偶然と色彩―ヴラジーミル・ナボコフの
「ある日没の細部」
鈴 木 聡
1.
幸福という錯誤2.
偶然と死3.
再構成される細部4.
不確定性の彼方へ1. 幸福という錯誤
ヴラジーミル・ナボコフの『ある日没の細部とその他の短篇小説』(1976年)1)は、19 24年から1935年にかけてロシア語で執筆され(「ベルリーン、リーガ、パリ」で刊行され ていた)亡命ロシア人向けの「日刊紙と雑誌」に発表された十三篇の短篇小説を作者と息子ド ミートリイ・ナボコフの共同作業によって訳出した、同種の企画としては最後となる短篇小説 集である 2)。これら一連の翻訳は、1920年代、1930年代におけるナボコフとはいかな る作家であったか、その作品の全容を窺い知る手段をそもそも有していない英語圏の読者に作 者自身が貴重な接触の機会を与えるという意義を有している。おそらくはそのことをじゅうぶ んに意識したうえで作者は、書誌的情報を含む解説を個々の短篇小説の前置きとして付したの だった。
表題作として巻頭におかれた原著で九ページ足らずの作品、「ある日没の細部」3)にかんする ナボコフの自作解説では、この作品が「1924年六月にベルリーンで書かれ、リーガの亡命 者向け日刊紙『今日』[
Сегодня
]に売却され、同年七月十三日号に掲載された」のち、「作品 集『チョールブの帰還』(スローヴォ社、ベルリーン、1930年)4)に収録された」という事 実関係以外に、「惨劇」(“Катастрофа”)という当初付けられていた「忌まわしい表題」――「自 分に責任があったということはおおいに疑わしい」とナボコフはいう――の変更がもたらす「三 重の利点」が指摘されている(Nabokov 2002: 652)。すなわち、新たな表題には、「物語の主題 的背景に対応し」、「『描写を飛ばし読む』たぐいの読者を当惑させ」、「書評者を激昂させる」と いう利点があるというのである。いい換えるならば、そこでは、「ある日没の細部」という表題は、作品の主題に申し分なく合
致していると同時になんらかの種類の異化効果を附随させたものでもあると主張されている―
―あるいは明白な事実として確認されている――ということになるだろう。このように改題が たんなる恣意的な思いつきではなく、意匠の改変以上の意味がこめられたものなのだとすれば、
初出から数十年を経てなされた、ナボコフによる(息子を下訳者とした)自作の翻訳は、通常 の意味での翻訳を超えた一面を有していたと見なければならなくなってくる。それは、(当然の ことながら)作者自身による旧作の読みなおしであるとともに、場合によってはテクストの補 完、改訂の必要性を満たすものともなっているのである5)。
改題の意味については、もう少し検討しておいてもよさそうだ。「ある日没の細部」は、たし かに「惨劇」というロシア語版の表題(ナボコフにとっては不本意であった原題)によってほ のめかされるような物語内容を実質的に含んでいる。しかし作者は、その物語内容よりもむし ろ物語言説のほうに重点をおき、みずからの(というよりも書き手ないしは語り手の)物語行 為のほうに眼を向けることを正しい読みの様態として唱道しようする。
そして他方では、筋書きを把握するだけで能事畢れりとするような読みかた――表面的には
「惨劇」と呼ばれていっこうに支障ないように思えるテクストが、じつは「日没」を主題論的 解釈の鍵としていることを安直に看過してしまうような読みかた――を断固として、全面的に 拒絶することが、作者の基本的な姿勢として明示される。その姿勢がひとによっては独善とも 倒錯とも受けとめられかねないこと――「書評者を激昂させる」可能性があること――もまた 作者はじゅうぶんに承知しているのである。
物語は、「街路の鏡のような暗がり」(Nabokov 2002: 79)のなかに「最終の路面電車」が消 えてゆき、そのうえを走る架線沿いに「ベンガル花火の閃光が、ぱちぱちと音を立てて震えな がら、青い星のように彼方へと急速に遠ざかっていった」という情景描写からはじまる。それ が、千鳥足で帰宅する途上にある主人公の朦朧とした酔眼をとおしたものであること、彼――
「店員、半神半人、金髪のマルク、糊のきいた高い襟をつけた仕合わせ者」――の名前が正し くはマルク・シュタントフスということが、その後、徐々に明らかになってくる。クラーラと いう名の婚約者との婚儀を翌週に控えた彼は、その夜、友人たちが催してくれた祝宴に出席し たのちに、最終電車に乗り遅れ、「この鏡のような暗闇」のなかを徒歩で母の待つ家に帰る羽目 になるのだった。
翌日、マルクは、わざわざ住居のある建物の入り口まで送ってきたアドルフという名の職場 の同僚に誘われて酒場に出かけることになる。その半時間後、「焔のような日没の火照り」
(Nabokov 2002: 82)が「運河の眺望」を満たすころ、彼は路面電車に乗っていた。はじめ彼 は、自宅で夕食を摂ってからクラーラのもとを訪ねようと思っていたのだが、予定を変えて、
家には寄らず、そのまま婚約者に会いにゆくことにしたのだった。前日、電車に乗り遅れたマ
ルクは、その日、降りるべき停車場を乗り過ごしてしまう。慌てて乗降口に向かう途中、彼は、
座席にすわっていた乗客(「医学誌を読んでいる肥満した紳士」[Nabokov 2002: 83])の足に躓 き、謝罪しようとしながら危うく転びかける。
その直後に電車から飛び降りたものの、マルクは踏鞴を踏み 6)、ちょうど走ってきたバスに 轢かれるという不慮の事故に見舞われる。このときにも彼が遠ざかってゆく路面電車を眼にし ている点には留意しておいてよいだろう。背後から「轟音をあげる塊」が身体に突きあたった 衝撃に動転しながらも、そのすぐあとで彼は、なにごともなかったかのように街路を斜めに横 断してゆく自分自身の姿7)、「マルク・シュタントフスのか細い背中」を遠くに見つけ、ひと跨 ぎでそれに追いつき、そこから先はみずからの足で歩道に近づいてゆくのだった。その瞬間以 後、マルクは、重傷を負い 8)、病院のベッドのうえで息を引き取るまでのあいだ――その直前 にも彼は「少し離れたところで、クラーラのそばにすわっている自分自身」を見ている(Nabokov
2002: 84)――自分が無事にクラーラの家にたどり着き、会話するという想像をめぐらすことに
なる。あるいは、そのような想像を現実と取り違えることになるのである。無事安穏に過ごされてもよかったであろう日常生活のなかで、いともたやすく惹き起こされ た齟齬により、幸福の絶頂 9)にあったはずの主人公の人生は唐突に断ち切られる。しかも、主 人公自身は、そのことに露ほども気づくことはなく、死の直前、急激に甦ってくる痛みにより、
自分が包帯を巻かれ、ベッドのうえに横たわっているという現実にようやく眼醒めるのである。
そのときになっても彼は、なぜクラーラは自分のそばにいないのかと訝るだけなのだ(Nabokov
2002: 85)
。このような状況の皮肉さは、マルクが仕事に出かけているあいだに、彼の母が、クラーラの母であるハイゼ夫人の突然の訪問を受け、クラーラが急にマルクとの婚約の破棄をい い出したことを聞かされるという場面(Nabokov 2002: 81-82)の挿入によっていっそう強めら れているといえるだろう。
