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郷愁と夢想─ヴラジーミル・ナボコフの『プニン』

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(1)

郷愁と夢想─ヴラジーミル・ナボコフの『プニン』

鈴 木 聡

1.

テクストへの介入

2.

「私」という他者

3.

苦痛と幻視

4.

夢と色彩

1. テクストへの介入

ヴラジーミル・ナボコフの長篇小説『プニン』(1957年)1)は、長篇小説『ロリータ』

(1955年、1958年)2)の原稿完成と符節を合わせたように1953年に起稿され、創 作の途中段階で、全七章のうち第一章、第三章、第四章、第六章が『ニュー・ヨーカー』誌に 順次掲載されたのちに単行本としてまとめられたものである。一見したところ煽情的な内容の ものと受け取られるに違いない『ロリータ』の出版にあたって、編集者の躊躇をはじめとする かずかずの困難が予測されるところから 3)、その種の懸念に晒されることなく発表可能な新作

──作者自身のそれとかさなり合う運命の変転により、アメリカ合衆国の大学(ウェインデル・

コレッジという架空の大学)で職を得るにいたったロシア人学者(チモフェーイ・パーヴロヴ ィチ・プニン)の性格と境遇を中心的な話題としつつ、その人生のひと駒を描いた、親しみや すい、諷刺的、喜劇的な読み物として編集者や読者の眼に映るもの──を用意しようという配 慮が、作者のがわで働いていたことはほぼ疑いない。

ベルリーンとパリを主たる居住地とし、亡命ロシア人たちの社会でいち早く注目を集めた新 進作家としてロシア語で創作活動を行なっていた当時、職業的にナボコフの身についた習わし となっていたのは、定期刊行物(主に『現代雑記』誌)による長篇小説の分載という発表形態 であった。出版事情も異なれば、出版物の傾向も異なる合衆国に移り住んでからは、そのよう な形態はかなわなくなっていた。それでも、1945年以来、『ニュー・ヨーカー』誌に「団 欒図、1945年」4)、「記号と象徴」5)などの短篇小説ばかりでなく、「わが叔父の肖像」6)

「コレット」7)のように、のちに『確定的証拠──回想記』(1951年)と題された著作8) と して集成される(そしてさらに後年『記憶よ語れ──自叙伝再訪』[1967年]9として改 訂されることになる)一連の自叙伝的散文の断章を寄稿して、すでにナボコフは広汎な読者を 得るにいたっていた。

(2)

それらの各作品の初出時と同様に、『プニン』の各章──第一章(『ニュー・ヨーカー』誌 1953年十一月二十八日号に掲載。掲載時の表題は「プニン」)、第三章『ニュー・ヨーカ ー』誌1955年四月二十三日号に掲載。掲載時の表題は「プニンの一日」)、第四章(『ニ ュー・ヨーカー』誌1955年十月十五日号に掲載。掲載時の表題は「ヴィクターがプニンと 会う」)、第六章(『ニュー・ヨーカー』誌1955年十一月十二日号に掲載。掲載時の表題 は「プニンがパーティを開く」)──は購読者たちに提供されたのである。当時の人びとが、

それぞれのテクストを、個々に完結した別個の短篇小説であるように受けとめたであろうとい うことは容易に推察することができる。

しかも、じっさいに掲載された四つの章とともに、全体的な構想の一環もしくは系列をかた ちづくるものとして、順序どおりに発表する心づもりでナボコフが原稿を送っていた第二章

(「プニンはずっと独身だったわけではない」)と第五章(「松林に佇むプニン」)は、それ ぞれに、暗鬱だとか、反ソヴィエト的軽口が目立ちすぎるというような理由により、編集部の 意向で掲載されずに終わった。そのため、他の四つの章が、長篇小説の一部ではなく、たんに 主要な登場人物たちが共通しているにすぎない連作短篇小説群であるかのような印象はよりい っそう強められる事態になったというべきであろう。初期の読者たちがそうした印象をいだい たとしても、なんら不思議はあるまい10)

見かたによっては、作者の当初のもくろみのうちにあっても、長篇小説としての『プニン』

の骨格がはっきりとした像を結んでいたわけではなかったという可能性もある。1953年六 月二十日付のエドマンド・ウィルソン宛ての書簡11)でナボコフは、ちょうどそのころ構想が浮 かんできていた作品をさして、「私の創造物である、プニン教授をあつかった短篇小説の連作」

と称しているのだ。だが、時が経過するにつれて、作者の自作にたいする見解にある種の変化 が認められるようになる。

翌1954年の時点では全部で十章ほどになると見こまれていた様子もあるが、各章の執筆 がしだいに進み、全体で七章になるという見とおしが立ってくると、『ニュー・ヨーカー』誌 の編集者、キャサリン・A・ホワイト12)に原稿を送り、手なおしの可否をめぐる遣り取りがな されるいっぽう、単行本出版の権利を譲渡したヴァイキング・プレス社の編集者、パスカル・

コヴィチ13)とのあいだで交渉がかさねられる。そのなかでナボコフは、この作品(仮題は『私 の気の毒なプニン』[

My Poor Pnin

])が語の広い意味における長篇小説であって、外見上そ う思われるような「小品の集まり」などではないという点を再三力説しているのである14)

とはいえ、ことあるごとにナボコフが、『プニン』の作品としての有機的統一性を強調しよ うと努めたことは容易に見て取れるにしても、他方において、彼がある一時期、現在の第四章 と第五章のあいだにもうひとつの章を挿入しようという思いつきを検討してみたことも事実で

(3)

あるようだ。『プニン』が(最初予定されていたヴァイキング・プレス社ではなくダブルデイ 社によって)刊行されて九年ほどのちに行なわれたインタヴュー15)でナボコフが述懐している ところにしたがうなら、『プニン』は、最初から「心のなかで完成した」16)全七章の長篇小説 として構想され、その第一章から順番にしたがって書き進められたものだとされている。しか し、そのいっぽうで彼は、書かれなかった章の内容──「背部捻挫」で療養中の主人公プニン が、偶然、病院の図書館で見つけた「1935年版自動車運転手引き書」を読み、独学で運転 免許試験を受けられるまでになるという挿話──に触れ、その執筆が妨げられたのは、「19 56年に起こった偶然の出来事の組み合わせ」のためであったと証言するのである。

1955年夏、(七月下旬から八月上旬にかけて)八日間、腰痛のため入院したナボコフ自 身の体験がここに反映していることはたしかだ17)。とはいうものの、同年七月末に『プニン』

第五章の原稿を『ニュー・ヨーカー』誌に送付し、八月末までには第六章の原稿を送るととも に、第七章を完成させ、すべての原稿を(改めてまとめて)コヴィチに宛てて送っていること から察すると、少なくとも今日われわれが眼にすることのできる『プニン』の全容がいちおう 確固たるものとして定まったと見なし得るその時期に限定して考えるならば、プニンの入院生 活を描いた章がじっさいに書かれるべき理由、事情、条件などのいずれもが欠けていたと断定 せざるを得ないだろう。

最終章の擱筆の前後ではなく、翌1956年のいくつかの出来事が障碍となったとするナボ コフの言葉を、年代の錯誤としてではなく、そのまま受けとめるとすればどうであろうか。1 955年九月にはパリで『ロリータ』が出版され、十二月には『サンデイ・タイムズ』紙のク リスマス特集号(第六九一九号)でグレアム・グリーンが、当時、一般にはほとんど知られて いなかったこの作品を一年間の成果(三冊の推薦図書のうちの一冊18)として選定する。この ことを直接のきっかけとして、俄然注目のまととなり論争の火種ともなった『ロリータ』は、

