インドシナの中世史と対外交渉史
重 藤 威 夫
四
五 六 七
目
門
先一史 時 代 中 世 の 安南 史 近世の山南史と対外交渉史
安南とフランスの外交々渉史(第一回仏・安条約)
第二回仏・安条約 第三回仏・安条約 第四骨仏・安条約
一 先 史時代
インド・シナにおいても世界のいたるところの古代民族の間でみられる巨石文化時代
(megalithic age)があった。高地ラオス州サム。ニューア町からムオン・スイまでの道 路に残っているメンヒール(menhirs)は,おそらく墓石であろう。またチャン・ニン高 原の段々に死体を埋葬したと思われる石臼が数十個残って居り・フランス学者はこれを「
かめが原」 (Plaine des Jarres)と呼んでいる。これもメンヒールである。1928年交趾 支那の安南近くの高原地の一村シャン・ロックで発堀された巨大なドルメンは(dolmen)
酋長の死体を葬った墓である。
ドルメンは巨大な平面の石を石柱をたて,積重ねて岩屋状をなした、ものである。世界中 いたるところに見られる。我国でも諸所にあり,長崎県の島原半島の湯江村の南西部にあ る俗称鬼の岩屋もドルメンの一種である。英国の南部地方ウイルトシャーのサリスベリー 平原の世界的に有名なstone−henge もドルメンである。フランスではドルメンは中南部
に多く見られる。南フランスの巨石文化は,イベリア半島のそれの変形と見られ,地中海 人種の一派,イベリア人と関連があるとされている。イベリア人がイベリア半島から南フ ランス地方の巨石,新石器文化の担い手であるとして,その繁栄した時代は紀元前3千年 紀から2千年紀にわたると見られる。
(1)
メンヒールは,高さ20米位の巨大な石柱群で,一列にならんだり,或は円形にならんで いる。フランスのブルターニュ地方に多く見られる。メンヒールの意義については,まだ はっきりしたことはわかっていない。
現在インド。シナの主要な民族を構成する安南人,カンボジア人,ラオス人は人類学上
蒙古系泰人と呼ばれている。彼等はそれぞれ移住の時代を異にするが,何れも寒冷な北方 から温暖な南方へ移動してきた民族である。彼等の祖先は,・世界の屋根,チベット高原酎 近から出たアノリア人である。彼等は海抜4千米のチベット高原から,各種の山脈が南方 へ扇子の骨のように派生して連っている重畳たる山岳の谷間を流れるメコン河,ソンコイ 河の大河に沿って,数万年の昔から,南へ移動してきた民族である。彼等が峡谷を抜け,
メコン河のデルタ地帯に出て来た時には,すでにその平原には多く.の大洋州系民族が占拠 していた。
一 メラネシア人……超特長頭頗,即ち高山頗,水平曲線楕円形の頭蓋骨をもつ人種及び 濠州土人6メラネシア人は現在パプア島と〆ラネシア諸島にだけ住んでいる。濠州土人 はメラネシア人と同一頭蓋骨をもつが頬骨が少し突出している。何れも皮膚は黒色であ
る。
ニ ネグリット人(倭心黒奴)……短頭顧,黒人のうち,短頭の頭蓋骨をもつ唯一の人類。
大陸ではマレー半島のサカイ族としてのみ現在する。
三 インドネシア人一長頭顧,水平輪廓五辺形の頭葦骨を有す。頬骨突出し,顔短し。
現在もインド・シナ安南山系中に居住している。モイ族と称され,年中半裸体で,皮膚 は赤褐色である。
右の大洋系人種がインド・シナに住んでいたことは,人類の発生期と言われている第四 紀層の上層から発堀された石器と人間の頭蓋骨によって,推定される。旧石器である削道 具や投石は,メラネシア人と見られる頭蓋骨と同一地層にある。 トンキン州でメラネシア 人の頭蓋骨2,安南州で同じく1,安南州でネグリット人心の頭蓋骨1が旧石器と共に発
堀された。
インド・シナの最初の先住民族はメラネシア人と考えられるが,現在彼等は居住してい ない。ネグリット人は安南州の申央部に住んでいたと考えられるが,現在はマレー半島の サカイ族以外には見当らない。新石器即ち,磨いた石器と共にインドネシア人の頭蓋骨が,
旧石器を発堀した地層の上層部で発見された。またその地層で蒙古系泰人の短頭顧で頬骨 の突出した頭蓋骨とインドネシア人の頭蓋骨,またそれらと共に一層進歩した石器,貝器,
銅がインド・シナの各地で発堀された。おそらくインドシナ人はメラネシア人とネグリッ ト人を駆雨湿は同化して,インド・シナを占領したが,後代において南下した蒙古系泰人 との戦に破れ,先づ南部地帯に退き,後では山間に遁走したものであろう。インドネシア 人は現在モイ族と呼ばれ,洞南山系の奥地の山林地方を焼畑民族として,焼林耕田(Ray)
や狩猟をなして生活しながら,放浪生活をしている。
(2)
二 中世の安南史
支那人が侵入して来るまでは,安南人は極東の遊牧民族の一つにすぎなかった。彼等の
祖先はチベットから来たといわれている。現在まで残っているこの時代の口碑,伝説によ
れば,山南人は固有の言語と固有の諸儀式や迷信をもっていた。彼等は東部は海に面し,
南部と西部とは同じ程度の文明をもった異民族に接していた。従って,北方の民族から征 服され或はその文化の影響を受けるにすぎなかった。
