A・スミスにおける《自然》と《自然を越えたもの
》 : 論文二篇を中心とした覚書
著者 佐々木 健
雑誌名 星薬科大学一般教育論集
号 10
ページ 1‑34
発行年 1992
URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000182/
A・スミスにおける︽自然︾と︽自然を超えたもの︾
i論文二篇を中心とした覚書1
佐々木 健
は じ め に
本 稿で取り上げる素材をつぎの論文二篇に限定します︒
① .︑Oo白ω置o日匡8°力Ooロ6窪ロ日ひq仔6づ障ω吟国o﹃日ρ註oooSい③昌ぽq已知oq窃︑︑︵﹁諸言語の原初的形成に関する諸考察﹂ー
以下︑本稿では便宜上︑﹁言語形成論﹂と記します︶
② .︑臣ω8qoS巨ロ息o暮勺庁<ω一8︑︑︵﹁古代の自然学の歴史﹂ー同様に﹁自然学﹂と記します︶︒
②の続篇にあたる.︑出︷・・8昌亀﹀⇒o一〇巳↑ooq一〇ω①巳宮⑱け竜庁冨一霧︑︑︵﹁古代の論理学および形而上学の歴史﹂︶は︑こ
こでは取り上げません︒プラトンのイデア論に関するスミスの論評を含む興味深い論文ですが︑テーマ自体は﹁言語形成
論﹂での名詞の考察の延長上にあります︒スミスの思想世界の成層構造の一端を開示するには︑①と②を取り上げること
ですむで しょう︒同じ﹃哲学論文集﹄に収められている..臣・力8昌昆卜・︒貫80日ぺ︑︑︵﹁天文学の歴史﹂1﹁天文学﹂と
1 記します︶︑..OS庄Φ国×8日巴OQo昌ω窃︑︑︵﹁外的諸感官について﹂1﹁外的諸感官﹂と記します︶には︑本稿のテーマと
2 議 論の展開との関連において必要な限りで言及することにします︒..O⌒汗oZp吟巨oo冷夢9一日津①吟δロ笥臣⇔﹃声民8
巳①6⑦日弍げ馨碧08冨△↓げo一ヨ當餌江<o>答ω︑︑︵﹁いわゆる模倣的諸技芸において行われる模倣の本性について﹂︶と
e☆ミ0§㌔意甘ミへ§へ寒へ︑毯↑㌻☆ミ句︵この標題は既往の邦訳では﹃修辞学・文学講義﹄となっています︶は︑本
稿とは別のテーマのもとに︑異なった問題の脈絡において捉える必要があると思われますので︑ここでは触れないことに します︒
つ ぎに︑本稿の標題に掲げた﹁︽自然︾と︽自然を超えたもの︾﹂の意味を明確にしておきます︒ここに︽自然︾と言うと
き︑筆者は︑ここではさしあたり︑二つのことがらを含めます︒第一は︑人間の感覚や意識に対して現前してくる所与と
しての個別的なものの世界︑自然的所与の個別性の世界︑という意味です︒これに対応して︑︽自然を超えたもの︾とは︑
そ うした個別性の世界を超えた一般性の世界︑ということになります︒第二は︑人間的︽自然︾︑すなわち﹁人間本性﹂
あるいは﹁人間の自然本性﹂という意味です︒..け已日自o目9烏o︑︑のことです︒この意味に︽自然︾を限定するとき︑筆
者は︽自然を超えたもの︾ということで︑人間本性を基盤にして︑そこから形成された︑しかし︑人間本性の基盤から一
応独
立 した構築物の世界を想定します︒︵さらに︑本稿では主題的に議論を展開するいとまはありませんが︑第三に︑﹁お
よそ技術は︑一方で︑自然の成し遂げないことを完成し︑他方では︑自然が成すことを模倣する﹂というアリストテレス
の﹃ 自然学﹄における有名な命題に関連します︒﹁自然が成すこと﹂︑換言すれば︑﹁自然の業︵H技︶﹂︑自然の所業・所産
を︽ 自然︾と呼ぶことにします︒そして︑﹁自然の業︵H技︶﹂を技術的に﹁模倣﹂したもの︑のみならず︑﹁自然﹂が未完
成のまま放置したことを技術的に﹁完成﹂したものを︽自然を超えたもの︾というカテゴリーで概括することにします︒︶
以上のように﹁︽自然︾と︽自然を超えたもの︾﹂の意味を規定した場合︑そうした視点から︑先に掲げたスミスの論文
二篇を考 察してみると︑そこに︑どのような思想世界が現れてくるか︑を確定することが本稿のもくろみるところです︒
︵このように本稿の課題を設定しますので︑当然︑これら二篇を︑いな︑先に掲げた諸論文をスミスにおける﹁方法論﹂な
い し﹁探究の理論﹂︵書oo昌o冷芦ρ口片Sとして取り扱う視点は︑これを斥けることになります︶︒そして︑そのことは︑
スミスに先行するイギリスの哲学者との関連で言えぽ︑スミスにとっての︵全体としては﹁人間学﹂の地平︑個別的には
例 えぽ﹁観念連合﹂をめぐっての︶D・ヒュームの意義ぼかりではなく︑G・バークリィの意義︵本稿での問題に即して
ヘ へ 言えば︑﹁感覚言語論﹂をめぐる︶にも光を当てることになるでしょう︒さらにまた︑本稿では主題化して論ずることを
控 えますが︑スミスの場合︑︽自然︾と︽自然を超えたもの︾とを連繋するものとして想像力が想定されておりますので︑
⑳も そのことはまた︑以前に構造分析を試みたスミスにおける︽想像力‖一日①σq甘①江8︾の射程と深みを確認することにも繋
たえ がります︒︵ヒュ;ムとの関連でいえば︑スミスはヒュームが﹁自然の行程﹂の理論的認識においては﹁信念﹂や﹁予期﹂
超鯖 と呼び︑道徳や政治.経済︑あるいは言語の領域では﹁コンヴェンション﹂︵利害の一致の感情に基づく相互承認的︑相互
紬 規定的 な黙示のとりきめ︶と呼ぶ原理を想像力のもとに括り︑これを深化させ︑人間本性の構成原理一般にまで高めま
と﹀ す︒︶論文二篇がおりなす思想世界がス︑・・スの思想世界全体のなかでいかなる位置をしめるのか︑また︑スミスの思想世然自 界がヨーロッパ精神史のなかでどのような位相にあるのか︑を検討する作業は向後の課題とすることにして︑本稿では︑く