マルクの襟の白い線のうえに残された後頭部の髪の毛の尖端、「理髪師の鋏を逃れた、おかし な、少年らしい小さな先っぽ」(Nabokov 2002: 79)のおかげで、彼に恋するようになったクラ ーラは、一年まえに母から部屋を借りていた「男前の破産した外国人」に好意をいだいたこと があった。それにもかかわらず、彼女はマルクにたいして、その外国人(家賃を踏み倒して姿 を消していた)のことは完全に忘れたと断言していたのだった。ところが、そのかつての下宿 人が不意に舞いもどってきたために――それは、マルクが事故に遭った日の午前のことであっ た――クラーラは、自分がその男に夢中になっていることを口実として、マルクにはもう二度 と会いたくないと母に告げ、マルクの母であるシュタントフス夫人にも伝えにゆかせたのだっ た。マルクの与り知らぬところで、そのような思いもかけぬ急転回が生じていたのである。
三人称を用いながら、多分に主人公の主観に密着した記述を積み重ねてきた語り手は、唯一
この箇所において、主人公を立ち会わせず、主人公の知り得ない情報を読者に提供しようとす る。結局のところ、クラーラはマルクを愛していたわけではなかった。ふたりの婚約は、主に クラーラの妥協か衝動の産物であったらしい。マルクが独り善がりに築きあげてきた未来像は 砂上の楼閣にすぎなかったわけである。そして、すべてが脆くも崩れ去ろうとしているあいだ に、彼は、真実を知ることもなく、自分に残された僅かな時間を空費することを余儀なくされ ているのだった。
そうした事情が、このような劇的転回の形で明るみに出されなかったとしても、マルクが直 情的にみずからの幸福――「至福と平安に満ちた一生」――を信じこんでいることにかんして は、テクスト中に一抹の危惧の念がほのめかされていないわけではなかった。酔っ払って帰宅 した息子にたいして、彼の母は、クラーラがほんの少しまえまで、「外国人のいかさま師かなに か」(Nabokov 2002: 81)と交際していたことを気懸かりそうに口にしかけていた。
翌日、仕事中にマルクは、自分たちの人生が居心地のよい穏やかなものとなるだろうとクラ ーラに語ったとき、彼女が突然泣き出したことを思い出す。マルクは、「喜びの涙」だというク ラーラの言葉を軽信し、彼女の顔が「蒼白で困じ果てていた」のも幸福のせいだったに違いな いとみずからにいい聞かせる。だが、それが自己瞞着あるいは錯誤であり、そのとき兆してい たものが、彼の過剰な期待が破綻の危機に瀕しているという暗示であったことは否定しがたい であろう。近い将来における破局がすでに予告されていたにもかかわらず、それが察知される ことはついになかったのである。
中心的登場人物の認識や知覚に逃れがたい死角ないしは盲点が随伴し、その人物がとらわれ ている個人的な固執や妄執ゆえに、その人物による陳述にたいして読者が全幅の信頼をおくこ とが困難になるという設定は、ナボコフの作品の多くに共通するものと考えてよいだろう。た とえば、分身あるいはドッペルゲンガーという十九世紀文学の伝統に由来するモティーフを部 分的に継承しながら、それを巧みに換骨奪胎した長篇小説『絶望』(ロシア語版1934年、1 936年、英語版1937年、1965年)10)を例として取りあげてみてもよい。
自分が死んだものと偽装して、保険金を詐取する計画を核に据えたこの作品にあっては、語 り手=主人公であるヘルマン(ロシア語版ではゲールマン)・カルローヴィチが、自分の身代わ りとして殺害するフェーリクスの容貌は、彼が思いこんでいるほど(自分の分身と思えるほど)
彼に相似しているわけではない。それどころか、別人であることがヘルマン以外のだれの眼に も歴然としているらしいところから判断して、彼が見いだした相似とはじつは、たんなる主観 的、一方的な思い違いにすぎなかったのであり、彼がめぐらした「完全犯罪」(Nabokov 1989 (1):
123)の計画は、当初から頓挫を運命づけられていたといって差し支えないのである。
このように見てきたことことからもある程度判然とするように、初期の作品ではあるけれど
も、「ある日没の細部」のうちに、後年のナボコフの作品に確実に引き継がれることになる構成 要素が認められることは疑いない。ブライアン・ボイドが初期の短篇小説の特徴と見なしてい る「めぐり合わせと運命のアイロニー」11)、偶然のいたずらによって人びとの運命が弄ばれる という基本的な筋立てもまた、のちの作品においてよりいっそう精緻に織りなされてゆくこと になるものとして論じることは可能であろう。
2. 偶然と死
長篇小説『マーシェンカ』(ロシア語版1926年、英語版1970年)12)を含めて、ナボコ フの初期の作品群にあっては、実体と影13)、光と闇14)の鮮やかな対比が一貫しているとともに、
近代的な都市の景観とその美的特質を決定づけている建築物の意匠ならびに構造、各種の乗り 物の速度と運動、機械的な事物にたいする関心、特定の色彩の反覆的な生起、幾何学的な図形 や紋様の偶発的、瞬間的な形成など、テクストの各所に頻出するいくつかの共通した要素があ る。
「ある日没の細部」において、筋立てにかかわってくる重要な出来事となっている交通機関 によってもたらされる死が、ちょうど同じころに執筆された短篇小説「偶然の出来事」におい ても描かれている点もまた銘記に価する15)。両者のあいだには、路面電車とベルリーン・パリ 間の国際列車という差異はあるものの、いずれの場合も、原型となっているものが、レーフ・
トルストイの長篇小説『アンナ・カレーニナ』(ナボコフ独自の表記にしたがえば『アンナ・カ レーニン』、1877年)第七部の一場面であることは容易に想像し得るだろう。
「偶然の出来事」の主人公である食堂車の給仕、アレクセーイ・リヴォーヴィチ・ルージン は、切り離された食堂車が停車している駅に通過列車がはいってくる直前、プラットフォーム から飛び降りる。彼の場合は、祖国を離れ、妻が消息不明となっていることからくる喪失感に 苛まれ、絶望のあまり死を希求するようになり、事前に自殺の計画を練っていた。彼が死にい たる状況は、たとえ事前の計画とは関係のない衝動的なものであったとしても、表面的に見れ ば、「ある日没の細部」の主人公マルク・シュタントフスのそれとは対照的なものであったとい うこともできよう。
しかしながら、いずれの場合においても、運命によって定められた必然と思えるものはじつ はたんなる偶然のなりゆきなのではないかという根本的な疑問、不可避の帰結であったように 思えるものも、もしかすれば避けられていたのではないかという蟠りが、最後に残されること になるのはたしかだ。「偶然の出来事」の主人公は、生き別れとなった妻エレーナ・ニコラーエ ヴナ・ルージナが自分を捜し求めていること、自分が給仕として勤務している列車にたままた 妻が乗客として乗っていたことに気づかない。事態が別様に推移していたとすれば、ルージン
が死なずに済んでいた可能性はけっして皆無ではなかったというべきであろう。