安南人1ま遊牧生活の名残を森林地帯と山岳地帯に残しているにすぎない。デルタ地帯で は,支那人の肉体的及び精神的支配の下に,農民として定住した。支那人にとってはこの 漂泊民族を支配し教化するためには,多大の軍事力を必要とした。他方,安南人にとって は,はるかに高度の秩序と文化をもつ国民に従属することはむしろ有益であった。支那人 の侵略は西紀前213年頃に始められ,この侵略時代が終ったのは西紀186年である。この 時以来,安南の精神的な支配即ち平安化された南部(二二)が怠った。最初の間,支那人 は植民地化の計画をもたなかった。 しかし2世紀以来,彼等がジヤオ。チと呼んで蔑視し ていた安気人を同化するためにあらゆる最善の方法を用いた。四百年にわたる支配の結果 沼南人は固有の文化を失い,支那文化を全面的に採用した。
第7世紀に安南国の南部の辺境はチャム族(cham)の侵略をうけた。支那は自国内の 戦乱のために,その服属国である函南を助けることができなかった。しかし漏出人は有能 な民族であって,チャム族を撃退しただけでなく,931年には支那の支配から独立した。
チャム族は滅亡され,山岳地方に退却した。それ以後は支那の政治的支配は終ったわけ であるが,500年後に,1414年から28年までの14年間にわたって,支那は再び安南を支配
した。国民としても或は個人としても,安倉人の生活の中には,最初の征服によって植付 られた支那文化の消すことのできない影響が現代にいたるまで残存している。
チャム族を征服したことは,安尋人の南部地方への侵略の第一歩にすぎなかった。それ はその後1千年間にわたって法面人の発展の方向を特徴づけたものであった。安比人の南 方進出に伴って,その国境は拡大され,昔からあったチャンパ(champa)王国は滅亡し た。チャンパ王国の遺蹟は,わずかに美麗な建築として残されているにすぎない。安南人の 征服のやり方は破壊あるのみで,その後は廃塘を残すにすぎなかった。支那人と異って,
安二人は被征服民族を教化したり,同化したりすることをやらず,山岳地帯に追込んだ。
被征服民族の少数の者が,彼等の間に残存した。被征服民族を追払うことによって,彼等 の手に入った土地を,彼等自身の農業植民地とした。それと同様な征服方法は,後代にお いて彼等がクメール民族(:Khmers)やラオス民族(:Laotians)と戦った時にも用いられ た。支那人による再征服も,安二人の間における内乱続きもこの南下の大勢を阻止するこ
とはできなかった。
三 近世の安南史と対外交渉史
近世における安南の歴史は,王朝間の勢力争に満たされている。16世紀の愚心までに,
レー(黎)王朝の統治は衰退した。その後安南の統治権は3大勢力家の間で争われた。数
世紀の間彼等の間で争覇戦が繰返され,名目だけの王権が存在したこともあった。17世紀
にマック王朝が一時的に支配したこともあったが,約100年を経て勃発した反乱のために 滅亡した。レー(黎)王朝とマック(莫)王朝間の争覇戦は,西洋ではフランク王国時代 に,メロウイング王朝(Merovingians)と宮廷の高官達との間で行われた争論によく似 ている。次に比較史の立場から,有意義であるので,メロウイング王朝時代のフランク王 国について略説する。東・西脇洋の歴史を比較して知りうることは,中世初期にあっては 欧州及び東洋諸国では,小国分立して互に滋雨と侵略を絶えずつづけて来たということで ある。この時代の安南の歴史とフランク王国の歴史は,中世初期の時代的特色を最もよく あらわしている。
ゲルマン人の一種族であるフランク族は,ライン右岸の本拠地から北ガリアに進出して,
五世紀の中頃にはその支配地域は,ライン河や特にその中・下流の流域を中心として左右 に広くひろがっていた。しかしまだ統一王国を形成せず,数個の小王国に分れていた。そ の中でサリ支族の停泊ウィング家の王国が最も勢力があり,その王メーロヴエヒは,(Me rovech, M6rov6e)フン王アッテイラが敗走するときその追撃戦に参加した。フン族の英 雄アッテイラ(Attila) (433−53)は,ドナウ河の中流域に本拠をおき,ゲルマンとロー マをともに圧迫しっっ勢力をひろげた。アッテイラは更に451年に東北ガリアに侵入し,
オルレアンまで進出したが,ローマの将軍アエテイウスAetius(454没)の指揮する西ロ ーマ。西ゴート。フランク(サリ族)の連合軍は,アッテイラと戦って勝利を収め,敗走 する彼を追ってマウリアクスの野(トロア市の近傍)で大打撃を与えた。
メロウイグ王国はトウールネー(フランドル東部)を首都としていたが,この王国のほ かに,ケルン,カンブレーなどの小王国があった。ク八一ダイスClovis(481−51Dはこ れらの諸王国を血眼して,フランク族を統一した。彼は481年から511年忌で,メロウイン グ朝のフランク王国の王位にあった。シルデリク一世の子で,父のあとをつぎ16才で即位 した。486年には,ガリアのソアツソンで,シアグリウスが率いているローマ軍を撃破し その領土を占領した。更に496年頃にアレマン族を撃破した。507年には西ゴート族と戦 って,西ゴート王国の大部分(アキテーヌ)を占領した。都をソアッソンからパリに移し た。彼は妻クロテイルドの感化によりキリスト教に改宗し,パリに聖アポストル聖堂を建 立した。これは後の聖ジユヌヴイエーブ教会として知られているものである。ローマ文化
を移入し,フランク王国の文化の発展に貢献した。
