も特別にとりあげる必要がないと判断されるほどすでに一般化した概念と考えられ ておるのかも知れないし,あるいはまた,理論も教育理論もともに概念としては細分化されたもの となっており,元のままでは現実的に無用のものと考えられているのかも知れない。しかし,理論 と実践との関係,教育理論と教育実践との関係という主題は,つねに古くて新しい問題であるのだ から,理論とか教育理論という概念は正面切ってとりあげられて明確に規定されるべきものであろ
うと思われる。
乙竹岩造は,昭和12年発行の『論理学』において, 「検証によってその確実が証明せられた仮説 を理論という。そして,一類一科に属する理論が有機的に関連して組織せられたものが即ち科学で ある」4},と述べている。また,理論についてのもっとも一般的な説明と思われるものを,新村出 著の『広辞苑』に求めると,そこでは,「④単なる経験や個々の事実に関するばらばらな知識では なくて,それらを法則的・統一的に理解させるところの多少とも整合的な原理的認識の体系。②実 践的妥当性の検証を離れ,純観念的に組上げられた論理」,というように叙述されている。つぎに,
『岩波哲学小辞典増訂版』(岩波書店,昭和22年)によると,理論は, 「1)個々特殊な経験,実 験又は観察に対して,一群の事実を一の原理又は法則から解釈する事に依って生じた統一的学的説明、
2}実際的行為や活動に対立して,実際上の目的を全然離れた純粋の知識哲学上理論的とは実践 的(実際的)に対するもの,純粋に究理心を満足せしめる以外何等の関心を有せぬ認識を指示する 語」,と説かれている。
『哲学事典』(平凡社,昭和46年)による理論についての解説は,「法則を体系化したもの。われわ れは一般に経験にもとついて経験法則(一般化法則ともいう)を得る。ボイル・シャールの法則,ケプ
ラーの法則,振子の等時性の法則などはその代表的な例である。しかし経験法則は相互の関係が不明 であり,かつ自己の適用限界,近似の程度などもはっきりしない。これらのことは,理論を構成し,経験 法則をその理論のうちに位置づけることによって,はじめて明らかとなる。したがって理論を構成するこ とは,ただ単にすでに得られている経験法則を形式的に整備することではないのである。そのうえ 理論を構成すると,まだ知られていない経験法則を得ることもできる。したがって理論を構成する ことは,科学にとってもっとも本質的なことなのである。(後略)」,というように行われている。
理論についての概念規定を示す最後の例として戸坂潤の所説をあげてみよう。かれは昭和11年に 岩波書店から刊行された『教育学辞典』(第一巻)において, 〔仮説と理論〕の小見出しのもとで,
「仮説を今,このように経験的事実の一般化だとすれば,我々は仮説なるものが理論に於て演じる 役割に注意せねばならぬ。なぜというに,理論こそ恰も,経験的事実を一般化し普遍的な場合にま で拡大・拡張したものであるからである。 (原文改行)理論は経験的諸事実から抽出され抽象され た所のものであるが,理論も亦やがて実験的検証を受けることを要求する義務と権利とを有つ。こ の点理論なるものと仮説なるものとの間には殆ど何等の区別がない。ただ科学に於ける理論は何等 か特殊の仮定なしに,全経験的事実を統一的に説明し得る又は得そうに思われる所のものを指すの であって,これがなお何等か特殊の仮定を置いてしか許されない場合に,その仮定が仮説に他なら ない。故に仮説とは,経験的事実から一般的理論(原則)を抽出導来するに際して,まだそこに理 論上多少の偶然性が横たわっているような段階に,必要に応じて発生する所のものであって,理論 5}
ヨの途の恐らく不可避な一中間段階に他ならぬと云うことが出来る。 (後略)」,と述べている。