いわゆる「ロリータ事件」19)に一端が示されているような社会現象までもを巻き起こすことに なる。1956年が、ナボコフの最後のロシア語短篇小説集20)が世に出た年でもあることを思 い合わせるならば、この年が彼の作家人生の転機にあたるとする見かたも可能となるだろう。

その観点に立ってみると、『プニン』の第六章が掲載されて以来、定期刊行物への寄稿が途絶 えた点も見逃すことはできないはずだ。

身辺のいっさいが前年までとはいささか異なる様相を呈しはじめた1956年、ナボコフが 主に精力を傾注していたのは、長年にわたって営々と続けられてきたアレクサーンドル・プー シキンの韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』(1825‐32年)の翻訳ならびに註釈に 向けた資料調査と、ミハイール・レールモントフの長篇小説『現代の英雄』(1840年)の

(息子ドミートリイによる下訳を吟味するという形でなされた)翻訳作業21)であった。その他

(4)

の時間は、『ロリータ』のアメリカ版出版(1958年八月)をめざして、取り組み、解決す べきもろもろの雑事によっておおはばに奪われることになったのである。

当時、鱗翅類研究の成果を著書にまとめることまで(結局のところ実現にはいたらなかった とはいえ)計画していたナボコフにとって、『プニン』の単行本化にあたり、新たな章を付け 加えるための時間的余裕はなかったといってよさそうだ。にもかかわらず、作者は「最後の曲 線にいたるまで」鮮明に、書かれることのなかったその章の詳細が胸裡にとどまっていると明 言している。そこに諧謔か、(もしかすれば)周到に練りあげられた韜晦のようなものがまっ たく含まれていないとはいいきれない。いずれにせよ、作者自身が腰痛に苦しめられながら、

虚構の人物が同じ症状で入院したことをきっかけに展開する物語を思いつくというなりゆきは、

全般的に見て『プニン』が現実世界といかなるかかわりを有するテクストであるかを徴候的に、

遺憾なく示唆しているといえるに違いない。

視点を変えてみるならば、『プニン』の第四章と第五章のあいだに一章を挿入するという選 択肢は、現在われわれが読むことのできるテクストの構成原理と合致していないと見なすこと も可能だ。それまでの六つの章で前面に浮上することのなかった語り手が、みずからの回想を 語り、主人公であったはずのプニンに代わってふるまいはじめる第七章を除いて、その他の各 章は、語りの主眼がどこにおかれているかによって、二種類に大別される。しかも、その様態 は、奇数章(第一章、第三章、第五章)と偶数章(第二章、第四章、第六章)で交互に入れ替 わっているのである。

奇数章では、そこに含まれた複数のセクションのすべてにおいて、プニンの思考と行動に焦 点が合わせられるのにたいして、偶数章のいくつかのセクションでは、プニンと接触をもつそ の他の登場人物──プニンに部屋を貸すクレメンツ夫妻、プニンの以前の妻リーザと現在の夫 エリック・ヴィントとの息子であるヴィークトル・ヴィント、プニンの理解者、庇護者である ウェインデル・コレッジの独文学科主任ヘルマン・ハーゲン博士──の視点が暫定的に前景化 される。そこにあっては、主人公の存在はしばしば遠景か背景に配置されることになる。この ような措置が取られていることを鑑みると、書かれることのなかった章の位置づけは、全体の 構成に整合しない余剰にあたると結論づけざるを得なくなるのだ。

ゲンナージイ・バラブタルロが論じているように22)、『プニン』の奇数章は、語り手自身の 記憶にもとづくプニンの過去にかんする情報の断片と、プニンが「亡くなった彼の恋人」

Nabokov 1989(3): 27

)──ミーラ・ビェーラチキンというユダヤ系の女性であり、第五章で

は彼女がブッヒェンヴァルト強制収容所で殺害されたことがわかる──や、親しいひとたちの 生前の姿を幻視するという非日常的な描写を含む点において共通性を有するものであり、その ような特質の延長線上にあって、第七章における語り手自身の回想が、それまでの記述に付加

(5)

されているものととらえることもできる。読者がうすうす察知していた事態ではあるにせよ、

ここではじめて、語り手がプニンとは旧知のあいだがらであること──ならびにプニンと入れ 替わる恰好でウェインデル・コレッジに着任することとなった同郷出身のロシア文学者(「き わめて魅力的な講師」[

Nabokov 1989(3): 169

])であること──が明白になるのである23)

その地点に到達するとき、読者は、それまで読んできたテクストの全体を読みなおし、細部 の齟齬や矛楯を比較検討して、なんらかの判断をくだすことを余儀なくされる24)。たんなる締 め括りとしてだけでなく、総決算としての意義をも担っている第七章は、まさしくその特異な 役割を理由として、単発的な読み物と混同されやすい雑誌掲載の形式になじまないものと思慮 されたために、作者が『ニュー・ヨーカー』誌に送った原稿のうちに含まれなかったのかもし れない。

読者のがわに再読をうながす暗黙の働きかけともなっている、語り手による物語への介入の ありかた、現われかたを勘案してみても肯けるように、また、すでに指摘しておいた、主人公 ひとりのそれに特定されることなく焦点化される主観の入れ替えという側面に如実に示されて いるように、奇数章と偶数章のあいだで、語りの位相の変動、強調点の移動が生じていること は疑いの余地がない。そのような計算と展望があったにもかかわらず、束の間の霊感の訪れに 導かれて、プニンの入院をあつかう章が挿入されていたとするならば、少なからず美的均衡を 失する結果になっていただろうといわなければならない。

ナボコフの他の多くの作品にもあてはまることではあるにせよ、再読が必要とされるのはな ぜか。ここでその意味を少し考慮しておいてもよいだろう。これもまたナボコフのあらゆる作 品のあらゆる局面についていえることではあるけれども、『プニン』における語り手のふるま いは、中立的なものでもなければ、客観的真実性によって保証を与えられたものでもない。語 り手の信頼性が根本において、また個々の細部において揺らいでいるがゆえにこそ、一回かぎ りの読書ではとうてい覆いつくせるはずのない多様な解釈の可能性が地平を広げてゆくことに なるのである。

2. 「私」という他者

『プニン』のテクストについていえば、再読によって明かされることがらのひとつとは、そ の全篇が、主人公の人生から断片的に選び取られた挿話を綴るものという外見を有しながらも、

じつは見かけどおりの恣意性によって支配されているわけではないということであろう。テク ストの裏面にあっては、語り手が一貫して物語にたいする介入の度合いを強めてゆくという動 きが持続的に生起しているのである。いや、その着実な動きこそが『プニン』における真の物 語にあたっていると見定めるべきなのだろうか。

(6)

『プニン』の第七章にいたる以前に、われわれは、プニンの昔の知り合いについていくつか の情報を与えられていた。プニンとその友人(彼を合衆国に招いてくれた恩人でもある)コン スタンチーン・イヴァーニチ・シャトーとの会話──「クックの城」とも「松林屋敷」(