3世紀以後になるとガリア地方においてキリスト教は急速に普及した。ローマのテオド シウス1世(346−395)が392年にキリスト教を国教化することによって,ヨーロッパに おけるキリスト教の普及は決定的になった。それに伴って,聖職者(司教)地位の向上に より,俗人の貴族であった大土地所有者が司教になる場合が生じた。各都市の中心教会の 司教の地位は次第にこれらの俗人貴族によって占められるようになった。民族移動期に従 来の参事会員に代って,市民の保護に当ったのは,かかる司教たちで,このことはガロ。
ローマンに於ける彼等の勢力を大ならしめた。しかも他のゲルマン征服諸部族が少数派(異
端者)のアリウス派に帰して,正統派の被支配民との争が絶えなかったのに対して,クロ ーヴイスが正統派キリスト教を採用したことは,フランク王国の発展によい影響を与えた。
(3)
フランク人の間には財産を諸子の間に均分相続する慣行があり,王国の統治にもその原 則が採用されて,クローヴイスの死後,王国はその4人の子に分割された。4王国は互に 争ったが,対外的には共同一致して戦い,ゲルマン部族の国家,チューリンゲンとアレマ
ンを征服した。また534年にはブルグンド王国を亡ぼし,西ゴ」トを更に圧迫して,ガリ アの大部分をフランク王国の領土とした。4王国は558年には再統一されたが,その後上 に相続により561年には3王国に分割された。その後は長期にわたって3王国間の抗争が つづき,613年に統一を回復した。 しかし長期にわたる王族間の争は,高官等大土地所有 者に漁父の利を与える結果となった。ダゴベルト1世(622−38)は王権の強化につとめ たが,その死後は,メロウイング王朝の勢力は全く衰え,各分邦の宮宰(宮内長官。宰相)
が支配権を揮らすようになった。
(4)
安直初期の王朝の対立抗争は,レー王朝とマック王朝との聞で行われたが,レー王朝だ けが復活する力を持っていた。現代にいたるまで,レー王朝の名は,昔の英国のスチュア ート王家の名のように,北方における反乱者の盛りかえしてくる雄叫びρような響を与え る。一般的に言って,マック王朝は支那人の援助に依存して居ったし, レー王朝は一般民 衆の支持に依存していた。この北方における争斗劇は,17。8世紀に入ると衰えた。その 後は交趾支那のニユエン(院Nguyen)王朝とトンキンのトラン(陳Tran, Trin)王朝
との間で破壊的な抗争が行われた。ニュエン王明はポルトガル人によって,多大の援助が 与えられたが,このことによって次の数世紀における血なまぐさい斗出に終止符が打たれ たわけではなかった。事実において,交趾支那の国王ニュエン・アンは18世紀の末弟・タ イ国に亡命した。しかしポルトガル人の出現は,安南の歴史に新しい要素即ち,ヨーロッ パ帝国主義の登場を意味した。
アラビア人が東洋に行く海路を押えている間に,欧州人は時々陸路によって東洋へ到達 することに成功した。その中で最も有名なのはマルコ・ボーロである。彼はチヤンパとア ンナムについて書いているが,彼自らその両国に行ったわけではなかった。ポルトガル人 が安南沿岸及び内陸のカンボジヤと貿易を始めたのは,15世紀以後である。メコン河口で
ポルトガルの有名な貿易船が難破したこともあった。ポルトガルの宣教師達が,1570年に アンコール・ワヅトを探険した。しかしその発見は,その黙約300年間忘却されてしまっ て,熱帯のジャングルの中に埋没されていた。19世紀に入って,フランスの一探険家によ
って,偶然にその世界史的な大遺蹟が,ジャングルの中から発見された。ポルトガル人は
国家としてインド。シナと交渉したわけではなかった。軍人や宣教師達が近くにあるマカ
オから自由に渡って来た。それはスペインの宣教師や探険家達がマニラから渡来してきた
のと同様であった。現在では300年間にわたって,カンボジや人と混血した結果,初期に
渡来したポルトガル人の子孫達は,その名前や慣習や宗教を維持しているにすぎない。
17世紀の初期に,安虚心は短期間であったが,外国貿易に従事した。プアイ・ホー(会 安)港で支那人及び日本人と貿易を行った。この港はユエ(順化)の南方にあって,イン ド。シナの東部海岸の中央に位する位置にある。ポルトガル人が最初の貿易船団を送った のはフアイ。ホーである。オランダ東印度会社はかなりおくれて1602年に創立されたが,
これはポルトガル入と日本人にとってはおそるべき強敵の出現であった。「やがて間もなく オランダ東印度会社によって,これらの二勢力はインド・シナから二品された。オランダ 人はインド・シナの南北闘争に際して,次第に北部のトンキン人に味方するようになった。
従って,その対抗上ポルトガル人はグエン王朝を支持した。しかしこのことは欧州人にと って利益にはならなかった。カンボジャでは,ポルトガル人によって,オランダ人はひど い迫害を受けた。その当時少数のオランダ人がクメール王朝の宮廷に仕えていたが,彼等 はポルトガル人のざん言によって,クメール王朝の手によって殺害された。バタヴイアの 総督はこの殺害事件に対して,賠償金をとることには成功したが,貿易財の特権をうるに いたらなかった。欧州諸国は,クメール王朝では重要な役割を演ずることができなかった。
何となればカンボジヤはたえず隣…国のシャムや安心との戦争に没頭していたからである。