これまで,理論についての概念規定と思われるものを,重複することを承知のうえで,各種の文 献から引用して羅列的に記述してきたのであるが,理論の根本的な姿はおのずから明らかとなった はずである。それは単なる経験や個々の事実に関するばらばらな知識ではない。それは整合的な原 理的認識の体系といわれたり,統一的学的説明と呼ばれたりしている。また,戸坂潤によって,経 験的事実を一般化し普遍的な場合にまで拡大・拡張したものである,というように述べられている が,この規定の仕方がもっともわかりやすい説明であるように考えられる。本節の冒頭に,「現実 的存在はすべて具体的,特殊的,個別的である。それは本質的存在の規定が抽象的,普遍的,一般 的であるのに対抗する。」,という命題を特別にかかげておいたのであるが,その意味は,理論と いうものは本質的存在の規定であるということ,および,したがって,理論というものは抽象的,
普遍的,一般的であるのだ,ということを強調したいということである。以下,理論のこれらの特 質を明らかにしてゆきたい。
② 理論のもっている諸特質
① 理論と抽象作用一理論についての概念規定において述べたところからも明らかなように,
理論(あるいは科学)のもっている特質の第1は,抽象作用である。しかし,一般に通俗的な用語 法として使用される場合,「抽象的」という言葉はどちらかといえば悪い意味をもつものとしてう けとられている。それは語感として深遠で理解しがたいものを意味するだけでなく,生活から遠く かけはなれたものを意味するものとして使われている。現実生活から遠くかけはなれて役に立たな いもの,しかも難解で常識では理解しがたいものという意味で「抽象的」という言葉が使用されて きたことは,抽象作用というものをその第一の特質としてきた理論(あるいは科学)にとってまこ とに不幸なことといわねばならない。なぜなら,理論そのものも,そのような悪い意味をもつもの としてうけとられやすいからである。現に理論と実践との関係という考察において,理論はそのよ うにうけとられてきたのである。
しかし,抽象作用あるいは抽象化ということは,通俗的な用語法としての「抽象的」という言葉 と同じような意味をもつものとして考えられてはならない。日高普は昭和43年に「抽象化の問題」
について論じているが,その冒頭において特に科学における抽象化について,「われわれの経験は,直 接的には無限に多様なものの複雑な連続からなりたっている。直接経験のうちどの二つの部分をと
ったとしても,まったく同じということはありえない。けれども,それを単に多様なものとしてし まうだけでは,われわれは生活をいとなんでいくことかできない。人間が目的をもって行動し,あ るいは生産活動によって労働の対象に働きかけることができるためには,多様な経験のなかからそ の一部の要素を抽出し,それを概念的に把握し,ある作用を与えるならある結果が生ずるという法 則を認識することが必要である。例えば綿花はどの部分をとっても厳密に同じものはなく,多様な ものではあるが,それが紡績労働をもってすれば綿糸になりうるという要素が抽出されることで,
はじめて人間の生産活動が可能となるのである。 (原文改行)このような自然についての抽象的要 素のいくつかが組合せられ,組織されるためには,多くの概念からいっそう抽象的な概念が考えら れ,多くの法則からいっそう抽象的な法則が考えられなければならない。それはもはや直接経験に そのまま与えられるものではないが,直接経験にあらわれた自然の複雑な運動を,背後から規制す るものとして認識されるのである。自然についての概念や法則がその抽象の程度に応じて体系的に 組織され,その組織が自然の構造を反映するものとされるとき,この知識の体系は自然科学とな 6)驕v,と述べている。ここで日高の述べている要点は,直接経験あるいは経験的事実についての抽 象化は,抽象的な概念を与え,抽象的な法則を与えることになるのだが,それは人間の生活をいと なんでいくための必然のものであること,および,その抽象化の結果が科学として結実するもので あるということである。
