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中央学術研究所紀要 第48号 004兼子 直也「ジャイナ教徒の無分別知理解への仏教徒の回答 ―Tattvasam4 graha 第17章を中心として―」

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(1)

兼 子 直 也

ジャイナ教徒の無分別知理解への仏教徒の回答

―Tattvasam

4

graha 第17章を中心として―

(2)

1.本稿の目的

 直接知覚(pratyaks

4

a)が無分別なのか有分別なのかという論争は、インド諸思想の

論師の間で盛んに行われてきた。シャーンタラクシタ(ca.725 788)の著作『真理綱

要』

(Tattvasam

4

graha)第17章は、直接知覚の無分別性と無錯覚性を中心に論じるが、同

章第1263偈までに証明された直接知覚の無分別性をジャイナ教徒の論難から擁護する

のが第1264 84偈である

。この箇所ではジャイナ教の直接知覚説を論駁する目的で、

空衣派のスマティという論師が登場する。スマティは、無分別・有分別二種の直接知

覚を主張し、無分別な直接知覚は実在(vastu)の持つ存在性(sattā)等の高次の普遍

に対して起こり、有分別な直接知覚は牛性等の限定された低次の普遍や特殊に対して

―Tattvasam

4

graha 第17章を中心として―

兼 子 直 也

1.本稿の目的 2.スマティについて  2.1.スマティの年代  2.2.スマティの見解 3.シャーンタラクシタの回答  3.1.回答の概要  3.2.回答の詳細 4.参照されたダルマキールティの教義  4.1.アポーハ論について  4.2.個物に関するアポーハ  4.3.概念的区別に関するアポーハ  4.4.TS におけるアポーハ論の受容 5.結論 【略号と参考文献】 1 本稿では、特に断わりがない場合、TS の偈番号と TSP の頁番号は B に基づく。

(3)

起こるとする。これに対して、シャーンタラクシタは、個物の直接知覚こそ無分別だ

という立場から、普遍は特殊と相互排除(anyonyaparihāra)の関係にあるので却って

有分別知によって把握されると回答する。このように、両者の議論は「限定/排除さ

れること」とは何かをめぐって行われる。

 この箇所はすでに服部正明氏によって紹介されているが、氏の研究当時、スマティ

の思想背景や仏教側が用いたダルマキールティ(ca.600 660)の教義は明らかではな

かった。だが、その後の研究によってジャイナ教団の師弟の系譜やジャイナ教の認識

、ダルマキールティのアポーハ論に関する新たな情報がもたらされた。本稿ではこ

れらの先行研究を踏まえて、すでに発表したスマティの思想を念頭に置きつつ、シャー

ンタラクシタとカマラシーラによる論駁の様相を明らかにする。

2.スマティについて

2.1.スマティの年代

 スマティの名前は、南インドの空衣派に属する Dramila(Drāvid

4

a)サンガの学僧の

一人として碑文を通じて知られている

。Belūr 碑文にはスマティ=バッターラカとし

、Candragiri碑文にはスマティ=デーヴァとして記されている

。前者はサマンタバ

 ジャイナ教の認識論には伝統的な四段階説とプージュヤパーダやアカランカ等の論理学者が再 編した五段階説があるが、前者では知覚(avagraha)が無分別であり、後者では直観(darśana)が 無分別、続いて生じる知覚が有分別とされる。四段階説は、ウマースヴァーティが TAASⅠK.15で 述べたように、知覚、意欲(īhā)、判断(apāya)、保持(dhāran4ā)という四種の感官知(matijñāna)

からなり、対象と感官の接触後に非決定知(anirn4aya)である知覚が生じ、続いて決定知(nirn4aya)

である三種の認識が生じるとされる。五段階説は、非決定知である直観と決定知である知覚、意欲、 判断(avāya)、保持からなるが、直観は四種の感官知とは区別される。長崎[1988:86]は、知覚 の前に直観を立てたのはプージュヤパーダであろうと指摘する。また、安藤[1985:26 29,31 34] は五段階説の成立について次のように説明する。すなわち、ジャイナ教の認識論には四段階説とは 別に、伝統的に直観と知というウパヨーガ説(安藤[1985:26]によれば、ウパヨーガとは命我 (jīva)の精神的構造・認識能力の適用、認識活動を意味する。)があるが、そこでは知はすべて有 分別(sākāra)であるため、またジャイナ教の認識論ではプラマーナはすべて決定知であるため、 四段階からなる認識は感官知と見なされて、「直観から知へ」という認識過程に組み込まれた、と いうものである。; また、ジャイナ教では、元来、感官知は直接知覚ではなかった。長崎[1988:8 9]、Satō[2005: 758 756]によれば、直接知覚は命我あるいはアートマンによる外界の直接的認識と考えられてき た。例えば、プージュヤパーダは、TAASⅠk.12への註釈において aks4a をアートマンであると考え ており(SAS72)、直接知覚を感官知とは理解していない。しかし、宇野(惇)[1965:174,178 181]によれば、シッダセーナ=ディヴァーカラやジナバドラ以降、直接知覚の二諦的理解が進み、 感官知は世俗的な意味で直接知覚と見なされるようになった。例えば、アカランカは、LT k.4への 自註で感官と非感官(心)による直接知覚を世俗的直接知覚と呼んでいる。Cf. tatra sām4vyavahārikam indriyānindriyapratyaks4am, ... LTSV74,6[このうち、感官と非感官(=心)による直接知覚は世俗的 なものである。…]

(4)

ドラ=スヴァーミン、パートラケーサリ=スヴァーミンの三代後の論師であり、アカ

ランカの師とされる。後者はサマンタバドラから見て五代後、パートラケーサリンか

ら見て次代の論師に当たり、アカランカの五代前の論師とされる。彼の生存年代は碑

文情報ではサマンタバドラとアカランカの間の人物とされているから、宇野(惇)

[1988:189 194]、Satō[2005:758]等に従って下記の表のように整理すると、おお

よそ7世紀後半から8世紀前半と推定される

論師(所属) 生存年代 本稿で取り上げる著書 ウマースヴァーティ 5 6c Tattvārthādhigamasūtra(TAAS) シッダセーナ=ディヴァーカラ 6 7c Sam4matitarka(ST) プージュヤパーダ(空) 5 7c Sarvārthasiddhi(SAS)*TAAS の註釈 サマンタバドラ(空) 7c Āptamīmām4sā(ĀP)

ジナバドラ(白) 6 7c Viśes4āvas4yakābhās4ya(VĀBh)

スマティ(空) 7c 後 8c 前 ST の註釈を書いたと伝承される。 アカランカ(空) ca. 720 780 Tattvārthavārttika(TAV)*TAAS の註釈

Lagīyastraya(LT)

シッダセーナ=ガニ(白) 7 10c Tattvārthādhigamasūtrabhās4yat4īkā(TAASBhT4) *TAAS の註釈

2.2.スマティの見解

 スマティの見解は主に TS/TSP に拠らざるを得ないのであるが、スマティは TS1264

66で初めて登場する

。続いてTSP463,21 465,20では、彼は知覚の過程をめぐって、

「直

接知覚は個物に対する無分別な直接知覚から始まり、普遍と特殊に対する有分別な直

接知覚に移行する。」と主張するクマーリラと論争を展開する

。スマティの立場は、無

 Cf. Jain [1964:166 168], Śāstrī, K [1966:25], Śāstrī, N [1974:Vol.2, 446 447],宇野(智)[2009: 9 10]. Jain [1964:165 167]は、スマティ=デーヴァはマッラヴァーディンと並んでシッダセーナ =ディヴァーカラの ST に複註を書いた者として知られていると述べている。この言及は、TBV: intro.17が同書にはスマティによる未発見の複註があると述べていることと一致する。また、Śāstrī, K [1966:25, note2]もスマティによるSTの註解が存在したと、11世紀のヴァーディラージャスーリ の 帰 敬 文(Cf. namah4 sanmataye tasmai bhavakūpanipāthinām | sanmativivr4tā yena sukhadhānapraveśinī ||)