ほ とりあえず︑右のような観点から︑筆者のコメントは極力さけて︑ス︑ミス自身をしてスミス自身を語らしめる形で︑スミ
鵠 スはこれら二篇を通じて︑何を問題にしているのか︑あるいは︑何をどのような視点からどのようなものとして論じよう
治 としているのか︑をいわばか蔚か胎か方向で叙述を進めることにします︒
ワA * 以下︑スミスからの引用は §○卜﹄⑦OOミ肉b\日6>○㌔︑§ミ6拓5﹄§○○知拓㎏⑦︑○>S団≧○㎏O㍉﹄宝ミ
⑦ミ〜目により︑引用箇所はすべて本文中に記す︒各論文の標題は︑①↑昌σq已富窃︑②㊥冨ω5︑と︑さらに︑︾︒・呼︒o︒日∨︑
3 むり︒oω︒ω︑と略記し︑パラグラフ・ナンバーおよび全集の当該巻の︵①は一く↑肉○↓q謁肉切○≧畑ξばd㌔苫﹄§㎏肉卜トぽ切
4 卜肉﹃目じ弓必︒ユ一甘ユ9↓・ρロ昌8の︑②以下は一口㎏切切﹄嵩○≧ξO句○§﹄卜⑦§○冨︑︒△一9阜σ町綱・勺・O・
≦蒔宮目昌の︶ぺージ数を記す︒引用文中の︻﹈内のことばは筆者による言い換え︑あるいは補足である︒
論文﹁天文学の歴史﹂については拙稿﹁A・スミスにおける︽想像力﹀の構造﹂︵本論集︑第八輯所収︶参看︒論文﹁外的諸感官
について﹂は︑既に訳出を試みたことがある︒︵﹁A・スミス﹃外的諸感官について﹄試訳﹂︑同右第九輯所収︶
なお︑︑︑日津忠含o曽冨︑︑の訳語は︑日本語としては不自然であるが︑﹁模倣的諸技芸﹂としておく︒第一に︑スミスにおいて︑
﹁模倣 的諸技芸﹂は後に触れる﹁制作﹂︵ポイエシス︶に関わり︑制作は﹁模倣﹂と﹁完成﹂の両側面を含むゆえに︑﹁模倣的諸技
芸﹂は︑先にあげたアリストテレスの言葉に見られる位相において照準された﹁技術﹂の特性を典型的に表出するものとしてテー
マ化 されていること︑第二に︑スミスの思想世界︵のみならず︑ヨーロッパ精神史︶における﹁模倣﹂と﹁技術﹂︵ないし﹁技芸﹂︶
との関わり︑第三に︑もともと諸々の技術︵①詳・・︶1一庄2巴曽冨と日彗臣一盲8富己o巴①詳ωとを含めてーがまずあり︑そ
のうちの一部のものがSo胃諺︵あるいは目o宮o\Oo①巳罵巳自詳ω︶として自らを他のものから区別するようになり︑さらに︑これ
らが人間の営みのなかで︑行為のジャンルとして自立したときに︑①詳という単数で無冠詞の一般名辞で総括されるようになった︑
という観念の形成史︑を念頭においてのことである︒もとより︑佐久間象山の有名な言葉﹁東洋道徳︑西洋芸術﹂のうちの﹁芸術﹂
の意味をも込めて言うのであれば︑﹁芸術﹂と訳すことは一向に差支えないであろう︒
1 所与的世界と言語的世界との分節化・脈絡化
ー﹁言語形成論﹂ー
スミスは論文﹁外的諸感官﹂のなかで︑バークリィのいう﹁視覚言語﹂に関する考察を踏まえたうえで︑こう書いてい
る︒﹁この自然の言語においては︑﹇表示するものと表示されるものとの間の﹈諸類比はどの人間の言語のそれよりも完全
である︑といえるかもしれない︒もしそう言ってよいならば︑語源︑﹇格・性・数などの﹈語形変化および﹇動詞の﹈活用
変化はずっと規則的である︒諸規則ははるかに少なく︑しかも当の諸規則は例外を許容しない︒﹂︵ωo目ω窃︑O︒︒⁝HOご
ヘ ヘ ヘ ヘ シ へ まず第一に︑言語の考察へと向かうスミスのモティフの根抵にあるのは︑﹁自然の言語﹂に対して﹁人間の言語﹂はどの
ような特性と構造を有するか︑を究明しようとする問題意識である︒バクーリィのいう﹁視覚言語﹂ースミスの言葉を
借 りれば︑﹁自然の創造者がわたしたちの目に語りかける一種の言語﹂︵一露ユこ8⁝窃elは︑一種の﹁符号﹂︵ω︷σq巳
として捉えることができるかぎりにおいて︑コ言語﹂なのである︒しかし︑この言語は厳密な意味で﹁人間の言語﹂ではな
い︒どこまでも人間の力を超えた﹁自然の言語﹂である︒﹁自然の言語﹂と﹁人間の言語﹂とのこうした緊張関係のなかで︑
スミスは問題関心を後者に向け︑その特性と構造を︑最も原初的な﹁語﹂の発生から言語的世界の分節化・脈絡化にいた⑳も る過程において解明しようとする︒
たえ 第二に︑スミスが着目するのは﹁符号﹂と符号によって﹁表示される﹂もの︵o力品昌ーω蒔巳出o△︶との関係であり︑彼
超を はこの関係を﹁自然の言語﹂と﹁人間の言語﹂との関係に適用する︒﹃視覚新論﹄に関するかぎり︑バークリィにとって
然舶 ﹁視覚言語﹂︵スミスの言葉で言えぽ︑﹁自然の言語﹂︶は︑触覚の諸対象の︵あるいは可触的諸事物の︶世界を﹁示唆する﹂
と ︵ω自oqoq窃・︶視覚の諸対象︵あるいは可視的諸事物︶の世界を意味する︒後者と前者との間には︑﹁符号﹂とそれによって
昧 ﹁表示される﹂ものとの関係が成り立つ︒スミスはこの関係を関係として抽出し︑人間の創造力を超えた﹁自然の言語﹂
くる と自然の創造力を超えた﹁人間の言語﹂との関係をそうした関係のもとに置こうとする︒さらに︑﹁人間の言語﹂の内部にけぽ おいても︑音声言語と文字言語との関係が﹁表示される﹂ものと﹁符号﹂という同じ関係において補捉されることになる︒
治 この根抵には︑一般に︑いかにして︑あるものは︑これとは異質な他のものを﹁表示﹂し﹁示唆﹂することができる﹁符
ワ 号﹂となりうるのか︑という︑論文﹁外的諸感官﹂や﹁模倣的諸技芸﹂をも貫くスミスの問いかけがある︒A 第三に︑スミスにとって言語的世界は︑それ自身の内部脈絡をもった分節化された﹁符号﹂の体系である︒ここでスミ
