• 検索結果がありません。

宗教教育の研究Ⅱ ―知について―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "宗教教育の研究Ⅱ ―知について―"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

宗教教育の研究Ⅱ

―知について―

小  松  昌  幸

 1 知 の 分 類

       

 人間の生命の中に働いている知には三種類のものがある。すなわち(1)知能指数的知②創 造的科学知(3)英知の三種類のものである。これらの知の特色を脳生理学によって明らかに

してみよう。

 知能指数的知は経験とか学習をした範囲内で推理したり判断したり認識したりする知で ある。一般に知能指数によって評価される知である。これは後頭・頭頂連合野が側頭葉の 記憶装置を駆使して発生せしめているものである。創造的科学知は知能指数的知と関連を もっているものであるが,経験や学習を超えて全く新しいものを生み出す知である。これ は前頭連合野の活動によって生み出されている。この創造的科学知と知能指数的知との関 係は,コンビュターに例をとれば,前者はソフトウェァー後者はハードウエアーに該当 する。すなわち前頭連合野はプログラムを作って,後頭,頭頂連合野のハードウエアーを

 ユ 

駆使することによって創造活動を営んでいる。

 英知は自己の生命存在を明るます知であり,人生の意味と生きるよりどころを明らかに する知である。人間の脳について時実利彦はその編著「脳の生理学」で次のように概観し ている。『「生きている」という静的な,精神を伴わない生命現象が基盤としてあり,こ のうえに動的な精神を伴った「生きてゆく」という生命活動が展開される。』とし,更に        (註2)

次のような表を掲げていている。

      く ヨラ

  生きている……{羅囎::::::雛難中ヒ毛}…………・一…脳鮪髄系

生きてゆく…… o繕§;;;甕三四;油点範雲門

   (ここで取りあげられている「創造行為」は科学的創造行為である)

 しかしこの表では英知の脳における座は明らかでない。英知と英知の座が明らかでない のは時実利彦の表が脳の三つの統合系にもとづいて精神活動を示しているためである。三 つの統合系は分離して働いているものでないことはマグーン(H.W. Magoun)らの脳 幹における非特殊的網様系の研究によっても明らかである。すなわち「しかし最近の研究 によって,脳幹部の重要性が再び強調され,古典的な神経病学で問題になる脳幹の外部に 位置している運動神経路や感覚神経路などの特殊系と並行し,それらとたくさんの線維結 合している,脳幹の中心部の非特殊系の機序が明らかにされてきたのである。この非特殊 系は脳幹の中心部にひろく分布しており,車輪の輻(や)が車軸からまわりの縁にむかっ て放散しているように,この中枢神経系の機能的な影響はあらゆる方向におよんでいる。

すなわち尾方は脊髄の高さにおよんで姿勢反射やそのほかの脊髄活動に影響し,頭腹方に

(2)

は視床下部と下垂体の機序に作用して,それを通じて内臓機能や内分泌機能に影響をおよ ぼしている。また頭方は間脳と大脳辺縁系におよぶが,そこは現在,心臓にかわって感動 や情動を支配すると考えられている場所である。そしてさらに頭詮方の大脳半球新皮質に も影響をおよぼし,ここではそれと結合している視床や基底核群とともに,より高等な すべての感覚,運動,知的行動を司っている。」とマグーンはその研究結果を報告してい        う

る。ここで注目すべきは生命の原点とも考えられる脳幹,背高系の中に全脳の統合作用 が存在しているということである。われわれはわれわれの生命の中にわれわれを超えて働 く大生命の働きを,とくに脳幹・背髄系において看取することができる。われわれは一分 間に何回心臓の鼓動を起さそうと考えているわけではない。また一分間に何回呼吸しよう

としているわけでもない。種々の内臓からは生きるために必要な情報が刻々発信されてい るが,われわれは特殊な場合を除いて,その情報処理をしているわけでもない。われわれ が「生きている」のは「われの意識を超えたもの」 (脳幹・露髄系)の働きによるのであ

る。われわれの存在を計るます英知はわれわれの生命の中に働く大生命によってもたらさ れるものであろう。したがって英知の座は全脳を統合している脳幹にあると推定しても誤

りでないであろう。

 創造的科学知が知能指数的知を駆使することによってその機能を発揮しているように,

英知も知能指数的知や創造的科学知を駆使することによってその機能を発揮することがで きる。 この点英知はわれわれに与えられた最:も高次の知であって,知能指数旧知や創造的 科学知を拒否するものではなくそれらを包生しているものである。

 皿 英知と他の知との差違

 創造的科学知は主観と客観の分裂において働く知である。その主観は先天的に与えら れた枠組に従って対象を認識していくものである。カントはその著「純粋理性批判」にお いて主観のもつ限界性を「先天的認識」によって指摘している。ハイデッガーはその著