The Pines

) とも呼ばれるアル・クック(アレクサーンドル・ペトローヴィチ・クコリニコフ)の別荘でロ シア人の友人たちと旧交を温める場面(第五章第四節)──では、「ヴラジーミル・ヴラジー ミロヴィチ」という第一名と父称をもつ人物のことが話題となる(

Nabokov 1989(3): 128

)。そ の人物は(プニンにいわせれば「見せかけ」なのだが)「昆虫学」にくわしいとされ、蝶の蒐 集を趣味としているらしい。

プニンがあまり信用できないと考えているこの知り合いは、第六章第一節でウェインデル・

コレッジの英文学科主任ジャック・コッケレルが新たに迎えようとして交渉にはいっている「卓 越したイギリス系ロシア人作家」(

Nabokov 1989(3): 140

)と同一人物であると思われる。プニ ンを物笑いの対象としか考えていないコッケレルによれば、必要とあればその人物は、プニン の担当授業をすべて引き受けることができるはずであった。この新たな人事のことをプニンに 教えたのは、学科内の権力抗争に嫌気がさし、他大学に移籍しようとするいっぽう、理解者で ある自分がいなくなったあとのプニンの身を案じていたハーゲン博士であった。

ロシア文学科のないウェインデル・コレッジでは、独文学科のしたにおかれた比較文学講座 で、終身在職資格のない助教授として「九年間」(

Nabokov 1989(3): 167

)勤務してきたプニン の地位は、他学科の思惑に左右されざるを得ないため、ハーゲンは、仏文学科主任のレナード・

ブロレンジ──文学にまったく関心がなく、フランス語の知識もほとんど欠如していることが 彼の特徴である──やコッケレルに頼みこんでいたのだが、プニンの契約が延長されそうにな く、むしろ彼を追い出そうとする策謀がなされていることに気づかされる。プニンが家を買お うと計画していてることを知り、それまで逡巡していたハーゲンは、ついに新学期からの契約 がないことをプニンに打ち明け、新任者に頼るよう勧めるのだった。そのさい彼は、「きみの

旧友」(

Nabokov 1989(3): 169

)といい、プニンもまたその人物が三十年来の友人であることを

認めているのである(

Nabokov 1989(3): 170

)。

プニンの知り合いの身元は、少なくとも部分的には、『プニン』の真の作者、真の書き手で あるヴラジーミル・ナボコフのそれに類似している。それを模したもの、あるいは横領したも のであると称してもまちがいではなさそうだ。ナボコフとどことなく似かよったこの人物が、

新たにウェインデル・コレッジに迎えられるという皮肉なめぐり合わせが判明する第六章に引 き続き、それまで匿名の「私」という存在にとどまっていた語り手こそが、その人物にほかな らないと判明するというのが、第七章において生じる重大な転回である。

このようにして露呈されるのは、作者と似かよっているとともに、作者と同様の関係をテク

(7)

ストとのあいだに結んでいる語り手としての「私」は、じっさいには、作者と同様にテクスト の外部に位置しているわけではなく、自分自身が虚構上の作中人物のひとりでもあるというこ とだ。つまり、本来はテクストの作者そのひとの専有物であったはずの、地の文における「私」

という人称代名詞もまた、作中人物たる語り手によって横領されたものであったことになるわ けである。

第七章第一節では、その「私」が、「1911年春のある日曜日」(

Nabokov 1989(3): 174

)、

サンクト・ペテルブルグでプニンとはじめて出会ったときの思い出を語る。そのもっとも早い 時期の思い出に重層的にかさねられる五年後のもうひとつの思い出──「バルト海沿岸のある 有名な避暑地」(

Nabokov 1989(3): 177

)における偶然の再会(第二節)──はさらに、192 0年代、パリのカフェで、そのころ「ロシア文化にかんする数篇の見事な論攷を執筆した博識 な若い著作家」(

Nabokov 1989(3): 179

)として名前を知られるようになっていたプニンと言葉 を交わしたさいに、記憶違いを指摘されたという思い出(第三節)へ、そして、亡命ロシア人 たちのあいだで崇敬のまとであったリーザ・ボゴレポフという若い女性をめぐる(おそらくは プニンの立場とは異なる)回想的記述へとつながってゆくことになる。

その一節において「私」は、自分がリーザから好意をいだかれていたことをほのめかしてい る。彼女が一時期、情熱を注いでいたロシア語による詩作(アンナ・アフマートヴァの影響を 受けたもの)がたんに低劣なものにすぎないという忌憚ない意見を伝え、創作を断念するよう 勧めたのは「私」であった(

Nabokov 1989(3): 181

)。その後、あえて語ってみても「公衆の興

味」(

Nabokov 1989(3): 182

)を惹くとは思われない激情の結果、リーザは睡眠薬を飲んで自殺

を図る。ただちに手当てされ恢復したのちに、彼女はプニンからもらった結婚を申しこむ内容 の手紙を「私」に見せ、深夜までに「私」がなにもいってこなければ、求婚を受け容れるつも りだといって立ち去るのだった。

一読したあと、おそらく「私」はなんの反応を示さずに、そのままパリを離れてしまった。

それ以来、くだんの手紙は「私」の手元に残されることになったのである。紹介された文面を じっさいに読むことにより、われわれは、それが、第二章第五節で「現在は個人の蒐集品とし て保管されている」ものとされた「長大な恋文」(

Nabokov 1989(3): 45

)にほかならないこと を知る。その箇所でも語り手は、リーザが「ある文学者」との恋愛に苦しんでいたということ をいいかけ、話を中断させていた。つまり、「私」は、1925年ころ、二十歳になったばか りの医学生でありながら、すでに心理療法士の仕事もはじめていたリーザ──再婚相手である ドイツ人学者エリック・ヴィントとともに彼女はその分野で活躍するようになる──に、文学 趣味に掛かり合うことをあきらめさせただけでなく、自殺未遂後のリーザが、その反動によっ て心ならずもプニンと結婚する原因をつくったのも自分であったと暗にいわんとしているので

(8)

ある。

この第七章で「私」は、少年時代以降の四十数年の歳月をたどりながら、自分自身の過去に ついては、十二歳の誕生日に贈られたイングランド製の自転車に乗っていたときに、眼に小さ な埃がはいったという瑣末な出来事や、プニンとシャトーの会話でも言及されていた鱗翅類研 究の趣味に早くから親しんでいたこと(

Nabokov 1989(3): 177

)、家庭教師と叔母というおぼろ げな人物が身近にいたことなどを語っているにすぎない。プニンやリーザとの出会いが反覆的 に生起する結節点となっているのみで、語り手による回想は多くのところが空隙となっている。

そのいっぽうにおいて、記憶の連鎖によってかたちづくられた、同種のパターン──数年ま えの出来事が数年後に回想されたことが、さらに数年後に回想されるものの、それらは結局の ところ、他者によって確認ないし肯定されることのあり得ない、裏づけのない情報の呈示に終 わる──が反覆され、同心円、紋中紋(

mise en abîme

)、あるいは無限退行とも螺旋とも呼べ るような構造が形成されることによって、言表の真偽にかんする決定不可能性が、一方向的に もちこされ、増幅されながら波紋を広げてゆく。その点が最終的に解決されることはない。な にが真実であるかという問題を棚あげにしたまま、テクストは特定の声のもとに収奪され専有 化されるのである。