「ある日没の細部」の場合にも、未来の不確定性という問題はつねに付き纏っている。われ われの知る現在が、いくつかあり得た分岐のうちのひとつにすぎないのではないかという感覚 は、主人公が見るもうひとりの自分の姿と、仮想現実的に彼が経験する婚約者との遣り取りに よって表象されるだろう。主人公が自分にとって都合のよい夢想に浸っているにもかかわらず、
少しのあいだ、それを客観的記述と連続したもの、同一次元にあるもののごとく読者に錯覚さ せるという、詐術めいた手法は、短篇小説「恩恵」(ロシア語版1924年、英語版1995年)
16) によって先鞭をつけられ17) 、短篇小説「名誉の問題」(ロシア語版1927年、英語版19 73年)18)においても用いられることになるものである。
また、生と死の狭間にある人間の意識、生命の危機に瀕したひとが陥る認識上の錯誤は、ナ ボコフが「小さな長篇小説」と呼ぶ『目』(ロシア語版1930年、1938年、英語版196 5年)19)のなかでは、いわば探偵小説的なトリックあるいは論理の鍵となってくる。この作品 における匿名の語り手である「私」は、ある出来事をきっかけとして、自分自身もまた虚構内 の登場人物としての本来的な身元を有しているにもかかわらず、そのことをいったん無条件に 保留したまま、あたかも、虚構内の世界を暫定的な現実として読んでいる読者にも比肩し得る 局外者であるかのようにふるまいはじめるのだ。
そのきっかけとは――「ある日没の細部」の主人公マルクが、自分が臨終の床にあるという 現実から遊離したのとは逆に――「私」が自分の死を信じこんだことである。家庭教師として 雇われながら、人妻と浮気をしていた語り手は、嫉妬深い夫から暴力を振るわれて、逃げまわ る情けない姿を教え子であるその家のふたりの男児に目撃される。その屈辱感が原因となり、
衝動的に拳銃自殺を図った「私」が、自分はもうすでに死んでいるはずだと拙速に思いこみは じめるのは、さほど不自然なことではないといえるかもしれない。
病院で意識を回復するときにも、「私」は、そのこと自体が肉体の死後における意識の残存を 示す事象であるとあらかじめ納得している。そして「私」は、自分の現状とは亡霊と同様のも のであり、自分はいわば外界を傍観する眼球と化したのだと思い描く。その結果、「私」が主た る観察対象として選んだスムーロフという登場人物がじつは「私」と同一人物にほかならない という単純な事実が、物語の最終的局面にいたるまで留保され、覆い隠されることとなるので ある。
いずれの作品においても主人公たちはそれぞれに迷妄に陥っている。それゆえに彼らが逢着 しなければならない顚末を描くことにかけては、ナボコフはあくまでも冷徹である。そして、
そこにいたるまでの紆余曲折、未来の予示にあたる暗合、重大な結果を招くことになる、さり げない擦れ違いなどの組み立ては、周到かつ巧妙きわまりない。主人公たちの行く末に読者が
なにを期待し、なにを予期するにしても、抜け目なく機先を制そうとする点においてもナボコ フの処置は徹底している。作中人物たちの軽々しい期待が必ずや裏切られ、極端な場合にあっ ては罰せられることにもなりかねない点を、読者は銘記しておく必要があるのだ。
「ある日没の細部」にかんしていえば、自分の幸福が末永く続くことを堅く信じて疑わない ということ以外に、マルクが不幸な目に遭わなければならない理由はとくになさそうだ。「彼の 顔は非常に若々しく、顎にはピンクの面皰、満足げな輝く眼をもち、盆の窪には切り揃えられ ていない先っぽが残っていた……。運命が彼のことを容赦してくれてもよかったのではないか と思うひともいるだろう。」(Nabokov 2002: 82) ことによると、この人物は、(ナボコフの他 の諸作品の主人公たちとは異なり)だれからも好感を寄せられて不思議のない稀有な存在なの かもしれない。しかしながら、いうまでもなく、それが平穏な人生行路の保証となるわけでは なく、読者が多少なりとも主人公に感情移入しようとしたとしても、所詮無益なことでしかな い。別言するならば、それほどまでに、ナボコフの諸作品の登場人物たちを翻弄する運命の力 は強大で理不尽なものなのだということにもなるだろう。
しかしながら、そのような物語のおおまかな流れから運命論的、決定論的な教訓や結論を引 き出すことが肝要なわけでないことは強調するまでもあるまい。一定の枠組みや方向性を定め ることは、一見瑣末なことがら、なにげなく見おとしてしまいそうな人生のひと齣になんらか の意味を賦与するためにこそ必要とされている。物語がマルクの最期によって終結を迎えるか らこそ、たとえば、彼が二度にわたって眼にする、遠ざかってゆく路面電車というきわめて日 常的な光景すらも、象徴的と称してよさそうな含蓄をともなうようになるのである。同様に、
暗闇のなかで架線沿いに放たれた「青い火花」(Nabokov 2002: 80)や、日没が、ともにいずれ は暗黒に呑みこまれてゆくものであることも、主人公の死とけっして無関係ではないと解釈す ることができるだろう。
幸福感に昂揚しながら帰宅した夜、マルクは、亡き父が「奇妙な微笑」(Nabokov 2002: 81)を 浮かべながら自分に近づき、彼を抱き竦めて、くすぐりはじめるという奇態な夢に魘される 20)。 翌日、彼は、同僚のアドルフに肋骨のあたりを突かれて、その夢のことを思い出す。それが、
ありふれた瑣事でもなければ、精神分析の対象となり得るものでもなく、それらを超えた、な んらかの預言のような(主人公の死に直接かかわるような)含みをもつものなのかどうかは定 かではない。けれども、作品を締め括る最後の一文――「マルクはもはや息をしていなかった、
マルクは旅立っていった――どこへ、どんな他の夢のなかへ去ったのかはだれにもわからない」
(Nabokov 2002: 85)――に照らしてみるならば、夢が異界との接点、異界の啓示、あるいは 異界そのものの顕現であることは、ほぼまちがいないように思われる。
厳密にいうならば、ある日の深夜から翌日の日没過ぎまでの出来事をたどっていると思われ
る「ある日没の細部」にあっては、その短時間のあいだに、いくつかのことがらの反覆あるい は反響、それらの逆転あるいは転倒21)、さらに加えてマルクの脳裡におけるフラッシュバック が生じている。最初の日、酔歩蹣跚としていたにもかかわらず、マルクは帰宅して母と話をす ることができたが、翌日は、住居のある建物の(「冷ややかな空虚に向かって開く」[Nabokov
2002: 82]
)扉を押し開いておきながら、結局は、そこまで付いてきたアドルフに誘われるまま酒場に向かい、そのあとすぐに婚約者であるクラーラに会いにゆくことにする(そのため、母 の口からクラーラの心変わりについて聞かされることがない)。
走行中の路面電車から飛び降りて事故に遭ってから、自分が病院のベッドのなかにいること に気づくまでのあいだ、一種の夢のなかでマルクが擬似体験するものは、おおざっぱにいえば、
彼の記憶の断片を接合し再構成したものとなっている。前日、彼が建物と建物のあいだの矩形 の空き地に駐車しているのを目撃した数台の「巨大な柩」(Nabokov 2002: 80)に似た家具運搬 車が、「巨人のような柩」(Nabokov 2002: 83)と表現を変えてふたたび現われるのはその一例 である。