5 スが問おうとするのは︑いかなる行程を辿って︑言語的世界はそれの分節化・脈絡化において︑所与的世界を構造的に捕
6 捉しうる﹁符号﹂へと自己形成してきたのか︑ということである︒この問題の脈絡において︑ス︑︑︑スはJ.J.ルソーの
言語起源 論の問題設定の仕方に対する批判を介して︑T・ホップズ︑J・ロックの言語論の精神に繋がる︒
以上のことを踏まえながら︑﹁言語形成論﹂の議論の筋道を辿ってみよう︒叙述は﹁名詞﹂と﹁動詞﹂との本性を究明す
る部分と︑.♂o︑︑と..庁①<o︑︑が果たした役割を検討する部分とに限ることにする︒
スミスは︑﹁﹇格・性・数などの﹈語形変化︵ユo色oづωざ問︶および﹇動詞の﹈活用変化︵60巳ロσq①江o邑﹂が顕著な特質と
なっている言語類型とそれらが著しく簡素化されている言語類型の例示を︑それぞれ︑一応︑古代語︵ラテン語︶と現代
語︵ 英語︶に求めながら︑原初的な語から前者の類型へ︑さらにそこから後者の類型への言語の形成に︑﹁抽象化﹂︵①ぴ・
ω肯①o江o目︶︑三般化﹂︵ぬoロo﹃巴ざ讐ざ邑︑﹁比較﹂︵8日O曽﹂ωo目︶の作用が高まる過程を対応させながら考察をすすめる︒
まず︑1名詞の考察︒ここでは︑ω一般名辞の形成︑②形容詞の形成︑および③前置詞の形成の意味が論じられる︒
① おそらくコンディヤックの﹃人間意識起源論﹄︵>OOひ団江oロ昌o切8昌魯△oOoロ合=①P㎏揚ミ吻ミ︑︑ミぶ§合句 6§苫ミ袷§へ霧書さミ§吻︑ミ︽eの一節で描かれている男女一組の二人の子供の事態を念頭においてであろうが︑スミス
は こう書いている︒
﹁個別的な事物を指示するために個別的な名辞を付与すること︑すなわち︑実名詞︵ロo§ωロぴ︒・S昌江くφ名詞︶を設ける
ことは︑おそらく﹇その蓋然性が高いであろうが﹈︑言語の形成への最初の段階のひとつであろう︒話すことを教わった
ことがなく︑諸々の人間社会から隔絶して育った未開人二人﹇がいるとするならば︑二人︼は︑言語を形成し︑それに
よって︑自分たち相互の諸欲求を互いに他に対して了解できるようにしようと努力するであろうが︑そうした言語を形づ
くる手始めとして︑二人が︑特定の諸事物を指示するつもりであるときにはいつでも特定の音を発することは︑﹇ことが
らの本性からして﹈自然なことであろう︒二人がごく慣れ親しんでいるような諸事物︑しかも二人が極めて頻繁に折りに
ふれて 指し示すような諸事物だけが︑個別的な名辞を付与されることであろう︒﹂︵↑①目管①σq9︑ごNOω︶二人を自然の猛威か
ら護ってくれる一つの特定の洞窟︑空腹を満たす果実のなる一本の特定の樹木︑喉の渇きをいやす水が湧き出る一つの特
ヘ へ 定の泉は︑それぞれ︑特定の名辞がこれに付与され︑この名辞によって指示される︒こうして︑ごく少数の特定の個物と︑
ト ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ そ
れ らに一対一の形で対応し︑もっぱらそれらを指示する特定の固有名辞︵11固有名詞︶の世界が生成する︒
ヘ へ
しかしながら︑二人の経験と観察の範囲が拡大するにつれて︑この特定の洞窟︵樹木・泉︶ぼかりではなく︑他の多く
の洞 窟︵樹木・泉︶をも指示することが必要となる局面に置かれる︒彼らは︑もっぱら特定の事物を指示していた特定の ゆ 名辞を他の多くの事物にも当てはめる︒ここに︑これまで固有名辞あったものが↓般各静→普適魯詞︶ど於か︒スミス
たえ は﹁観念連合﹂の原理を用いながら︑この事態をつぎのように描く︒超髄 ﹁新 しい諸事物は︑どれひとつとして︑それ自身の名辞を持たないが︑それら三つひとつは︑そうした呼称をもつ他
G
の﹇もとの﹈事物とまるっきり類似していた︒それらの未開人が新しい諸事物を見るときにはいつでも︑もとの諸事物を︑と そ して︑1新しい諸事物はこれらもとの事物に対してきわめて類似しているからしてーもとの諸事物の名辞を︑想起㈱自 せずにはいなかった︒それゆえ︑彼らが折りにふれて︑新しい諸事物のうちのどれかを指し示したり︑あるいは互いに他︽
脳 に対して指摘したりする機会があるときには︑彼らはー﹇.﹂とがらの本性からして﹈自然なことであるが−1﹇指示し
冷 ようとする事物に類似性の点で﹈対応する当のもとの事物の名辞をぽ﹇音として﹈発することであろうし︑その瞬間に︑
治 このもとの事物の観念が最も強く生き生きした仕方で彼らの記憶に対して現前して﹇記憶に蘇って一こずにはいなかった︒
ス・ そしてこのようにして︑もともとは諸々の個物︵ぎ象く庄仁巴ω︶を指示する固有名辞︵買o唱魯⇒③日o︶であった語はそのA
各々が︑﹇諸々の個物の﹈集合︵①日已庄言ユo︶を示す一般名辞︵8日ヨooロ自日6︶へと漸次︑転成するのであった︒﹂
7︵巨△°二⁝N8
8 この点に関して︑つぎの二点に注意を喚起しておく必要がある︒
第一に︑固有名辞を一般名辞に転用することは人間の自然本性からして︑きわめて自然な行程である︑というス︑ミスの
視 点である︒﹁文法学者たちが換称︵︾暮oロo日器︷①︶﹇ここでは︑固有名詞を普通名詞に代用すること︼と呼ぶ⁝⁝こうし
た 語り方は︑人類は︑ある事物に対して︑これにまずは大体類似している何か他の事物の名辞を与え︑そしてこうして︑本
来はもともと︑個物を表現するために創られたもので集合を指示しようとする方向へ︑その自然本性からして︵昌①§①=鴫︶
どれほど傾いているか︑を証明している︒﹂︵一宮O°︶スミスは一般名辞の生成にかぎらず︑言語的世界における﹁類比﹂に
