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─ ─ 『国事詩集』を読む

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(1)

─ 1 ─ 前 書 き

本論考は本紀要第

59

集掲載論文の続編なので、第

59

集の論文を「前論 文」と記す場合がある。全体的注記として付け加えると、先ず、省略語句 は〔…〕や「…」で示してある。次に、和文の亀甲括弧及び英文の角括弧 の中は、単に括弧の中の括弧の内容を示す以外に、筆者による補足や書き 換え等を示す場合がある。本詩集(前論文と同じく、“POAS1” と略記する 場合がある)の注は、例えば当該作品の一行目に関する注の場合、「(1n)」

のように記す。尚、17世紀当時の文章を訳したり概要を示したりする場 合に、今日の人権意識に照らせば不適当と思われる個所があるが、それら は原著の内容・雰囲気を精確に伝えるために敢えてそのままにしてあるこ とを了解願いたい。

Ⅲ 「文芸」部門収録作品に見る愚人像(2)

ここでは、ドライデンとロチェスターという文壇の大物及び彼等の一派 の対立の一部と、ロチェスター陣営とスクループ(Sir Car Scroope〔1649

80

年〕)の対立を眺めたい。(これらの対立に関しては、前論文で本詩 集「文芸」部門を論じ始める際に、若干言及してある。)因みにスクルー

里 麻 静 夫

『国事詩集』を読む

─第1巻「文芸」部門に於ける愚人像(2)─

(2)

─ 2 ─

プは、ロチェスター陣営と対立した結果、1677年の早い時期に、ドライ デン陣営に加わった1)

ドライデンとロチェスターは、勿論、全面的に「愚人」と呼べるような ヘボ詩人ではない。本論考の視点からは、後のポープに繋がるような愚人 像を風刺のために巧みに作り上げているところが彼等の功績の一つであ る。しかし、その彼等にしても、かなりのヘボ詩人を含む仲間達と文壇内 の争いに精を出すと、その過程で感情が理性に勝ち、風刺の枠をはみ出し て、敵に対する誹謗中傷に堕すことがある。このような風刺逸脱の傾向を、

全体として見れば優れた風刺家であっても逃れることが困難であろうこと が、特に王政復古期に風刺と誹謗中傷が分け難いことから当然生じる状況 であることを、前論文で指摘してある。又、文壇の争いが元来創作原理を 巡るものであり(後述)、理性的な論争であるべきなのに、喧嘩に堕すこ とがあるのは、そもそも人間の争いが感情抜きに存在し得ないからであろ う。ロチェスター及び彼の仲間とドライデン及びスクループとの争いには、

特に前者に於て低次元な要素も存在するが、この二人の大物が文壇内の喧 嘩に参加したおかげで、復古期風刺のレベルがその分上がっているはずだ。

先ず、ドライデン陣営のマルグレイヴ伯爵(John Sheffield, third Earl of

Mulgrave〔1648

1721

年〕)を風刺する、エセレッジ(Sir George Etherege)

の『エフェリアからバヤジトへ』(Ephelia to Bajazet)と、その続編であるロ チェスター作『エフェリアに答える、とても英雄的な書簡』(A Very Heroical

Epistle in Answer to Ephelia)を見よう。(前者は 1675

年に、後者は

1676

年に 公表。)

『エフェリアからバヤジトへ』に於て、トルコ皇帝バヤジトは、マー ロウ(Christopher Marlowe〔1564

93

年〕)の悲劇『タンバーレン大王』

 1) David M. Vieth (ed.), The Complete Poems of John Wilmot, Earl of Rochester (Yale U.P., 1968), p. xxxi.

(3)

─ 3 ─

─ 2 ─

(Tamburlaine the Great〔1590年刊〕)の主人公に敗北して、評価を落とされ ていた。そこへ、この作品と『エフェリアに答える、とても英雄的な書 簡』に於て、女たらしのマルグレイヴ伯爵と結び付けられることで、更に 品位を下げられることになった(POAS1, p. 342)。作品概要を次段で示す。

エフェリアは、自分の魅力に抗える女はいないという伯爵の思い上がり を非難するために、詩人が創作した人物である(同上)。彼女は、自分を 捨てたバヤジト/マルグレイヴに向って、恋が与える喜びの儚さを嘆き、

男の薄情を責める(1

22

行)。最後に、バヤジトに対して、私を無視す るくらいなら、怒りを私に向けて殺してくれ、等と嘆く(53

56

行)。

この作品をエセレッジに帰するある詩は、「哀れなエセレッジは老いぼ れており、その詩神は時代遅れになった。|彼女はしわがれ声でエフェリ アの嘆きを歌った」、と書いている(POAS1, p. 342)。この言の通り、この 詩に質の高さを求めることはできないようだ。失恋した女性の悲しげな口 調を示す詩だが、その牧歌的スタイルと題材との間のギャップ故の面白味 はほとんどない。風刺対象のマルグレイヴが前面に出て来ないこともあっ て、風刺の毒が効いているとはあまり思えない。但し、マルグレイヴが前 面に出て来ないのは、彼に振られた女の不平を書くことに終始しているの で、当然だろう。ロチェスターの応答歌はバヤジト/マルグレイヴを語り 手として前面に出しており、その傲慢そのものの口調と、この詩の哀調が 好対照をなしている。しかし、ロチェスターの詩と対をなすからと言って、

低調であることに変りはない。

『エフェリアに答える…』は、バヤジト/マルグレイヴの自己満足と傲 慢を風刺している。その際、痴呆的で非人間的な自己中心性を、皮肉を込 めて支持している(POAS1, p. 345)。又、ドライデンが悲劇・英雄劇『オー レング・ジーブ、あるいは、偉大なムガル人』(Aureng-Zebu〔1675年初演〕)

の序文で、彼のパトロンであるマルグレイヴにへつらって英雄の偉大さ

(4)

─ 4 ─

の概念を供しているのだが、その概念をパロディー化している(POAS1,

p. 345)。これは、当時のドライデンの文壇での位置を示す─風刺の「地

図」を確定する─上で、重要な指摘だろう。作品概要を次段で示す。以 下、ロチェスター作、或いは、彼の作かも知れないものの解釈については、

ヴィース(David. M. Vieth)編(既出)、ウォーカー(Keith Walker)編、ラ イオンズ(Paddy Lyons)編の詩集の本文、解説、注も参考にしている2)

語り手マルグレイヴが、相手の婦人に向けて、こう始める──誠実の極 み、不変の真実を体現する自分が、どうして貴女を騙すことがあろうか? 