前日、現実に見た家具運搬車の積み荷について、マルクは、「楢材のトランク」、「鉄製の蜘蛛 に似たシャンデリア」、「ダブルベッドの重い骨組み」などと想像をめぐらせるが、じっさいに それをたしかめたりはしない。それにたいして、半無意識状態で、あるいは生と死の境目にあ る過渡的状態で彼が想像するのは「宝物」、「巨人の骸骨」、「豪華な家具の埃まみれの山」であ り、クラーラに聞かれたときに困るからという理由で、どうしてもたしかめなければという衝 迫に取り憑かれた彼は、一台の運搬車の扉を押し開けるのである。
家具運搬車の荷台にマルクが見いだしたものとは、「喜劇的に傾いで平衡を保った」小さな編 組細工の三脚椅子22)が中央に一脚おかれていることを除けばなにもない、がらんとした空間で あった。それが表象しているものは、マルクがそれまで浸りきってきた幸福感や充足感の対極 に位置する欠落、欠損、不毛であるとひとまずいっておくことはできるだろう。とはいうもの の、それだけの説明ではじゅうぶんではないように思われる。
その運搬車の扉を開いたときのマルクの動作は、彼が自宅のある建物の扉を開いたときのそ れと同一であり、どちらの扉の場合も、その向こうに広がっていたものとはがらんとした空間 なのだった23)。つまり、マルクの夢想のなかでは、ふたつの(というよりも複数の)記憶が結 び合わされて、ひとつの出来事のうちに統合されているのだと考えることができるのである。
3. 再構成される細部
この例のように、事故に遭うまでのマルクの記憶は、いったん文脈を解体されるとともに、
その個々の細部や断片が、事故後の彼の夢想のなかで結合しなおされることとなる。そのため、
家具運搬車と、それらが駐車していた空き地を囲む塀(「親しみ深い塀」[Nabokov 2002: 80]、
「例の黒い塀」[Nabokov 2002: 83])は、本来、マルクの自宅附近にあったはずなのに、想像 上では、クラーラの家の近くに移し換えられるのである。のちほど改めて取りあげてみるべき だろうが、本文中でしばしば言及され、マルクにとってはクラーラという女性の個性を特徴づ ける枢要な要素となっているらしい、髪の毛の「赤い焔」(Nabokov 2002: 79)24)と「緑の服」
のそれぞれの色彩が他の事物におよんでいる理由にしても、マルクの主観が、想像を紡ぎ出す 材料としてそれらを必要としているのだと単純化してかたづけることは容易であろう。
「ある日没の細部」の全体を組み立てているイメージや印象の受容者あるいは媒介者として 想定されるマルクが、ただたんにこのテクストの中心となっているだけにとどまらず、結婚を 間近に控えた昂揚感につつまれていることから、その周囲に、特異な、いわば例外的、特権的 な生活環境と生活時間を波及させる源ともなっているということは考えに入れておいてよさそ うだ。彼にとっては、日頃、人びとが等閑に付している微細なあれこれのものが――卑俗なも のも詩的なものも含めて――名状しがたい風情や魅惑を醸し出しているように感じられる。細 いステッキを振り、靴音を立てながら、深夜の、人気のない街路を覚束ない足取りで歩むとき、
売店で売られている「フランクフルト・ソーセージ」(Nabokov 2002: 80)25)、「月」、「架線沿い に遠ざかってゆく青い火花」が、「甘美な憐憫」を掻き立てるのである。
マルク自身も、いま自分の眼に新鮮に映っているものが、日常的には多くのひとの関心の埒 外にあるということを改めて痛感する瞬間がある。間もなくクラーラに会えるという考えで心 を浮き立たせつつ、彼は、灰色の建物の「屋根、上層階の上方を飾る繰形、黄金の尖端がつい た避雷針、石造りの丸屋根、小円柱」(Nabokov 2002: 82)という、日中、人びとがうえを見あ げないためにほとんど気づくことのないものにふと眼をとめる。「それら上層階の突出部、バル コニー、蛇腹、支柱」が、「豊かな黄土色、日没時の大気の温かみ」を浴び、「黄褐色の輝き」
を放つことにより、くすんだ色合いの建物正面とのあいだに鮮明な対比をつくり出しているさ まが、「思いも寄らない」、「魔術的」なもののように思えるのである。
視点人物の多幸感は、高層建築の上層階ほど沈みかけた太陽の光に近い色彩に染まっている という描写に投射されることにより、その眺めによって呼び醒まされた詩的あるいは美的な感 興と呼応することとなる。だが、そうしたすべてのものが、長続きする道理がないことはあえ て指摘するまでもあるまい。夕日が完全に沈みきるまでの時間が限られているのと同様、マル クが生を満喫できるものと信じこんでいられるのも残り僅かのあいだだけのことなのだ。つぎ にマルクが建物の各部分に注意を向けるときには、それらは安定を失い、重力に抗うかのごと く空中に浮游しはじめている。現実の情景であったはずのものが、よりいっそう煌びやかに潤 色され、幻想的とも超現実的とも呼んでよさそうな趣を備えるにいたるのだ。
「日没の色彩は空の半分に広がっていた。上層階と屋根は壮麗な光を浴びていた。マルクは 上空に、半透明の柱廊式玄関、帯状装飾とフレスコ画、 オレンジ色の薔薇で覆われた格子垣、
黄金の、耐えがたいまでに灼熱した竪琴を空に向けて掲げた翼ある彫像たちを見て取った。眩 く波打ちながら、霊妙に、祝祭的に、それらの建築学的な魅惑は天空の彼方へと遠ざかってゆ き、マルクは、高みに漂っているそれらの回廊、それらの殿堂にどうしてこれまで気づかずに いたのか訝しく思った。」(Nabokov 2002: 83)
この箇所では明らかにそれまでの記述とのあいだに分裂が生じ、それまでとは異なるなにか、
現実的なものから現実的ではないなにかへの転換が起こっている。読みかたによっては、ここ でマルクが瞥見しているものとは、肉体の死後にひとが参入することになる異界にほかならな い26)とか、ここでマルクは、日常的な次元から離脱して、超俗的、藝術家的なヴィジョンに達 しているのだ27)とする解釈も可能となろう。しかし、事故によってもたらされた物理的な衝撃 が予期せざる分岐点となって28)、それまでひたすら肉体的、身体的な存在として日常を過ごし てきた主人公が、外面から内面へ、精神的なもの、あるいは創造的なものへと沈潜するように なるというふうに、物語を単純化することにはやや無理があるように感じられる。
事故のまえにもマルクが街並みのうえのほう、夕映えで色を変えているあたりを見やってい たことを忘れてはなるまい。それは事故後に彼が見た建物からはやや離れた、べつの場所であ ろう。ともあれ、路面電車から飛び降りたとき、彼の視野のうちにとらえられたものが、通り 沿いにある建物、それもベルリーン大聖堂29)のようなやや古風な建造物であったことは想像に 難くない。つまり、基本にあるものは視点人物の眼にじっさいに映じた現実の光景であるはず であり、それを擬似‐天上的、擬似‐宗教的なヴィジョンとして短絡的に受けとめることはで きないのだ。