ついても︑その基盤に人間の自然本性をおいて捉えようとする︒彼は︑言語的世界の分節化の行程に即して︑人間の自然
本性の発現形態を捕捉しようとする︒彼にとって︑言語的世界は人間の自然本性を基盤にして︑そこから形成された構築
物の世界なのである︒
第二に︑スミスが﹁類﹂や﹁種﹂の概念のそもそもの形成の根抵に︑右のような人間の自然本性を基盤とする﹁換称﹂
を想 定している︑ということである︒﹁こうして︑多数の事物はある個物に類似しており︑この類似性は当の個物の観念
と個物を表現する名辞の観念を自然に喚起するゆえに︑その個物の名辞がこれらの事物の集合に適用された︒スコラの諸
学 院でσqoロ窪①および︒りOo息窃と呼ぼれている類・種や分類区分︑そしてまた︑創意に富む雄弁なジュネーヴのルソー氏
がその起源を解 明しようとしてほとほと困った類種や分類区分︑これらのものの形成を︑そもそもの原初に引き起こした
と思われるのは︑そうした﹇固有名辞の﹈適用である︒種を構成するものは単に一定数の諸事物であるにすぎない︒すな
わ ち︑互いにある一定の類似性を有し︑そのために︑それらのどの一つをも表現するのに適用することのできる単一の呼
称によって指示される一定数の諸事物なのである︒﹂︵ま定゜︑恰NOOよ︶このように語るとき︑スミスはルソーが提示した ﹁ディレンマ﹂のみならず︑名辞は何ゆえに一般的でありうるのかの問題をめぐる﹁抽象観念﹂に関するロック︑バークリ
イ︑ヒュームの所説をも︑さらに︑﹁普遍﹂はただ﹁語﹂ないし言語にだけ属するとするホッブズの立場をも念頭に置いて
いることは明らかである︒ここで着目しなければならないのは︑彼らに対するスミスの思想史的な位置よりも︑むしろ︑
彼らの立場を踏まえて︑一般名辞の形成を人間の自然本性の基盤において捉え返しながら︑スミスがここで問題にしてい
るのは︑﹁自然論理学﹂︵昌9巨巴宮σq5とでも呼ぶべきものの原初形態である︑ということである︒類・種の概念が学と ヘ ヘ ヘ ヘ へ しての︑学として組織された論理学の概念装置の一部であるとすれば︑一般名辞の形成は自覚的に論理学としては組織さ
れてい ない︑学以前の︑しかし︑しっかりと人間の自然本性の基盤のうえに立った︑思惟の抽象化の営みの所産である︒ 悔 学 としての論理学は︑こうした人間の自然本性の基盤のうえに立った︽自然︾論理学を踏まえながら︑そこから自覚的に
たえ 形成された観念的構築物であり︑その意味で︽自然を超えたもの︾である︒論文﹁言語形成論﹂がこうした︽自然︾論理
超 ︑︑︑を 学を主題としているとすれば︑論文﹁自然学﹂の後におかれる論文﹁論理学・形而上学﹂は︽自然を超えたもの﹀を問題
然 ヘ シ紬
としている︒︽自然︾論理学は︑学以前の自然論理学として︑人間の自然本性の基盤のうえに立つものであり︑学として
と の論理学の基盤であると同時に︑自然論理学として︑個別性の世界を超えた一般性の世界を目指すものであり︑そのかぎ
鰍 りにおいて倉然を超えたもの︾を志向している・︽る さて︑個物の集合を指示する一般名辞が形成され︑それぞれの個物はそれ自身に固有の名辞を失うことになると︑どのけ鵠 ようにして特定の個物を指示し︑それを同じ集合に属する他の個物から区別するか︑が問題となる︒そこで︑当の個別を︑
治 それに固有の性質か︑それが他の諸事物に対してある関係によって明示することが必要となる︒こうして︑名辞︵名詞︶
ス・ の他に︑﹁性質﹂︵Ω已巴津邑を指示する語11形容詞︵昌ocロ①島⑦o江くo°形容詞的名詞︶と︑﹁関係﹂︵﹃巴o江o邑を指示するA 語 ‖前置詞︵肩名o︒力宣o已が形成される︒前者は︑﹁ある特定の事物を限定するものと︑あるいはスコラ学者たちの言葉
9 を借りれぽ︑当の事物に内属し基体とともに具体的にある︵ぎ8昌o﹃o甘笥詳εものと︑見なされる性質を表現する語﹂
o ︵旨ぽ吉N8︶であり︑後者は︑﹁相関的な事物とともに具体的にあるものと見なされる関係を表現する語﹂︵誉置こ望1
NOOlO︶である︒
② 形容詞の形成に関してスミスが着目する点は︑事物の側面においては︑物・事物とその性質とについて︑両者が分 ヘ ヘ へ 離され︑いうなれば︑実体︵基体︶と属性とが区別されるにいたること︑より詳しくいうならぽ︑事物のある性質が着目
ト ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ され︑その性質が本来はそれが内属するωロひω貫曽已日︵基体︶から分離され︑このωロ9詳①宮日を捨象することを通じて
ヘ ヘ ヘ へ 性 質が性質として抽出され︑さらに︑これが一般化されること︑精神の側からいえぽ︑形容詞の形成には︑﹁比較﹂︵8旨・
O胃富o巳︑﹁抽象化﹂︵①ひ︒・障①9︽8︶および﹁一般化﹂︵ぬo目o日巳①江8︶の作用が与って力あること︑である︒ここに︑かつ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ てロックが事物の﹁本質﹂について︑事物そのものの本性に即した﹁実在的本質﹂︵﹃$一90昌oo︶に対して︑人間の立場
ヘ ヘ ヘ へ にとっての本質ともいうべき﹁悟性の創造物﹂たる﹁唯名的本質﹂︵ロo日日巴︾oロ8︶に認めた意義がスミスにおいて承
認 され継承されていることが看取されるであろう︒
スミスによれぽ︑性質も関係も︑..芦拶ひ︒力☆ρ9︑︑に︑すなわち︑基体から分離され基体との関わりを捨象して︑それだ
