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学校における教育研究について(2)関   勤

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学校における教育研究について(2)

関   勤

(1982年10月31日受理)

皿 研究問題の成立

先号において,「学校における教育研究について(1)」1)という題目のもとに,学校における 教育研究について感じる問題点を論述した。それは研究の積み上げということをほとんど唯一の関 心事として,1.教育研究について先行の理論や経験に学んでいるか,2.研究の方法を明確にす る努力をしているか,3.研究記録(業績)や研究資料の蓄積と交流がはかられているか,という ことを述べたものであった。本号においては,同じ題目のもとで,研究問題の成立ということにつ いて触れてみたいと思っている。教育研究は(他の研究も同様であろうが),個人研究であろうと 共同研究であろうと,また,実践的研究であろうと理論的研究であろうと,いずれの場合でも研究 問題の設定によってはじめて具体的に動きだすものであり,しかも,研究の成果は問題意識の広さ 狭さ深さ浅さによって大きく支配されるものであり,また,研究方法が意味をもつのも,問題の意 識が前提されていて,それとのかかわりのなかでその役割を果たすときであると考えられるからで

ある。

1.問いの中にすでに答えが含まれている(問いの仕方によって 探求の方向・方法。答えの質が決められる)

教育研究が自主的にすすめられる場合,それはみずから問いをだし,みずから答えていくという 姿をとる筈である。したがって,よい研究となるためにはよい問いをだすことが重要である。群馬 県教育研究所連盟編のr学校における教育研究のすすめ方』は,第2章「教育研究の視点と研究テ 一マ」の冒頭において,「教育研究の着手にあたって,まず,大切なことは,「何を」研究しよう としていくのか,その内容と方向を明確にとらえることによって,研究の基盤をしっかり確立する ことである。それには,教育研究の視点を明確にとらえ,研究テーマに結晶していく操作の中に問 題解決の重要な鍵がひそんでいることを考察する」2)と述べている。同書はまた,第3章「教育研 究の進め方」のはじめにおいて,「学校における教育研究は哲学的,実証的に進められねばならな いが,それは,実証的研究を主体として展開される。そこで,実践的研究過程で,何を問題とし,

どんな角度から切り込むべきか,どのように研究を構築し,処理したらよいか等,研究過程におけ るポイントを押さえながら具体的に紹介する」3)と説明のいとぐちを付けている。ここで述べられ ていることは,研究の着手にあたって明確にしておくことが必要なポイント,すなわち,何を研究

しようとするのか,その内容と方向を明確にとらえること,教育研究の視点を明確にとらえること,

どんな角度から切り込むべきか,どのように研究を構築し,処理するか,などの諸点であって,こ れは結局,研究にあたって「問い」を明確にするということの内容にあたるものであろう。

研究をすすめるにあたって,問いの仕方が重要であることを,最近もっとも感動ふかく教えてく れたものは,r無意識の人間学』の著者である林道義氏である。氏は「人間理解」という探求にお

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ける問いと答えの関係をつぎのように説かれている。「人間理解とは,いろいろな観点からのいろ いうな分野での人間理解が進んで,それらの総合としての人間像が出てくるという形をとるのであ

るが,しかしまた,ある分野での人間理解が進むのは,特定の人間像が予め存在し,それに促され      、

て人間探求がなされた結果として起こるのである。言いかえれば,「人間とは何か」という問いの 中にすでに答えが含まれている,つまり何を知りたくてこの問いが提出されているかによって,探 求の方向や方法が定まり,答えの質も決められてくるのである」4),といわれている。ここには,

問いの中にすでに答えが含まれていること,問いの仕方によって探求の方向や方法,答えの質が決 められるという結論が示されている。

林氏がこの結論を具体的にどう考えているのか,つづけて聞いてみたい。「たとえば,不幸や苦 しみから脱し,救われたいという願いは,あらゆる宗教の中心に存在している救済欲求であるが,

      げんぜ      りやく

アの救済を「この世」の中で得ようと望めば,そこには「現世利益」を求める人間像とそれを与え る神の像が現われる。その場合の人間像または神像は外面的な救いをかちとる,または与える能力

