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本論初期イタリア合理主義及び、

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(1)

3-I

本論 初期イタリア合理主義及び、

1930

年代におけるイタリア北部を中心とした

合理主義の建築思潮について

 本論では、初期イタリア合理主義と

1930

年代におけるイタリア北部を中心とした合理主義の建築 思潮について、序章となる第

3

章で各章の位置付けを明らかにした後に、それぞれの章で検討、考察 を行う。

第3章  序章 本研究の位置付け

3.1. 初期イタリア合理主義における、二回にわたるイタリア合理主義建築展と MIAR の活動の

位置付け

3.1.1.  イタリア合理主義建築に関する論文発表以降のグルッポ 7 について

1926

年から

27

年にかけて発表されたグルッポ

7

1による

4

論文2

(

以降

<

宣言文

>)

は、イタリア合理主 義の発端とみなされている3。鵜沢はその

<

宣言文

>

を、

I.

「混乱と無秩序の時代」に終止符をうたねば ならぬこと。

II.

<

新しい精神

>

に基づいた偉大な時代への出発点」に立っているという認識。

III.

鉄筋 コンクリートという新しい時代の建築構造は「論理と合理性への厳守な固守」によること。

IV.

「単純 で純粋な構成法」による建築は「イタリア固有の伝統と連続性を持つ」ものであること要約し、さら に、その

<

宣言文

>

は、「欧州諸国での近代建築運動の移入を目指した側面が強調され」ながらも、「

4

項目の「伝統との連続性」をも彼等の運動が含有するものであるとの認識に、イタリアでの近代運動 の固有さを指摘することができる」と述べている4。この

<

宣言文

>

の発表後、新聞、雑誌上において、

その論文の内容、或いはイタリア合理主義建築に関する様々な議論が展開されることになる5。  ところでこのグループは、

1930

3

月にも「グルッポ

7

」の署名で論文を発表しているが6

(<

>

参 照

)

、その頃までに、既にメンバーの二人が「合理主義」に対する思想、或いは活動方針の違いから、

グループから離れていた。一人は、このグループの主導者といわれる7

C.E.

ラーヴァ

(Carlo Enrico Rava,

1903-85)

8である。彼は、

1931

年の第二回イタリア合理主義建築展開催前、その展覧会準備に携わる

P.M.

バルディに宛てた手紙の中で

(<

1>

参照

)

9

<

宣言文

>

は彼が書いたものであることを明言する10。し かし、

<

宣言文

>

発表後、ラーヴァは「合理主義が、意味のない原理、さらには低俗な暗号にしばしば 陥るという誤りと危険性」

(gli errori e i pericoli di un razionalismo troppo spesso ridotto a sterile dogma e

peggio, a volgare cifra)

のためにグループを離れることになった11。そして、バルディに手紙を書いた時

のラーヴァにとって、

<

宣言文

>

は既に「時代遅れ」

(trapassato)

のものであること、

<

宣言文

>

発表後、

彼の「合理主義」に対する思想が展開し、その時期は、合理主義に「地中海性」

(mediterraneità)

とい う傾向、そしてイタリア人の民族性の特徴となる「ラテン精神」

(spirito latino)

が必要であると主張し ていた12。ラーヴァは、

1928

年の論文

<

建築における欧州主義

>(Dell’europeismo in architettura)

13におい て、グルッポ

7

の理論が外国人の模倣であるという批判に反論し、また「創造する人々の境界」

(i confini

(2)

3-II

del popolo che la crea)

を超えた、欧州的な価値と影響のある建築のみが「国の財産に加わるに値する」

(degna di far parte del patrimonio nazionale)

と述べて、「欧州主義」

(europeismo)

を唱えた。彼はさらに、

合理主義の建築運動がファシズムの文化的な計画14の中にあると述べた後、真のイタリアの建築、「帝 国」イタリアを示す唯一の建築と誤って考えられた「伝統主義者」の建築を攻撃し15、そして最後に、

イタリアが伝統のために解釈し、「古代ギリシャ文化の再生」

(rinato Ellenismo)

を第一のものとした「古 代ギリシャ精神」

(spirito ellenico)

が、「今日のイタリアの、より価値のある(略)帝国主義の形式」

を示すと述べていた。しかし、ラーヴァは

31

年の

<

ドムス

>

誌上の論文

<

危険な転換期

> (Svolta

pericolosa)

16において、それまでの主張を一転させることになる。彼は、イタリア人建築家は「その民

族、その文化、その人間性に従って創造する必要性があると感じ」、「その作品をその時代の理想的 な風潮、ラテン的な近代性という風潮を反映させようとし」、最後に「あまりにも単調なヨーロッパ の合理主義建築」が「遅れて到達したイタリア人」からの「自由な知性という贈り物を待っている」

ことを彼等は理解しているだろうと述べ、欧州の合理主義の普遍的傾向に対する、イタリアの固有な 建築運動を主張した。そして、翌月に発表された

<

ラテン精神

>(Spirito latino)

17では、「地中海性」

(mediterraneità)