英国人はこの時代にはオランダ人とポルトガル人に比べると勢力は弱かったが,東洋に 対する貿易を求めていた。1613年にプアイ・ホーで英国商人が殺害されたことは幸先のよ いものではなかった。またトンキンで彼等が築いた勢力は大したものではなかった。安南 の官僚は貧欲であって,外国商人の商品を遠慮なく没収したり,買入値段を勝手にきめた りするので,英国人はオランダ人より3年早く,1697年にはトンキンから退去しなければ ならなくなった。英国人は1702年前その根拠地をプロ・コンドール島(インド・シナ南方 海上の島)に移そうと試みたが,同様に失敗に終った。すべての欧州国民は安南との貿易 の可能性を認めていたが,官僚による搾取,住民の購買力の貧弱,たえぎる内乱,欧州商 人相互の間の排他感情等によって,その貿易は不利益となり,危険な冒険事業にすぎなく
なった。インド,支那,ジャワは色々の障害はあったが,それよりもはるかに大きな利益 があった。
フランス入はオランダ人とポルトガル人よりもはるかにおくれて,インド。シナに渡来 した。最初宣教師だけが渡来し,彼等はポルトガルやイタリーのジェスイット教団の宣教 師達が築いていた基礎の上に立って伝道した。ポルトガルやイタリーの宣教師達は,日本 から追放されて,インド・シナに来た人々である。これらのジェスイット教団の宣教師は,
1608年にフアイ・ホーに伝道所を設立し,後でトンキンにも進出した。しかし彼等はトン
キンでは20年後にトリン・トラン皇帝によって,追放される憂目に会らた。その当時追放
された宣教師の中には有名なアレキサンドル。ド・ロード(Alexandre de Rhodes)神父
が居った。彼は1625年から30年まで又1640年から45年までマカオから安南に渡り伝道に従
事した。彼は最初の安南研究家であり,原住民の神父達を養成した。 ロードは語学の才に
秀で,安南語に熟達して,これをローマ綴とした。後日,フランスが仏領印度支那を建設
してから,このローマ字綴の訳出語が,現代のインド・シナで,仏印総督府が公認する国 語になったq安南人の新聞・雑誌その他すべての出版物,文書用字としてこれが使用され るようになった。安心の小学校其の他すべての教育機関でもローマ字綴の二二語が教えら れ,昔の漢字の使用は廃止された。従って,現在70才以下の住民はこれを使用し,70才以 上の老人だけが漢字を使用している。この点に新旧文化の相違が,著るしい対照としてあ らわれている。彼は引っついて,安南人の神父の中から司教(UshOPS)を指名すること について,ローマ法王の承諾をえようと企てたが,ポルトガル人の陰謀によって,その計 画は挫折した。ポルトガル人は仏人が貿易上の支配権を把握することと同様に,宗教上の 独占を把握することに対して,嫉視したからである。,しかし,1658年に遂にローマ法王の 承諾がえられた。彼の指名による司教の中にはフランソワ・パリュが居った。彼は後年,
安南人の司教の中で最も有名になった。その年にパリに外国伝道会(Socie te des Miss ions Etranger3s)が設立され,そこから多数の宣教師が華南に送られた。
安南の国王達は宗教について,狂信的でなく,排他的ではなかった。 しかし彼等は伝道 ということは欧州諸国の政治上の侵略の尖兵であると考えていた。法王の教書によって宣 教師が貿易に従事することを禁止されていたのにもかかわらず,フランスとポルトガル人
は貿易と伝道とを分離しないで,2分野にまたがって活動した。或英国の船長は,フラン スの一宣教師が,安南におけるフランスの貿易館の管理をしていることを報告している。
各国民はそれぞれ競争相手である欧州の他国民の違犯行為を二二の行政当局に告発した。
従って,安南政府は商人と宣教師とのこ重の役割をよく理解していた。そこで彼等は安南 の各港に入港するすべての貿易船を注意深く捜索し,通常船室にかくれている宣教師を発 見した。
四 安南とフランスとの外交々渉史(第1回仏・安条約)
フランス東印度会社は多年にわたって,安南との貿易に熱心であった。デュプレックス
(」.F. Dupleix,1697−1763)は安南に設立された伝道団を通じて,そこに地歩を築こう と努力した。しかしインドにおける場合と同様に,彼の努力は周囲の無理解によって失敗 に終った。彼は1715年にインドに渡り,後にインド総督になった。インド生れの婦人を妻
としてインドの事情に精通し,フランスのインド領有確保に努力した。また土着の酋長間 の事件に干渉して勢力の拡大をはかった。オーストリア王位継承戦争G740−48)で,英 仏が敵対すると,マドラスを英国人から奪い,非凡な手腕を振って英国人の勢力を追払い,
一時インドはフランスの勢力下に帰そうとした。英国政府はこれに対抗するために,クラ イヴにインドの支配権を委ねた。しかし1754年にフランス本国が彼を召還したので,彼の 経略は水泡に帰し,フランスの植民政策は全く挫折した。
安南においても同様の状況の下で、彼の計画は失敗に帰した。 フランス東印度会社は彼
の計画を信用せず,彼の忠告を無視した。そしてピエール・ポワヴルを使節として派遣