いずれにしても、「柱廊式玄関」、「フレスコ画」、「格子垣」など雑多な細部が、建物の外部か 内部かという区別もなく、ことごとく上空に浮かんでいるというのは、とりもなおさず、それ が実体的なものではなくなりつつあること、客観的に捕捉された真の映像とは異質ななにかへ と近づいていることを示している。ここで客観的現実から個人的幻想への変容(飛躍というべ きだろうか)、あるいは両者の断絶が発生していることはたしかであるようだ。それは、マルク の主観という観点からいえば、日常のなかで愛と結婚にかかわる幻想に惑溺してきた彼が、無 事に婚約者に会いにゆくという、自己の行動の連続性にかかわる、もうひとつの(真の意味で の)幻想へと移行することをも意味しているだろう。そのような意味の多層化を念頭におくに しても、断絶であれ移行であれ、その契機となるものが直前のどこかにあったことはまちがい ないのである。
路面電車から飛び降り、バスに追突される一瞬のうちに、マルクは「いくつかの奇妙なこと」
を同時に経験する。遠ざかる路面電車の前方で車掌が憤激してなにかを叫ぶ。乗降口から眺め たときには、「滑らかに輝きながら」流れ去っていったアスファルトが、「鞦韆の座板」のよう に跳ねあがる。背後から轟音が迫り、重々しい落雷に全身を貫かれたような衝撃を覚える。し かし、そのあとはなにごともない。彼は、「光沢のあるアスファルト」のうえにひとり佇んでい るだけであった。そのあとに彼は、「広々としていて賑わっている」街路と夕日に照らされた建 物を見るのだ。
なんらかの決定的な分岐が生じるとともに、マルクは、本来、知覚すべきもの(苦痛)を知 覚せず、知覚していないはずのものを知覚するようになる。そのような知覚の混乱がテクスト のこのあたりで芽生えはじめていることは疑いない。もう少しでバスに轢かれそうになっただ けのことだとマルクは自分を納得させる。だが、結局はなにごとも起こらなかったというのが 偽りである以上、事前と事後がなんの綻びもなく連続しているかのごとく思いなすこともまた 偽りであるしかない。そのような綻びがあるからこそ、事故後のマルクの夢想あるいは幻視は、
現実から遊離した、荒唐無稽なパスティーシュめいたものと化してゆかざるを得ないのだ。そ の場にはないものが、記憶の断片から採取され、異なる文脈のうちで再構成、再統合された結 果、さまざまな事物が、いまにもばらばらになりそうな危うい均衡のうちに配列されてゆくの である。
すでに触れておいた家具運搬車の印象が、じっさいにマルクが眼にしたわけではない三脚椅 子という積み荷を付け加えることにより、無気味さと不吉さを増し、滑稽さすら感じさせるよ うになっていることは重ねて強調しておいてよいだろう。また、その椅子に必要な脚が一本欠 けているのだとすれば、ここにおいても、作品中でたびたび言及されてきた脚と足――路面電 車のなかでマルクが躓いた紳士の足も含まれよう――の系列は持続しているのだということに なる。
運搬車の反対のがわから出ると、ふたたび「熱い夕暮れの赤熱光」が眼にはいる。そして気 づいてみると、マルクはクラーラの家のまえにきているのだった。見たところ、この場面では、
マルクの記憶に鮮やかに刻みこまれているクラーラの赤い髪の毛と緑の服の色彩が他のものへ と横滑りしているかのように思われる。クラーラの家の窓を遮っているものが「緑の枝」
(Nabokov 2002: 84)であり、クラーラの髪ではなく、「彼女の剝き出しにされた腋窩の繁み」
の色が「小豆色」であったと記されるのである。
「途方もなく宏大で明るい」食堂にはいってみると、そこには、アドルフや、路面電車のな かで医学誌を読んでいた紳士30)を含めて、これまでクラーラの家ではついぞ出会ったことのな い人びとが集まっていた。クラーラのそばにすわったつぎの瞬間、マルクは、「残虐非道な痛み の電光」が全身を駆け抜けるのを感じる。その途端にクラーラの緑の服は、流れるように遠ざ
かり、縮小して、「ランプ用の緑の傘」に変わる。そのときには、マルクは、痛みに襲われなが ら、ランプのしたに横たわっているのだった。こうして、緑の服を着たクラーラの横にすわっ ているマルクと、緑色に輝くランプのしたに横たわったマルクのあいだで――知覚していない ものと、知覚しているもののあいだで――葛藤が演じられることとなる。
一読したかぎりでは、「緑の傘」はクラーラの緑の服から色彩を写し取ったものであるように も思える。しかし、痛みのあまり、マルクがついに事実を認めざるを得なくなるとき、最終的 にはっきりとわかるように、じっさいに起こっていることがらからいえば、病室の天井に吊さ れたランプから発された緑色の光が、マルクの夢想のなかでクラーラの服の色へと置き換えら れているのだった。さらに、その夢想のなかで、クラーラの赤い髪の毛が前面に現われること がなく、ただ彼女の腋毛にその色彩がかろうじて窺えるのみになっているのは、夕日の残照が しだいに失せてゆくこととも若干関係しているようである。
すなわち、この場面にあっては、表面上、記憶が想像の材料を提供しているかのように感じ られることはたしかであるものの、じっさいには、夕映えの時間帯が終わり、そのいっぽうで マルクの命が失われてゆこうとしているという現実と、その現実を照らし出しているランプの 緑色の輝きが、日没に代わって覇権を得ようとしていることのほうが重要なのである。
そうだとすれば、読者が間接的な情報をとおしてしか思い浮かべることのできないクラーラ についてもっとも頻繁に前景化されている、赤い髪の毛や緑の服は、物語の後半部分において 浮かびあがってくる暖色と寒色という二種の対照的な色彩の対比――それが生と死の境界にお ける鬩ぎ合いを表象しているとする解釈の可能性はあり得るだろう――を前駆的に呈示してい たにすぎなかったということになろう。その意味で、この登場人物は徹頭徹尾、記号的な役割 しか果たしていなかったのだといわなければなるまい。
4. 不確定性の彼方へ
クラーラの人物像は明確ではなく、その存在感はきわめて稀薄である。マルクの記憶のなか でも、夢想のなかでも、彼女が発した言葉はほんの僅かしかない。マルク自身にしてみても、
自分が酩酊していること、幸福であることを幾度となく独言し確認しなおしていることにくら べれば、他人と交わす会話の分量は極端に乏しくなっている。それらの例からもわかるとおり、
短篇小説としては当然のことながら、全般的に見て、「ある日没の細部」の各部分における叙述 は、最小限といってよいほどに切り詰められたものとなっているのである。
それにもかかわらず、ここでは、いくつかの基本色彩語が意図的に繰り返され、特定の色彩 を連想させる表現が克明に施されている。その点は、このテクストの特徴として注目されてよ いだろう。すでに述べてきたとおり、クラーラの服とランプの傘の双方について、その対象に
焦点が絞られるたびごとに、律儀と思えるくらい、必ず決まって「緑の」という形容詞が冠さ れるのである。
それにたいして、「赤い」という形容詞は、じっさいには、クラーラの髪の毛にかんするかぎ りは一回しか使用されていない31)。その代わりとなっているのは、「小豆色」、「杏ジャムの色」
(Nabokov 2002: 81)などの色彩表現が用いられる。いっぽう、日没は「赤」などの色彩をさ す形容詞と直結することはない。夕映えに照らし出された都市の景観にかんして、テクストは、
焔や熱、燃えあがっているものや輝いているものを連想させる種々の表現を駆使し、情緒的に、