そして、こう続ける─「いつも同じ者は変化しません。|私は、愛しい 自分自身をあらゆるものの中心に置きます─|召使いの、友人の、愛人 の、そして我が王の中心に。|それどころか、天地の両方を自分という中 心の一点に持って行くのです」(6

9

行)。そして、一度相手した女にゴ チャゴチャ言われる今の自分の立場よりもハーレムの主のサルタンが羨ま しい、等と述べる(30

31

行;32

56

行)。

ロチェスターとマルグレイヴの喧嘩は、1669年後期に始まっていたら しい(Walker, p. 293)。前述のように、語り手をマルグレイヴにして、彼 を皮肉たっぷりに風刺している3)。風刺家が悪人視する人物の口調を創造 的に再現・模倣しているわけだが、短いせいもあって、迫力不足である。

しかし、「いつも同じ者は変化しません。〔…〕天地の両方を自分という中 心の一点に持って行くのです」というくだりは巧みであり、風刺対象の愚 かさを非人間的レベルにまで高めて〈愚〉の観念に昇華する伝統が復古期 風刺で確立されていることを証している。

次に、『M.G.

O.B.

に宛てた書簡形式の小論─彼等の共作詩につい

 2) Keith Walker (ed.), The Poems of John Wilmot, Earl of Rochester (Basil Blackwell, 1984); Paddy Lyons (ed.), Rochester: Complete Poems (J.M. Dent, 1993).

 3) Walker, pp. 296─97; Lyons, p. 260.

(5)

─ 5 ─

─ 4 ─

て 』(An Epistolary Essay from M.G. to O.B. upon their Mutual Poems 〔1676年 〕)

を検討する。本詩集はロチェスター作としているが、作者を特定できない と見る詩集もある4)。作者が誰であるにせよ、なかなか巧みである。

マルグレイヴからドライデンへの手紙の体裁を取っており、それによっ て両者を風刺している。主な標的はマルグレイヴである(POAS1, p. 348)。

『エフェリアに答える…』と同じく、理性的な人間の基準を高慢にも無視 するマルグレイヴを酷評している。『エフェリアに答える…』はマルグレ イヴの自己中心性に集中しており、『M.G.

O.B.

に宛てた書簡形式の小 論…』はそのような自己中心性から生れる偽りの文芸基準を明るみに出し ている(POAS1, p. 348)。後にポープが『ダンシアッド』に於て大規模に 攻撃する愚の文芸の基準が、既にこの段階で、明白で主要な風刺の的に なっていることに留意すべきだろう。

『エフェリアに答える…』と同じく、ドライデンの『オーレング・ジー ブ、…』の序文をパロディーにして、ドライデンを攻撃している。ロチェ スターがこの作品で攻撃している主なものは、マルグレイヴが自らの自己 中心性という基準以外の批評基準を無視していることである。このマルグ レイヴの基準をドライデンが、おべっかを使って褒めている(POAS1, p.

348)。以下、本作の概要を示しながら、考察を加える。

語り手として設定されているマルグレイヴは、最近、詩興に任せてこの 愚かな時代にぶつけた私と君(=ドライデン)の合作に対する文句が色々 と言われているようだ(1

4

行)と始めて、こう続ける─

妬む奴等が私から月桂冠を奪おうとしても、君と合作して世に君の素 晴らしい詩行を与えたのが私の功績なのだから(君の詩行は私のより 少ないが)、世間は私に感謝すべきである。(5

11

行)

 4) Walker, pp. 293─94; Lyons, p. 267.

(6)

─ 6 ─

ここに見られる、ドライデンさえ下に見るような傲慢と自分の才能に関す る勘違いは、勿論、愚人の典型的資質である。

この勘違いは、次の個所にも見出せる─

私は、自分は霊感を得ていると思ったり、賞賛を得たいという虚栄 の希望をもって書いたりするような輩の仲間ではない(12

13

行)。

私は、長い間試して来た規則から─無私(self-denial)を慎重に避け て書くという鉄則から─書く。欲望と想像力がどこへ導こうとも、

〔ありきたりの〕名声など軽蔑して、私はその道を大胆に辿るのだ。

そして、自分が機知であると考えるものを公表することになるとして も、愛しい自分自身(my dear self)に快感をもたらすのだ─批評家 達がどんなに非難しようとも。(12

20

行)

12

13

行では、自身がヘボ詩人のくせに、文才があると錯覚したり一山 当てようとしたりする三文文士の仲間ではない、と豪語している。それに 続いて、徹底的に自己中心の姿勢で書くのが自分の詩作法であると述べて いるが、そこは「愚人の美学」5)を高らかに宣言している個所である。こ の美学を保持し得るためには、他人の評価などに対して徹底的に鈍感な人 物であるしかない。

次の個所では、今の自分を変えるつもりは全くない、自分の安楽を最優 先する、と居直っている─

私が人々を喜ばせたいと願っていたとすれば、自分のペンよりも寧ろ 行儀を改めるのが一番良かっただろう。しかし、前者は私の本性に反 する〔…〕。後者に関しては、できっこないと諦めている。と言うのは、

 5) 私がトロロプとギッシングについて書いた論文で使っている言い回し─里 麻静夫「トロロプの『今の我々の生き方』とギッシングの『三文文士』に見る 文芸上の愚人」(中央大学英米文学会『英語英米文学』第56集(2016年)所収。

(7)

─ 7 ─

─ 6 ─

雅致(grace)は機知・才能(wit)ほど得るのが難しくないからだ6) 下手な詩は、〔…〕嫌な臭いの風〔である屁〕のように、体内に閉じ 込めておくべきだ。〔…〕しかし、読むか読まないかは人の勝手である。