や12世紀のマッリシェーナ作の Candragiri 碑文を取り上げて論じ、その著作は現存しないとしてい る。なお、Śāstrī, N[1974:Vol.2]は入手不可なので筆者は未見だが、宇野(智)氏からの孫引き で紹介する。 4 Cf. JŚLSⅢ7,23 8,7, Śāstrī, N. [1974:Vol.2, 239] Cf. JŚLSⅠ102,7 104,14, Śāstrī, M. [1959:intro.56] B.Bhattacaryya氏はTS/TSP刊本序文(G)92 93において、TSP(G)379でスマティがクマーリラ の批判者として登場することに基づいて、スマティをクマーリラ(ca. 620 680)より少し年下であ ると考えて、生存年代をca. 670 720とする。また、Jain [1964:165 167]は、スマティ=デーヴァ を600年頃の人物とし、Śāstrī, N [1974:Vol.2, 446 447]は、TS と Candragiri 碑文に基づき、スマテ ィの生存年代を7 8世紀とする。

(5)

分別な直接知覚はいかなる限定も受けない単なる対象を把握するというものである

シャーンタラクシタは両者の論争を受けて回答する流れになっている。以下にスマテ

 スマティの主張は、無分別な直接知覚は単なる対象の把握かそもそも何も把握していないかの二 者 択 一 に な る と い う も の で あ る。Cf. nanu nāmādikam4 mā bhūt tasya grāhyam4 viśes4an4am | tathāpy

asiddhatā hetor naiva vyāvartate yatah4 || (1264) arthāntaravyavacchinnarūpen4āgrahan4am4 yadi |

arthamātragraho vā syād agraho vā ghat4e yathā || (1265) ghat4āntaravyavacchinnarūpen4āgrahan4am4 yadi |

ghat4amātragraho vā syād agraho vā ghat4asya vai || (1266)[名称等の限定者は、それ(=直接知覚)にと

って把握されるものでないが、たとえそうだとしても論証因の不成立は決して免れないではない か。なぜなら、もし他の対象から排除されたあり方で把握されない場合、単なる対象の把握がある か、そもそも把握はないかになるからである。ちょうど壷に関して、もし他の壷から排除されたあ り方で把握されない場合、単なる壷の把握があるか、そもそも壷は把握されないかになる。(1264 66)]; シャーンタラクシタは、直接知覚の無分別性の証明にあたって、類等の限定者の否定に用いた論証 因が不成立になることを懸念してスマティとの論争を開始する。Jha[1937:635]と服部[1959: 118]は、この論証因をTS1257 60(G)における「直接知覚には、限定者によって限定された対象 を認識させる機会因はない」であるとするが、TSP463,17の導入文では、シャーンタラクシタは「最 初の論証因に関する不成立を懸念する(prathame hetau ... asiddhatām āśan4

kate.)」とある。そのよう な論証は TS1219においてすでになされている。そこでは、「類等が個物とは別に知覚されない」と い う 論 証 因 で 類 等 の 無 が 論 証 さ れ て い る。Cf. jātyādīnām adr9st4 4atvāt tadyogāpratibhāsanāt |

ks4īrodakādivac cārthe ghat4anā ghat4ate katham || (1219)[類等は知覚されないから、また牛乳と水等〔の

混合〕と同様にその〔対象〕との結合は顕現しないから、いかにして対象と〔類等との〕統合が可 能なのだろうか。(1219)];

ま た、TS1256 59 に お け る 限 定 者 の 無 の 論 証 は 以 下 の 通 り で あ る。Cf. yadi vā yasya bhāvasya yadrūpasthitikāran4am | na vidyate na tattvena sa vyavasthāpyate buddhaih4 || (1256) avidyamānasāsnādir

yathā karko gavātmanā | viśes4an4aviśist4 4ārthagrahan4am4 na ca vidyate || (1257) savikalpakabhāvasya sthiter

āks4e nibandhanam | vipaks4ah4 śābaleyādir anyathātiprasajyate || (1258) na cāprasiddhatā hetor jātyādeh4

pratis4edhatah4 | bhedena cāparicchedān na cāsty evam4 viśes4an4am || (1259) [さらにもし、或る事物に或る色

形を確定させる機会因がないならば、その〔事物〕はそのようには賢人によって確定されない。ち ょうど、喉肉等のない白馬が牛として〔確定されない〕ように。そして、直接知覚には、有分別性 の確定に関して、限定者によって限定された対象を認識させる機会因はない。牛等は異類例である。 然らざる場合、望ましくない結果が附随する。さらに、論証因は不成立ではない。なぜなら、類等 のような〔限定者〕は〔我々に〕否定されているから、また、〔それらは基体から〕別なるものと して定まっていないから。そして、以上のように、限定者は存在しない。(1256 59)](校訂は Funayama[1992]に従う。) 8  Jha[1937]の訳では、クマーリラとスマティの論争がどこまで続いているのか判然としない。だ が、代名詞に対する写本の欄外注記に従えば、両者の論争が少なくとも TSP465,14まで続いている ことが分かる。 9  Cf. avadhīkr

4taghat4āsambhavinā rūpen4a yadi tasya ghat4asyāgrahan4am, tadā ghat4amātragraho vā syāt,

kena cid rājatatāmrādinā viśes4en4āviśist4 4asya ghat4amātrasya grahan4am4 syāt. TSP464,16 18[もし、それ以

外の壷にはありえないあり方で、その壷が把握されない場合、その場合、単なる壷の把握があるか 〔否か〕になる。つまり、銀製・銅製等の何らかの限定者によって限定されない単なる壷の把握が

あることになる。];

TSP ad TS1268では、単なる対象とは存在性であると改めて説明されている。Cf. arthamātram4

nāma

sāmānyam ucyate, yat tat sattety ākhyāyate. TSP465.8 arthamātram

4 J (cf. don tsam T9b6) : atra mātram4 Pt,

(6)

ィの見解を紹介する。

⑴ 普遍と特殊および二種の直接知覚について

 スマティによれば、実在には普遍と特殊の二つの本性があり、さらに普遍には存在

性のような単一で限定されない普遍と牛性のような限定された普遍があるという。こ

のうち、存在性等の高次の普遍は無分別な直接知覚の対象であり、牛性等の低次の普

遍と特殊は有分別な直接知覚の対象であると考えられている

10

10 このような見解は次のジャイナ教諸論師に見られる。以下の内容はKaneko[2019b]で論じている。   ①シッダセーナ=ディヴァーカラの場合    実在には普遍と特殊の二つの本性があり、それらは別々の認識作用によって捉えられる。    jam4 sāmann44aggahan4am dam4sanam eyam4 visesiyam4 n4ān4am | (STⅡ1,1ab)[およそ普遍を把握するこ

れが直観であり、限定されたものを〔把握する〕これが知である。(STⅡ1,1ab)]   ②サマンタバドラの場合

   存在という普遍によって諸事物が同一であると見なされる。

   satsāmānyāt tu sarvaikyam4 pr4thag dravyādibhedatah4 | (ĀM34ab)[存在という普遍によってあらゆる

〔事物〕は同一〔と見なされ〕、他方、実体等の違いによって〔あらゆる事物は〕別個〔と見な される〕。(ĀM34ab)]   ③ジナバドラの場合    感官知の第一段階である知覚が類や自相等を離れた普遍を把握する。普遍は概念作用を離れた 対象なので、存在性とは呼ばれていないが、他と区別されない高次のものである。佐藤[1998a: 76]によれば、この種の普遍に言及した先駆けはジナバドラである。

   sāmann44am an4iddesam4 sarūvān4āmātikappan4ārahiyam

| (VĀBh251ab) ... tam

4 ca kim4 prakāram

artham4 gr4hn4āti. sāmānyam anirdeśyam4 svarūpanāmajātidravyagun4akriyāvikalpavimukham anākhyeyam

ity arthah4. VĀBhSVⅠ57,9 12

rahiyam em. : rahitam VĀBh[普遍とは言語表現されず、自相や 名称等の概念作用を離れたものである。(VĀBh251ab)…そして、〔人は〕いかなる対象として それを把握するのか〔といえば〕、普遍は自相、名称、類、実体、作用等の区別を欠いた言語 表現されないものという意味である。];