あるいは換喩的に明るい色合いを呼び起こすことに専念しているのである。
夕日は、雨に濡れた跡が縞になって残っている橋を「金色の狭い縁取り」(Nabokov 2002: 82)
で飾る(そのうえを「小さな黒い人影」が通ってゆく)。それは、「ひとりの洒落者」の靴や「ま だ乾いていない水たまり」に反射し、灰色の街並み、とりわけ建物の上層階を「黄土色」、「黄 褐色」などの色合いに染める。日没にたいする偏愛ゆえに、作者自身が、興趣を覚えつつ、日 頃から習慣的に行なってきた観察にもとづくものと思われるが32)、このように入念になされた 細部の描出と、ことに色彩にかかわる表現を慎重に選んで場面を構成してゆく筆致には、一幅 の絵画を仕上げる画家を髣髴させるところがあるともいえるだろう。
「惨劇」というロシア語版の表題に代わって与えられた英語版の表題が遺憾なく表わしてい るように、日没時の都市の眺めに重点がおかれているとはいいながら、全体的に見てみても、
「ある日没の細部」のテクストが絵画的といってよい様相を呈していることは認めてよさそう だ。周到な計算ないしは設計がなされていることから、とくに目立った色彩語について、それ らがなにか一貫した象徴性を秘めたものであるかのように読み解こうとする向きもあろう。け れども、そうした試みにあっても、テクスト中でつねに優先されているものは美学的配慮であ って、文学的含意はあくまでもそれに附随したものにほかならないという点は見逃されるべき ではない。
テクストの全体を振り返ってみるならば、ことに日没が結果的に有することになる象徴的な 意味合いと関連して、そのかぎりにおいて、色彩に比喩としての解釈をあてはめることも可能 となるものと思われる。とはいっても、個々の色彩になんらかの(おおむね因襲的な)概念を 定型的に、あるいは機械的にあてはめることは妥当ではあるまい。例を挙げるならば、月光に 照らされた屋根の銀色と対比される、屋根の角と角のあいだにある「間隙」(Nabokov 2002: 79)、 保線工事用の「テント小屋」、影、泥で汚れた「手」(Nabokov 2002: 80)、人影、塀などに付さ れた「黒い」という形容詞にしてみても、その色自体を闇や暗黒などの特質と結びつけ、みず からの幸福を信じて疑わない主人公の能天気さにたいする警告、彼の未来に投げかけられた不 穏な予兆などとして読もうとすることは、適切を欠いているといわざるを得ないのだ33)。
以前、『マーシェンカ』に頻出する「黄色い」という形容詞について論じたように 34)、長篇 小説の場合には、一定の色調が継続的に維持されることにより、黄色い事物がしばしば不確定 性や中間性を表わし、時には空疎さ、はかなさ、不自然さと結びつけられたり、時には人工性、
人為性、あるいは虚飾などと結びつけられたりしていることが読み取れるようになっているこ とがある。つまり、テクストのうちで色彩がある種の比喩として、象徴としての機能を発揮し ているとしても、それは、美術史的な伝統なり色彩心理学的な理念なりの外在的根拠、固定観 念、約束事などとは無縁のもの、ナボコフが個別のテクストの内部で独自に構築した意味論的 な体系によって成立しているものなのだということになる。さらに、色彩のみをパターン化し て抽出するのではなく、特定の形容詞と関連づけられた雑多な事物のそれぞれについても、仔 細に検討してみる必要が生じることは贅言を要さないというべきであろう。
「ある日没の細部」の全篇をつうじて一箇所においてのみ言及されている「黄色」とは、マ ルクの住居のある建物の階段附近を照らしている照明の色である(Nabokov 2002: 80)。その色 がなにか比喩的、象徴的な意味を有しているかどうかは見極めがたい。しかしながら、闇のな かで光っているという共通性に着目して、それを、路面電車のパンタグラフが架線と接触する ことによって発した「青い火花」と隣接させてみるならば、クラーラの赤い髪の毛と緑の服と 同様の、暖色と寒色の対比を認めることはたやすいだろう。
要約していえば、「ある日没の細部」における色彩表現は、『マーシェンカ』などの場合とは 異なり、多彩な連結をとおして個々の色彩語を反覆するという手法に重点をおくものではない。
べつのいいかたをするならば、同じ色彩によって括られたイメージの系列が漸次形成され、そ こからさらに、その色彩と結びついた一定の印象が確立され、喚起されるようになってゆくと いうような事態には進展してゆかない。
この作品においては、むしろ、光と闇の対立――マリーナ・トゥルケーヴィチ・ナウマンが
「明暗対照法的な効果」35) と呼ぶもの――と同列におき得るような、暖色と寒色というふたつ の色彩の系統における属性間の対立の枠組みを据えることに主眼がおかれているのである。そ の対立が、最終的に、日没と、病室の天井に吊されたランプが放つ緑色の輝きのあいだのそれ に帰着することは、すでに繰り返し述べてきた。
クラーラに愛されているのだという、みずからの幸福にたいしてマルクが日常的にいだいて いる幻想によってなかば以上を支配され、事故の衝撃によって混濁した意識が見せる幻想によ って後半部分の多くを占められているとはいえ、「ある日没の細部」の叙述の様態は、そのかな りのところが、写真的ないしは映画的なもの 36)、リアリスティックなものを基本としている。
その点は認めておいてよかろうが、その叙述の対象となっているものにかんしては、けっして 漫然と羅列されているわけではなく、注意深い取捨選択が行なわれていることにも注目しなけ
ればなるまい。具体的にいうならば、それは細部の強調と省略によってなされることになる37)。 顔色が「蒼白」38)(Nabokov 2002: 79, 81)であるということ以外、クラーラの顔立ちについて の記述はなく、髪の毛と服の色だけが繰り返し言及されていること、さらにマルクの夢想のな かでは、彼女の髪の毛ではなく、腋毛の色が描写されていることなどが実例となるであろう。
深夜、住居のある階に昇ろうとしたマルクは、酔っ払っていたために、階段の途中で手にも っていたステッキを取り落とし、それを拾うため、階下に戻らなければならなくなる。ここで 意味されているものとは、上昇と下降という対立的な運動の反覆であると見てよい。それがテ クスト上に定着される過程において、とくに鮮やかに描かれているものが階段を落下してゆく ステッキというイメージであることは論を俟たない。そのイメージこそが重要であるからなの だろう。マルクがそのステッキを拾いあげ、もち帰ったことは読み取れるものの、翌日の彼が ステッキをもっている様子はない。翌日、ステッキを手にしているのはマルクではなく、友人 のアドルフなのである(Nabokov 2002: 82)。
この作品のなかでしばしば見られる、扉、蓋、門などを開くという表現においても、強調と 省略が同時になされていると考えることができる。開いたものを閉じるという対になる表現が 一箇所にしか認められないのだ。亡き父に抱き竦められる夢を見た翌日、そのことをふと思い 出したとき、マルクは、「一瞬、自分の魂のなかでなにかが勢いよく開き、驚いて、ほんの少し のあいだ凍りついたように静止してから、急に閉まった」ことを感じる(Nabokov 2002: 81)。 前夜の夢をとおして、彼が死の予感に僅かのあいだだけでも戦き、異界の存在を垣間見ること への恐れに怯えたことはじゅうぶんに考えられるだろう。