という言語を多用することになった18

 このように、ラーヴァは、イタリア合理主義に関する論を展開する中で、「地中海性」という表現 に辿り着く。そして、この言語に関して、後に

MIAR

Movimento Italiano per l’Architettura Razionale

、 合理主義のためのイタリアの運動)は、第二回イタリア合理主義建築展の報告書19の最後に「この建 築を

<

地中海性

>

と定義することができる、ラテン性という特徴を賞賛する傾向」と表現し20、また、

ミラノ、コモの建築家は、

33

年に建築誌

<

クァドランテ

>(Quadrante)

を創刊する際に、合理主義は「精 神において理解される古典主義、或いは地中海性」であると主張した21。さらに、

1933

年に第

4

CIAM

会議に出席したバルディは、「地中海性」という表現によって、イタリア合理主義者が信奉したル・

コルビュジェとファシズムを関連づけており22、そして、このようなイタリア合理主義者とバルディ による「地中海性」という言語の多義的な使用について、著述家の

E.

ペルシコは、

33

年と

34

年の論 文において、厳しく批判することになる23

 グループを離れたもう一人のメンバーは

A.

リベラ

(Adalberto Libera,1903-63)

である。彼はグルッポ

7

の結成当初のメンバーではなく、

U.

カスタニョリ

(Ubardo Castagnoli

、生没年不詳

)

の脱退後、

<

宣言文

>

が発表された後の

1927

年夏にグループに参加した。彼は

<

宣言文

>

のテーマに、芸術をカテゴリーに よって理論的に定義するという彼の試みを付加し24

<

芸術と合理主義

>(Arte e razionalismo)

と題する論 文を

1928

年に発表するが

(<

>

参照

)

25、ローマを活動の拠点とするためにグループから離れ、

28

3

月には第一回イタリア合理主義建築展を主催し、運動を全国的に拡大させることになった。リベラは、

このローマの建築展の開催の公式な承認を求める際に26、ファシズム体制という特有の社会情勢にお いて、各地域のグループが「ラテン的、イタリア的な伝統的芸術の固有の本質」

(essenza intrinseca dell’arte

tradizionale Latina e Italiana)

に相応する、ある一つの傾向を展開すると述べる。そしてその傾向は、全

ての文明世界に「功利的で合理的な深遠な精神

(spirito profondamente utilitario e razionale)

である建築作 品を据えたローマ帝国の、精神と不屈の権力と再び結びついた真の伝統から力を引き出そうとする」

と述べ、従って「イタリアの民衆は、ローマの民衆が世界の支配者であることを再び示すべきである」

と主張した27。さらにリベラは、合理主義建築展カタログに掲載された「展覧会序文」

(Introduzione

(3)

3-III

all’Esposizione)

において、合理主義運動を「建設的な潜在能力というローマの遺産を引き継ぐもので、

ローマ建築の本質的特性は、根本的に合理的、有益的、生産的なもの」と述べ、「ローマ」という表 現を繰返していた28

 このように、グルッポ

7

<

宣言文

>

において、欧州諸国の近代運動の移入を目指し29ながらも、新 しい建築を「イタリアの伝統との連続性を備えたもの」30と主張し、そして、ラーヴァとリベラもま た、合理主義をイタリア固有の建築運動であることを主張し、

<

宣言文

>

の後者の主張を強調した。し かし、ラーヴァはさらに、欧州の合理主義の普遍的傾向に対するイタリアの風土、民族に基づく創造 を唱えるために「ラテン精神」或いは「地中海性」という言語を用いて、そしてリベラは、第一回イ タリア合理主義建築展の開催に際して「ローマ」という言語を用いて、それぞれの主張を説明した。

 このように、

<

宣言文

>

発表以降のグルッポ

7

は、ラーヴァとリベラが脱退して合理主義に対して上 述のような主張を展開させたことで、グループとしてのまとまりを欠いたものとなる。しかしその一 方で、メンバーの個々の活動によって合理主義運動は全国規模で展開されるようになり、また、建築 誌、新聞紙上において、さらに議論されることになる。

3.1.2.  初期合理主義の活動及び、イタリア合理主義建築展と MIAR の活動について

20

年代後半から

30

年代初頭においては、イタリア合理主義者による実施作品の数は少なく、中規 模以上の実施作品の多くは新古典主義者、或いは伝統主義者によるものであった。この時期の代表的 な合理主義建築作品として、

G.

テッラーニのノヴォコムン

(Novocomun

1927-29

、コモ、

<

2>)

G.

パガーノと

G.

レーヴィ・モンタルチーニ

(Gino Levi Montalcini,1902-?)

のグァリーノ事務所

(Palazzo per gli

uffici Gualino,1928-29

、トリノ、

<

3>)

等が挙げられるが、これらの二作品は、完成当時論議を呼ん

だものである。また、彼等と年齢差があるが、

M.