「私」という語り手が、もうひとりの作中人物であり、それまでは全篇にわたる主人公と思 われてきたプニンに実質上、取って代わって、プニンの過去について語ることによって、その 過去は不当にも完全に横領されてしまったという観すらある25)。読者がそのことに思いあたっ て、振り返ってみるならば、語り手を嘘つきと非難し26)、その思い違いや錯誤27)をたんなる迂 闊さによるものではない、悪意からきているかのように決めつけていたプニンの言葉は、囲い こまれたテクストの内部から外部に向かって投げかけられた抗議であるようにも思われてくる。

その点はさておき、テクストの表面をたどるだけでも、とりわけ第七章において、主人公の 居場所であったはずのところが空所となり、他者がその場を埋め、寄生し、あるいは横領する さまを見て取ることはたやすい。第六節でウェインデルに到着した語り手が、プニンとじっさ いに出会うことなく、自動車でいずこかに走り去ってゆく彼の姿を瞥見した(

Nabokov 1989(3):

190-91

28)と述べられる第七節で、主人公の運命をたどるという一般的な語り手としての標準

的な役割は放棄され、物語そのものが、主人公ではなく、他のだれかの所有物であることが申 し分なく明らかにされる。語り手が必要としていた真の主人公とは語り手自身であったとでも いうことなのか、大学におけるプニンの地位を奪い取ったのとちょうど同じように、主人公と してのその立場までもを奪い取っているかのようにさえ映るのだ。

プニンの物語がじつはプニン自身のものではなかったことは、物まねを得意としているコッ ケレルが、われわれがすでに承知している失敗談を語りはじめるという第七章第七節の幕切れ

(9)

によって、さらにアイロニカルに強調されて明示される。そのあらましは、この一節の時点か ら遡ること数年まえ29)、1950年十月、クレモウナという(ウェインデルから列車で二時間 あまりの)町の婦人クラブに招かれ、講演に出かけたプニンに焦点を合わせていた第一章と重 複するものである。主人公が不在となっているにもかかわらず、その思考や言動、さらには人 格そのものまでもがひとり歩きし、反覆的、継続的に仮構されることこそ、物語の本質だとい うべきなのだろう。このような循環がかたちづくられることにより、プニン本人がテクストか ら離脱し、見かたによってはそこから排除されたのちに、その名前を借用したテクストによる 主人公の囲いこみという構造はより完全なものと化すのである。

だがそれにしても、コッケレルが語りかけた物語は、なにを根拠とし、なにを根源としたも のなのか。それは、第一章に記されているような経緯を簡略にしたためか、やや喰い違いが生 じ、「まちがった講演原稿をもってきてしまった」ことに気づいたという趣旨の話になってい るようだ。この逸話は、そのような形で、すでに周知のことがらとなっているということなの だろうか。もしそうだとすれば、プニン自身を除いてだれひとり知り得なかったはずの個人的 な経験が、大学のキャンパスに広まった伝説となっているのはなぜなのか。

必ずしも信憑性や信頼性によってささえられることなく、表面的なまことしやかさだけが追 求されるということは、物語ならびに虚構作品全般に備わった傾向であると同時に限界でもあ るといえるだろう。想像力による過去の遡行的な再構築をたてまえや口実としながら、実体化 されるものが欺瞞や詐術であるといういうこともあり得ないわけではない。その点は、藝術的 な制作物の場合であろうと、噂話や都市伝説の流布の場合であろうと変わることがない。通常 であればあえて問題化されることのない、物語るという行為それ自体の習慣的、因襲的な仕組 みが異化され、非日常化されるということが、『プニン』というテクストの言説としての特徴 となっていることはまちがいなさそうだ。

語り手の介在という、いかなるジャンル、いかなる形態の虚構にあっても無反省に常套化し ている約束事が、ここではきわめて意識的な仕掛けとなっている。そのこと自体が一貫した主 題となって展開しているといってもよい。そうしてみると、『プニン』の仮題であった『私の 気の毒なプニン』は、図らずもテクストの本質的側面をいいあてていたと断ずることもできる のではないだろうか。「私」という人称代名詞の頻繁な使用は、このテクストのうちにあって 注目すべき特異性を有した現象となっていると見なすことができるのである。

便利のよい列車を時刻表(五年まえのもの)で見つけたつもりで、じつは自分の乗った列車 がクレモウナ駅には停車しないということに気づかないまま、みずからの賢明さに満足しきっ ている「初老の乗客」(

Nabokov 1989(3): 7

)、プニンの容姿と身なりを仔細に描写することか ら筆を起こされた第一章第一節の叙述は、一見したところ客観的なものといってよいように思

(10)

える。禿頭、日焼けした肌30)、眼鏡、鍛えられた上半身にくらべて細すぎる脚など、たんに写 実的かつ戯画的であるという以上に緻密である点を除いて、そこにはいささかも異常なところ は認められないようだ。肉体ならびに服装にたいする固執は、主人公自身の趣味や嗜好や個性 をそれなりに忠実に反映したものとも考えられるだろう。

しかしながら、主人公の視点ではなく、主人公をとらえる外在的な視点を導入するという──

映画カメラによる撮影にならった手法と解釈することもできる──枠組みの設定、主人公の外 見と内面の表象を同時並行的に配置するという様式は、ナボコフが英語で執筆した長篇小説の 多くからすれば異例であるように感じられよう。しかもそこには、いかにもナボコフらしいひ ねりあるいは反転が付け加えられている。語り手は、かなり早い時点からみずからが無機質な カメラの眼などにとどまってはいないことを直截に主張しはじめるのである。はじめのうちは

「われわれの友人」(

Nabokov 1989(3): 9

)と呼ばれていたプニンが、いつしか「私の友人」

Nabokov 1989(3): 20

)と呼び変えられ、それと軌を一にするように、語り手が個人として、

主体として発言するようになること──「私の友人は訝しく思った。私も訝しく思う」──は、

徐々に専横を増してゆく語り手による意思表示の端的な例となっているというべきであろう。

3. 苦痛と幻視

いわゆる全知の視点が果たしている機能をさほど疑わしいとも思わず、他の多くの虚構作品 に接するときと同じように読んできた読者も、記述内容に積極的に関与し介入しようとする

「私」の存在とそのふるまいには注意を向けざるを得なくなる。その介入がなかったなら、ま ちがいなく無批判に受け容れていたはずのことがらが、急に胡散臭いもののように思えてくる のである。1945年、プニンがヤルタ会談にかんする投書を『ニュー・ヨーク・タイムズ』

紙に送り、その投書が載った新聞の切り抜きをいまも札入れのなかにたいせつにしまいこんで いるという話にしてみても、ただそれだけが報告されて終わるのであれば、疑問を差し挟まな ければならない特段の理由などなさそうだ(

Nabokov 1989(3): 16

)。

しかし「私」は、純然たる客観的事実の領域をいくらか踏み越えてしまう。英語をあまり流 暢に使いこなすことができなかったプニン31)がその投書を書きあげるにあたって、手伝ったの は自分であったと打ち明けるのだ。このような越権あるいは侵犯によって、テクストの表面に は不穏な揺れ動きが生じてくることになる。そのとき、このさりげない余談、虚構のうえに塗 りかさねられたもうひとつの虚構は、虚構テクスト全般が暫定的に帯び得る現実性(ほんとう らしさ、まことしやかさ)がいかに危うい基盤にささえられているかを証すものとなるのであ る。

その場に立ち会っていたわけではない語り手が、なぜすべてを知っているのか。懐疑的に距

(11)