し,安南の経済上の雨滴を調査させた。安南当局の反対と会社の財政状態がよくなかった ことによって,彼の調査は経済上には利用されなかったが,彼が収集した調査資料は大な る利用価値をもっている。彼はピニョ・ド・ベエヌ(Pigneau de Behaine,1741−79)
を助けて有力な働きをした。ベエヌはフランスの外国伝道会の宣教師で,1765年に司祭に 任ぜられ,交趾支那に渡って伝道し,1770年に神学校長になった。後に彼はアドラン司教 に任ぜられた。アドラン司教としての方が名前がよく通っている。彼はタイツン(西山)
の三兄弟の反乱によって滅亡に陥った南部安南の王家ニュエン(院)家の唯一の生存者ニ ュエン・アン(院福映)を援助し,フランス本国との間を斡旋し,ニュエン・アンが国土 と主権を回復することをフランス本国に約束させた。即ち,アドラン司教の進言によって,
1787年に交趾支那の王ニュエン・アンと三王ルイ16世との間に第1回忌安条約が締結され た。この条約は攻守同盟であって,フランスはニュエン・アンが交趾支那の国土と主権と を回復するために,最:も有効な方法で援助する代償に,交趾支那王はプロ・コンドール島,
ツーラン港及びこれを形成する島々を譲渡し,フランスの交趾支那全体における商業独占 権を認めることを内容とするものであった。
しかし,フランスでは間もなく大革命が勃発したために,フランス政府とその委任をう けた代理人であるポンジシエリーの総督は,この条約を有耶無耶のうちに葬り去ろうとし た。従って,安固とフランスとの正式の外交々渉は杜絶した。そこでアドラン司教は独力 で,商人を糾合し,資金を集め,フランス義勇兵を募集し,艦船を購入して,義勇艦隊
と軍隊を編成してインド・シナに帰り,ニュアン・アン王を助けて,交趾支那の王権を回 復した。彼はキノン(帰仁)城の攻略戦中,1779年に病によりビン・ゲインで没した。彼 の死後,その義勇兵は更にインド・シナの南北を統一して,1802年,ニュアン・アン王を 弘南王の王位に即かしめた。これがユエ (順化)における現代の安南王朝の始祖ジヤ。
ロン(嘉隆)皇帝と称される。その領土は南北が統一された結果として,広大なものにな った。本来の交趾支那の主権を回復したのみならず,北部インド。シナのトンキン地方か ら,中部安南地方及び南部の交趾支那を含む一大王国になった。そしてカンボジヤとラオ スは安南王国の半従属国の地位に下った。
右に見たように,アドラン司教のインド・シナにおける活躍は本来の伝道の目的から,
大いに逸脱した軍事的,政治的活動であった。彼が安南王家三児,年若きニュエン・アン を援助して,フランス人の義勇兵の活動によって,晶晶王位に即かしめたことは,後年に おいてフランスが交趾支那を直接の領土となし,トンキン,カムポジャ,ラオスを保護国 として,事実上,インド・シナ全体を領有することの最初の礎石を据えたものと言っても 過言ではない。歴代の心安南国王達が,ヨーロッパの宣教師によるキリスト教の伝道とい
うことのなかに,欧州諸国のアジアに対する帝国主義的侵略の尖兵を見ていたことは,少
くともインド。シナに関する限りにおいて正しかったと言いうる。右のアドラン司教の活
躍は,その真の動機がどこにあったかは,うかがい知るをえないが,その結果においては
正に帝国主義的侵略の尖兵としての活動を実証したものであった。サイゴン市内の中心地 にパリのノートル・ダム寺院を模型として建造された赤練瓦作りのカトリックの荘大なカ テドラル(大寺院)がある。その正面の前庭に銅像が建てられていた。二人の立像で,ア ドラン司教が若い安南王子を擁して立っているものである。これはフランスの安南侵略の 方式を具体的に最もよく表徴しているものとして,多くの人々に感銘を与えて来たことは 争いがたい事実であった。第2次大戦終了後,サイゴンはもとより,インド・シナ全体に 安南人の独立運動が盛んになった。サイゴン市内では,白人に対する放火や血なまぐさい 虐殺事件が多数発生したが,この銅像が直ちに取こわされたことは勿論であった。
ジャ。ロン皇帝が即位後,多数のフランス人は王室内の重要な地位にっき,フランス人 宣教師,商人も多教渡来した。ジャ。ロン皇帝の逝去後,即位した第2代のミン・マン(
二二)帝も第3代テウ・トリ(紹治)帝も熱心な儒者であり・キリスト教を邪教記して1 安三人で宣教師になった者や安南人のキリスト教徒を迫害し始めた。他面において,これ
らの3代にわたる安南国王達は,フランス勢力の拡大することを喜ばなかったので,更に 進んでキリスト教の伝道を禁止し,その教徒を迫害した。ミン。マン帝の時代に,サイゴ
ンのフランス人宣教師マルシャンが殺害され,更に数年間に5人の宣教師が殺害された。
そのために,一時は,両国の国交が断絶しようとする危機に陥った。民衆の間でも,キリ スト教は,民間の祖先及び土俗神崇拝,万有神教を深く信仰する伝統的海洋文化と調和せ ず,いたるところで宣教師は地方官憲と衝突した。外来宗教がその国に伝道される初期に は,その国の固有の民族宗教と衝突して,迫害される例が多いが,安南の場合には指導階 級が外来宗教であるキリスト教に対して,帝国主義的侵略の一手段としての影を感知して いたために,特に初からキリスト教排斥の政策をとった。初代のジャ・ロン王が帝位に即 くには,アドラン司教の多大の援助によることは,彼はよく知っていたが,それは個人的 な恩義を感じたに止まり,国策としてはフランス勢力の拡大を防止する方向に託ったのは 独立国家形成の必要から,当然の成行であったと言いうる。また安南官憲の搾取に対して,