トルッコ

(Matté Trucco,1869-1936)

のフィアット工場

(Fabbrica FIAT,1926-36

<

4>)

は、この時期のイタリアを代表する近代建築である。また、設計競技

に関しては、この時期の合理主義者は、都市計画設計競技において成果をあげることになる31。  展覧会に関しては、トリノの

1928

年の戦捷十周年記念展、或いは、ミラノ・トリエンナーレの前 身の、モンツァにおけるビエンナーレ

(

国際装飾芸術展、

Mostra internazionale delle arti decorativi)

が挙 げられるが、合理主義建築がそのテーマとなるのは、第一回イタリア合理主義建築展が最初である。

この展覧会の開催、そして

MIAR

の結成によって、合理主義運動の組織が確立し全国統一され、また その後の第二回イタリア合理主義建築展の開催に際し、国家の建築をテーマとした論争が開始される。

 ここで、第二回イタリア合理主義展開催までのファシスト国家と近代建築運動の関係をみるために、

まず政府が公認する文化機関の設立について、そして、

1926

年のミラノのノヴェチェント・イタリア ーノ展

(I Mostra del Novecento italiano)

及び

1931

1

月のローマの第一回国家芸術展

(I Esposizione

quadriennale d’arte nazionale a Roma

、以下

<

クァドリエンナーレ

>)

におけるムッソリーニの言説をとり あげ、さらに、第二回合理主義展に先立ってバルディが発表した論文及び、彼がその論文でピアチェ ンティーニを非難した背景となる、「ファシスト都市」

(città fascista)

と呼ばれるローマの都市改造に ついて検討する。また、建築に関するファシズムの概念については、「ファシズムは誰もが内部を見 ることができるガラスの家でなければならない」

(il fascismo è una casa di vetro in cui tutti possono

(4)

3-IV

guardare)

というムッソリーニの発言32に示され、このような透明性というファシズムの概念を、

G.

ッラーニ

(Giuseppe Terragni,1904-43)

はコモのカサ・デル・ファッショ

(Casa del fasio di Como,1928,1932- 36)

で実現したが、この作品に関しては、第

5

章で検討する。

 ファシスト政府は、その公認機関として、まず

1926

年に国家ファシスト文化協会を設立し、

27

年 に芸術に関する法律を制定し、また、

1926

年に制定されたイタリア・アカデミー

(Accademia d’Italia)

1929

年に活動を開始する33。そして、このような出来事は、ファシズムの文化的なアイデンティテ ィの探求、また、「精神的なもの」

(che è spirituale)

は全て「国家の、やはり精神的な、大きな領域に」

あるべきであるという、ジョヴァンニ・ジェンティーレ

(Giovanni Gentile)

の考えの確信を示すことで あると指摘される34。つまり、ファシスト政府は、文化、芸術活動がファシズムの精神の領域にある べきものとみなし、そのような機関を設立したと考えられる。

 ムッソリーニの芸術に関する発言は、

1926

年の第

1

回ノヴェチェント・イタリアーノ展35で示され た。イタリア合理主義よりも前にミラノで誕生した、この「ノヴェチェント」

(Novecento)

と呼ばれる 芸術運動の36展覧会を訪問したムッソリーニは、政治と芸術の間の関係等の演説を行った37。そして、

彼は、ノヴェチェントがファシズムと直接結びついた絵画であるとは言及しなかったが、「何が国家 の芸術になぞらえうるかということについて、私は長いこと考えてきた」と、「国家の芸術」への関 心を示した38

 また、

1931

年に

<

クァドリエンナーレ

>

39に出席したムッソリーニは、展覧会等における政府の援助 について、「必要で、目的があるのであれば、それほど重要ではない」が、「貴方は、しかしながら、

金額、大きさ以上に、インスピレーション、すなわち政治的な方針を考慮しなければならない」と述 べる40。このように、

<

ノヴェチェント・イタリアーノ

>

展、そして

<

クァドリエンナーレ

>

における発 言から、ムッソリーニは「国家が芸術をパトロナイズ」41することを意図するような、或いは国家が 芸術に支援する見返りに、ファシズムを支持、表現するような芸術を求めたことが推察される。

 そして

31

1

月末、バルディは

<

クァドリエンナーレ

>

でのムッソリーニの発言を受けて、「建築、

国家の芸術」

(Architettura, arte di Stato)

と題する論文を発表し、「私達の世代の建築家には、ムッソリ ーニの功績を示す任務」があると述べる。彼はまた、国家組織を再編する事業において、建築に関す る法律の監査が必要であり、建築委員会を代えて「都市計画的な一般概念と、ファシスト・イタリア の道徳的な選択の指標」を提供する中央組織の創設が必要であると主張した。さらに、「ファシスト

の調和「

(armonia fascista)

に達するためには、

18

世紀風の「リベラル」

(liberale)

な伝統の影響から自由

にし、建築を「国家の芸術」と定めることが必要であると述べ、ファシズムが示す国家の概念に合意 した個々の建築家の生命の中心となる、「新しいイタリアの芸術的意識」に余地を与えるため、国家 は監視し、介入すべきであると主張した42。チュッチは、このようなバルディの勧告を、建築だけで なく、先述の政府による公的な文化となるものへの管理、及び政府の公認機関43における、ファシズ ムが行う変更の、構成要素の一つとみる44

