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OFFICE INFORMATION ニッポナリアと対外交渉史料の魅力
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Lettres de S. Francois Xavier(Paris, 1660.)
(『ザビエル書簡集』本学図書館所蔵)
教としての道教とその信者を客観視できず、
この異教を前述のように「悪魔」とさえ見てし まっています。そこには、当時のヨーロッパに おける第一級の知識人として、ヒンズー教やイ スラム教と対峙してきた冷静さは窺えず、道教 に対する許容力は見られません。
一方、道教の信者であるアヴァン船長や乗組 員にとってもキリスト教宣教師は異教徒です が、キリスト教徒の乗船を拒んではいません。
彼らが信奉する道教は漢民族に古くから伝わ り、東南アジアまで広がっている民間宗教で、
巫
ふじゅつ
術や陰陽五行説、さらには神仙思想などを加 え、符呪や祈祷などを行います。儒教や仏教と も長きにわたって共存してきており、ザビエル らキリスト教徒を乗船させたことは広い意味で の東洋思想の特徴が表れたものと見てとれます。
■アヴァンの死とザビエルの離日
ザビエルは鹿児島上陸後、領主島津貴久の許 可を得て領内で布教を始めます。愛娘を亡くし ながらもザビエルたちを鹿児島へ送り届けた船 長アヴァンはこの地で亡くなり、乗組員たちは 船長の遺骸と共に明国へ向かいました。この時、
ザビエルは航海の記録などを書簡に認
したためて、
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信頼できるドミンゴ・ディアスという人物をこ の船に乗せてマラッカへ届けさせました。
同時に発信したマラッカ長官ドン・ペドロ・
ダ・シルバへの書簡の中で、アヴァンの死を知
らせています。死因などは書かれていませんが、
「彼は渡航中私たちにいつも親切でしたが、私 たちは彼に対して親切にはなれませんでした。
なぜなら、彼は不信仰のままで死にましたので、
その魂は地獄にいるのですから。その死後にお いても、私たちは神に祈ることによって親切に なることができませんでした」と記述していま す。この文章では、アヴァンが死後はもとより 生前から地獄にいたため心を許さなかったこと になり、死ぬまでキリスト教を信仰せず異教徒 であったことを理由にしています。
ザビエルは自分の鹿児島上陸後にポルトガル 船が来航した豊後の平戸や、大内義隆の理解の もとに周防山口で布教を進めて大きな成果を挙 げました。また、1551(天文二十)年の1月に は戦乱で荒れ果てた都(京都)も訪れています。
この頃からポルトガル船が度々来航するよう になります。これは、ザビエルの渡航を支援し たドン・ペドロ・ダ・シルバの勢力拡張策の一 環であったと考えられますが、先の平戸に次い で豊後の府内に到着した船の船長は、バスコ・
ダ・ガマの息子ドゥアルテ・ダ・ガマでした。
ザビエルは山口での布教をコスメ・デ・トー レス神父に託し、同年の11月にこの船で日本を 離れました。以前にガマ船長と面識があったザ ビエルは、異教徒の船による往路の苦しい航海 とは異なり、乗り慣れたポルトガル船でマラッ カを経てゴアへ帰還したのでした。
なお、ザビエルは翌1552年に、アヴァン船長 が信仰していた道教、さらには儒教や仏教が共 に切磋して教義を高めてきた明国での布教を志 し、マカオ近くの上川島へ赴きましたが、12月 3日に病気のため帰天しました。
註
( 1 )文中の書簡からの引用は、河野純徳訳『聖フランシスコ・
ザビエル全書簡』第3巻 平凡社(東洋文庫 581)書簡第83-
書簡第90より。
( 2 )この頃ポルトガル商人であるメンデス・ピントは九州に来 ていたと言われている。なお、河野氏はポルトガル商人の 出入りしていた場所として薩摩か豊後と推測している。
( 3 )大住広人氏は著書『ザビエルとヤジロウの旅』(葦書房 1999年)の中で、魯迅の『阿Q正伝』を根拠に「漢字で書け ばたぶん阿王」(89頁)と述べる。
( 4 )拙稿の記述にあたり、主要参考文献とした書簡。
おく まさよし(司書・事務長兼管理運営課長)