けで抽象的に存在することはありえないがゆえに︑ことがらの本性からして︑まず︑基体とともに具体的にある性質や関
係を指示する語が形成され︑その後︑性質や関係を抽出してそれだけを表示する語が形成されるにいたった︒後者の形成
は︑﹁比較﹂︵同一律と矛盾律の発見の根源︶︑﹁抽象化﹂︵実体11基体と性質属性との分離︶︑および﹁一般化﹂︵普遍化︶
の作用をまってはじめて可能になった︒性質を性質として表示する語はそもそもの原初から︑抽象的名辞であったのであ
る︒
スミスは形容詞の形成について言っている︒
﹁例えば︑∞q冨oロ︑σ巨Φ︑﹃9︑および色彩を表す他の名辞をはじめて創出した者たちは︑彩しい数の諸事物を観察し︑
まとめて比較したにちがいない︒色という性質に関してそれらの類似性と差異性に気付いたにちがいなく︑この類似性と
差異性に従って︑それらの事物をぽ異なった類・種や分類区分へと︑心のなかで配列したにちがいない︒形容詞はその本
性か らして︑一般的な語であり︑ある程度まで抽象的な語であり︑諸事物のある一定の種ないし分類区分ーしかも︑そ
の形容詞 が︑そのすべてに等しく適用されうるような諸事物の種や分類区分ーの観念を必然的に前提せざるをえない︒﹂
︵︷σ法゜︑ごNO9
︾ ﹁σq苫oロという修飾語によってある特定の事物をはじめて区別した者は︑緑でない他の諸事物を観察し﹇Aであるもの
のも は非Aでない︑と気付いた﹈にちがいなく︑彼はこの呼称によってその事物をばこれらの事物から分離しようとした︒そ
た翫 れ ゆえ︑この名辞の創出は比較を前提する︒それはまた︑一定の程度の抽象化をも前提する︒この呼称をはじめて創出し
鮭 た者 は︑性質をそれが内属する事物から区別したにちがいなく︑また︑その事物がその性質なしに存立しうるものと﹇述
< 語になることのない基体の自存性を︑想念において﹈想い描いたにちがいない︒それゆえ︑最も単純な形容詞的名詞とい
と﹀ えども︑それの創出はわたしたちが意識しがちである以上に︑自然を超えようとする思惟の努力︵Bo冨勺げ町oり一8︶を必要然
紬 としたにちがいないのである︒すべての形容詞的名詞のなかで︑自然を超えることの最も少ない︵窪Φ一8留日o富や庁冨一・
焔 o呂︑さまざまに異なった色の名辞でさえ︑これらが創出されることができるまでには︑それに先んじて︑配列ないし分
劇
に 類区 分︑比較︑および抽象化の︑さまざまに異なった精神的な諸作用がすべて使用され︵o日旦o司o住︶たにちがいないの
スミ である︒﹂︵一ぴ一亀゜︑ O⁚ NO口︶
スん
形 容詞の形成に関連してスミスは︑名詞の語尾変化によって示される文法上の﹁性﹂︵oq⑦ロム︒﹃︶の形成にふれている︒
この点について着目されるのは︑文法上の性に従って変化する形容詞の語尾が名詞の語尾に音の点で類似している事実の
ユー 根抵に︑﹁すべての言語の類比﹇的な構造﹈の基礎である︑音の類似性を愛する気持ち︑同じ音節の反復を悦ぶ心﹂︵ま置こ
12 さ⁚NO︒︒・o冷・戸ごNOP田⁝N声9という︑人間の自然本性に根差した根源的事実を︑スミスが想定していることである︒し
か し︑今ここでの問題の脈絡において重要なことは︑文法上の性の区別は精神における抽象化の所産ではなく︑抽象化の
労苦を回避す るための便法であった︑とされている点である︒確かに︑文法上の性の導入によって︑諸事物を︑まず︑生
物と無生物とに︑さらに︑生物については︑これを雄と雌︑あるいは男性と女性に類別することが可能になった︒しかし︑
文法上の性は自然的な性︵あるいは無性︶を映し出しているのであって︑自然を超えているのではない︒ス︑ミスはこう強
調する︒﹁﹇文法上の性による﹈表現は︑このように︑その表現が指示する観念ないし事物に対して︑﹇形容詞という抽象的
な語による﹈他の表現においてよりも︑はるかに正確な類比﹇的な類似性﹈を有していることは明白である︒﹇無性︑雄・
男性︑雌・女性という﹈性質は︑自然においては︵ぼ⇒暮烏o︶︑実体﹇的事物﹈の様態として現れるのであり︑また︑そ
の性質はそのように︑言語においては︵冒訂口oa§oQo︶︑その実体﹇的事物﹈を表示する実体的名詞一実名詞﹈の変形によ
って表
現 されるのであるから︑性質と実体﹇主体﹈︵︒りβ宮09︶はこの場合︑﹇文法上の言語的な﹈表現においても︑事物や 観 念においてそう見えるのと同様に︑もしそう言ってよければ︑混合しているのである︒﹂︵ま庄こo︒⁝NO下︒︒︶
③ 形容詞の形成が︑事物とその性質とを分離し︑実体と属性とを区別し︑性質・属性を一般化することによって︑自
然的
所 与の世界を分節化し︑より規定され限定された相において現前させることが可能となる場面を切り拓くとすれぽ︑
前置詞の形成 は︑自然的所与の世界を脈絡化し︑諸事物を関係性の普遍的な連関のなかに置く地平を切り拓く︒
スミスがここで前置詞と言うのは︑例えば︑空間的な上下関係について︑関係づけられる事物を捨象して︑それだけが
抽 出され一般化された関係を表現する︑ゴ已Ooユoユ蔓︑︑という抽象名辞のことではなく︑ある事物の他の事物に対する関係
を︑この他の相関的な事物とともに具体的に表現する語︑すなわち︑二つの実名詞の間に置かれて︑これらの関係を表示
す る語︑.︑①ぴo<o︑︑のごとき語のことである︒スミスによれば︑前置詞の形成は形容詞の形成より︑抽象化と一般化のなお
一層大きな努力を必要とするゆえに︑それははるかに困難であった︒その理由として︑彼はつぎの三点を挙げている︒