〔…〕私は、自分が楽になるために、書くのと同じように屁をこくだ ろう。人の気に入るのでなければ、気遣いは無用だ。(25

37

行)

この居直りは、仲間のドライデンに対しても向けられる─

君が私より書くのが上手いのは認めるが、私にだって君と同じ位に書 く必要がある。私の愚鈍な脳みそから出る糞〔である詩行〕が耳障り で生気のない調子で流れ出て、その一方で君の豊かな頭脳が機知を放 出しても、構わないではないか? ジャコウ猫しか糞をしてはいけな いのか?(48

43

行)

上述の愚人の美学の開陳は、更にこう続く─

私が書くもの全てに於て、意味と機知と韻律が直ちに私を捨てるとし ても、非常に崇高なものが私の詩に極印を押して、世の誰が見ても作 者が私しかいないことが分るだろう。それが私の目標なのだ─嘗て 誰も書かなかったように書くこと以上に人が望めることがあろうか?

(44

49

行)

合作者ドライデンの姿勢とは異なり、全くデタラメな詩を自分が書いても、

それが自分の特徴を表していれば構わない、と居直っている。自分の愚を  6)「〜諦めている。と言うのは、雅致は機知ほど得るのが難しくないからだ」

に当る原文は、“And for the second I despair of it.Since grace is not so hard to get

as wit,”(2829行)というように、28行末のitの後がピリオドで、29行末

witの後がコンマである。しかし、ヴィースとウォーカーとライオンズの版 ではitの後がコンマであり、witの後がピリオドである。私としてはこれら三 者の句読の方が分りやすいと思い、「〜諦めている。と言うのは、…」と解釈 した。

(8)

─ 8 ─

寧ろ名誉と捉えている。このように自分の独自性・個性(と呼べるものを 本当に持つと言えるとすれば、の話だが)を主張しながら、例えばチョー サーが従っている創作法─先行作品を利用した上で自分の個性を出すと いう方法─を歯牙にもかけないで、自分の「独創性」という愚の確立を 最優先している。

次にマルグレイヴは、機知に関する勘違いを披露する─

私には仄めかしも直喩も韻律も機知もある─さもなければ、全人類 の中で私だけがこれらを何一つ持っていないというのは耐え難いこと ではないか?(51

53

行)〔…〕〔摂理は〕王を一人作っては、一万 人の奴隷を作る。〔その摂理〕が機知に関してだけは気前が良くて、

それを人々に公平に与えている〔…〕(63

65

行)7)。〔…〕私は自分 という存在に生まれついており、自分という存在だけが好きなのだ。

それ故、私の判断が良いか、さもなければ無であると、結論づけなけ ればならない─と言うのは、私の良識・分別(sense)が無であると いうことがあり得るとすれば、他の者の良識・分別の良し悪しをどう して私が知ることができるのだ?(73

76

行)

ここでも、どこかで聞きかじったような説を自慢げに披露する形で、自分 には良識・分別が備わっているという勘違いを継続しつつ、愚人の自己中 心性・自己参照性を雄弁に語っている。

語り手には語る相手がいるのだが、続いて、以下のようなやり取りがあ る─

 7) 摂理が人々に公平に与える機知は、デカルトが万人に公平に分配されてい ると皮肉を込めて言うところの良識・分別(good sense)に当る(Vieth, p. 146;

Lyons, p. 267)。マルグレイヴは自分にも機知があると主張するが、それは彼の 勘違いであり、詩人は、彼にだけは機知が与えられていない、と言いたい。ラ イオンズの次の注を見よ(主旨を示す)─「ロチェスターは、〔自分には十分 な機知が備わっているという〕満足を、彼には我慢ならない独善的狭量と同一 視している」(Lyons, p. 268)。

(9)

─ 9 ─

─ 8 ─

こうして、私が私の詩を最良であると決定すると、私に名声が生まれ るわけだ(77

78

行)。そうやって名声を得て私が幸せであるとす れば、それで私は得て然るべき勲功へと進むのか、それとも傲慢へと 進むのか? 「そうなると、世間は怒るよ」〔、と君は言うのかい?〕

構うものか、それで苦しむのは世間であって、私ではないのだから(79

82

行)。生意気な世間と私の間で、その世間がその残忍な〔鼻持ち ならない〕意思を私に対して通すということで合意に達したことがこ れまでにあっただろうか? どういう訳で、卑しい目的に供された私 の良識・分別が世間の連中の苔むした慣習が生む規則へと引っ張られ て行かなければならないのか? 「そんなこと言うと、叱られるよ」

だって? だが、十中八九、彼等が非難する時、彼等は間違っている のだ。ありふれた名声ほど愚かで偽りのものはない。〔…〕(84

94

行)

まるで神が命令(fiat)を下すかのように、自作が最良であると断じて、

その結果自分は名声を得る、と奇怪な論法を提示している。自分は世の慣 習が作り上げた規則になど縛られない、自分こそが規則である、と究極の 自己中心主義を主張している。こういう人間にとっては一般の評価は見当 外れも甚だしいわけだが、こう言う本人が勿論間違っているのだ。

そして、名声など無視して、無知な世間の噂など気にせずに、自宅にこ もって書き続けよう、と結んでいる(95

100

行)。無知な世間を無視し て書くという姿勢は、例えば、『アーバスノット博士への手紙』(An Epistle

to Dr. Arbuthnot

〔1735年刊〕)でポープが取っている姿勢を思わせる。『アー

バスノット…』には、風刺対象である愚人を特定しつつ、詩人が風刺家と しての姿勢を確認して行く部分がある。そのような風刺擁護の作業を、ユ ウェナリスが既に、第

1

風刺で行っている。ここのマルグレイヴの述懐に 於て詩人は、愚人である語り手に古来の風刺擁護のパロディーをさせてい る。その点も巧みである。

次に、ロチェスター作『ホラティウスの仄めかし』(An Allusion to Horace

(10)

