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1.死者への手紙 2.回想の重層化 3.逆説と韜晦

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来世と彼岸──ヴラジーミル・ナボコフの「最果ての土地」

鈴 木 聡

1.死者への手紙 2.回想の重層化 3.逆説と韜晦

4.ふたつの物語とふたつのモティーフ

1. 死者への手紙

ヴラジーミル・ナボコフの短篇小説「最果ての土地」1)は、彼がはじめロシア語で執筆した 作品としては最後期のものである。アメリカ合衆国への移住と英語作家への転身という重大な 転機を挟み、三十年の歳月を経たのち、この作品は、作者の息子であるドミートリイ・ナボコ フによって英訳され、『ニュー・ヨーカー』誌1973年四月七日号に掲載された2) 。ただし、

「最果ての土地」を含む十三作品を収録した短篇小説集『ロシア美人とその他の短篇小説』(1 973年)3)に付された「緒言」においても明言されているとおり(Nabokov 1975: 9, Nabokov

2002: 668)、ドミートリイ・ナボコフ名義となっている翻訳には、作者自身が協力しているだ

けでなく、最終的な責任をも負っている。共訳者の立場にある作者が加筆、修正を行なったう えで完成稿にいたったものと察することができよう。

『ロシア美人とその他の短篇小説』に収録されるにあたり、作品本文のまえに加えられた註 記にはつぎのように記されている。「1939年から1940年にかけての冬は、私がロシア 語散文を執筆した最後の冬になった。春までに私はアメリカへ旅立ち、そこで二十年間、ひた すら英語で虚構作品を書き続けて過ごすことになる。別離を控えたパリでの数箇月のあいだに 書かれた作品のうちには、出発以前に完成することができず、その後も立ち返ることのなかっ たひとつの長篇小説も含まれていた。ふたつの章といくつかの覚え書きを除いて、未完成のと ころを私は打ち捨ててしまった。「最果ての土地」と題された第一章は1942年に世に出た

(『ノーヴィイ・ジュルナール(新雑誌)』誌第一号、ニュー・ヨーク)。それよりもまえに、

「孤独の王」と題された第二章は1940年初頭に発表されていた(『ソヴレメンヌイエ・ザ ピースキ(現代雑記)』誌第七十号、パリ)。」(Nabokov 1975: 139, Nabokov 2002: 663)

この簡潔な説明から明らかなように、『ロシア美人とその他の短篇小説』のなかでも続けて

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配置されている「最果ての土地」と「孤独の王」4)は、本来、同じひとつの(それ自体が『孤 独の王』という仮題で呼ばれていたこともある)長篇小説冒頭の連続したふたつの章として構 想されたものであった。註記によれば、第一章(「最果ての土地」)の語り手である画家シネ ウーソフは、妻を亡くした悲しみの代償を「トゥーレ」という「想像上の国」に求めるあまり、

滞在していたリヴィエラからパリのアパルトマンに帰って仕事に専念するという当初の予定

(Nabokov 2002: 511)を結局は放棄して、「遠い北の島の荒涼とした宮殿」に移り住み、「み ずからの藝術」によって「ベリンダ王妃という変装」のうちに妻を甦らせるのだとされる。あ る種の昇華とも現実逃避とも呼ぶことができようが、いずれにしても、現実(正確にいうなら ばより現実的な虚構)が架空の場所をめぐる物語の背景あるいは枠組みをなしているというお おまかな構造に変わりはないことになる。

外見上、物語としての継続性が欠如しているかのようにも思われる第二章(「孤独の王」)

にあっても、そこで生起している出来事の系列と、主人公である「王」の記憶(即位以前の彼 は「K」として区別される)が、「もはや自立してはいない藝術家ドミートリイ・ニコラーエ ヴィチ・シネウーソフ」の想像力に端を発するものであることは──きわめて唐突にではある けれども──示唆されている(Nabokov 2002: 526)。シネウーソフが「もはや自立してはいな い」とされるのには、おそらくふたつの理由があると考えることができるだろう。

ひとつには、シネウーソフの孤独な夢想の舞台であり妄執の対象である「最果ての土地」(ウ ルティマ・トゥーレ)が、じつは彼の独創ではなく、「風変わりなスウェーデン人かデンマー ク人──あるいはアイスランド人」(Nabokov 2002: 510)の作家が母国語で書いた叙事詩(『最 果ての土地』というのがその叙事詩の表題だったのだ)によって喚起されたものであったとい うことがある 5)。その叙事詩に付す挿絵の仕事をシネウーソフに依頼したあと、作家は突然ア メリカに旅立ってしまう。妻が病床に伏しているあいだは絵筆を握る気が起こらなかったのだ が、妻の死後に急に創作意欲が生じるようになる。もはや不必要となってしまったのかもしれ ない挿絵の制作は、しかし、それ自体が特別に重要な仕事というわけでもなかろう。「私の思 念のなかでももっとも名状しがたいものの故郷」として想像上の島が帯びるにいたった意味合 いのほうがはるかに重きをなしているのだ。

もうひとつ考えに入れておくべき点がある。亡くなった妻の思い出の代替物とも称すべき架 空の島(「自由な空想の世界」)においてすら「死にたいする勝利」はけっして可能にはなら ないということである。妻の死という残酷な現実から逃れたところで成立したはずの物語の世 界においても悲劇は回避することができない。註記で述べられているところにしたがうならば、

書かれることのなかった『孤独の王』第三章でベリンダ王妃は、橋に仕掛けられた爆弾によっ て王の代わりに爆死することになるからだ。そのことは、第二章では「その日がもたらした恐

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るべき不幸」(Nabokov 2002: 526)として予示されていたと理解することができる。また、「エ ゲーリ川に架かる新しい橋の竣工式への臨席」(Nabokov 2002: 523-24)というその日の王の公 務予定にかんする言及が伏線となっていることも見おとすべきではあるまい。

最愛の妻を失うというモティーフは、ナボコフのいくつかの作品において反覆されている。

それにたいする作者の固執が々ならぬものであったことは、最初期の短篇小説「チョールブの 帰還」(1925年)6)、ナボコフがアメリカ移住後に最初に完成させた長篇小説『ベンド・

シニスター』(1947年)を経て、後期のやや短い長篇小説あるいはやや長い中篇小説であ る『透明な対象』(1972年)7)にいたるまで容易に見て取ることができるはずである8)。各 作品における妻の死が、事故死、病死、睡眠時遊行症の発作を起こした夫による殺害という具 合に多様なものである点とともに、残された夫の感情がたんなる悲哀という以上の強度を帯び、

時として狂気にすら接近しかねなくなっている点は注目されてよい。死によってすべてが取り 返しがつかないほどに失われてしまったわけではないのではないかという、一抹の疑念あるい は不合理な信念に取り憑かれるとき、夫たちは、非現実的、超現実的な領域にすら足を踏み入 れてしまうことになるのだ。

一見したところ妻との死別などとはまったく無縁な、近い将来における結婚を予想させる男 女の幸運な出会いをプロットの要諦としていたはずの長篇小説『賜物』(1937-38年、ロ シア語版1952年、英語版1963年)9)の場合にすら、作者はかならずしも明るい未来だ けを展望していたわけではない。草稿の段階で放置されたその続篇(『賜物』第二部)にあっ ては、主人公フョードル・コンスタンチーノヴィチ・ゴドゥノーフ=チェルディンツェフの妻と なったジーナは死ぬことになっていたからである10)