・機能の面からの外面的規定性をもったものとしてとらえられ,そうした面から人間の探求がなさ れることになろう。homo sapiens, homo faber, homo symbolicumなどという人間規定はすべ て人間の能力や機能に注目した,広い意味での機能論的・外面的な規定の仕方である。アリストテ レスの「社会的動物」Zoon politiconからマルクスの唯物史観に至る社会的な視点もまた外面的な 見方であり,この観点からの人間理解は西洋の社会科学・自然科学の分野において驚くほどの発達 を見たのである」5),と説くことによって,氏は人間理解という根本的探求にあたって,現世利益 を求める人間像,外面的規定性をもったものとしてとらえられる人間像という立場にたつ問いをも ってすれば,答えはおのずからそれに含まれてくる,おのずからそれによって決められてくるとい うのである。

つぎに,林氏は上述の人間理解とはまったく反対の例をあげている。「ところが救済欲求が「あ の世」への射程において考えられるようになると,不幸の原因や救いの方法が「あの世」「他界」

との関係で考えられるようになり,そもそも人間自身が「どこから来てどこへ行くのか」という問 いもまた「あの世」との関係で答えられることになる。こうして「あの世」の価値が高まるのに反 比例して,「この世」=外界に対する慶価または無関心が生じ,逆に内面的世界が「あの世」と深

くかかわるものとして人間の注意と関心を惹きつけることになる。歴史上「この世」への無関心を 最も徹底させたのが原始仏教と原始キリスト教であるが,この二つの宗教の伝統のもとで,人間の 内面の性質への探求が進み,とくに人間の心がいかに罪深く,または煩悩をもって作られているか についての認識が深まったのである。我々は仏教の唯識論やアウグスチヌスのr告白』にその典型 を見ることができる」6),と述べることによって,氏は人間理解という探求にあたって,「あの世」

における人間の救済,それに関連して内面的世界の重要性に注意と関心とをよせる立場にたつ問い をもってすれば,答えはおのずからそれに規定されて,「この世」への無関心を徹底させ,人間の 内面の性質への認識を深める必然性をもつことを明らかにされている。

林氏は,この説明の結末に,「このように見てくると,ここに人間理解に対する外面的視点と内 面的視点のちがいという問題が現われてくることになる。つまり,さきほどの表現を使えば,問い の仕方によって人間探求の方向が定まり,特定の人間像を前提として特定の人間理解が深められる のである。そして外面的な分野においても内面的な分野においても,さまざまな方法によって人間 理解は確実に進んできているのである」7),と述べられているが,この結論はひとり人間理解とい

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う探求にのみ妥当するものではなくて,あらゆる探求,あらゆる研究にとって普遍的価値をもつ提 言であろう。

核心にふれる問い一半ば以上解いたことになる 漠然とした問い一漠然とした答えしか期待できない

哲学者の下村寅太郎氏は「問い」の重要性に関して, 「学問は一般に「問い」を発することであ る。しかし通常,我々は,問うよりも 聞く だけのことが多い。それはまず自ら問う前に答えが 与えられることである。もっぱら受動的,受容的なこの態度には,自発的,能動的に 考える と いうことがない。現代ではその傾向がますます強くなっている。過剰な書物があって,問いに対す る答えがあらかじめ準備されている。ことに新聞,雑誌,ラジオ,テレビは,我々の求めていない ものまで与える。それによって成立している今日の常識には,およそ 考え られたものがない。

それは,およそ思想ではない。ことに近年は,雑誌でも新聞でも一やがては書物すら一写真が 大きな紙面を占めるようになった。読むよりは 見る ものに傾いてゆく。いよいよ考えることが 少くなる。一目でわかるからである」8),と述べられ,学問は一般に「問い」を発することである のに,近年は新聞も雑誌も書物も読むものよりは見るものに変容され,ますます考えることが少く なっている現状を嘆かれている。

問い方の重要性に関して,下村氏は,「問うに問い方がある。核心に触れる問いを定式化するこ とは,すでに半ば以上解いたことになる。漠然とした問いには,漠然とした答えしか期待できない。

昔から哲学者はこの問い方に苦心してきた。本来間うことは答えるために問うのであるのに,問い 方を厳密にするために哲学はむずかしいものになる。哲学者がむずかしいことをいうにもかかわら ず,案外に答えに乏しいのはこれによる。しかし,これは哲学そのものの本質から必然的であ る」9),といわれているのだが,この主張は教育研究における場合でも,何を研究しようとするの か,何を問いとするのかをできるかぎり精密に確定することの必要性と重要性を示唆するものとし て傾聴しなければならない。