デューイは,主著『民主主義と教育」の第17章「教育課程における科学」,第2節「科学と社会 の進歩」において,科学は合理的になりつつある経験なのであるという考え方にたって,経験が科 学になるための抽象作用の重要性を強調している。抽象作用と反対のものは習慣であって,それは 新しい出来事を前の出来事とまったく同じものであるかのように処理しようとする。ところが現実 にはまったく同じ状況が再現することはない。したがって,それは,別の,つまり新しい要素が当 面の目的にとって無視しうるものである場合には,十分間に合うのである。けれども,デューイは,
「新しい要素が特に注意を必要とするときには,抽象作用が引き起こされなければ,でたらめの 反応に訴えるしかなす術がない。というのは,抽象作用は,以前の経験の内容から,新しいもの を処理するのに役立つと思われるものを慎重に選び出すからである。それは,過去の経験に埋蔵さ れている意味を,新しい経験において用いるために行なわれる意識的な転移を意味するのである。
それは,まさに知性の動脈,つまり,ある経験を別の経験の指導に役立つように意図的に転移させ る幹線道路なのである」7iと述べて抽象作用の意義が以前の経験が新しい経験において用いられる ための転移にあることを説いている。これは,かれの説く経験の連続の原理が現実にはこの抽象作 用によって行なわれるのだと解釈できることを意味する。
っついて,デューイは,科学が実は経験の抽象作用であることを,「科学は,以上のようにこれ までの経験の内容を作り直す仕事を大規模に行なうのである。それは,全く個人的で全く直接的な ものすべてから,経験を解き放そうとする。つまり,その経験が他の経験の内容と共通にもってい るもので,しかも,共通であるから,さらに後で利用するために貯えておくことができるようなも のなら,どんなものでも分離しておこうと努めるのである。したがって,それは社会の進歩に不可 欠な要因なのである。どんな経験にも,それが起こったときのままでは,独特の,二度と繰り返す ことのありえないもの一それはその経験にまきこまれている人にとっては大事な意味をもつもの であるかもしれないけれども一一が,いっぱいある。科学の立場からは,このような材料は偶有的 なものであって,広く共有されている特徴こそ本質的なものなのである。その状況に独特なものは
みな,その個人の特殊性や周囲の事情の偶然的一致によるものであるから,他の人々には役に立た ない。そのため,共有されているものが抽象され,適当な記号で固定されないならば,実際上,そ の経験のすべての価値は,その経験が終わるとともに消滅することになるだろう。ところが,抽象 作用と,抽象されたものを記録する言葉の使用とが,個人的経験の正味の価値を人類が永久に自由 に使用できるようにするのである。だがそれが,その後,いっ,どのように,役立てられるか,だれ も詳細に予見することはできない。抽象作用を推し進めている科学者は,自分が作った道具をだれ が,いつ使うか,を知らない道具の製作者に似ている。だが,知的な道具は,他の機械的な道具よ りも,その適用範囲が限りなく広く自由なのである」8),というように実にわかりやすく解き明かし ている。
抽象作用がなければ,概念もなく法則もなく理論もなく,したがって理論を構成することをもっ とも本質的なこととする科学も存在しない。抽象作用がなければ,以前の経験がつぎの経験に生か して用いられることは不可能になり,人間は生活をいとなんでいくことができない。
② 理論と一般化一理論(あるいは科学)のもつこの第2の特質についてデューイは,「一 般化は,抽象作用と対をなす作用である。それは,新しい具体的経験に適用された抽象的概念の機 能である一新しい状況を明らかにし,それを方向づけようとする抽象的概念の拡張なのである。
抽象作用が,自己完結的な不毛の形式主義にならずに,実際的効果を生むものになるためには,こ のような実行可能な応用との関係が必要である。一般化は,本質的には,社会的な手段である。人 々が自分たちの興味をもっぱら狭小な集団の関心事に結びつけて考えていたときには,彼らの一般 化も,それに相応して,狭く限られていた。その観点が,広く自由に見渡すことを許さなかったの である。人々の思考は,狭い空間と短い時間に制限されていた一考えられるすべての価値の尺度と して確立された彼ら独自の慣習に限られていた一のである。科学的な抽象作用と一般化とは,時 間的,空間的にどんな位置に立っていようと,どんな人間の観点にでも立つということに等しい。