 この論文の発表後、ファシスト国家における建築を主題とした様々な論文が発表される45。また、

31

2

月、バルディはさらに、ローマの都市改造を批判し、建築がムッソリーニの「管理」

(cure)

を必 要とする芸術であると宣言した論文を発表する。

(5)

3-V

 首都ローマは大戦前までイタリアの都市の中で遅れをとっていたが、政権を獲得したムッソリーニ にとって、その都市は産業都市としてだけでなく、社会のあらゆるカテゴリーをもつ、均衡のとれた 都市のイメージ、そしてファシズムが政体によって調和を回復した国家の生命の中心であることを示 す、価値ある場所としてのイメージという信頼を高めることも必要だったとされる46。その後、ムッ ソリーニの承認の下でローマの都市計画を主題とした会議が行われた一方で47、当時のローマの有力 者であった

M.

ピアチェンティーニ

(Marcello Piacentini,1881-1960)

等が十分な計画を持たずにローマの 都市改造を行ったことが指摘される48。そして、ピアチェンティーニが主導するこの計画に関して、

バルディは第二回イタリア合理主義建築展開催前の

1931

2

月に「建築に関するムッソリーニへの

嘆願書」

(Petizione a Mussolini per l’architettura)

を発表49する。彼は「指導者へのこの嘆願書において、

建築が、第一の、そして彼の管理を必要とする芸術であると宣言しよう」50と述べて、ムッソリーニ に建築への関与を求め、さらに、

1

月の

<

クァドリエンナーレ

>

に出席した「ドゥーチェ」

(Duce)

を「一 つの様式を組織し、指示する人物のようである」51と述べる。そして、「ファシスト都市、ファシス トの都市計画、或いはファシストの理論的な体系は、道徳

(morale)

の介入を必要とする。全ては、建 築が賢明な専門家によって、厳格に管理され、検査されるべきことであり、また、厳しい検査は、イ タリアの道徳的改善のために、ムッソリーニが命じた概念の名において処理されるべきである、とい うことである。このような判断の支配下において、ローマの調整計画が見過ごされることがないと信 じよう」とローマの調整計画に言及し、さらに、その計画に携わった、

M.

ピアチェンティーニの無謀 さを「私達の情熱の結果のようには受け入れられない」と述べた52

 以上に示される背景によって、国家と建築の関係についての論争が第二回イタリア合理主義建築展 に先立って開始される。そして、このようなイタリア合理主義建築展に関するイタリア合理主義者の 活動の推移は、初期の合理主義運動の中で重要なものと考えられるため、第

4

章では、二回に亘るイ タリア合理主義建築展と

MIAR

の活動について、それらの経緯を明らかにし、さらに、第

5

章以降で 論じる、この展覧会後のイタリア北部を中心とした、合理主義者の主張、活動の変化の要因を明らか にする。

3.2. 1930 年代のイタリアにおける、北部を中心とした合理主義運動の特徴及び、P.M.バルディ、

E.ペルシコとの関係

3.2.1. 30 年代における、イタリア北部を中心とした合理主義運動について

MIAR

解散以降、イタリア合理主義者は各都市で個人、或いはグループごとに設計活動を進めるほ か、例えばピアチェンティーニ等と組んで、首都ローマ大学都市の建設に協同するものもいた53。ま た、彼等からの懐柔策により、建築論争における合理主義者の主張は、個々の立場によって異なるよ うになり、合理主義建築は、運動としての統一性を欠いたものとなる。

(6)

3-VI

 ところで、イタリア各都市における設計競技では、ローマ郊外の新都市、そして郵便局の設計競技 においてローマの合理主義者が54、また、フィレンツェ駅設計競技においてもトスカナ・グループが 勝利をおさめる一方で55、グルッポ

7

のメンバーが活動の場としたミラノ、或いはトリノ、コモ等、

イタリア北部を中心とした合理主義者が首都ローマにおいて勝利をおさめることは容易でなかった56。  しかし、

V.

グレゴッティはその著書で「ミラノは中央政府から遠いが故に近代建築にとっての闘争 の中心となった」と述べ57、また、

B.

ゼーヴィも『近代建築史』のイタリア建築に関する章で、建築 家

G.

テッラーニ、著述家で建築家

G.

パガーノ、著述家

E.

ペルシコという、イタリア北部を中心に活 動した人物について、それぞれ項をあげている。従って、

MIAR

解散以降のイタリア合理主義建築に 関する研究において、イタリア北部を中心とした合理主義運動を検討することは重要なことと考える。

 第

5

章では、

MIAR

解散以降の

30

年代のイタリア北部を中心とした合理主義運動に関して、まず その都市の文化、社会的背景を纏める。次に、

V.

グレゴッティが「近代建築が市民権を得るための闘 い」の場所としてとりあげた58、展覧会、設計競技、建築論争及び、その論争の場となった建築誌に おける、イタリア北部を中心とする合理主義の活動の経緯を明らかにして、その特徴を捉え、北部の 合理主義建築家と、第

6

章、第

7

章でとりあげる

P.M.

バルディ、

E.