さらに,下村氏は,「しかし,多くの問いは,問い方を厳密にすることによって消滅することが まれではない。これは大きな解決といってよい。たとえば,霊魂は不滅であるかという古来の問題 も,「霊魂」とは何かを突きつめなければ,問いの意味が充実しない。「不滅」の意味も同様であ る。したがって,哲学が根源的な問いであることは,哲学は問いを問うことでもある」10),と問い 方を厳密にすることの重要性を述べられているが,これは教育研究においても,まったく同じこと であろう。

筆者はこれまで,教育研究を行なう場合に研究問題を設定することが重要であること,問題の設 定によって研究が具体的に動き出すことを述べてきた。そしてさらに,問いの中にすでに答えが含 まれており,問いの仕方によって探求の方向と方法と答えの質が決められることも明らかにしてき た。このことに関連して,社会学者の加藤秀俊氏は,一般に「問題解決」の提唱者として知られて いるジョン・デューイについて新しい見方をとり入れて,「じっさい,哲学者のJ.デューイは,「問 題解決(problem solving)」というかんがえかたを教育のなかに導入した人物として知られている

けれども,かれは,「問題解決」よりも「問題つくり(problem making)」のほうが,ずっとだ     、        ■   ●

「じだ,という主張をしている。つまりじぶんで,なにが「問題」なのか,その問題点をはっきり させると,いったいどういうことになるのか,をかんがえることがおこなわれ,それにつづいて,

さてそれではその「問題」は,どのように「解決」できるかがかんがえられなければならないとい

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うのである」11),と紹介されており,デューイの考え方についての従来の見方を訂正せられている。

デューイの「問題つくり」という考え方は,これまで本稿で考えられてきたこと,問いの中にすで に答えが含まれていること,問いの仕方によって探求の方向・方法・答えの質が決められること,

あるいはまた,問いを厳密にすることの重要性,つまり,核心にふれる問いを定式化することは,

すでに半ば以上解いたことになる。漠然とした問いには,漠然とした答えした期待できない。など ということと同じ意義を示すものであろう。教育研究において,それが研究の名に値するものとな るためには,これらのことに留意しなければならないであろう。

2. 研究問題の成立

これまで,教育研究をする場合,問いを厳密にすべきだということについて述べてきたのだが,

この点は主として実践的研究をする学校における教育研究についても変わるところはないであろう。

文部省初中局幼稚園教科調査官の岸井勇雄氏は,幼稚園の教育研究について,「実践的研究である から,大学や研究所の行う研究とはおのずから異なるのであるが,研究である以上は少くとも明確 な問題意識と,その解決に迫る仮説と検証がなければならないと思われるのだが。幼児教育の現場 は具体の場である。先生方は専ら具体の世界での実践に精進しておられる。しかしその具体的な実 践の中に法則性を見出す努力を怠ってはいただきたくない。そうでないと幼稚園教育はいつまでも 経験やカンに頼る次元の堂々めぐりで,せっかくのすぐれた実践が積み上がらないし,共有の財産 になっていかない。抽象能力というと何か非実践的ないし反実践的な感じをもたれるが,実はそう ではなくて,最も実践的な子どもを見る目であり,保育を考える基礎的な力なのである。具体的な 事物の中に法則を見出すという,人間だけに与えられたこの抽象能力は,自覚的に努力することに よってのみ磨かれるものでもあると思う」12),といわれているが,これは幼稚園の教育研究にのみ 妥当するものではなくて,あらゆる学校における教育研究に関連するものであり,その要旨は筆者 がこれまで主張してきたことと一致しているであろう。

今は亡き東大教授宗像誠也氏は,その著書r教育研究法』の第一章「問題の成立」,第一節にお いて,問題の成立段階をとりあげ,それを①問題にならない段階,②問題の萌芽の段階,③問題が はっきりする段階,の3段階に分けて論じている。宗像氏が研究問題の成立の過程について,この ような見通しに達したことについては,つぎのような経緯が語られている。東大と文理大とで,学 生および現職教員の派遣学生に対して,数回「教育研究法」の講義をしてみた。そしていつも一番 最初に聴講者に対して,「自分が現在研究的関心を持っている教育問題について」という題目につ いて報告を要求した。そのとき,どんな書き方をしようと自由だが,しかしできるかぎり次の諸点 を明らかにするようにと要求した。一、題目をなるべくはっきりさせること。二、何故にこの題目 が自分にとって問題となるかという理由を述べること。三、この問題の研究に当ってどんな方法を 用いるつもりか,ということ。この題目についての聴講者の報告を分析することによって,問題の 成立段階についての見通しを得られたのである。