─ 10 ─

〔1675年〕)を見よう。「仄めかし」はポープのホラティウスの模倣(Imitations

of Horace)に於ける模倣と同じ意味であり、この形のものとしては英語で

最初のものらしい。古代ローマの状況とロチェスターの背景である英国の 状況とを、皮肉を込めて対比している。この作品で初めて、ロチェスター とドライデンとの間の敵対関係が明らかになっている8)

元歌の風刺〔=第

1

巻第

10

風刺「風刺について」─以下、「風刺

1.10」

と略記〕の冒頭でホラティウスは、古代ローマの詩人で風刺詩の創始者で あるルキリウス(Lucilius)を克服しようとする意図を宣言している。こ の詩では、そのルキリウスの代りにドライデンを、ラベリウス(Laberius)

の笑劇の代りにクラウン(John Crowne〔1641

1712

年〕)の劇を置いて いる。ホラティウスを是とする友人達の代りに、シャドウェルや宮廷才人 シェパード(Sir Fleetwood Sheppard/Shepherd〔1634

98

年〕)や劇作家ウ イッチャリー(William Wycherley〔1640?〜

1716

年〕)等を登場させてい る(POAS1, p. 357)。ウォーカーは、ホラティウスとの大きな違いは存命 中の作家を攻撃していることである、というある評者の言を引いている。

そして、この詩は主としてドライデンの文芸上の行い・姿勢に対する節度 ある攻撃から成る、と述べている(Walker, p. 287)。存命中の人物を攻撃 するということは、それだけ恨みの毒は強いが、風刺する自分にとっても 危険である、ということだろう。因みにユウェナリスは、身の安全のため に死んだ人を風刺する、と書いている9)。又、風刺の節度についてだが、

この後見るように、ロチェスターはそれを失うことがある。

この詩に於てロチェスターがスクループを攻撃したので(115

17

行)、

激しい諍いが起った。本詩集がこの作品の後に載せている三つの風刺(ス クループ作、ロチェスター作、スクループ作の順)とロチェスター作『詩人

 8) Vieth, p.120; POAS1, p. 357. 

 9) 国原吉之助=訳『ローマ諷刺詩集』(岩波文庫、2012年)、8788ページ。

(11)

─ 11 ─

─ 10 ─

のニニィ〔=とんま〕について』(On Poet Ninny)が、その諍いの記録である。

この喧嘩では、スクループが優勢かも知れない─彼が『風刺の擁護』(後 出)に於て、ロチェスターの人格を鋭く攻撃しているからである(POAS1,

pp. 357─ 58)。ロチェスターは、彼の最後の攻撃である『詩人のニニィに

ついて』に於て、本作品が宣言している原理─軽蔑を込めた冗談は、最 愚の風刺の棘よりも深く的に刺さる、という原理(28

29

行)─に背 いているように見える(POAS1, id.)。以下、作品概要を示しながら、コメ ントを加える。

1

36

行は、話し相手に向ってドライデンを攻撃する部分である(ド ライデン攻撃は

71

行以降でも行われる)─

確かに私は、彼の詩は盗作で、下手くそである、等と言った。彼の欠 点が分らないのは、彼のバカなパトロンのマルグレイヴ伯だけだ、と。

但し、彼の劇がその機知と学識で町の人々を喜ばしたことを認めても いる。しかし、その点を考慮しても、彼のゆるい作品集を埋める愚鈍 な作物を大目に見るわけにはいかない。と言うのは、〔彼の良い面を 見る上記のごとき〕規則に従うと、クラウンの芝居の退屈な場面にも 詩と機知を認めるようなものだから。(1

11

行)

次段では、ドライデンに語りかける─

それ故、あなたの偽の理知(false sense)が拍手するバカどもの観衆の 偽の判断力(false judgment)に訴えて、大群衆を集めたために、彼等 の愚鈍な重さ(the dull load)で劇場にヒビが入る〔…〕。とは言え、

そのような〔あなたの〕才能でさえ、衆愚と宮廷人達を楽しませると いう点では、幾らかの価値がある─そのような娯楽の提供は、〔劇 作家の〕セトルとオトウェイには無理である。(12

19

行)

(12)

─ 12 ─

愚かな観衆が愚かな劇を繁栄させると言っているのは、作者と作品消費者 が愚の共犯であるという認識の表明である10)

更に、ドライデンに向って、創作の作法─文体の使い分けや最も効 果的にするにはどうするべきか、等─を教える(20

27

行)。そして、

こう続ける─

軽蔑を込めた冗談の方が白痴的この上ない風刺の棘よりも効果的であ るが、その点でシェイクスピアやベン・ジョンソンを範としたまえ

(28

31

行)。エセレッジは彼等を模倣しておらず、彼独自である(32

33

行)。〔劇作家〕フラットマンもシェイクスピア等を模倣してい ないが、そのフラットマンを〔詩人〕カウリーが一生懸命真似してい る。(34

36

行)

本作はこのようにドライデンを攻撃しながら他の文人の評価も示してお り、当時の文壇事情を垣間見せている。

次の

30

行位は、ドライデン以外の作家に対する評価を示す。最初に、

劇作家のリー(Nathaniel Lee〔生年不詳、1692年没〕)をこき下ろしてい る(37

40

行)。本詩集の注によると、第二代バッキンガム公爵とロチェ スターが、断続的に彼のパトロンになった(37-40n)。次の注(40n)は、

リーがウェストミンスター・スクール(Westminster School〔1560年に創設 されたイギリスのパブリックスクール〕)に通っていたことがあり、その 厳格さで有名な校長がバズビー(Richard Busby〔1606

95

年〕)だった、

と指摘している。バズビーは『ダンシアッド』第

4

巻に亡霊として登場し ており、古典暗記を生徒に強要して彼等の想像力を潰してしまう悪しき言 10) 作者と読者の愚の共犯に関しては、後の時代に、小説に関しても表明され ることがある。小説の愚かな読者が文芸の愚拡大に手を貸す図式─作者と読者 によるグラブ街的環境増進─についても、拙論「トロロプの『今の我々の生き 方』とギッシングの『三文文士』に見る文芸上の愚人」を参照されたい。

(13)