「世界像の時代」の中でSujectumを警;告することによって創造的科学知の限界性を反省 せしめている。またヤスパースはその著・「哲学と科学」において創造的科学知といえども 世界を全体として認識することはできないものであることを明らかにし,その限界性を明

らかにしている。創造的科学知は主観の感覚や知覚の構造機能を無視して働くことは不可 能であって,これらによって限定を受けるものである。人間の視覚ひとつとってみても限 定されたものであることがわかる。人間は紫外線や赤外線でものを見ることはできない が,昆虫は紫外線でガラガラ蛇は赤外線でものを見ることができる。このことはひとつの 比喩であって,人間は科学的な道具によって第二の眼をもち,肉眼の不完全さを補う力を もっているという反論ではどうにもならないことを示唆するものである。すなわち人間の 感覚や知覚はあるものがセットしたプログテムによって感じ知るようにつくられているこ

とに気付かなければならない。

 勿論このことは創造的知の確実性を否定するものではない。創造的科学知は大生命が生 きていく必要からわれわれの生命に贈っている知であって,大生命自らの顕現のひとつの 様式であるからである。

 英知は主観と客観の分裂を包みかつ越えた場で働く知である。創造的科学知は主観によ るプログラミングにより対象(自然的事実・社会的事実などの)中に確実性を求める。英

(3)

3

宗教教育の研究 1 一知について一  (小松)

知は生命自身が明るんでくるというしかたで働く知である。これは対象化あるいは外化し たときにはその真実と遠く離れたものになる。個的生命を場として普遍的生命が明るんで くるとしか表現のしようのないものである。ハイデッガーも後期の哲学では「存在と時 間」の存在論(存在者から存在へ)の立場を百八十度転廻した存在の明るみの立場に立

っている。すなわち人間とは存在が明るむ場であり,人間の本質は自我に固執せずにその 存在の明るみの中に立ちいでることであるとする立場に立っている。英知はそのような場

に人間が立つときわれわれを包む光のようなものである。大乗仏教ではこの英知を般若と 呼んでいる。般若は対象をとらない知であり,人間存在そのものが自らを語り出すところ に現成する知である。ヤスパースが「哲学」の序論において実存を(1)決して客観となるこ とのないもの,(2)私がそれに基いて思考し行動する根拠,(3旧己自身にかかわり,かつ,

そのことのうちで超越者にかかわるもの」と規定している。われわれは自分自身を対象化 してこれを見ることができても,主客対立の場では見る自己は永遠に見ることはできな い。この見る自己を明らかにすることによって,われわれは実存となる。われわれが本来 何んであるかは対象化できない「見る自己」を見ることによってのみ露わにすることがで きる。それは眼が眼を見るという矛盾にぶつかることである。創造的科学知の認識構造に おいては不可能なことである。しかし生命が生命そのものを明るますもうひとつの認識の しかたがある。般若とはそのような性格の知であり,創造的科学知の限界内にとじこめら れた状能を無明(無知)とするのである。

 創造的科学知は前頭連合野の働きによるものである。前頭連合野は同時に自我意識の働 く場所である。この場所は「われ」を意識せしめ,従ってわれと他を区別して意識する。

自他の対立を発生せしめる場であり,他に打ち勝とうとする心,他を征服しようとする心 を起させ,これがうまくいかぬ時劣等感,憤り,悲しみ,ねたみ,恨み,嫉妬,復讐心な どを,うまくいったときは勝利の欣びなどの感情を起させる場である。これら意志と感情       く   

の座が即ち創造的科学知の座でもあることは何を意味しているのであろうか。創造的科学 知は自我意識を,自我にむすびついた意欲や感情をそのエネルギーとしているということ でないだろうか。ポルトガルの神経学者モニス(E,Moniz)によって始められた「前頭 葉切り」の手術は,知能指数や記憶の力にはほとんど変化なく,しかも精神病の治癒に効 果をあげた。しかし前頭葉切除された人達には無頓着,無感動,自発運動の減退,感情生 活の減退などの現象がみられ,従って創造の精神の活動も鈍化する。

       

 前顕連合野は人聞において著るしい発達がみられ,他の生命体における前頭連合野は前 頭前野の狭少な範囲にとどまっている。これが人間と他の動物との大きな差違となってあ       く   

らわれ,人聞が他の動物に較べてとくに自我意識が強く,また創造的科学知という他の動 物のもたない知をもつ差違を生ぜしめている。しかし問題は前頭連合野の狭少な動物園は 同じ種族を殺さないような脳の抑止力をもっているのに対し,人間は強烈な自我意識によ って自我と対立するものを抹殺する殺し屋となる。創造的科学知の座である前頭連合野は 同時に殺し屋の血のたぎっているところでもある。殺し屋の血をもつ自我意識を無くして       くえ  