離をおいて語り手の発言の真偽を問題化することなく、受け容れてよい理由とはなんなのか。

プニンの経験がわれわれに伝達されるとき、「私」やコッケレルという媒介者が不可避的に必 要とされるだけでなく、そのそれぞれの伝達内容に微妙な差異があり、しかもそのいずれもが テクストの外部に位置している真の作者による統御のもとにあるのだとすれば、とりあえずの 事実と呼べるものはいったいどこにあるのか。そうした抜本的疑問が暫時保留されるためには、

虚構内の世界に劃された一定の境界、枠組みの内部における規範が遵守され、節度と安定が図 られなければならない。

作中人物の知り合いであり、みずからも作中人物のひとりにほかならない『プニン』の語り 手は、たとえば『エヴゲーニイ・オネーギン』における、作者プーシキンそのひとを彷彿させ ずにおかない語り手という前例に触発されたもののようでもある。この韻文小説の場合も、主 人公たるオネーギンと語り手は個人的な知り合いである。ただし、両者のあいだには友情なり 意思の疏通なりがあり、そこから生じる感情移入が主人公の代弁者としての資格を語り手に賦 与している。情報が与えられる経路が揺るぎなく確保されていること、語り手が主人公に代わ って語り得る理由がいちおうは明確化していることで、この作品を成立させる説得力の源は、

確固たる裏づけのあるもののようにして読者に呈示された形になる。

だが、それにたいして、『プニン』の主人公とその語り手のあいだにあるものは、永遠に交 わることのないすれ違いとしか呼びようがない。そのことが徐々に明らかになる以前にも、わ れわれは、テクスト内で生じている事態について、語り手が、主人公をうわまわる知識を有し ていることをしばしば誇示する傾向があることに否応なく気づかされるだろう。そのために語 り手は、説話の通常の順序を壊乱することも辞さない。たとえば、プニンが列車を乗りまちが えたということを読者が知らされるのは、主人公による認知と時を同じくしてであったとして も、まったく不自然ではないよいように思われる。にもかかわらず、語り手は、「秘密」だと 断りながら、主人公が「まちがった列車」に乗っていることに気づいていないことを明かし、

そのことを三度繰り返して強調しているのである(

Nabokov 1989(3): 8, 13, 14

)。

検札にきた車掌から列車がクレモウナに停車しないことを知らされ、プニンは当然のように 動転する。さらに第一章第二節では、彼の身にかずかずの不測の事態が降りかかる。ホィット チャーチ駅で下車し、クレモウナに向かうバスに乗り換えるまえ、食事を摂るあいだ、荷物預 かり所に預けておいたグラッドストウン・バッグは、返してもらえなくなる。駅の係員が、妻 を産婦人科医のもとへ連れてゆかなければならず、急遽呼び出されて、受付にいなくなったた めであった。困惑しながらも、バスの発車時間は迫ってくる。

致しかたなく荷物を預けたままバスに乗ることにしたプニンは、上着の内ポケットに入れて いることを念入りに幾度もたしかめていたはずの講演原稿(「ロシア人民は共産主義者か」)

(12)

がそこにはなく、ベティ・ブリスという大学院生の論文(「ドストエフスキイとゲシュタルト 心理学」)を誤って入れていたという失策に気づく。運転手に料金を返してもらい、途中でバ スを降りて、駅に引き返そうとする途中、プニンは以前にも経験したことのある発作32)に襲わ れ、とある公園の石のベンチで休まなければならなくなる。「苦痛と恐慌」(

Nabokov 1989(3):

21

)──あるいは「恐れ」(

Nabokov 1989(3): 25

)──が去ったあと、駅にもどってみると、

さきほど荷物を預けた駅員が鞄(必要な原稿がそのなかにはいっている)をわたしてくれる。

その駅員の計らいで、クレモウナにゆくトラックに同乗させてもらい、プニンはかろうじて遅 れることなく目的地に到着するのである33)

このような一連の叙述にはある種の矛楯が潜んでいるように感じられる。語り手にいわせる ならば、プニンの「悲しむべき症状」(

Nabokov 1989(3): 13

)は、「前世紀の穏やかなドイツ 語の決まり文句」でいう「うっかり教授」(

der zerstreute Professor

)などのようなタイプに分類 されるものではない。プニンは、「予測不可能なアメリカ」という首尾一貫性のない環境で、

用心しすぎるくらいに用心して暮らしているだけなのだ。その生活は、道理に合わぬかずかず の事物との絶えざる戦いという外貌を呈している。「うっかりしているのは世間のほうであっ て、それを正すのがプニンの務めなのである。」 そのようなプニンのおかれた立場は、ドン・

キホーテ的なもの34)というか、むしろハムレット的なものと呼ぶことができるかもしれない35)。 いい換えるならば、語り手がテクスト上に表象しようとしているプニンの像は、日常の煩雑な 瑣事に悩まされる滑稽な人物としてのそれではない。悲壮な決意をいだいて運命に立ち向かお うとする悲劇的な主人公像が、想定されているはずなのである。

かつて主人公が失わなければならなかったもの──「歴史の一撃によって壊滅させられてし まったがゆえにそれだけいっそう瑞々しく思える輝かしい小宇宙」(

Nabokov 1989(3): 12

)で 過ごした青春時代──が、語り手自身にも共有されていたことを思うならば、その苦境を思い やる気持ちが真摯なものであることは疑うことができないだろう。プニンが見舞われる発作に しても、語り手は、それをたんなる生理現象としてかたづけているわけではない。むしろ、苦 痛と死への恐れが契機となって生じた過去のヴィジョン、海軍軍人が溺死する直前、一瞬のう ちに閃くとされる「最初と最後の浸水36)の中間に挟みこまれる回想」(

Nabokov 1989(3): 21

) に喩えられるものとして語っているのである。

そのとき語り手が暗にいわんとしているのは、プニンの苦痛が心臓疾患に起因するものなど ではなく、郷愁と根深く結びついた心因性のものであるということなのかもしれない。このよ うな示唆もまた、個人の経験の個別性あるいは「離散性」(

Nabokov 1989(3): 20

)──「生の 枢要な特徴のひとつは離散性だ……ひとはみずからの周囲から隔絶しているかぎりにおいての み存在する」──の侵害にあたると考えられなくもないが、そこになにがしかの同情ないし共

(13)

感がともなっていることもまたたしかであろう。ともあれ、一種のフラッシュバックのように 想起されたとされるのは、プニンが十一歳だった「真冬のある日曜日」(

Nabokov 1989(3): 22

)、

「奇妙な悪寒」に襲われたさいの出来事である。

父の友人である小児科医ヤーコフ・グリゴーリイヴィチ・ビェーラチキン博士(プニンの初 恋の女性ミーラ・ビェーラチキンの父親)の往診を受け、ベッドで安静にしているあいだ、幼 いプニンはさまざまな妄想に苦しめられる。「見慣れた形」(

Nabokov 1989(3): 23

)が「邪悪 な妄想の温床」となり、「磨きあげた木の四つ折り衝立」に焼き絵で描かれた図柄(乗馬道、

睡蓮池、背を丸めベンチにすわった老人)のなかでも、とりわけ栗鼠が前足にもっている赤み がかった物体(胡桃か松毬)の正体がなにかわからないという、「陰鬱な謎」が気になって仕 方がなかったのだ。