実在のナボコフ夫妻と境遇の似た虚構の夫妻の運命は、このようにして決定的に現実から分 岐するはずであった。ところが、その着想はいったん棚あげにされる。新たな創作の可能性が 心に浮かび、1939年十月から十一月にかけて、ナボコフは、生前にはついに世に出ること のなかった中篇小説『魅惑者』(

Волшебник

11)の執筆に集中する。この中断期間の前後に、

『賜物』の続篇という初期の計画は、『賜物』の本篇からは切り離され、別個の形態で実現さ れる運びとなったのだと考えることができる。それこそが、未完成に終わった長篇小説『孤独 の王』であったということになるだろう。

われわれがじっさいに読むことができるものが冒頭の二章にすぎないことを鑑みるならば、

『孤独の王』における喪と哀悼の物語は、その二章の範囲を超えて、さらに錯綜した複雑化、

重層化を経ることになっていたに違いない。そのとき、語り手は(あるいは主人公は)自身の 喪失感ないしは悔恨をたんに繰り返し経験し続けるだけではあるまい。本来的に沈静化を拒む その痛みが、結果的にさらにいっそう増幅させられるという事態こそは、第一章と第二章(ふ

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たつの短篇小説「最果ての土地」と「孤独の王」)に続くはずであった第三章の筋書きのうち で生じることになっていたものであり、また、その後の展開の方向をさし示すものでもあるの だ。

粗筋すら判明していない第三章以降、語り手あるいは主人公が陥っている苦境から脱却する ことの困難さは、それ自体が彼を(あるいは彼をはじめとする作中人物たちを)を囲繞する迷 宮のように、逃れがたい罠のように,入念に組みあげられてゆく手筈となっていたのであろう。

それとともにわれわれが予期し得ることがある。亡き妻の思い出にせよ、他人の手になる叙事 詩にせよ、それらふたつのものを結び合わせたところに立ち現われた「最果ての土地」の幻像 にせよ、シネウーソフがみずからの想像の糧となしたものにたいする偏向と依存の度合いを増 してゆくにつれて、彼自身による自由な判断という見通しは、なりたちがたいものとなってく るであろうということである。短篇小説「最果ての土地」において鍵となってくる最大の問題

(人間の死と死後にまつわるもの)は解き明かされることなく終わるのだが、それは、その答 えをシネウーソフが自分以外のだれかに求めざるを得ないからにほかならないのだ。

「最果ての土地」の一人称の語り手であるシネウーソフのがわからすれば、自分が判断中止 に追いこまれなければならない理由は、畢竟するところ、世界が非合理性や不確実性や決定不 可能性に満ちているからだということになるのかもしれない。だが、それにしてもこのテクス トにおいてきわだっているのは、答えを期待することのできないいくつもの問いかけが投げか けられていることだ。そのような修辞的パターンは、冒頭の一文がすでに例示している。「き みは覚えているだろうか、きみが亡くなる二年ほどまえ、きみと私が食事した12」(栄養摂取し た)時のことを。」(Nabokov 2002: 500)

ここでは、呼びかけられている相手である「きみ」がなにものなのかを読者が知る手立ては 当面留保されたまま、それにもかかわらず、「きみ」がすでに死んでいるという一事だけは明 瞭に伝えられている。語り手による呼びかけが虚空に投げかけられたものである以上、コミュ ニケーションの不可能性ははじめから前提とされているも同然だということになろう。だとす れば、返事を当てにすることのできない呼びかけないし問いかけは、読者がいだくであろうあ らゆる種類の疑問の機先を制するものでもあると考えてよいのではないか。このテクストを読 むとき、われわれは、なにか決定的、最終的な答えのようなものが与えられるだろうなどと思 い描いてはならないのだ。

死者に語りかけるという奇矯な振る舞いにたいして読者はいささか危惧の念をいだくかもし れない。だが、語り手はみずからがなにをなそうとしているかにかんしては、それなりの自覚 を有しているようだ。肉体を失っている死者が、それゆえに記憶も失っていることを戯言の材 料とし(「もちろん、脳という冠り物がなくても記憶が生き続けることができるとして」)、

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「なにか全面的に斬新な手紙の文例の手引き書」のようなものを思い浮かべてみるとき、語り 手は、自分が死者に手紙を書こうとしていることをほのめかしながら、その行為を自嘲的に異 化しようともしているのである。

その後に続く冗談めかした言葉遊び──一般的な手紙のなかで用いられる決まり文句をもじ った “Respecterfully yours”13)──もまた、悲しみや痛みの反動から生じた思いつきであるよう に感じられる。しかし、解釈の層をもう少し付け加えてみることもできそうだ。語り手は、幽 霊あるいは亡霊という生者とは別個の次元の存在が多少なりとも自分と交流をもち得る可能性

(たとえば死者に宛てた手紙になんらかの返事があること)に賭けてみようとしている。しか しながら、その賭けの帰趨が明らかになることは当面のところはないだろう。もしかすれば永 遠と呼べるかもしれない、それまでのあいだ、空隙を埋めるものとして、語り手が必要として いるのは死者の身代わりとなり得るなにかなのだ。

「きみが覚えていなくても、きみの代わりに私が覚えている」と語り手はいう。「きみにつ いての記憶(память о тебе)は、少なくとも文法的にいうかぎりは、きみの記憶(твою память)

としても通用するだろうし、それに私は、この妙に凝ったいいまわしのためなら、きみの死後 も私と世界が依然として存続してゆくとすれば、それはきみが私と世界のことを思い出してい るからにほかならないと、ほんとうに進んで認めてもよいと思っているくらいだ。」 この箇 所で、「私が覚えている」というのはおそらく真実に近いだろうし、「私と世界が依然として 存続してゆく」というのも真実からそれほど隔たってはいるとは思えない。けれども、「私と 世界」の存続に根拠を求めるようとするとき、死者である「きみ」の記憶の残存にかんする前 提は矛楯を来すこととなる。

そこには論理的な矛楯以外のものも認められるに違いない。「私と世界が依然として存続し てゆく」のは、「きみが私と世界のことを思い出しているから」だと語り手が強引に主張する とき、そこにあるものとは、転倒された、あるいは転位された独我論であろう。ただひとりの 死者だけが思い出すことができ、存在することができるというのは、合理的にあり得る状況の ようには思えない。また、かりにその主張が全面的に正しいのだとすれば、語り手は、みずか らが過去をいま記憶していることこそを死者の記憶が残存していることの証しと思いなして、

満足することができるはずである。そのときには、「私にはできない、きみなしで生きてゆく ことなどできない」(Nabokov 2002: 501)という切々たる訴えは、たんに「きみがいれば生き てゆくことができる」という明々白々たる結論を裏返したものにすぎなくなる。もしそうだと すれば、死者に宛てた手紙を書くという無益な試みはそもそもはじめから必要なかったことに なるのではないだろうか。

このように見てくると、「最果ての土地」のテクスト上に残り続けるものとは、「きみ」と

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いう死者についての記憶(死者の記憶)というよりも、その記憶を物神的に絶対化、特権化す るための不合理な努力であることがわかる。そのことは語り手も密かに意識しているに違いな い。自分がけっして理屈に合わないことをしているわけではないと正当化することに拘泥して いるためか、彼は自分が死者に語りかけなければならない理由14)を説明してから、本題に移ろ うとする。しかし、そのような意向にもかかわらず、肝腎の本題らしきものが呈示されるのに はいましばらく時間を要するのである。このような遅延もまた、「最果ての土地」の特徴をな すものといえるだろう。