創造的科学知だけをと望むことは不可能であろう。この殺し屋の血を清め,平和な血をも つ自我意識にするにはどうすればよいかが問題となる。われわれの生命の中にこの問題を 解決しうる働きがある。時実利彦は集団と個の対立,個と個の対決をもたらす前頭連合野 の働きを超越する宇宙意識というい生命事実を指摘している。大乗仏教ではその生命事実       (註9)

(4)

を仏性あるいは如来蔵と呼んでいる。

 英知は宇宙意識あるいは仏性乃至は如来蔵の働きとして現成するものである。大乗仏教 においては「一切衆生悉有仏性」が説かれ,あるいは「一切衆生如来を内に抱く」 (如        (註10)

来蔵)ことを指摘している。その根拠は「仏智遍満している故に」である。如来

      (註11)       (註12)

(tath互gata)はtath瓦(如)から来たれる(互gata)ものであって,如(真理)の体現 者である。如とはありのままということぞあるが,生命のありのままということである。

われわれは自我意識一それは生命が生きていく道具としてあたえられたもの一に閉じ こめられて,ありのままの生命として生きていない。われわれがありのままの,自然法爾 の生命を生き抜く時仏となり如来となるのである。自然法爾の生命とは潜んであろうか。

自我意識を超えるとき自と他の一如の世界に出る。フランクルが「夜と霧」 (強制収容所 における一心理学者の体験と観察)の中で,財力,権力,名声,幸福さえも消失したすっ 裸の人間に真に人間的なものの露出を見たと報告している。飢餓状態におかれた人間がと

きたまの配給のパンを病人に幼い子供に頒け与えている。自我に閉じこめられた生命が自 我の垣根をとり払って他の生命に合体浸透している事実を報告している。これこそ自然法 爾の生命の姿である。正義,博愛,謙虚とは自我意識を超えた自他一如の場に露わになる。

自然法曽の生命とは面的生命に働いている普遍的生命である。われわれは自我意識を超え るとき,われわれの生命に普遍的生命の働きを看取する。いなわれわれは普遍的生命に生 かされていることを知り,普遍的生命の働きのまにまに生きる真実さと欣びと安らぎをも つのである。自我意識に閉じこめられたわが「生」の無明が破れ如実知見の働きをもち,

諸行無常,諸法無我の縁起の理法の智慧に包まれ「有為の奥山今日越えて浅き夢見じ」に 到るのである。また自我意識を超える故に自他一如の慈悲に包まれかつ生きることにな る。それ故如来とは智慧限りない無量光如来,慈悲限りない無量寿如来である。ここにお いては智慧は慈悲であり,慈悲は智慧である。これこそ英知と創造的科学知との本質的な 差違を示すものである。創造的科学知の段階では自我意識の殺し屋の血をどうすることも できなかったが,英知の段階においては自我意識は堅い殻を開いて普遍的生命に満たされ 清められるのである。

 英知は生命が生命となること,生命が生命の正しい秩序においてあることによって現出 するものである。英知の問題は生命が生命となるということが何になのかという点,何故 生命が本来の秩序を乱さなければならないかという点を解明することを要求する。心理学 的に言えば生命は意識界と無意識界によって成立している。意識界は自我(ego)によっ て組織づけられた生命活動の体制である。この自我の体制から締め出された生命活動の部 分が無意識である。精神分析学者は自我の特定の組織の外部,即ち無意識の中に入間のあ らゆる可能性が秘められいると言らている。われわれの生命は前頭連合野の著るしい発        ユヨ 

達によって強烈な自我をもち,明確な自他区別の機能を発揮している。このことはわれ われの生命にとって必要であることは勿論であるが,自我のこの機能は自分の組織に属さ ない生命活動を無視し,孤立した世界をつくって閉じこもる傾向に堕し,全生命活動の秩 序を乱すことになる。生命が本来の生命となるためには,この閉鎖的な自我による意識体 制を突き破って,無意識の意識化への限りない努力が必要となる。そのような能力が発揮 できるようになっているのが本来の生命というものであろう。この点に関して注目すべ

きことは,意識調節の機能が無意識の脳幹に存在しているということである。前頭葉の       (註14)

(5)

5

宗教教育の研究 豆 一知について一  (小松)

自我の手のとどかない,しかも全脳の統合作用をもつ脳幹にあることはわれわれの生命が 無意識の意識化の可能性をもっていることを示しているのでないだろうか。

 自我の意識体制の固定化を突き破り,無意識の中に秘められた生命の本質を意識化する ためには,空に徹しなければならない。空は縁起を観,縁起の法に生きることである。縁 起を観ることと縁起の法に生きることとは時間的前後のあるものでなくて,同時的,相互 作用的である。縁起に生きるとは何物にも捉われない境涯を生きることであり,創造の源 泉に立つことである。この境涯に立つためには徹底的に自我を超越する実践が忍辱と精進