第一に︑関係は性質よりも把握が困難である︒﹁関係は︑それ自体としてみれば︑性質とくらべて︑より自然を超えて
いる︵日o冨噂げぺ段8ごものである︒﹂﹁諸性質はほとんど必ず常にといってよいくらい外的諸感官の対象であるが︑諸関係
はそ うではない︒﹂第二に︑前置詞の本性は﹁関係を︑しかもただ関係だけを表示する﹂ことにある︒確かに︑前置詞は実
際において単独では用いられず︑実名詞と実名詞の間に置かれて︑これらの関係を表示することによって︑ある事物の他
﹀ の事物に対する関係を︑この他の相関的な事物とともに具体的に表現する︒しかし︑前置詞の意味のうちには関係づけら
の抽
れ る事物の観念が含まれておらず︑﹁ただ関係だけを﹂表示する前置詞の形成には︑﹁関係を関係づけられる事物から分離
翫 し︑事物を捨象して関係だけを考察する﹂・とができるのに+分な抽象化の・ヴ︑ルが達成されていないけばならない︒
髄 第三に︑前置詞はその本性からして︑﹁一般的な﹂語であり︑したがって︑形成の原初から︑特定の事物と特定の事物と
< の特定の関係ぼかりではなく︑これに﹁類似した他のどのような関係をも表示するのに︑等しく適用可能なものとみなさ
と ヘ へ﹀ れていたにちがいない﹂ような性格をそなえている︒..①ぴo<o︑︑という語を創出した者は︑空間的な﹁上位の関係をそのよ然 ヘ へ紬 うに関係づけられた事物から区別したばかりではなく︑この関係を●oS笥という語によって表示される下位の関係︑ぴo−
拍 ω庄oという語によって表現される佑置の関係︑等々といった他の諸関係から区別していたにちがいない﹂︒このように︑
劇に 他のすべての種類の関係から区別されるある特定の種類の関係を表示する語を創出することは高度の比較と一般化の作用
スミ を前提する︒︵ま己こ嵩⁝NOO山O︶
スわ 以上のような前置詞の本性と︑その形成に要求される精神的作用との意味を側面から明らかにするために︑スミスは屈
折語における﹁格﹂を取り上げる︒焦点を属格と与格にしぼり︑﹁木の︵木になった︶果実﹂と﹁ヘラクレスにとって神聖
ヨー な﹂という物や性質を︑英語では前置詞を用いて.︑穿o埣庄吟亀書o障oo︑︑とか︑.oD餌自oユ9出o苫己窃︑︑と表すところを︑
14 ラテン語では..S巨o言ω①﹃ひoユの︑︑とか︑.ω①o零出o苫巳声︑︑と表現する事態に例示をとりながら︑格の形成は前置詞の創出
という困難な営みを回避するためであった事情を強調する︒彼によれば︑第一に︑格によって関係を表示することは抽象
化の努力を必要としなかった︒ここでは︑﹁関係は︑それが自然において現れるがままの姿において表現され︑事物から
分離 され切り離されたものとしてではなく︑相関的な事物とすっかり混合しているものとして表現された﹂︒第二に︑格
に よって関係を表示することは一般化の努力を必要としなかった︒..曽ぴo吟﹂ロリ︑︑や..出o苫巳一︑︑という語は︑意味表示の点で︑
前置詞の .︑o喘︑︑や︑.8︑︑によって表示されるのと同じ関係を含むにもかかわらず︑語としてみれば︑﹁ただ関係だけを表示
す る﹂二般的な語﹂ではない︒第三に︑格によって関係を表示することは比較の努力を必要としなかった︒︒.曽ぎユω︑︑や
.︑出o苫巳﹂︑︑という語は︑比較の結果︑他のすべての種類の関係から区別されたある特定の種類の関係を指示するのに創出
された一般的な語ではなかった︒以上の理由から︑相関的な事物を指示する名辞の語尾変化︵格変化︶によって関係を表
現す ることは︑﹁どんな種類の抽象化も一般化も比較も必要としないのであるから︑前置詞と呼ばれる一般的な語によっ
て 関係を表現することよりも︑原初のうちは︑一層自然で容易であろう﹂︒︵一亘亀こ昂占べ⁝曽P一⇔
ス︑ミスは右にみたような理由から︑前置詞をすべての品詞のなかで﹁最も一般的︑抽象的で︑最も自然を超えているも
の﹂と規定し︑したがって︑発生論的に見て﹁最後に創出されたもの﹂とみなし︑さらにそこから︑すべての前置詞のな
かで﹁断然︑最も自然を超えている﹂ものとして.︑o冷︑︑を取り上げ︑その意味を強調する︒彼はその特性を次のように要
約 している︒スミスをして語らしめよう︒
﹁前置詞亀は︑関係一般︵﹃o冨江o口﹂ロσqo昌o﹃①ごーしかも︑相関的な事物とともに具体的にあるとみなされる﹇かぎ
りでの︼関係一般ーを指示する︒それは︑oSに先行する実名詞﹇によって指示される事物﹈がo柏の後にくる実名詞﹇に
よって指示される事物﹈と何らかの関係を有することを標示するが︑しかし︑その関係の固有の本性が何であるかーこ
のことは前置詞oσo<oによってならば確定されるがーを︑いかなる点においても確定することはない︒それゆえ︑わ
た したちは最も正反対の諸関係でさえも︑これらを表現するのに︑この前置詞を適用することがしばしばある︒何故なら
ぽ︑最も正反対の諸関係といえども︑それらのおのおのは関係という一般観念︑あるいは関係の一般的本性を包含してい
るのであり︑それらはこの程度までは一致しているからである︒わたしたちは︑夢o合爵魯o袖庄o°・8とも各oo力80冷
仔o皆汗2ともいう︒日o酔・詳o霧o冷吟庁oま﹃窃吟とも夢oま﹃霧けo袖日⑦め亨貫o窃ともいう︒父親が息子に対してある
﹀ 関係は︑息子が父親に対してある関係と全く正反対の関係であることは明白である︒諸部分が全体に対してある関係は︑