2. 回想の重層化

語り手が「宿命」、「神秘」、「筆蹟」と呼ぶものが少しあとにならなければ示されず、そ れまでのあいだに「きみ」にかんする断片的な回想が挿入されることを、たんなる遅延と受け とめず、別様にとらえてみることもできるかもしれない。つまり、大局的にいうならば、「最 果ての土地」の物語ははじめから二重になっているのだとする見かたを取るということである。

とはいうものの、ふたつの中心的な物語のうちのひとつ──「きみ」にかんする物語──にか んしては、時系列の点からいっても情報量の点からいっても、構築あるいは再構築にじゅうぶ んなだけの材料に欠けていることはたしかだ。

妊娠六箇月のときに「喉頭結核」のために「きみ」が亡くなったこと(Nabokov 2002: 501)

や、かつてともに過ごしたリヴィエラの海岸をひとりで訪れると、喪失感がいっそう強められ ること(Nabokov 2002: 502-03)を除けば、確固たる事実はなにひとつつかめないといえるほど だ。頭、顳顬の窪み、瞳が帯びている「勿忘草色」、髪を掻きあげる仕草などの描写(Nabokov

2002: 501)はあるものの、具体的な人物像や言動が読者に伝えられることがないため、「きみ」

の存在は取り付く島がないくらい稀薄なものにとどまっているのである15)

そのままではばらばらになってしまいそうな「きみ」にかんする物語の骨組みを代行してい るものがもうひとつの物語であり、両者をつなぎ合わせるために必要とされているのが、「き み」が覚えているはずのなにか、夫と妻が共有した人生の挿話なのだといってよかろう16)。「私 がいまきみに語りかけるのは、ただきみとファルターのことを話してみるためなのだ」と語り 手はいう。「きみは覚えているだろうか、ファルターの経営するホテルで私たちが食事した時 のことを……。」

ファルター17)とはなにものなのか。その点はしばらく棚あげにされるが、この人物の第一名 がアダムであることは間もなく判明する。「アダム・ファルターはそのころはまだわれわれの 一員だった。」 語り手によれば、現在のファルターは「われわれの世界の外部..

、真の現実の うちに立っている」とされる。ファルターが「阿呆」だとか「いかさま師」18)だとかいう疑い

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に安んじることができなくなるとき、語り手にはファルターが「真理の爆弾が自分のなかで爆 発したのに生き延びることができたおかげで……神になった……ひと」のようにさえ思えてく るのだった。

論点となるべきことがらがあらかじめ真実のように見なされているという意味では、語り手 のこの言葉は、いわゆる論点先取の一例となっているということになるかもしれない。いうま でもなく、ファルターの身になにが起こったかを知るために、読者はさらに数ページほど読み 進めなければならない。少なくともその時点にならなければ、読者には判断の契機すら与えら れることはないのだ。読者は、意図することなく、エポケー(判断中止)の状態におかれると いってもよい。

その観点からすれば、書き手はあたかも読者を戸惑わせるために、記述の順序を混乱させた り、枝葉末節にわたる脱線や余談を差し挟んだりしているかのようにも思われるが、それだけ がすべてというわけでもあるまい。すでに触れておいた「最果ての土地」を構成するふたつの 物語のうち第二のもの──ファルターにかんする物語──は、技法としてフラッシュバックを 組みこみながらも、時間軸に沿った出来事の前後関係を明確に読み取り得るものとなっている のである。付け加えていえば、「きみ」という人物像の稀薄さに引きくらべて、ファルターに は強烈といってもよいほどの個性が備わっているという点も軽視できない。

記述の順序にしたがうならば、「豪華な、いくつもの段になったイタリア国境地方」にある ホテルでファルターに会ったことが先行して語られてはいるが、すぐあとで、この人物が語り 手の家庭教師を務めていた時期があったことがわかる19)。そのホテルを訪れたのは、二十年ぶ りの再会のためだったのである。二十年という時間は、「生き生きとした夜のように暗い眼と、

美しい、力強い左に傾いた筆蹟をもちぬしである貧しい、筋張った学生」だったファルターを、

「威厳のある、いささか肥満した紳士」に変貌させていたものの、「彼の目つきの潑剌さ」、

「彼の大きな手の美しさ」はいささかも衰えることなく、「大きな鼻」も昔のままだった

(Nabokov 2002: 502-03)。

「きみ」にはファルターのどこが特筆に値するのかわからなかったのではないかと語り手は いう(Nabokov 2002: 504)。しかし、少年時代の語り手にとって、そのころのファルターの「基 本的な特質」となっていた「意志的な実質」の「的確さと強さ」は羨望のまとであった。ファ ルターが「奇妙な、神秘的なくらい魅惑を感じさせる天稟」(Nabokov 2002: 505)に恵まれて いたとする語り手の評価は、この場で確証を与えられるわけではない。重要なのはおそらく、

過去における師弟関係が二十年後にもなお痕跡をとどめていること、精神性の点でも才智の点 でも、師と弟子のあいだに依然として懸隔があると感じられていることなのだ。

自分にはファルターのような「神経」の強靱さ、「魂」の弾力、「意志力」の凝縮性が欠け

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ていると語り手は自覚している。もしそのような資質があったなら、ファルターは「最近彼が 得た超人的な発見の精髄」を打ち明けてくれていただろう。その情報が語り手を押しつぶして しまうことを危ぶんだりはしなかっただろう。それに、語り手自身にしても、もっと粘り強く 教示を乞うことができたに違いない。これら一連の推定は、すでに先取りされていたような「神 になった」とされるファルターが到達した境地と関連している。物語はいまだその件に触れる 段階まで進展してはいないのだが、語り手はすでに焦燥を露わにしはじめている。なぜそれほ どまでに熱を入れて、語り手はファルター個人の「発見の精髄」を伝授されることを望まなけ ればならないのか。その理由をさぐるためには、「発見」と称されるものについて読者が多少 の知識を得る必要があることはまちがいない。

われわわれが読んできたこれまでのところは、おおよそふたつの構成単位あるいはセグメン トに区分されるだろう。(1)二年ほどまえ、ふたりで食事した時のことを覚えているかとい う「きみ」にたいする問いかけと、それがきっかけとなって呼び醒まされるいくつかの感慨と、

幽霊が訪れるのでないかという恐怖をいだいた幾晩かの回顧。その途中では、現在のリヴィエ ラの海岸で物思いに耽る語り手の孤独と寂寥も描き出される(Nabokov 2002: 500-03)。(2)

冒頭で放置された恰好になっていたファルターのホテルを訪ねたさいの思い出。さらに時間を 遡行して二十年まえのファルターの姿もかさね合わされる(Nabokov 2002: 503-05)。

そのあとに続く三つめのセグメント(Nabokov 2002: 505-10)は、語り手が、海岸にほど近い 遊歩道をそぞろ歩く人びとの「画家のシネウーソフだ──先達て奥さんを亡くしたばかりなん だ」という話し声を耳にする場面(Nabokov 2002: 503)と時間的に直接つながっている。語り 手は、遊歩道から自分に呼びかける声を聞く(Nabokov 2002: 505)。それは、以前ファルター のホテルで会ったことのあるファルターの義弟(妹の夫)L氏であった。話し好きらしいこの 人物の口から、前年の春20)、商用でリヴィエラのある町のホテルに滞在したおり、ある夜、フ ァルターの身に起こった不可思議な出来事とその後日談が伝えられるのである。