さらには、石楠花の花と樫の葉を図案化した壁紙を眺めていると、「どのような包括と劃定 の方式が水平方向に生じるパターンの反覆的生起を支配しているのか」判然としないことが、

プニンを苛立たせ、苦しめるのだった。そのパターンは、室内におかれた種々の事物のうえに 覆い被さるように広がり、ついにはプニンの現在にまでかさなるように繁茂を続ける。そして 彼は、そのパターンのうちに「自分の日常の健康、自分の日常の世界」を回復させてくれる鍵 を見いだしたように思うのである。そのとき、風に煽られたかのごとく過去の幻視は掻き乱さ れ、プニンは自分が生きていることを実感する。

死の不安が解消する直前、プニンは桃の種を「試食」している灰色栗鼠を眼にしている

Nabokov 1989(3): 24-25

)。石楠花や樫を含めて、彼のいる公園は、少年時代の寝室の再現と

なっているのだ。両者のあいだにあるのは、たんに連想を誘い出す事物の共通性だけではない。

衝立に描かれていた老人の姿は、ベンチにすわりこんだプニン自身へと投影される。その公園 にやってくる少しまえ、コーヒー・ショップで食事をすませたあと、プニンが手に取った上等 の爪楊枝がはいっていた容器は、衝立の図柄のひとつであった、栗鼠の前足に挾まれたものに よく似た松毬の形をしていた(

Nabokov 1989(3): 18

)。栗鼠の形象が、プニンを診察した医師 の姓、プニン家と家族ぐるみで親しい付き合いのあったビェーラチキン家37)の姓(“Белочка”

[小さな栗鼠]というロシア語を語源とする)と関連している点も重要であろう38)

発作がほんとうに心臓からくるものであったなら、自分はもっと動揺していたはずだという 胡乱な論理によって、プニンはみずからを納得させる。それまでの心電図検査では「互いに相 容れない十二もの命にかかわるような病気」(

Nabokov 1989(3): 20

)を暗示するほどの異状が 認められ、プニン本人も、自分の脈拍を意識することを極端に恐れているというのに、彼は、

自分の症状を心臓発作だと認めることだけは頑として拒むのである。その点にかんしては、語 り手も奇妙なほどに主人公の心情に寄り添っている。プニンが列車を乗りまちがえていたこと

(14)

を辛辣かつ饒舌に述べ立てたときとは異なり、主人公がなにか思い違いをしているとか、自分 の洞察力を過信しているなどと匂わせたりはしない。むしろ、たんなる気休めにすぎないかも しれないものによって、語り手はみずからも安堵しようとしている。みずからを主人公と同一 視し、死にたいするみずからの恐れを間接的に吐露しているかのようでさえある。

死はつねにひとの身近にある。われわれは、「宇宙飛行士のヘルメット」に擬えられる頭蓋 によってかろうじて死から隔てられているにすぎない。そこから抜け出して風景と同化するこ とは、「感じやすい自我」を失うことだ。そのよう意味において、プニンが経験する胸の痛み と、その痛みと通じ合う郷愁そのものと酷似した過去の幻視は、死への接近としてとらえ得る ものとなっている。第五章第五節で彼が、強いて忘れようと努めてきたミーラの不幸な死に思 いを致すとき、突然襲われる胸苦しさにも同様のことがいえるだろう(

Nabokov 1989(3): 131

)。

生と死のあいだの緊張を意識しているためか、プニンにとっての生が苦難に満ちたものである こと、それが過去から現在へと投げかけられた幻影につきまとわれ、絡め取られたものである ことについては、語り手もじゅうぶんに理解を示しているように思われるのだ。

ところが、語り手は、結局のところ、真の意味での感情移入に踏みこもうとはしていない。

プニンのそれに並置され得るみずからの回想を、プニンに関連する事項に制限している語り手 は、共感のおよぶ範囲も厳格に定めているかのようだ。プニンがみずからを取り巻いている世 界のうちに究極的な意味を見いだすため、解き明かさなければならない謎、あるいはパターン の鍵となるものの発見をめざした苦闘に触れながらも、その果てしない試行錯誤を日常のあら ゆるレヴェルと結びつけて説明づけようとする語り手は、プニンのおかれた状況を特殊化する と同時に、いささか矮小化してしまっている嫌いがあるようなのだ。プニンがとくに好んでい る三つのもの、電気器具、プラスティック製品、ジッパーが彼の手のなかでいかに脆くも用を なさなくなってしまうかを語るとき(

Nabokov 1989(3): 14

)、語り手の口調には軽妙な諧謔と 揶揄に近いものが漂い、悲劇的なもののうちに悲喜劇的なものが混入するという仕儀になるの である。

4. 夢と色彩

こうして、プニンの人物像をめぐる解釈には、(彼自身の人生という謎と同じように)解き がたい難題が生じてくることになる。テクストのうちで表裏一体のものとなっている悲哀と滑 稽の共存が意味しているのは、この人物が、同情されるべき存在であるとともに笑われるべき 存在でもあるということなのだろうか。二十世紀の歴史の犠牲者でありながら、キャンパス中 で知られた変わり者でもあるという主人公像の複雑さ、その解釈の多様な可能性は、作者ナボ コフ自身が、プニンという作中人物にかぎりない愛情を注ぎつつ、同時に、その行動のあらゆ

(15)

る面にたいして、巧まざるヒューモアを感じずにいられないでいるということの裏返しなのか もしれない。

じっさい、『プニン』の執筆が進んでゆく過程でナボコフがこの作中人物にたいしていだい ていた感情は、両価的であったとはいわないまでも、ふたつの極のあいだで変動していた節が ある39)。といっても、作中人物にたいする作者の思い入れが、そのまま語り手と主人公の関係 に反映しているというような具合に、ことを単純化してすむわけではあるまい。語り手が主人 公をとらえる視線に両義性なり多義性なりが認められるとすれば、その理由は、作者の心情な どではなく、語りの様態にこそ求められるべきなのであろう。

語り手は、第一章の最後にあたる第三節の冒頭で、自分が好き勝手に事実を歪曲して語って いるわけではないことを、わざわざ宣言している。「あるひとたちは──私もそのひとりなの だが──仕合わせな終わりかたを好まない。われわれにしてみると、だまされたような気がす るのだ。不都合こそが標準となる。悲運に支障があってはならない。

……

もし私がこの穏和な 老人について書いていたのではなく、読んでいたのであれば、彼がクレモウナに到着してみる と、講演の予定日が今週ではなく来週の金曜日であることがわかるという運びになったほうが 好ましいと思うだろう。」(

Nabokov 1989(3): 25-26

) とはいっても、このような贅言(ある 種のアリバイの申し立てでもある)を弄することは、とりもなおさずそれ自体が、テクストの 方向性を自在に操ってよいと心得ていればこそ、語り手がみずからに許すことのできる権能の ひとつなのだ。

物語に波瀾が生じることを求めているというのが本音であるならば、それに反して、(プニ ンが予定どおりに講演を行なうことができるように)現実が平穏無事に終わるという竜頭蛇尾 のほうが、語り手にとっては不本意であり不都合であるに相違ない。にもかかわらず、自分が 読者として期待しているのとは相反する顚末を記すことで、語り手は、みずからの誠実さを主 張しようとしているのだろうか。その点を問わないにしても、読者のがわからすれば、なにが 期待されるのか、なにが美的に望ましいとされるのかという問題は、決定不可能であるといわ ざるを得ない。同様に、語り手が恣意や偏向を交えずに事実をありのままに伝えているのかど うかという点も、依然として決定不可能なままにとどまっているのだ。