において行ぜられなければならない。たとえば布施波羅蜜を実践することである。それが そのまま般若(空智)波羅蜜となるのである。大品般若経に「布施波羅蜜に住するとき般 若波羅蜜を取る」とある。布施波羅蜜が般若波羅蜜であるとはどういうことであろうか。

      ユらう

布施とは衆生に自己のもてるあらゆるものを施与することである。布施は自他一如を行ず ることであり,自らの生命が他の生命に滲透し合体する一一普遍的生命を生きることであ り,それは慈悲を行ずることである。その場合布施波羅蜜について金剛般若経は「応に住 する所なくして布施を行ずべし」と説いている。「応に住する急なくして」とは宝性論で        く   

三輪清浄として解明されている。われわれは他人にものを施すとき「私」が「このような       く  

もの」を「あの人」に施したと思う。施者と施物と被施者の三輪が残る。この三輪を意識 せずに布施が行われるとき三輪清浄であり布施波羅蜜を行じているのである。能断金剛経 論ではこのことを三輪体空と表現している。空になり切って,生命の真実の働きに催され て布施を行ずる。この生命の真実の光に包まれて行為することが般若(空智,英知)を 身につけていることである。般若は自我超越の実践をぬきにしては存在しない。その点般 若は霊知である。

 棟択なければ至道無難といわれるが,この自我中心性の掠択に左右され,「花は愛惜に 散り,草は嫌悪に生いる」自我中心の論理を展開するのが凡夫である。自我が普遍的生命          く  う

に向って開らかれておらない限り,生命の真実な働きは阻止され,前頭連合野は自我中心 の論理を自由に創造していく。かくて華厳経に説かれている重々無尽の空なる実相は見え なくなる。この無明の闇を破るために自我を普遍的生命に向って常に開かしあておく実践 こそ般若すなわち英知にとって必要不可欠のこととなる。この実践を修といい,証は修と 一如なものである。どの実践は日常生活の中で常に行ぜられなければならない。この点に ついては維読経が強く説くところである。たとえば座禅とは静かな血気のない樹下で坐っ ているということではなく,日常的な行動に空を行ずることこそ座禅であると舎利弗を戒 しめる維摩の説法がそれである。英知は日常絶えざる全生命的働きによって現成するのに        ユ  

対し,創造的科学知は前頭連合野のリードによる頭頂,後頭連合野などの働きによって現 われてくる。英知は大死一番の全存在をかけての働きを必要とするが,創造的科学知はそ のような働きを必要としない。英知は心身を挙しての実践を必要とするが,創造的科学知 は心の活動によって顕現する。

 創造的科学知の産出したものは正確に人から人へと伝達することが可能である。創造的 科学知が意識一般を母胎にするからである。英知の産出したものは人から人へ伝達するこ とは困難である。それは生命的真実という普遍性をもっているが,反省的思考によって概 念化するとき月をさす指しかひとに示すことができないからである。これを比喩的に説明 して:みよう。美しい音楽を聞き入っている場合,そこには聞いているわれもなければ音楽

(6)

もないひとつの生命状態があるだけである。はっとわれに返って主面分裂の反省的思考の 場に立つとき,わたしは美しい音楽を聞いていたということになる。この音楽はこのよう に美しいものであるといくら説明してもそれは月さす指を示しているだけである。英知の 産出したものは説明と理解の方法では伝達できない。英知の産出したものは産出した生命 の中に鳴り響いていて,他の生命に共鳴現象を惹き起すことは可能であろう。しかし共鳴 現象は共鳴現象であって音源が止まれば共鳴もとまる。個の生命が共鳴現象の体験を機縁 として自らが音源となって鳴り出さない限り,個の生命の英知が働き出さない限り,英知 の産出したものを亭受することはできない。英知の産出したものは個の生命につみあげら れ個の生命とともに消え去る。勿論消え去るといっても全く無くなるわけではなく,共鳴 現象の音源として生命海に鳴りつづけているであろう。

 創造的科学知の産出したものは個の生命の一代限りではなく,歴史的な積みあげが可能 である。それは意識一般という土台の上に産出されたものであるから,説明と理解の方法 を通じ他に伝達できるからである。世代から世代へとつみあげられ,その量は加速度的に 増加する。

 創造的科学知は飽くことを知らない貧欲さをもって,限りなく対象を求めていく。自然 現象や社会現象やわれわれの生命現象そのものについても対象化し,主観というひとつの 与えられた枠組によってそれらの現象を解明していく。そこに社会科学,自然科学,生命 科学を成立せしめ,それを発展せしあている。このことをハイデッガーはGe−Ste11とし て捉えている。即ち存在が現実を取り立て役立つものとして顕現させるように人間(存在 者)を仕立てているからであろう。創造的科学知の働きも実は生命の働きとしてわれわれ        く  の