具体的経験の状況や偶発事からのこのような離脱は,科学の非日常性や「抽象性」のもととなるけれ ども,同時に,科学が,広く自由な範囲で,実り豊かに新しく,実際に応用ができるということの 根拠でもあるのである」glと主張している。抽象作用にくらべ一般化は一般的には意識されること が少ないようだが,理論の重要な特質である。
③ 理論と名辞や命題一理論(あるいは科学)のもつ第3の特質についてデューイは, 「名 辞や命題は,抽象されたものを記録し,固定し,伝達する。ある具体的な経験から分離された意味 は宙ぶらりんのままでいることはできない。それは住む場所を獲得しなければならない。名辞が抽 象的な意味に物理的な位置と肉体を与えるのである。だから,公式化は,後思案とか副産物とかで はない。それは,思考という仕事の完成に欠くことのできないものなのである。人々は,自分で表 現することのできないことをたくさん知っている。だが,そのような知識は,やはり実際的で直接 的で個人的である。個人はそれを自分自身のために用いることができる。つまり,彼はそれに従っ て能率的に行動することができるだろう。芸術家や経営者は,しばしばこういう知識をもっている。
けれども,それは個人的であり,転移不能であり,いわば本能的である。ある経験の意味を公式化 するには,人は他人の経験を意識的に考慮に入れなければならない。彼は,自分自身の経験だけで なく他人の経験も含む立場を見出すように努めなければならない。さもなければ,彼のコミュニケ 一ションは理解されえない。彼は,他のだれにも分からない言葉をしゃべるだけである。文芸は,
経験を叙述することにおいて最高の成果をおさめて,それらの経験が他人にとっても真に有意義な
ものとなるようにするが,科学の用語もまた,別のやり方で,経験された事物の意味を,その科学 を学ぶどんな人にでも分かるような記号で,表現するように作られているのである。美的公式化は,
人がすでにもっている経験の意味を明らかにし,高めるが,科学的公式化は,異なった意味をもつ 新しい経験を構成する道具を人に与えるのである」101と述べている。
以上,理論のもっている特質として,抽象作用,一般化,名辞や命題の三っの性質をデューイの 指示するままに列挙し叙述してきたが,いずれの特質も経験あるいは経験的事実と密接不離の関連 にあるものであり,経験あるいは経験的事実から生まれてきたものであることが了解される。
2.理論と実践は,あれか・これかの二分法で優劣を定められない
本紀要の先号に, 「先生方は専ら具体の世界での実践に精進しておられる。しかしその具体的な 実践の中に法則性を見出す努力を怠ってはいただきたくない。そうでないと幼稚園教育はいつまで
も経験やカンに頼る次元の堂々めぐりで,せっかくのすぐれた実践が積み上がらないし,共有の財 産になっていかない。……ゴD,という文部省の岸井勇雄幼稚園教科調査官の提言を引用したカ㍉
これも理論と実践との関係に関する発言とみることができる。これは実践から理論へとすすむ方向 での関係である。
理論と実践との関係をどのように見,どのように考えたらよいのか,その点をもっとも基本的に 教えてくれるものに務台理作著の『哲学概論』がある。そこでは,「理論と実践は,そのいずれが 優越するかという形ではたしかに対立する。しかしその対立は,本来的な理論と実践の意味から現 われたものでなく,むしろ附帯的な第二次的なものから生じてくるもののように思われる。その附 帯的な第二次的なものとは,理論と実践の関係において,ほとんど不可避的に現われてくるイドー ラである。理論は原理的なもの,普遍的なものを求めるが,そのためには諸現実に対して理論的抽