経緯の概略は以下のように整理し得る。(i)その夜のさまざまな物思いと印象(それらはな かば語り手の想像上のものである21)が媒介となって、それまでの日常的な理性の働きからは 予想だにされなかった、この世のものとは思えないような閃きが稲光のように襲ったためか、

就寝中のファルターは、突然、異様な叫びをあげ(語り手はそれを爆発になぞらえているわけ である)、ホテル中の人びとを震撼させる。

(ii)自宅に帰された直後には虚脱状態であったファルターは、間もなく生気を取りもどす が、社会的規範を忘れ去ってしまったかのような傍若無人な振る舞いが目立つようになり、「精 神の力学」(Nabokov 2002: 508)を標榜するイタリア人精神科医、ボノミーニ博士の診察を受 けることになる。彼は、ふたりだけで一室に閉じこもり、おそらくは催眠術を手立てのひとつ

(9)

として、ファルターから深夜の絶叫の理由を聞き出そうとしたものと思われる。ファルターの 妹であるエレオノーラ・Lが、声が聞こえなくなったことを不審に思い部屋を覗いてみると、

ボノミーニはすでに死亡している。死因は心臓発作であったと判明するが、語り手は、ファル ターがメドゥーサのような力をもっていたものと推察する。

(iii)警察の執拗な取り調べにたいして、ファルターはついに、偶然にも「宇宙の謎」(Nabokov

2002: 509)を解決した自分が、そのことを探究心旺盛な対話者の手のこんだ慫慂に屈服して打

ち明けてしまったために、相手は驚きのあまり絶命したのだと告白する。この事件は数紙の地 方紙で取りあげられ、「チベットの賢者」の扮装をさせられたファルターの写真が数日間、ニ ュース欄を飾っていた。だが、その当時、新聞を読むことをやめていた語り手は、一連の騒動 に気づくことがなかったのだ。

かくして物語は、四つめのセグメントへと移り、リヴィエラを去るまえ、語り手とファルタ ーが(義弟の仲介で)もう一度出会った(ファルターが語り手の「ペンション」に訪ねてきた)

こと22) が語られる運びとなる(Nabokov 2002: 510-522)。その前段階として語り手は、他の多 くの人びととは異なり、想像力を賦与されている自分には、「ふたつの可能性」(Nabokov 2002:

510)があるだろうと述べている。第一のものは、「自分の作品、自分の藝術、自分の藝術が与

えてくれる慰め」である。第二のものは、ファルターのような、どちらかといえば平凡で、卑 俗なところさえある人物が、「どんな占い師も、どんな魔法使いも到達したことのないものを ほんとうに決定的に学んだのだ」と思い切って信じてみることである。

魔法使いや占い師ばかりでなく、「幽霊の乳白色の姿形」を取らせ、「莫迦げた物理的方法」

によって立ち現わさせることにより、「いまもって未確認の力」を捏造する心霊術師に言及し ていることからも察せられるとおり、語り手もまた、信じこみやすい凡人たちが求めているの と同じものを必要としている。だが、彼にとっての安息あるいは救済は、死者の霊を呼び出し たり、異界と交信したりするための秘鑰がきっとあるはずだという安直な期待や、それに付け こんだ詐欺まがいの手口によってはけっして叶えられることがないのだ。

「最果ての土地」よりも十年あまりのち、ナボコフが英語で書いた短篇小説「ヴェイン姉妹」

(1951年執筆、1959年発表)23)のなかで示されている蘊蓄──詩人・批評家、心霊現 象研究協会の創設者、フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイアーズ(主著『人格と肉体 の死後におけるその存続』

[1903年])、社会改革家であり、『異界の境界を踏む跫音』(1

860年)という著作のあるロバート・デイル・オウエン、いわゆるダーウィン主義の提唱者 として知られる博物学者・生物学者でありながら、心霊現象研究にものめりこんだアルフレッ ド・ラッセル・ウォレスなどのことが触れられる──からも如実に見て取れるように、十九世 紀以降、大西洋の両岸に広がり定着した心霊主義の伝統は、ナボコフのいくつかの作品に影を

(10)

投げかけている。

「最果ての土地」の語り手であるシネウーソフと作者ナボコフが、現世と来世、生者と死者 のかかわりにかんして、同じ立場で答えを探究しようとしているとまでは断定できない。ただ、

人間の肉体の死が作品の終わりと同じような形式的、便宜的なものにすぎず、その境域を越え た、なにか霊的なもの──魂、人格、意識、記憶などというように、種々の呼びかたができる ことだろう──の持続があり得るのではないかという漠然とした思いが、その確証を得たいと いう切望とともに、ナボコフによって創造された作中人物の幾人かによって共有されているこ とはたしかであろう。

来世あるいは彼岸と生者の世界を媒介するものとして亡霊が話題となることも、多くの作品 に見られることである。この点に着目する論者のなかには、ウィリアム・ウディン・ロウのよ うに、ナボコフの作品に共通するパターンとして、ある人物が死後に霊的な存在となって偏在 し、多くの場合、その近親者の運命に影響をおよぼし続けていると論じる者もいる。しかしな がら、作者が暗々裡に前提としているのは、亡霊の実在が、根本的に実証不可能、決定不可能 であることは避けられないとする主張なのである。

「最果ての土地」の語り手は、「死んでから一度もきみは私の夢に登場することがなかった」

と恨み言をいう(Nabokov 2002: 502)。それと同様の失望は他の作品にも例を見いだすことがで きよう。ナボコフの長篇小説第五作『偉業』(ロシア語版1932年、英語版1971年)24) の 主人公マルチーン・エーデルヴァイスは、父の亡霊が部屋の隅で音を立てることを期待してい た幼年時代のことを思い起こしながら、「もし亡霊が存在するとすれば、それは、霊魂が死後 も動きまわることができる、、、

という証明になるから、まことに結構なことだ」(Nabokov 1991(2):

92)という思いをいだく。だが、じっさいに亡霊と接触する機会はついに訪れない。このよう

な抑止や抑制25)が例証しているように、作中人物たちの立場はさておき、作者自身は、心霊現 象を含む超自然的なもの全般にたいし一貫して懐疑的ないしは不可知論的な姿勢を保持してい たと考えるべきだろう。

3. 逆説と韜晦

「最果ての土地」にかぎらず、ナボコフの諸作品にあっては、超自然的なものが安易に容認 されることはない。そのために傾けられる直向きな熱情は、痛烈な諷刺のまととされることさ えある。作者自身の受けとめかたにも両面価値的なところがあった可能性が、このようにして 徴候的に露呈しているということかもしれない。「最果ての土地」の場合も、語り手が「第二 の慰め」(Nabokov 2002: 511)を求めたファルターが、イタリア人医師になにを話したのかと いう率直きわまる問いかけ(Nabokov 2002: 513)を皮切りとして、語り手になにを尋ねられる

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ようと、まともに答えを返さないのは予測し得ることである。