人間に与えられたものであり,そのような立場でこの働きは尊重されなければならない。

しかし創造的科学知が頑迷な自己主張に陥り,われこそ生命の最高唯一の働きであると自 負するとき愚かな科学主義に堕するのである。英知はこの創造的科学知の頑迷な自己主張 を打破し,それ本来のあり方をとらしめるものである。大乗仏教では英知を根本智とし,

この英知のもとに展開する創造的科学知を後得清浄世智とする。まだ科学の発達の不充分       し   

な時代のため後得清浄世智の適確な衆生救済の機能は究明されてはいないけれども,英 知と創造的科学知との関係については正しい観点に到達しているものといってよいであろ

う。

皿 英知の研究方法について

 英知の研究方法として哲学的な方法がある。カント(:Kant,1.)は「論理学講義」にお いて彼の哲学の出発点と帰結点が「人間とは何か」を追究することにあると述べている。

そうしてわれわれの理論理性(創造的科学知)の有限性を先天的認識によって潜めそうと したのが「純粋理性批判」である。この理論理性の有限性に対して,これを超えて無限な ものの光の射しこんでいる実践理性(英知)を論じたのが「実践理性批判」である。この 両者を統合するものとして構想力を問題にしたのが「判断力批判」であったが充分なもの ではなかった。しかしカントが実践理性として英知を追究した点は注目に価するものであ る。ヤスパース(Jaspers, K。)は「世界の心理学」で理論理性の挫折を限界状況によっ て語っている。そうして「哲学」第二巻(実存照明)の中で人間そのものを遺るますため の試みを提示し,「哲学」第三巻(形而上学)において超越者が自らをどのような形で実

(7)

7

宗教教育の研究 H 一知について一  (小松)

存に開示するかを語っている。ここでは英知は超越者のことば即ち暗号を解読する働きと して示されている。ヤスパースの英知の研究において注目すべき点は限界状況での挫折の 経験の強調にある。この経験こそ決定的な信号であり,われわれが自我を超えて本来の自 己(超越者の語りかけが聞こえる者)となる契機をあたへるものであるとしている。しか もだからといって超越者はかくかくのものとする時には迷信に堕すると心しめている。ハ イデッガー(Heidegger, M.)は「存在と時間」において英知を存在理解によって示し ているが,むしろ注目すべきは後期における彼の思索にある。後期の焦点は「存在の明る み」であって,真理とは存在の明るみであり,人間は,「現一存在」であり,存在が明る む場としての人間を問題にしている。人間はSubjeturnに堕することなく,主観という 自我に閉じこめられることなく存在の明るみに立ちべきである。そのときにわれわれ人間 は英知をもつことができるのである。「真理の本質について」や「技術論」などの中で,

ek−sistieren(脱自的にある)ということばをよく使っているが,実存とは自己から立 ちいで存在の明みに立つものであると言っている。

 英知研究の哲学的方法は徹底的な理論理性の駆使の点において勝れたものをもってい る。理論理性の挫折の境涯にまで,真摯な探究を尽しつづけていることは勝れた点であ る。またサルトルやカミュのようにそこからの超越を拒否し挫折した理論理性に踏み止ま るものもあるが,さらにそれを超えて英知に到達せんとしている。カントやヤスパース やハイデッガーにその努力が伺われるようである。カントは「純粋理性批判」において理 論理性の挫折点を予告し,「実践理性批判」において生命事実という生命経験の立場を掘 りさげ,われわれが否定することができない厳粛な生命的真実としての道徳律を問題にし ている。この道徳律を本性とする良心こそ英知を示すものであるが,また英知探究の方法 は理論理性究明の方法と異なる方法をとるべきであることを示唆しているけれども,英知 の性格を充分に把握するには至っていない。ヤスパースは「哲学」 (第一巻)において存 在意識の変革について語り,実存の覚醒において英知を捉えてはいる。英知は自我を超え た生命の中に輝やき出すことを指摘している点は注目すべきものであるが,それ以上に英 知の研究は進展せず,暗号解説において英知を捉える段階に終っている。ハイデッガーは 前期の存在論的分析から実存的経験の場へと英知探究の場を変えている。「哲学とは何 か」の中で存在の声としての気分を問題としている点は英知を明らかにする上で重要な手 がかりをつかんでいる。しかし結局人間は「存在の牧人」として存在の明るんでくるのを 静かに待つべきであることに終っている。これらの場合英知探究の存在論的方法の限界を 示あすものと言えよう。

 英知の研究には精神分析的方法がある。現代における心因性疾患の治療は英知を目覚ま すことにあるとされている。たとえばフロム(:Fromm, E)は「精神分析と宗教」の中で