─ 13 ─

─ 12 ─

葉─事物から乖離した不毛な言葉─の拡散者という扱いである。ポー プにとって、当時の政治的荒廃と密接に結び付く学校教育の荒廃を象徴す る愚人の一人である。ところで、ヴィース、ウォーカー、ライオンズは、

リーがこの学校に通っていなかった、としている11)。何れにせよ、バズ ビー以外にも、後になって『ダンシアッド』で取り上げられる人物がこの 詩には結構登場する。ポープにとっての愚人のストックがどんどん豊かに なっているのだ。

次にシャドウェルとウィッチャリーに触れるが(41

53

行)、既述の ように、ホラティウス支持派に彼等を入れているので、当然のことだが、

好意的に描いている。そして、基本的に好意を抱く詩人ウォラー(Edmund

Waller〔1606

87

年〕を、信条的節操を欠いた賞賛詩を書いた、と慎重

に揶揄する(54

58

行)。続いて、宮廷才人・放蕩者のバックハースト 卿(Lord Buckhurst〔1638

1706

年〕)を、少々批判をまじえながら、好 意的に評価する(59

63

行)。群小詩人・才人・放蕩者のセドリー(Sir

Charles Sedley〔1639

?〜

1701

年〕)については、甘ったるい恋歌が得意で

ある等と言いながら、基本的に好意的に見ている(64

70

行)。

71

109

行では、再びドライデンを取り上げて、風刺がなまくらであ る等と言って、更に手厳しく描く─

〔ホラティウスがルキリウスから桂冠を奪う気はないと言うのを模倣 して:〕私には、ドライデンから桂冠を奪う気はない(79

80

行)。

ドライデンは、シェイクスピアやジョンソン等の先人をこき下ろして、

自分だけが正しい、とした。だったら、私がドライデンの欠点を指摘 しても構わないだろう(81

92

行)。〔ドライデンに語り掛ける形で:〕

粗製乱造の君は詩人というよりは才子である。〔…〕無数〔の〕三文 11) Vieth, p. 122; Walker, p. 288; Lyons, p. 280.

(14)

─ 14 ─

作家(scribbling authors)の一人である(93

97

行)。再読に堪える ものを書くために、吟味を重ねたまえ。趣味の悪い大衆に迎合するこ となく、物が分る少数者を相手にしたまえ。(102

09

行)

ドライデンを明白に三文作家呼ばわりしているので、後世から見るとロ チェスターのドライデン評価は全く正当性を欠いている。しかし、私怨絡 みの論争に従事しているからこそ、風刺家の目が曇ることがどうしてもあ るのだ。大衆に迎合するなと言うのは、

12〜15行で取っていた姿勢である。

又、物が分る少数者を相手にしろと言うのは、マルグレイヴが取っている と、ロチェスターに皮肉られている姿勢である(『M.G.

O.B.

に宛てた 書簡形式の小論…』を見よ)。

語り手は、最後に、ドライデンと対比したりしながら、自分の詩人とし ての姿勢を示す(110

24

行)─

私は俗受けしようとは思わない。〔…〕(110

14

行)目が悪い騎士 が私が書くものをどう批判しようとも、ろくなものを食べていない詩 人達が残飯を貰ったり馬車に乗せて貰ったりするのを目当てに私の詩 を貶そうとも、気にはしない(115

19行)。私は衆愚を嫌う。セドリー、

シャドウェル、シェパード、ウィッチャリー、ゴドルフィン、バトラー、

バックハースト、バッキンガム〔公爵〕と彼等以外の少数の者が私の 機知を是とすれば、私にはそれで十分だ。私は彼等の判断を栄誉であ ると思う。(120

24

行)

「目が悪い騎士」(115行)は、ロチェスターの敵であるスクループである

(この部分がスクループとの諍いを産んだことは、指摘済み)。それに続く 部分(116

19

行)は、前段(93

97

行)でドライデンを三文作家呼ば わりしたのと合わせて、貧しい売文家が社会の中で確固たる階層を確立し

(15)

─ 15 ─

─ 14 ─

ていたこと、ジャーナリズムがある程度発達していたこと、即ちグラブ街 的環境が完全に出来上っていたことを窺わせる個所である。「私は衆愚を 嫌う」(120行)は、ドライデンの大衆迎合を再度批判している個所である。

120

24

行で自分を評価してくれる作家や宮廷人を列挙しているが、こ れらの中にはヘボ詩人が多いので、ロチェスターが機知に関するまともな 判断を下していないことが分る。しかし、ロチェスターにとっては喧嘩に 勝つことが最優先であり、この際文芸上の公正な評価を下すことなどどう でも良いのだろう。

本作は、大物文人同士の激突を露わにすると同時に、他の文人も色々 と槍玉に挙げているので、当時の文壇勢力図を示す作品として興味深い。

『マック・フレックノー』に及ぶべくもないが、『ダンシアッド』の先行縮 小版の一つと見なし得る。同じことは、次に論じるスクループの『風刺の 擁護』についても言える。

前作でロチェスターから攻撃されたので、スクループが最大の反撃を 行った。その作品が『風刺の擁護』(In Defense of Satire〔1677年〕)である。

ロチェスターが前作でホラティウスの風刺

1.10

の仄めかし/模倣を行っ ているのを受けてか、やはりホラティウスの風刺第

1

巻第

4

風刺〔「風刺 の擁護」〕を、ロチェスターより自由に模倣している(POAS1, p. 364)。そ して、ロチェスターと比して、自分こそ真の詩人であり、それ故に風刺家 である、と述べている。既述のように、本詩集編者はロチェスターの前作 に対して、この作品に軍配を上げている(POAS1, pp. 357

58)。ロチェ

スターの「勇敢な友」(本作

53

行)であるダウンズ(Capt. Downs)が、

エプソムでの「夜中の浮かれ騒ぎ」(本作

52

行)で怪我した後に死んだの だが、この詩はその後に書かれた(POAS1, p. 364)。この騒動に於けるロ チェスターの振舞を、48

59

行で攻撃している。又、ロチェスター以外 にも沢山の人物を、伝説上の人物や芝居の登場人物等に擬したりしなが

(16)