象化を行わねばならない。しかしこの抽象化はともすると実践からうき上り,それだけで独走する ことになりやすい。抽象のための抽象である。理論のための抽象はもともと具体的事実の割愛に対 する責任を負うべきであるのに,そのような責任から遊離して抽象のための抽象,理論のための理 論に向って独走することになる。このような抽象の独走はいかにもかるがると行われるので,理論 の抽象的拡大を容易にする。即ち一方では,一つの抽象的なワクになって,このワクの中へできる だけ多くのものをとり入れることができると過信し,したがってその理論は全体性をもつものと誤 信されることになる。また他方ではすべての定立に対し,この抽象的ワクの中へはいるものと,は いらないものという二分法を施こし,このワクの中へはいるものは正しく,はいらないものは全然 まちがっているときめっけてしまう。したがってそのようなワクを守り,ワクのためにさらにワク を作り出すことを重ねる。これがいわゆる抽象的拡大のイドーラである」12),と説かれ,理論と実
践の関係において,ほとんど不可避的に現われてくる抽象的拡大のイドーラがあり,そこから理論 と実践は,そのいずれが優越するかという形での対立が生ずることになる。ここで説かれている抽 象的拡大は理論の側の抽象的拡大である。
つぎに務台は実践の側のイドーラに論をうつして,「これに対して実践は,実践的であるという ただその点にのみ優位をふりかざすことになると,前者と反対に,ただ手足をばたつかせ,些末な 実感に密着することになって,それが実践のすべてと思いこみ,このような狭い実感の領域から出 ようとしなくなる。実感が実感を拡大したり深化したりするには,じつは理論的抽象を必要とする
のであるが,このような非情な抽象の介入を拒む実感信仰においては,実感を拡大したり深化した りするかわりに,これを却って不生産的なものに狭めてしまう。このような実感への埋没は,実践 的実感をもつことだけに優越を感じ,その理論化を軽視してしまう。これは実感主義のイドーラで
?驕v13}
Cと述べているが,実践の側にも,ただそれにとじこもるだけでは実感主義のイドーラと いう危険な落し穴があるということはきわめて教訓的であり,われわれに実践をあらためて見直さ せる眼を開くものであろう。
務台は,理論と実践との両者を各々それだけのものとして孤立化し,一方ではその抽象的拡大を はかり,他方では狭小な実感の中へ埋没するときに,両者はまったく対立するものとなり,いずれ が優位をしめるかということだけが問題となっておし出されてくるのであり,理論か実践かという ような,あれか,これかの思考法を用いざるをえなくなるのだと指摘する。そして,一方は正しく,
他方はあやまっているというように,あれか・これかの二分法で優劣を定めようとする思考法の問 題性を批判しているのである。
理論と実践の関係において,附帯的,第二次的なものとして現われるイドーラ,即ち抽象的拡大 を,理論の独走による抽象的拡大主義と実感への密着から出られない実感主義一点ばりとして捉え た務台は,この両者がたがいに対立しながらも共通点としてもつものをつぎの2点として指示して
いる。
「1,両者ともに抽象的拡大主義に陥っていることである。理論が抽象的なワクとなり,このワ クが公式化されるときに抽象的拡大に陥ることは前述したが,実感主義のイドーラも,きわめて狭 い実感へ密着し,それを唯一の拠点とし,さらにそれを不当に拡大して,すべてをそのワクでおし はかり価値づけて見ようとする点で,やはり抽象的拡大主義に陥っている。理論の抽象的拡大があ るだけでなく,実践の抽象的拡大もある。両者の力点のおきどころは対立的であるが,その対立は,
じつは一つのもののウラハラにほかならない。
2,さらにいま一つの共通点がある。それは両者ともに状況とのつながりから遊離していること である。人間は,人間が何であるかという本質や本性によってはかられるものでなく,与えられた 状況の中で何になるかというその状況的可能性からはかられるべきである。人間がそもそも何であ るかということは,つねにその状況,とくに全体的状況からのみはかられる。同一の人間がAとい う状況の中にあるばあいと,Bという状況の中にあるばあいとで,まるで別人のようにふるまうこ とがある。このばあい,A状況のみが本質的であってB状況は偶然にすぎないというわけにはいか ない。どのような状況も彼にとっては偶然であり,同時にまた必然である。人間存在の意味はその 状況の全体において示されるものである。このように,人間現実にとって状況は不可分な条件とな っているのに,この条件から理論と実践とが遊離し,それだけで絶対化を求めるために,前述のよ 14)