『プニン』の第七章を除く多くの箇所で語り手が果たしている境界侵犯的な役割は、レオー ナ・トケルによれば、ジェラール・ジュネットの用語でいうメタレープシス的なものの例にあ たると考えられる40)。トケルはさらに、焦点化による正当な根拠づけを与えられることなくな された各章における情報開示のありかたを、パラレープシス的なものの例と見なしている。そ のような特徴を踏まえてみると、『プニン』における語りは、ふたつの部分──想像上の場面 と会話によって歴史的事実という骨組みを覆う「小説化された伝記」(

biographie romancée

(16)

と、語り手の「情報源」を明らかに示す直接的な証拠──に劃然と分かたれていることがわか る。

語り手が確実に知っているといえることがらは、第七章に記された範囲内にかぎられている。

それらを素材として、想像力をめぐらし、敷衍することにより、語り手が知るはずのない、プ ニンがウェインデルで過ごした歳月の空白部部分を遡行的に埋める手がかりが得られるのだ。

もちろん、このように説明づけるだけでは解決のつかないところもあるだろう。とはいうもの の、たとえば語り手の思い描くプニンの像を、優秀な学者──ロシアの「民間伝承、詩、社会 史、逸話」(

Nabokov 1989(3): 39

)の篤実な研究者41)であり、『アンナ・カレーニナ』におけ る時間構造42)を明晰に解き明かすことのできる批評眼をも備えた人物──だったという語り手 の記憶と、奇妙な発音でたどたどしい話しかたをする変人という、コッケレルの物まね43)から 得られた印象を統合し、それゆえに二面性、二重性をしるしづけられるにいたったものとして とらえることは可能であろう。

語り手が、プニンの内面にさほど深く関与することなく、ひたすら表面的な言動ばかりに眼 を向けている点も、伝聞と想像力のそれぞれの限界に呼応したなりゆきということになるかも しれない。1952年(ニコライ・ゴーゴリ歿後百周年を記念する行事が催された年)、偶然、

ニュー・ヨークのバスのなかでプニンといっしょになったという語り手の言(

Nabokov 1989(3):

185-86

)に信をおくならば、そのとき、語り手がプニンが総入れ歯にしていること(

Nabokov

1989(3): 34

43)に気づいたのだとしても不自然ではないだろう。

そうだとすれば、第二章第六節でプニンと久方ぶりに再会したリーザが入れ歯のことを褒め ているのは(

Nabokov 1989(3): 53

)、プニンがそれまでにないくらい健康的で、自信に溢れて いたという語り手自身の記憶をもとに構築された、想像上の出来事と考えられないわけではな い。リーザが貶した茶色のスーツ──プニンが講演料で買ったものだが、リーザからは「紳士 は茶色の服を着ないものだ」(

Nabokov 1989(3): 57

)と決めつけられてしまう──も、語り手 が眼にした覚えのあるもののひとつなのではないだろうか。だが、そうした例とは反対に、加 工したり展開したりするための材料がない事象にかんしては、語り手は口を噤むしかない。そ れゆえ、クレモウナ婦人クラブにおけるプニンの講演の具体的内容は詳述されることがないの である。

しかしながら、叙述されることがらの取捨選択が、語り手が得ている個人的な知識と不確実 な伝聞というふたつの経路によって左右されているというだけでは、テクスト全体の機構にか んする十全な説明とはならないだろう。だれひとり見る者もいない光景(

Nabokov 1989(3): 110

) は、どのような手順でそこにもちこまれたものなのか。語り手がその場に立ち会っていないと いうだけでなく、プニンそのひとにも直接かかわらない挿話──第四章で語られるヴィークト

(17)

ル・ヴィントが見る夢、彼の絵画の才能、彼が学んでいるボストン近郊の寄宿学校、聖バーソ ロミュー校の美術教師レイクが与えた薫陶など──は、どのような位置づけにあるものなのか。

そのような箇所では、「私は彼[ヴィークトル]がひとを愛したことがあるとは思わない」

Nabokov 1989(3): 87

)という短い挿入句を除くならば、語り手による介入はほとんど影を潜

めているようだ。明らかにそこでは、プニンの人生に割りこむようにして、それを奪い取り、

それを契機として、自分が物語を語る機会へと転じてきた語り手のものとは異なる、別種の意 識が働いているのである。その意識は、物語という人為的な仕掛けあるいは制度の曝露という 主題とともに、それとは異なる、もうひとつの主題に奉仕することをも目的として、虚構の世 界とかかわりをもとうとしている。簡単にいってしまうならば、むしろ作者のほうが、いかが わしい語り手というペルソナを積極的に利用しようとしている。換言するならば、『プニン』

は、作者が語り手の専横をけっして放置しているわけではないと暗に示唆するテクストでもあ るということなのだ。

すでに取りあげたインタヴューのなかで、ナボコフは、第四章でヴィークトルとプニンがそ れぞれに見る夢が、自分のつぎの作品『青白い炎』の草稿から(その先触れとなるように)「ゼ ンブラの革命と国王の脱出」という素材を引き継いだものだと述べていた44)。むろんここには、

『青白い炎』におけるチャールズ・キンボウトの幻想の舞台であるゼンブラという架空の国名 が現われるわけではない。厳密を期していえば、ヴィークトルとプニンの夢は、チェス・プロ ブレムの用語である「孤独の王」(

Nabokov 1989(3): 86

)という言葉が途中で用いられている ことからも読み取れるとおり、同名の短篇小説(1940年)45)との関連性のほうがさきにあ り、この、ロシア語で書かれた最後の短篇小説(ならびにそれとともに構想途上の長篇小説に 組みこまれる予定であった「さいはての土地」[1940年]46)から『青白い炎』へといた る系譜の中間に位置づけられるものなのである。

孤独な国王の王子にみずからを擬しているヴィークトルと、国王にみずからを擬しているプ ニンは、両者の夢の類似性、偶然生じた連関によって、ある種の擬似‐親子関係のうちに結び 合わされる。いっぽう、かつて妊娠中にプニンを欺いてパスポートを手に入れた、狡猾で利己 的なリーザは、いままた、自分と同じ精神医学者である夫エリック・ヴィントと離婚して、他 の男性と結婚することをもくろむいっぽう、ヴィークトルにたいする経済的援助をプニンに押 しつけようとしている。

けれどもプニンは、大西洋航海の船中ですでに、リーザの子どもの面倒を見ようと心に決め ていたのだった。もともとヴィークトルに愛情をいだいていたのは、リーザでもなければ、「陸 の父親」(

Nabokov 1989(3): 55

)を自称するエリックでもなく、「水の父親」と称されるプニ ンだったのである。ヴィークトルにしても、遺伝とコンプレックスにしか関心がなく、自分を

(18)

心理検査の被験者としてしか考えていない両親よりも、「灰色栗鼠の絵柄の絵葉書」(

Nabokov

1989(3): 88

)を送ってくれたプニンに親しみを覚えている。ふたりのあいだで作用している親

和力が、夢の類似によって表象されていることになろう。

ウェインデルにほんの短時間だけ立ち寄ったリーザからヴィークトルへの仕送りを頼まれた プニンは、傷ついた心を癒そうとしながら、公園の噴水式水飲み器の縁にのぼった栗鼠のため に水を出してやる(