語り手であるシネウーソフ以外にも好奇心に駆られてファルターのもとに押しかける「物好 き」はおおぜいいた。しかし、その人びとが得られるものといえばただ、「リズムと棘」こそ ソクラテス的対話を髣髴させるものの、人間の思考習慣の揚げ足を取るだけでなにも生み出さ ない、紆余曲折に満ちた長広舌だけであった。そのような印象は、結局のところ、延々と繰り 広げられた対話の果てに、語り手が感じたこととさして変わりがない。「神は存在するのか」

という質問(Nabokov 2002: 517)に続いて、「来世があると期待してよいか」(Nabokov 2002:

518)、「墓の彼方にはひとの同一性のほんの僅かな兆しでもあるのか、それともそのすべては

理想的な闇のなかで終わるのか」(Nabokov 2002: 518-19)という肝腎な質問もはぐらかされ、

翻弄されたあげく、語り手は、「究極的な真理についての超人的な知識と、なにも知らないあ りふれた詭弁家の如才なさがあなたのなかで結びついているのはどうしてなのか」、「笑止千 万な屁理屈」は「巧妙きわまる嘲り」にすぎないのではないかとファルターに問うのだった

(Nabokov 2002: 521)。

ファルターにいわせれば、それこそが自分にとって唯一の「防禦」なのだということになる。

語り手がもち出した「闇」という比喩に託けてファルターは、「年中無休の光」と「黒い空虚」

というふたつの観念は、「形而上学的な色彩の差異」にもかかわらず、ほんとうは互いによく 似ているといい、両者が競馬場のコースで競り合っている馬であるかのようにイメージを発展 させる。このような軽口や韜晦とともにファルターが駆使するものとは種々の逆説である。「ど んな人間も死ぬことになっている。あなたはひとりの人間だ。それゆえ、あなたは死ぬことに

、、、、、、、、、

なってはいない、、、、、、、

ということもあり得る。それはなぜか。なぜなら、特定されたひとりの人間(あ なたか私)は、まさにその理由によって、どんな人間、、、、、

でもあることをやめてしまうのだから。

それでも私もあなたも死ぬことにはなっているけれど、私が死ぬことになっているという意味 はあなたとは異なっている。」(Nabokov 2002: 518)

ファルターの言にも首肯できるところはあるというべきだろう。かりにひとが死すべき定めに あるとしても、その定めは万人共通のものというわけではない。それぞれのひとに個々の死があ るというだけのことなのだ。その点が語り手にじゅうぶん理解されないのは、皮肉なことに彼が、

死にたいする自分自身の思いにとらわれすぎているからにほかなるまい。死をまえにするときに、

語り手が自負している想像力はほとんど無力化しているといってもよいくらいだ。ファルターが 指摘しているとおり、語り手は、「自分の墓石のイメージ」26)(Nabokov 2002: 520)以上のもの として死を思い描くことができない。それに答えて語り手もまた、「自分の未来におけるおける 無意識状態」という考えに覚える恐怖に匹敵するものといえば、「自分の肉体が腐敗してゆくさ ま」を心のなかで予見することによって惹き起こされる嫌悪感だけだと認めている。

(12)

自分が死んでも世界はこのまま平穏無事に存続してゆくだろうという感覚は、自分の命にか かわる苦悶に引きくらべてみれば──さらに、生そのものが臨終の苦悶にほかならないという 意味で、自分の生に引きくらべてみれば──世界は「瑣末事と幻影」にすぎないという感覚に 置き換えられる。簡単にいってしまうならば、語り手が求めている救済とは徹底して自己中心 的なものである。彼は「墓の向こうの消滅などはない」とたしかめたいだけなのだ。

「生、祖国、四月、春の物音や愛しい声」(Nabokov 2002: 520-21)などは混乱した序文にす ぎず、本文はもっとあとのほうにあるのではないか──「もしそんなふうに感じられるならば

……生きてゆくことは、生きてゆくことは可能なのではないか」と語り手はファルターに問い かける(Nabokov 2002: 521)。この言葉はまるで、アントーン・チェーホフの戯曲『三人姉妹』

(1900年執筆、1901年初演)第四幕幕切れのオーリガの有名な科白(“Будем жить!”)

をパロディ化し、その根幹にある主体的な決意を奪い去ったもののようにも響く。

ファルターが到達した「究極的な真理」についてはむろんのこと、はたして真理を──ある いは「事物の本質」(Nabokov 2002: 513)を、「絶対的な叡智」」(Nabokov 2002: 516)を──

知ることなどできるのか、どうすればそれが真理だとたしかめられるのかという問いかけにも 納得できる答えを得ることができず、肯定か否定のどちらかで答え得る質問──「神は存在す るのか」、「来世があると期待してよいか」──も見当はずれなものとして退けられて、語り 手は打つ手をなくす。本来、確固たる根拠をもつはずのない来世への期待を、自己の省察では なく、他者による裏づけでささえようとした語り手のもくろみは、このようにして破綻を迎え るのである。

別れぎわにファルターは、自分が発したでたらめな戯言のうちにうっかり本音が洩れ、ほん の二語か三語のみとはいえ、そのうちに「絶対的な洞察の縁」27)が一瞬閃いたことがあったの だと打ち明ける(Nabokov 2002: 522)。しかし、失意と幻滅に打ち拉がれた語り手はその言葉 にあまり注意を払わず、それもまた、たんなる冷笑のようなものだったのではないかと怪しむ だけだった。あとになってファルターは語り手に手紙を送る。その手紙は、「最果ての土地」

の本文にあたる亡き妻への手紙が書かれる前日に届いた。そこには、自分は火曜日に死ぬだろ うと明快な筆蹟で書かれていた。そう述べたあとでファルターは、別離にあたって語り手にあ えて伝えようと決心したことがあると記していたが、それに続く二行は、「念には念を入れ」、

「皮肉っぽく」抹消されていたのだった。

そのこともまた、語り手にとっては、ファルターの悪意の現われのように思われたのかもし れないが、読者にとってはそれですむ問題ではない。手紙の後半部分を塗り潰すことによって、

ファルターは、自分が思わず洩らしてしまったことを再度取り消そうとしているのではなかろ うか。すべてが冗談であったかのように装い、なにが冗談ではなかったかを不明確にしようと

(13)

しているのではなかろうか。そこで読者は、ファルターが洩らした本音とはなにをさしている のかと訝しみつつ、もう一度それまでの本文を振り返ってみなければならなくなることだろう。

解釈次第では、人間の肉体の死後における同一性の存続という語り手の最大の関心事にとっ てはきわめて都合のよい証左となり得るものは、たしかにファルターの発言のうちに含まれて いたと考えることもできる。「小真理」と「大文字の真理」の差異を論じながら、ファルター は、ひとが信じることのできるものの例として「野花の詩情や貨幣の力」(Nabokov 2002: 515)

を挙げていた。それは、語り手が依頼された叙事詩『最果ての土地』の挿絵の報酬の額を聞い て、病床にあった妻が、(もう話ができなくなっていたので)石版に色チョークで書き記した

「人生でいちばん好きなもの」(Nabokov 2002: 510)、「詩、野花、外国の貨幣」というリス トと明らかに関連している28)

さらにファルターは、「世界にかんするあるきわめて単純なことがら」(Nabokov 2002: 516)