この問題の成立段階論は,学生や現職教員の派遣学生の個人的な教育研究にかかわるものであっ て,そのまま,ただちに学校における教育研究に役立つとは思われないが,なにほどかの示唆を与 えるものと思われるので要約して叙述しておきたいのである。

第一は問題にならない段階である。この段階に二つの型がふくまれる。A訓示型一単にこれか らの教育はかくあるべし,というような見解を,公式的に述べるもの。日本の教育はよろしくかく あるべし,それにはこれも重要であるあれも重要である,という調子で,当らずといえども遠から

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ず程度の作文をしているだけのもの。そこに述べられているもっともなことに対して自分はどうい う態度をとり,どういう役目を引受けるかということには反省がうすい。宗像氏は,この訓示型に 対し1「研究問題は,問題を自らに課するものであり,自らの責任においてこれと取り組むべきも のである。「かくあるべき」教育に対して,自分は何を為し得るかについての反省,自分が為すべ きことを発見しようという覚悟,がなければ問題は形成されない。問題設定の動機は主体性と切り 離せないものであるといってもいい。主体性がある時にはじめて,「かくあるべき」一般的目標に 対して,自分としてはどこからどのように手を着け,どの点に切り口をつけることによって解決の 手がかりをつかむか,ということも決定されるのである。すなわち,研究の着手順序も本末軽重も きまって来るのである」13),と厳しい批判を与える。

B告白型一自分が教育学を専攻し,または派遣学生として教育学科を選んだ理由はかくかくで ある,というような心境を語るに過ぎないもの。それは単に主観の状態を述べたに過ぎないもので あり,研究問題の形成という観点から見ると低い段階にあるものであり,まだ問題が形成されてい ない段階だといわざるを得ないものである。宗像氏は,この告白型に対し,「私は先に主体性がな ければ問題は形成されないといったが,主体性とは単なる主観性ではない。それは客体ないしは客 観に対して,自分が何を為すべきかを考える時に,はじめて課題が発生するのである」14),と述べ て,主観の告白にとどまることなく,その主観性を客観的事態に向けて,それに働きかける態度に 転ずることを要望している。

第二は問題の萌芽の段階である。宗像氏はこの段階にある報告の状態を,たしかに研究の動機の 動くのを感じさせ,主体的な意欲もあることが解るが,しかしなおそれは情緒的というべく,研究 の向う領域・視点・対象などが明確でなく,はっきり限定された問題の設定とはなっていない状態 を示すのが常であった,と述べている。氏はかさねて,この段階にあるものに対して,正しい動機 にもとづき,正しい方向に関心が向っており,問題解決への主体的意欲も感ぜられるのである。け れども一面から見ると,動機と,希望と,問題と,方法と,予想される結論と,実践的態度決定と,

それらのものがはっきり分節されることなしに提出されているのである,と表現している。この段 階の状態をこのようにとらえたうえで,宗像氏はつぎのように助言をしている。「この段階にある 人々の為すべきことはほぼ明瞭だといっていい。方向としては正しいが,まだ漠然としている関心 を,できるだけ正確に一点に凝集して来ることだ。正しい動機,もっともな憂慮を,どのような客 観的な対象に向けるかを決定することだ。客観的認識を広め,深めることによって,逆に関心の対 象をしぼっていくことだ。それには要するにもっと知見を養う必要がある。読書,見学,あるいは 体験によって,認識の精密度を増すことだ。ことに自分の関心を寄せている領域について先人は何 を考え,何を試みたかを調べることが絶対に必要だ。現在までに問題は何処まで解明され,何処か ら先はまだ解決されていないかを検討することだ。永くただ自分の情緒に止まっていないで,さら に精密な分析を志すことだ」15),と。

この段階にあるものに対して以上のように助言をした宗像氏は,さらに現実的な指針として,そ こでこの段階から一歩進めるには指導者が必要なのだと思う。特に,前述のように,若い研究者の 関心が向っている方向には,今までどんな研究があり,どこまで解決されているかというようなこ とは,その方面の先輩が手引をしてやるのが一番望ましい,と主張したり,あるいは,読書の仕方 にふれて,私は,研究者の関心と情熱の向うところが漠然とでもきまった段階における読書が,最 もみのりの多いものだと思う。自分に問題の意識があってこそ読書も身につくのである。それがな

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120       茨城大学教育学部教育研究所紀要15号特集(1983)