不平を懐く人民は,宣教師の煽動により,官憲に反抗したために,政府によってキリスト 教弾圧となり,更にその政策が拡大されて,フランス人全体が排斥されることになった。
その当時フランスはインドで英国と覇を争い,敗退した。更に1840−42年の阿片戦争に よって英国は香港を領有した。これらの事実によってフランスは大いに刺戟され,東洋に おける根拠地として一領土を領有する必要を痛感した。かくてインド・シナをその最上の 候補地となし,キリスト教の伝道の自由を要求するという旗印の下に,侵略の野心を隠し て,強硬な外交々渉を進めた。
(5)
五第2回仏・安条約
1843年にフランス政府は,フランス東洋艦隊のファバン。レベック提督をして,右の要
求を貫徹するために,強硬に安南国王との外交々渉に当らしめた。単なる外交々渉では充
分な成果があげられないことを知ったフランス政府は,実力行使をもあえて辞さないとい う態度を示した。即ち1847年にはラピエール提督にツーラン港を占領させ,1844年に清国 と締結した通商条約と同一の条約を締結すべきことを要求させた。しかしてこのフランス の脅迫的態度は,逆効果となり,安南における排外運動を一層盛んにした。次のテユ・デ ュック(嗣徳)王の時代になると,外国人宣教師に対する迫害は更に深刻化し,1857年7 月には,トンキンで,スペイン人宣教師2名が斬首された。またフランス人宣教師は殆ん
ど全部殺害又は放遂された。
右の白人宣教師の殺害事件を奇貨おくべからずとして,ナポレオン3世はスペインと同 盟を結び,1858年に自国民保護を理由として遠征軍を派遣した。仏・西連合艦隊は,同年
9月にツーランに入港し直にそこを占領した。翌年2月にはサン・ジャック岬及びサイゴ ンを占領した。その頃アロー号事件(1856年)に関連して仏二間に戦争が起ったので,そ の応援のために,翌1860年には,ツーランの守備兵をサイゴンに移し,ツーランを安南に 還付した。この年に三二はフランス人宣教師数名を殺害し,サイゴンでは仏安両軍が度々 戦斗を交えた。仏兵は少数の守備兵でよく防戦した。清国に遠征していたシャルネ提督は 北京条約が締結された後,安南に来り,清国を破った余勢を駆って,サイゴン,ジャデイ
ン,ミトを占領した。更に1862年,その後任ボナール提督は,フ。ロ・コンドール島,ビエ ンホア,バリア及びヴインロンの3州を占領し,交趾支那の大半を確保した。この戦斗に はスペインも参加した。スペインは宣教師虐殺の罪を問うために海軍を派遣した。安南の テユ。デュック王は長年の抗戦のために財政困難となり,更にトンキンで古王朝黎氏一族 の子孫と称する者が叛乱を起し,その勢が盛んであったために,国王軍が敗退した。そこ で安南朝廷は大いにおそれ,諸大官は屈辱を忍んでフランスと和平条約を締結しようとす る者が多かった。遂に1862年6月,第2回の仏安条約がサイゴンで締結され,翌年4月ユ エで批准調印された。この条約は前回のそれと異り,三和条約であって,二二が一定地域 の割譲を約し,且つフランスに対しては保護権を認める前提をなす重要なものであった。
右条約の要旨は次の通り。
1.安南はフランス及びスペイン両国民によるキリスト教布教の自由を認める。
2.安南は交趾支那のビエンホア,ジャデイン及びミトの3省及びプロ・コンドール諸 島をフランスに割譲する。
3。ツーラン,バラ及びクアンアンの3港において自由に通商することを認める。また フランス人は全メコン三々流において通商・航行の自由を認める。
4.フランス,スペイン両国に対して,10年間に400万弗(2千万フラン)の賠償金を
支払う。
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六 第3二仏・安条約
右の条約で,受話政府は交趾支那のビエンホア,ジャデイン及びミトの三省をフランス に割譲したが,同政府はトンキン地方の叛乱が未だ鎮定しなかったので,その方の鎮圧に 忙殺され,交趾支那は放棄した状態になった。そこで同地方全体自らフランスの勢力下に 帰した。北方の叛乱が鎮定した後,安南はサイゴンでフランスにさきに割譲を約した交趾 支那の東部三省を賠償金をつけて返還することを要求した。フランスはこの要求を拒絶し
たので,1864年に使節をフランスに送って交渉せしめた。
当時フランスはメキシコ遠征の失敗により,対外的に強硬政策をとり得なかったので,
安南政府と協議して右の三省以外の地方を還付することに決定した。 しかし交趾支那駐在 の司令官ブランデイエール提督は,既得権益擁護を主張して,三省以外の土:地を田鼠に還 付することの不可を政府に上申した。そこでフランス政府は急に前言をひるがえして,右 の決定を無効とした。そこでブランデイエールは1862年の条約によって領土になった三省 の統治に力を注いだ。
更に彼は当時,安南とシャムとの圧追によって滅亡に頻しっっあったカンボジヤに注目 し,同国に対するフランスの保護権を確立した。1867年に交趾支那の西部で反面運動が起 り,フランス人に危害を加えた事件が生じた。ショドク,ハチエン,ビンロンの三省がそ の中心であった。図南政府はこれを鎮定する力がなかったので,フランス総督府は軍隊を 派遣して,右の三省を占領した。遂に1867年6月にブランデイエール総督は,サデック,