  同様の見解はシッダセーナ=ガニにも見られる。

   avagrahan4am avagrahah4, sāmānyārthapariccheda ity arthah4. yad vijñānam4 sparśanādīndriyajam4

vyañjanāvagrahād anantaraks4an4e samānyasyānirdeśyasya svarūpakalpanārahitasya nāmādikalpanāra

hitasya ca vastunah4 paricchedakam, so 'vagrahah4 avyaktam4 jñānam iti yāvat. TAASBhT480,19 21[知覚

とは捉えることであり、普遍という対象を確定することという意味である。およそ接触知覚の 直後の瞬間に触覚等の感官によって生じる認識が、すなわち普遍という言語表現されず、自相 に関する概念作用を離れ、名称等に関する概念作用を離れた実在を確定する〔認識〕が〔対象 の〕知覚であり、未開顕な知であるという意味である。];    ジナバドラによれば、さらに対象を捉える知覚(arthāvagraha)は、究極的な(naiścaika)知覚 と世俗的な(vyāvahārika)知覚の二種に区分され、前者が普遍を、後者が特殊を知覚すると考 えられている。普遍に対する知覚は VĀBh281 283の自註で論じられる。

   iha yad vastusāmānyamātragrahan4am anirdeśyam, ayam arthāvagraho naiścaikah4, samayamātrakālah4

prathamah4. VĀBhSVⅠ63,21 22[この場合、およそ実在の普遍のみが言語表現されることなく把

握されるならば、これは究極的な対象知覚であり、〔認識の〕最初は同一性のみを〔把握する〕 時である。]

(7)

【資料1】

   sa

hi sāmānyaviśes

4

ātmakatvenobhayarūpam

4

sarvam

4

vastu varn

4

ayati. sāmānyam

4

ca

dvirūpam − viśes

4

en

4

āvacchinnam

4

yathā gotvādi, anavacchinnam

4

yathā sattāvastutvādi.

tatra yad anavacchinnam ekarūpam, tad ālocanamātrasya nirvikalpakapratyaks

4

asya

gocarah

4

. itarat punah

4

savikalpakasyety es

4

ā tasya prakriyā. TSP463.18 21

   

<sumatih 4> = sa J, Pt 欄外注記

   すなわち、彼(=スマティ)は、あらゆる実在を普遍と特殊を本質とするという

点で両方の本質を持ったものとして説明する。さらに普遍は二つの本質を持つ。

例えば、限定者によって限定された牛性等のような〔普遍〕と、存在性や実在性

等のような限定されない〔普遍〕である。そのうち、

〔後者の〕区別されず、単一

の本性を持つ〔普遍〕は純粋知覚(ālocanamātra)という無分別な直接知覚の認

識領域である。さらに前者の〔普遍〕は有分別な〔直接知覚〕の〔認識領域〕で

ある。以上が彼の規定説明である。

上記のように TS/TSP で紹介されるスマティの思想は、独自の用語を含まず、仏教側

   iha yat sūtre 'bhihitam4 ten4am4 sadde tti uggahita [tti] etad api hi vikalpavaśāt. iha yadi viśes4avijñānam

āgr4hyeta, tad api hi sam4vyavahārāvagrahe sati yujyate, ... VĀBhSVⅠ64,13 15[この場合、典籍に述

べられている「彼によって音声が知覚された」というこれも分別に基づくものである。この場 合、もし特殊の認識を意味しているならば、それもまた世俗的な知覚の場合には正しい。…]   ④アカランカの場合

   感官知に先立つ直観が存在性を把握し、感官知の第一段階である知覚が特殊を把握する。    aks4ārthayoge sattāloko 'rthākāravikalpadhī | avagraho viśes4ākān

4

ks4ehāvāyo viniścayah4 || (LT5)[感官と

対象の接触の時に存在性の観照が〔ある〕。知覚は対象の形象を分別する知であり、意欲や判 断といった決定知は特殊を志向するものである。(LT5)]

   tadanantarabhūtam4 sanmātradarśanam, svavis4ayavyavasthāpanavikalpam uttaraparin4āmam4 pratipadyate

avagrahah4. punah4 avagrahīkr4taviśes4ākān 4

ks4anam īhā. tathehitaviśes4anirn4ayo 'vāyah4. LTSV116,1 2[そ

れ(=感官と対象の接触)の直後に生じるものが存在のみの直観である。知覚は自己の対象領 域を確立する、すなわち分別するような、〔直観が〕後に転変〔した知〕と理解される。さら に、意欲は知覚された特殊を志向するものであり、判断は以上のように意欲された特殊に関す る決定知である。]

   プ ラ バ ー チ ャ ン ド ラ の 註 釈 は 次 の 通 り で あ る。Cf. sattālokah4 sakalahetopādeya-

sādhāran4asattvamātrasya āloko darśanam ātmanah4 prathamatah4 prādurbhavati, tadanu sa evālokah4

arthākāravikalpadhīh4 bhavati. ... tasya ākārah4 sattvasāmānyād avāntaro jātiviśes4o manus4yatvādih4,

tasya vikalpadhīh4 nirn4ayarūpā buddhih4 āvirbhavati. tadrūpatayā darśanam4 parin4amata ity arthah4. tasyāh4

kim4 nāma ity atrāha ― avagraha iti. NKC116,5 11[存在性の観照とは、あらゆる〔認識〕におい

て原因として認められる共通な存在のみの観照、直観であり、本質的に第一のものとして顕現 する。他ならぬその観照に続いて対象の形象を分別する知が生じる。…それ(=対象)の形象 とは存在という普遍より中間的な人性等の類という特殊であり、それ(=形象)を分別する知 とは決定を本性とした知であると説明される。それ(=分別)を本性とする点で直観が転変し たという意味である。それ(=分別)を〔本性とするもの〕とは何かというならば、これに関 して〔アカランカは〕「知覚である」と答える。]

(8)

による誤解や用語の改変も考えられる。従って、上記の無分別な直接知覚が白衣派の

論じる感官知の第一段階である知覚に相当するのか、空衣派の論じる感官知に先立つ

直観に相当するのかは判然としない

11

⑵ 他学派の直接知覚説への批判

 スマティは、クマーリラや仏教徒の考える個物に対する感官知について、それが他

の対象を排除して把握する知であり、限定された対象領域を持つ点で、有分別である

と批判する

12

【資料2】

  grāhyāntaravyavacchinnabhāvena

grāhi cen matam |

  savikalpakavijñānam

4

bhaved vr

4

ks

4

ādibodhavat || (TS1267)

   

vyavacchinna J, Pt (cf. rnam bcad pa'i T47a1) : vyavacchinnam

4 G, B

   もし、他の把握される〔対象〕から排除されたあり方で〔対象を〕把握する〔感

官知

13

〕が〔直接知覚として〕意図されているならば、〔感官知は〕有分別な認識

になってしまう。例えば、「〔これは〕木だ」等の知のように。(TS1267)

  viśist

4 4

avis

4

ayo bodhah

4

kalpanā neti sāhasam |

  na viśes

4

an

4

asambandhād r

4

te vaiśist

4 4

yasambhavah

4

|| (TS1269)

  

〔感官〕知は限定された対象領域を持ち、〔しかもそこには〕概念作用はないとい

う〔主張〕は拙速である。なぜなら、限定者との結合関係を離れて差異はありえ

ないからである。(TS1269)

11  仮に仏教側が空衣派の直観を直接知覚に分類したとした場合、それは端的に誤りである。なぜな ら、空衣派では、たとえ感官知を直接知覚と認めたとしても、感官知はすべて有分別と考えられて いるからである。安藤[1985:31 34]によれば、認識の五段階説に組み込まれた直観と知という ウパヨーガ説においては、知はすべて有分別であり、またジャイナ教の認識論ではプラマーナはす べて決定知であるため、直観とは区別される。 12  このような見解は空衣派の論じる有分別な知覚の説明と一致する。プージュヤパーダとアカラン カは、TAASⅠ17への註釈で知覚は有分別であり、それは限定者によって限定された対象を把握す ると考える。

caks4urādivis4ayo 'rthah4, tasya bahvādiviśes4an4aviśist4 4asya avagrahādayo bhavantīty ... SAS80,4/TAV65,28[眼