、なイドーラに陥ることになる」
以上に述べられた両者の共通点,1抽象的拡大主義と,2状況遊離という二つの附帯的なもの,
第二次的なものから脱却することが真実の実践の意味を示すものであるとする務台は,「実践とは ただ手足をばたつかせ,実感信仰にたてこもることでなく,したがってまた理論をたんに実際面に 移して実行するというだけのものでなく,じっは理論を健全に育て上げ,一見非情な抽象的理論を 媒介とすることによって,みずからを深化拡大していくはたらきである。理論が健全に発達するに は多くの具体的事実を抽象にゆだね,これを普遍化しなければならないが,この抽象化・普遍化の ために事象へのつながりを割愛していくエネルギーが,理論そのものの重味となり実践的変革へ向
ってのエネルギーにまで還元される。そういう意味では理論と実践という二つのものが別々にある のでなく,じつは理論・実践或は実践・理論という一つながりのものがあるだけである」15),と 述べているが,われわれは理論と実践という二つのものが別々にあるのでなく,一つながりのもの があるだけとするその主張によって,理論と実践との関係を考察する泥めの基本的観点を,この関 係を見るための認識的装置を与えられたように思われるのである。
なお,デューイは, 「実践と相反する無益な理論も存在するカ㍉真に科学的な理論は,新たな可 能性に向かって実践を拡張し,実践を方向づける力として,実践の中にふくまれるのである」16},
と説いているが,実践の中にふくまれるとは意味深長である。実践の必要から生まれ,実践に貢献 するために存在し,最後は実践に帰一していくことが理論の宿命として考えられるだろう。実践と 相反する無益な理論としてデューイの指示するものは,単なる思弁的理論のことであって,それは 始めから終りまで永久に実践から外れっぱなしの理論のことであり,本稿において論証しようとし た理論と実践との関係にいささかもかかわることのない理論のことである。
小論において,教育理論と教育実践との関係と題しながら,内実は理論と実践との関係の考察に 終始してしまった。他日また想を練り直し,素材をゆたかにして執筆したいと思っている。
注
1)拙稿「教育実践の創造性と教育研究」『茨城県教育研究会報』第29号,1977,p.3。
2)飯島宗享「実存主義における人間」『岩波講座 哲学皿人間の哲学』(岩波書店,1968)p.199。
3)下中彌三郎編『教育学事典』(平凡社,1954)
細谷俊夫他編『教育学大事典』(第一法規,1979) ・ 下中 邦彦編『世界大百科事典』(平凡社,1972)
4)乙竹 岩造 『日本教育新教科書論理学』(培風館,1937)p.58。
5)城戸幡太郎他編『教育学辞典第一巻復刻版』(岩波書店,1983)p.260。
6)日高 晋「抽象化の問題」『岩波講座 哲学皿科学の方法』(岩波書店,1968)pp.271−272。
7)J・Deweめ1)θ鳴ooγασ写 α蜴E伽σα師o%, The Macmillan Company,1916, P.264。
8) Ibid., pp.264−265。
9) Ibid., p」 265。
10) Ibid., pμ265−266。
11)拙稿「学校における教育研究について(2)」『茨城大学教育学部教育研究所紀要』第15号,1982,p.118。
12)務台理作『哲学概論』(岩波書店,1958)p.284−285。
13)同書, μ 285。
14)同書, pp.286−287。
15)同書, p.287。
16)J・D・w・ゆ・伽・・吻・翻配翻甑Th・M・・mill・・C・mp・ny,1916, P.267。