ペルシコとの関係の背景とする。

3.2.2. P.M.バルディ、E.ペルシコのイタリア合理主義建築に関する活動について

 第

6

章、第

7

章では、第

5

章で検討したイタリア北部の合理主義建築者の活動を参考に、彼等に影 響を与えた、

P.M.

バルディ、

E.

ペルシコのイタリア合理主義建築に関する活動についてまとめる。著 述家で編集者のバルディは建築設計活動に携わることはなかったが、

<

第二回展

>

開催に中心となって 取り組んだだけでなく、その開催後に発表する論文でもイタリア合理主義者に影響を与え、また建築 誌

<

クァドランテ

> (Quadrante)

の監修者となって、ミラノ、コモの合理主義者とともに活動した。さら にバルディは、

33

年の第

4

CIAM(Congrès Internationaux d’Architecture Moderne

、以下

CIAM)

の参加 後に、ル・コルビュジェの「地中海性」に関する主張をもとに、彼を信奉するイタリア合理主義者達 の建築をファシズムと関連づける報告書を発表し、そして翌年、コルビュジェのイタリア講演の実現 に協力した。著述家

E.

ペルシコは、一時はバルディと共に画廊運営等に携わったが、その後はパガー ノと共に

<

カーザベッラ

>(Casabella)

の監修に携わりつつ当時の建築論争にも参入し、また

<

第二回展

>

以降は、バルディと

<

クァドランテ

>

に関わるイタリア合理主義者に対して厳しい批評を発表した。こ のように、イタリア北部を中心とする合理主義においては、建築家以外の人物もこの運動に非常に関 係しているため、彼等のイタリア合理主義建築に関する活動をみることは、その運動の思潮を理解す るために重要であると考える。

 第

6

章はバルディのイタリア合理主義に関する活動を明らかにし、また、第

7

章はペルシコのイタ リア建築に関する論文を読解、検討することで、イタリア北部を中心とした合理主義の運動の建築思 潮に対する理解を深めることを目的とする。

(7)

3-VII

<

参考文献>

1)Zevi,B.:Storia dell’Architettura Moderna,Einaudi,1950.

2)De Seta, C.:La cultura architettonica in Italia tra le due guerre,Bari,1972.

3)Patetta, L.:L’Architettura in Italia 1919-1943.Le polemiche,clup,1972.6.

4)Gregotti,V.:Milano e la cultura architettonica tra le due guerre,in Danesi,.S.and Patetta L.,Il razionalismo e l’architettura in Italia durante il fascismo,1976.

5)Ciucci, G., Dal Co, F.:Architettura italiana del’900, Electa,1990.

6)Ciucci,Giorgio:Gli architetti e il fascismo,Einaudi,1989.

7) Mariani,Riccardo:Razionalismo e Architettura Moderna;Edizioni Comunità,1989.

8)鵜沢 隆、イタリア合理主義の研究、日本建築学会大会学術講演梗概集、pp.2801-2802、昭和589

9)鵜沢 隆、イタリア合理主義の研究 4、日本建築学会大会学術講演梗概集、pp.1019-1020、昭和6210

10)鵜沢 隆、モダニズムとファシズム-イタリア合理主義建築運動とリットリオ宮の軌跡、日伊文化研究、pp.48- 59、平成63

11)赤堀 忍、鹿野 正樹他、ジュゼッペ・テッラーニ、FH Represent,1998

12)鵜沢 隆他15名、ジュゼッペ・テッラーニ、INAX出版、1998

13)近代建築史資料、pp.52-68SD7903,鹿島出版会、19793

14)イタリア合理主義建築、pp.21-72、SD8306、鹿島出版会、19836

15)Etlin,R.:Modernism in Italian Architecture,1890-1940,The MIT press,1991.

16)Libera,A.:La mia esperienza di architetto,La Casa,no.6,pp.171-175,1959.6.

       

1 L.フィジーニ(Luigi Figini,1903-84)、G.フレッテ(Guido Frette、生没年不詳)、C.E.ラーヴァ(Carlo Enrico Rava,1903-85)、S.ラルコ (Sebastiano Larco、生没年不詳)、P.ポッリーニ(Gino Pollini,1906-91)、G.テッラーニ(Giuseppe Terragni,1904- 43)、U.カスタニョー リ(Ubardo Castagnoli、生没年不詳)で結成。

2 Gruppo7:Architettura,Rassegna Italiana、pp.849-854,1926.12、Gli stranieri,Ibid.、 pp.129-137,1927.2、Impreparazione,incomprensione, pregiudizi,Ibid.、pp.247-252, 1927.3、Una nuova epoca arcaica,Ibid.、pp.467-472,1927.5。<Gli stranieri>以外の和訳は参考文献10)に 掲載。

3この4論文をイタリア合理主義の発端と見なす文献に、参考文献1)、pp.231-233、参考文献2)、pp.124-133、参考文献3)、p.27、

参考文献4)、p.18等が挙げられる。またこの宣言以前にも「合理主義」表現がみられ、様々な「合理的」建築が実現したとR.