を知ってしまった自分は、いま意志力によってみずからを「生態動物園」29)に閉じこめるべく 訓練しているところだと告げる。貴重な宝を手に入れる鍵を有しながら、それを利用しないた めなのだ。そのようなみずからの立場をさして、彼は、「外国の貨幣で巨万の富を受け取りな がら地下室で暮らし続けている乞食、へぼ詩人」のようなものだとも述べている(「外国の貨 幣で」、「へぼ詩人」という語句は英語版で付け加えられた)。このような細部の照応はなに を意味しているものなのか。ファルターが、死者と生者のあいだを媒介する役割を果たしてい るということなのだろうか。

死者がなんらかのメッセージを生者のがわに送ってくることを期待していながら、じっさい にそれが送られたり、少なくともヒントとなり得るものが与えられたりしても、作中人物がそ のことに気づかないというアイロニカルな状況は、ナボコフの他の作品においても繰り返され るものである。「ヴェイン姉妹」の場合には、語り手=主人公は、自分自身が記した文章(作 品の最終パラグラフにあたる)が折句(アクロスティック)を含んでいること30)、各単語の頭 文字を拾い読みすることでかたちづくられる新たな文によって、亡くなったふたりの女性、シ ンシアとシビルによる「物語にたいする謎めいた参与」(Nabokov 2002: 665)が密かに確言さ れていることを知らないまま終わっている。

「最果ての土地」の場合には、死者がいまなお生者の世界とかかわりをもっていることの証 しとなるメッセージ以上のものを認めることもできそうだ。語り手の「ペンション」を訪問し たさい、亡妻の写真をたまたま眼にしたファルターは、「そのひとはどこに隠れているのか」

と尋ねる。付き添いのL氏が諭す。彼女がすでに亡くなっていることはまえもって教えてあっ たらしい。そのことにかぎらず人事全般に無関心になっていたファルターは、とくに感情をこ めることもなく、「御国が彼女のものであることを」と語り手に呼びかけるのだった(Nabokov

(14)

2002: 512)。

むろん一見したところ、それは死者の冥福を祈るおざなりな決まり文句にすぎない。ファル ター自身も、その点を強調しておいたほうがよいと思ったのだろう。すぐに付け加えて、「世 間ではそういうことになっているのだろう」と嘯いている。とはいえ、死後における安息を願 う定型句を口にすること自体、ファルターが注意深く言質を取られまいとしている彼岸の実在 性を結果的に肯定することにつながらざるを得ない点は銘記に価しよう。しかも、遂行的矛楯 に陥っているかのようなその言葉は、じっさいには真実にかぎりなく接近したものなのかもし れないのだ。つまり、たんなる社交辞令は、見かけほどには軽くなかったことになってくるわ けである。

そのことを思うならば、ファルターの最後の手紙にたいする返事として、語り手が、「興味 深い死後の印象と快適な永遠を祈る」(Nabokov 2002: 522)と書き送ることは、二重の意味で 皮肉だといえる。語り手はそれをファルターにたいする仕返しとして、機智に富んだ冗談とし て記したつもりなのだろうが、それ自体が、ファルターが儀礼的に口にした悔やみの言葉の変 形となっているし、冗談の種とされたもの(「興味深い死後の印象と快適な永遠」)が、本来、

語り手が真摯に希求していたものであったことも疑いないからだ。現世のうちに来世のしるし を読み取りたいという語り手の欲望の自己中心性が、目標を見失って屈折してゆくとき(ある いは循環に帰着してゆくとき31))、宿命的にこのような限界もしくは死角がつくり出されるこ とは明らかであろう。

中心的登場人物が他者との意思の疏通を切に必要としていながら、それを得られないという 状況は、異界の住人を対象とした場合(「ヴェイン姉妹」)や、異界への鍵を手に入れたと思 われる人物を対象とした場合(「最果ての土地」)にかぎらず、ナボコフの複数の作品のうち で生起しているといってよい。ただし、「ヴェイン姉妹」においても「最果ての土地」におい ても、語り手=主人公は、自分では五里霧中と思っているけれども、そこから脱却する手がか りがまったく与えられていないわけではない。その手がかりに気づいていないというだけのこ となのだ。このような設定自体が、なにかを連想させるとはいえないだろうか。敷衍していえ ば、エリック・ネイマンが──初期の短篇小説「お伽噺」(1926年)32) を例としつつ──

論じているように、作中人物のおかれた難局は、ナボコフの作品を読む読者の立場の祖型とな っていると見なすこともできるのだ33)

「ナボコフの『よい読者』は、ありとあらゆる種類の、見たところ偶然の、あるいは取るに 足りないテクストの細部によって示唆される隠された意味に注意を払わなければならない。」

その意味において、ナボコフの諸作品の作中人物たちは、読者の模範とはなり得ないというこ とになるだろう。むしろ彼らの失敗によって、逆に、あり得べき読みの様態の輪郭が照らし出

(15)

されるということではなかろうか。そのような仕組みを自意識的に技巧化することこそが、ナ ボコフ的なテクストの典型的なありかたなのである。

4. ふたつの物語とふたつのモティーフ

「お伽噺」の主人公エルヴィーンは、通りで見かけた好みの女性を思いのままにする力を与 えられる。ただし、その数は奇数ではなければならない。声をかけた娘を手に入れることがで きるかどうか、たしかめるための合図は、微笑や、群衆のなかから聞こえた話し声、突然現わ れた色鮮やかな事物、看板やネオン・サインの文字などといったもののうちに解読できること になっていた。この契約をエルヴィーンに申し出た謎めいた中年女性(モンド夫人)は、自分 は「悪魔」だと称するのだった(Nabokov 2002: 163)。これは、「最果ての土地」で、語り手 とファルターのあいだの対話が「悪魔的」なものだったと性格づけられていること(Nabokov

2002: 522)とあながち無関係なわけではあるまい。

「お伽噺」の場合には、物語の基調はあくまでも幻想的34)、非現実的である。とはいっても、

ほんものの悪魔が登場していることはさほど重要ではなく、読み解くべき課題として作中人物 に与えられるものの理不尽さこそ悪魔的というべきだと、但し書きを加えておいたほうが適切 であろうか。さらに類推を進めてみてもよい。不条理な謎を突きつけられて、想像力をはじめ とするあらゆる知的能力を駆使することを余儀なくされるという苦境は、一般的にいえば、テ クストをまえにした読者が常時経験しているものと考えることができる。ネイマンの指摘にし たがうならば、たとえば、「お伽噺」の主人公エルヴィーンのおかれた立場は、弄ぶことので きるものといえば「言葉(あるいは画像)とみずからの肉体」しかもたない官能文学の読者の それに相当することになる 35) 。言葉に淫することでひとがなにを得られるかははっきりしな い。しかし、なにかが得られることだけはたしかなのだ。

そのような読者像あるいは「よい読者」36)を形象化した像は、「ヴェイン姉妹」のなかにも 見いだすことができる。語り手は、シンシア・ヴェイン──良家出身の独身女性で、一時期、

語り手と親しい関係にあった──が、妹であるシビルの死後、「介在的霊気」(Nabokov 2002:

624)と呼ぶものを核とした、死後の霊魂と生者の運命のかかわりにかんする独自の理論を打ち

立て、心霊主義にのめりこみ、交霊会に付き合うよう盛んに誘うようになったことを煩わしく 思っていた。シンシアの探究姿勢はふだんの読書習慣にも現われていたが、その彼女をさして 語り手は、「いびつな、あるいは不法に結合された単語、地口、表語文字などなどのよりいっ そう倒錯的な愛好者」と軽侮をこめて呼んでいるのである(Nabokov 2002: 626)。