─ 16 ─

ら、風刺している。それ故に、上述したように『ホラティウスの仄めか し』と並んで、『ダンシアッド』の小型版といった趣さえある。スクルー プは、ロチェスターと比べると、文学史上無名であるが、ロチェスターと いう大物と渡り合った結果、ポープの長編風刺に対する直近伝統の形成に 貢献することになった。以下、作品概要を示しながら、コメントを加え る。

語り手/詩人は冒頭で、シェイクスピア、ジョンソン、フレッチャーが 舞台で悪党や馬鹿者をことごとく風刺したために世の中が教化された等と 言って(1〜7行)、これらの劇作家の功績を肯定的に評価している。そして、

8

19

行で、概略こう述べる─

王は法律を制定し、司祭は重々しく説教するが、詩人が教えるのが一 番効果的である。〔風刺が〕隣人の悪徳を嘲笑うと、それを見て我々 はちゃんとしようと思うからだ。しかし、健康に良い治療法はほとん どの人の趣味を喜ばさない─人というものは、自分の病を実物以上 に良く見せるものの方を好むからだ。ポン引きや寄生者や道化やそい つらの仲間は、友人の名を騙って、弱いものを破滅させる。〔風刺は〕

そういう彼等の悪しき奉仕を、本当のことをはっきりと言って我々に 善行を促すやり方よりも、優しく分らせるのだ。

ここでは、勿論、ホラティウス流詩学を開陳しているつもりだが、書き方 は平凡であり、この段階では詩的価値が乏しい。

次の段(20

45

行)では、先ず、風刺の標的になる心の病の持ち主は 幾らでもいると言って、節操の無い連中の行状─精神を病む患者達の行 動─を一般的な形で列挙する。そして、才人を気取る愚か者が駄作を提 供している、と述べる(32

35

行)。ここでは愚人を病的存在と見なし、

愚人は自分に才能があると勘違いしており、彼等が産するものは騒音であ

(17)

─ 17 ─

─ 16 ─

るという認識を示している。後にポープが描く愚人像が、ロチェスターや ドライデン以外の作家によっても、既にある程度確立されている。

スクループは続けて、こう言う─

これら無数の馬鹿者は、詩人の全てを嫌う。彼等は、「気をつけろ、

あそこの狂犬〔=詩人〕が噛んでくるぞ! あいつは、発作に駆られ て、誰彼構わず襲いかかる。あいつの行く手にいようものなら、たち まち風刺文を書かれて、台無しにされた評判を町中に広められるぞ」、

と叫ぶ。(40

45

行)

この段だけではないが、風刺には愚を脅す威力がある、愚に対する強力な 懲罰及び抑止の力がある、と語っている。王政復古期とオーガスタン期の 多くの詩人は、ここに於けるように、風刺の効力を強く信じている。

次段(46

85

行)の一部(46

59

行)の冒頭は、風刺の力に対する 確信を引き継いで、自分はなぜ皆から怖がられるのか─自分のペンは胆 汁〔=ユウェナリス的憎悪、無礼〕のインクに浸してはいないのに、と問 い掛ける(46

47

行)。そして、ロチェスターの人となりを詳しく描く

友人と称する者を罵り、彼がいないところで中傷されるのを聞いても 擁護せず、意地悪な冗談心で、隠すべき事を(話を盛りつつ)バラし、

勇敢な友人を裏切って、彼が命を落すもとになる夜中の浮かれ騒ぎに 参加させて、彼が殺されるままにして、その次第をおどけた詩にして 売り払う─こういう事をする奴こそ用心すべきだ12)。それなのに、

あなた方は彼を機知に富んだ楽しい男と呼んでいる。自分達の放蕩を

12) 上述のように、エプソムの騒ぎで仲間が死ぬことになったわけだが、それ に関して、ロチェスターを攻撃している。ヴィースも見よ(Vieth, p. 132)。

(18)

─ 18 ─

徹底的に研ぎ澄ますために、彼を町一番のフィドル弾きとして探し求 めている。(48

59

行)

冒頭に漂う凡庸さが、ロチェスターという実在の敵を攻撃するようになる と筆が冴えて、徐々に消えて行く。

語り手による風刺家としての姿勢の自己弁護は、概略こう続く─

私が笑ってしかるべき連中を笑っただけで、人が私をからかい屋と呼 ぶのはおかしい。古びた女官が、夫にと提供された男を拒絶する。〔…〕

裁判官が、賄賂に不利な判決を下す。〔…〕これらのような〔あり得ない〕

事があれば、あなた方は私のペンに立派な人や友人を傷付ける悪意を 見出すだろう。(60

73

行)

「これらのような…悪意を見出すだろう」は、天地がひっくり返っても、

自分はロチェスターのような卑劣漢ではないから、立派な人や友人を傷つ けることは決してしない、と言っている。当時の社会の腐敗への言及を交 えているので、風刺としての時事的面白さが増している。

この詩にも語り手/詩人の話し相手である友人がいて、今読んでいる段

(46

85

行)の残りを、その人物とのやり取りが占めている(73

85

行)。

詩人が「しかし、ことによると君は言うかも知れない、『なぜ書くのか?

|君が無害な浮かれ騒ぎと言うものを、世間は悪意と言っている』」(74

75

行)と言うと、友人が疑問を呈したり、忠言したりする─

『君の手はなぜ、猿のようなたわけ者に皮肉を浴びせたがったり、う すのろを激しく非難したがったりするのか? 〔ある男〕が部屋から 閉め出されている間に、彼の美人で淫乱な妻がどこかのにやけ男とや らかしていても、それが君にとって何だと言うのだ? どうか考えて くれ、危険な武器である機知は、非常に多くの者を脅かすが、的に当

(19)

─ 19 ─

─ 18 ─

るのが少数であることを。馬に乗って町中を通り過ぎる時に、駄犬を 一匹だけ鞭打ちたまえ。そうすればすぐに、その仲間の駄犬どもがそ いつと喧嘩してくれるだろう。罪を犯したと自覚している悪党や馬鹿 者の全ては、今は〔風刺から〕逃げおおせても、いずれ又、求めて風 刺されるのだから』。(80

85

行)