エトリン(Richard Etlin)は指摘する。参考文献15)。和文献では、参考文献13) 、p.53、Irace.F.:悪魔の躓き;30年代イタリア建築 の概観、a+u、p.12,8207,19827月、八束 はじめ:参考文献14)、pp.6-7、pp.25-29、参考文献11)、p.39等に記述される。研 究論文では参考文献8)、参考文献9)等がある。

4参考文献9)、p.1019。

5参考文献9)

6 Gruppo 7:La nostra inchiesta sull’Edilizia Nazionale,Il Popolo d’Italia,1930.3.30

7このことはA.サルトリスも言及している。サルトリス、アルベルト:ジュゼッペ・テッラーニの実像、参考文献12)、p.11

8ラーヴァは、<宣言文>に影響を与えたと指摘されるル・コルビュジェの著作『建築をめざして』(Le Corbusier,Ver une

architecture,1923)を最初に教室に携えた人物とされる。鵜沢隆、ファシズムを駆けぬけた建築、参考文献12)、p.117。またラー

ヴァは、A.サルトリスとともに28年の第1回近代建築国際会議(Congrès Internationaux d’Architecture Moderne,CIAM)に参加した。

9 1931216日付。その内容から、この手紙は、バルディがラーヴァに「合理主義」について問い合わせた回答と推測され

るが、マリアーニは「恐らく次の展覧会(第二回イタリア合理主義展-筆者註)の文脈で、<宣言文>を用いる為」に2月上旬に ラーヴァに尋ねたのだろうと述べている。参考文献7)、p.99

10手紙では、彼の署名による論文が19282月号の<ラッセーニャ・イタリアーナ>(Rassegna Italiana)に発表されたことも述べ られている。「合理的」(razionale)という言葉を創案した人物に関しては様々な説がある。例えば、ベッリは、1926年春にサル トリスがラーヴァと最初に創案したと述べており、ラーヴァは、グルッポ7を結成した彼自身が最初に合理主義の概念を紹介 したと主張し、また、テッラーニも、1942124日付のズッコリ(Luigi Zuccoli)に宛てたロシア戦線から手紙で、「僭越なが ら、はるか以前の1926年に、 グルッポ7 の戦いの旗印として私が選んだ 合理的 (という言葉)の決定.」と記してい る。参考文献6)、pp.69-70、note参照。

(8)

3-VIII

       

11ラーヴァによれば、彼は「純粋主義言語学的で非妥協的な合理主義」(razionalismo purista e intransigente)から、「植民地の近代 化の研究」(ricerca di un’ambientazione modernamente coloniale)、そして「想像力の完全なる自由と、反ノヴェチェント的な基盤 による、地中海の、つまり本質的にイタリアの合理主義の創造という近代性」(piena libertà di fantasia e modernità di creazione sulla base antinovecentistica di un razionalismo moditerraneo e quindi essenzialmente italico)へと考えが変化したことを述べている。

Lava,Carlo Enrico:Premessa a Nove anni di architettura vissuta 1926 IV-1935XIII,Roma 1935、参考文献6)、p.100。彼はグルッポ7 メンバーであったラルコと共に、ホムスのホテル(1928-29)、ポルトフィーノのヴィッラ(1933-34)等の建築作品を発表した。

12手紙では「貴方はイタリア合理主義に関する今日の私の見解を理解するだろう。特に、その合理主義においては、貴方(バ ルディ)が宣言するのに望ましい 地中海性 という傾向を。多くの堕落した合理主義者に、私達の民族性の特徴となるラテ ン精神があり続けることが必要である」(Ella potrà trovare il mio pensiero d’oggi sul razionalismo italiano, e su quella particolare tendenza “mediterranea” che è auspicabile si manifesti-Bisogna che nei troppi razionalisti svolti, rimasca lo spirito latino che distingue la

nostra razza.)と記している。また、その手紙によると、ラーヴァはこの時、<ドムス>(Domus)の編集長G.ポンティからの、同誌

の合理主義に関する論題の編集の依頼を引き受け、既に311月号と2月号に論文を発表していた。また、G.ポンティはラー ヴァを「イタリアにおける合理主義の発起人として」その編集を要請したとされ、マリアーニはこのことを強調する。参考文 7)、p.99

13 Rassegna italiana、1928.2.

14原文は「programma culturale del Fascismo」と記される。

15チュッチはさらに、ラーヴァの「帝国主義を伴う伝統主義者の建築は、共産主義を伴う合理主義者の建築と同じ関係である」

(ha con l’imoerialismo, esattamente altrettanto a che vedere, quanto col comunismo l’architettura razionalista)という文節を引用する。参 考文献6)、pp.112-113。

16 Domus、1931.1。「欧州合理主義に直面したイタリアの状況」(Situazione dell’Italia di fronte al razionalismo europeo)がその一連の 論文のテーマであった。ラーヴァは、その手紙に記されるように、19311月から11月に<ドムス>(Domus)誌に携わった。