のも 全体が諸部分に対してある関係と全く正反対である︒しかしながら︑oSという語は︑それらの関係すべてを表示するの
た猷 に きわめてよく役立つ︒この語はそれ自身においては︑どんな特定の関係をも表示せず︑ただ関係一般だけを表示するか
鰻 らである︒そして︑何か特定の関係がそうした諸表現から推し測られるかぎりにおいて︑その関係は前置詞そのものから
< ではなく︑前置詞がその間に置かれている﹇二つの﹈実名詞の本性と配列を根拠にして︑心によって推論されるのである︒﹂
と﹀ ︵︷●庄こお⁝N品ー﹂ω︶然
G
つぎに︑H動詞の考察に移る︒乃 時期的には論文﹁言語形成 論﹂が発表されてから二年ばかり後に認められたある書簡のなかで︑スミスは︑﹁もし私が劇
に ﹇理性的文法という﹈同じ主題を取り扱うようなことがあるのであれぽ︑私は︑先ず動詞の考察から始めようと努力する
スミ ことでしょう﹂と述べ︑動詞を﹁原初的・根源的な品詞﹂とみなしている︵↑o耳隅ΦρOoq800ロ●oooo︑O・︒︒︒︒︶1こ
スか の見
方 は︑動詞の形成は﹁言語の形成に向けてのまさに最初の企てと﹇構造的に﹈同時的﹂︵ま逗︑Nご曽切︶であるとす
る視点と符合しているー︒このことは︑スミスの関心が名詞よりも動詞にあったのではないか︑ということを示唆して
1 いる︒そうであるとすれぽ︑論文﹁言語形成論﹂での議論の主題の配置はスミス自身の関心の比重とは逆であることにな
16 る︒名詞の考察の最後で︑事物と事物の関係を表示する前置詞の形成にふれ︑世界が関係性の全体的な連関のなかに組み
込 まれる事態に注意を喚起することに名詞の考察の眼目があったとすれば︑そのことを踏まえて︑さらに︑世界が時間的
継起における働きに照準した全体的な動的機能連関のうちに組み込まれる事態を開示することが︑動詞の考察の主眼にな
る︑ということができよう︒
以 下︑①動詞の人称化︑②代名詞の形成︑および③ひoと庁知くΦの役割︑の順序でスミスの議論を辿ることにする︒
① まず︑スミスが非人称︵的な︶動詞をどのように性格づけているかをみよう︒﹁非人称的な諸動詞は︑ある一つの
事態﹇
事 象・出来事﹈︵⑦<oロ⇔をば一つの語で表現する︒それらの動詞は︑事物のなかに︑そして観念のなかに必ず常に
あるような全き単純性と単一性をば︑その表現のうちに保存する︒そして︑それらの動詞はいかなる抽象化をも予想しな
い︒すなわち︑当の事態を主体﹇主語となる実体﹈と属性という︑それぞれの構成要素に分ける︑自然的所与を超える分
割を予想 しないのである︒そうであるからして︑これらの動詞は︑おそらく最初に創出された種類の動詞であ﹇る蓋然性
が きわめて高いであ﹈ろう︒﹂︵ま定・︑N︒︒⁝N窃︶例えぽ︑雨降りの事態︵あるいは︑その観念︶を︑..#壁ぎω︑︑と︑主語と
述語動詞に分けて表現
す るのでなく︑..巳巨⇔︑︑と一語で表示するような場合︑こうした動詞は︑﹁心が当の事態を自然にお
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
いてあるがままに想い描くときの全き単純性と単一性をもって﹂︑当の事態をまるごと全一的に表現するわけである︒こ
れに対 して︑同じラテン語でも︑︑︑≧o×①昆角①目ぴ巳①⇔︑︑︵アレクサンダーは歩く︶という語句を使用すれぽ︑どうであろ
うか︒この場合には︑一つの事態を﹁人格あるいは主語と︑その主語について肯定される属性あるいは事実︵日①詳魯o⌒
怖①9という︑二つの部分に分割する﹂ことになる︒しかし︑とスミスは続けて言う︒﹁自然においては︑歩いているアレ
クサンダーの観念あるいは想念は︑歩いていないアレクサンダーの観念あるいは想念と同様に全く完全に単純な﹇全一的
な﹈想念である︒それゆえ︑この事態を二つの部分に分ける分割は︑全面的に技巧的﹇技術的﹈であり︑言語の不完全性
﹇ということは︑当の主体の﹁働き﹂・﹁作用﹂を表せない︑ということを含めてのことであろう−引用者﹈﹇を克服しよ
うとする努力﹈の結果である︒﹂これら二つの事例を比較すれば︑同じ雨降りの事態を表示するのに︑﹁巳巳吟という自然
に即 した ︵o旬ゴ≒e表現のほうが︑一8σo﹃ユ06庄o⇔という一層技巧的な︵曽⇔法息巴︶表現よりもはるかに単純である﹂
事情が容 易に看取されるのである︒後者の場合︑単一の事態を二つの部分ないし要素に﹁技術的に﹂分割する︑﹁自然的所
与を
超 える分析﹂︵諺o冨勺ゴ町︒力8巴①昌巴町o・声o・︶の操作手続きが介在しているのである︒このような次第で︑動詞の原初的形
﹀ 態は非人称︵的な︶動詞であった︒︵さしあたり︑ここでは︑昌彗斥巴に対して︑自然的なものを超える事態を表す用語
のも として︑日o冨弓庁匂牲Ωエおよび①詳富9巴の語が用いられていることに注目しておく︒︶
た翫 右のように︑動詞の原初的形態として非人称︵的な︶動詞を想定するとき︑三﹂から︑㈲動詞の人称化︑㈲話し言葉
鯖 ︵音声言語︶と書き言葉︵文字言語︶との相即的な構造的分節化︑の問題が生成してくる︒
< ㈲ 動詞の人称化は︑一つの単純な事態を一つの語で全一的に表現する動詞の形態から︑主語と述語動詞とに分割して
と﹀ 同じ事態を表現する動詞の形態への転換にみあうものである︒この転換の過程を︑スミスはつぎのように説明している︒然 ヘ へ
G
<o巳﹇という動詞を例にとると︑まず︑これはもともと︑物一般の到来を無限定に表現したのではなく︑ただある特定ほの物の到来という一つの単純な事態だけを指示した・その語だけを単独で使っても・<°巨といえば・も・ばら・例えば・