友人は詩人に、人々を怖がらせる風刺の腕をあまり振るうな、お前が意 地を張らなくても馬鹿者は退治されるのだからと、又、風刺の的を絞れ、

と忠告している。『君の手はなぜ〜したがるのか?』は、原文では “Why

should your fingers itch to

”(76行)であるが、この言い方は古典の「やみ がたい執筆欲」(cacoëthes scribendi)を踏まえており、友人は詩人に対して、

三文文士の真似はするな、と助言している。スクループが三文文士である か否かはさて置き、三文文士には好戦性─相手構わず噛みつく性分─

があると認知されていることに注目したい。

最終段(86

110

行)で話者は、友人に対して、風刺の的にすべき愚 行に走る者が多すぎるから、自分は風刺をやめることができない等と応え て、愚行(を犯す人々)を列挙する(88

100

行)。そして、アルバヌス

(Albanus)が求愛したり、ロスキウス(Roscius〔古代ローマの喜劇役者〕)

がほら話をしたりするように愚行をあれこれと数え上げていると、読者に は退屈だろう(101

06

行)、これ以上歌うと世間の怒りを買うばかりだ から、この辺でやめよう─この世は人を迷わす森のようだ、と締め括る

(109

10

行)。

この段の愚人列挙の部分は、前述のように、実在の人物を伝説の人物や 芝居の登場人物等に擬したり、或いは、実名を出したりして、風刺がなか なか達者である。その愚人の中に、ドライデン側のマルグレイヴが入って いる。96

100

行はグランディオ(Grandio)という傲慢で好色なにやけ 男の行状を示すが、その淫乱な気取り屋がマルグレイヴを指しているのだ

(20)

─ 20 ─

─「グランディオは、自分のことをいい男(beau garçon)だと思っており、

|目玉をぎょろつかせ、手紙を書きまくる。|そして、図々しくも恋をし て、町中をほとほと困らせる。|虚栄を満たして喜んでいると、〔女優の〕

ゴスネル(Gosnell)─あの醜い老婆─と寝ているところを見つかる」。

自分の容貌や才能を勘違いしているのは、愚人の典型的特徴である。ここ では、96行目に関する本詩集の注が、スクループとマルグレイヴの因縁 の始まりを指摘していて、重要である。その注は、ここの風刺をマルグレ イヴが恨みに思って、ドライデンとの共作『風刺論』(既述)でスクルー プを攻撃することになった、と注記している(マルグレイヴの『風刺論』は、

別稿で扱う予定)。

スクループの『風刺の擁護』は確かに節度を有し、機知に富む。風刺対 象の隠し方も上手である。結末には風刺家の諦観みたいなものが示されて おり、それも又、この作品にある種の品を与えている。ロチェスターに対 して有効な打撃を加えているという本詩集編者の評価は正しいだろう。但 し、例えばマルグレイヴに対する風刺には、彼の容貌を軽蔑する人格攻撃 の側面もあって、その分風刺の価値を落としている。このような程度の低 い攻撃を、ロチェスター陣営がスクループに対して、頻繁に行っている。

そのスクループに対するロチェスターの応答が、『『風刺の擁護』とい う最近の詩の作者と思われる人物について』(On the Supposed Author of a Late

Poem “In Defense of Satire”〔1677

年〕)である。総じて巧みだが下品なので、

スクループへの有効な反撃になっているとは言い難い。但し、愚人像構築 に貢献してはいる。ヴィースは、本作がロチェスターとスクループの喧嘩 の〔ロチェスターにとっての〕記録文書の主なものの一つである、ロチェ スターは『ホラティウスの仄めかし』に於て最初にスクループを攻撃し て、スクループがそれに対して『風刺の擁護』で反撃した、と解説してい る(Vieth, p. 132)。以下、作品概要を示しながら、コメントを加える。

(21)

─ 21 ─

─ 20 ─

冒頭から、ユウェナリス張りの激しい調子である─

意味を生まない脳みそ(thy unmeaning brain)を酷使して、調子外れ の低級な調べで風刺を賛美するとは、お前は何と生意気で、愚かだっ たことか。お前の体でよりはっきりと分るのだが、風刺には神聖な権 威がある。なぜなら神が、お前を作った時に、人間に関する風刺を行っ たのだ。その目的は、人間の中には─猿がいるように─単に嘲る ためにできている者もいて、そういう人間が猿と異なるのはその姿だ けであるということを示すためだ。(1

8

行)

スクループを攻撃する場合によくあることだが、彼の内面は勿論外観をも、

口を極めて罵っている。本作のこれ以後の部分もそうである。それ故に、

その口調は総じて下品であり、文学的な反論ではなくて、ただの悪口に聞 こえる。(このような攻撃が低レベルであることを、先程、スクループに よるマルグレイヴ批判に関して指摘してある。)風刺が誹謗中傷と紙一重 であり、時として両者が入り混じることをよく示す例である。

続いて、お前は矛盾の塊であると始めて、女たらしを気取っても、女性 達に忌み嫌われているではないか、と悪口を言う─

お前の中には全ての矛盾が集っており、そのために、ロバが非凡で教 養あるようにさえ見える。奇形で醜い肉の塊として、お前は生まれた。

愛など関係なく、自然を軽蔑する形で、孕まれた。そして、見苦しい ことこの上ない人間に育っている。声は聞き苦しく、見た目がおぞま しい。それなのに、色恋沙汰をこととして、美しい人を見て喜んでい る。頭のおかしいお前が、どういうわけでこう考えるようになったの か─女性から讃えられようとか、脂ぎった顔に化粧して踊ったり着 飾ったりしようとか、その他色々な馬鹿をやって、忌わしい愛情や汚 らしい優美さ(filthy daintiness)を表現しようとか、と。お前がそう

(22)

─ 22 ─

いう気になった愚かな時は呪われるが良い! 〔お前でなくて〕誰が わざわざ醜いいい男(an ugly beau garçon)になって、町中の娘から唾 棄され避けられる必要があるのか? その町にお前は愛の恐ろしいカ カシとして立てられて、愛を味わいたいと願う若い女性達を脅かして いる。やって来る乙女は皆、お前が現れると、恥ずかしさのあまり後 ずさりし、恐怖のあまり貞淑になる。と言うのは、お前が求愛する時、