等の対象領域は対象であり、多等の限定者によって限定されたそれ(=対象)に関して知覚等が生 じると…]アカランカが LT で論じる有分別な知覚については、註10の④を参照。;

他方、白衣派の場合、有分別な知覚が存在するかどうか統一的見解があるわけではないようである。 実際、ジナバドラとシッダセーナ=ガニでは無分別な知覚の次の認識が何であるかについて見解の 相違が見られる。

13  Cf. yadi paratrāsambhavinā svarūpen

4a viśist4 4ārthagrāhīndriyajñānam abhipretam

, tadā savikalpam

4

** prāpnoti, ... TSP464,21 23 *abhipretam J, G, B : anabhipretam Pt/**savikalpam

4 J, Pt : savikalpakam4 G, B

[もし、他〔の対象〕にはありえない本性によって限定された対象を把握する感官知が〔無分別知 として〕意図されているならば、その場合、〔感官知は〕有分別になってしまう。]

(9)

 TSP では、以上のスマティの見解が推論式にまとめられている。

  【主張】論争の主題である限定された対象領域を持つ知は有分別である。

  【理由】限定された対象領域を持つからである。

  【喩例】「これは布だ」云々という知のように

14

⑶ 普遍の把握は個物の個別の本性を度外視したものである

 仏教側は「普遍は特殊との区別を伴うので、有分別知の対象である」とスマティに

回答する。これに対して、スマティは、TS1268で示した見解に基づいて、普遍の把握

が個物の個別の本性を度外視して行われるという観点から自説を擁護する。すなわち、

普遍の把握は複数の個物が差異なく把握された場合に生じるのであって

15

、普遍は存在

論的に特殊から区別できないというのである。

【資料3】

  viśes

4

o 'sprst

4 4 4

asāmānyo na ca kaś cana vidyate |

  grahan

4

e cet tadasprst

4 4 4

am

4

vibhāvatvān na gr

4

hyate || (TS1268)

   

asprst

4 4 4am4 J, Pt (cf. ma reg pas T47a2) : aspast4 4am4 G, B

  nirviśes

4

am

4

gr

4

ahītāś ced bhedāh

4

sāmānyam ucyate |

  tato viśes

4

āt sāmānyaviśist

4 4

atvam

4

na yujyate || (TS1275)

   

gr

4hītāś ced bhedāh4 J, Pt : gr4hītaś ced bhedah4 G, B

   だが、普遍とかけ離れたいかなる特殊も存在しない。もしそれ(=普遍)とかけ

離れた把握があるならば、〔特殊は〕存在しないから、把握されない。(TS1268)

   もし、複数の個物が差異なく把握された場合、普遍と呼ばれる。従って、普遍が

特殊とは区別されていることはありえない

16

。(TS1275)

14  Cf. prayogah

4 − vivādāspadībhūtam4 viśist4 4avis4ayam4 jñānam4 savikalpakam, viśist4 4avis4ayatvāt pat4o 'yam

ityādi jñānavad iti. TSP465,18 20[推論式は「【主張】論争の主題である限定された対象領域を持つ知 (=クマーリラや仏教徒の直接知覚)は有分別である。【理由】限定された対象領域を持つからであ

る。【喩例】「これは布だ」云々という知のように。」というものである。]

15  このような見解はジナバドラに見られる。彼は VĀBh179への自註で次のように述べる。Cf. iha sāmānyasyārthasya rūpāder avagrahan4am avagrahah4, sarvaviśes4anirapeks4asyānirdeśyasyety arthah4 ...

VĀBhSVⅠ42.14 15[この場合、知覚とは普遍という対象の本性等を捉えることであり、あらゆる 特殊を度外視した言語表現されない〔本性等〕を〔捉えること〕であるという意味である。…] 16  スマティの同様の見解は TSP の中でも述べられている。Cf. na hi sāmānyam

4 kim4 cid asti viśes4ebhyo

vyatiriktasvarūpam, yat svarūpen4a viśist4 4am4 gr4hyamān4am4 savikalpakavijñānagocarah4

syāt. kim

4 tu nirviśes4am4

gr4hītā bhedā eva sāmānyam ity ucyante. pratiniyatasvarūpanirapeks4āh4 pratīyamānāh4 sāmānyaśabdābhidheyā

iti yāvat. TSP467,17 20 *gocarah

4 J, Pt, G : gocaram4 B[すなわち、諸々の特殊から〔存在論的に〕区別

された本性を持ついかなる普遍も存在しない。そうでない場合、本性によって区別され把握されて いる〔普遍〕は有分別知の認識領域になってしまうであろうが。だが、そうではなくて、差異なく 把握された複数の個物こそが普遍と呼ばれる。つまり、個別に定まった本性を度外視して理解され ている〔複数の個物〕が普遍という語で言語表現されるという意味である。];

(10)

⑷ 個物が類似と相異の点で認識される以上、普遍と特殊の存在が確立される

 スマティは、個物の持つ普遍と特殊に対して類似と相異という観念が生じると述べ、

このような観念に対応して普遍と特殊の存在が確立されると考える。

【資料4】

  vais

4

amyasamabhāvena jñāyamānā ime kila |

  prakalpayanti sāmānyaviśes

4

asthitim ātmani || (TS1276)

   聞くところによると、類似性と相異性の点で認識されているこれら(=個物)はそ

れ自体として普遍と特殊の〔存在について〕確立を引き起こす、と伝えられる

17

(TS1276)

以上の資料1 4がスマティの主要な存在論と認識論である。なお、他の章で紹介され

ているスマティの見解については紙幅の関係で割愛する

18

3.シャーンタラクシタの回答

3.1.回答の概要

 限定された個物の把握は有分別だと主張するスマティへのシャーンタラクシタの回

答は以下の通りである。

① 「限定された」とは同類のものと異類のものから排除されたという意味であり、感

官知は限定者とは結合しない個物/差異を把握する。従って、感官知は無分別であ

る。

②普遍と特殊は相互に区別されるので、却って有分別知によって把握される。

③普遍と特殊は相互的排除によって確立されている。

④普遍と特殊は別々の知によってではなく、共に有分別知によって把握される。

sattādisāmānyasvabhāvānuviddha eva viśes4ah4 sāks4ātkriyate, nānyathā. tato vikalpavis4ayatvam

eva viśes

4asya

** yuktam4 rūpam. sāmānyam4 punar aśes4aviśes4anirapeks4am4 sāks4ātkartum4 śakyata ity aviruddham asyāvikal-

pavis4ayatvam iti. TSP468,14 17

vikalpavis

4aya J, B (cf. rnam par rtog pa'i yul T11b1) : viśist4 4avis4aya G :

vis4a?lyavis4aya Pt/

**viśes

4asya J, Pt (cf. khyad par T11b1) : viśes4yasya G, B[存在性等の普遍という自性

によって貫かれている限りで特殊が直接知覚される。それ以外のあり方をした〔特殊は直接知覚さ れ〕ない。従って、特殊が分別〔的な直接知覚〕の対象領域に他ならぬことが正しいあり方である。 反対に、普遍は特殊をまったく度外視して直接知覚することが可能だから、それ(=普遍)が無分 別〔な直接知覚〕の対象領域であることは矛盾していない。] 17  この箇所の意味内容は難解なため、Jha[1937:641 642]の英訳と服部[1959:120]の解説に従 う。 18  スマティの他の思想はTS第20章1723 24、1754 56と第23章1979 1982abで紹介されている。第20 章での彼の思想については、若原[1995:79 80]、若原[1996:66 67]による翻訳と解説がある。 なお、若原[1995:90, note43]の研究の時点では、スマティの人物情報は不明として紹介されてい ない。