「魂の医者としての精神分析家」について論じ,英知による性格の再形成を指導すること の重要性をといている。またフランクル(Frankl, V. E.)も英知こそ治療のキィー・ポ イントであるとし,実存分析を提唱している。

 精神分析は人間の生命が意識と無意識とから構成されていることに注目する。ユング

(Jung, C. G)は自我(ego)が中心となって組織されている意識心の背後にある無意識 心を問題にする。無意識は個人的無意識と集合的無意識との二つの領域をもっている。集 合的無意識は個人的無意識のより深層にある心的内容で本能とアーキタイプ(Arcketype)

(8)

よりなっているとする。 (「本能と,無意識」の論文の中で)集合的無意識は万人共通の 心であることを強調している。われわれの個品生命には万人共通の心が宿っている。しか

もこの万人共通の心について,「心の性質について」の中で,暗黒な無意識の中にあって 意識の光を求めてやまないアーキタイプが存在することを論じている。そうしてこのタ イプは人間が本来的に全生命力をあげてその実現へと努力している精神的目標であるとす る。「心理学と宗教」の中ではこの集合的無意識こそ普遍的生命の働きを丸めすものとし,

人間はこの働きを自らの働きとして生きるとき人間本来のものに,すなわち自己(self)

になることができるとしている。この自己(self)は意識的自我(tbe Conscious ego)

に秩序をあたえるものである。それは自己が意識心と無意識心を包含して自己調整を通じ て無意識の意識化という自己実現の歩みをつづける性質をもっているからである。われわ れの個的生命が普遍的な生命に生かされていくプロセスが自己実現の過程である点につい ては「精神分析についての二つのエッセイ」で論じられている。

 フロムは「精神分析と宗教」の中で精神分析は魂の治癒を問題にするものであり,真実 への探究を問題にするものであることを論じている。その真実への探究の対象は人間の外 部的現象でなく,●その内部的現象についての真実であるとする。その内部的現象の真実は

自我(ego)の特定の組織(意識)の中ではなくて,その背後の無意識の中に秘められて いる。この無意識の中に秘められた真実なものとは,人道主義的諸宗教の教える独立,統 合,愛であり,これこそ人間の生きる目標であるとしている。また宗教体験について論

じ,宗教体験の特色を次の三点から指摘している。すなわち(1)人生,自己の存在及び世界 に対する自己の関連性についての驚異,(2)ボウル,ティリッヒの言う究極的関心,すなわ ち人生の意味,人間の自己実現,人生がわれわれに課する課題の遂行などの究極的関心,

(3)あらゆる生命と,またそれを超えて全宇宙と一体となる態度の三つのものである。そう してこの宗教体験をぬきにして患者の治療は不可能であるとしている。人間の生きる目標 であり,無意識の中に秘あられた真実なもの,独立,統合,愛は宗教体験一生命の真実が 明るんでくる体験一を通じてその生命に働くものとなる。このとき人間は健康な精神をも ち,その病を克服することができるとするのである。

 精神分析は心理学的洞察によって,われわれが自分と思い込んでいる自我(ego)を中 心とする意識体制は真の自己(self)ではなく,無限の可能性をもつ無意識を意識化して いく自己(self)に注目し,自我(ego)を超えるところに働く英知を発見し,この人間 存在を明るまし,人生の意味と生のよりどころを明らかにする知こそ人間にとって第一義 的なものであることを指摘している。精神分析が治療という実践的なものである限り,英 知を語るだけでは済まない。人間が真に英知に生きることが問題とされる。しかしその点 については明確な方法は示めされていない。夢学説にもとつく精神療法や,インシュリン ショック療法が治療効果をあげているけれども,英知覚醒への充分なアプローチは見受け られない。

 フランクルは精神分析の心理学的アプローチに満足できず,精神療法として実存分析を 提唱している。フラクルは「強制収容所における一心理学者の体験」 (邦訳「夜と霧」)

の中で,人聞はいつれの場合においても決定的なのは人間であるという真理の体験を語っ ている。飢餓状態の中でのときたまの給食をあえて幼き子や病人に頒ちあたえる人々の 姿,ガス部屋のなかへ昂然としてラ・マルセィエーズや祈りのことばを歌い唱えて入って

(9)

9 宗教教育の研究 11 一知について一  (小松)

いった人々を見た。この人間のもつ自由は人間が生んであるかを示めしているものと言え よう。志向的に自己自身を超えてより高いものをめざす生命の本性,これは人間が人間の 立場にとどまる限り理解できないものとなる。彼は「人格についての十題」において人間 が何んであるかは超越者からのみ理解することができるとしている。フランクルの精神療 法としての実存分析の中心は人間の自由と責任の自覚におかれているが,この自由と責任 は人間が自分を超えた立場から自分自身と向い合うことによって自覚されるとするのであ る。彼はわれわれが生きるわれわれの生命そのものを掘り下げていき,生命というこの事 実に立ちこの生命事実を問題にし,生命の真実を明らかにせんとする態度には英知研究の 有効な方法を示唆していると言ってよいであろう。