いうまでもなく、すべての読者、すべての読書行為が「倒錯的」である必要はない。なにか 真理のようなものに到達するために複雑な(秘教的な)解読作業が求められているということ

(16)

も前提としては疑わしい。テクストの深層の意味が重要であるにしても、それは、表層の意味 が精密に読み取られたあとではじめて視野にとらえられるものであるはずだ。また、ナボコフ のテクストがいかになみはずれた美学的徹底性を具備しているからといって、それを空前絶後 の存在としていたずらに特殊化し、神格化するにはおよばない。

だが、そうはいうものの、これまでに「最果ての土地」を中心として見てきたように、ナボ コフの諸作品にあっては、直線的、単線的な読みは、しばしば致命的な過誤を冒すことにつな がる。「最果ての土地」の語り手であるシネウーソフにしても、「ヴェイン姉妹」の匿名の語 り手にしても、自分の迂闊さに気づかず、自分がすでに貴重な情報を得ているのではないかと 思いいたることもない。ある意味で彼らは怠慢ですらある。彼らの読みが不調に終わるのは、

自分自身によって記述された言葉にたいしてすらさしたる注意を向けず、個別の細部の関連性 に気を配ることも、他者の言葉にあてはめるべき別様の解釈を試みることもしなかったためな のだ。一般論として、じゅうぶんな読解というものがはたしてあり得るのかどうかは定かでな い。規範的もしくは模範的な読みの様態とはいかなるものなのかもたやすく導き出されるよう には思えない。それでも、少なくとも読者が作中人物の失敗を乗り越えなければならないとい う要請が伏在していることだけは否定しがたいのではないだろうか。

断わるまでもないことだが、作中人物たちによる読みの失敗あるいは破綻とは、あくまでも 寓喩の域にとどまる出来事にすぎない。それによって、読者もまた、じゅうぶんな読解(ある いはその理念)への接近を図ろうとしないかぎり、作中人物たちと同様の挫折を避けることは できないだろうという教訓が示唆されているのだといってもよい。極端に走るとき、そうした 教訓が強迫観念的に読者の意識なり心理なりを支配しつくし、過剰な読み(過剰解釈)を生み 出すという対極的な帰結もあり得ないわけではなかろう。それはともあれ、通常の場合でも読 者の読みには、作中人物たちの関心の範囲では網羅されない広がりが当然のごとくに付随する

37)。いいかたを換えるならば、作中人物たちにとっての謎以外の謎、割り切れない余剰がなお も読者に与えられた課題として残っているのだ。

一例を挙げよう。「最果ての土地」をロシア語から英語に訳すにあたってナボコフは、当初、

具体的な地名でさし示されていなかった南方の土地を「リヴィエラ」と特定した。同様に、ロ シア語原文では名前のなかった登場人物に「L氏」、「エレオノーラ」、「ボノミーニ博士」

という名前も与えた38)。これらの人名はなにに由来しているのだろうか。材源として有力な候 補をひとつ名ざすなら、女性の名前そのものを表題としている、エドガー・アラン・ポウの短 篇小説「エレオノーラ」(1841年)39)であろう。妻ヴァージニアにたいするポウの罪責の 念──ポウ本人を思わせる語り手は愛する従妹エレオノーラの死後に他の女性と出会い、エレ オノーラのことを忘れようとする──が根柢にあると思われるこの作品が、「最果ての土地」

(17)

とどうかかわっているのか考察してみることもそれなりに有益かと思われる。

愛する女性の早世という主題がもともとポウとの関連性を有するものとして意識されていた のかどうかは断定しがたい点である。しかし、ポウが生前に完成させた最後の詩「アナベル・

リー」(1849年)40) への言及をはじめとするかずかずの引喩を主要な構成要素の一環とし ている『ロリータ』を中間点として、「最果ての土地」のロシア語版と英語版のあいだでかす かな傾斜が生じたのだと推測することもできるのではないか。そうだとすれば、ふたつの版を 隔てる三十数年の年月のあいだに、語り手であるシネウーソフが夢想する「ウルティマ・トゥ ーレ」41)は、 「アナベル・リー」のなかで歌われている「海辺の王国」と『青白い炎』(19 62年)42) のゼンブラのほうへ接近したのだとする見かたもなりたつことだろう。

副次的登場人物の名前を選ぶにあたり、ナボコフがポウとの関連性を強調しようという意図 をいだいていたのだと仮定するならば、「L氏」とよく似た「L──l 氏」が登場する短篇小 説「ヴァルデマール氏の病状の真相」43)(1845年)も無視することはできない。「最果て の土地」では、ボノミーニ博士がファルターの診察にあたって用いた手立てであったと憶測さ れる催眠術は、ポウの作品では臨終の床にある病人にかけられ、息絶えながらもなお生者と同 様の反応を示し続けるという異常事態を出来させるのである44)。肉体の死後における意識の存 続をきわめて即物的に、かつグロテスクに描出している点も興味深いとはいえ、そのほかにも この作品と「最果ての土地」のあいだにはいくつかの類似が認められる。

ファルターが「宇宙の謎」あるいは「究極的な真理」を発見したとされる夜、ホテルの宿泊 客たちを脅かした「ファルターの部屋から破裂した歓声」(Nabokov 2002: 506)は、「ヴァル デマール氏の病状の真相」の結末に近いところで語られる「病人の唇からではなく舌から確然 と破裂した、、、、

……叫び」(Poe 2006: 79)を異なる文脈に移し替えたもののようである45)。七箇月 のあいだ死を引き延ばされたのち、催眠術を解かれたヴァルデマール氏の肉体は、たちまちの うちに「縮み──崩れおち」、腐り果ててしまう。それほどまでに極端ではないものの、叫び を発したあとのファルターの外見にも「奇妙な、ぞっとするような変化」(Nabokov 2002: 507)

が現われ、「まるで彼の骨格が取り去られてしまった」かのように見えたと伝えられている46)

「ボノミーニ博士」という人名については、おそらくは “buon uomo”(善人)というイタリ ア語からきているという以外、有力な典拠をさぐりあてることができないため47)、「最果ての 土地」の英語版で書き加えられた作中人物たちの名前をすべてポウと関係した引喩として解決 することはできそうにない。しかしながら、ポウのいくつかの作品と照らし合わせてみるきっ かけが得られたことで、われわれがすでに見てきたような、ふたつの物語──「きみ」にかん する物語とファルターにかんする物語──の組み合わせによって構成された「最果ての土地」

は、同時に、ポウの作品群におけるふたつのモティーフの系列を換骨奪胎して結合させたテク

(18)

ストでもあると読み解く可能性が生じてくるものと思われるのだ。

ポウの個人的経験を詩的に昇華したとも解釈し得る、ロマンティックな愛と哀悼の言説は、

ナボコフの場合には、現実にたいする想像力の優位性の追求という強力な磁場によって支配さ れることになる。ポウが畏怖と魅惑を同時に感じ取っていたであろう、超自然的な現象と、科 学(あるいは疑似‐科学)と、(死や霊魂の不滅のような)形而上学的論題という三者の不釣 り合いで、時として危険きわまりない掛かり合い48)は、ナボコフの場合には、徹底して批判的、