(11)

3.2.回答の詳細

⑴ 個物の知覚とは同類のものと異類のものからの排除である

 シャーンタラクシタは、【資料2】で挙げたスマティの「限定された対象領域を持

つ」の意味内容を検討する。まず、彼は直接知覚として感官知を取り上げて、それに

よる把握の仕方、すなわち「限定された」仕方とは同類のものと異類のものから排除

されたことを意味するので、感官知は限定者とは結合しない個物/差異を把握すると

考え、そのような知覚はいかなる判断も言語表現も伴っていないと述べる。以下の

TS1270 72は【資料2】への回答である。

  sajātīyavijātīyavyāvr

4

ttārthagrahān matah

4

|

  viśist

4 4

avis

4

ayo bodho na viśes

4

an

4

asan

4

gateh

4

|| (TS1270)

  bhedo vaiśist

4 4

yam uktam

4

hi na viśes

4

an

4

asan

4

gatih

4

|

  bhinnam ity api tad vācā nānuviddham

4

pratīyate || (TS1271)

  

〔感官〕知は、限定者と結合するからではなく、同類のものと異類のものから排除

された対象を把握するから、限定された対象領域を持つと考えられる。(TS1270)

   なぜなら、個物/差異〔こそ〕が「限定された(vaiśist 

4 4

ya)」と言われるものであ

り、限定者とは結合しないからである。さらに、それ(=限定されたもの)は「異

なる」という表現によって貫かれているとは認められない。(TS1271)

カマラシーラによれば、感官知は個物を把握した場合、いかなる限定者とも結合せず、

同類のものと異類のものから排除された単なる対象を把握する

19

。そして、感官知の対

象となっている当該の個物は他のすべての個物を排除することによって把握される

が、仏教徒にとっては、これが「限定される」ことであるという

20

 では、判断や言語表現を伴った有分別知がいつ生じるのかというと、無分別な感官

知の後だとシャーンタラクシタは述べる。

  svabhāvāparanih

4

śes

4

apadārthavyatirekin

4

i |

19  Cf. sajātīyetyādinā pratividhatte. ... tad** atra yadi vyatiriktaviśes

4an4asambandhād viśist4 4avis4ayatvād iti

hetvarthah4, tadā na siddho hetuh4. tathā hi − na bauddhasya viśes4an4am4 nāma kim4 cid asti, yena

tatsambandhagrahan4ād viśist4 4avis4ayo bodhah4 syāt. kim4 tarhi sajātīyavijātīyebhyo vyāvr4ttasyārthamātrasya

grahād grahan4ān mato ist4 4ah4

***viśist

4 4avis4ayo bodhah4. TSP465,21 466.8

<bauddhah

4> = pratividhatte J, Pt

欄外注記/**tad J (cf. de'i phyir T10a5) : yad Pt, G, B/*** ist

4 4ah4 J, B (cf. khas len pa T47a3) : ist4 4ah4 lacking in

Pt, G[「同類のもの」云々によって〔シャーンタラクシタは〕回答する。…その場合、上述の〔推 論式〕に関して、もし、〔仏教徒の論証因と〕否定的随伴関係にある限定者との結合関係に基づい てという意味で、〔スマティによって〕「限定された対象領域を持つから」という論証因の意味内容 が〔述べられている〕ならば、論証因は不成立である。すなわち、仏教徒にとってはいかなる限定 者も存在しないが、そうでない場合、それ(=限定者)との結合関係の把握に基づいて〔感官〕知 は限定された対象領域を持つことになろうが。むしろ、同類のものと異類のものの両者から排除さ れた単なる対象を把握するから、認識するから、〔感官〕知は限定された対象領域を持つと考えら れる、すなわち認められる。]

(12)

  gr

4

hīte sati tasmim

4

s tu vikalpo jāyate tathā || (TS1272)

   他方、

〔個物が〕それ自体とは別のあらゆる諸事物から区別されたものとしてすで

に把握されている場合、それに対してそのように〔「異なる」という〕分別が生じ

る。(TS1272)

カマラシーラによれば、感官知が個物を把握した場合、それは他の個物とは共通しな

い青等の形象を持つ無分別知であるが、その後に判断や言語表現を伴った有分別知が

生じる

21/22

。従って、感官知が限定された対象を把握しているとしても、その時の対象

を他から区別されたものとして認識する有分別知は感官知の後に生じるから、感官知

の有分別性を証明する論証因「限定された対象領域を持つから」は不成立であること

になる

23

20  Cf. katham

4 tarhi viśis4tatvam asya. vaiśist4 4yam asyetyādi vyapadeśo vyatirekīvety āha − bheda ityādi. ...

bhedah4 sajātīyavijātīyebhyo

vyāvr

4ttih4. sā ca nānyā vyāvr4ttād bhāvāt. bhāva eva hi bhedāntarapratiks4epen4a

tanmātrajijñāsāyām4 tathocyate. syād etat − yadi vijātīyasajātīyebhyo bhinnasya vastuno grahan4am, niyamena

tarhi savikalpakam4 grahan4am4 prāptam, bhinnam etad ity evamākārapravr4ttatvāt. anyathā katham4 tadvis4ayam4

syāt, yady anyākārapravr4ttam4 bhavet. na hy anyākārapravr4ttam4 tadvis4ayam4 yuktam atiprasan 4

gād ity āśan4

kyāha − bhinnam ity api tad ityādi. TSP466,9 16 vijātīyebhyo em. G, B : vijātīyabhyo J, Pt[な ら ば、これ(=対象領域)はどのように限定されているのか。これ(=対象領域)は限定された云々 という表現はほとんど否定的〔意味〕であるということについて、〔シャーンタラクシタは〕「個 物/差異〔こそ〕が」云々と述べる。…個物/差異とは同類のものと異類のものの両者からの排除 である。そして、それ(=排除)は排除された事物とは別のものではない。すなわち、他ならぬ 〔その〕事物は他の個物を排除することによってそれ(=事物)自体を知ろうとする場合に以上の ように〔限定されたと〕言われる。〔スマティは〕次のように〔反論する〕かもしれない。「もし、 異類のものと同類のものの両者とは異なる実在が把握されるならば、その場合、必然的に把握は有 分別なものになってしまう。なぜなら、「これは異なる」という〔有分別な〕仕方で〔限定された 対象の把握が〕働くからである。そうでないならば、もし別様に(=無分別に)働く〔把握が〕あ る場合、どのようにそれ(=他から排除された実在)を対象領域とするであろうか。すなわち、過 大適用の過失に陥るので、別様に働く〔無分別な把握〕がそれを対象領域とすることはありえな い。」以上のことを懸念して、〔シャーンタラクシタは〕「さらに、それ(=限定されたもの)は「異 なる」という」云々と述べる。] 21  Cf. katham

4 tarhi bhinnam ity abhidhīyata ity āha − svabhāvāparetyādi. ... svabhāvād apare ye nih4śes4āh4

padārthāh4, tebhyo vyatirekin4i vyāvr4tte gr4hīte sati

, asādhāran

4anīlādyākārapratibhāsanāt paścād bhedād

hyavasāyī śabdākārānusyūto** bhinnam ity abhilapann utpadyate vikalpah

4

21. TSP466,17 20 saty J, G, B : sadha? ty Pt/**ānusyūto J, Pt (cf. rjes su byed pa T, śabdākārānusyūta TSP ad TS128kk, 135kk, 142 143kk) : ānusmr4to G, B[「ならば、どうして異なると言語表現されるのか」と〔スマティが〕いう

ならば、〔シャーンタラクシタは〕「それ自体とは別の」云々と述べる。…〔個物が〕それ自体とは 別のあらゆる諸事物から区別された、排除されたものとしてすでに把握されている場合、非共通な 青等の形象の顕現の後に、個物/差異を判断し、語の形象を伴った分別が「異なる」と言語表現し つつ生じる。]

(13)