 英知の研究方法として大乗仏教的な方法がある。r仏道をならふというは,自己をなら ふ也」であって,仏教は人間存在そのものを明るます知を問題にする。その知は般若ある いは空智と呼ばれている。人聞存在を明るます知は自己をならうことにおいて焦点とな

  

る。この英知の探究は先づ般若経典類において展開され,龍樹の中蓋において徹底され ている。また龍樹と異なる立場から墨焼らが唯識論として英知の探究を徹底せしめてい

る。空に具体的に生き,われわれの生命の無限の創造性と真実に生きる人間像を維摩経は 示し,真空妙有のわが生の重々無尽の実相を現らかにしつ\生きることの意味を華厳経は 教えている。勝婁経,如来蔵経,宝性論などにおいて,なまなましい生命の中に働く英知 の本質や構造が究明されている。上述したことは大乗仏教の英知研究の一端であって,大 乗仏教はあらゆる方面から英知をくまなく探究している宝庫ということができよう。

 仏教において般若波羅蜜を行ずるという。知と行が一体のものとして捉えられている。

英知は思弁によって生ずるものではなく心身を卜しての行において働く。それ故英知の問 題は常に八正道,六波羅蜜,四摂法,四無量心など,自我を超える行として捉えられてい る。自我体制を突き破ることは日常的人間としては死ぬことであり,われわれ凡夫にとっ ては耐えがたいことである。この死線を突破しなければ英知の白道を歩むことはできな い。自我体制は体制なる故に無限の可能性と流動性をもつ生命を固定しようとする。英知 は固定化の中ではその働きを失い,生命の無限の可能性の現実化という創造性の中ではい きいきと働く。自我体制は絶えず固定化の死線を敷くが,英知は絶えずそれを突破する。

有限な人間はこの英知に生きるため修上の修,前上の証をめざすべきであると仏教は教え ている。

 仏教は般若と慈悲はひとつのものであることを開示している。自我(ego)を超えるこ とによって,脱我執の場に般若という知が働き出す。自我を超えるとは自他一如の世界が 開けるということである。自他一如とは普遍的生命の中に個の生命が融合していることで あり,それは愛の世界である。自未得度先度他の慈悲行に生きる菩薩を大乗仏教は望まし い人間像としてかかげている。科学的知においては知と愛は分裂し,その知が愛にそむい て使用されることを抑制する何の保証もない。知と愛の生命の働きであるにもかかわら ず,生命にそむく知め働きが見逃されていることは,英知に無関心であった故であろう。

仏教は般若という知を開明することを通してわれわれに強く反省を促がしている。

 仏教はありのままの人間を見つめ,われわれのもつ生命的事実を終始問題にする。丁度 科学が自然現象や社会現象の事実の上に立脚するように。しかし科学の実証と英知の実証 とは質の異なるものである。英知は生命事実を対象として捉えられる限り捉えるけれど

(10)

も,さらにそれを超えて,生命が生命を観る主客未分の思帷によって生命的事実にアプロ ーチする。そのアプローチを己証という。愛を思弁的に知り,それを説明できるかどうか は枝葉末節のことである。大死一番,愛という行為に心身を投じて,われわれの生命その ものが何を物語るか,その自らの生命的事実を問題にする。英知への道は己証によって開 ける。大死一番の決断はわれがなすものであり,わが生命が物語るのであって,他者なる 神を必要としない。ただこの場合の危険性を克服するため,万人が認める人類の教師とも いうべきひとの教えと英知を生きている生命に避面することは大切なこととされる。仏教 で他力ということばがあるが,英知は自我(ego)中心の意識体制の吾には思議も称量も 及ばないものである故,また,わが生命の明るみを通じて普遍的な生命の働きを看取し,

普遍的生命を生きている自己と知る故,他力が語られるのである。英知探究の方法として 己証は重視されるべきである。

 仏教は英知研究の宝庫であり,極めて勝れた智恵が埋蔵されている。ただ科学の未発達 の時代に誕生して成長し,その後衰退しているため,同じ生命が生み出した自然科学や社 会科学の知と対立したままになっている。人間が真に人間として生きるため,生命の営み のあらゆるものをふまえて,人間存在を明るませ,人生の意味と生のよりどころを明らか にする知を探究しなければならない。そのためには現代における英知探究の諸方法から学 ぶべきものを学びつつ,仏教のもつ英知探究をより発展させなければならない。

 IV 英知と教育      .