お前に愛されるのを我慢できたのはよほど貧しい女か売春婦だけだっ たのだ。(9

28

行)

「汚らしい優美さ」(20行)も「醜いいい男」(21行)も、スクループが体 現する矛盾を上手に表している。(因みに、自分を「いい男」と勘違いし ていることは、『風刺の擁護』96行で既に風刺されている。)下劣な悪口 の羅列ではあるが、ポープにも通じるところがある愚人の特徴とされるも のの記述と考えて良いものが、随所にある─愚人として、又ミルトン的 な悪魔として当然備えている諸々の「矛盾」(後述)に加えて、(当時の捉 え方に於てであるが、)容貌が異様であること、狂気、自分の長所に関す る勘違い(“

inspirʼd

Thy madness to pretend to

”〔17行〕)等である。

スクループが矛盾の塊であるという罵倒は、最後まで続く─

〔お前が女を口説くのは〕無駄な労力だ。さもなければ私が忠告して やりたいところだが、お前は知恵が足りないので(“thy half wit”〔30 行〕)、幾ら教えても利口にはなるまい。機知が足りず(Half witty)、

半ば狂っていて(half mad)、ほとんど勇気がなくて(scarce half brave〔以

31

行〕)、正直さが足りない(Half honest〔32行〕)〔とは即ち、悪 党である〕─こういった諸々の半分・不足(all these halves〔33行〕)

から出来上がっているので、お前はロバ以外の何者としても通りはし ないのだ!(29

34

行)

(23)

─ 23 ─

─ 22 ─

「半分・不足」の塊は、冒頭の「矛盾」の塊を引き継ぐ悪口である。攻撃 相手を怪物化して、心身共に全否定している─〈無〉へと化そうとして いる。このやり方に関しては前論文で指摘済みであるが、愚人の〈無〉化 そのものは上手に行われている。私としては、ミルトンが『失楽園』(Paradise

Lost〔1667

年;1674年〕)でサタンを〈悪/無〉へと抽象化していること

も想起する。このような還元的攻撃の手法は、『詩人のニニィについて』(後 出)にも見られる。しかし、スクループの『風刺の擁護』の出来がまあま あ良いので、当然のことながら、ロチェスターによる全人格否定式攻撃の 価値は相対的に低下する。風刺の毒が強すぎる結果、ヘボ詩人/三文作家 が風刺を行いつつ自身の不足を露呈するのと似た形になっている。

これに対してスクループは、寸鉄詩『作者の返答』(The Author’s Reply

〔1677年〕)で応じる。ヴィースによるロチェスターの『詩人のニニィに ついて』の解説(Vieth, p. 132)からして、スクループは冷静なまま喧嘩 から退いたが、ロチェスターと彼の仲間達はしつこく攻撃し続けたこと が、つまり、後者の方が私怨を募らせており、それだけ誹謗中傷の徒に堕 していた面があることが想像できる。スクループが非常に短い応答で済ま せていることには、頭に血が上っている相手陣営に呆れる気持ちが表れて いるだろう。

この詩は、お前の悪口では誰の名も傷つかない、お前のペンは、お前の 剣と同じで、全く無害だ、と締め括っている(6行)。ここは、ロチェスター とマルグレイヴの決闘未遂(1669

11

月)を仄めかしている。その決闘 に臨むに際してロチェスターは、体調不良を口実にして不公平なハンデを 要求した、と言われている(6n)。このように時の話題を利用してチクッ と刺すところが洒落ており、短いながらも、単なる悪口に堕していない。

これに応じるのが、子供の悪口のような題名の『詩人のニニィ〔とんま〕

について』(1667年)である。ニニィ(Ninny)は、本詩集解説が引用す

(24)

─ 24 ─

るピントー(V. de Sola Pinto)によると、シャドウェルの喜劇『不機嫌な 恋人たち』(The Sullen Lovers〔1668年初演〕)の登場人物であり、見当違い の詩論と自身の詩を繰り返し読むことで人々を困らせる、うぬぼれの強い 詩人である(POAS1, p. 374)。ドライデンは『マック・フレックノー』でシャ ドウェルを愚人フレックノーの後継者に擬しているが、そのシャドウェル が自分に才能があると勘違いして思い上がっている人物を描いており、ス クループへの攻撃材料を提供している構図である。

冒頭で詩人が、スクループが自分に対して行った風刺が生ぬるい、と笑っ ている(1

4

行)。そして、こう続ける─

お前は、生れてきたこと自体がお前の恥だ。その顔でしか人を怒らせ 得ない。無害な悪意と希望のない恋愛の見本であり、高慢と醜悪の塊 である。(5

10

行)

又、このような個所がある─

当世風のバカを日々見かけるものだが、彼等は控えめで、愚鈍である。

〔彼等は、〕お前に比べれば、才人である! と言うのは、愚かさの中 で最たるものは、うぬぼれが強いとんまとめかし屋であるからだ。(19

22

行)

他にも色々と上手な悪態を並べており、その限りで愚人像構築に貢献して いる。しかし、品はない。題名が子供の悪口みたいだと書いたが、内容も 基本的にその線である。(この作品に対する本詩集編者の否定的評価を紹 介済みである。)冒頭でスクループの風刺が生ぬるいと文句をつけている が、その生ぬるさはスクループの風刺の節度と品から生じているものであ り、スクループの美点でもあるだろう。

(25)

─ 25 ─

─ 24 ─

風刺対象の特定と風刺を行う姿勢の提示(=風刺の擁護)を十分に行う には、ある程度の長さが必要だろう。しかし、そのような本格的な風刺で なくとも一定の水準に達し得ることを、スクループの『作者の返答』が証 明している。本論考で扱ったロチェスター陣営の作品に総じて難点が多い のは、恨みの強さが風刺家の姿勢を保つことに勝って、その結果、特に短 い作品では怒りを吐き出すことが主体になっているのが一因ではないか。

(別稿へ続く)

(26)

─ 26 ─

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