この、ほんの一瞬だけ閃いた非日常的な感覚が逆にさし示しているように、扉を開け、閾の 向こうに広がる他の空間(家具運搬車の荷台が表象するようなもの)を瞥見するということ―
―そしてさらには、そこに参入するということ――は、「ある日没の細部」のうちにあって一貫 したモティーフとなっているということができる。その空間を仮に異界と名づけることができ るとしても、それがどのようなものであるかは生者にはとうてい語り得ない。そのため、臨終 の床にあるはずのマルクが、その事実を打ち消そうとして、クラーラのそばにすわっていると いう夢想に立ち返るとき、自分がたったいま経験したことを説明しようとして、彼がテーブル を囲んでいる人びとに向けて発する言葉は不明瞭そのものとなるのである。
「その外国人は如上の祈りを河辺で捧げている……」(Nabokov 2002: 84)39) ――その言葉に よってマルクは、万事を明晰にし、その場にいる全員に理解されたような気になるが、もとよ りそれは、譫妄状態がもたらした囈言のようなものにすぎない。マルクがその言葉どおりのヴ ィジョンを眼にしたように思ったという可能性はあるだろう。またそれが、事故のまえに彼が 橋のうえに見た人影か、事故のあとに彼が上空に浮かんでいるのを見た「テンペラ画」と漠然
と関連しているということも考えられる40)。
どのように解釈してみるにしても、マルクがこの世のものではないヴィジョンに接近しつつ あったことは、ほぼまちがいない。そしてその結果として、彼が、「ある日没の細部」の基調と もなってきた、定めがたく、当てにならない未来という、不確定性をめぐる難題の果てへ、不 可知論の闇の奥へ、生と死の境界の向こうがわへと消失しようとしていることは否定できない ようだ。
なにを意味しているのか判然としない言葉であっても、とりあえずそれで納得しなければな らないほどに、ひとは、みずからの死後にあるものにかんして確信をいだくことができずにい る。いや、マルクが、自分の身に死が迫りつつあることを最後の最後まで悟ることなく終わる という苦い顚末を踏まえるならば、ごく間近の未来についてすら、ひとが確実に知り得ること はなにひとつないというべきであろう。夕映えが眩く荘厳に照らし出していたものとは、ただ 束の間の現在のみだったのである。
註
1) Vladimir Nabokov, Details of a Sunset (New York: McGraw-Hill Company, 1976).
2) 『九篇の短篇小説』(1947年、Vladimir Nabokov, Nine Stories [New York: New Directions,1947])を増 補した『ナボコフの一ダース』(1958年、Vladimir Nabokov, Nabokov’s Dozen [Garden City, New York:
Doubleday and Company, 1958])以降のナボコフの短篇小説集は、(『ナボコフの四重奏』[1966年、
Nabokov’s Quartet (New York: Phaedra, 1966) ]のような例外はあるものの)大半(『ロシア美人とその他の
短篇小説』[1973年、Russian Beauty and Other Stories (New York: McGraw-Hill Company, 1973)]、『独 裁者殺しとその他の短篇小説』[1975年、Tyrants Destroyed and Other Stories (New York: McGraw-Hill Co mpany, 1975)]、ならびに『ある日没の細部とその他の短篇小説』)が十二篇ないし十三篇の短篇小説で構 成されている。
3) “Details of a Sunset.” 本論文中における議論は、下記の版に依拠している(引用箇所は括弧内のページ番号 によって示すこととする)。Vladimir Nabokov, The Stories of Vladimir Nabokov (1995; New York: Vintage International, 2002). ロシア語原文については、電子テクスト(http://lib.ru/NABOKOW/ に収録されてい るもの)を参照した。
4) 十五篇の短篇小説と二十四篇の詩を収録した「V・シーリン」名義の作品集であり、じっさいには1929 年十二月に刊行された。
5) その点を典型的に示しているのは、下記の論攷で取りあげた短篇小説「フィアルタの春」(ロシア語版
[“Весна в Фиальте”]1936年、英語版[“Spring in Fialta”]1947年)などであろう。鈴木聡「回 想と解離──ヴラジーミル・ナボコフの「フィアルタの春」」、『東京外国語大学論集』第八十三号(20 11年)。
6) 前夜、彼が帰宅したさいに、階段を昇り、最後の一段を踏んだあとに、もう一段あるものと勘違いしてから 足を踏むというささやかな出来事(Nabokov 2002: 80)が逆転されていると見ることができるだろう。
7) ナボコフが後年、多くの作品において反覆的に取りあつかうことになる分身のモティーフの最初期における 現われということになろう。
8) 事故後のマルクが自分が体験したものとして夢想している一連の出来事の記述のうちに、「彼は自分の膝を したたかに打ち当てた」(Nabokov 2002: 83)という一文や、なにものかが彼の脚を曲げたり伸ばして折ろ うとしているかのような痛みの描写(Nabokov 2002: 84)が含まれていることから察して、脚を切断したと
いう可能性はあるものの、じっさいに本文中では “mutilated”([Nabokov 2002: 85]、ロシア語版では
“исковерканный”)と書かれているだけであって、具体的な怪我の程度が明言されているわけではない。
9) この作品のなかでは“happiness” という名詞が五回、“happy” という形容詞が四回繰り返されている。そ れらはおおむねマルクの主観とかかわっている。
10) Vladimir Nabokov, Despair, trans. by the author. (1936, 1965; New York: Vintage International, 1989). 引用箇 所は括弧内のページ番号によって示すこととする。ロシア語版の表題はОтчаяние。この作品については、
下記の論攷で取りあげたことがある。鈴木聡「相似と個性──ヴラジーミル・ナボコフの『絶望』」、『東 京外国語大学論集』第七十九号(2009年)。