いと,いくら読んでも単なる断片的知識の集積になるだけだ,と感想をもらしている。もっともな 傾聴すべき提言である。

第三は問題がはっきりする段階である。この段階の状態を宗像氏は,「第二の段階を経てこの段 階に到達するのが,若い研究者の正常な発達過程であるといえよう。この段階においては,対象の 領域は狭くしぼられて来,情緒の過剰は清算され,具体的に限定された問題が設定されてくる。も ちうんこの段階の中にも深浅の差はあり,問題の明確化の程度の差はあるが,ともかく前の段階と は異った客観性と具体性とが共通に見られるのである」16),と描写している。宗像氏は,この段階 を前の段階と比較するとつぎのことに気付く,としてこの段階の特徴を分節がついて来ていること にあるとみとめ,その要点を列挙している。それを箇条書にすると,「(1)自分が特定の問題に関 心を寄せる理由あるいは動機,(2)その問題が学問上あるいは実際上に持つ意義,③ その問題と 他の問題との関係あるいはより大きな問題の中のその問題の地位,(4)その問題自体の内容,ある いはその問題が含むより小さな,または下位の問題群,⑤ 問題解決の方向についての仮説すなわ ち多分こうなるだろうという見通し,⑥ 問題を取り扱う方法の予想,等」17),である(番号は筆 者が付けた)。ここに示された六つの内容は,教育研究を行なう場合に問題が成立しているかどう かを判断する重要な基準となるものと考えられる。

この第三の段階に対して,宗像氏は最終的な評価として,「しかしともかくこの段階まで来れば もう一応問題はまさしく設定されたと見ることができる。後はこの分節の各々をさらに精確にし,

その関連を一層追い詰めていけばともかく研究になりそうだ。後は努力次第だといってもいい。私 は以上のような意味で分節ということが非常に重要だと思う。それはある意味では知的抽象であり また分析である。おそらく問題の意識は,最初は,第二段階の諸例のように,ある未分化の全体と してあらわれるだろう。その漢然たる全体,多分に情緒性のまじり合った全体を,分析して秩序づ け,研究に着手し得る形にするのは知的抽象によるのである」18),と述べているが,そこでの強調 点は分節の問題である。分節の努力,すなわち知的抽象の努力によって,上述した六つの箇条書の 内容が明確に確定せられたときに,教育研究の問題は設定されたと見られるのである。これまで教 育研究の問題の成立段階を明らかにするため,宗像氏の所論を引用して叙述してきたのであるが,

これはすでに述べたように個人研究における場合の分析であるから,そのままただちに「学校にお ける教育研究」にはあてはまらないであろう。また,宗像氏は,具体的な諸例を掲げて印象深く叙 述しているのであるが,本稿では具体的な事例は全部削除して抽象的一般的な説明および結論のみ を引用して叙述したので,実感をもった理解はむずかしかったかも知れない。しかし,それでも典 型的な姿として教育研究の問題が設定されるとはどういうことであるかは了解された筈である。少く

とも,そのための示唆は与えられた筈であると思われる。

福岡県教育研究所連盟編のr教育研究のすすめ方・論文のまとめ方』は,問題意識を確かなもの にするということに関して,「こうしてとらえられた問題意識を確かなものにするには,次に挙げ る三つの分析を欠かすことができません。この節のまとめとして述べておきます。①目標の分析 自分の求めているものは何かをはっきりさせることです。言い換えれば,自分の指導法をどのよう に改善したいのか,子どもをどのような方向に育てようと考えているのか,焦点化することです。

これによって,対象が明確になり,イメージ化がなされます。②矛盾の分析 問題解決がうまくい かないのはなぜか,徹底的に追求することです。具体的にうまくいかない条件を列挙して,その相 互の関係を考えることが大切です。③材料の分析 問題解決に何が必要かを選び出し,その中心に

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なるものを明確にすることです。この三つの分析によって問題意識を鮮明にし,研究をスタートす るならば,仮説の設定等も比較的容易であることは疑えません」19>,と述べているが,研究の着手 における研究問題の成立の重要性,そのための問題意識の重要性の主張として留意すべきである。