ショドク,ハチエン諸地方をフランスに併合する宣言を公布した。かくて1862年の条約に よって領有した三省と同様に新に占領した地方の統治を行い,事実上,全交趾支那の支配 権をその手中に収め,交趾支那植民:地の領有は云々完成した。
フランスの安南に対する侵略政策は更に発展した。交趾支那を領土とし,カンボジヤに 保護権を確立した後,安曇北部に侵略の歩を進めようとした。フランスは南支方面へ貿易 路を求めようとして,1866−68年にわたって,メコン河の探険を試みた。この結果,メコ
ン河は遡航が困難であって,南支那への進出路は,むしろソンコイ河が適当であることが 理解され,フランスはトンキン地方に注目し始めた。その頃トンキンは国内が乱れ,侵略 には絶好の機会であったが,フランスは,普仏戦争(1870−71)の直後であり,且つ共和 制が布かれて時日があまり経過していない国情であったために,遠征軍を派遣する気運が 起らなかった。しかし,時あたかも偶々一事件が発生レた。それはこの頃フランス商人デ ュピュイが中部支那から雲南地方を視察して,同地の豊富な資源に着目したが,雲南に回 教従の叛乱があったので,彼は1868年に雲南省督軍馬如龍に武器弾薬を供給する契約を結 んだ。しかし輸送のルートがないのに苦しみ,調査の結果,ソンコイ河を遡航するルート を発見した。彼はフランス海軍省の援助をえて,砲艦3隻,汽船1隻,支那船1隻を率い,
1872年10月に総員170余人ハイフォン港に入港した。ソンコイ河遡航の許可を安南地方官
憲に求めたが,その官憲はこれをユエの安南政府に報告した。しかしその許可が容易に下 りないので,デュプユイは無許可で,地方官憲の抗議を無視してハノイまで遡航した。更 に安南官憲に対して雲南まで赴く許可を求めた。この当時,安南北部は長髪賊の残党が治 安を乱していたので,官憲は許可しなかった。しかし,デュフ。ユイは,砲艦を同地に留め,
1873年1月随行者39人と共にハノイを発し,3月に雲南にいたり,武器,弾薬を馬如龍に 渡し,莫大な利益をえた。帰途,多量の錫を満載して帰り,塩を積んで再び雲南に遡航す る準備を整えた。しかし塩は安南政府の専売品であるために,ハイノの官憲は彼の出発を 禁止した。このために同地で仏安両国人の紛争がはげしくなった。デュプユイはこれを不 法として,交趾支那総督デュプレに応援を求めた。他方,湯島政府は総督に対して,デュ
フ。
・Cの即時退去を求めた。そこで総督はこの問題を現地で解決するために,その部下で ある海軍大将ガル山月を1873年10月にハイノに派遣した。彼は元来,トンキン攻略の緊要 なことを主張していたが,切迫している現地の空気から見て,紛争の原因が単に一商人の 航行許可の問題でなく,安宅人の反仏感情にあるとして,その根本的解決には武力行使も またやむをえないと考えた。そこで彼は引率した兵力は70名にすぎなかったが,ハイノの 安南総督に対し,ソンコイ河通航許可を即時要求する最後通牒を発した。山南総督はこれ に応じなかったので,通牒の期限が切れると共に,僅かの手兵を中心に匪賊の大衆を糾合 して,ハイノ城を攻撃して占領した。安南総督は戦死した。次いでバクニン,ナムディン,
ヴインアン等のトンキンの主要都市を占領した。
そこで安南政府は大いにおどろき,テユ。デュック(嗣徳)王は和平に着手する一方,
支那にその保護を要請した。支那は秦の始皇帝の南越征服以来,身締に宗主権を主張して いたので,この要請を容れて,フランスの勢力をトンキンから駆幽するために,黒旗軍を して仏軍を攻撃させた。この黒旗軍は長髪賊の残党である。意外の応援軍の奇襲に会って,
フランス軍は総崩れとなり,ガルニエは戦死した。デュピュイは残兵を集めて,ハイノ城 を守備した。かくて仏・安両国の関係は緊迫し,一触即発の危機に陥ったが,出先当局の 強硬態度に比し,フランス本国では依然として消極的態度に出て,穏便に事件を解決する ように訓電を発した。デュプレ総督は一挙にトンキン征服を決行するつもりでいたが,本 国からの訓令により,やむをえず,トンキンの仏軍占領地を安南に還付することを布告し,
1874年2月に弥山はすべてハイフォンに退却した。同年3月,サイゴンでデュプレ総督と 安南全権大使との間に,第3回目の仏心条約が締結された。本条約の主な点は次の通り。
本条約によりフランスは左の事頃を承認した。
一 劇画の独立を承認する。
二 その領土保全及び国内秩序維持のために必要な援助をなす。
三 河南に軍艦5隻,大砲100門,小銃1,000挺を無償:恵与する。
四 安南の軍隊,艦隊,財政及び教育再建のために,必要な士官,技術者及び教援を派
・遺する9
これに対し,安南は左の事項を承認した。
一 安詳政府は対外政策をフランスの政策に一致させる。
二 交趾支那6省に対するフランスの完全な主権を承認する。
三 カトリック教布教及び信仰の自由を認める。
四 キノン,ハイフォン,ハイノの海港及びソンコイ河の通商,航行の自由を認める。
五右各地における領事館の設置及び同地への護衛兵の駐屯を認める。
(7)
七第4回仏・安条約