17 Domus、1931.2.

18ラーヴァが、アメリカの建築作品にまで「地中海性」という言葉を用いて論じたことを、ペルシコは1934年の論文に指摘し、

さらに、ラーヴァが<ドムス>誌上の連載<合理主義の展望>(Panorama del razionalismo)を近代的植民地の建築を要請して終えた ことを述べ、彼の主張が欧州主義から「地中海性」という言語の浸透へと政治性を帯びることに対して批判する。つまり、ラ ーヴァのヨーロッパへ向けられた視点が、「地中海性」という言語によってイタリア国内に向けられ、彼の論が国家、政治を意 識する内容に変化することに対する批判である。Persico,Edoardo:Punto e da capo per l’architettura,Domus,pp.2-3,1934.11。この論文 に関しては、第7章で検討する。

19 La Casa Bella、1931.4。しかし、ラーヴァはこの第二回イタリア合理主義建築展には参加しなかった(第一回には参加する)。

20原文では「E’ sopratutto doveroso riconoscere come si accentua sempre più la tendenza ad esaltare quel carattere di latinità, che ha permesso a questa architettura di definirsi come <mediterraneità>」と記されている。

21 Un programma d’architettura,Quadrante、1933.5。この<建築のプログラム>は9章からなり、その第6章に「イタリア合理主義 の傾向の特徴を明らかにすること。古典主義や地中海主義であるという確信-精神において理解されるものであり、形態や民俗 的なものにおいて理解されるものではない-北方主義、バロック主義、あるいはヨーロッパの新しい建築の一部であるロマン主 義の不当な行為に対立するものである」(Precisazione dei caratteri della tendenza razionalista italiana. Affermazione di classicismo e di mediterraneità –intesi nello spirito, e non nelle forme o nel folklore-,in contrasto col nordismo, col barocchismo o coll’arbitorio romantico di una parte della nuova architettura europea.)と記される。この論文を署名した建築家(P.Bottoni,M.Cereghini,L.Figini,G.Frette,E.A.Griffini, P.Lingeri,G.Pollini, G.L.Banfi, LB.di Belgiojoso,E.Peresutti,E.N.Rogers)の中には、グルッポ7のメンバーだったL.フィジーニ、G.フ レッテ、G.ポッリーニの名があり、また、G.テッラーニがこの建築誌創刊を提案した人物であることが、バルディからテッラ ーニへの手紙で明らかにされる。第6章参照。

22バルディとコルビュジェの関係については第6章でとりあげる。

23ペルシコのイタリア合理主義に関する批評については、第7章でとりあげる。

24参考文献6)、pp.72-73

25 Rassegna italiana、pp.232-236,1928.3。この論文に関しては、第4章、註12参照。

26ファシスト建築家協会総書記長カルツァ・ビーニに宛ての申請書に添付された計画書で示された。参考文献7)、pp.92-93。

27 Ibid.。リベラはさらに、装飾主義的な外面を放棄するべきであると主張しているが、その主張は、ローマ帝国時代の建築が

「功利的で合理的な深遠な精神」に基づいたものであるという前の文節に導かれたものであろう。チュッチは、ローマは、大 戦前までイタリアの中で遅れをとっており、この「ローマ性」という言葉は、その後、急激な発展によって抑制できない程混 乱した都市ローマの現状に対比させるための、ファシズムによるレトリックであると指摘する。参考文献6)、pp.78-80。

28展覧会カタログの内容に関しては、6.1.3.で検討する。また、このような合理主義の主張に対して、M.ピアチェンティーニ (Marcello Piacentini, 1881-1960)は、彼等の議論に欠けているのは「環境主義と合理主義、ナショナリズムとインターナショナリ ズムとの間の関係」であるとして、「民族」の建築、あるいは環境や伝統と結びついた建築とインターナショナルな建築との比 較を問題にすべきであるとし、住宅と経済的な建築のための「合理主義」と、民族の歴史や伝統と結びついたモニュメンタル な建築との区別を主張したことを鵜沢は指摘する。参考文献9)、p.1020

(9)

3-IX

       

29参考文献8)、p.2801

30鵜沢による指摘。参考文献8)、p.2802

31例えば「アレッツォ都市調整計画」(1929)、「ボルツァーノ都市調整計画」(1930)を鵜沢はとりあげる。鵜沢隆:イタリア合理 主義の研究 3、日本建築学会大会学術講演梗概集、pp.947-948、昭和618月。

32 Quadrante,no.35/36,p.6,1936.10

33さらに、1926年にイタリア百科事典を作成する機関が創設され、1929年から百科事典を発行し、1925年にジャーナリスト 協会、1928年に関係名簿が創設されたことをチュッチは示す。参考文献6)、p.109。ファシスト建築家協会が設立された年は不 明だが、1922年にA.カルツァ・ビーニ(Alberto Carza Bini)がその書記長に選出されたことをマリアーニは記す。参考文献7)、

pp.342-343

34参考文献6)、p.109。

35この展覧会は、1926214日、ミラノのペルマネンテ館で開催された。

36 A.ブッチ(A.Bucci)によって命名された。この運動の共通の目的は、伝統的であると同時に近代的であるイタリア芸術のプロ

グラムとされる。参考文献4)、p.16。代表作品として、G.デ・フィネッティ(Giuseppe De Finetti、1892-1952)のミラノのメリデ ィアーナの家が挙げられる。またこの運動は、後にミラノの建築誌<クァドランテ>の監修者となるM.ボンテンペッリ(Massimo