また,群馬県教育研究所編のr学校における教育研究のすすめ方』によって,研究対象を明確化 することの必要性を見ると,「研究対象の明確化にかかわる研究の現状をみると,研究対象とする 内容が大き過ぎることが指摘できる。研究対象が大項目的なものでは,具体性が弱いため,実践に 即して事実とつき合わせて確実に検討することが難しくなり,不可能となる。このような検討が可 能となるためには,課題をもっと絞って研究対象を具体化し,明確化すること,つまり大項目的な 問題を中項目あるいは小項目的で具体的な検討事項へと置き換えていくことが必要となる」2°),と いわれているが,研究問題の成立あるいは設定ということに関して,いままで述べられてきたこと から当然である。

同書はまた,「研究課題が集約され,研究対象が明確にとらえられると,次にこの研究がどんな 目的,内容,方法で行われようとするのかが明らかにされ,概括的なテーマの吟味を経て,「研究 テーマの設定」が行われる。研究テーマは,研究の課題が凝縮され,その課題解決へ向けて発想の エネルギーとなる高度な充電性が期待されねばならない。そこで,意味ある研究を行うためには,

研究テーマが包含している内容構造の吟味を通して,これから目指そうとする研究の構造(しくみ)

をはっきりさせていかなければならない」21),と述べているが,これも問題の成立ということに関 して,これまで主張されてきたことと一致している内容である。

福岡県教育研究所連盟編のr校内研究のすすめ方』によれば,「このように考えると,研究主題 に最小限含まれなければならないのは,下の①と②であり,これに③が加われば申し分ない表現だ といえましょう。①研究のめざす姿……「〜をめざす」「〜を育てる」等,②研究の対象領域

・分野……「〜における」「〜の研究」等,③研究の方法(手だて)……「〜をとおして」「〜

による」等」22),とまとめられているが,このように表現される研究主題の設定は,研究問題の成 立を徹底的に吟味したうえで行われるならば,比較的に容易であろうと考えられる。

最後に,岸野晋一氏の大学における研究と現場における研究との比較論をとりあげておきたい。

氏は,「これらを見て一つの傾向性をもつことが指摘できます。それは,研究(Research)のスタ イルです。大学の場合は,ある限定された主題を,主として学問的理論的に追求する姿です。学問 的批判に耐える論文ということから,主題をはっきり限定し,定義を厳密にして,一定の視点から 深く考察するという傾向です。学術的な追求により多くの比重があり,必ずしも日常的教育とめ直 接的,具体的な関わり方のみを意識してはおりません。

研究の実践化ということは,現場として大変重要なことですが,当面の常識にとらわれて学問的,

理論的には甚だあいまいな観念を繰りかえし使用し,結局はもってまわった理由づけに終わるとい う現場研究に陥りやすい傾向があります。これを反省するには,以上の学問的研究のスタイルを学 ぶことは,研究を深めるためには,たいへん有意義と思われます」23),と述べていられる。大学は 主に基礎的研究を行い,学校現場は主に実践的研究を行っており,研究の性格が大分差異をもって おり,協力が必要だと思うが,研究問題の成立に関しては,学校における研究もできるだけ厳密に 検討すべきであろう。

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122       茨城大学教育学部教育研究所紀要15号特集(1983)

1)拙稿「学校における教育研究について(1)」『茨城大学教育学部教育研究所紀要』第14号,1981,pp.

211−218。

2)群馬県教育研究所連盟編『学校における教育研究のすすめ方』 (東洋館出版社,1981)p,25。

3)同書,P.35。

4)林道義『無意識の人間学』 (紀伊国屋書店,1981)p.10。

5)同書,PP.10−11。

6)同書,P.11。

7)同書,PP.11−12。

8)下村寅太郎『西東心景』 (北洋社,1977)pp.198−199。

9)同書,P.200。

10)同書,P.200。

11)加藤秀俊『独学のすすめ』 (文芸春秋,1975)p.140。

12)岸井勇雄「実践に必要な抽象能力(文部省日記)」 (日本教育新聞ノ1982,6.21)。

13)宗像誠也『宗像誠也教育学著作集第1巻』 (青木書店,1974)pp.10−11。

14)同書,P.11。

15)同書,PP.13−14。

16)同書,P.14。

17)同書,P.17。

18)同書,P;17。

19)福岡県教育研究所連盟編『教育研究のすすめ方・論文のまとめ方』 (第一法規出版,1981)pp.73−74。

20)群馬県教育研究所連盟編『学校における教育研究のすすめ方』 (東洋館出版社,1981)p.29。

21)同書,P.33。

22)福岡県教育研究所連盟編『校内研究のすすめ方』 (第一法規出版1980)p,46。

23)岸野晋一『現場の教育研究法入門』 (明治図書,1980)p.30。

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