1875年5月にフランスの北京駐在代理公使が右の条約を清国政府に通告したところ,清 国政府は同条約第2条に「フランス共和国大統領は安治国王の主権及びその一切の外国に 対する完全な独立を認め,同国に対して幕助及び救援を約し,……」という文章があるの
を指摘し,安心は古来,支那の属邦であるから,この条約を承認できない旨を抗議した。
しかしフランスはその抗議を無視して,同年8月に安南と通商条約を締結し,翌年フラン ス国会の批准を終った。
通商条約は締結したが,それは事実において,フランスの安南に対する支配権を承認し たのにすぎなかったので,安南の反仏感情は強くなる一方であった。安南国王はフランス の勢力を安南力・ら一掃しようと決意したが・自力では力及ばないことを知り・ひそかに支 那の援助を求めた。
黒旗軍の残党は,その頃,雲南と安南の国境ラオカイを根拠地として,従党を多く集め,
次第に勢力を伸ばしていた。安南国王は黒旗軍の力を借りて,フランス人の勢力を押えよ うと計画し,黒旗軍の首領劉永福に資金の供与を約束した。1878年10月にトンキン地方で 叛乱が起ったので,フランスは1874年の条約第13条により,安南の開港場における領事館
を保護するため,1880年になって,ハノイ及びハイフォンに各々兵100人,ユエとツーラ ンに各一中隊を派遣し,更にトンキン,ソンコイ河流域地方の鉱山を調査させた。しかし,
同地方の安南官憲は黒旗軍と連合して,フランス人の行動を妨害した。そこでフランスは サイゴンから援兵をトンキンに派遣し,1882年4月ハイフォンにっき,更にハノイ城外に 達した。フランス軍の司令官リヴイエール海軍大佐は,安南の依頼によって出動している 黒旗軍の即時撤退を要求したが容れられなかったので,ハノイ城を砲撃して陥落せしめた。
更に翌年3月リヴイエールは,サイゴンから援軍をえて,ナムディンを占領した。しかし 黒旗軍の首領劉永福を中心とする安比・支那連合軍は大挙して攻撃を開始し,衆寡敵せず
フランス軍は敗れて,リヴィエールは戦死した。
これより先,フランスに駐在している清国公使は,フランス政府に対し,安南問題に対
して抗議をした。フランス政府は一時妥協に傾いたが, リヴィエール戦死の報により与論
は硬化して,1883年内閣の更てっに伴い強硬政策をとった。同年6月サイゴン駐在の司令
官ブー工少将は援軍を率いて,ハノイに入り,附近のバクニンやソンダイを根拠地とする
黒旗軍と相対峙した。フランスは更に増援軍を派遣し,海軍少将クールベは兵2千を率い てハイフォンからハノイに入ったが,黒旗軍は安南政府の援軍であることを知り,先づ安 南軍の本拠のユエを攻撃することに決定した。同年8月フランス軍艦7隻,運送船7隻の 艦隊によってユエ湾を砲撃し,要塞を陥落せしめた。安南政府は停戦を提議し,隊にユエ で仏国代表アルマンとの間に,同年八月に仮条約28ケ条を調印した。これは湘南はフラン スの保護国であることを承認すること,キノン,ツーラン等を開放すること,フランスは
トンキン地方から黒旗軍を駆遂すべきこと等を規定したものである。
清国政府は右の仏安両界の条約締結に反対し,雲貴総督と五心総督に命じ,兵3万5千 を安南国境に派遣した。更に黒旗軍の劉永福を越南東京経略大臣に任命した。フランス政 府は清国軍の攻勢に対して,強硬方針をとり,安南事件費2千万フランの支出を決した。
1883年11月,クールベは黒旗軍の根拠地ソンタイを攻撃して陥れ,黒旗軍を退却させた。
フランスは更に陸軍中将ミーヨを司令長官にして,援軍6千7百余人を率いて安南に派遣 し,1884年2月ハノイに着し,クールベと交代させた。この時仏軍の兵力1万6千余人,
清国黒旗軍合計3万算入であった。3月中にフランス軍は非常な苦戦を続けたが, トンキ ンの各地方で清国軍を撃破し,国境外に退却せしめ;トンキンー帯すべてフランス軍が占 領した。また首都ユエもフランス軍が占領したので,安南王も余儀なく屈服して,1884年
6月,第4回仏安条約が締結された。その要旨は次の通り。
一 安南国はフランスの保護権を承認し,フランスはすべての対外関係で安南国を代表 する
ニ フランス軍隊は永久にユエ河岸の中城を占領し,且つフランス官憲は安南国及びト ンキンで保護の実施を確保するために必要と認めた地点に,軍事的占領をなしうる。
三 キノン,ツーランを各国通商のため開放する。
四 フランスの統監はフランス政府を代表し・安南国の対外関係を統轄し・保護権を確 保する。噛
五 フランス監督官を主要な都市に配置し,且つこれに適当な護衛兵をつける。
六 安南国及びトンキンにおけるすべての外国人の裁判はフランス国の裁判管轄に属す る。 (治外法権)
右の条約は1885年6月天津条約によって,清国政府の正式承認をうけた。かくて,安南,
トンキンはフランスの保護国となり,名実共にフランスのインドシナ全体に対する支配権 が確立された。 (和39,4,4)
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(註) (1)井上幸治編,フランス史16ページ
② 水谷乙吉、仏印文化史,3−5ページ
13)井上幸治編・同上書・43−45ぺ停ジ
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