お ・・︑に ライオン︵熊や狼ではなく︶が来たぞ︑の意味に理解された︒しかるに︑つぎに︑諸事物に名辞が付与され︑ライオンをそ
ス
︑︑︑ れ以外の猛 獣から区別することが可能になると︑これに対応して︑当の動詞は︑<⑦艮吟彗o︒已ωとかくo巳⇔后や已ωのように︑
スか 到来す る物を指示する名辞をそれに付加しさえすれば︑﹁いかなる恐ろしい物の到来をも表示する﹂ことができるように
なった︒動詞の意味表示の範囲が﹁ある特定の物の到来﹂から﹁ある特定の種類の物の到来﹂へと拡張されて︑動詞の一
ヘ ヘ へ1 般化が始まったのである︒さらに︑その意味表示の範囲は拡張され︑動詞は﹁善いものであれ︑悪しきものであれ︑善悪
18 の差別 を含まないものであれ︑およそいかなるものの接近をも表示する﹂までに一般化されるにいたる︒このように︑一
般化が進むに ともなって︑動詞は一語だけで単独には︑一つの事態を表示することができなくなり︑﹁それの意味表示を
確
定 し限定するの役立ちうるような︑実名詞の援助﹂を必要とする地点にいたるのである︒︵一〇一△°℃ N㊤⁝ N戸Φi や︶
以上のようなスミスの見解を要約すれば︑こうなるであろう︒名詞の抽象化・一般化に構造的に対応する方向で︑動詞
の︑いわば一般名辞化が行われる︒動詞の意味表示の範囲が一般化され無差別化されるにともない︑当の動詞によって指
示 される動作・作用・働きの主体を明示することが必然的に不可欠となる︒このことに即して︑動詞の人称化︵人格化︶
が 完成するのである︒
さて︑動詞の人称化︵人格化︶が表出している︑主語と述語動詞へのある事態の分割は︑対象面に即していえば︑単純
な事 態の自己分割ということになる︒所与の世界がその直接性を否定されて︑自らを分節化するにいたる︑ということで
ある︒所与としての全一的な世界が構成要素に分割され︑これらの構成要素の連関づけという形で︑世界が脈絡化される
とすれぽ︑この対象面での事態の自己分割に対応する形で︑言語的世界の構造的な分節化︑脈絡化が進行する︒この﹁自
然の前進的発展﹂︵胃oσq﹃霧o厚oS昌①ゴ≒o︶の方向を論理的に徹底させ︑その帰結を予料して︑スミスは︑﹁ほとんどすべて
の
事 態︻事象﹈をば︑自然的所与を超える多数の部分︵日o富やげぺ段S一〇曽窃︶1これらの部分は様々に異なった言葉の諸
部分﹇ 品詞﹈︵b胃雷o冷ωbooo庁︶によって表現され︑あらゆる句や文の様々に異なった構成要素として多様に結合される
ーへと分裂させ分割することを︑人類は次第次第に学んできた﹂︵ま庄こω9曽已と総括している︒
㈲ スミスによれぽ︑このような﹁前進的発展﹂は話し言葉のみならず書き言葉にも及んで︑後者においては︑字母の
発 明によって文字言語が体系化されるとともに︑ひいては︑音声言語を根幹とする言語的世界︵言語体系︶がその内部脈
絡において整合化されるにいたった︒事態︵自然的所与の世界︶の分割と脈絡化︑事態を表示する︑︑ω︷oq目︑︑の体系として
の音声言 語の世界の分節化・脈絡化︑そして音声言語を表示する..ω蒔臥︑の体系としての文字言語の世界の分節化・脈絡
化 ー質料的形態の点では全く異質な︑これら三つの層における世界の分節化・脈絡化が︑構造的に相即するものとして
把
握 されていることが︑ここに看取されるであろう︒スミス自身の言葉に耳を傾けよう︒
﹁人類が初めて︑諸観念を書き記して表現しようと企て始めたとき︑文字はどれもが語全体をまるごと表出していた︒
しかし︑語の数は限りがないといってもよいほどであるから︑記憶はそれが保持していなければならない多数の文字のた
﹀ めに負担がかかり︑圧迫された︒それゆえ︑必要は諸語をその要素に分けることを︑そして語そのものではなく︑語を構
のが 成 す る要素を表す文字を案出することを︑人類に教えた︒この工夫.案出の結果︑個々の語はいずれも︑一つの文字によっ
翫 てでは なく︑数多の文字によって表されるようになった︒そして︑語を書き記して表現する表示の仕方は以前よりもはる
鮭 かに手が込んで複雑になった︒しかしながら︑個々の語がこのように数多の文字によって表出されるにもかかわらず︑言
︽ 語の全体についてみれぽ︑これははるかに少数の文字によって表現されるのであり︑約二四の文字が︑以前には欠かすこ
と﹀ とのできなかった彩しい数の文字に取って代われることがわかった︒同様に︑言語の原初的な段階で︑人々は折りにふれ然舶 て関心を寄せることのある個々の事態を︑いずれも︑特定の語1その事態の全体をまるごと同時に表現する語1によ
垣 って表現 しようと企てたように思われる︒しかし︑この場合に︑語の数は﹇ことがらの本性からして﹈現実的に限りなく
劇に
なっているので︑これまた実際に限りなく多種多様である諸事態の結果︑人々は︑一つには必要に迫られて︑また一つに
スミ は自然﹇あるいは自分自身の本性﹈に導かれて︑自然的所与を超える要素と呼んでもよいような諸要素にすべての事態を
スか
分 け︑さらに︑諸事態よりもむしろ︑諸事態を構成する諸要素を標示すべき語を創出せざるをえなくなった︒このように︑
個々の事態すべてを表現する表示の仕方はずっと手が込んで複雑になったが︑しかし︑言語の体系﹇的組織﹈全体は﹇内
− 部的に﹈より整合的になり︑より緊密になり︑一層容易に把持され把握されるようになった︒﹂︵ま置゜⁝障下︒︒︶