11) Boyd 1990: 232. 「ある日没の細部」以外にボイドが念頭においていているのは、「偶然の出来事」(ロシ ア語版[“Случайность”]1924年、英語版[“A Matter of Chance”]1974年)、「復讐」(ロシア 語版[“Месть”]1924年、英語版[“Revenge”]はナボコフの死後、1995年、ドミートリイ・ナボ コフによって訳出)、「馬鈴薯エルフ」(ロシア語版[“Картофельный Зльф”]1924年、英語版[“The Potato Elf”]1973年)である。とくに「偶然の出来事」については、「うんざりするほどにハーディ的 な偶発事の連鎖」といういいかたがなされている。
12) Vladimir Nabokov, Mary: A Novel (1970, New York: Vintage International, 1989). ロシア語版の表題は Машенька。マイケル・グレニーによって訳出され、作者が監修した英語版においては、表題ともなって いる作中の人名は「メアリー」であるが、ここではロシア語版の表題にしたがうこととする。
13) 「ある日没の細部」の場合でいえば、「巨大な黒い心臓型」──なん倍にも拡大されて壁に映った榀の木の 葉の影をさしている──(Nabokov 2002: 80)や、階段を昇るマルクのあとを追うように壁に映る「黒い、
猫背の影」。
14) すでに言及したことだが、「ある日没の細部」の場合でいえば、闇を背景としつつ架線沿いに放たれる青い 火花。
15) 自殺や死亡事故ではないものの、短篇小説「お伽噺」(ロシア語版[“Сказка”]1926年、英語版[“A Nursery
Tale”]1975年)のなかには、老人が路面電車に撥ねられそうになる場面がある。
16) ロシア語版の表題は “Благость”。英語版(“Beneficence”)はナボコフの死後、1995年、ドミートリイ・
ナボコフによって訳出。
17) Cf. Boyd 1990: 232.
18) ロシア語版の表題(“Подлец”)は「卑怯者」という意味であるが、英語版で“An Affair of Honour”と改 題された。
19) Vladimir Nabokov, The Eye, trans. Dmitri Nabokov in collaboration with the author (1965; New York: Vintage International, 1990). 引 用箇 所は 括弧内の ペー ジ番号に よっ て示すこ とと する。ロ シア 語版の表 題
(Соглядата )は『穿鑿者』という意味であるが、英語版で原題ならびに “I”、 “spy” などと韻を踏むも のに改題された。この作品については、下記の論攷で取りあげたことがある。鈴木聡「瞬間と分岐──ヴラ ジーミル・ナボコフの『目』」、『東京外国語大学論集』第七十八号(2009年)。
20) 主人公の父の死という設定あるいはモティーフは、ナボコフの他の多くの作品にも見いだされるものであ る。長篇小説の場合でいえば、『ルージンの防禦』(ロシア語版[Защита Лужина]1930年、193 8年、英語版[The Defense]1965年)、『偉業』(ロシア語版1932年[Подвиг]、英語版[Glory]
1971年)、『賜物』(ロシア語版[Дар]1937‐38年、1952年、英語版[The Gift]196 3年)から『透明な対象』(Transparent Things、1972年)にいたるまで、例となるものは枚挙に遑 がない。
21) 路面電車から飛び降りる少しまえにマルクは、街路で「ひとりの洒落者」が自動車から飛び降り、夕日の輝 き(「明るい赤銅色の矢」)がその男の履いた光沢のある靴を射るさまを眼にしていた(Nabokov 2002: 82)。
22) 『目』に登場する「三脚テーブル」(Nabokov 1990: 38)の類似物ということになるかもしれない。三脚テ ーブルとは交霊会で用いられる小道具である。
23) 二箇所の記述にあってはそれぞれ “emptiness” という名詞、 “empty” という形容詞が用いられている。
24) 「小豆色」(Nabokov 2002: 79)としるされている箇所もある。
25) この作品においては、舞台がベルリーンであることを推測させる手がかりは、ドイツ語圏のものと思われる 人名や路面電車といった道具立て以外には皆無であるが、この箇所ではソーセージを意味するドイツ語
(Würstchen)が露天商の呼び声として現われる。
26) Cf. Shrayer 1999: 26.
27) Cf. Connolly 1992: 19.
28) その証左となるものが、マルクが眼にした自分の分身である。彼の思考は、動けなくなったみずからの肉体 から遊離して、無傷のまま行動している自分という形象を映像化するのだ。
29) 大聖堂と通称されるベルリーン最高位教区・大聖堂教会。1905年、ヴィルヘルム二世によって博物館島
(ムゼーウムスインゼル)に建立された新バロック様式の建造物。マルクが乗車したベルリーン市電は、ウ ンター・デン・リンデンからカール・リープクネヒト・シュトラーセ(旧称カイザー・ヴィルヘルム・シュ トラーセ)にかけて走行していた可能性がある。
30) その人物は、病院でマルクの治療に当たっている「白衣を着た医師」(Nabokov 2002: 85)でもあることが のちにわかる。
31) そのほかに「赤」という形容詞が付されているのは、マルクの家で部屋の仕切りに使われている衝立のみで ある(Nabokov 2002: 80)。
32) クロード・ロランの絵、とくに日没を画題とした絵画を愛好するナボコフは、将来の妻となるヴェーラ・エ ヴレーヴナ・スローニムに宛てた書簡(1924年四月二十四日付)で、プラハの夕暮れの空を細密に描写 している。Shapiro 2009: 67-68.
33) 影や人影にたいして「黒い」という形容詞を付すことは余剰とも感じられるが、物体や対象にそれぞれの色 彩があることを強調することにこそ、作者の目的と意図があると見なければならないだろう。
34) 鈴木聡「夢と記憶──ヴラジーミル・ナボコフの『マーシェンカ』」、『東京外国語大学論集』第七十四号
(2007年)。
35) Naumann 1978: 192.
36) Cf. Wyllie 2003: 15-18.
37) その背後にあっては、いわゆる三一致の法則に厳密に則った全体の構成が強く意識されていることはいうま でない。Cf. Morris 2011: 248.
38) それは、マルクの夢に現われた亡き父の顔色でもある。
39) マルクの言葉のなかで「外国人」という語が用いられていることから、彼が、クラーラのかつての恋人(マ ルクの知らないところで彼女と撚りを戻している)のことを恋敵として意識していること、彼が生き存えて いた場合、別種の不幸に直面することになっていたとする暗示が与えられているのだとする研究者もいるが
(Naumann 1978: 189)、想像あるいは夢想のなかで、面識もない人物の姿を見るというのはいささか不自 然である。
40) その点には触れていないものの、マクシム・D・シュレイアーが連想しているのは、ヨルダン川におけるイ エス洗礼の場面である。Shrayer 1999: 26.
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