⑵ 普遍と特殊は相互に区別されるので、却って有分別知によって把握される

 反対に、限定されない普遍を把握する知がスマティの言うように無分別ならば、今

度は普遍と特殊がどんな関係にあるのかが問題となる。シャーンタラクシタは、普遍

と特殊は相互に区別されて把握されるので、無分別知が限定された対象を把握すると

いう不都合な帰結になると考える。従って、普遍は有分別知によって把握されると結

論する。以下の TS1273 74も【資料2】への回答である。

  viśes

4

an

4

ānavacchinnam

4 *

paraih

4

sāmānyam is

4

yate |

  nirvikalpakavijñānagrāhyam

4

tatrāpy adah

4

**

samam || (TS1273)

   

viśes

4an4ānavacchinnam4 Pt, G, B : viśes4an4ānav{i}acchinnam4 J/

**adah

4 J, Pt : atah4 G, B

  viśes

4

ād dhi viśist

4 4

am

4

tat sāmānyam avagamyate |

  tadgrāhakam atah

4

prāptam

4

vijñānam

4

savikalpakam || (TS1274)

   限定者によって限定されない普遍が論敵たちによって認められ、無分別な認識を

22  TS/TSP 第13章『普遍の考察』では、感官知から言葉を伴った概念知への移行が説明されている。 そこでは、概念知は言語協約の想起によって起こるとされる。Cf. itaś ca smārtatvād tadanyasmr4tivat

pratyaks4atvam ayuktam4 sadādipratyayasyeti darśayann āha − ajalpetyādi. ajalpākāram evādau vijñānam4

tu prajāyate | tatas tu samayābhogas tasmāt smārtam4 tato 'pi te || (729) svalaks4an4e san 4

ketasyākaran4ād

drst4 4 4vā ca vikalpanāt prathamataram4 vastusvalaks4an4avis4ayatayā 'bhilāpasam4sargaviveki vijñānam aks4āśritam

upajāyate. tatah4 paścāt tasminn eva paridrst4 4 4e vastuni samayābhogah4. tadanantaram4 yathāsamayam4

paridrst4 4 4ārthavis4ayās tadadhyavasāyitayā sadādipratyayāh4, tam evārtham4 paridrst4 4 4am abhilapantah4 samutpa

dyamānāh4. katham iva smārtatām4 nāsādayeyuh4. TSP298,5 10[また、次のことからも、すなわち想起さ

れたものであることからも、「存在する」等の知が、それ以外の想起〔に基づく知〕と同じく直接 知覚であることは確証されない、ということを示して、〔シャーンタラクシタは〕「言葉を形象とし ない(ajalpākāra)」と述べる。まず、最初に言葉を形象としない知が生じ、その後に協約の記憶が 起こる。それゆえ、それら(「存在する」等の知)は想起されたものである。また、〔すでに知覚さ れたものを決定すること〕からも、それらは〔想起されたものである〕。(729)自相に対しては言 語協約がつくられないから、〔自相を〕知覚すると、概念知(vikalpana)よりも先に、実在の自相 を対象領域としていることにより、言語表現との結合を持たない知が感官に依存して生じる。その 後に、その知覚された実在に協約の記憶が起こる。その直後に、協約に従って、すでに知覚された ものを対象領域とし、それを確定するものとして、「存在する」等の観念がまさしくその知覚され た対象を言語表現しつつ生じる。〔だから、〕一体全体どうして〔それらの知が〕想起されたものと ならないであろうか。](校訂は竹中[1979:41]に従う。) 23  Cf. na ca vastv abhilāpasvabhāvam 4 tatsam4srst4 4 4ātmatvam4

** vā, yena bhinnam ity abhinnam iti nāmnā sam4yojya grahan4e asati, agr4hītam4

*** syāt. tasmād asiddha eva hetuh

4. TSP466,20 22

na ca vastv J, Pt (cf. dngos po ... kyang ma yin no T10b4 5) : na ced astv G, B/**tatsam

4srst4 4 4ātmatvam4 em. (cf. de dang ldan pa'i

bdag nyid T10b5) : tatsam4srst4 4 4ātmatattvam4 J, Pt, G, B/

***sam

4yojya grahan4e asati, agr4hītam4 em. (cf. sbyor ba

ma bzung (D : gzung P) ba na (D : ni P) mi 'dzin par T10b4) : sam4yojyāgrahan4e saty agr4hītam4 J :

sam4yojyāgrahan4e satyi gr4hītam4 Pt : sam4yojya grahan4e saty agr4hītam4 B : sam4yojya grahan4e sati gr4hītam4 G[だ

が、実在は言語表現を自性とするものではなく、或いはそれ(=言語表現)と結合されることを本 性とするものでもない。そうでない場合、「異なる」「異ならない」といった名称と結合して把握が なされない限り、〔実在の〕把握はないことになろうが。従って、〔「限定された対象領域を持つか ら」という汝の〕論証因は決して成立しない。]

(14)

通じて把握されるとしても、そのような〔普遍〕についても、あのこと(=限定

された対象領域を持つこと)と〔有分別な認識を通じて把握されることとが〕等

しいのである。(TS1273)

   なぜなら、その普遍は特殊から区別された(viśist

4 4

a)ものだと理解されるからで

ある。従って、それを把握する認識は有分別なものであることになる。(TS1274)

カマラシーラによれば、仮にスマティの主張通りに普遍には限定された本質を持つも

のと限定されない本質を持つものがあるとしても、普遍は特殊から区別/排除された

ものだと理解せざるを得ず、それゆえに限定された対象であるから、有分別知によっ

て捉えられることになる

24

。このように、感官知の有分別性を証明する論証因「限定さ

れた対象領域を持つから」は不定でもある。

⑶ 普遍と特殊は相互的排除によって確立されている

 次に、シャーンタラクシタは、普遍と特殊は相互的排除によって確立されていると

回答する。以下の TS1277 78は【資料4】への回答である。

  vais

4

amyasamabhāvo 'yam

4

pravibhakto yadīs

4

yate |

  sāmānyasya viśist

4 4

atvam

4

tadavastham

4

viśes

4

atah

4

|| (TS1277)

  athāvibhakta evāyam asan

4

kīrn

4

ā sthitih

4

katham |

24  Cf. atha vyāvr

4ttivaśād viśist4 4a iti kr4tvā viśist4 4avis4ayatvād iti hetvarthah4 nārthāntaraviśes4an4asambandhāt,

tadāpi svato 'naikāntiko* hetur iti darśayann āha − viśes

4an4etyādi. ... dvirūpam4 hi sāmānyam4 viśes4an4ā

vacchinnarūpam anavacchinnarūpam4 ca. tatra yad anavacchinnarūpam, tan nirvikalpakavijñānagrāhyam

ist4 4am. tatrāpi − sāmānye ada

** etadvikalpakavijñānagrāhyatvam

4 tulyam. katham ity āha − viśes4ād

dhītyādi. ... yasmād***viśes

4ād viśist4 4am4 vyāvr4ttam4 tat sāmānyam4 pratīyate. anyathā sāmānyam eva na syāt,

tato yadi na vyāvarteta****. tataś cāsyāpi sāmānyasya viśes

4ād vyāvr4ttasya grāhakam4 vijñānam4

savikalpakam4 prāpnoti, a6 viśist4 4avis4ayatvāt

*****. na ca bhavati tvanmatena. tasmāt svato 'nekānta****** iti. TSP466,23 467,15 *'naikāntiko em. : (a)naikāntiko J, Pt : naikāntiko G, B/**ada J : ata Pt, G, B/*** yasmād J, Pt, B (cf. gang gi phyir T10b7) : yad dhy asmād G/****vyāvartteta Pt, G, B : vyāvarttete J/***** viśist4 4a J, Pt, G : viśivist4 4a B/ ******nekām 4ta J, Pt : 'naikānta G, B[もし、〔実在と〕異なる対象である限 定者との結合関係に基づくのではなく、排除に基づいて「限定された」と考えて、「限定された対 象領域を持つから」という論証因の意味内容が〔スマティによって明らかにされるならば〕ならば、 その場合にも自ずから論証因は不定である。以上のことを示そうとして、〔シャーンタラクシタは〕 「限定者によって」云々と述べる。…すなわち、普遍は二つの本質を持つ。限定者によって限定さ れた本質を持つものと限定されない本質を持つものである。そのうち、限定されない本質は無分別 な認識を通じて把握されると〔論敵たちによって〕認められている。そのような普遍についても、 あのこと(=限定された対象領域を持つこと)と上述の有分別な認識を通じて把握されることとが 等しいのである。〔スマティが〕どうしてかというならば、〔シャーンタラクシタは〕「なぜなら… 特殊から」云々と述べる。…なぜなら、特殊から区別された、排除されたものがその普遍だと理解 されるからである。そうでない場合、もしそれ(=特殊)から排除されないならば、他ならぬ普遍は ありえない。またそれゆえに、特殊から排除されたこの普遍を把握する認識も、限定された対象領 域を持つから、有分別であることになる。だが、汝の考えによれば、そうはならない。従って、〔「限 定された対象領域を持つから」という汝の論証因は〕自ずから不定であるということ〔になる〕。]