冷笑的、諷刺的に取りあつかわれる。それと同じ脈絡において、安易に他人を説明を求める者、

啓示であろうが「事物の本質」の発見であろうが、自己の想像力以外のものに救済を求めよう とする者もまた、手ひどいあつかいを受けなければならない。そのために、ファルターとの対 面を仲介したL氏があとで謝礼を要求するという頓降法的な余談めいた挿話(Nabokov 2002:

522)が必要となるわけである。

ポウと比較してみることのできる49)ふたつの物語がそうであるように、それらから抽出され るモティーフもまた、ナボコフのテクストのうえでは一体となる。両者の結合のさきにあるも のとはなにか。「最果ての土地」の語り手シネウーソフにたいしてファルターは、「相対的な 現実」(Nabokov 2002: 514-15)にとらわれているかぎり、真理に到達することはできないと警 告を発していた。その言葉を、シネウーソフはみずからの蹉跌に適合し得るものとしては受け とめなかったように見える。ともあれ、みずからを語り手としたテクストのうちに、個々の主 体による想像力の行使以外に真理へといたる途はないというメッセージがこめられているにも かかわらず、当のシネウーソフが自負していた想像力をじゅうぶん活用できなかったことはた しかだ。あるいは、その自負こそが思い違いであったというべきだろうか。彼がついに明察を 得ることのできなかった「真の現実」は、こうして作中人物の手を離れて、読者に課題として 託されることになるのである。

1) Vladimir Nabokov, “Ultima Thule.” 本論文中における議論は、下記の版に依拠している(引用箇所は括弧内 のページ番号によって示すこととする)。Vladimir Nabokov, The Stories of Vladimir Nabokov (1995; New York:

Vintage International, 2002), pp. 500-22. ロシア語原文については、電子テクスト(http://lib.ru/NABOKOW/

に収録されているもの)を参照した。この作品は、便宜的に短篇小説としてあつかわれることがふつうであ るが、マクシム・D・シュレイアーのように短篇小説の範疇から除外する論者も存在する。Cf. Shrayer 1999:

7.

2) DVD版(The Complete New Yorker: Eighty Years of the Nation’s Greatest Magazine [New York:Random House, 2005])で読むことができる。

3) Vladimir Nabokov, A Russian Beauty and Other Stories (1973; Harmondsworth, Middlesex, England: Penguin Books, 1975).

4) Vladimir Nabokov, “Solus Rex” in Nabokov 2002: 523-45. チェス・プロブレムで、黒の持ち駒がキングのみで

(19)

あるような局面を指すこの語句は、後年、『ベンド・シニスター』(1947年。Vladimir Nabokov, Bend Sinister [1947; New York: Vintage International], 1990)の執筆中、仮題に擬されたこともある。Cf. Karlinsky 2004: 194.

5) 当然、シネウーソフにとってはその叙事詩の内容は正確に把握し得るものではなかったが、北方の島にある 王国──その国は「なんらかの種類の政治的陰謀、暗殺、暴動」に苛まれている──が舞台となり、その国 の王が主人公であることは飲みこめた。

6) Vladimir Nabokov, “The Return of Chorb” in Nabokov 2002: 147-54. 最初ロシア語で執筆され、『ルーリ(舵)』

紙(ベルリーンで発行されていた亡命ロシア人向けの新聞)1925年十一月十二日付と十一月十三日付に 分載されたのち、ナボコフの最初の作品集『チョールブの帰還』(1929年。ВозвращениеЧорба)に 収録された。この作品はグレープ・ストルーヴェ(1898年生、1985年歿)によって英訳され、『デ ィス・クォーター』誌第四巻第四号(1932年六月)に掲載された。この翻訳は、ロシア語作品をまとめ て英語圏の読者に提供しようとしていた晩年のナボコフの意に染まず、改めて彼と息子ドミートリイの共同 作業によって訳しなおされ、短篇小説集『ある日没の細部とその他の短篇小説』(1976年。Vladimir Nabokov, Details of a Sunsetand Other Stories [New York, Toronto: McGraw-Hill Co, 1976])に収録された。

7) Vladimir Nabokov, Transparent Things (1972; New York: Vintage International, 1989).

8) 妻が亡くならないまでも、ナボコフの各作品で描かれた夫婦の生活は、しばしば不幸な結末で締め括られる ことがある。Cf. Boyd 1990: 284.

9) Vladimir Nabokov, The Gift (1963; New York: Vintage International, 1991).

10) その「最終章」の梗概にあっては、ジーナは「莫迦げた事故」によって急死する。Boyd 1990: 516-17. この

ような顚末が想像されるのは、ナボコフ自身が一時期(1937年の数箇月のあいだ)イリーナ・グアダニ ーニなる女性と不倫関係にあったため、それが原因で妻を失うのではないかという恐れに苛まれていたこと に由来しているとブライアン・ボイドは指摘している。

11) 作者の死後に息子ドミートリイ・ナボコフによる英訳が出版された(Vladimir Nabokov, The Enchanter [1986;

New York: Vintage International, 1991])。ロシア語版は1991年まで出版されなかった。この作品を、後 年の長篇小説『ロリータ』(1955年、1958年。Vladimir Nabokov, Lolita [1955,1958; New York: Vintage International, 1989])の原型となるものととらえる見かたもじゅうぶん可能であろう。

12) ロシア語原文では「朝食を取った」(завтракали)であるが、英語版では「昼食を取っていた」(were lunching)

に変えられている。

13) ロシア語原文では “призрачно ваш”。

14) 英語版では「理由」という語は、完全に同じふたつの文によって繰り返されている。「私がいまきみに語り かけるのはつぎのような理由による。私がいまきみに語りかけるのはつぎのような理由による。」

15) その稀薄さは、ナボコフの最晩年の長篇小説『道化師たちをごらん!』(1974年。Vladimir Nabokov, Look

at the Harlequins! [1974; New York: Vintage International, 1990]))における「きみ」(語り手=主人公であ るヴァジーム・ヴァジーモヴィチの四番めの妻になるものと思われる女性)にくらべてみても甚だしいとい わなければならない。

16) 語り手は、「きみ」が覚えているはずのない出来事にも言及している。「きみは覚えているだろうか、きみ の死の直後、私がサナトリウムから急いで飛び出したことを……。」(Nabokov 2002: 501) それにたいし、

「きみ」がおそらく覚えているはずのもののひとつとしては、もちろん、シネウーソフが挿絵を依頼された 叙事詩『最果ての土地』も含まれる。それが「孤独の王」というべつの物語の出発点あるいは素材となって いることはすでに述べた。

17) ドイツ語では「蝶」を意味している。

18) ロシア語原文では“квак”。英語版では “kvak”。「きみ」が “quack” という英語の単語を口にするさいのロ シア語風の発音を再現した表記となっている。

19) ファルターの父親はサンクト・ペテルブルグのレストランの料理長であった。若いころには飲んだくれの父 親の面倒を見ることで苦労したファルターは、しだいに商売で成功するようになり、「さほど収益のよくな いホテル」(Nabokov 2002: 504)はともかく、ワイン会社の株式で大儲けしていた。

20) ロシア語原文では「前年の秋」(прошлой осенью)。

21) たとえば、「遠い、魅力のない国」から届いたもう長いこと会っていない異父姉の死の報せ(Nabokov 2002:

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