Nabokov 1989(3): 58

)。見返りを期待することのない気遣いは、栗鼠(人 生の謎めいたパターンの表徴でもある)と水によって表わされるのである。プニンとヴィーク トルがほんとうに深い絆で結ばれているのかどうかは定かでない。プニンがヴィークトルのた めに選んでやった贈り物は、フットボールのボールとジャック・ロンドンの本といういささか 見当はずれなものだ。それでも両者のあいだになんらかの近接性があるということは、夢以外 のところでも示されているということができるだろう。

絵画の才能に恵まれ、二歳児のころすでに「完全に丸い、完全に閉じた」(

Nabokov 1989(3):

89

)円を描くことができたヴィークトルは、現実をとらえるときもフランドル派絵画にたいす るのと同じ感興を覚えることができる47)。成長したのち画法の研究に取り組むようになる彼は、

早くから鋭敏な色彩感覚を発揮してきた。六歳のころには、オレンジ、プラム、アヴォカドな ど、物体の色に応じてその影の色も違うということがわかっていたのだ(

Nabokov 1989(3): 90

)。

影の色の差異は、ほかのところでも言及されていた。それは、プニンがキャンパスを歩きな がら眼にしたものであったことが第三章第六節に記されている(

Nabokov 1989(3): 73

)。ただ しそこでは、影を投げかける物体は単一である。樹木の幹の影が、芝のうえではオリーヴ・グ リーンになり、雪のうえでは灰色がかった青になるとされていたのだ。つまりは、鋭い観察眼 というよりも通常の注意力によって感知される程度の差異であったことになろう。しかし、こ の場面にあっても「痩せた栗鼠」が、鳩たちから身を隠すために駆け抜けてゆき、ひとつの断 片が他の断片へとつながっていることを読者に察知させるのである。

敷石で滑りそうになり、図書館に返却するつもりだったロシア文学史の本を取りおとしたプ ニンが、授業で言及したことのあるプーシキンの詩句を連想しつつ(「戦いで、旅で、あるい は海で?」)、ふと自分自身の死に思いを馳せるのはなぜか。第五章第五節で明らかになるよ うに──「ひとがみずからに誠実であるならば、ミーラの死のような事態が可能となる世界で、

良心が、またそれゆえに意識が存続できるなどと期待することはできない」(

Nabokov 1989(3):

135

)──死にたいするプニンの思いにはつねに諦念や絶望がまとわりついている。そして、彼 自身の生の終焉にいたるまでには、人びとの卑俗な思惑をはじめとして、さらにいっそう多く の不合理、試練と失意、苦難と挫折が予期されるのだ。

それでもプニンは、不可思議にも自分が生きていること、「自分にも人生にもなにか意義が

(19)

ある」(

Nabokov 1989(3): 58

)ことを実感せずにいられない。それは、われわれが、栗鼠に水 を飲ませるという些細な出来事や、プニンとヴィークトルという赤の他人同士の夢の共有をと おして確認したことだった。そこに読み取ることのできるような気遣いや共感をひとつの極点 として、『プニン』のテクスト上には、さまざまな程度の理解と無理解が共存している。それ らの錯雑に取り囲まれて生きる人間の形象こそは、虚構とわれわれ自身の世界とを結び合わせ る鍵にほかならないのだ。

1) 本論文中における議論は、下記の版に依拠している(引用箇所は括弧内のページ番号によって示すこととす る)。Vladimir Nabokov, Pnin. (1957; New York: Vintage International, 1989).

2) Vladimir Nabokov, The Annotated Lolita, ed. Alfred Appel, Jr. (1970; rev.ed., New York: Vintage Books, 1991).

3) 結局、アメリカ合衆国の各出版社が『ロリータ』の出版を見送ったことにより、この作品は、1955年に なってようやく、ドゥシア・エルガーズ(ナボコフが最初ロシア語で執筆した長篇小説『暗闇の笑い』[1 933年、1938年、1961年]のフランス語訳[Chambre obscure, 1934]翻訳者)の斡旋によりフラ ンスの出版社であるオリンピア・プレス社から刊行される運びとなった。

4) “Conversation Piece, 1945.” 初出時の表題は “Double Talk” であった(『ニュー・ヨーカー』誌1945年 七月二十三日号に掲載)。その後、初出時と同じ表題で『九つの短篇小説』(Vladimir Nabokov, Nine Stories [New York: New Directions, 1947 ])に収録され、改題後、『ナボコフの一ダース』Vladimir Nabokov, Nabokov’s Dozen [Garden City, New York: Doubleday and Company, 1958])に再録された。Vladimir Nabokov, The Stories of Vladimir Nabokov (1997; New York: Vintage International, 2002), pp. 587-97, 667-68.

5) “Signs and Symbols.” 『ニュー・ヨーカー』誌1948年五月十五日号に掲載。『ナボコフの一ダース』に

収録され、『ナボコフの集積』Vladimir Nabokov, Nabokov’s Congeries, Selected with the Author’s Collaboration and with a Critical Introduction by Page Stegner [New York: Viking, 1968])に再録された。Nabokov 2002:

598-603.

6) “Portrait of My Uncle.” 『ニュー・ヨーカー』誌1948年一月三日号に掲載。Vladimir Nabokov, Conclusive Evidence: A Memoir (New York: Harper and Brothers, 1951) の第三章にあたる。

7) “Colette.” 『ニュー・ヨーカー』誌1948年七月三十一日号に掲載。Conclusive Evidence の第七章にあた

るが、“First Love” という別題で(短篇小説と等しいあつかいで)『ナボコフの一ダース』に収録され、『ナ

ボコフの集積』にも再録されている。Nabokov 2002: 604-11.

8) 全十五章のうち、他誌に掲載された少数の例外──第五章にあたる “Mademoiselle O” (1943)(1936年 にフランス語で執筆されたものを『アトランティック・マンスリー』誌のために英語訳)、第十一章にあた “First Poem” (1949)と第十四章にあたる “Exile” (1951)(『パーティザン・レヴュー』誌)、第十三章に

あたる “Lodgings in Trinity Lane” (1951)(『ハーパーズ・マガジン』誌)──を除き、全部で十一章が『ニ

ュー・ヨーカー』誌上における断続的な連載形式により発表されたことになる。Cf. Boyd 1996: 672-73.

9) Vladimir Nabokov, Speak, Memory: An Autobiography Revisited (1967; Vintage International, 1989). ただし、こ の表題は1951年出版のイギリス版のためにナボコフが選んだものであった(Vladimir Nabokov, Speak Memory: A Memoir [London: Victor Gollancz, Inc., 1951])。1954年出版のロシア語版(ナボコフ自身が 原著に増補を施した翻訳)の表題は『向こうの岸辺』というものである(Vladimir Nabokov, Drugie berega [New York: Chekhov Publishing House, 1954])。フランス語版(イヴォンヌ・ダヴェ訳)はロシア語版を踏 襲した表題を採用している(Vladimir Nabokov, Autres rivages: Autobiographie [1961; Paris: Éditions Gallimard, 1989])。

10) Cf. Boyd 1991:696-97, n. 1. 六章までとは違い、ナボコフは、最終章である第七章(「私はプニンと知り合い

だった」)だけは、単行本化する以前に雑誌に発表しようというつもりがなかったと見られる。

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