(15)

  anyonyaparihāren

4

a

sthiter gatyantaram

4

na ca || (TS1278)

   

anyonyaparihāren

4a J, Pt, B (cf. phan tshun spangs te T) : anyonyāparihāren4a G

   もし以上の類似性と相異性が差別化されたものと認められるならば、普遍が特殊

とは区別されたものであることは変わらない。(TS1277)

   もし以上の差別化がまったく〔認められ〕ないならば、

〔普遍と特殊の〕無混同な

確立とはいかなるものか。だが、相互的排除による確立以外の〔普遍と特殊の〕

あり方はない。(TS1278)

カマラシーラによれば、仮に諸々の個物が類似と相異の点で把握されることから普遍

と特殊の存在が確立されるとしても、普遍と特殊の両者は差別化(pravibhakta)され

ており、相互に別であるに他ならないということである

25

。なぜなら、相互的排除によ

る確立の場合、一方の自性の否定は他の自性の肯定と不可離的関係にあり、それ以外

の範疇はないからである

26

⑷ 普遍と特殊は別々の知によってではなく、共に有分別知によって把握される

 さらに、シャーンタラクシタは、普遍と特殊は別々の知によって把握されることは

ありえないと回答する。以下の TS1279 80は【資料3】への回答である。

  viśes

4

ātmātireken

4

a nāparam

4

bhedalaks

4

an

4

am |

  tadrūpāsparśane tes

4

u grahan

4

am

4

katham ucyate || (TS1279)

  tadrūpasparśane vāpi

bhedāntaravibhedinah

4

|

  gr

4

hītā iti vijñānam

4

prāptam es

4

u vikalpakam || (TS1280)

25  TSPの註釈は以下の通りである。Cf. vais

4amyasamabhāvo 'yam ityādinā pratividhatte. ... pravibhakta

iti amiśrah4. anyad eva sāmānyam, anya eva viśes4a iti yāvat. sāmānyasya viśes4ato viśist4 4atvam ity

upalaks4an4am. tathā viśes4asyāpi sāmānyato viśist4 4atvam eva, dvayor api parasparasvabhāvavivekena

pravibhaktatvāt. TSP468,10 14 pravibhaktatvāt J, Pt, G : pratibhaktatvāt B[「以上の類似性と相異性 が」云々によって〔シャーンタラクシタは〕回答する。…差別化された(pravibhakta)とは、混じ り合っていないことである。〔つまり、〕普遍と特殊は別のものに他ならないという意味である。普 遍が特殊とは区別されたものであるとは、〔差別化に関する〕提喩である。同様に、特殊もまた普 遍から区別されたものに他ならない。なぜなら、相互に自性を区別することによって、両者は共に 差別化されるからである。] 26  Cf. asan4

kīrn4ā sthitir iti amiśrībhūtā. ... iyam asan 4

kīrn4ā

sthitir na syāt. na pravibhakto nāpravibhakta is4yata iti cet, āha − anyonyetyādi. anyonyaparihārasthitilaks4an4ānām

** ekasvabhāvanis

4edhasyāpara-

vidhināntarīyakatvāt na rāśyantaram asti. TSP468,14 20 asan4

kīrn4ā Pt, G, B : asakīrn4ā J/

**anyonyaparihāra J, B (cf. phan tshun spangs te T11b2) : anyonyāparihāra Pt, G[〔普遍と特殊の〕無混同な確立とは、混 じり合っていない状態にある〔確立〕である。…〔だが、個物の直接知覚において、〕以上の無混 同な確立はありえない。もし、〔スマティが〕「〔類似性と相異性は〕差別化されたものとも差別化 されていないものとも認められない。」というならば、〔シャーンタラクシタは〕「相互的」云々と 述べる。相互的排除による確立を特徴とするものには、一方の自性の否定は他の〔自性〕の肯定と 不可離的関係にあるから、〔それ〕以外の範疇はない。]

(16)

   

vāpi J, Pt (cf. 'ang T47a7) : cāpi G, B

   個物には特殊と同じこと以上の他のあり方はない。〔普遍を把握する知が〕それ

(=個物)の本性と接触しないならば、それら(=複数の個物)に関する把握はど

のように説明されようか。(TS1279)

   或いは、

〔普遍を把握する知が〕それ(=個物)の本性と接触するとしても、他の

個物を区別しているのだから、これら(=複数の個物)に関する「把握される」

という認識は有分別なものになってしまう。(TS1280)

カマラシーラによれば、個物と特殊は同義なのであるが、仮に同一の知が普遍と特殊

を捉えない場合、普遍の把握は複数の個物の把握ではないことになる。また、仮に同

一の知が普遍と特殊を捉える場合、普遍の把握は複数の個物の把握となるが、それは

他との区別を伴っているから、結局は有分別知になってしまうということである

27

 この後、シャーンタラクシタは、TS1281 83で普遍と架空の事物(nirupākhya)、つ

まり無との違いを論じてスマティの所説を論駁し

28

、TS1284において直接知覚は個物

27  Cf. api ca nirviśes

4am4 gr4hītā bhedā iti parasparavyāhatam iti darśayann

āha − viśes

4ātmātireken4etyādi.  

... bhedebhyo hi nānyo viśes4ah4. tasya ca viśes4asya sāmānyagrāhin4ā jñānenāsam4sparśene

**, katham

4 bhedās

tena gr4hītā bhaveyuh4. agr4hītasvabhāvāvyatirekāt

***, te 'py agr

4hītā eveti bhāvah4. atha gr4hītā iti matam, tadā

tadrūpasam4sparśane

**** bhedarūpasam

4sparśane grahan4e, gr4hītāvyatirekād gr4hītasvabhāvavat viśes4o 'pi

gr4hīta eveti es4u bhedes4u yat sāmānyavis4ayatvenābhimatam4 jñānam, tad vikalpakam4 prāptam. TSP468,21

469,7 *darśayann J, Pt, G : darśayānn B/**āsam

4sparśane em. (cf. tadrūpāsparśane TS1279c') : āsam4sparśe

J, Pt, G, B/***agr

4hīta J, G, B (cf. ma bzung na ni T11b4) : anagr4hīta Pt/

****sam 4sparśane Pt, G, B : sam4srpa J[さらにまた、「複数の個物は差異なく把握される。」という〔考え〕は相互に矛盾してい るということを示そうとして、「特殊と同じこと以上の」云々と〔シャーンタラクシタは〕述べる。 …すなわち、諸々の個物より他の特殊はないのである。だが、その特殊が普遍を把握する知と接触 しないならば、どのように複数の個物がそれ(=普遍を把握する知)によって把握されることがあ りえようか。それら(=複数の個物)も、自性が把握されていない〔事物〕と異ならないから決し て把握されないという意味である。もし〔複数の個物が〕把握されると考えた場合、つまり、〔普 遍を把握する知が〕それの本性と接触するならば、すなわち個物の本性と接触する、把握するなら ば、〔一つの個物が〕把握されたことと異ならないから、自性が把握された〔事物〕と同じく、特 殊もまた必ず把握される。だから、およそこれらの複数の個物に関する知が普遍を対象領域とする ものとして認められる場合、それは有分別なものになってしまう。] 28  Cf. nirupākhyāc ca sāmānyam 4 viśist4 4am4 * sam