 フロム(Fromm、 E)は自然科学や社会科学の発達は人間の物質生活や社会生活に著る しい進展をもたらしたが,「しかし自分自身を見つめるとき,人間は何といいうるであろ うか?人間は人類のもう一つの夢であるところの人間の完成ということの実現により近づ いたであろうか?」と嘆いている。同じような嘆きは現代の識者によく聞かれるもので,

        ヨラ

トインビーも「現代人は何んでも知っている。自然のことでも社会のことでも。しかし自 分自身については何にも知らない」と語っている。人間の外なる世界(自然や社会)を明

らかにする科学だけで,人間が真に生きるということを明らかにしうるものであろうか。

ある人は現代を評して,正義豊かに心貧しき時代と言っているが,世界平和や戦争反対と いう正義のために平気で殺し合いをすることに矛盾を感じない人間を生み出しているのが 現代である。英知を迷信と同列におく風潮は人間性の荒廃を招き,エゴ中心の論理の匁を さ、りかざし,前頭葉に殺し屋の血をたぎらし,個と個の,個と集団の,集団と集団の対立 することを当然のこととする社会状勢を発生せしめている。また急激な経済成長のもとに 欲望肥大症の群衆を生み,社会は欲求不満の要心で騒然としている。情報の加速度的増加 の嵐の中に自失し平均人的な主体喪失の人達が横行している。このような状況下において 人間とは何か,生きるとは何か,幸福とは何かを闘うけれども答はみつからず,「愛国駅 から幸福駅へ」の切符を買うだけでせめてもの慰あとしている。

 人間が人間としての尊厳をもって,真に主体的に生きるために,英知の教育は不可欠な ものであり,とくに現代ほどそれの急務である時代はないように思われる。知と愛が分裂 したなかで生産される科学的知識は人間を破滅させるために使用させる危険性が充分にあ る。英知なき人間にとって自然科学的知識や社会科学的知識は自我(ego)中心の論理に おいて,エゴイズムの道具として使用される。

(11)

ユ1

宗教教育の研究 ■ 一知について一  (小松)

 現代の教育学は人間の英知については冷めたい態度をとっている。自然科学や社会科学 の智恵をつけることに終始している教育学こそ現代の教育学である。人間の外なる世界の ことは何んでも知っている人間をつくる方法は解明されているかもしれないが,入間の内 なる世界をみつめる能力の育て方は問題にされていない。といって自然科学や社会科学を 否定しようというのではない。われわれの生命の営みであるあらゆる知を,生命の秩序に おいて働らかせるための人間形成を問題とするのである。入間形成の学である教育学を英 知を中心として再検討し,真の入間形成を可能にする教育学を樹立することの重要性を問 題とするものである。

註(1)

 〔2)

 (3)

 (4)

 (5)

 (6)

 (7)

 (8)

 (9)

 (1①  α1)

 (1鋤  (13  (1の

 ⑮  ㈲

 (1の

 ⑬

 (19

 ⑳  ⑳

 ㈱

時実利彦著「人聞であること」p.42s.49 時実利彦編集「脳の生理学」p.6s、49 同上

マグーン著 時実利彦訳「脳のはたらき」p.p.16〜17 s.50

時実利彦編集「脳の生理学」p.345s.49

同上p.p.348〜349 同上p.345図9・33

時実利野党「人であること」P.171s.49 同上p.213

「浬繋経」大正大蔵 第12巻 如来性品p.648

「如来荘経」大正大蔵 第16巻 p.457

「華厳経」性起品 大正大蔵 第9巻 p.676 エーリッヒ・フロム 谷ロ・早坂共訳 p,121s.49 上掲「脳の生理学」p.p,365〜386

「摩詞般若波羅蜜経」大正大蔵 第8巻 摂五品 第68章 p.365

「金剛般若経」大正大蔵 第8巻 p.749

「宝性論」大正大蔵 第35巻 p.64 道元「正法眼蔵」現成公案の巻

「維摩経」弟子品大正大蔵 第14巻 p.539 ハイデッガー著 小島威彦訳「技術論」p.48

「大乗唯識論」大正大蔵 第31巻 p.73 道元「正法眼蔵」半平公案の巻

帰一リッヒ・フロム 谷口・早坂共訳「精神分析と宗教」p.2s.49

参照

関連したドキュメント

式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲

わからない その他 がん検診を受けても見落としがあると思っているから がん検診そのものを知らないから

教育・保育における合理的配慮

この chart の surface braid の closure が 2-twist spun terfoil と呼ばれている 2-knot に ambient isotopic で ある.4個の white vertex をもつ minimal chart

賠償請求が認められている︒ 強姦罪の改正をめぐる状況について顕著な変化はない︒

第三に﹁文学的ファシズム﹂についてである︒これはディー

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から