Bontempelli)が、1926年秋にローマで発行した文芸誌<900>とは異なる運動であることをチュッチは述べる。参考文献6)、pp.65-69。

この運動とミラノの合理主義運動との関係については第5章で述べる。

37そのテーマは「政治は芸術である」(politica è arte)とされるが、後者(芸術)に関する前者(政治)の条件を定めて主題にふれるこ とはなかったとされる。参考文献6)、p.66

38参考文献10)、pp.49-50。また、ムッソリーニは、1923年のミラノ、マンゾーニ通りのガッレリア・ペーザロにおけるノヴェ

チェント絵画展に訪問した際も、同様の態度であったとされる。参考文献6)、p.66。このような状況の中で、グルッポ7は体 制の建築家となるために、その論文、論争において曖昧さの構造をもったという指摘も見られる。参考文献14)、p.26

39 193113日にローマで開催された。

40参考文献6)、p.108

41参考文献10)、p.50

42参考文献6)、P.109

43国家ファシスト文化協会等の、ファシスト政府の公認機関を示す。

44 Ibid.

45例えば、Terragni,Giuseppe:Architettura di Stato?,L’Ambrosiano,1931.2.11,Tre lettere sull’architettura,L’Ambrosiano,1931.2.26, Bardi,Pietro Maria:Architettura di Stato e confusioni futuriste,1931.2.19,Fillia:Architettura di Stato,L’Ambrosiano,1931.2.16等。

46参考文献6)、pp.79-80

47 1928422日から25日に行われた。参考文献6)、p.96

48参考文献14)、p.62。ゼーヴィは「イタリアの悲劇は建築上のそれではなくて都市計画上のものである。・・ローマにおいて

は十の近代建築に対して1931年の調整計画、狂乱した切開手術、部落や村の殺りく、そしてコンチリアツィオーネ通りのスキ ャンダルがある」と批判しているが(参考文献1))、グレゴッティは、その「コンチリアツィオーネ通りのスキャンダル」に関 して、ルネサンス期の巨匠によって形成された街区が、討論、計画図もなしに取り壊されたこと、そしてピアチェンティーニ とスパッカレッリがその実行図を作成したことを明らかにしている。グレゴッティ・ヴィットリオ:イタリアの現代建築、松 井宏方訳、SD選書、pp.44-45、1979年(原著:Gregotti,Vittorio:New directions in Italian architecture,George Braziller,Inc. 1968、伊 語版:Orientamenti Nuovi nell’Architettura Italiana,Electa Editore,1969)

49 L’Ambrosiano,1931.2.14

50原文では「…all’archiettura, che proclamiano ancora, in questa petizione al Capo, come l’arte principe, bisognosa delle sue cure」と記 される。

51原文では「Duce appariva come l’ordinatore e l’indicatore d’uno stile」と記される。

52この論文は、第二回イタリア合理主義建築展のカタログとなる<ラ・カーザ・ベッラ>19314月号に掲載される。

53 P.アスキエリ(Pietro Aschieri)、G.カッポーニ(Giuseppe Capponi)、G.ミンヌッチ(Gaetano Minnucchi)、G.パガーノ(Giuseppe Pogatchnig Pagano)、G.ミケルッチ(Giovanni Michelucci)、G.ポンティ(Giovanni Ponti)が挙げられる。

54例えばローマ中部ラツィオ地方新都市競技設計の一つ、サバウディア新都市計画でG.カンチェロッティ(Gino Cancellotti)、E.

モントゥオーリ(Eugenio Montuori)、L.ピッチナート(Luigi Piccinato)、A.スカルツェッリ(Alfredo Scalpelli)のグループが優勝し、

またローマの郵便局の設計競技では実現した三作品が合理主義者A.リベラ、M.リドルフィ(Mario Ridolfi)、G.サモナ(Giuseppe Samonà)によるものであった。

55 G.ミケルッチ、P.N.ベラルディ(Pier Niccolò Berardi)、I.ガンベリーニ(Italo Gamberini)、S.グァルニェーリ(Saare Guarnieri)、L.

ルザンナ(Leonardo Lusanna)で構成された。

56 E42では、G.パガーノとL.ヴィエッティ(Luigi Vietti)がピアチェンティーニとともに、その全体計画に携わり、G.ポッリーニ(Gino

Pollini)、L.フィジーニ(Luigi Figini)がM.デ・レンツィ(Mario De Renzi)と組んで前軍隊会館(現国立古文書館)設計競技で勝利をお

さめるが、G.テッラーニ等のEUR会議場、BBPR或いはF.アルビーニ(Franco Albini)のイタリア文明会館は敗北する。

(10)

3-X

       

57グレゴッティ・ヴィットリオ:イタリアの現代建築、松井宏方訳、SD選書、p.30、1979

58 Ibid.,pp.33-35

参照

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