4pratīyate | ato vikalpakajñānagrāhyam4 tad api te bhavet ||

(1281) nāsatas tad viśist4 4am4 cet kim idānīm4 tadātmakam | no cet tathāpi vaiśist4 4yam4 tasmād asya na kim4

matam || (1282) atadātmakam evedam4 vaiśist4 4yam4 vastuno 'pi hi | nāsadrūpam4 ca sāmānyam4 tad viśist4 4am4 na te

katham || (1283) *viśist

4 4am4 J, B (cf. bye brag can T47b1) : viśes4am4 Pt, G[また普遍は架空の〔事物〕か

ら区別されたものとして了解されている。従って、それ(=普遍)もまた、汝にとって分別知の把 握対象になってしまう。(1281)もし、それ(=普遍)が無から区別されないならば、その場合、 〔普遍は〕それ(=無)と同一なのか。たとえそうではない(=無とは異なる)としても、これ(= 無)はそれ(=普遍)とは区別されたものとは考えられないのか。(1282)なぜなら、実在が〔非 実在から〕このように区別されるとしても、〔以上は〕同一でないことに他ならないからである。ま た、普遍は無を本性としているわけではない。ならば、どうして汝にとっては〔普遍は非実在から〕 区別されないのか。(1283)]

(17)

を把握する無分別知であると結論付けるのである

29

4.参照されたダルマキールティの教義

4.1.アポーハ論について

 以上のように、スマティとシャーンタラクシタの議論は「限定/排除されること」

とは何かをめぐって行われてきた。このテーマはダルマキールティを始めとした仏教

論理学派のアポーハ論と深く関係している。それは、言葉の表示対象としての普遍が

実在することを否認し、概念 A は非 A の排除/否定によって成立しているとする理論

である。従って、言葉はそれの指し示す意味を積極的、肯定的に表示するわけではな

いことになる。ただし、赤松[1980:89 91]が指摘するように、ディグナーガ(ca.480

540)は、言葉はその機能として、知覚された個物を他から区別/排除するに過ぎな

いと考える立場だったが、他方、ダルマキールティは、言葉によって表示される他の

否定が何かを意味する肯定的な形象を持つ概念であり、その概念は外界に実在する個

物に依拠する、つまり個物との整合性を持つと考える立場である。

4.2.個物に関するアポーハ

 シャーンタラクシタがTS1270で論じた「同類のものと異類のものから排除された個

物」は PVⅠ40に由来すると思われる

30

。この偈は個物の規定を論じたものとして戸崎

[1979:88, note64]、船山[1989:6]、吉水[1999b:97]、石田[2005a:179, note1]

等によって取り上げられている。

  sarve bhāvāh

4

svabhāvena svasvabhāvavyavasthiteh

4

|

  svabhāvaparabhāvābhyām

4

yasmād vyāvr

4

ttibhāginah

4

|| (PVⅠ40)

   あらゆる諸事物(=個物)は、自性として、自体に〔のみ〕固有な本質において

確定されているから、同一(=同類)

〔と想定される〕事物からも他(=異類)

〔と

想定される〕事物からも排除に与っている。(PVⅠ40)

自註によれば、各事物(bhāva)は自性(svabhāva)が定まっており、他と混同される

ことのない単一なあり方をしているから、同類と想定される事物からも異類と想定さ

れる事物からも存在論的に異なっているという

31

。船山氏は、PVⅠ40は言葉や概念知

が関与する以前の事物のあり方、すなわち存在のレベルを論じたものであると述べ、各

事物の自性は他のあらゆる事物から区別される根拠として機能すると説明している。

29  Cf. tasmāt svalaks

4an4e jñānam4 yat kim4 cit sam4pravartate | vākpathātītavis4ayam4 sarvam4 tan nirvikalpakam ||

(1284)[従って、自相に対して生じる知は何であれ、すべて言語表現の対象領域を超えており、無 分別である。(1284)]

(18)

4.3.概念的区別に関するアポーハ

 しかし、赤松[1980:99]、赤松[1982:106 107]、船山[1989:8 9]、吉水[1999b:

97 98]によれば、この自性は存在論的には個々の個物を区別する根拠であると同時

に、概念上は一定の群の個物を同一と見なす根拠でもある。なぜなら、個物(実在)

は判断作用を伴う概念知によっては捉えられないけれども、概念知の間接的原因だか

らである。このような問題に関する PVⅠ108cd 句での問いかけに対し、PVⅠ109は次

のように答える。

  katham

4

tā bhinnadhīgrāhyāh

4

samāś ced ekakāryatā |

  sādr

4

śyam

4

nanu dhīh

4

kāryam

4

tāsām

4

sā ca vibhidyate || (PVⅠ108)

  ekapratyavamarśasya hetutvād dhīr abhedinī |

  ekadhīhetubhāvena vyaktīnām apy abhinnatā || (PVⅠ109)

   どうして相異した知によって把握されるそれら(=個物)が類似しているのかと

いうならば、同一の結果を持つことが類似性だからである。だが、諸々の知はそ

れら(=諸個物)の結果であり、そのような知は〔各個物で〕異なっているので

はないか。(PVⅠ108)

   知は無差異なものとして〔顕現する〕。なぜなら、同一判断の原因だからである。

そして、そのような同一の知の原因であることによって、諸個物もまた同一のも

のとして〔知に顕現する〕。(PVⅠ109)

自註によれば、各個物の知は相互に異なっているはずだが、一定の群の個物には異類

の群から区別される共通的異他性(abhinno bheda)があり、それは同一判断をもたらす

原因となっているので、特定の諸対象が無差異なものとして知に顕現するという

32/33

31  Cf. sarva eva hi bhāvāh

4 svarūpasthitayah4. te nātmānam4 paren4a miśrayanti, tasyāparatvaprasan 4

gāt. ... tasmād ime bhāvāh4 sajātīyābhimatād anyasmāc ca vyatiriktāh4, svabhāvenaikarūpatvāt. PVSV24,18 25,15[す な わ

ち、他ならぬあらゆる諸事物は本性において確定されたものである。それらは自体を他と混同する ことはない。なぜなら、それ(=自体)が他であることに陥るからである。…従って、これらの諸 事物は同類と想定される〔事物〕からも他(=異類)〔と想定される事物〕からも〔存在論的に〕異 なっている。なぜなら、自性として単一なあり方をしているからである。]

32  Cf. niveditam etad yathā na bhāvānām

4 svabhāvasam4sargo 'stīti. tatra sam4srst4 4 4ākārā buddhir bhrāntir eva. tām4

tu bhedinah4 padārthāh4 kramen4a vikalpahetavo bhavanto janayanti svabhāvata iti ca. sa tv es4ām abhinno bheda

ity ucyate jñānādeh4 kasya cid ekasya karan4āt atatkārisvabhāvavivekah4. tad api pratidravyam4 bhidyamānam

api prakr4tyaikapratyavamarśasyābhedāvaskandino hetur bhavad abhinnam4 khyāti. ... PVSV56,18 57,3[以上

のことは、諸事物の〔それぞれの〕自性が混合することは決してないというように知らしめられる。 それ(=個物)に対する複合された形をした知は錯覚に他ならない。しかし、個々の個物が分別の 間接的原因である限り、その自性に基づいてそのような〔知〕を生み出す。他方、知等の何らかの 一 つ の も の が 作 ら れ る か ら、そ の 同 様 に 作 用 す る こ と の な い 自 性 を 持 つ も の か ら の 区 別 (atatkārisvabhāvaviveka)がこれら(=個物)の共通的異他性(abhinno bhedah4)と呼ばれる。それ (=知)も〔実際に〕個物ごとに異なっているにもかかわらず、〔個物の〕本性に従って無差異を確 定する同一判断の原因である限り、無差異と思われる。…]

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